映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

私の叔父さん

2012年04月29日 | 邦画(12年)
 『私の叔父さん』を新宿のK’s cinemaで見ました。

(1) K’s cinemaで見る映画は、クマネズミにとっては、時間の空きに入れる埋め草的なものですが、毎回、予想に反して良質のものにぶち当たります。
 今回も100分程度の長さで、埋め草としては格好の作品でしたが、内容的にもマズマズの出来栄えでした。

 物語の舞台は東京、主人公はプロ・カメラマンの構治高橋克典)。親戚の娘・夕美子が、大学受験のために福岡から上京して、彼の家に暫く泊っているところ、彼女は構治に向って、「叔父さんは母さんのことが好きだったの?」と尋ねるのです。
 暫くして夕美子は福岡に戻ってしまいますが、構治は18年前(1991年5月)のことを思い出します。その時は、突然、姉(松原智恵子)の娘・夕季子寺島咲)が、カメラマンの見習いをしている構治の汚い住まいに現れ(注1)、暫く寝泊まりしていったのです。
 夕季子は1週間ほどで戻りましたが、暫くしたらまた現れ、今度は1ヶ月ほど滞在していました。
 夕季子と構治とは、幼いころから兄妹同様に育てられ、構治がカメラマンとなるべく上京すると、構治のことが忘れられない夕季子もその後を追ってきたようなのです。



 ですが、2人は叔父と姪との関係で、一般には恋愛関係は許されません(注2)。ただ、夕季子は、構治に対して強い愛を感じており、当初のうちはあり得ないと否定していた構治も次第に夕季子を思うようになっていくようです(注3)。
 それでも、1カ月したら夕季子は福岡に戻り、すぐに水道屋の布美雄鶴見辰吾)と結婚し(注4)、夕美子を生んだものの、直後に交通事故で死んでしまいます。
 それでこんどの夕美子の出現であり、そして冒頭の発言です。
 そんなことをなぜ夕美子は言うのでしょうか、物語はその後どのように展開していくのでしょうか、……?

 こうした設定は好まれるのでしょうか、例えば『森書店の日々』でも、神田神保町で古書店を営む叔父(内藤剛志)とデザイン系の会社に勤務する若い貴子(菊池亜希子)との淡い関係が描かれていました。
 本作は、叔父・姪という何とも言えない距離にある2人の関係が、姪の子供が叔父に絡んでくるという思いがけない展開の中で再照射されるという、一段と凝った作りになっています。
 その上、主演の高橋克典については、『誘拐ラプソディー』を以前見たくらいですが、その時の印象がまずまずだったので本作もと思っていたら、前作以上に好演していて、まさに拾い物でした。

(2)現在47歳の高橋克典は、本作の設定では45歳の構治に扮しているところ、夕季子と過ごした回想シーンでは27歳であり、その差20歳とは随分な開きですが、持ち前の若々しさから決しておかしな感じを受けません。



 このところ平均寿命が大幅に伸びているせいなのか、年齢が進んでも若さを保ち続けている人が増えているような印象を受けます。
 丁度、本作を見た夜(4月15日)に、「COMPLEX 東京ドームLIVE ~日本一心~ 拡大版」のリピート放送がWOWOWであり、46歳の吉川晃司と50歳の布袋寅泰とが、実に若々しい姿を披露していました。
 そればかりか、プロ野球では、46歳になる中日ドラゴンズの山本昌投手が、同じ日の対阪神戦で勝利投手となり、セ・リーグ最年長勝利記録を更新しています!

 なお、夕季子の結婚相手の布美雄(夕美子の父親)に扮する鶴見辰吾も、高橋克典と同年配の47歳ながら、こちらは夕季子と結婚したときは23歳とされ、現在は42歳ですから、年齢的には相応しています(注5)。

 いずれにせよ、本作は、ある意味で40代後半をプレイアップする映画だと言ってもいいのかもしれません!

(3)渡まち子氏は、「なんだか納得できないことが多いドラマだが、これもまた純愛なのか」と、40点しか付けていません。

 確かに、「夕季子がなぜにこれほどまでに構治を慕うのか」につき説得力がない点とか、「構治と夕季子の過去のシークエンスは、あまりにも古臭く垢抜けない」といった点(注6)を、渡氏同様感じないわけではないものの、一方でそうなのかなとも思います。ただ、それらの点は見解の相違で余り議論しても仕方がないでしょう。

 しかしながら、「納得できないこと」として、渡氏が、「夕季子の娘の夕美子が、母と構治は実は深く愛し合っていたことを知り、唐突かつ過激な行動に出る」ことを挙げ、「夕季子(夕美子の誤りでしょう!)に対し、構治がある決心をするという流れも、愛や思いやり、けじめと呼ぶにはズレている気がしてならない」とし、さらに夕美子の「おなかの子供の父親が誰かという問題は、叔父と姪の禁忌の愛という本筋とは無関係。必要性が感じられないのだ」と述べていることにはやや異論があります(これも見解の相違と言われれば、その通りかもしれませんが)。
 これらの点は、どれも夕美子のお腹の子供の父親が誰かという問題に帰着するとは思いますが、それは夕美子の本当の父親は誰かということの裏返しではないでしょうか?
 すなわち、夕美子は、父親・布美雄(鶴見辰吾)が自分のことを、もしかしたら構治の子供ではないかと疑っているのではと思って(注7)、それを晴らすべく、自分のお腹の子供の父親は構治だと言い張るのではないでしょうか(注8)?
 構治がそれを皆の前で認めるのであれば(注9)、布美雄が、自分を本当の子供だと心から信じるようになると考えて、夕美子はそのように言い続けるのではないでしょうか?
 構治は、そうした事情がよくわかったのでしょう、布美雄に殴りつけられ馬乗りにされたときには、皆の前で「俺は死んだ夕季子を愛していた。だが、夕季子は俺のことなんか何も思っていなかった。あんたのことを、あんないい人はいないと言っていた。1年ちょっとの間だったけど、一生分の幸せを持って死んでいったんだ」と叫び(注10)、さらには「俺は夕美ちゃんの父親ではないぞ。自分の父親よりも歳上の男と結婚できるか?それでも良いなら、全部捨てて俺のところに来いよ」と言うのです。
 こんなところから、構治は、夕季子が“借金のカタ”(注11)としてこの世に置いていった夕美子を、そのお腹の子供まで含めて(自分の子供ではないにもかかわらず)、丸ごと引き受けようとしているのではないかと思いました。
 ですから、夕美子の「おなかの子供の父親が誰かという問題は、叔父と姪の禁忌の愛という本筋とは無関係」ということにはならないのではないか、夕美子の「おなかの子供の父親が誰かという問題は、「叔父と姪の禁忌の愛」を逆照射するものではないかと思っています。




(注1)海外赴任者の家で、物置同然となっていて、泥棒避けとして家賃はタダということで構治は住んでいます。
 構治は、これに恐れをなして夕季子はスグサマ帰ると思ったところ、逆に彼女は、「兄ちゃんが可哀想、こんなゴミだらけのところに住んでいたんだ」と言う始末。

(注2)構治は、「世間の目が気になることもさることながら、将来に何の展望もない自分の人生に、夕季子を巻き込む勇気がなかった」など、とナレーションで述べています。
 というのも、このとき構治は、カメラマン修行の師匠として使えていたプロカメラマン(長谷川初範)から、「出て行け、顔も見たくない」といわれた直後でしたから、将来に対し頗る悲観的だったのです(それが誤解だったことはスグに分かるのですが)。

(注3)夕季子と構治が、モーターボートレースに残りの金をつぎ込んでも全然駄目で、自転車に相乗りしながら家に帰って行くところは、なかなか良いシーンだなと思いました。
 夕季子は、「どうして叔父と姪なのだろう、歳がこんなに近くて、どーして一緒に育ったのだろう」と言い、さらに「死のうよ、あのダンプに突っ込んで、死ぬしかないんだから」と言い、構治もダンプの正面に向かっていきますが、衝突寸前でブレーキをかけます。

(注4)福岡に帰り際に、夕季子は、「昨日の晩言ったこと(「お兄ちゃんが好きなの、一生一緒に暮らしたい」など)は全部嘘。私、他に好きな人がいて、もうすぐ結婚するから。先月プロポーズされた。卒業したらと答えてある」などと構治に話します。
 構治が実家に戻ると、布美雄も同じ家にいますから婿養子に這入ったということでしょう。

(注5)ここらあたりは、原作〔連城三紀彦著『恋文・私の叔父さん』(新潮文庫)〕によっています。
 更に、年齢に拘ると、構治の姉に扮する松原智恵子は、現在67歳であり、役の上でも62歳ですから問題はないでしょう(夕季子は42歳の時の子供ということになるでしょう)。

(注6)特に、夕季子の写真が、現在の構治の書棚にある『藤村詩集』の「高楼」のページに挟まれていたりもするのですから!

