大昔のことでぼんやりとしか覚えてはおりませんが、やはり原作を読んだからということで、『ノルウェイの森』を見に日比谷のTOHOシネマズ スカラ座・みゆき座に行ってきました。
(1)この映画の感想を述べるに当たっては、どうしても著名な原作に引きずられて、原作と比べたりしながらアアダコウダということになりがちです。原作が発揮する強いオーラからしてマア仕方ないところ、でも、やはり映画は映画、原作は原作という原則に則って、できるだけ両者を分けて議論した方がいいのではと思っています(注)。
という舌の根も乾かないうちで誠に恐縮ながら、様々な三角関係が描かれて複雑で長い原作を、この映画では随分刈り込んでかなりすっきりとさせ、主人公ワタナベ(松山ケンイチ)と直子(菊池凛子)との関係がうまく前面に描き出されているように思いました。
主人公の大学の後輩・緑(水原希子)がその二人の関係に少々絡んでくる仕掛けになっていて、京都北部の療養所で直子と同室のレイコ(霧島れいか)の役割はかなり背景に退いてしまっています。
こうした描き方は、監督側のそれなりの見識によるものであり、直ちには問題とすべきではないでしょう。特に、緑との関係はこれからのこととして、映画の中で軽いタッチで描かれるのは十分納得出来ます〔ただ、レイコに関しては、過去の出来事がすべてカットされてしまっているために、ラストの主人公とのラブシーンは唐突な感じを受けてしまいますが。とはいえ、一つの映画に何もかもというのは所詮無理な話ですから、これは仕方のないことでしょう〕。
としても、そこまで踏み込むのであれば、映画は、何もわざわざ原作と同じ時代設定にする必要はなかったのではないかと思えてきます。
登場人物たちの服装などは、すべて1967年当時のものでしょう。ただ特段そうせずとも、さらにまた当時の学生運動を画面で無理に描かずとも、この映画は十分に成立しているのではないでしょうか?
逆に言えば、大学闘争など当時を髣髴とさせる材料がかなりきちんと盛り込まれてはいるものの、この映画を見る上でむしろ邪魔になるのではないか、とも思えてしまいました。むしろそんなものは取りはらって、主人公のワタナベと直子〔それに緑も〕との関係をじっくり描いた方が、観客は映画の中により入り込めるかもしれません。
というのも、この物語を描くにあたって、どうしてそういった時代設定にしなければならないのか、が強い説得力を持って観客に迫ってこないように感じられるからです。
この点は、周囲の物事に対し主人公が意識的に距離を取ろうとする姿勢から、特に大学闘争についてあのような描き方になったのだとも思えます。ただ、映画においては、第3者の客観的視点から、主人公と活動家たちとを同じフレームの中で捉えてしまうために、単なる風景にしか見えなくなってしまうのでしょう。
と言っても、それらは単なる風俗であり、やはり映画にはそういった要素をちりばめることも必要でしょう。ただ、当時の大学闘争には、風俗を越えた何かがあったようにも思えるのです。まして、映画の主人公もイロイロな本を読んでいるのですから、身近で行われている全共闘活動についてマッタク何も喋らないというのは、トテモ理解出来ない感じがしてしまいます。
また、会話も、原作からイロイロ持ってこなくともよかったのでは、とも思います。下記の渡まち子氏が言うように、「村上春樹の小説の、軽さと深みが絶妙にブレンドされたセリフは文字で読むからこそ素晴らしい」のであって、たとえば、主人公と緑の会話、「僕は時間のあり余っている人間だから」「そんなに余ってるの?」「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」は(角川文庫・上P.123)、実際に映画の中の会話にしてしまうと鳥肌が立ってしまいます。
