映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ノルウェイの森

2010年12月26日 | 邦画(10年)
 大昔のことでぼんやりとしか覚えてはおりませんが、やはり原作を読んだからということで、『ノルウェイの森』を見に日比谷のTOHOシネマズ スカラ座・みゆき座に行ってきました。

(1)この映画の感想を述べるに当たっては、どうしても著名な原作に引きずられて、原作と比べたりしながらアアダコウダということになりがちです。原作が発揮する強いオーラからしてマア仕方ないところ、でも、やはり映画は映画、原作は原作という原則に則って、できるだけ両者を分けて議論した方がいいのではと思っています(注)。

 という舌の根も乾かないうちで誠に恐縮ながら、様々な三角関係が描かれて複雑で長い原作を、この映画では随分刈り込んでかなりすっきりとさせ、主人公ワタナベ(松山ケンイチ)と直子(菊池凛子)との関係がうまく前面に描き出されているように思いました。
 主人公の大学の後輩・緑(水原希子)がその二人の関係に少々絡んでくる仕掛けになっていて、京都北部の療養所で直子と同室のレイコ(霧島れいか)の役割はかなり背景に退いてしまっています。
 こうした描き方は、監督側のそれなりの見識によるものであり、直ちには問題とすべきではないでしょう。特に、緑との関係はこれからのこととして、映画の中で軽いタッチで描かれるのは十分納得出来ます〔ただ、レイコに関しては、過去の出来事がすべてカットされてしまっているために、ラストの主人公とのラブシーンは唐突な感じを受けてしまいますが。とはいえ、一つの映画に何もかもというのは所詮無理な話ですから、これは仕方のないことでしょう〕。

 としても、そこまで踏み込むのであれば、映画は、何もわざわざ原作と同じ時代設定にする必要はなかったのではないかと思えてきます。
 登場人物たちの服装などは、すべて1967年当時のものでしょう。ただ特段そうせずとも、さらにまた当時の学生運動を画面で無理に描かずとも、この映画は十分に成立しているのではないでしょうか?
 逆に言えば、大学闘争など当時を髣髴とさせる材料がかなりきちんと盛り込まれてはいるものの、この映画を見る上でむしろ邪魔になるのではないか、とも思えてしまいました。むしろそんなものは取りはらって、主人公のワタナベと直子〔それに緑も〕との関係をじっくり描いた方が、観客は映画の中により入り込めるかもしれません。
 というのも、この物語を描くにあたって、どうしてそういった時代設定にしなければならないのか、が強い説得力を持って観客に迫ってこないように感じられるからです。
 この点は、周囲の物事に対し主人公が意識的に距離を取ろうとする姿勢から、特に大学闘争についてあのような描き方になったのだとも思えます。ただ、映画においては、第3者の客観的視点から、主人公と活動家たちとを同じフレームの中で捉えてしまうために、単なる風景にしか見えなくなってしまうのでしょう。
 と言っても、それらは単なる風俗であり、やはり映画にはそういった要素をちりばめることも必要でしょう。ただ、当時の大学闘争には、風俗を越えた何かがあったようにも思えるのです。まして、映画の主人公もイロイロな本を読んでいるのですから、身近で行われている全共闘活動についてマッタク何も喋らないというのは、トテモ理解出来ない感じがしてしまいます。

 また、会話も、原作からイロイロ持ってこなくともよかったのでは、とも思います。下記の渡まち子氏が言うように、「村上春樹の小説の、軽さと深みが絶妙にブレンドされたセリフは文字で読むからこそ素晴らしい」のであって、たとえば、主人公と緑の会話、「僕は時間のあり余っている人間だから」「そんなに余ってるの?」「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」は(角川文庫・上P.123)、実際に映画の中の会話にしてしまうと鳥肌が立ってしまいます。
 あるいは、こうした会話が成立するのは、舞台設定が1969年とされているからなのかもしれません。なにしろ、主人公のワタナベは、原作にあっては、現代の学生には余り想定できないような読書家なのです(フィツジラルドの『グレート・ギャツビィ』やトーマス・マンの『魔の山』からマルクスの『資本論』まで!)。そういう彼なら、当時、「孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ」などと喋ったとしても(角川文庫・上P.111)、そんなに違和感はなかったかもしれません。
 ですが、舞台設定を現代に置き換えるとしたら、そんな会話などとても聞いてはいられません。そして、この映画からは、上で述べたように、40年前というよりも今の雰囲気が強く漂ってくるのですから、なんだか場違いな感じを受けてしまうのです。

 イロイロ言いましたが、配役陣は頑張っていると思います。
 配役で注目されるのは、菊池凛子でしょう。彼女が出演した作品としては、『バベル』(2007年)とか『サイドウェイズ』を見ましたが、まだまだという感じが残っていたところ、この映画においては、主人公に深く愛されながらも病院に通ったり療養所に入ったりしてしまう精神的に甚だ不安定な女性(「統合失調症」でしょうか)の役を、見事に演じており、やや役が想定している年齢から離れているとはいえ、その美質がよく発揮されていると思います。



 主役の松山ケンイチについては、『ウルトラミラクルラブストーリー』や『カムイ外伝』と毛色の全く異なる作品を見てきましたが、今一彼が映画で引っ張りだこな理由が納得できないでいたところ、今回の映画を見ると、さすが当代有数の売れっ子俳優だなと納得がいきました。 
 本ばかり読む寡黙な人間でありながら、一方で自分が深く愛する直子に自殺され、他方で緑に愛されてしまうという非常に難しい役柄を、説得力ある演技でこなしています。



 ただ、緑に扮した水原希子は、下記の渡まち子氏も言うようにどうもいけません。米国人と韓国人のハーフで、アメリカ生まれ、モデルの経験はあるものの本作で映画デビューというのでは、期待する方が無理とはいえ、本来なら重要な役だけに、実力のある女優を起用すべきだったでしょう(とはいえ、この映画では、原作と異なって主人公と直子との関係にかなりウエイトを置いているので、若くて綺麗なだけが取り柄という女優でも構わなかったのかもしれませんが)。





(注)映画『ゲゲゲの女房』を巡っては、クマネズミとは違い、水木しげるの奥さんが書いた原作本の雰囲気などが違っているからダメという意見どころか、それに基づいて制作された連続テレビ小説から期待されるものと違っているからダメという意見まで登場しました!
 『ゲゲゲの女房』も今回の映画もソウですが、著名な原作(小説、漫画あるいはTVドラマなど)があると、それらに基づいて一定の期待(あるいは予想)をもって人々は映画館に足を運ぶのでしょう。その挙げ句、事前の期待とか予想と外れた内容を見せられると、その作品をこき下ろすことになるのでしょう。
 でも、映画には、そうした先入観をぶちこわす役割もあるのではないでしょうか?だって、原作から一定の感想が得られたのなら、それはそのままにしておけばいいのであって、どうして映画で同じものをもう一度味わう必要があるのでしょうか?
 なお、『ゲゲゲの女房』について、「朝になるたび、いきものがかりの歌が頭に浮かぶ病に犯されている」評論家・前田有一氏は、「NHKのドラマが無料で見られる事を考慮すると、同じ話をわざわざ1800円払ってみるだけの魅力が本映画にあるかというと微妙なところ」などとのトンデモ論評をしているところ、本作についても(下記(3)参照)、「よくこれほどに原作のムードに忠実に映像化したものだと驚かされる」などと、今度は原作に「忠実」という点を捉えて高く評価しています。ここまで姿勢が一貫していると、さすがと言わざるを得ませんが!


(2)この映画で強く印象に残るのは、直子が入っている療養所(阿美寮)の近くの草原の光景だと思います。
 原作においては、この阿美寮は京都の北部にあって、三条にある私鉄バスのターミナルからバスに乗って「だいたい1時間少しかかる」ところとされていますが(角川文庫・上P.188)、太宰治の『パンドラの匣』とは違い架空の療養所であり(注1)、原作で描かれている周囲の風景も作者が作り上げた架空のものでしょう(注2)。
 それを実写化するにはどこであってもかまわないとはいえ、この映画が選定した兵庫県神河町の砥峰高原は、まさにうってつけです(注3)。
 遠くには山が見えるものの、あたり一面草原が大きく広がっていて、その中を2人が歩いたり寝そべったりするシーンは、この映画のハイライトと言えるのではないでしょうか(なにより、下記の前田氏が、「映画史上もっとも美しいブロウジョブとして、人々は菊地凛子の名を記憶にとどめることになるだろう」と絶賛するシーンも描き出されているのですから!)。

 それに、草原の草木が風で大きく揺れるシーンにも素晴らしいものがあります。
 木々が風で大きく揺れる光景については、河瀬直美監督が以前から意識的に映画の中で描いていましたが(注4)、この映画においても、風はとても効果的に使われていると思います。
 ただ、この映画の風は、自然の風の持つ優しさが見られず、すごく威圧的な感じが付きまといます。
 あるところで、主演の松山ケンイチが述べていましたが、京都の山奥の高原で強い風に主人公と直子が煽られる場面では、上空にヘリコプターを飛ばして激しい風を巻き起こしたようです(注5)。そうなるとこの映像で見られる風は、何事かを監督が意図的に象徴させているといえるでしょう(例えば、主人公と直子の心的状況といった)。だとすると、そこには、観客が自由に様々に読み込める自然の風を映像化している河瀬監督との違いを見て取れるのではと思いました。



(注1)昨年の11月14日の記事に書きましたように、太宰治が小説で描いた「健康道場」には、「孔舎衙(くさか)健康道場」という実在するモデルがあります。

(注2)とはいっても、何もないはずがないとしてモデル探しが行われています。たとえば、このサイトでは、「鞍馬の先の大悲山にある『美山荘』」だとされていますし、別のサイトでは、もうひとつ「京都北山修道院村」が挙げられています。

(注3)ちょうど、この映画のロケ地(兵庫県神河町大河内高原〔砥峰高原・峰山高原〕)の写真と原作の文章とを比べて掲載しているサイトがありました(「「ノルウェーの森」ロケ地情報」)。

(注4)初期の『萌の朱雀』(1997年)や、『殯の森』(2007年)とか『七夜待』(2008年)などでも見られますが、クマネズミには、兄が神隠しにあう『沙羅双樹』(2003年)で描かれた木々の揺れが印象的です。

(注5)劇場用パンフレットに掲載されている撮影監督の李屏賓(マーク・リー・ピンビン)氏のインタビュー記事によれば、「撮影を行った場所は山の高い位置にあったので、風を吹かせるのが非常に困難だった」からヘリコプターを使ったとのこと。


