映画的・絵画的・音楽的

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自由が丘で

2014年12月23日 | 洋画(14年)
 『自由が丘で』をシネマート新宿で見てきました。

 本作(注1)は、韓国映画に加瀬亮が出演するというので、久しぶりの韓流ながら、映画館に行ってきました。

 本作は、主役のモリ加瀬亮)が、以前語学学校の講師として働いていたソウルに再び行って、別れたものの思い切れない恋人・クォンソ・ヨンファ)に会おうとする至極単純な物語です。
 加えて、映画の中でモリは、様々の韓国人と英語でコミュニケーションをとりますが、複雑な内容の会話は行いません。
 ですから、一見すると、全体としてすごくわかりやすい平凡な映画のような印象を受けます。

 しかしながら、
イ)元々は簡明なストーリー展開のものを、監督が編集作業でシーンの入れ替えを複雑に行っているために、見ている最中も、見終わってからも、この作品は一体何なのだろうかといろいろ考えさせられます。

 例えば、モリが宿泊しているゲストハウス「ヒュアン」の隣の部屋に若い女が宿泊していますが、ある時彼女は、同じくそのゲストハウスに滞在しているサンウォンキム・ウィソン)とつまらないことで言い争った後、父親が現れて連れ出されてしまいます。
 その後に若い男がやってきて、中庭で以上の一部始終を見ていたモリに、「隣の部屋の女はどこへ行った」と尋ねるものですから、モリは「年配の男と出て行った」と答えると、その男は「さては、父親と帰ったな」と言います。さらに、モリが「彼女の後を追わないの?」と訊くと、その男は「変わった男だ」と捨て台詞を残して「ヒュアン」を立ち去ります。
 これはこれで一まとまりのエピソードとして観客の方は理解できますが、問題は、その後に、次のようなシーンが挿入されていることです。
 すなわち、モリが散歩をしにゲストハウスを出て、近くの小さな店の中を覗くと、なんとさっきの女がいるではありませんか。そして、その女は、モリのことを全く無視して、その店を出て立ち去ってしまうのです。
 モリは、その後姿を見守るだけですが、観客の方も狐につままれた感じになります。
 この女は、父親と一緒に荷物を持ってゲストハウスから立ち去ったのではないか、それも父親は彼女を若い男から引き離そうとしたのではないか、にもかかわらず、どうしてこんな近いところに何も持たずに一人でいるのか、更にはなぜモリに気づかないのか(注2)、などと様々な疑問が湧いてくるのです。
 ただ、このシーンが、彼女がゲストハウスから父親によって連れだされる前に置かれているのであれば、観客側の方にこうした疑問は湧かないことでしょう。ですが、順序をちょっと入れ替えてしまうだけで、同じシーンながらも、様々の疑問が持ちだされ、観客は途方に暮れることになります。
 勿論、このシーンは、そう言えばその前にあの店で見た女だなとモリが後から回想したものだ、とみなせば済むのかもしれません。
 でも、いわゆる回想シーン特有のトーンになっているわけでもなく、それまでのシーンに引き続いてこのシーンを見せられると、観客の方では、アレッという思いに囚われ、一体どういうことだろうか、ひょっとしたらこの女には日本人にはうかがい知れない謎が隠されているのではないのか、などといろいろ考え込まざるをえなくなります。

 こうした時間の順序の入れ替えについては、劇場用パンフレット掲載の「Introduction」には、「クォンが、順番がバラバラになったモリからの手紙(注3)を読み進めると同時に、物語が紡がれていく。いったりきたりするモリの心を写すプリズムのように、時間も少しずつ乱反射していく」と述べられています(注4)。

 実際にも、本作のアチコチに、クァンがモリの手紙を読んでいる短いシーンがいくつも嵌めこまれています。
 そして、それに対応するように、シーンの順序の入れ替えが色々なされます。

 一番顕著なものはラストシーンを巡るものでしょう。もとの順当な流れに沿うものであれば、何事もないごく単純なお話ということになります。ですが、本作のように、同じシーンながらもその順番を入れ替えることによって、かなり複雑なストーリーであるかのように変換してしまいます。
 ですが、ラストについて詳しく触れれば酷いネタバレになってしまいますので、後は見てのお楽しみといたしましょう。

ロ)次に、本作が面白いなと思ったのは、モリが韓国人たち(注5)と英語でコミュニケーションをとる点であり、それも、劇場用パンフレット掲載の「Introduction」にも「韓国語でも日本語でもない、英語でのぎこちない(登場人物と)モリとの掛け合いや、何気ない、ささやかな会話と仕草」とあるような雰囲気なのです。



 例えば、モリは、近くにある「自由が丘」という名のカフェによく行き、ついにはそこの女主人・ヨンソンムン・ソリ)と懇ろな関係に至るのですが、レストランで食事をしている最中にヨンソンが、モリの読んでいる本(吉田健一著『時間』)に目をつけて、英語で「どんな本なの?」と尋ねるので、モリが「時間に実体はない」などと本の内容を説明し出すと、ヨンソンは「今度ゆっくり教えて」と言うので話が途切れてしまいます(注6)。



 また、ゲストハウス「ヒュアン」の女主人(ユン・ヨジュン)は、モリにスイカを出しながら、「どんなときにしあわせ?」と尋ね、モリは「花を眺めている時。木も好きです」と答えます(注7)。

 どうも印象としては、モリは様々の韓国人とコミュニケーションを図っているものの、表面的なところに留まっているように見えます。
 それで、中に一歩踏み込もうとすると、表現が意図に反して厳しいものとなってしまい(あるいはそのように受け取られてしまい)、相手との対立が生じてしまう感じがします(注8)。