あるいは、こうした会話が成立するのは、舞台設定が1969年とされているからなのかもしれません。なにしろ、主人公のワタナベは、原作にあっては、現代の学生には余り想定できないような読書家なのです(フィツジラルドの『グレート・ギャツビィ』やトーマス・マンの『魔の山』からマルクスの『資本論』まで!)。そういう彼なら、当時、「孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ」などと喋ったとしても(角川文庫・上P.111)、そんなに違和感はなかったかもしれません。
ですが、舞台設定を現代に置き換えるとしたら、そんな会話などとても聞いてはいられません。そして、この映画からは、上で述べたように、40年前というよりも今の雰囲気が強く漂ってくるのですから、なんだか場違いな感じを受けてしまうのです。
イロイロ言いましたが、配役陣は頑張っていると思います。
配役で注目されるのは、菊池凛子でしょう。彼女が出演した作品としては、『バベル』(2007年)とか『サイドウェイズ』を見ましたが、まだまだという感じが残っていたところ、この映画においては、主人公に深く愛されながらも病院に通ったり療養所に入ったりしてしまう精神的に甚だ不安定な女性(「統合失調症」でしょうか)の役を、見事に演じており、やや役が想定している年齢から離れているとはいえ、その美質がよく発揮されていると思います。
主役の松山ケンイチについては、『ウルトラミラクルラブストーリー』や『カムイ外伝』と毛色の全く異なる作品を見てきましたが、今一彼が映画で引っ張りだこな理由が納得できないでいたところ、今回の映画を見ると、さすが当代有数の売れっ子俳優だなと納得がいきました。
本ばかり読む寡黙な人間でありながら、一方で自分が深く愛する直子に自殺され、他方で緑に愛されてしまうという非常に難しい役柄を、説得力ある演技でこなしています。
ただ、緑に扮した水原希子は、下記の渡まち子氏も言うようにどうもいけません。米国人と韓国人のハーフで、アメリカ生まれ、モデルの経験はあるものの本作で映画デビューというのでは、期待する方が無理とはいえ、本来なら重要な役だけに、実力のある女優を起用すべきだったでしょう(とはいえ、この映画では、原作と異なって主人公と直子との関係にかなりウエイトを置いているので、若くて綺麗なだけが取り柄という女優でも構わなかったのかもしれませんが)。
(注)映画『ゲゲゲの女房』を巡っては、クマネズミとは違い、水木しげるの奥さんが書いた原作本の雰囲気などが違っているからダメという意見どころか、それに基づいて制作された連続テレビ小説から期待されるものと違っているからダメという意見まで登場しました!
『ゲゲゲの女房』も今回の映画もソウですが、著名な原作(小説、漫画あるいはTVドラマなど)があると、それらに基づいて一定の期待(あるいは予想)をもって人々は映画館に足を運ぶのでしょう。その挙げ句、事前の期待とか予想と外れた内容を見せられると、その作品をこき下ろすことになるのでしょう。
でも、映画には、そうした先入観をぶちこわす役割もあるのではないでしょうか?だって、原作から一定の感想が得られたのなら、それはそのままにしておけばいいのであって、どうして映画で同じものをもう一度味わう必要があるのでしょうか?
なお、『ゲゲゲの女房』について、「朝になるたび、いきものがかりの歌が頭に浮かぶ病に犯されている」評論家・前田有一氏は、「NHKのドラマが無料で見られる事を考慮すると、同じ話をわざわざ1800円払ってみるだけの魅力が本映画にあるかというと微妙なところ」などとのトンデモ論評をしているところ、本作についても(下記(3)参照)、「よくこれほどに原作のムードに忠実に映像化したものだと驚かされる」などと、今度は原作に「忠実」という点を捉えて高く評価しています。ここまで姿勢が一貫していると、さすがと言わざるを得ませんが!