(3)映画評論家の見解は分かれるようです。
 前田有一氏は、「原作と比較すれば当然いろいろ省略されているが、違和感はない。むしろ、よくこれほどに原作のムードに忠実に映像化したものだと驚かされる」し、菊池凛子も「透明感と陰の両方を併せ持つ直子というキャラクターを、完全にものにしている。主人公をどこか寄せ付けないようにも、かといって手を放したら消えて無くなりそうにも見える、一筋縄ではいかないヤンデレな魅力をものの見事に表現した」などとして75点をつけています。
 他方で、渡まち子氏は、「問題は、ルックスは可愛らしいがあまりに演技がヘタクソな、緑役の水原希子。そんな彼女に長ゼリフは酷というものだ」としながらも、「この映画の最大の個性は、ベトナム系フランス人で、映像美でならすトラン・アン・ユン監督がメガホンをとっているということ。個人的には、村上春樹の世界には、もっとドライな空気がふさわしいように思うのだが、それはさておき、トラン・アン・ユンらしいしっとりとした美しい映像は堪能させてもらった。撮影は名手リー・ピンピン。深い森を思わせる物語に、日本の四季の移ろいをとらえたビジュアルの美しさが加わり、繊細な余韻を残している」などとして50点を与えています。



★★★☆☆





象のロケット:ノルウェイの森

ロビン・フッド

2010年12月25日 | 洋画(10年)
 きっと痛快無比な映画に違いないという予感がして、『ロビン・フッド』を見に、TOHOシネマズ日劇に行ってきました。こうした冒険活劇を見るなら、大画面を備えた劇場に限ると思ったものですから。

(1)『ロビン・フッド』というからには、シャーウッドの森の奥に隠れ住んでいながらも、リトル・ジョンなどの仲間らとともに、悪行の限りを尽くす時の権力者を懲らしめるヒーローの物語であり、それをおなじみのラッセル・クロウが演じるものだとばかり思い込んでいました。
 ですが、実際には、この映画は、その前史というべきものなのです。
 すなわち、第3回目の十字軍遠征の帰途、ロビン・フッド(ラッセル・クロウ)が、瀕死のノッティンガム領主の息子の依頼で、その剣を届けに父親の元に出向いたところ、領主から息子の身代わりになるように求められます。どこと言って行く当てのない身、ロビンはすぐに了承しますが、妻(ケイト・ブランシェット)は、当然のことながら、とてもすぐには受け入れてくれません。
でも、ロビンの誠実さが通じたのか、次第に馬が合ってきます。そして、そうこうするうちに様々な出来事が起こり、ついには、ジョン王の下でフランス王の侵略を阻止してしまうという、とても考えられない活躍をしてしまうのです!
 そんなことなら、ジョン王の右腕となってさらなる飛躍がと思われたところ、マグナカルタへの署名をジョン王に強制したというトガで、逆にジョン王に追われる身となってしまうのです。
 そのため、シャーウッドの森に仲間たちと逃げ込んで、その後はよく知られた活躍をするという次第。

 いってみれば、映画『ゲゲゲの女房』が、これから水木しげるの漫画が大いに売れだす直前で、映画『ノーウェアボーイ』がジョン・レノンらがハンブルグ行きが決まったところでジ・エンドとなってしまうのに似ているかもしれません!
 とはいえ、これら2作では、主人公たちはこれ以降世の人に知ってもらうことになるのに対して『ロビン・フッド』は、これからは世の中から隠れることになるという点で、180度違っているとも言えるかもしれません。
 でも、世の人がロビン・フッドに喝采を浴びせかけるのは、これからの活躍によってなのですが!

 それでも、いくら領主が彼の父親を知っているからと言っても、石工の息子にすぎないロビン・フッドが、直ちに領主の息子の身代わりとなるなんて、それも貴族の集会での演説によって、皆の心を一つにまとめあげてしまうなんて、という気にもなります。ですが、ロビン・フッドにまつわる話は元々全て伝説なのでしょうから、どんなことが起きても不思議ではないのでしょう。すべては歴史ファンタジーであって、むしろ余り本当らしさを追求すべきではないのかもしれません。

 ノッティンガムの村の様子などは、『黒く濁る村』で描かれている村と比べたら、はるかにリアルな感じがします。きちんと農作業が映し出され、ジョン王の過酷な税金の取立てで、周格もままならない様子まで、見ている方はよく理解できます。
 ただ、ファンタジーとするならば、ここにやはり洞窟などの装置が何か必要なのではないでしょうか?とはいえ何もないわけではなく、ノッティンガムではありませんが、ロビン・フッドの生まれ故郷のバーンズデイル(ノッティンガムのすぐ南)には、石の塔があり、その礎石を動かすと、父親が刻んだ標語が現れるのです!

 主演のラッセル・クロウは、このところかなり肥満気味でしたが、『プロヴァンスの贈り物』や『ワールド・オブ・ライズ』はともかくも、『消されたヘッドライン』は地味な映画ながらもなかなかの出来栄えで、この映画もと期待したところ、弓を射る格好とか乗馬姿などなかなか精悍で見直しました。



 相手役のケイト・ブランシェットは、『アイム・ノット・ゼア』(ボブ・ディランに扮しました!)とか『ベンジャミン・バトン』以来ですが、男勝りの性格で、ついには鎧兜に身を包んでロビンのもとに馳せ参じる姿はこの女優ならではでしょう!



 歴史ファンタジーと豪華配役陣とのとりあわせですから、否が応でも楽しい映画にならざるを得ないところです。

(2)この映画については、2つの点に興味をひかれました。
イ)リチャード獅子心王は、お追従ばかり口にする部下を嫌って、兵隊の間に入り込んで、彼らの本心を聞き出そうとします。
 その誘いにうかうかと乗ってしまって本心をぶちまけてしまったロビン・フッドとその仲間は、獅子心王が城攻めをしている最中、首かせ。足かせのさらし刑に処せられてしまいます(幸い、獅子心王が戦死したどさくさにまぎれて、彼らは逃げ出してしまいますが)。
 このエピソードは、上司が部下の本心が知りたくて、どんな厳しい意見でもいいから言ってくれと部下に求めるものの、自分を批判する意見を求めているわけでは決してなく、やはり求めているのは支持してくれる部下にすぎない、という職場でよくある光景を髣髴とさせるものでした!

ロ)この映画のラストは、フランス王が兵隊を連れてイングランドに攻め込んでくるのを、ロビン・フッドなどが阻止する場面ですが、さながら第2次世界大戦の連合国軍によるノルマンジー上陸作戦の真逆を見るようでした!

 なにしろ、ドーバー海峡に面した切り立った崖下に向かってフランス軍は上陸してくるところ、驚いたことにあの「上陸用舟艇」が何艘も登場するのです。
 まさか鋼鉄製ではなく木製ですが、接岸すると船首のところが前に倒れて渡し板となり、そこを通って兵士は敵前上陸するようになっています。
 ただ、これをロンメル将軍が迎え撃つのかと思いきや、出迎えるのはフランス王側のスパイであるゴドフリーとその部下。上陸部隊がこれに合流してイングランド軍と激突することになります。

(3)渡まち子氏は、「伝説とフィクション、さらに重厚な史実を上手くブレンドさせた脚本は、娯楽性にあふれていて、手堅い出来栄えだ。何よりハリウッド大作ならではのスター共演で華やかさはバツグン。見る前は、手垢のついたヒーローものを何をいまさら…と思っていたが、見終われば、見事にスコット版ロビン・フッドを楽しめた」として65点をつけています。



★★★☆☆




象のロケット:ロビン・フッド

武士の家計簿

2010年12月24日 | 邦画(10年)
 『わたし出すわ』の森田芳光監督の作品であり、また原作本を出版直後に読んだことがあり、その内容はすっかり忘れてしまっているものの、やっぱり『武士の家計簿』は見なくてはと思い、渋谷シネパレスに行ってきました。

(1)この映画は、小説とか漫画に基づいて制作されているわけではなく、同タイトルの新潮新書(磯田道史著、2003年)を原作としている点がユニークと思われます。
 ただ、そのためもあってか、どうしても何かのドラマの背景説明といった感が拭えず、見終わると、本当にこれだけなのと考え込んでしまいます。
 なにしろ、加賀藩の御算用者8代目の猪山直之(堺雅人)を中心に、その父親・信之(中村雅俊)とその息子・成之の、どこまでも平穏無事な暮らしぶりを描いているにすぎないのですから。



 確かに、この映画で描き出される武士の日常生活の実際の有様には、これまでほとんど目を向けられませんでした。何となく、家の中は誰かがうまく差配していて、武士はそんなことに頓着せずに天下国家のことなどにかまけていたのでは、と思い込んでいました。
 ですから、こうした日常生活(弁当持参で城に出向き、太鼓の合図で一斉に仕事に取りかかったり止めたりするなど、現代のサラリーマンを髣髴とさせます)の細々したことには興味が惹かれます〔でも、休日はどうだったのでしょう(注1)。まさか週休2日制というわけではありますまい!〕。

 とはいえ、それはあくまでも背景にすぎないのではないのか、それを前提に何か大波乱が起きるのでは、と大方の映画ファンなら予想するのではないでしょうか。ですが、ラストに至っても、主人公の孫に相当する人物が海軍に入ったことをナレーションで紹介するだけなのです。
 確かに、百姓一揆に関連して、直之が、藩経理の不正を暴き出すエピソードが映画では描き出されています。そうした内部告発的行為に対して、保守派の圧力がかかり、直之は能登の閑職に飛ばされる寸前にまで立ち至ります。
 ですが、そこに行って辛酸を舐めることにはならずに、かえって出世してしまうのですから(この件がきっかけで、直之は、藩主の側近(「御次執筆役」)に取り立てらます)、ドラマ性が酷く乏しいのです〔なお、この事件は原作に記載されていないようです(注2)〕。
 たとえば、原作の新潮新書を見ますと、直之や成之は、幕末-維新のころ丁度江戸(東京)にいたのですから、そこに面白いエピソードを創り上げることも可能ではないでしょうか(特に、直之は、「藩主の側近中の側近」とのことですから〔P.160〕)?
 それに、直之の三男の兵助は日露戦争で戦死し、また成之の甥はシーメンス事件にかかわったとの廉で官界から追放されたりしていて、ここまで来ると決して猪山家も平穏無事だったわけではないことが明らかになります(注3)。

 逆に、映画がここまで日常生活に拘るのであれば、原作に記載されているもっと様々な点をも映像化してみたらよかったのかもしれません。
 たとえば、親戚の冠婚葬祭への出席風景です。その際には花代を包んでいく必要があり、これが猪山家の家計を相当圧迫したはずなのです。
 また、成之はいとこのお政と結婚しますが、原作では、成之とお政の「縁組(婚約)」が成立しても、直ちに「結婚」に至るわけではなく、「お試し期間」が3カ月ほど設けられて、その挙句にお輿入れと「披露宴」があったとあります。江戸時代にあっては、家と家との取り決めだけで結婚が行われていたのでは、との常識を覆すやり方が採られていたようであり、実に興味をひかれます。こういったことも、映像化してみたら面白いのではないでしょうか?