 こうした日本人モリと韓国人との関係から、あるいは現在の冷えきった日韓関係についてまでも議論できるのかもしれませんが、これまでどおりここではそうした政治的な方面は差し控えることといたしましょう(注9)。

ハ)本作では「夢」が上手く絡まってきます。
 カフェ「自由が丘」の女主人・ヨンソンの飼い犬がいなくなっていたところ、その犬をモリが路地で見つけたことによって、モリとヨンソンは親しくなります。
 その犬の名はクミというのですが、韓国語では「夢」を意味するようです(注10)。

 また、以前クォンと行ったことのある小川の縁で「モリ………、モリ………」と言う彼女の声を聞く、といった夢を見て、モリは、「奇妙な夢だった」と呟きます。

 さらには、モリはラストの方ですごい夢を見るのですが、果たしてそれが本当に夢なのかどうか、見る人によって解釈は分かれることでしょう。

ニ)上映時間が67分という短さも本作の特色といえるでしょう。
 このところ、『0.5ミリ』(196分)や『インターステラー』(169分)、『6才のボクが、大人になるまで。』(165分)といった長尺のものを見続けてきた者からすると(『フューリー』も135分)、一方で、酷くあっけなさを感じてしまいますが、他方で、大作ばかりが映画ではなく、むしろこういった掌篇も味わい深く好ましいなと思えてきます。

ホ)主演の加瀬亮(注11)は、これまでも『永遠の僕たち』など海外の作品にも出演してきましたが、今回もモリという役柄を自分のものとして実に巧みに演じています。
 なお、韓国映画には、以前、『悲夢』に出演したオダギリジョーを見たことがあります。ただ、彼は日本語を使っていました。今回加瀬亮は英語ですが、日韓の映画交流はなお一層必要とはいえ、言葉の壁が大きいのかもしれません。



(注1)本作の監督・監督はホン・サンス
 本作の邦題は、主人公のモリがよく行くカフェの名(カフェの前に置かれている看板に「JIYUUGAOKA 8丁目」とあります)にちなんだものですが、原題は「Hill of Freedom」。
 なお、この記事によれば、本作は、本年のナント三大陸映画祭でグランプリ(「金の気球賞」)を受賞(2011年に『サウダーヂ』がグランプリを受賞)。

(注2)実は、その女とサンウォンとが言い争っている時に、モリが現れて、サンウォンを彼女から引き離しているのです。このシーンからすれば、彼女はモリを見ているはずです。

(注3)映画の冒頭、クォンが、モリからの手紙を携えて階段を降りる途中、めまいに襲われてその手紙を下に落としてしまい、慌てて拾うものの順番がバラバラに(中の1枚は拾わずじまいに)なってしまいます。
 なお、クォンがモリの手紙を受け取るのは、以前2人が働いていた語学学校の受付。ただ、2人が働いていたのは2年前のこと。なぜ、丁度その時点にクォンが現れ、モリの手紙を受け取ることになるのかはよくわかりません(手紙の日付は1週間前になっているとのこと)。

(注4)同じ箇所には、引き続いて「時間の流れから、その断片を少し解放させることで、私たちは同じ時間を少し違ったものとして体験することができる。そこから今までとは違った見え方や行動が生まれる」とのホン・サンス監督の言葉が引用されています。

(注5)本作には、韓国人の妻がいて達者な韓国語を話す西洋人も登場しますが。

(注6)実は、これと同じような会話がカフェでも繰り返されます。

(注7)ゲストハウスの女主人は、また、「私は日本人が好き。礼儀正しくて、清潔だから」と言います。これに対し、モリが「低次元の韓国人は嫌いだけど(語学学校で働いていた時にモリは騒動を引き起こしたようです)、尊敬する女性(クォンのことでしょう)も韓国人。韓国人を一括りできない」と答えると、女主人は「正直な人ね」と言います。
 なお、モリは、様々な韓国人から「どうして韓国に?観光?仕事?」と尋ねられます。なんだか、日本人が、外国人に対して「日本についてどう思うか?」と尋ねるのと同じような印象を受けます。

(注8)モリとヨンソンとの関係はスムースながら、下記「注10」で触れるように、モリは相手の言ったちょっとしたことに腹を立てたり、また本文のイで取り上げたエピソードでは、若い女を追いかける男が、モリの言ったことに立腹したりします。
 あるいは、クォンと2年前に別れたのも、英語を通したコミュニケーションの行き違いによるものかもしれません(尤も、韓国人のサンフォンは、同じ韓国人の若い女と激しい口論をするのですが)。

(注9)例えば、『The New Yorker』に掲載されたこの記事において、「the subject that underlies the entire story, one that encompasses not just the love affair but history itself, is international relations」とか「Hong is also a political filmmaker in the most abstract but decisive sense」とされているのはかまわないとしても、「Japan annexed Korea in 1910 and, during the Second World War, conscripted hundreds of thousands of Koreans into forced labor and compelled tens of thousands of Korean women to serve as “comfort women,” sex slaves to the Japanese army.」と事々しく述べられているのを見ると、暗澹たる気持ちになってしまいます。

(注10)カフェ「自由が丘」で隣の席にいた男(イ・ミヌ)が、モリに「クミ」の意味を説明します。
 実はこの男はヨンソンの恋人で、話の中でモリが「無職だ」と答えると「働けよ」と言うものですから、モリは怒ってカフェを出ます。

(注11)最近では、『ペコロスの母に会いに行く』とか『はじまりのみち』で見ました。



★★★★☆☆




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