(2)この映画で強く印象に残るのは、直子が入っている療養所(阿美寮)の近くの草原の光景だと思います。
原作においては、この阿美寮は京都の北部にあって、三条にある私鉄バスのターミナルからバスに乗って「だいたい1時間少しかかる」ところとされていますが(角川文庫・上P.188)、太宰治の『パンドラの匣』とは違い架空の療養所であり(注1)、原作で描かれている周囲の風景も作者が作り上げた架空のものでしょう(注2)。
それを実写化するにはどこであってもかまわないとはいえ、この映画が選定した兵庫県神河町の砥峰高原は、まさにうってつけです(注3)。
遠くには山が見えるものの、あたり一面草原が大きく広がっていて、その中を2人が歩いたり寝そべったりするシーンは、この映画のハイライトと言えるのではないでしょうか(なにより、下記の前田氏が、「映画史上もっとも美しいブロウジョブとして、人々は菊地凛子の名を記憶にとどめることになるだろう」と絶賛するシーンも描き出されているのですから!)。
それに、草原の草木が風で大きく揺れるシーンにも素晴らしいものがあります。
木々が風で大きく揺れる光景については、河瀬直美監督が以前から意識的に映画の中で描いていましたが(注4)、この映画においても、風はとても効果的に使われていると思います。
ただ、この映画の風は、自然の風の持つ優しさが見られず、すごく威圧的な感じが付きまといます。
あるところで、主演の松山ケンイチが述べていましたが、京都の山奥の高原で強い風に主人公と直子が煽られる場面では、上空にヘリコプターを飛ばして激しい風を巻き起こしたようです(注5)。そうなるとこの映像で見られる風は、何事かを監督が意図的に象徴させているといえるでしょう(例えば、主人公と直子の心的状況といった)。だとすると、そこには、観客が自由に様々に読み込める自然の風を映像化している河瀬監督との違いを見て取れるのではと思いました。
(注1)昨年の11月14日の記事に書きましたように、太宰治が小説で描いた「健康道場」には、「孔舎衙(くさか)健康道場」という実在するモデルがあります。
(注2)とはいっても、何もないはずがないとしてモデル探しが行われています。たとえば、このサイトでは、「鞍馬の先の大悲山にある『美山荘』」だとされていますし、別のサイトでは、もうひとつ「京都北山修道院村」が挙げられています。
(注3)ちょうど、この映画のロケ地(兵庫県神河町大河内高原〔砥峰高原・峰山高原〕)の写真と原作の文章とを比べて掲載しているサイトがありました(「「ノルウェーの森」ロケ地情報」)。
(注4)初期の『萌の朱雀』(1997年)や、『殯の森』(2007年)とか『七夜待』(2008年)などでも見られますが、クマネズミには、兄が神隠しにあう『沙羅双樹』(2003年)で描かれた木々の揺れが印象的です。
(注5)劇場用パンフレットに掲載されている撮影監督の李屏賓(マーク・リー・ピンビン)氏のインタビュー記事によれば、「撮影を行った場所は山の高い位置にあったので、風を吹かせるのが非常に困難だった」からヘリコプターを使ったとのこと。
(3)映画評論家の見解は分かれるようです。
前田有一氏は、「原作と比較すれば当然いろいろ省略されているが、違和感はない。むしろ、よくこれほどに原作のムードに忠実に映像化したものだと驚かされる」し、菊池凛子も「透明感と陰の両方を併せ持つ直子というキャラクターを、完全にものにしている。主人公をどこか寄せ付けないようにも、かといって手を放したら消えて無くなりそうにも見える、一筋縄ではいかないヤンデレな魅力をものの見事に表現した」などとして75点をつけています。