 というようにストーリー面で物足りなさがあるせよ、これだけ芸達者な配役陣が揃うと、観客側も安心して見ていることができます。
 表面的には頗る大人しそうに見えても、芯には実にしっかりしたものがあるという猪山直之を演じる堺雅人は、まさに適任といえるでしょう。



 その妻のお駒に扮する仲間由紀恵は、なんだか『Flowers』の「慧」の姿とダブってしまいましたが、(「慧」は、自分の体のことをも顧みずに子供を産みます)、江戸時代の武家の妻ですからやむを得ないものの、もう少し派手な出番があってもと思いました(注4)。
 その他の役者の中では、直之の祖母を演じている草笛光子が出色でした。なにしろ、年寄りにもかかわらず、あの数学書『塵劫記』を手にして問題を解いていた姿には驚かされました(注5)。それでも、草笛光子ば演じていると、さもありなんという感じにさせられます。

 全体としてホノボノ感が横溢しているホームドラマ的な作品ですが、配役陣に救われて、まずまずのレベルになっていると思いました。


(注1)江戸時代における武士の「休み」はどのような実態にあったのでしょうか?
 そんな簡単そうに見えることを調べようとすると、江戸時代を巡る本が相変わらず陸続と出版されているにもかかわらず、なかなか適当なものに遭遇しません。
 そうした中で、西沢淳男氏の『代官の日常生活―江戸の中間管理職』(講談社選書メチエ、2004)は頗る貴重な文献といえるでしょう。
 同書(P.156~)によれば、江戸の馬喰町御用屋敷詰代官・竹垣直道の日記に窺える勤務状況からすると、1850年(嘉永3年)の1年間(354日)について、役所の業務が行なわれていたのは333日間で、残りの21日半が休日、うち2日は同年の臨時的なものですから、定例的には19日間が休日でした。この中には、正月とかお盆の休みとか山王祭りの日などが含まれます。
 現在の日本の祝日は15日(先進国で最多)、さらに夏休みとかお盆休みがあったり、加えて週休2日制も導入されていますから、19日の休日では酷く少ないようにみえます。
 ですが、同書によれば、代官自身は4時間勤務であり、役所も6時間勤務体制にありました。とすると、勤務日数は現代と比べて多いものの、勤務時間からすればあるいは気楽な稼業だったのかもしれません。
 とはいえ、実際のところは、「多彩な交際や出張」などのため、勤務時間でなくともそんなに暇ではなかったようですが。

(注2)月刊『シナリオ』1月号掲載の脚本家・柏田道夫氏インタビューによれば、元は加賀藩の細工場という工芸部門を巡るエピソードだったものを、長くなってしまうために「百姓一揆の話に変えた」とのこと(P.17)。

(注3)上記インタビュー記事には、「人物としては、三代目の成之が一番ドラマティックなんですよ。……そういうエピソードに惹かれて最初は、成之を主人公にした幕末青春物みたいな話も考えたんですね」とあります(P.16)。

(注4)上記インタビュー記事によれば、これでも「仲間さんの見せ場がいるだろう」と、「夫婦愛の方により比重を増やそう」したとのこと(P.15)。

(注5)2010年の「本屋大賞」で第1位となった『天地明察』(冲方丁著、角川書店)では、主人公の渋川春海に老中酒井雅楽頭が「塵劫は読むか?」と尋ねられて、「そのつど新たに出たものを嗜んでおります」と答える場面が描かれています(P.67)。


(2)この映画を見る前に、偶々、友人の薦めで文春文庫『天皇はなぜ万世一系なのか』(本郷和人著、2010年)を読んでいて、「世襲」に興味が湧いていたことから、この映画のそうした点にも目が向きました。
 というのも、この映画の主人公直之の父親は、猪山家に婿養子に入っているのです。すなわち、主人公直之の祖父に当たる綏之(やすゆき)には男子がいなかったので、娘(松坂慶子)に婿養子を取っています。



 原作によれば、こうした「婿養子はすこぶる日本的な制度」であって、「中国や朝鮮には婿養子は少ない」とのこと(P.29)。すなわち、「「祖霊は男系子孫の供物しかうけつけない」とする厳密な儒教社会からみれば、日本の婿養子制度はおよそ考えられない「乱倫」の風習」ですが、社会学者の坪内玲子氏よれば、「加賀藩士は、三人に一人以上が「御養子さん」」だったようです(P.30)。
 主人公直之の父親信之の実兄は、「すでに前田家直参の御算用者に召し抱えられていた」ために、次男の信之は猪山家に養子に入って、暫くしたら実兄同様御算用者に採用されているのです。

 ところで、『天皇はなぜ万世一系なのか』において、著者の本郷和人・東大准教授は、「土地が生み出す恵に支えられた家を、父から子へ、子から孫へと受け継いでいく、それが世襲であり、世襲は武家社会を成り立たしむる根本的な原理だった」と述べていますが、さらに、「世襲は、理念として「血」より「家」」だとし、「当時の人々にとり大事なのは、「血の継続」ではなく、「家の継続」」などだと書いています(P.149~P.152)。
 例としては、鎌倉幕府で「源氏将軍が三代の実朝で絶えたとき」、「頼朝の男系の孫や甥が数人いたにもかかわらず、彼らを無視して京都の摂関家から新将軍を選」んだこととか、江戸時代において、「養子を迎えることが盛んに行われていた」ことなどが挙げられています(P.175)。
 この映画の主人公である直之の父親信之は、まさに「世襲は血ではなく、家」という法則の実例そのものと言えそうです。

(3)渡まち子氏は、「チャンバラだけが時代劇ではない。物語だけが原作ではない。刀だけが武器ではない。この映画は、固定概念を崩し、物事を違う角度から見直すことで、活路を見出すチャンスがあることを示してくれる」「そろばん侍の生き方が、私たちにこんなにもたくさんの生きるヒントをくれるとは。主演の堺雅人をはじめ、出演する俳優たちが皆、絶妙な演技で素晴らしい。何より、監督の森田芳光の的確な演出手腕が光った。このタイムカプセルの中には、家族愛があふれている」として75点をつけています。



★★★☆☆



象のロケット:武士の家計簿

白いリボン

2010年12月19日 | 洋画(10年)
 2009年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞した作品というので、『白いリボン』を見に銀座テアトルシネマに行ってきました。

(1)カンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞した作品というと、『ピアノ・レッスン』(1993年)、『パルプ・フィクション』(1994年)、『うなぎ』(1997年)、『戦場のピアニスト』(2002年)くらいしか劇場では見てはいませんが、今回の映画は、これまで見た受賞作品と比べると、大層地味な仕上がりになっていると言えるでしょう
 なにしろ、第1次世界大戦直前の北ドイツの小さな村における様々な小さな出来事を、モノクロ映像で実に淡々と描いているだけなのですから。
 それも、その村を支配する男爵家、男爵家の家令の一家、牧師(プロテスタント)の一家、ドクターの一家、それに小作人の一家、というように、その村を構成する家々とそのつながりを、村の学校の教師であった男のナレーションで描き出すのです。
 164分の『黒く濁る村』には及びませんが、全体が144分という長さで、様々な人物によっていろいろな事件が引き起こされると、見ている方は息切れがして、筋をたどっていくのがやっとになってしまいます(特に、どの家も子供がたくさんいて、誰がどの家の子供なのかを判別するのも大変です)。

 それでも、この映画に漂う不気味でどんよりとした重苦しい雰囲気は、比類がありません。
 冒頭では、ドクターが落馬して重傷を負うのですがが、それは道に張られた針金に馬の足が引っ掛かって倒れたためなのです(後で、その針金を探したところ、誰かがすでに取り外していて、跡形もありません)。
 また小作人の妻は、納屋の床に倒れて絶命しているのを発見されるところ、男爵の納屋管理に不備があったためではないかとその長男は疑います(誰も調べようとしないので、長男はイラついて男爵家のキャベツ畑を荒らしてしまいます)。



 さらに、男爵家の長男が、拉致されて、逆さ吊りされて棒で叩かれたりもします。
 事件と言ってもはっきりとした殺人事件ではなく、このように相当地味目の出来事ばかり起きるのです。加えて、その真犯人が突き止められません(真犯人が分かったと教師に言った助産婦は、その教師から自転車を借りて警察に行くと走り去ったきり、行方不明になってしまいます!)。
 そんな折も折、サラエボでオーストリーの皇太子夫妻が暗殺されるという事件が起こり、第1次大戦が勃発するのです。

 この作品は、おそらく、第1次大戦直前のドイツの農村地帯(おそらく、根本のところでドイツ陸軍を支えているのでしょう)が持っていた雰囲気を、ある意味で概念的に描き出そうとしているのかもしれません。
 たとえば、村を支配しているはずの男爵家は資金的困難に直面しつつあり、村の倫理面をコントロールしている牧師の家の中には腐敗の兆候が顕著に見られ、また先端の知識を持っているはずのドクターも、その精神のありようは実に古臭いものでしかない、といったようなことがあげられるでしょうか。

 ただ、なにもそうした実際の歴史的背景をバックにして、この映画を見ることもないのではとも思われてきます。むしろ、旧秩序が壊れかけ新秩序が次第に現れてくるその端境期・移行期の有様をここに見てもいいのではないでしょうか?
 むろん、その際に中心的な役割を果たすのは、旧秩序に組み込まれていない子供たちと女たちです。
 たとえば、牧師家の子供たちは、教師や親が見ていないところでは、実に奔放な行動をしています。長女は、教室で果物を齧ったり、大騒ぎを引き起こしたりしますし、長男も、決して父親のいいなりにはなっていないようです(そのために、何度も「白いリボン」の罰を受ける羽目になります)。