(注7)布美雄の話によれば、夕季子は、知り合った当初は東京の構治のことばかり話していたというのですから。

(注8)いくら構治が売れっ子カメラマンで女出入りがあるとしても、自分の子供のお腹に自分の子供を宿すような破廉恥な行為などしないでしょうから!

(注9)構治は、この騒動で福岡に戻った際に、姉の詰問に対し「今回は潔白。元々そんな対象として見たことがない。もう四十男なんだ」と答えて、姉も納得しています。
 また、夕美子も、「私は、叔父さんが愛していた母さんの子供だから、お腹の子供が叔父さんとの間で出来たと言っても、叔父さんは絶対に怒らないと思っていた」などと言ったりします。
 布美雄も「嘘だと思ってた」と皆が納得し、夕美子は「子供は堕ろす」とまで言います。
 ところが、夕美子は再び、お腹の子供は叔父さんとの間で出来たのだと言い張るのです。

(注10)布美雄が構治に、「一度見てもらいたいと思っていた」と夕季子のアルバムを見せます。
 構治はアルバムを見て、「優しく包み込むものを感じました。俺の知らない見たこともない夕季子です」、「俺もこんな顔をした夕美子ちゃんにしたいんです。結婚を認めて貰えませんか」と言います(姉も、構治と夕美子の「結婚に反対しないけど」と言っています)。

(注11)夕季子は、夫の布美雄が店を出す資金にが足りないと言って、赤ん坊の夕美子を抱いて、構治に30万円を借りに東京にまでやってくるのです。
 なお、夕季子はトンボ返りをしますが、その2ヶ月後に交通事故に遭遇して死んでしまいます。
 また、その時会った喫茶店で写した写真が、夕美子が、母親が叔父さんを愛していたに違いないとする根拠となっています。というのも、その5枚の写真に写っている夕季子の口の形が、「あ」「い」「し」「て」「る」と言っている様に見えるので。




★★★★☆





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KOTOKO

2012年04月26日 | 邦画(12年)
 『KOTOKO』をテアトル新宿で見てきました。

(1)かなり以前に、本作の塚本晋也監督の『鉄男』(1989年)をDVDで見てから興味を惹かれて、その作品を少しずつDVDで見たり劇場で見たりしてきたので、本作にも大いに関心があったところです。

 実際に見てみると、本作において主演のCoccoは、歌手としてだけでなく俳優としても凄い才能のあるところを如何なく発揮していて(注1)、感動的ですらあります。



 ただ、塚本監督の作品はどれもなかなか難しく、すんなりと理解できるわけではありませんが、本作も、子供に対する深い愛というところはよくわかるにしても、それ以上となるとなかなか近づき難いところがあります。

 なにしろ、本作においては、沖縄出身の歌手Coccoが演じるシングルマザーの琴子KOTOKO)は、子育てにのめり込むあまり、世界が二つに見える精神障害を患っているのです(注2)。
 例えば、近所の女性が、琴子が抱いている赤ん坊・大二郎が可愛いと寄ってくると、その背後に怖い顔をして彼女を睨みつける同じ女性が見えてしまいます。そして、そちらの怖い顔をした女の方が寄ってくると、琴子は我が子を守ろうと無茶苦茶に暴れるのです。
 こうしたことが度重なって(注3)、ついに、幼児虐待の恐れありとのことで、我が子とは切り離されて、大二郎を琴子の姉の家(沖縄)に預けざるを得なくなってしまいます(注4)。
 そうしたところ、姉の方から電話があって、沖縄で暮らす大二郎に会いに行きます(注5)。途中、バスの中で独りで琴子が沖縄の歌を歌っていたところ、それに感動した小説家の田中塚本晋也)が、彼女に執拗に付きまとうことになります(注6)。



 彼は、有名な文学賞を受賞するほどの才能を持った作家にもかかわらず(注7)、自分を投げうってまで琴子を惨状から救い出そうとするのですが(注8)、はたしてうまくいくでしょうか、そして……?

 こうまとめてしまうとなんだかわかったような感じになるものの、実際の映像はなかなか凝ったものがあり、それぞれに何か別の意味が込められているようでもあり、様々にこちらの想像力等を駆使して考えてみなければいけないのでは、と見る者を強いる気がします。

(2)よくわからないながらも、一つの手がかりはCoccoが本作中で歌う歌かもしれません。
 彼女は、八重山民謡を歌い、さらにエンディングテーマ曲などオリジナル曲3曲を歌いますが(注9)、八重山民謡のタイトルは「月(ちち)ぬ美(かい)しゃ」であり、また一つのオリジナル曲のタイトル「のの様」も(注10)、Coccoが書いた『コトコノコ』(幻冬舎、2012.3)に掲載されている英訳では「The moon」とされていますから、どちらも「月」に関係する歌といえるでしょう(注11)。



 さらに、同書の「09.銀河系太陽区」には、「潮の満ち引きの絡繰りを訊ねると、ママは海の神様のお話をしてくれるような人だった。パパは「それは起潮力といって、月と太陽の引力が……」と熱く語る人だった」とあって、「月」が両親の話と繋げられています(P.60)。
 さらに、同じ「09.銀河系太陽区」では、「地球のような惑星の存在を銀河系の恒星の数に当てはめると1000億にも2000億も有り得るということにな」り、「」どこかで誰かや何かがきっと生きていて/向こうも地球のことを想定しているかもしれない」などとも言われています(P.61)(注12)。

 ここら辺りを見ると、子供と親という関係が宇宙全体というマクロな観点から見られていることが分かります。
 同時に、本作においては母親としての琴子とその子供大二郎との関係が中心的に描かれていますが、そこには、もしかしたらCoccoとその両親、特にその母親とのミクロの関係が投影されているのかもしれません(注13)。
 大二郎は琴子と離れ、沖縄の実家の姉夫婦のもとで暮らしたりするのですから、その出自にも十分に触れることになるでしょう。

(3)もう一つは、もっと不分明ながら、これまでの『鉄男』シリーズとの繋がりです。
 本作においては、同じ人間が、琴子の目からすると二重に見えるわけですが、一人は穏やかでありながら、もう一人は酷く恐ろしい顔つきをしていて、暫くすると琴子を襲ってくるのです。
 その際には、画面が酷く揺れ大音響がとどろきます。
 とすれば、映画『鉄男』シリーズの鉄男ではないでしょうか?



 例えば、『鉄男 The Bullet Man』(2009年)においては、外資系企業に勤めるアメリカ人のアンソニーの肉体は、息子を轢き殺された怒りによって鋼鉄に変貌するのですが、その際にも似たような映像の揺れがあり音響が響き渡るのです。

 そういうところから、本作において琴子がもう一人の人間によって襲われるのは、あるいは、神の“怒り”に触れたような感じがしないでもありません。
 すなわち、シングルマザーとして大二郎を育てることについて琴子が内心抱いている後ろめたさから、そういったもの〔さらにいえば、社会的規範、エス、あるいは「第3者の審級」(注14)といったもの〕が攻撃してくるように琴子は妄想するのではないでしょうか?

 そうした攻撃も、田中の献身的な努力で消え去ります(「注10」参照)。でも、最後にはまだ子供との対決が残っていたのです。
 しかしながら、それには耐えきれなくなり、ついに自分で大二郎を絞め殺そうとして(注15)、……(注16)。

 なお、『鉄男』シリーズにおいて塚本晋也監督が扮する“やつ”は、鉄男を挑発し“怒らせ”ながらiron manとしてレベルアップさせようとするわけですが、本作においても、同監督が扮する小説家・田中は、ストーカーとして琴子に付きまとい、何かと言っては登場するために、琴子の激しい怒りを買って、フォークで両手を突き刺されたり、顔面を酷く殴られたりします。
 とすると、ここでは、琴子が“鉄男”的なものに攻撃されるのではなく、逆に琴子が“鉄男”的な存在となって“やつ”としての田中を襲うのだ、というようにも思われます。

(4)渡まち子氏は、「監督が最も尊敬するシンガーだというCoccoは、これが映画初主演だが、狂気と癒しが幾層にも重なり合って、圧倒的なエネルギーを発散している。東日本 大震災以降の、子を守ろうと過剰反応する現代の空気が奇しくも映画に盛り込まれ、単なる異色作の枠に収まらない余韻を残した」として65点を付けています。