他方で、渡まち子氏は、「問題は、ルックスは可愛らしいがあまりに演技がヘタクソな、緑役の水原希子。そんな彼女に長ゼリフは酷というものだ」としながらも、「この映画の最大の個性は、ベトナム系フランス人で、映像美でならすトラン・アン・ユン監督がメガホンをとっているということ。個人的には、村上春樹の世界には、もっとドライな空気がふさわしいように思うのだが、それはさておき、トラン・アン・ユンらしいしっとりとした美しい映像は堪能させてもらった。撮影は名手リー・ピンピン。深い森を思わせる物語に、日本の四季の移ろいをとらえたビジュアルの美しさが加わり、繊細な余韻を残している」などとして50点を与えています。
★★★☆☆
象のロケット:ノルウェイの森
(1)この映画の感想を述べるに当たっては、どうしても著名な原作に引きずられて、原作と比べたりしながらアアダコウダということになりがちです。原作が発揮する強いオーラからしてマア仕方ないところ、でも、やはり映画は映画、原作は原作という原則に則って、できるだけ両者を分けて議論した方がいいのではと思っています(注)。
という舌の根も乾かないうちで誠に恐縮ながら、様々な三角関係が描かれて複雑で長い原作を、この映画では随分刈り込んでかなりすっきりとさせ、主人公ワタナベ(松山ケンイチ)と直子(菊池凛子)との関係がうまく前面に描き出されているように思いました。
主人公の大学の後輩・緑(水原希子)がその二人の関係に少々絡んでくる仕掛けになっていて、京都北部の療養所で直子と同室のレイコ(霧島れいか)の役割はかなり背景に退いてしまっています。
こうした描き方は、監督側のそれなりの見識によるものであり、直ちには問題とすべきではないでしょう。特に、緑との関係はこれからのこととして、映画の中で軽いタッチで描かれるのは十分納得出来ます〔ただ、レイコに関しては、過去の出来事がすべてカットされてしまっているために、ラストの主人公とのラブシーンは唐突な感じを受けてしまいますが。とはいえ、一つの映画に何もかもというのは所詮無理な話ですから、これは仕方のないことでしょう〕。
としても、そこまで踏み込むのであれば、映画は、何もわざわざ原作と同じ時代設定にする必要はなかったのではないかと思えてきます。
登場人物たちの服装などは、すべて1967年当時のものでしょう。ただ特段そうせずとも、さらにまた当時の学生運動を画面で無理に描かずとも、この映画は十分に成立しているのではないでしょうか?
逆に言えば、大学闘争など当時を髣髴とさせる材料がかなりきちんと盛り込まれてはいるものの、この映画を見る上でむしろ邪魔になるのではないか、とも思えてしまいました。むしろそんなものは取りはらって、主人公のワタナベと直子〔それに緑も〕との関係をじっくり描いた方が、観客は映画の中により入り込めるかもしれません。
というのも、この物語を描くにあたって、どうしてそういった時代設定にしなければならないのか、が強い説得力を持って観客に迫ってこないように感じられるからです。
この点は、周囲の物事に対し主人公が意識的に距離を取ろうとする姿勢から、特に大学闘争についてあのような描き方になったのだとも思えます。ただ、映画においては、第3者の客観的視点から、主人公と活動家たちとを同じフレームの中で捉えてしまうために、単なる風景にしか見えなくなってしまうのでしょう。
と言っても、それらは単なる風俗であり、やはり映画にはそういった要素をちりばめることも必要でしょう。ただ、当時の大学闘争には、風俗を越えた何かがあったようにも思えるのです。まして、映画の主人公もイロイロな本を読んでいるのですから、身近で行われている全共闘活動についてマッタク何も喋らないというのは、トテモ理解出来ない感じがしてしまいます。
また、会話も、原作からイロイロ持ってこなくともよかったのでは、とも思います。下記の渡まち子氏が言うように、「村上春樹の小説の、軽さと深みが絶妙にブレンドされたセリフは文字で読むからこそ素晴らしい」のであって、たとえば、主人公と緑の会話、「僕は時間のあり余っている人間だから」「そんなに余ってるの?」「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」は(角川文庫・上P.123)、実際に映画の中の会話にしてしまうと鳥肌が立ってしまいます。