 また、小作人の一家では、長男などの不行跡を気に病んで、主人が自殺してしまいます。
 一方、男爵家の女主は、イタリアにしばらく行っていたと思ったら、帰ってきて主人に家を出て行くと宣言します(イタリアで知り合った男に愛を感じたからという理由で)。

 こうして、村の昔からの秩序が壊れようとしているさなかに、第1次大戦が勃発します。

 なお、この映画に出演している俳優の大部分は、クマネズミにとってあまりおなじみではないものの、男爵を演じるウルリッヒ・トゥクールは、『セラフィーヌの庭』で画商のウーデを演じていましたし、『アイガー北壁』でヒトラーを支持する国粋主義の新聞記者を演じてもいました。

(2)こうみてくると連想されるのが、若松孝二監督の『キャタピラー』です。
 といっても、『キャタピラー』には子供の姿は一切見あたりませんし、関連性があると言っても戦争を支える農村の有様の面が少々というにすぎませんが。
 それでも、『白いリボン』が、第1次大戦直前のドイツの寒村の様子をミクロレベルで描いているのに対して、『キャタピラー』でも、兵士を戦場に送り出す日本の農村風景が、背景としてかなり濃密に描かれているのです。
 そこで大きな役割を果たしているのが、『白いリボン』と同じように女たちです。
 たとえば、出征兵士を送り出す式典が村の八幡様の前で行われるところ、見送る人たちの大半が大日本国防婦人会に所属する女達(白いカッポウギを着てたすき掛け)ですし、また彼女らは、在郷軍人会に所属する軍人達の指導に従って、バケツリレー方式による消火訓練や、竹槍訓練なども行います(注1)。



 こうした銃後の日本社会を基本的に支えていたのは、戦前の「イエ」制度なのでしょう。ですが、その仕組みの中心に位置付けられていた男達は、大部分が戦地に派遣され、戦争が長引くにつれて戦死者も増加し、それと共に旧来のシステムの内実は空洞化し、敗戦とともに一気に崩れてしまいます(注2)。
 ドイツでも日本でも類似しているのではないかと思われますが、男達が自分たちの論理で始めた戦争によって、逆にその力を失ってしまい、男達によって虐げられていたとされる女達の大幅な飛躍が見出されるようになる(「戦後強くなったのは女性と靴下」!)、と言えるのかもしれません。
 ただ、これは極めて図式的な見方と言えるでしょう。
 『 白いリボン』でも見て取れるように、村を支配しているのは、男爵、牧師、ドクターといった強固な自己を持った男たちですが(父性原理)、日本の場合、社会を支配していたのはどちらかといえば母性原理の方ではないかとも思われるからです。
 とはいえ、これ以上は素人の手に余ることなので差し控えることにいたしましょう。


(注1)大日本国防婦人会は、昭和7年(1932年)の大阪国防婦人会から始まり、1942年に「大日本婦人会」に他の団体と統合されるまで続きました。
 当初は、タスキにカッポウ着という出で立ちで、専ら出征兵士の見送り・出迎え奉仕に従事していましたが(白いカッポウ着とタスキ姿の婦人たちが、出征兵士を歓送迎する際に、ヤカンを持ってお茶の接待をしたとのこと)、戦局が厳しくなり、防空・消火の方に重点が移ってくるにつれてモンペ姿に移っていきます(1941年には、軍事動員の秘密を厳守するために、街頭や駅での見送りは禁止されます)。
 当初は、40人ほどが自発的に作った団体でしたが、次第に軍部と密接な関係を持つようになって、ついには公称1000万人の大きな組織となって、戦時体制の一環に組み込まれていたとされます。
(以上のことは、藤井忠俊著『国防婦人会-日の丸とカッポウ着-』〔岩波新書、1985年〕より)

(注2)上記中で取り上げた著書の中で、藤井氏は、「1千万人におよぶ男子の軍事々員によって、家族構成がくずれ、家は母を柱にした結合へと変容しつつあった」(P.210)などと述べています。


(3)映画評論家・土屋好生氏は、「深く沈潜するような灰色がかった白黒の映像から、封建的な家父長制が残っていた時代の空気をにじみ出させる」とし、「誰しもそこにナチスの台頭を予感するに違いない。が、ナチスに限らず厳しい戒律の宗教や抑圧的なイデオロギーが何をもたらすのか、ハネケは現代的な視点からその内実を克明に描こうとしたのではないか。息が詰まる「原理主義」の恐怖とそこで育った子供たちの不透明な未来。服従か反抗か、事情は今も変わらない」と述べています(12月3日付読売新聞)。
 また、映画評論家・柳下毅一郎氏は、ハネケ監督は、「あえて事件の犯人を名指しせず、結末を曖昧なままにとどめる。だが、その語らんとするところはあきらかだ。犯人はこの村そのものである。罪なき無菌状態を作ろうとした暴君はその試みに反撃されるのだ。結末で少年たちが歌う賛美歌が美しくも恐ろしい」と書いています(12月10日付朝日新聞)。



★★★☆☆



象のロケット:白いリボン

酔いがさめたら、うちに帰ろう。

2010年12月18日 | 邦画(10年)
 ことさら「海老蔵事件」があったからというわけではなく、好きな俳優の浅野忠信が出演しているというので、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』を見に、テアトル新宿に行ってきました。

(1)浅野忠信については、『乱暴と待機』でその健在ぶりを目の当たりにしたばかりですが、今回の作品も、瞠目すべき演技を披露してくれました。
 何しろ、10回目の吐血で、実家のトイレを血の海にしてしまうほど酷いアルコール依存症の男を演じているのですから!
 すでに妻(永作博美)とは離婚し、子供たちとは週に1回会うことになっているだけの境遇に落ちぶれて、朝から夜まで飲み続けてばかりいるのです。
 映画の冒頭も、若い人が大勢入っている居酒屋で、ビールをがぶ飲みし、意識不明となって救急車で家に運び込まれるという有様。
 覚めてからは大人しくなり、家の者にも医者にも、もう絶対に飲まないと言いながら、一人になると、奈良漬くらいはかまわないだろう、ビール1杯くらいならいいのでは、日本酒1缶だけなら、などとどんどん酒量が上がり、またもや意識を失って倒れてしまいます。



 ついには、通院では治せないとして、精神病院のアルコール病棟に入ることになります。ここなら閉鎖病棟ですから、アルコールにはありつけませんが、今度は他の患者との関係が難しくなってしまいます。
 それでも、なんとかいい方向に向かっていると思ったら、今度はなんと……とのこと。本当に世の中はままならないものです。

 と綴ってしまえば、この映画は、一人のアルコール依存症の男の酷い話ということになってしまいますが、実際はそんなことはありません。
 むしろ、浅野忠信がこの男を演じていることもあって、確かに、酒を飲むと人格が変わってしまい暴れ出すのですが、それでも実に愛すべき人物であることはうかがわれ、誰も彼を放ってはおけないのです。



 特に、別れたはずの妻は、自分の漫画家としての仕事が忙しいにもかかわらず、彼のことを心配し、世話をしようとするのです。また、子供たちも父親を突き放そうとはせず、毎週の食事会を楽しみにしているようなのです。
 妻が「これでも家族なのかしら」とシミジミ言うと、子供たちが嫌な顔をするので、「やっぱ家族なんだ」と言い直しますが、そのシーンがとてもいいなと思いました。

 この映画は、アルコール依存症という側面から見れば、不十分なのかもしれません(注)。実際には、こんなほのぼのとした雰囲気が漂うことなど稀なのでしょう。
 ですから、むしろ、アルコール依存症を仲立ちにして(?!)描かれる家族愛の物語と捉えた方が座りがいいのではと思われます。
 元より、アルコール依存症のことをきちんと映像化するのであれば、ドキュメンタリー映画に若くはないでしょう。むしろこの映画は、私小説の原作に基づいたフィクションなのですから、そう考えれば大層ヨクできているなと思いました。

 そうしてみると、浅野忠信もさることながら、永作博美の類い稀な演技も注目に値すると思われます(そういえば、『腑抜けども、哀しみの愛を見せろ』(2007年)でも、夫からひどい仕打ちを受けてもその家から離れようとはしない妻の役を実にうまく演じていました←どちらの映画でも夫に投げ飛ばされますが、小柄なので、ボールのように転がってしまいます!)。

(注)劇場用パンフレットに掲載されている原作者の母親の鴨志田千幸氏のエッセイによれば、「映画の中の穣と現実の穣は、まるっきり違います」とのこと。

(2)アルコール依存症(注1)ということで、浅野忠信は、精神病院のアルコール病棟に入ることになりますが、映画の中でも言われるように、精神科医は、この病気に対して有効な治療ができるのか、疑問に思えてしまいます。
 治療の最初に、精神科医は、アルコール依存症になったことに何か心当たりがあるのかを当の患者から聞き出そうとします。ですが、浅野忠信は、そんなことをしてなにか治療に役立つのかと聞き返します。
 確かに、精神科医にとっては、原因究明は必要不可欠なのかもしれませんが、それがわかったところで、治療できるのかと言えば、そう簡単には問屋が卸さないはずです。
 たとえば、この映画の場合、浅野忠信の父親も同じようにアルコール依存症で、かつ家族を顧みなかったようですから、そういったことがトラウマになっているのかもしれません(注2)。また、彼の職業は“戦場のカメラマン”で、目をそむけたくなるような悲惨な現場を沢山見たことが病気の引き金になっているのかもしれません。
 いずれにせよ、そうした原因が特定できたとしても、そんな情報は、現在の彼がアルコールから脱出するには余り役に立たず(注3)、アルコール病棟における患者同士の相互監視と、アルコールを飲むと吐き気を催す抗酒剤の服用くらいしか方法はなさそうと思ってしまいます(注4)。

 ここで一つ問題だと思える点は、アルコールがアルコール依存症という「病気」をもたらすのであれば、なぜその販売を認めているのか、ということです。
 同じように依存症をもたらす覚せい剤の場合には、取引・使用はもちろん、それを所持するだけで犯罪です。
 依存症の症状やそうなる確率などからみて、アルコールと覚せい剤とは違うのだとも考えられるものの、200万を超えるオーダーでアルコールが病人を作り出していることはどうやら確かなことのようです。
 たとえば、タバコについては、相変わらず販売されてはいるものの、ニコチン依存症がいわれ、また肺がんとの関係が強調され出したことから、随分と吸引が規制を受けるようになってきました。
 また、日本はワクチン後進国とされていますが、そうなった大きな理由は、ワクチンが副作用をもたらすから厚労省が認可しないことにあるとされています(注5)。副作用も「病気」でしょうから、そうであるなら、他方で、依存症という病気をもたらすアルコールの方はなぜ野放しになっているのでしょうか?