(注1)Coccoは、劇映画初主演とのこと。

(注2)さらには、時折リストカットします(腕には、その傷跡が何本も走っています)。これは、彼女に言わせれば、死にたいからするのではなく、自分が消えてしまいそうな時に自分を確認するために行うのだ、とのこと(田中に対し、「こうすると生きようとする力が働くの、魚の臭いがするの」などと話しています)。

(注3)ある時は、子供を抱っこしながら階段の踊り場で下を見たら、子供を手放して落としてしまったと思って、「救急車を呼んで!」と叫びながら階段を慌てて駆け下りますが、落ちた辺りには子供の姿はありません。おかしいと思って自分の部屋に戻ると、子供はいつものようにスヤスヤと寝ています。
 また他の時は、台所で子供を抱いて料理をしていると、料理を焦がした上にこぼしてしまったため、鍋を放り投げてしまいます。子供も火がついたように泣き叫びます。

(注4)子供がいないときは、彼女は不動産屋で働いています(広告のチラシにマジックでアンダーラインなどを引くだけの作業ですが)。

(注5)沖縄では、姉の子供たちも交えて砂浜で遊んだり、折り鶴を折ったりと、楽しい時間を過ごし、精神状態も快調なのですが、いつまでもというわけにいきません。

(注6)田中は、「あなたと会ったのは運命というか必然であって、結婚を前提とした真面目なお付き合いをしてもらいたい」と彼女に申し込みます。
 彼女は笑って、彼の手にフォークを突き刺します。
 でも彼は懲りずに、何度も彼女の部屋の前に立って、ケーキを食べてくれとかデートをしてくれなどと迫ってきます。そのたびに彼女は、フォークを振り上げて彼を撃退します。

(注7)彼の小説『月をみがく男』が鶴川文学賞を受けたとのニュースがTV画面に流れます。
 KOTOKOは、同小説を書店で買って読むのです。

(注8)田中は、「作家をやめて、あなたを好きで居続ける、というのが仕事だったらいいのに」などというまでになります。

(注9)オリジナル曲のタイトルは、「w/out u」(あなたなしで)、「のの様」、「Lollypop」(ぺろぺろキャンディー)。

(注10)ネットの国語辞書によれば、「のの」とは、「神仏・日月など、尊ぶべきものをさしていう幼児語」とのこと。
 なお、「のの様」の歌は、琴子と田中との関係が良好になって、「もう一人の田中がいないかと探したがいなかった」」「世界が一つになった」状況の下で歌われます。

(注11)田中の小説のタイトルが「月をみがく男」とされている点も思い起こされます。

(注12)本作においても、琴子は、同じような内容の話をベランダにいる田中に対して話しています。

(注13)『コトコノコ』の「01.Mum」には、「「子供」だった私にとって、/「母親」は全てだった。/あまりにも絶対的な存在だった。/それはつまり崇拝であり、/また当たり前でもあった」などと書かれています(P.6)。
 また、その「17.無題」にも、「ママを見ていた私/ママがすべてだった私/完璧であったはずがないのに/私が信じて疑わなかったもの」などとあります(P.113)。

(注14)「規範的な判断がそこへと帰属していることの(人々の)認知によって、社会的に一般化された妥当性を獲得することになる超越的な他者」〔大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ』岩波新書、2012.3〕(P.43)。同書においては、「神」、「世間」、「空気が読めないというとき」の「空気」といったものが例示として挙げられています〔また、同氏の『不可能性の時代』(岩波新書、2008年)では、市場に働く「神の見えざる手」などが挙げられています〕(P.138)。

(注15)本作において、琴子は、「大二郎が、知らないところで、知らない人に引きずりまわされるのは嫌だ。……それくらいなら私が殺してあげる」といって大二郎に馬乗りになります。
 似たような言葉は、『コトコノコ』の「12.the end」の中にも見出されます(P.78)。

(注16)琴子が正気に戻ると、自分が精神病院に入っていることがわかり、息子・大二郎との面会シーンとなります。そこには少年の大二郎が面会に来ていて、自分の境遇がよく飲み込めていない琴子は、うまく会話が出来ないながらも、立ち去る少年を見送る様子には、落ち着いた雰囲気が漂い始めています。





★★★★☆




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ヘルプ

2012年04月18日 | 洋画(12年)
 『ヘルプ 心がつなぐストーリー』をTOHOシネマズシャンテで見ました(注1)。

(1)本作については、この映画館を随分と利用しているために何回も予告編を見て、それで全部分かったような気になっていましたが、実際に見てみると、また予告編では味わえない面白さがありました。

 物語の舞台は、公民権運動が高まりを見せていた頃の南部ミシシッピー州ジャクソン。ラスト近くでは、TVに映し出される、凶弾に倒れたケネディ大統領の葬儀の模様を皆で見ているシーンがありますから、1964年に公民権法がジョンソン大統領の下で成立する前の頃の時期といえます。

 白人女性の主人公スキーターエマ・ストーン)は、大学を卒業して、新聞社でアルバイト的な仕事をしていたところ、その仕事を通じて“通いの黒人メイド”(「ヘルプ」)(注2)の実態を知るようになり(注3)、彼女達の証言を集めて本にしようと思いたちます。
 ですが、知り合いのメイドのエイビリーンヴィオラ・デイヴィス)や彼女を通じて知ったミニーオクタヴィア・スペンサー)の協力は何とか得られたものの、その先にはなかなか進みません。そんなことがバレたら、勤め先を解雇されてしまうのは必至ですから。
 でも、仲間が公衆の面前で警官に酷い仕打ちを受けたのを見たメイド達が(注4)、次々と口を開くようになり、ようやく『The Help』が出版されるに至ります。
 でも、彼らメイドを使っていた白人たちは、こうした事態を黙って見ていたのでしょうか、その後事態はどのように展開していくでしょうか?

 本作では、こうしたメインの話を肉付けすべく、エイビリーンやミニーが働く白人家庭の様子が、むしろ彼らの視点の方からなかなか興味深く(ときには皮肉をこめてユーモラスに)描き出されています。



 例えば、本作における憎まれ役はヒリーブライス・ダラス・ハワード)が一手に引き受けているところ、地域の若い白人女性たちのリーダー的な存在である彼女は、一方で、メイド専用のトイレを家の外に作ることを義務付ける法案を準備し、各方面にいろいろ働きかけを行っています。
 こうした動きに堪えられなくなったのでしょう、スキーターは、ヒリーの活動に対して冷水を浴びせることになる仕掛けを施したりします(注5)。
 他方で、ヒリーは、ミニーによるチョコパイ事件(注6)に最後まで祟られてしまうのです。

 こうして、本作は、人種差別を描いてはいるものの総じてコメディタッチであり、ありきたりの人種差別糾弾物とは相当隔たっていると思われます。

 スキーターを演じる主演のエマ・ストーンは始めて見ますが、一歩間違えば大変な事態を招きかねない企てにのめり込む役柄に、まさにピッタリという感じでした。



 エイブリーンに扮するヴィオラ・デイヴィスは、『ダウト』で注目され、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』でも“black”氏の妻の役を演じているところ、本作では、期待していた長男を亡くして気落ちしていながらも(注7)、スキーターを支えるという極めて重要な役柄を大層巧みに演じていると思いました。



 ミニー役のオクタヴィア・スペンサーは、本作でアカデミー賞助演女優賞を獲得したのは十分うなずけるところです。



 ヒリーに扮するブライス・ダラス・ハワードは、『50/50 フィフティ・フィフティ』でも主人公から離れてしまう役を演じていましたが、本作では、皆の憎しみを一身に受けながらも、どこか抜けていてとことん憎めない女という実に難しい役をうまくこなしています。

(2) ありきたりの人種差別糾弾物とは隔たっていると上で申し上げましたが、この映画で描かれているのはまさに人種差別とはいえ、別の観点からすると職業的な差別とされるものが描かれているに過ぎないようにも思われます。
 クマネズミが暮らしたことがあるブラジルでは、中以上のマンションになると、メイド(現地語ではempregada)専用の部屋が各家に設けられ、そこには当然のことながらメイド専用のバスルームも設けられているのです(さらに、メイド専用のエレベーターも設けられています)。
 これは、ジャクソンの場合のように通いではなく住み込みですから、同日の談ではないのでしょう。でも、雇う側とメイドとの間に仕切りを設けていることには変わりがないと思われます。
 それでも、差別されているとメイド達が思っているようには見受けませんでした。問題があるとしたら、そうしたメイド達を排出する貧民窟(favela)の存在、そして彼らの貧しさの寄って来るところにこそあるのではないでしょうか。