あるいは、こうした会話が成立するのは、舞台設定が1969年とされているからなのかもしれません。なにしろ、主人公のワタナベは、原作にあっては、現代の学生には余り想定できないような読書家なのです(フィツジラルドの『グレート・ギャツビィ』やトーマス・マンの『魔の山』からマルクスの『資本論』まで!)。そういう彼なら、当時、「孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ」などと喋ったとしても(角川文庫・上P.111)、そんなに違和感はなかったかもしれません。
ですが、舞台設定を現代に置き換えるとしたら、そんな会話などとても聞いてはいられません。そして、この映画からは、上で述べたように、40年前というよりも今の雰囲気が強く漂ってくるのですから、なんだか場違いな感じを受けてしまうのです。
イロイロ言いましたが、配役陣は頑張っていると思います。
配役で注目されるのは、菊池凛子でしょう。彼女が出演した作品としては、『バベル』(2007年)とか『サイドウェイズ』を見ましたが、まだまだという感じが残っていたところ、この映画においては、主人公に深く愛されながらも病院に通ったり療養所に入ったりしてしまう精神的に甚だ不安定な女性(「統合失調症」でしょうか)の役を、見事に演じており、やや役が想定している年齢から離れているとはいえ、その美質がよく発揮されていると思います。
主役の松山ケンイチについては、『ウルトラミラクルラブストーリー』や『カムイ外伝』と毛色の全く異なる作品を見てきましたが、今一彼が映画で引っ張りだこな理由が納得できないでいたところ、今回の映画を見ると、さすが当代有数の売れっ子俳優だなと納得がいきました。
本ばかり読む寡黙な人間でありながら、一方で自分が深く愛する直子に自殺され、他方で緑に愛されてしまうという非常に難しい役柄を、説得力ある演技でこなしています。
ただ、緑に扮した水原希子は、下記の渡まち子氏も言うようにどうもいけません。米国人と韓国人のハーフで、アメリカ生まれ、モデルの経験はあるものの本作で映画デビューというのでは、期待する方が無理とはいえ、本来なら重要な役だけに、実力のある女優を起用すべきだったでしょう(とはいえ、この映画では、原作と異なって主人公と直子との関係にかなりウエイトを置いているので、若くて綺麗なだけが取り柄という女優でも構わなかったのかもしれませんが)。
(注)映画『ゲゲゲの女房』を巡っては、クマネズミとは違い、水木しげるの奥さんが書いた原作本の雰囲気などが違っているからダメという意見どころか、それに基づいて制作された連続テレビ小説から期待されるものと違っているからダメという意見まで登場しました!
『ゲゲゲの女房』も今回の映画もソウですが、著名な原作(小説、漫画あるいはTVドラマなど)があると、それらに基づいて一定の期待(あるいは予想)をもって人々は映画館に足を運ぶのでしょう。その挙げ句、事前の期待とか予想と外れた内容を見せられると、その作品をこき下ろすことになるのでしょう。
でも、映画には、そうした先入観をぶちこわす役割もあるのではないでしょうか?だって、原作から一定の感想が得られたのなら、それはそのままにしておけばいいのであって、どうして映画で同じものをもう一度味わう必要があるのでしょうか?
なお、『ゲゲゲの女房』について、「朝になるたび、いきものがかりの歌が頭に浮かぶ病に犯されている」評論家・前田有一氏は、「NHKのドラマが無料で見られる事を考慮すると、同じ話をわざわざ1800円払ってみるだけの魅力が本映画にあるかというと微妙なところ」などとのトンデモ論評をしているところ、本作についても(下記(3)参照)、「よくこれほどに原作のムードに忠実に映像化したものだと驚かされる」などと、今度は原作に「忠実」という点を捉えて高く評価しています。ここまで姿勢が一貫していると、さすがと言わざるを得ませんが!