 とはいうものの、気分転換を図るのに、人とのコミュニケ-ションをスムースにするのに、アルコールが大きな役割を果たしていることも事実でしょうから、話は大変難しくなって、簡単に割り切れるものではなくなってしまいます。


(注1)雑誌『現代思想』の12月号は、「特集-新しい依存症のかたち」とされていて、興味深い記事が掲載されています。
 特集の冒頭記事は、作家で精神科医のなだいなだ氏の「四十六年後の問題提起」ですが、その中では、「アルコール依存症は、現在では病名として定着している」が、つい最近までは、ソウした人たちは「アル中」といわれ、酒も止められない意志の弱い人間だとみなされてきた、などと述べられています。
 ただ、病気だとすると、周囲の人も「仕方がない」と許せるようなのですが、その数の多さから、「病気だから医者が治す」ということには直ちにはならず、「患者が自分で治す」しかなく、それで自助組織が治療の主体となっている、とも述べられています。この映画で描かれている「アルコール病棟」もソウした動きの一つと言えるのでしょう。

(注2)上記雑誌の特集には、文化精神医学の宮地尚子氏の「薬物依存とトラウマ-女性の依存症を中心に」という論考が掲載されていて、そこでは、「薬物依存、および依存一般がトラウマと強い関係があることは、すでに多くの研究で示されている」と述べられています。

(注3)上記注2で取り上げた論考で、宮地氏は、「薬物依存からの回復を目指すにあたって、トラウマ症状の生むやそれへの対処法などを本人や周囲が理解することには、大きな価値がある」と述べていますが、希望的観測と思えてしかたありません。

(注4)上記雑誌の特集には、「「回復」につきあいつづける」との「討議」記事が掲載されていて、その中では、たとえば「薬物依存や乱用を一過性の病気として見るのではなく、慢性疾患として見ろ」と行っている人として日本ダルク代表の近藤恒夫氏が紹介されています。
 今回の映画でも、本文にも書きましたように、断酒した後に、奈良漬から一気に元のアルコール依存症に戻ってしまうシーンが描かれています。、
 また、先日見た『マチェーテ』に出演しているアメリカの女優で歌手のリンジー・ローハス(1986年~)は、作品というよりも私生活のスキャンダルで名を売っていますが、そのスキャンダルというのがなんとアルコール依存症であり、薬物依存症なのです。
 wikiの記事によれば、彼女は、「女性刑務所」への入所、「禁酒教育プログラム」の受講、「アルコール・薬物依存症の更生施設」への通院、といったことを繰り返しているようです。

(注5)NHK「クローズアップ現代」の12月6日放送(このサイトを参照)。


(3)〔追記〕依存症でもう一つ怖いのは、「パチンコ依存症」ではないでしょうか?
 最近、小飼弾氏のブログ記事で知って若宮健著『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(祥伝社新書、2010.12を)読んでみたのですが、例えば、「毎日、パチンコで負けている人たちを見続けている店員も、依存症になるとは……。何とも、恐ろしい存在がパチンコなのである」などと述べられています(P.82)。
 そういえば、朝日新聞書評で取り上げられた漫画『闇金ウシジマくん』(真鍋昌平、小学館)でも、第一巻の冒頭に描かれているのがこの依存症の主婦たちの姿です!
 ただ、ここまで踏み込むと、インターネット依存症、買い物依存症など、対象はどんどん広がってしまい、途方に暮れてしまいますが(『裁判中毒』(角川oneテーマ21)を著している著者は依存症とは無縁なのでしょうか?)!

(4)この映画は、鴨志田穣氏の私小説を原作としてますが、その妻が漫画家・西原理恵子氏であったことから、映画ではイラストを制作しているシーンが何度か描かれています。



 映画には、彼女が描くイラストがいくつか挿入されていますが、その中に女の子が中年の男性と並んで背中を向けて立っているイラストがあるところ、何となく『パーマネント野ばら』の原作漫画の、主人公と中年の叔父さん(主人公の妄想)とが砂浜で並んで座っている場面と似ている様な雰囲気を感じます。
 この漫画を原作とする映画では、それは主人公の高校時代の先生とされていますが、もう一つの解釈として、亡くなった鴨志田氏ということも成り立つのかなと思いました。

 なお、西原理恵子氏関係の映画は、本作品を含めると、昨年から今年にかけて3本も見たことになります(他に、『女の子ものがたり』と『パーマネント野ばら』)。

(5)渡まち子氏は、「浅野忠信のどこかひょうひょうとした演技のおかげで、主人公の心が回復して行くプロセスが穏やかな時の流れに思えるのがいい。……自分自身の弱さと支えてくれる家族の重みを知った主人公の心のカメラには、深い愛情が記録されたに違いない。黙々と仕事をしながら、母として妻として安行を支える由紀を演じる永作博美が素晴らしい。彼女の強さと弱さの演技がいく層にも重なって、作品を味わい深いものにしている」として65点を与えています。



★★★★☆



象のロケット:酔いがさめたら、うちに帰ろう。

マチェーテ

2010年12月15日 | 洋画(10年)
 『マチェーテ』を渋谷東急で見てきました。
 評判が高いにもかかわらず、ごく僅かの映画館でしか公開されなかったので見逃してしまったところ、11月下旬からこの劇場で1日1回だけ上映されると聞き込んで、早速行ってきました。

(1)冒頭、メキシコの捜査官マチェーテが、誘拐された女性を救出しようと、刀を振り回しながら敵陣に乗り込んで、銃を構える敵の男たちの首や手首などをバサバサちょん切ったりしながら突き進み、件の女性(それが全裸なのです!)を救出したと思いきや、逆にその女性に裏切られて重傷を負い、さらには、メキシコの麻薬王によって、目の前で自分の妻の首をアッサリと刎ねられる憂き目に!
 マチェーテ役のダニー・トレホの実に容貌怪異な風貌と、麻薬王に扮するおなじみのスティーヴン・セガールの巨大な体を目の当たりにすれば、いったいどっちが主人公なの、おまけにどちらもいとも簡単に人の首を刎ねるものだから、見ている方は目が回ってきて、→潤ツ!
 すると、突然に話はアメリカに飛んで、日雇仕事を確保しようとよろよろ歩くマチェーテの姿。そこから話は進みに進んで、マチェーテの兄の牧師が、麻薬王側のブースなる男に磔にされて惨殺されると、ブースに操られていた上院議員(ロバート・デ・ニーロ)がブースを射殺し、その上院議員は、結局はブースの娘に撃たれるなど、乱れに乱れ、~~。
 ついには、マチェーテと彼を支持する不法移民たちと麻薬王たちとの対決に行き着いて、壮絶な戦いが繰り広げられ、……。

 主役が、普通だったらとても映画に出られそうもないほど壊れている容貌の俳優ダニー・トレホ。不法移民であることは納得させられるものの、なんと映画の中では正義の味方。気は確かなの、この映画は。



 他方、『トラブル・イン・ハリウッド』でプロデューサー役を演じたロバート・デ・ニーロならば、正義の味方であっても不思議ではないところ、この映画では人種差別主義者のいやらしい政治家。身動きのできないメキシコ人を不法移民狩で射殺するなどの無軌道ぶりを見せてくれるのですから、いやはや。



 セガールだって、あの巨大さ、あの強さからして、マチェーテのサポート役にうってつけのところが、一番の悪役ですからマアおそろしい。それにしても、東洋系の女をいつも脇に従えているのはどうしてなの。



 B級映画お定まりの美女軍団も、ジェシカ・アルバ(政府職員)、ミシェル・ロドリゲス(不法移民支援組織の女ボス)、リンジー・ローハン(ブースの娘)という具合。
 ジェシカ・アルバには、シャワーシーンありーの、ラストでダニー・トレホと抱き合うシーンありーの用意周到さながら、こんなのアリかなあ、嗚呼。



 ミシェル・ロドリゲスは、顔面を撃たれたはずにもかかわらず、左眼に眼帯をつけただけで、ビキニスタイルに機関銃という出で立ちでクライマックスに登場するのですから、唖然。



 “お騒がせセレブ”のリンジー・ローハンは、アレまあ!マチェーテと裸でプールの中でいちゃついた挙句、ラストでは、修道女姿で、父の仇である上院議員に銃弾を撃ち込むものの、そんな恰好はこの映画とどんなつながりが、などと問うのは愚も愚、大喝!



 こんな映画にアメリカの移民政策の問題点を探ったりせずに、ただただ面白がって見さえすれば、見終わった後スカッとするのは請け合い!
 刎ねられた首がいくつ宙に舞ったりしても、単に人形の首なのですから、グロテスクでもなく残酷でもありません。ゲームの極み。
 さあ、もっともっとどんどんガンガンやっつけてしまえ!!

(2)クライマックスの殺戮は、邦画『十三人の刺客』とは比べ物にならないほどのいい加減さながら、あるいはその精神は同じなのかもしれません。何しろ、手当たり次第に相手側を殺して、挙句にそのトップの首を取るというだけのこと。一方が“斬って斬って斬りまくれ!”の精神なら、こっちは“撃って撃って撃ちまくれ!”の精神でしょう。
 それでも、役所広司対ダニー・トレホ、、市村正親対セガール、稲垣吾朗対ロバート・デ・ニーロなどなどと比べていくと、端正さなどから邦画に軍配が上がるものの、あるいは幕末対現代(?!)という状況の違いを踏まえれば、『マシェーテ』も、ものスゴクいい線いっていると言えるのかも!