 本作の場合、差別の問題が絡まってくるのは、メイド達が黒人であって、黒人の女性はそうした職にしか就けないという事情があるからだと思われます。
 そこに問題があるにもかかわらず、「ヘルプ」という職業にまつわる問題を取り上げること(スキーターの著書も、そうした内容のように見受けられます)が人種差別問題究明につながるという物語になっているように見える点が本作の一つの限界ではないのか、と思ったりしています(ただし、ここら辺りはなかなか難しい問題で、もっと検討する必要があるでしょう)。

(3)また本作は、「ヘルプ」たちの無記名の証言を集めた『The Help』という本の出版を巡るお話ともいえるでしょう。
 ですから、原作小説は、映画『ヒューゴの不思議な発明』の原作小説『ユーゴの不思議な発明』のような構成(注8)になっているのかな、と期待しました。ですが、実際に同小説〔キャスリン・ストケット著『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(集英社文庫、栗原百代訳、2012.2)〕に当たってみると、その予想は見事に外れてしまいました。
 原作小説は、全体で34章、エイビリーン、ミニーそしてスキーターが、大体3章ずつ割り振られて、繰り返し物語を語っていく、という構成になっているのです(ただし、第25章「慈善パーティー」だけは、“神の視点”にたった客観的な描写です)。
 大体、本の題名を検討しているときに、スキーターはミニーに向かって、「この本は小説じゃないのよ、ミニー。社会学の本なの(注9)。的確な題名にしなくちゃ」と言うのですから(P.201)、元々が“入れ子”構造になりようがありません。

 といっても、ミニーのチョコパイ事件がこの著書には書き込まれているのです。
 ミニーがその書き込みを強く主張したのは、そうすればこの著書の舞台が逆にジャクソンではないことになって、証言したメイドが不利な扱いをされなくなるとの理屈からです。
 確かに、ヒリーは、その話が掲載されている章を読んで甚だしい衝撃を受けるものの(注10)、それでミニーたちを攻撃したら自分の馬鹿さ加減も同時に認めることになると悟って、賢明にも、この本の舞台はジャクソンではないと明言するようになります。
 ただ、こうした書き込みがなされていること自体は、この著書が「社会学」の硬い本から随分と逸脱していて、むしろ小説まがいのものであると思わせます。

 なお、映画においても、原作小説の構成の片鱗が残されていて、エイブリーンのナレーションで物語が展開されていきます。ただ、そうしてしまうと、一方で映画はスッキリとするものの、他方で、スキーターとかミニーが活躍する場面は、誰の視点から見ているのか、ということが問題になりかねないのではないでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「色鮮やかな衣装、おいしそうな南部料理、女たちのにぎやかなおしゃべり。小さな勇気が、時代に風穴を開けるストーリーは、最後まで楽観的だ。彼女たちは、その後の苦労も、きっと持ち前のしなやかさでやりすごしていくことだろう。偉人ではない、名もなきメイドたちの声に、とことん前向きになれる感動作である」として75点をつけています。




(注1)原題は、原作小説と同様、『The Help』。

(注2)一般に、自分の子供は養子に出したり、施設に預けたりしながら、白人の家庭に通ってその家の家事一切を行う黒人のメイドを「ヘルプ」というようです。
 本作で中心的な役割を果たすエイブリーンも、これまで17人の白人の子供を育てたとされています(他方、ミニーは、家に帰ると大勢の子供が待っています)。

(注3)スキーターが黒人メイドについて関心を持った一つの切っ掛けは、自分を母親のように親身になって育ててくれた黒人メイドのコンスタンティンが家に戻った時にはいなくなっていて、その理由について母親があいまいにしていたこともあるでしょう。

(注4)あるメイドが、居間の掃除中にソファーの陰に落ちていた指輪を見つけ、それを質屋に持ち込んだら盗みとされ警官に逮捕されますが、その際の酷く手荒な扱いに見ていたメイド達が憤激します。

(注5)地域の若い白人女性たちが作る会合の会報の編集を任せられていたスキーターは、メイド専用のトイレを家の外に作ることを義務付ける法案をその会報に掲載するようヒリーに要請されていたにもかかわらず、何度かすっぽかしていました。
 しかしながら、断り切れなくなってその掲載を余儀なくされるのですが、その際、ちょっとした仕掛けを施します。というのも、会の活動の一環として、「古いコート」を集めて換金し、それをアフリカの子供の支援に充てるという事業があるところ、その広報に際して、「leave old coat」とすべきところ、よくはわからなかったのですが、どうも「leave old seat」と修正を施して会報を配布したようなのです。
 ヒリーの家の前庭には、すごい数の便器(seat:便座)が瞬く間に放置されることになってしまいました!
このサイトの記事の中では、ここら辺りのことについて、「Skeeter puts Hilly's new law in the newsletter, as well as a note about a charity coat drive; donors are asked to bring old coats to Hilly's house. Skeeter gets an idea to change it from coats to something else.
」と述べられています〕

(注6)ヒリーに余りに酷い扱いをされたミニーが、怒りのあまり、ヒリーに自分の作ったパイを届けて食べてもらいますが、実はその中に自分の大便を巧妙にまぶしていました!
 なお、そのチョコパイはオークションに出品され、開明的なヒリーの母親(シシー・スペイセク)が落札するというオマケまでつきます(自分を老人ホームにぶち込んだ娘ヒリーに対する復讐といった意味があります)。

(注7)エイブリーンの話によれば、材木を運んでいた息子(当時24歳)がトラックに轢かれたとき、人々は彼を黒人病院に投げ込んだだけで、殺されたも同然だったとのこと。

(注8)『ユーゴの不思議な発明』は、当該小説の中で書かれている小説が、実は当該小説それ自身であるという“入れ子”構造になっています。

(注9)“黒人メイド”に対するインタビューを集めたものだから「社会学」だというのでしょうが、そういうためには、舞台とされている都市名を実在のものにするとか、こうした生の材料を社会学的な手法を使ってどんな分析がなされているかが重要なのでは、と思われますが、そこら辺りのことはよくわかりません。

(注10)映画では、就寝前にベッドでこの本を読んでいたヒリーが、当該個所を読んで、余りのことに狂ったように大声で喚きます!




★★★☆☆



象のロケット:ヘルプ~心がつなぐストーリー
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スーパー・チューズデー

2012年04月12日 | 洋画(12年)
 『スーパー・チューズデー』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)本作は、このところ俳優として大活躍中のジョージ・クルーニーが監督・出演して制作した作品というので見に行ってきました。

 お話は、党の大統領候補を決める予備選のハイライトであるスーパー・チューズデイ(本作の場合3月15日)を間近に控えた時期における、選挙参謀たちのかけひきを巡るものです。

 スティーヴンライアン・ゴズリング)は、民主党大統領候補のモリス州知事(ジョージ・クルーニー)の選挙参謀で、その上司のポ-ルフィリップ・シーモア・ホフマン)とともに、選挙活動を切り盛りしています。
 そんなところに、もう一人の民主党大統領候補プルマンの選挙参謀であるダフィーポール・ジアマッティ)から電話がかかってきて、極秘裏に会って話をすると、自分らの陣営に寝返らないか、という用件。



 様々な情報を駆使してダフィはスティーヴンを説得しますが、モリス州知事の人間性や政策に心酔しているスティーヴンは取り合いません(念のため、上司のポールに、ダフィと会ったことは報告します)。
 ただ、有力者の動向如何ではこれまでの優位が覆りかねない情勢になってきて、さらに、モリス州知事の人間性を疑わせるようなことも分かりだしもし、スティーヴンは動揺しないわけではありません。
 そうしたところに、スティーヴンはポールから突然解雇を言い渡されてしまいます。断ったにせよダフィと会ったことだけで、モリス知事に対する忠誠心が疑われるという理由で。
 スティーヴンはこのまま大人しく引き下がるでしょうか、起死回生の打つ手は何かあるのでしょうか?