(2)この映画で強く印象に残るのは、直子が入っている療養所(阿美寮)の近くの草原の光景だと思います。
原作においては、この阿美寮は京都の北部にあって、三条にある私鉄バスのターミナルからバスに乗って「だいたい1時間少しかかる」ところとされていますが(角川文庫・上P.188)、太宰治の『パンドラの匣』とは違い架空の療養所であり(注1)、原作で描かれている周囲の風景も作者が作り上げた架空のものでしょう(注2)。
それを実写化するにはどこであってもかまわないとはいえ、この映画が選定した兵庫県神河町の砥峰高原は、まさにうってつけです(注3)。
遠くには山が見えるものの、あたり一面草原が大きく広がっていて、その中を2人が歩いたり寝そべったりするシーンは、この映画のハイライトと言えるのではないでしょうか(なにより、下記の前田氏が、「映画史上もっとも美しいブロウジョブとして、人々は菊地凛子の名を記憶にとどめることになるだろう」と絶賛するシーンも描き出されているのですから!)。
それに、草原の草木が風で大きく揺れるシーンにも素晴らしいものがあります。
木々が風で大きく揺れる光景については、河瀬直美監督が以前から意識的に映画の中で描いていましたが(注4)、この映画においても、風はとても効果的に使われていると思います。
ただ、この映画の風は、自然の風の持つ優しさが見られず、すごく威圧的な感じが付きまといます。
あるところで、主演の松山ケンイチが述べていましたが、京都の山奥の高原で強い風に主人公と直子が煽られる場面では、上空にヘリコプターを飛ばして激しい風を巻き起こしたようです(注5)。そうなるとこの映像で見られる風は、何事かを監督が意図的に象徴させているといえるでしょう(例えば、主人公と直子の心的状況といった)。だとすると、そこには、観客が自由に様々に読み込める自然の風を映像化している河瀬監督との違いを見て取れるのではと思いました。
(注1)昨年の11月14日の記事に書きましたように、太宰治が小説で描いた「健康道場」には、「孔舎衙(くさか)健康道場」という実在するモデルがあります。
(注2)とはいっても、何もないはずがないとしてモデル探しが行われています。たとえば、このサイトでは、「鞍馬の先の大悲山にある『美山荘』」だとされていますし、別のサイトでは、もうひとつ「京都北山修道院村」が挙げられています。
(注3)ちょうど、この映画のロケ地(兵庫県神河町大河内高原〔砥峰高原・峰山高原〕)の写真と原作の文章とを比べて掲載しているサイトがありました(「「ノルウェーの森」ロケ地情報」)。
(注4)初期の『萌の朱雀』(1997年)や、『殯の森』(2007年)とか『七夜待』(2008年)などでも見られますが、クマネズミには、兄が神隠しにあう『沙羅双樹』(2003年)で描かれた木々の揺れが印象的です。
(注5)劇場用パンフレットに掲載されている撮影監督の李屏賓(マーク・リー・ピンビン)氏のインタビュー記事によれば、「撮影を行った場所は山の高い位置にあったので、風を吹かせるのが非常に困難だった」からヘリコプターを使ったとのこと。
(3)映画評論家の見解は分かれるようです。
前田有一氏は、「原作と比較すれば当然いろいろ省略されているが、違和感はない。むしろ、よくこれほどに原作のムードに忠実に映像化したものだと驚かされる」し、菊池凛子も「透明感と陰の両方を併せ持つ直子というキャラクターを、完全にものにしている。主人公をどこか寄せ付けないようにも、かといって手を放したら消えて無くなりそうにも見える、一筋縄ではいかないヤンデレな魅力をものの見事に表現した」などとして75点をつけています。
他方で、渡まち子氏は、「問題は、ルックスは可愛らしいがあまりに演技がヘタクソな、緑役の水原希子。そんな彼女に長ゼリフは酷というものだ」としながらも、「この映画の最大の個性は、ベトナム系フランス人で、映像美でならすトラン・アン・ユン監督がメガホンをとっているということ。個人的には、村上春樹の世界には、もっとドライな空気がふさわしいように思うのだが、それはさておき、トラン・アン・ユンらしいしっとりとした美しい映像は堪能させてもらった。撮影は名手リー・ピンピン。深い森を思わせる物語に、日本の四季の移ろいをとらえたビジュアルの美しさが加わり、繊細な余韻を残している」などとして50点を与えています。
★★★☆☆
象のロケット:ノルウェイの森