(3)渡まち子氏は、「リアリティ無視のムチャクチャな演出はまるでコミックの世界のようで、不思議な爽快感が。骨の髄までB級体質のロドリゲスらしいではないか」、「史上類をみないアウトローを誕生させたラテン・バイオレンスの快作は、マジメに“不真面目”をやっている。通俗的という意味ではこれ以上はないだろう。これぞB級映画の心意気だ」として60点を与えています。


★★★☆☆






黒く濁る村

2010年12月12日 | 洋画(10年)
 『黒く濁る村』を渋谷のシアターNで見てきました。
 このところ、この映画館では、『七瀬ふたたび』とか『誘拐ラプソデー』、『Dear Heart』など、ちょっとどうかなという感じの作品が多かったところから、この映画の出来栄えに危惧したものの、なかなか良い作品でした。

(1)韓国映画はほとんど見ませんが、『母なる証明』とか『息もできない』は、大層すぐれた作品だと思っているところ、この映画もそれらに近い線を行っているのではと思いました。

 ある青年(ユ・ヘグク)が、宗教活動家の父親が亡くなったとの電話連絡を受けて山奥の村にやってきたところ、村全体が胡散臭い謎に包まれているのに気付き、その謎を解明すべく調査に取り掛かります。次第に、父親の死を巡る疑問(死亡診断書もなく死因も不明なままで葬式となる)、自分を村から追い出そうとする動き、特に3人の男が自分を殺そうと付け狙っていること、などを通じて、問題の中心にこの村の村長がいることが分かってきます。
 そこで、ひょんなことで知り合いになったパク検事に情報を入れ(ユ・ヘグクは、検事の非人道的な取調べ状況をICレコーダーで録音し、それを証拠として検事の上司に提出したら、パク検事は地方に飛ばされてしまいました)、一緒にこの事件の解明に向かいます。
 その際に鍵となるのが、この村の宿泊先となった雑貨店を営む女性イ・ヨンジ
 どうも、この女性がユ・ヘグクに電話をかけたようなのですが、ユ・ヘグクが雑貨店への人の出入りなどをよく見ていると、イ・ヨンジは、村長やその取り巻きの3人の男たちと通じているのです。
 いったいどこまでこの女性を信じることができるのかと思っていると、元々は、ユ・ヘグクの父親(ユ・モッキョン)を慕っていたものの、あとになってから村長らと通じるようになったようなのです。
 ユ・ヘグクの謎の解明はうまくいくのでしょうか、村長はどんな役割を果たすのでしょうか、……。

 映画館に入った時は、そんなに長い映画とは思わなかったのですが、実際には2時間41分の長尺物で、ストーリー自体も相当こみ入っています。
 ですが、ユ・ヘグクの父親(ユ・モッキョン)は殺されたのか、村長や彼を取り巻く男たちの真実の姿はどうなのか、など様々の謎が出現するので、最後まで画面にひきつけられてしまい、その長さなど少しも気になりません。
 『母なる証明』とか『息もできない』のような底の深さはあまり感じられないものの、サスペンス物としては大層緊迫感を持った面白い作品だと思いました。

 ただ、問題点がないわけではないでしょう。
 元々の原作(漫画)をだいぶ刈り込んで映画化したためか、重要そうに思われる事件も、全体に余り絡んでこないのです。
 たとえば、ユ・ヘグクの父親(ユ・モッキョン)が当初入り込んだ祈祷院で、大量の死者が出る事件が起きるのですが(ギアナの人民寺院事件のような)、いったい誰がなんのためにそんな事件を引き起こしたのか、明確にされていません。
 なによりも、映画の冒頭、ユ・ヘグクの父親(ユ・モッキョン)の人柄に惹かれる信者が多いのに嫉妬とした祈祷院の院長は、刑事(チョン・ヨンドク)に相談を持ちかけると、この刑事は、よっしゃとばかり彼を連行して痛めつけます。
 大変な事態だな、あるいはこの映画はオウム真理教事件を下敷きにしたものではないか、などと思っていると、いきなり30年後に話が飛んでしまいます。
 アレレと思っていると、どうやらユ・モッキョンとチョン・ヨンドクらは、自分たちの共同体を作り上げて生活していたところ、ユ・モッキョンの死を迎え、そこに誰からの連絡なのか分からないながらも、ユ・ヘグクがやってきた、ということのようなのです。
 ですが、最初のうちは、村長が刑事(チョン・ヨンドク)の30年後の姿とは分からずに、前の話とのつながりが皆目わかりませんでした〔逆に言えば、チョン・ヨンドクに扮した俳優チョン・ジェヨンの演技が素晴らしいということなのかもしれませんが!〕。
 つまらないことを挙げれば、ソンマンの家を密かに調査していたユ・ヘグクは、逆にソンマンに襲われて腹を錐で刺されますが、何とか逃げ切ります。ですが、そんな重傷を負いながら、山道を走ったりして逃げおおせることは可能でしょうか?

 それに、韓国映画でいつも躓いてしまうのは、登場人物の名前です。字幕にカタカナで表記されてはいるものの、この映画のように多くの人物が登場し、類似する名前がしばしば表示されると、誰のことを指しているのか混乱してしまいます。

 とはいえ、若い時分の元気あふれる刑事役と30年後の村の権力を一手に集めた村長役とを演じ分けているチョン・ジェヨンの演技は素晴らしい出来栄えですし、主役のユ・ヘグクに扮しているパク・ヘイルと検事役のユ・ジュンサンの溌剌とした感じもよく、イ・ヨンジに扮したユソンも大層魅力的です。




(2)この映画を見ると、映画ファンならばあるいは『八つ墓村』を思い起こすかもしれません。
 たとえば、「産経新聞」の11月12日の記事も、この映画を取り上げて、「横溝正史の推理小説「八つ墓村」を想起させる雰囲気もあり」と書いているところです。
 そこで、この小説は3度も映画化されたところ(注)、やはり、原作に忠実とされる市川作品をチラッとのぞいてみましょう。



 すると、確かに、映画『八つ墓村』では、田治見家の先の当主(岸部一徳)が32人もの村人を惨殺した事件を引き起こしたとされていますから、これはこの映画における祈祷院での大量死事件に対応するかもしれません。
 また、映画『八つ墓村』では、田治見家の土蔵にある長持ちの蓋を開けて着物を取り出すと、地下へ下りる階段があり、その先は鍾乳洞の洞窟につながっています。これは、この映画において、ユ・ヘダクが泊まった雑貨店の部屋からソンマンの家に通じる地下通路に相当していると見なせるでしょう。



 さらには、映画『八つ墓村』では、東京から来た寺田辰弥(高橋和也)と探偵の金田一耕助(豊川悦司)が謎を解いていきますが、この映画においてユ・ヘダクとパク検事が協力して事件の解決に当たるのに対応していると考えられます。
 もっと言えば、映画『八つ墓村』で描かれる岡山県八つ墓村と、この映画で描かれる村とは、同じように都会からかなり離れた山間部に位置するという点でも類似しているでしょう。

 でも、映画『八つ墓村』は、映画の中で起きる7件の殺人事件の犯人探しが主な目的のサスペンス・ドラマでしょうが、この映画の方は、村長一味が怪しいことは最初から観客に明らかであって、興味はそれがどんな内容でいかにしてその悪事が暴露されるのか、という点にあり、純然たるサスペンス物とは言えないと思われます。
 また、映画『八つ墓村』は、400年前の裏切り行為とか、100年ごとに起きる8人の殺人事件とか、千佳の洞窟に置かれている先の当主のミイラ像などを持ち出してきて、オドロオドロしい様を強調しますが、この映画は、そんな古い昔のことは一切関係しません。あくまでも現代の物語とされているのです。

 というようなことから、この韓国の映画を『八つ墓村』に結びつける必要性は乏しいのではないかと考えられます。

 なお、どうでもいいことながら、今回、市川崑監督の『八つ墓村』をDVDで見てみましたが、確かに、セットにはお金がかかっていることがうかがえ、山の景色とか竹林を風が揺らす様などに市川崑色を見出すことができるものの、俳優の動きとか台詞回しなどは余りに新劇調で(たとえば、「濃茶の尼」を白石加代子が演じていますが、その演技は舞台のものでしょう、という感じがしました)、これでは横溝正史の小説が醸し出す雰囲気とはかなり違ってしまうのではと思いました。


(注)次の3作品が制作されました。
 . 松田定次監督、1951年。
 .野村芳太郎監督、1977年。
 .市川崑監督、1996年。


(3)渡まち子氏は、「韓国映画らしい過剰なまでの暴力シーンや流血描写が盛り込まれているが、それがすべて必然に思える濃密なストーリー」であり、「すべてが終わった後、村長の家のテラスから下界の村を見つめるヨンジのまなざしが、この物語の最後にして最大の情念」、「この物語は、男たちに運命を弄ばれた女性の長い長い復讐譚のような気がしてならない」として70点を与えています(「濃密度」でも★5つ!)。




★★★☆☆




象のロケット:黒く濁る村

信さん

2010年12月11日 | 邦画(10年)
 『信さん・炭坑町のセレナーデ』を銀座シネパトスで見てきました。
 銀座シネパトスは、昨年末『黄金花』を見に出かけた映画館であり、それ自体は相変わらずの佇まいながら、周囲のビルは、短い間でも随分と立派なものになっています。特に、三越銀座店の拡張工事が完成し、場違い感は一層募っています。
 でも、新宿西口もそうですが、近代的な立派なビルのすぐそばに、高度成長以前の風情を残している界隈がいまだに存在するというのは、日本の都市の有様を象徴している貴重な光景といえるでしょう。
 なにしろ、このままビルをドンドン新しくしていけば、日本も西欧入りだと考える単細胞的な輩に対して、お前たちの原点はこうした一杯飲み屋街なんだよ、との現実を突きつけているのですから。
 とはいえ、時折聞こえる地下鉄の轟音が、映画のサウンドと区別がつかない感じがしてしまうのは困りものです。

(1)さて、この映画は、映画館・銀座シネパトスを取り巻く飲み屋が象徴するような昭和30年代を舞台にしています。それも、九州の炭坑町におけるお話です。
 映画は、炭坑のある島に向かうフェリーに乗っている美智代(小雪)と守の親子の姿から始まります。
 数本の巨大な煙突が見える島に向かうのですから、これは軍艦島における物語なのかと思っていると、その後のシーンでは、島を取り囲む海があまり見えなかったり、軍艦島の特徴と言える巨大な団地も見当たりません。次第にこの作品では、様々な土地でのロケをつなぎ合わせた夢のような話が描かれているのだなとわかってきます(何より、小さな島には、あのような大きなボタ山はそぐわないでしょう)。
 そうだとしたら、細かいことに余り拘るべきではないのでしょう。
 たとえば、小雪のような女性がいきなり炭坑町に出現したら、とても荒くれ男たちが放ってはおかないのではと思われるところ、むしろ都会よりも静かな生活(洋裁店)を営んでいるようなのです。
 また、親のいない信一は、親戚の家(光石研大竹しのぶの夫婦)に引き取られて生活しているものの、決してその家で厄介者の扱いを受けているわけではなく、その家の娘・美代に兄と慕われています。でも、小雪に出会った途端、小雪が信一にとっての憧れの女性になってしまうのです。
 それも、母親を慕うというより恋人的存在として憧れるというのですから、年齢差を考えてみたらなかなか理解が難しいところでしょう。
 ですが、小学校の担任として赴任してきた大学出立ての若い女性が生徒の初恋の人になってしまう、ということはないわけではありませんから、そんなところは大目に見ることにいたしましょう。
 ただ、ラストの守のナレーションでは、好きだった美代とその後1度連絡をとったことがあるだけ、と厳しい現実が述べられているところ、もっと大雑把に余韻を残すやり方もあるのではと思えたところです。