 華やかな大統領選挙の裏側に見られる生臭い話といったところですが、それにしてはなんだかスケールが小さすぎるような気もしてしまいます。 
 マア、それはストーリーの枠組みとして、むしろ選挙事務所で働くある若い女性を巡っての出来事、それを梃子にして、追い詰められたスティーヴンが放とうとする逆転打、そしてその結果如何、といったエンターテインメント的要素の方が愉しめます。

 というのも、一方で、本作に登場する人物は、誰も邦題の副題にある「正義を売」るような大それたことはしていないように思えるからでもあります(無論、何を「正義」と考えるのかは人によって相当異なるのでしょうが)。
 スティーヴンにしても、形勢逆転の可能性について敵陣営のダフィから指摘されると、かなり動揺はするものの、敵陣営に寝返るようなことはしていません(ポールに解雇を言い渡された後は、ダフィに雇ってくれと申し入れに行きますが、それは裏切り行為とは言えないでしょうし、結局はダフィにも見放されてしまいます)。



 また、モリス州知事も、「これまでさんざん妥協をしてきたが、トンプソン上院議員(ジェフリー・ライト)を受け入れるのだけは拒否する」と明言しながらも、最後は彼を副大統領候補として受け入れてしまいます。



 ですが、これも「正義」に反する行為というべきではなく、政治の世界ではありがちな妥協ではないでしょうか(マイク・モリスは、州知事選をくぐり抜けていながらも、相変わらず“子供”じみたことを言っていたに過ぎないのではないでしょうか)(注1)。
 さらに、スティーヴンに解雇を言い渡した上司のポールにしても、随分と杓子定規な対応をするものです。自分が昔取った行動を判断基準にして、若いスティーヴンを断罪してしまうのですから(老練な管理者だったら、むしろ自陣に対する彼の忠誠心を一層高める機会ととらえたかもしれません:あるいは、自分の地位を脅かす恐れのある若いスティーヴンを、早目に切り捨てたかったのかもしれません。それにしても、「正義」とは関係がなさそうです)。




 他方、モリス州知事の選挙事務所でインターン(研修生)として働くモリーエヴァン・レイチェル・ウッド)を巡っての出来事(注2)は、少しく曖昧に描かれているだけに(近頃は、大統領、あるいは大統領候補者の下半身問題が取り沙汰されることがあるので、そんなに目新しい出来事でもないのでしょうが)、その後の展開振りは観客の興味を惹きつけます。




 ジョージ・クルーニーの相変わらず格好いい容姿とか、『ブルーバレンタイン』などこのところ注目を集めているライアン・ゴズリングのみずみずしい演技、それにシーモア・ホフマンの存在感といったものがこの映画では味わえました(注3)。




(2)アメリカでは、映画同様、本年11月6日の大統領選挙に向けて、党の候補者を選ぶ予備選が2月から熾烈に行われています。
 といっても、民主党は現職のオバマ大統領(50)で決まりですから、問題は本作と異なり共和党。
 ただ、例年、予備選最大の山場とされるスーパーチューズデイ(本年は3月6日)では、ロムニー前マサチューセッツ州知事(65)とサントラム元上院議員(53)との対決は決着がつかず、選挙戦は継続されるも、4月3日に行われた3つの予備選でロムニー氏がすべて勝利したことから、10日、サントラム氏は候補者指名争いからの撤退を表明しました。
 これにより、首位を走るロムニー氏の指名獲得が事実上確定したことになります。

 ここで興味深いのは、
イ) ロムニー氏がモルモン教徒だという点です(注4)。
 というのも、モルモン教徒が大統領候補になったことは史上例がないとされているので。
 そして、米国の全宗教の信者のうち、20%強を占める福音派の一部は2%弱のモルモン教を異端視しているようで(注5)、11月の大統領選挙への影響が無視できないのではとされるところでもあります。
ロ) また、 ロムニー氏は、妊娠中絶や同姓婚などのソーシャル・イシューについては反対しているという点も注目されます。
 例えば、2002年のマサチューセッツ州知事選で妊娠中絶に賛成しながらも、2008年の米大統領選を前に反対派へ転向したようです(注6)。

 本作では、公開討論会において、ジョージ・クルーニー扮するモリス州知事が、「私はクリスチャンでも無神論者でもない。ただ、憲法を信じているだけだ」と答える場面がありますが、アメリカ大統領選挙ではどうも宗教に絡む問題が議論されることが多いように思われます。
 そして、本作においては、モリス州知事の選挙事務所で働く若い女性を巡って起きる出来事が、こうした問題とも絡んでくるので、なお一層興味が惹かれるところです(注7)。

(3)渡まち子氏は、「政策や人格などは二の次。保身のためならどんな手も使う政治の世界を、スリルたっぷりの娯楽作で批判してみせるクルーニーの手腕が冴える。フィリップ・シーモア・ホフマンやポール・ジアマッティら、脇を固めるくせ者俳優の使い方も上手い」として70点をつけています。




(注1)スティーヴンは、「国民の生活を変えられるのはモリスだけだ。彼は本物だ」とモリス州知事を崇拝していますが、選挙運動を仕切る者としては“学生”っぽ過ぎる発言ではないでしょうか。
 ただ、モリス州知事は、スティーヴンのそうした熱意をも買って、30歳とかなり若いにもかかわらず選挙参謀にしたと思われるところ、ポールから解雇を進言されるとそのまま認めてしまうのは、やや解せないところが残ります。

(注2)スティーヴンは、選挙事務所で働くモリーと親しくなりますが、モリーにかかってきた電話から、モリス州知事とモリーとの関係を知り、さらには妊娠中絶のための費用として900ドル受け取っていることも知るに至ります。
 スティーヴンは、このことが明るみに出たら、大統領候補はおろかモリス州知事の政治生命が失われかねないとして(モリーは、党全国委員長の娘でもあるのです)、さらに900ドル用立てした上で、極秘のうちにモリーに中絶手術を受けさせます。

(注3)ジョージ・クルーニーが出演した作品としては、最近では、『マイレージ、マイライフ』、『ヤギと男と男と壁と』、『ラスト・ターゲット』といったところを見ています。
 また、フィリップ・シーモア・ホフマンの出演作としては、『マネーボール』、『脳内ニューヨーク』、『パイレーツ・ロック』といったところを最近では見ております。

(注4)Wikipediaによれば、「ロムニー家の宗教は代々末日聖徒イエス・キリスト教会(いわゆるモルモン教)であり、本人も敬虔な信者」とのこと。
 ちなみに、本作の主演のライアン・ゴスリングの両親もモルモン教徒とのこと(Wikipedia)。

(注5)この記事によります。

(注6)たとえば、この記事によります。
 また、上記注のWikipediaによれば、「1994年の上院選で同性愛者の権利を擁護する立場を取っていたが、2003年11月にマサチューセッツ州最高裁判所が同性婚の禁止を違憲とし合法化を促した際には、異議を申し立てこれに反発する姿勢を取った」云々とのこと。

(注7)モリーは、中絶手術を受けた後自殺してしまいますが、「アルコールと薬物の過剰摂取によって死亡した」と発表されて自殺の事実は隠蔽され、記者会見でもモリス州知事は、彼女とは少ししか面識がなかった、と答えます〔なお、スティーヴンは、モリス州知事の選挙事務所を解雇された後、モリス州知事と会って、自分が持っているモリーの携帯電話に遺書が残っていると告げ、ポールの解雇と自分の再雇用、そしてトンプソン上院議員を副大統領候補にすることを求めます〕。

 あるいは、ここらあたりが「正義を売った日」の意味するところかもしれません。
 ただ、モリーは殺されたわけではないのですから、こうした対応も許されるのではないでしょうか?
 それに、モリーは、モリス州知事やスティーヴンのみならず、選挙事務所のベン(マックス・ミンゲラ)とも付き合っていた様子でもあり、誰の子を身ごもったのかは実際のところ曖昧なのです。
 しかしながら、こうした感じになるのは、クマネズミがクリスチャンではないからなのかもしれません。現に、モリーの家はクリスチャンであり(カトリック教会で葬儀が行われます)、中絶費用を父親に求められなかったがためにモリス州知事に出させたのでしょうし(スティーヴンの900ドルは口止め料でしょうか)、スティーヴンに否も応もなく病院に運ばれて、堕胎手術を受けてしまったことが彼女には耐えられなかった、というようにも考えられます。




★★★☆☆




象のロケット:スーパー・チューズデー
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マリリン

2012年04月10日 | 洋画(12年)
 『マリリン 7日間の恋』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)この映画は、原題が「My Week with Marilyn」であり、邦題だとマリリン・モンローが主体の恋物語のように思われてしまうところ、実は「My」とは、マリリン・モンローが出演する映画の助監督コリン・クラークの「My」であり、彼が彼女に恋したお話です(注1)。
 さらに、映画の冒頭に、例によって「a true story」との文字が現れますが、この映画も『マーガレット・サッチャー』と同様、別に彼女の伝記をリアルに描くことが主眼ではないのではないか、むしろある24歳の青年と30歳の女性との恋物語だと受けとめてもいいのではないか、とも思われます。
 そして、そうすることによって、クマネズミのようなマリリン・モンローの映画をホンの少ししか見たことがない者にとっても、この映画を随分と楽しむことが出来ました(もちろん、マリリン・モンローをよく知った上でこの映画を見てもそれはそれで楽しむことができることでしょうが)。