 映画でやたらとノスタルジーを掻き立てられたくないものですから、クマネズミにとってこの作品の良さは、小雪の美しさをたっぷりと味わうことができる点だと言えます。確かに、小雪は『Always 三丁目の夕日』(2005年)にも出演しているものの、今度の作品では主役を演じている点が大いに違っていると思います。
 さらに言えば、昨年の『わたし出すわ』では主役でしたが、むしろ小池栄子に食われてしまった感がありますし、同じく昨年の『カムイ外伝』における女忍者姿もややどうかと思いましたから、この映画は小雪ファンにとり貴重な作品と言えるのでしょう。

(2)この作品は、『フラガール』(李相日監督、2006年)と類似するところがあるのは誰でも気づくところでしょう。



 この映画は北九州の炭坑町の話ですし、『フラガール』も常磐炭坑の話です。『信さん』は昭和30年代の後半から昭和40年代の前半あたりを取り扱っていますし、『フラガール』も昭和40年の話とされます。それに、映画で描かれる炭坑町も、両者の距離は相当離れていながらも、かなり似通った作りをしています。
 また、『信さん』で在日朝鮮人の役を演じる岸部一徳が、『フラガール』では炭坑会社の職員になっているところなどにも興味を惹かれます。
 とはいえ、『フラガール』は、炭坑会社がレジャー施設に転身して生き残りを図ろうとする話なのに対して、『信さん』は、爆発事故の後、炭坑が閉山し、町の人々も次第にちりじりになってしまうというストーリーですから、両者の違いは大きなものがあるとも言えそうです。
 なにより、『フラガール』で中心的な役割を果たす蒼井優は少女であり、他方『信さん』の主役の小雪は子持ちの母親の役ですから、両者の間には年齢差がかなりあります(むしろ、ダンス講師役の松雪泰子を持ち出すべきかもしれませんが)。また、蒼井優の兄・洋二朗(豊川悦司)は、『信さん』における信一(中岡卓也)に対応するでしょうが、一方の洋二朗は炭鉱が閉山となるまで働き続けると思われるところ、他方の信一は鉱山の爆発に巻き込まれてしまいます。
 これは、同じ様に炭坑町を取り上げている作品ながら、『フラガール』の方は、新しい動きの方を重点的に描いているのに対して、『信さん』の方は、消えゆく炭坑の運命を描くことに焦点をあてているからと言えるのではないでしょうか?

(3)面白いことに、最近見た『へヴンズ ストーリー』(瀬々敬久監督)とも、つまらない点ですが、関係してきます。
 一つは、『へヴンズ ストーリー』で、復讐請負人・カイジマという酷く難しい役柄を大変うまく演じた村上淳が、この映画では、炭坑会社の社員で、かつ美智代を憎からず思っている男の役で登場しています。
 村上淳については、『必死剣・鳥刺し』において連子に入れあげる藩主の役を演じたのを見てから注目するようになりましたが、『ゲゲゲの女房』でも、主人公夫婦が暮らす家の2階に間借りしているうらぶれた似顔絵書きとしても登場しています。
 『信さん』では、極く真っ当な役を演じているものの、どちらかといえば、狂気を胸に秘めた正統から外れたような役柄に合っているような感じを受けています。

 もう一つは、鉱山の廃墟という点です。
 『へヴンズ ストーリー』に登場する佐藤浩市は、カイジマによって射殺されますが、その舞台となるのが、岩手県にある松尾鉱山の社宅跡です。



 こうした光景には、北九州の炭坑跡で見かける廃墟が対応するでしょう(下は軍艦島の廃墟)。



 今回の『信さん』では、廃墟になる前の炭坑町を取り扱っていますからこんな光景は登場しませんが、それでも、子供たちが野球をするグランドの背後に聳える竪坑櫓は、錆ついていて廃墟さながらです。



 とすると、もしかしたら、『信さん』における野球の場面は、米国映画『フィールド・オブ・ドリームス』(1989年)のように、守の見た夢の中の出来事だったのかもしれません。
 もっといえば、冒頭とラストとの間で何年経過しようが小雪の容貌が少しも変わらなくとも、すべて夢の中の話としたら問題にすべきではないのかもしれません!

(4)渡まち子氏は、「高度成長期の昭和が舞台だが「ALWAYS 三丁目の夕日」の陽性なノスタルジーとは違い、ここでは、懐かしい昭和の風景と共に、繁栄から取り残される地方の町の悲哀をも描いていく。過去を美化するわけでもなく、かといって過度に悲壮になるでもなく、日常のディテールの積み重ねと時代の変化を淡々と描くことで、庶民の持つ哀しみとたくましさを浮き彫りにした演出が、クレバーだ」として65点をつけています。



★★★☆☆



象のロケット:信さん

行きずりの街

2010年12月08日 | 邦画(10年)
 『行きずリの街』を丸の内TOEIで見てきました。

(1)この映画を制作した阪本順治監督については、佐藤浩市が出演した 『トカレフ』(1994年)以来注目してきたこともあって、見に出かけたわけです。

 物語は、丹波篠山で塾を開いている主人公の波多野(仲村トオル)が、東京に行ったきり行方不明になっている教え子の広瀬ゆかり(南沢奈央)を探し出そうと上京したところから始まります。
 その過程で、波多野は、12年前に別れた雅子(小西真奈美)に再会する一方で、教え子探しが深みに嵌り込んで、以前いたことのある学園で引き起こされた陰湿な事件にまで辿り着きます。



 再会した波多野と雅子の関係はどうなるのでしょうか、また学園の事件とはどんな内容であり、波多野は広瀬ゆかりを無事に探し出すことができるでしょうか、……。

 まさに、劇場用パンフレットの「Introduction」が言うように、「謎が謎を呼ぶミステリアスな世界観と大人の恋愛劇」とが合体したものといえるでしょう。
 加えて、このところ進境著しい仲村トオル(『接吻』など)が主演で、相手役に何かと話題の小西真奈美(『のんちゃんのり弁』)や、それに窪塚洋介(『パンドラの匣』)、石橋蓮司(『今度は愛妻家』)、江波杏子など、錚々たる配役陣であることは間違いないでしょう。



 そして映画自体、面白くないわけではありません。
 ですが、何か乗り切れなさも感じてしまいます。

(2)そこで、原作(志水辰夫氏による同タイトルの小説)に当たってみることといたしましょう。
 むろん、映画と原作とは無関係と割り切るべきであり、小説と映画とがいろいろな点で違っているからといって、その映画の出来栄えに問題があるということに直ちにはならないでしょう。
 ただ、映画の問題点を探る上で、一つの大きなよりどころにはなるものと思われます。

 さて、原作は、全体的にハードボイルド仕立てになっているように思われるところ(なにしろ、書名に“行きずりの”とあって、如何にも格好が良いのです)、英語タイトルが“Strangers in the City”とされる映画作品からは、そんな感じがほとんどしてこないのです。

・まず、こうした雰囲気の作品ではふんだんに登場するはずの拳銃が、映画には全く出てきません。
 原作の方では、ラストで、池辺理事(映画では、石橋蓮司が演じます)は座布団の下から拳銃を取り出します(新潮文庫版P.339)。
 ですが、映画の方でも格闘場面はあるものの、登場人物は手で殴ったり足で蹴ったりするだけで、武器といえば、黒板の上部に隠されていた木刀を波多野(仲村トオル)が振り回すぐらいです。

・ですから、原作の方では、その拳銃によって木村美紀(映画では佐藤江梨子が扮します)や中込(窪塚洋介)が死にますが、映画では、いうまでもなく拳銃によって死ぬ者はおりません。
 なお、映画の方でその死が確認されるのは、池辺理事と、広瀬ゆかり(南沢奈央)が身を寄せていた角田(うじきつよし)くらいです〔後者については、実際に殺される場面は描かれませんが〕。

・クマネズミは、こうした映画ならば、少なくとも雅子(小西真奈美)が、たとえば拳銃の流れ弾に当たって死ぬといった悲劇的な場面が最後の方で用意されているのではないかと思っていたところ、拳銃が使われないのですからそんなことは起きるはずもなく、あろうことか、ラストは、波多野と雅子と広瀬ゆかりが手を取り合って笑いながら現場を立ち去るという、至極ホームドラマ的シーンなのです(とはいえ、原作でも、この3人は生き残るのですが)!

・原作でも、主人公波多野の出身地は丹波篠山であり、現在もそこで塾の教師をしていることになっていますが(P.49)、あくまでも説明されるだけで、そこでの行動は一切描かれてはいません。小説で描き出される舞台は、元麻布の真新しいマンションとか、外苑西通り、六本木、といった東京でも流行の先端を行っている、ハードボイルドにはうってつけの場所ばかりです。
 他方、映画の方では、はっきりと明示はされていませんが、波多野が講師をしている田舎の塾の様子とか、波多野の住まい(土間の大きな農家仕立ての家です)まで描き出されます。

・原作では、波多野は2年おきぐらいに東京に出向いていることになっていますが(P.50)、映画では、雅子と別れてから12年間、一度も東京に来たことがないとされています。こんなに間隔が開いてしまったら、東京で大活躍しようにも、勘が鈍ってしまってとてもできない相談になってしまうでしょう!