 さて、マリリンは、自分が初めてプロデュースする作品『王子と踊り子』の撮影のために、夫アーサー・ミラーダグレイ・スコット)(注2)と一緒に、本作の舞台となるロンドンに行きます。
 『王子と踊り子』の監督・主演は、舞台で同作品を演じたローレンス・オリヴィエケネス・ブラナー)。
 一方で、資産家で美術史学者の父親の息子ながら映画界入りを志した青年コリン・クラークエディ・レッドメイン)は、その映画の製作に当たり第3助監督(要は雑用係)に採用されます。
 彼は、当初いろいろ失敗をしながらも、衣装係のルーシーエマ・ワトソン)と付き合うようになります。ですが、マリリンの気まぐれな振る舞いに業を煮やしたローレンス・オリヴィエに、もっとマリリンに貼り付くように命じられます(注3)。
 その仕事を通じてマリリンの真の姿を理解するようになったコリン・クラークは、次第にマリリンに対して恋心を抱くようになって(注4)、……といった感じです。

 本作には、コリンとマリリンとの恋愛関係において、二つの山場があるように思いました。
 一つ目は、コリンがマリリンを連れて、ロンドン郊外に小旅行に行ったことでしょう。
 ウィンザー城に行って、ホルバインとかダヴィンチの絵を見たり(注5)、コリンの母校イートン校に行ったり(注6)、そこで2人は裸になって水浴びをしたりします(注7)。
 この旅行は、運転手のロジャーが目を光らせていて、決して二人きりというわけではありませんでしたが、随分と二人の中が接近します。

 二つ目は、マリリンが部屋に閉じこもってしまい、外から戸を叩いても何の反応もしなくなった時です。
 関係者が心配するなか、まるでバルコニーをよじ登るロミオのように(注8)、コリンは立てかけた梯子を登って2階の窓からマリリンの部屋に入っていきます。
 彼は、部屋の外にいる人のために鍵を開けることはせずに、ドアのところから立ち去るように求め、マリリンが目覚めた後、コリンは彼女と二人きりで親密に話をします(注9)。

 こんな経緯もあったにもかかわらず、撮影が終わると、マリリンは夫のアーサ-・ミラーのもとに帰ってしまうのです。
 まあ、コリンが如何に誠実に振る舞おうとも、夫のいるマリリンの恋人でいつまでもいられるはずもありませんが、それにしてもあっけない幕切れでした(注10)!

 マリリンに扮する主演のミシェル・ウィリアムズは、『ブルーバレンタイン』における演技が印象的ですが、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされただけあって、『マーガレット・サッチャー』のメリル・ストリープと遜色ない演技を披露します。



 ただ、本作は、マリリンというより、むしろコリン・クラークが主役のように思えるところがあって、アカデミー賞についてはメリル・ストリープの後塵を拝したのかもしれません。

 そのコリン・クラークを演じるエディ・レッドメインは、第3助監督ながらマリリンと恋に落ちてしまうという役柄を実に瑞々しく演じているなと思います(なお、『ブーリン家の姉妹』(2008年)に出演していたようですが、印象に残っていません)。



 その他には、出番は少ないながら、俳優シビル・ソーンダイクに扮するジュディ・デンチの存在感が際立っているように思いました。彼女は劇中映画『王子と踊り子』に皇太后役で出演するのですが、当初こそナンダこの若い女優はという態度を見せるものの(注11)、次第にオリヴィエとマリリンとの間に入って緊張緩和に努めるという難しい役を上手く演じています。




(2) この映画で興味を惹くのは、本作ではあまり明確に描かれていませんが、マリリンとオリヴィエの演技論の違いです(2人の間の確執は、どうやらそこに原因が求められます)。
 新潮文庫『マリリン・モンロー 7日間の恋』の亀井俊介氏の解説によれば、マリリン・モンローは、リー・ストラスバーグから「メソッド」という演技法を学び、それは「俳優は単に真似するだけでなく、自身の「感情の記憶」を呼び戻してその人物の真実(リアリティ)を再現するように努めること」であり、「つまり俳優とその演じる対象の人物との人格的な融合が求められる」というものだったようです(P.239)。
 そればかりか、この撮影にストラスバーグの妻ポーラゾー・ワナメイカー)が演技指導者として同伴し、撮影現場にも彼女は立ち会ったのです。



 これに対して、ローレンス・オリヴィエの方では、「演技とはある人物の外的な特質を集積して、その人物の人格を表現する入念な「技(テクニック)」にほかならな」いと考えていたようです(同)。



 つまり、「オリヴィエから見れば、「メソッド」なんてちゃんちゃらおかしい自己満足の方法にすぎなかった」わけで(P.240)、これでは撮影現場が混乱するのも当然でしょう(注12)。
 そこで、マリリンには、第3助監督のコリンが自分を助けてくれる“王子様”に見えたのかもしれません。
 また、本作のオリヴィエも、最後にラッシュを見ながら、「演技の勉強をしないでこれだけの演技をするのだから」と感嘆し、「だから不幸なのだ」と言う一方で、「彼女を変えようと試みた私が馬鹿だった」とも嘆きます。
 そして、オリヴィエは、映画監督に2度と携わることなく、演劇に専念するようになります。

 ところで、Wikipediaによれば、上記の「メソッド演技法」は、「アメリカ映画、演劇を担う演劇方法、理論としての役割を確立」する一方で、「イギリスの俳優陣」、すなわちローレンス・オリヴィエのみならず、ピーター・ユスティノフ、ヒュー・グラント、アンソニー・ホプキンスなども同演技法を批判しているようです。

 とすると、イギリス出身のサイモン・カーティス監督やイギリス出身の俳優ばかりの中で、アメリカ生まれのミシェル・ウィリアムズはどのように振る舞ったのでしょうか?
 劇場用パンフレットに掲載された彼女のインタビュー記事では、これまでの「31年間の経験をなんとか繋ぎ合わせて、自分なりの演技法というのを培ってきたのよ。だからそれをどんな手法と呼ぶのか分からないけど、俳優は自分に合ったものを見つけ出せばいいんじゃないかしら」などと述べていますが(注13)。
 そういえば、メリル・ストリープも、『マーガレット・サッチャー』の撮影においてミッシェル・ウィリアムズと同様の状況だったそうですが、彼女の演技法はどんなものなのでしょうか、興味のあるところです。

(3)渡まち子氏は、「ダンスシーンや「王子と踊り子」の演技などでは、マリリンそっくりの動きをみせはするが、ウィリアムズはあえてマリリンの“そっくりさん”になろうとせず、むしろ少女のように傷つきやすい繊細な内面からアプローチし、結果的に素晴らしいマリリンになった」として70点を付けています。
 また、前田有一氏も、「ミシェル・ウィリアムズが往年の大スター、マリリン・モンローを演じて高く評価されたこの映画は、しかしマリリン世代以外の若い人にとっても楽しめるユニークな恋愛ドラマである」などとして70点を付けています。





(注1)映画の原作本を翻訳した新潮文庫『マリリン・モンロー 7日間の恋』(務台夏子訳)に掲載されている亀井俊介氏の解説に従うと、映画『王子と踊り子』に関して、コリン・クラークは2冊の本を書いています。
 すなわち、一つが、1995年の『王子と踊り子と私』という日記(1956年6月3日~11月20日)ですが、「この日記は、9月9日から16日までの8日間が、何のことわりもなく欠落してい」て、その部分を埋めたのが二つ目の『マリリン・モンロー 7日間の恋』(2000年)とのこと(P.242)。
 そして、本作の脚本を書いたエイドリアン・ホッジスへのインタビュー記事も新潮文庫版に掲載されていて、「物語の背景、映画関係の多彩なエピソードは、『王子と踊り子と私』から採用しました。より深い部分、映画後半の核心を成す素材は、『マリリン・モンロー 7日間の恋』からもらっています。今度の映画はまさに、ふたつのアプローチをブレンドした作品なのです」と述べられています。

(注2)映画『脳内ニューヨーク』の序盤で、演出家ケイデン(フィリップ・シーモア・ホフマン)が手掛けたのがアーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』でした。

(注3)マリリンが、「私をスパイしてるの?」とか「あなたは誰の見方なの?」と言うと、コリンは、「まさか、あなたの味方です」と答えます。

(注4)本作によれば、コリンがマリリンを恋するようになったのは、当初は、見当たらなくなってしまった台本を探しに行ってマリリンの部屋に入った際に、彼女のヌードを目にしたのが直接的なきっかけとなっているように思われます。