・映画では、雅子の家でシャワーを浴びる波多野に、雅子が下着を用意したところ、波多野は雅子に対して、「これは彼氏用のものではないか」となじります。実際には、波多野がシャワーを使っている間に、雅子が近所のコンビニで購入してきたもの。ですが、そんな事情を雅子からわざわざ聞かずとも、下着が新品かどうかは、すぐにわかりそうなものなのにと思ってしまいます。
 これに対して、原作の方では、新品であることはすぐにわかりながらも、サイズがピッタリなことにこだわって、雅子の現在の彼氏の存在に波多野が思わず嫉妬しまったことを暴露してしまうのです(P.281)。これならば、なじったことの心理的な意味合いが、読者にすんなりとはいってくるでしょう。

(3)このように、映画の方では、ハードボイルド的なところをあまり見かけることはできませんが、逆に、原作の入り組んだストーリーを刈り込んでスッキリとさせ、その上で波多野と雅子の再会と和解(要すれば、ラブストーリーの方に)に比重を置いて描いているように思われます。
 たとえば、原作では、池辺理事たちが殺したのは、映画のように前理事長ではなく、その妻ということになっています。原作では、池辺理事たちが、前理事長を追い出すべく、彼と雅子の母親との不倫関係をネタに脅しをかけたところ、自ら命を絶ってしまったとされます。
 残るは前理事長の妻ということで、池辺一味は、彼女を軽井沢の別荘にあるプールに沈めて殺してしまいます。
 広瀬ゆかりが身を寄せていた角田にも、もっと別の役割も与えられています。

 ですが、そんなことは全て切り捨てて、映画は、波多野と雅子が、よりを戻しベットをともにするシーンを生々しく描くことの方に向かいます。
 それはそれで一つの選択であり、小西真奈美もよく監督の意図に応えている(無論、かなり限界はあるものの)と思われます。

 この映画は、波多野(仲村トオル)を中心とする男のハードボイルドな世界から、むしろ雅子(小西真奈美)を中心とする女の世界に軸足を移していると考えられ、そういう観点からすればそこそこよくできた作品ではないかと思います。

(4)渡まち子氏は、「ミステリーとラブストーリーが絡み合いながら展開するドラマだが、残念ながら両方とも中途半端になってしまっている。何より作品全体が湿っぽくていけない」、「終盤、廃校舎でのバトルも、バタバタとご都合主義のように終結してしまう。さらに、事件の鍵を握る、建設会社の若くて冷めた部長を演じる窪塚洋介は、何か得体のしれない存在感を漂わせて面白いキャラだっただけに、もっと物語に活かしてほしかった気も。ストーリーそのものには魅力は感じないが、特別なヒーローではなく、ごく平凡な人間の譲れない意地を描いたところが見所か」として40点しか付けていません。



★★★☆☆




象のロケット:行きずりの街

ノーウェアボーイ

2010年12月05日 | 洋画(10年)
  『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ』を吉祥寺で見てきました。

(1)一応はビートルズ・ファンでもあることから、ジョン・レノンの青春時代を描く映画だということで、映画館に出かけてきました。
 ただ、ビートルズ・ファンといっても、単に彼らの曲が好きだったというにすぎませんから、個々のメンバーの生い立ちなどマッタク知りません。この映画を見て、なるほどそうだったのかと驚いている始末です(ビートルズに「Strawberry Fields Forever」という曲があり大好きなのですが、“Strawberry Field”がリバプールにある孤児院の名前だったとは!←映画の冒頭で分かります)。

 さて、物語は、叔父叔母の下でジョンが奔放に暮らしているところから始まります。
 3人が住む家は、イギリスの都市の風景としてよく見かけるもので、2階建で屋根に煙突がついて、2戸で一つになったものが長屋のようにいくつも連なっています。そこの居間で、叔母さんは堅そうな本を読みながら、ラジオでチャイコフスキーを聞いています。
 と、そこへ叔父が帰ってきて、彼にハーモニカを与えると同時に、2階のジョンの部屋でもラジオが聞けるように装置を取り付けてくれます(1階と同じ番組しか聞けませんが)。
 が、幸せそうなジョンの顔が映った途端に、突然叔父さんが倒れこみ、慌ただしく事態が進み、叔父さんの葬儀になってしまいます。
 これが彼の人生を象徴するかのような出来事で、ラストでは、実の母親と叔母とが和解し3人で仲良く安楽いすに座ったのも束の間、実の母親が車に跳ねられて死んでしまいます〔最近見た『乱暴と待機』では、同じように突然家から走り出た浅野忠信が車に跳ねられ高く舞い上がりはするものの、助かって事態はいい方向に進みますが、この映画ではそれとはまるで正反対のことが起こります!〕。
 この二つの大きな出来事の間に、ジョンが、自分の保護者がなぜ母親ではなくて叔母なのか、実の父親はなぜ自分の周りにいないのか、といったことを探りだしていくと同時に、ビートルズの前身である「ザ・クオリーメン」を結成していく様子が描かれます。

 映画に描き出される叔母と母親とは、姉妹なのですが性格も趣味もまるで正反対なのです(いってみれば、静対動)。



 同様に、「ザ・クオリーメン」のメンバーとなるポ-ル・マッカートニーとジョン・レノンも、むしろ相反する点の方が多いかもしれません。ポ-ル・マッカートニーは、既に母親を亡くしているとはいえ、左利きながらギターの腕前ははるかにジョンに勝っていますし、ジョンは歌詞作りを得意としているようですが、ポールは曲作りの方です。



 こうしたコントラストの強い関係の間をぬいながら、ジョンは傷つきつつも大人になり、ついに叔母のもとを離れてハンブルグへ行く、というところでこの映画は終わります。
 この映画は、下記(4)で紹介する評論家が言うように、ことさらジョン・レノンの伝記映画と捉える必要がないほど、それ自体として自立しているすぐれた作品だと思われます(むろん、ジョン・レノンの青春時代を描いた映画だということが予め分からなければ、見に行かなかったかもしれませんが)。
 特に、西欧では、子供が大人になる際の大きな関門は父親とされているところ、この映画には、ジョンに立ち向かう男性は、学校の先生以外にはありません。叔父にしても、実の母親の内縁の夫にしても、かなり控えめです。
 代わりに、ジョンに向かってくるのは2人の女性。ひとりは父親のように厳格な叔母、もう一人は友達のように奔放な母親。これら二人の女性の間で、ジョンは大いに悩みながら成長するわけですが、そのプロセスが実によく描けていると思いました。
 結局は、同性の男性との対立と違って、異性である女性との関係ということで、ジョンの内面に歪みをもたらさずに、むしろイメージの豊穣さをもたらしたのではないでしょうか?

 この映画でジョンの叔母を演じたクリスティン・スコット・トーマスは、『ずっとあなたを愛してる』において主役の女性を演じて深い感銘を受けたところですが、この映画においても、その持ち味をいかんなく発揮しています。

(2)この映画を、クマネズミの貧弱なストックから無理矢理『青春デンデケデケデケ』(大林宣彦監督、1992年)を探し出してきて比べたりすると、世の中から大顰蹙を食らってしまうことでしょうが、それでも雰囲気は幾分か近いものがあるのではないでしょうか?
 DVDをTSUTAYAから借りてきてもう一度見てみますと、こちらの映画の物語は、おおよそ次のようです。

 主人公・藤原竹良(林泰文)は、高校入学直前(1965年の春)に、ビートルズの曲を知っていたにもかかわらず、ベンチャーズの「パイプライン」をラジオで聞いて、そのトレモロ・グリッサンド奏法に衝撃を受けてしまい、高校に入ると仲間4人で直ちにバンドを結成します。4人は、アルバイトで資金を貯めて楽器を購入し、「ロッキング・ホースメン」と名乗り、スナックのクリスマス・パーティでデビュー。高3の文化祭における演奏のあと(「最初で最後の晴れ舞台」)、主人公は大学受験のために東京に向かいます。

 むろん、主人公をジョンと並べても仕方がないものの(注)、それでもジョンがエルビス・プレスリーに衝撃を受けたのと同じように、主人公は、1965年3月28日の昼下がりに、日本では大人気を博したベンチャーズ(「エレクトリック・サウンドの製造元」)から衝撃を受けます(「電撃的啓示」)。
 また、映画で取り扱われるのは両者とも大体高校時代、4人の仲間でバンドを結成し、スナックとかクラブで演奏を披露します。その際、ジョンは、ギターの腕前が自分より優るポールをバンドに引き入れますが、この映画の主人公も、ギターのうまい白井(浅野忠信)をメンバーにしてリードギターを担当してもらいます。
 演奏の仕方は、ジョンの「クオリーメン」の方はヴォーカルが主体ですが、「ロッキング・ホースメン」は、ベンチャーズと同様にインストルメンタルが主体です(主人公のヴォーカルで、ビートルズの「I Feel Fine」を演奏したりしますが!)。
 とはいえ、高校生活が終わるのに合わせて、主人公は「ロッキング・ホースメン」を抜けて東京に向かいますが(同バンドのメンバーから「終身バンドリーダー」の称号を授与されます)、「クオリーメン」の方は、そこからハンブルグへ向かい、そして大飛躍が始まるのです!


(注)なにより、『ノーウェアボーイ』では、ジョンと叔母と実母との関係が中心的に描かれますが、こちらの映画では、主人公の父親は高校の生物の教師であり、母親も元教師という具合に、家庭的には何の問題もないのです。


(3)友人からの情報で、かわぐちかいじ氏の漫画『僕はビートルズ』(原作 藤井哲夫:講談社)が出ていることが分かり、早速その2巻を読んでみましたが、未だ物語の最初の方で、これから話が展開するのでしょうが、なんとなく面白くなりそうな予感がします。



 ただ、過去へのタイムスリップの仕方がこのように古典的で単純だと、もう少ししたら矛盾が生じてこないとも限らないのではと思えてしまいます。なにしろ、現代人が、過去にタイムスリップして、その過去を弄くってしまうのですから、その後の展開は、彼らが知っているものとは次第にズレてきてしまうのではないでしょうか?

 この漫画は、現代の日本人が過去(昭和36年)にタイムスリップしてしまう物語ですが、ひょっとしたら、映画『ノーウェアボーイ』は、過去のジョン・レノンが現代にタイムスリップするものといえるかもしれません。なにしろ、この映画を見て、「ザ・クオリーメン」の曲を求めに走る人が多数出てこないとも限らないのですから!

(4)映画評論家・渡まち子氏は、「天才ジョン・レノンの黎明期を描くが、青年の孤独と成長の物語として普遍性があ」り、「本作はビートルズ誕生秘話というより、ジョン・レノンがジョン・レノンになる前、居場所がないと感じている一人の青年が、自分の複雑な過去に向き合い、大人になる瞬間を描く青春ストーリーとして味わいたい」として60点を与えています。
 また、評論家・粉川哲夫氏は、「おそらく、本当のジョンにはもっと「天才」の屈折や嫌味も強烈にあったのだろうが、この映画が描く「ジョン」は、どこにでもいそうな青年である。猛烈面白いが保育能力にムラがある実母、その姉で「賢母」の役割を果たす育ての親、ぼんやりとした記憶を残して消えた実父への思慕、バンドの結成、ポール・マッカートニーとの出会い・・・みな事実にもとづいているが、それとは無関係に惹き込んでいくドラマの魅力」云々と述べています。



★★★★☆



象のロケット:ノーウェアボーイ