(注5)息子の方のハンス・ホルバイン(1497年/98年 - 1543年)は、「大使たち」などの絵画で知られるところ、このサイトによれば、その「サー・ヘンリー・ギルフォード」(1527年)や「サー・トマス・モア」(1526年-1527年)がロンドン・ウィンザー城の「Royal Collection」所蔵とされています。
 また、同サイトによれば、同コレクションには、ダ・ヴィンチの「レダの頭部」(1504年-1506年)などの素描も含まれています。

(注6)コリンは、8歳で寮に入れられたとマリリンに説明します。

(注7)2人が全裸で泳ぐ場所は映画では「池」のように見えましたが、原作では「川」とされています。イートン校は、テムズ川を挟んでウィンザー城の対岸にありますから、二人が飛び込んだのはテムズ川なのでしょう。

(注8)シェイクスピアの戯曲自体にはそうした指示はされていませんが、演出家によっては、ロミオがバルコニーのジュリエットと抱き合う演出も見かけるようです(特に、バレエの場合は、2人が手を携えて踊るパ・ド・ドゥになるようです)。

(注9)マリリンは、母親の写真を見るコリンに対して、「そのあと精神病院に入った」と言い、もう一方の写真を指して「これがリンカーン、本当の父親は分からないから」と言います。
 また、マリリンは、「アーサーは、私のことについて、酷いことを書いていた。私を愛してくれる人は、皆あたしから去っていく。愛しているのはマリリン・モンローとしてだけ。実際のあたしがそれと違うと分かると、去って行ってしまう」などと言います。
 そして、2人は重なったスプーンのようになって眠ってしまいます〔原作小説の解説者の亀井俊介氏も、ここら辺りが「ある意味で本書の山場」だと述べています(P.243)〕。

(注10)マリリンは、アーサーが米国からロンドンに戻ってくると、コリンに「今回の仕事が終わったら、アーサーのいい奥さんになる。私のことは忘れて」と言い、コリンが「こんな狂った世界を捨てるんだ、僕があなたを守る」と言うと、マリリンは、「私と結婚?そんなことはできない、私はこれでハッピー」と答えるのです。
 そして、最後に、「皆さん、私を許して、私は病気なの、でも努力したの」と言って立ち去ります(本作の最後に、マリリンはもう一度コリンのところに現れて、「お別れを言いに来たの、私を忘れないで」と言い、去っていきます)。
 コリンは、再度ルーシーのところに戻って土曜日の予定を尋ねますが、彼女は「心が傷ついたの?いい薬ね」と言い放ちます。果たして二人のヨリは戻るのでしょうか?

(注11)シビル・ソーンダイクは、台詞の言えないマリリンに対して、自分の家にきて一緒に練習をと声をかけるものの、マリリンは忘れてしまいます。でも、それで気を悪くせずに、なにかとマリリンを元気づけたりします。

(注12)マリリンが、場面の状況が理解出来ずに台詞に詰まってしまうと、オリヴィエは、「分かった振りをすればいいのだ」と言い、ポーラも「別のことを考えてみたら」とアドバイスしますが、マリリンは、「そんなことをしたらエルシー(映画『王子と踊り子』のヒロイン)が嘘っぽくなってしまう」と反論し、オリヴィエは怒ってしまいます。

(注13)ミシェル・ウイリアムズのインタビュー記事によれば、撮影に入る前に、彼女は、マリリン・モンローに関する資料を「山ほど」目を通したようです。あるいは、こうしたところが「メソッド演技法」の一つのやり方なのかもしれません。
 ただ、同インタビュー記事の中で、「私とマリリンとの共通点といえば、きちんとした演技の勉強をしてこなかったというところにあると思う」と述べているくだりがあるのはどうしたことでしょう。マリリン・モンローが「メソッド演技法」を勉強したことはよく知られている事実にもかかわらず。




★★★☆☆


追記〕ちょうど本日(4月10日)発売された『文藝春秋』5月号に、「没後50年 発見 M・モンローの未公開メモ」と題した作家・井上篤夫氏のエッセイが掲載され、それによれば彼女は、『王子と踊り子』の撮影のためにロンドンに滞在しているときには、例えば次のようなメモを便箋に残しています。
 「愛する人が私の横で寝ている。/薄暗い光のなか―/男らしい顎が見える/ふと少年時代そのままの/口元に戻っている/そのやわらかさは、/さらにやわらかくなって/その感じやすさがおののいている/……」(P.293)
 ここで言う「愛する人」は夫アーサー・ミラーなのでしょうが、あるいはもしかしたらコリン・クラークなのかも?
 なお、このメモは、アメリカで出版された『Fragments: Poems, Intimate Notes, Letters』(2010/10/12)に掲載されています。






象のロケット:マリリン 7日間の恋
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処刑山 デッド・スノウ

2012年04月08日 | DVD
 ノルウェー映画をもう少し見ようと、TSUTAYAで『処刑山 デッド・スノウ』のDVDを借りてきました。
 前回取り上げた『トロール・ハンター』は103分の怪獣物でしたが、本作は90分弱のゾンビ映画(2010年に公開)です。

(1)物語は、医大の学生4人とそれぞれのガールフレンドが、真冬の山小屋で楽しく過ごしているところをナチスゾンビに襲撃されるというものです。

 冒頭は、山小屋でその他の仲間と落ち合うべく、先行して独りで山歩きをしていたサラが何者かに襲われるシーンです。
 ですが、何に襲われたのか判然としないうちに、画面は、車2台で山小屋に向かう残りの7人達の楽しい様子や、到着した山小屋の内や外で彼らがゲームにうち興じたりするシーンに切り替わります。
 そのうちに外が暗くなってきます。と外に誰かがいる模様。早速ゾンビの登場かと思いきや、中年過ぎの男がドアのところに立っています。
 若者達が彼を中に招じ入れてコーヒーを振る舞うと、このあたりのことについて話し出します。
 彼によれば、「近くのオクスフィヨルドは、ナチス艦隊の重要な軍港。だが、ハルツォク大佐が率いるアインザッツという部隊は、そこで悪の限りを尽くした。ドイツの敗色が濃くなると、彼らは付近の民家に侵入し、財産を奪ったり、抵抗する住民を射殺したりした。そこで、住民3,000人は武器を集めて決起して奇襲を掛けた。ただ、ハルツォク大佐以下300人がこの山に逃げ込み行方が分からなくなってしまった。このあたりで凍死したとされていて、注意しなくてはならない。彼らを起こしてはならない」とのこと。

 これを聞いて、サラの恋人のベガードは、未だ到着しないサラのことが気になって、翌朝スノーモービルで探しに出ます。途中、昨夜山小屋に現れた男が、簡易テントの中で首を切られて死んでいるのを発見し(注1)、そればかりか、雪で隠れていた洞窟に墜落してしまったところ、そこで彼が見たものは、……(注2)?

 他方、山小屋では、沢山の金貨などが入った小箱が見つけ出され、中の物から1942年製(ナチス時代!)だとわかります。
 すると、まずトイレに行ったクリスがやられ、また窓からは手が差し伸べられ女の子の髪の毛を摑んだりした挙げ句、医学生アーランドが外に引き摺り出されてしまいます。
 こうなると、山小屋に残るのは4人だけ。



 なんとか車の置いてあるところに戻って応援を頼まなければと、山小屋に残る組(マルティンロイ)と車を探しに出る組(ハナリブ)に分かれますが、サアどの後の展開はどうなることでしょう、……(注3)?

(2)こうした映画に一々突っ込みを入れても何の意味もありませんが、少々触れておきましょう。

イ)ホラー映画と銘打っていますが、ナチスゾンビの親玉のハルツォク大佐がゴム製仮面を被っている感じがするなど、総じてあまり怖さを感じません(元々、ナチス自体が怖い存在なのですし!)。

ロ)ゾンビ映画とされていますが、彼らがはっきりと画面に登場するのは、映画の3分の2が経過した辺りなのです(3分の1辺りのところでも現れますが、ごく一部にすぎません)。

ハ)主人公は、当初は、医学生のリーダー格のベガードではないかと思われるところ〔独りでスノーモービルを操作して、早めに山小屋に辿り着いたり(他の6人は徒歩で山を登ります)、サラを探しに行ったりします〕、どうやらそうでもなさそうなのです(注4)。

 なお、ベガードは、その前にゾンビに首を噛まれるものの、医学生だからでしょうか、自分で針を使いつつ縫って治してしまいます。
 他方、医学生のマルティンは、ゾンビに腕を噛まれると、「ゾンビに噛みつかれるとゾンビになる」といって、斧を使って自分の腕を切り落としてしまうのです。
 噛まれても、ゾンビになったりならなかったりするのかもしれませんが。

ニ)夜間山小屋にやってきた男は、ゾンビにナイフで首を切られて殺されますが、そんな武器をいくらでもゾンビは持っていながらも、山小屋の外で戦うマルティンとロイは、チェーンソーやハンマーなどといった武器しか手元にないにもかかわらず、かなりの数のゾンビをいとも簡単に倒してしまうのです。



 それより、バガードは、ゾンビに殺される前に、ナチス時代の機関銃を使ってゾンビをなぎ倒しもするのです!

ホ)始めの方では、ここら辺りは携帯の圏外だと言っていながら(車中で「30分前から圏外だ」などと話しています)、最後の方で、残ったマルティンが、携帯を取り出して誰かと連絡をとるも、電池切れで投げ出してしまうというシーンが設けられています(注5)。

(3)とはいえ、そんなくだくだしいことは考えたりせずに、この映画も頭から楽しめばいいのだと思います。ホラー映画としては秀逸のラストが設けられていることでもありますし(注5)。




(注1)この男は、山小屋にいる医学生達に注意を促しますが、自分は、極寒の中をなぜか簡易テントにいるのです。何故彼がそんなことをしているのか、そして下記「注6」に記す点も見当たらないのにどうして殺されてしまうのか、この映画の最大の謎ではないでしょうか?

(注2)ベガードは、墜落した洞窟の奥を探検するのですが、そこにはナチス時代の銃器が置かれていたり、最後にはサラの首まで並べられていたのです。

(注3)ハナは、ナチスゾンビに追いかけられ組み敷かれますが、そのゾンビが持っていた手榴弾で自爆したようです。その立ち上る煙を見ていたリブは更に走りますが、……。

(注4)というのも、ベガードは、途中の段階でナチスゾンビに手足をもぎ取られてしまい、画面から退場してしまいますから。
 最後まで残るのは、血を見るのが嫌いな医学生マルティンですから、やはり彼が主人公なのでしょう。

(注5)電話は通じたものの、状況を伝えてもいたずらと思われて、さらに説明しようとすると相手から切れれてしまい、もう一度かけ直そうとしたら電池切れになってしまいます。

(注6)どうやら、ナチスゾンビは、地元民から強奪した財宝に酷く執着しているようで、学生達が、それが入った小箱を床下の格納庫から取り出して、中の金貨などを掠め取ろうとしたがために、彼らを襲ったのだと考えられます。
 それに気づいたマルティネスは、焼けてしまった山小屋の残骸の中からその小箱を探し出してハルツォク大佐に返します。するとゾンビは姿を消してしまいます。
 そこでマルティネスは、ようやっとのことで車を探し当て、嬉しやと車のキーを回そうとしたところ、思いがけず、隠し持っていた金貨がこぼれ落ちてしまいます。マルティネスは「しまった!」と叫びますが、そこにはハルツォク大佐の姿が。



★★★☆☆



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トロール・ハンター

2012年04月07日 | 洋画(12年)
 『トロール・ハンター』をTOHOシネマズ日劇で見てきました。

(1)本作は、ネットで面白いと騒がれていて、また北欧5カ国の中ではこれまで見たことがなかったノルウェー映画ということでもあるので、レイトショーの1回上映(午後8時~)ながら映画館に足を運んだところです(前回のエントリの冒頭で申し上げた「ある映画」とはこの作品を指します)。
 全体がコミカルに作られていて、どこまでが真面目に作られた映画なのか判然としない問題があるとはいえ、それなりに面白い仕上がりになっています。
 何より、ノルウェーの景観の素晴らしさ(深いフィヨルド海岸、周りの山から流れ落ちる何本もの滝、美しく紅葉している木々、などなど)が次々に映し出されるので、本作もまた拾い物でした!

 映画は、ノルウェー民話でトロールといわれる巨大な怪物(注1)を巡ってのお話〔日本で言えば、例えば広島の「ヒバゴン」みたいなものでしょうか、あるいは映画『大日本人』に登場する大佐藤(注2)?〕。
 ハンストロール・ハンターであり、彼らがテリトリーを離れて人里に近づこうとするのを阻止すべく、彼らを倒すことが仕事。ノルウェー国中を傷だらけの4輪駆動車(後ろに寝泊まり用のトレーラーがついています)を使って走り回っています。
 そのハンスを後から追って行けばトロールに出会えてその映像をものすことができると踏んで、大学生3人〔レポーターのトマス、音響担当のヨハンナ、カメラマンのカッレ(注3)〕の撮影隊が彼の車を追尾します。



 果たして彼らはトロールに出会って撮影することに成功するでしょうか、……?

 ハンスは、当初は近づいてくる大学生を相手にしませんでしたが(むしろ追い払っていました)、途中から態度を急変させ、自分の指示に従うなら一緒に来てもいいと言いだします。
 ハンス自身の説明によると、彼はTSTという機関に所属しているが〔TSTはノルウェー語表記であり、英語ではTSS(Troll Security Service)〕、自分の他にハンターはいないとのこと(注4)。
 さらにハンスは、橋げたにえぐれた跡が残っていると、これはトロールが頭をぶつけたのだと解説し、木々が同一方向に倒れているところでも、地元民はハリケーンによるものだと言っているにもかかわらず(衛星写真にも竜巻が写っていたとのこと)、トロールの仕業とし、また送電線が大きな円周を描いている場所では、その中がトロールのテリトリーだとしたり(送電線が防護柵になっているらしい)、送電用の鉄塔が数百メートルにわたり倒れていると、トロ-ルの所業だと断定します。
 また、トロールが近くにいそうな地点に来ると、ハンスは、トロールに気付かれずに接近できるよう体臭を消すために、トロールの体液が凝固したものを体に塗りつけたりします。
 それに、トロールから採取した血液を、獣医師のもとに送りつけて分析をしてもらったりもします(注5)。

 ただ、こんな一々もっともらしい説明や動きをされると、観客の方では、却ってそこにいい加減さを感じとって、トロールといってもせいぜい熊の大きなものであり、もしかしたらヌイグルミ(あるいは、光学的な仕掛けで作り出されたもの)に過ぎないのではと警戒してしまいます(注6)。
 にもかかわらず、突然周囲の木々よりもはるかに大きいトロールのトッサーラッドが画面に現れ、トマスが噛みつかれたりするのを見ると、この映画の中ではリアルな怪物として描かれているらしいと思わざるを得なくなります。



 でも、ハンスにはどこまでも胡散臭さが付きまといますから、見ながら困惑してしまいます。いったい笑うべきなのか、恐ろしがるべきなのか。

 とはいえ、なんといってもハンスを演じる俳優オットー・イェスペルセンが秀逸です。ノルウェーで著名なコメディアンとのことですが、彼の話に真面目さが加われば加わるほど益々嘘っぽく感じられるのですから!




(2)本作は、2008年10月にある会社に届けられた283分のテープを編集して作られたものとされています。
 このように、素人がVTR機器を持って撮影した映像を編集して映画としたという設定の作品としては、『クローバーフィールド HAKAISHA』を見ましたが、このやり方の長所は、臨場感あふれる画像にすることができ、観客もリアルさを一層感じることができることでしょう。
 反対に欠点は、画面が落ち着かず、『クローバーフィールド』でさんざん言われたように観客の中には不快感を持ってしまうものも出てきてしまうこととか、撮影しているカメラマンは画面にときたましか登場しえないことでしょう。
 本作でも、ハンスを追いかける大学生達は3人なのですが、主に画面に現れるのはトマスとヨハンナの2人であって、途中、カメラマンのカッレがトロールにやられて別の女子学生に変わりますが、その経緯がよくわかりませんし、せっかくカメラマンがイスラム教徒の女子学生に変わったにもかかわらず、あまりその特徴が生かされていないようにも思われます(注7)。

(3) 北欧諸国とされるのは、アイスランド、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーと、フィンランドの5カ国。
 それぞれの国で制作される映画とクマネズミとのかかわりについては2010年2月7日のエントリの「注1」で触れているところ、最近作を中心に書き改めるとすれば次のようになります。
 スウェーデン映画……『ミレニアム』、
 デンマーク映画……『誰がため』、『光のほうへ』、『未来を生きる君たちへ』、
 フィンランド映画……『ヤコブへの手紙』。

 今回ノルウェー映画を見ましたから(注8)、残るはアイスランド映画ということになります。
 これだったら、裕木奈江が出演している『レイキャビク・ホエール・ウォッチング・マサカー』(2009年:日本では昨年6月に公開)を見ておけばよかったと思いますが、後の祭り。
(とはいえ、今や、俳優は様々な国の出身者が入り乱れて同一映画に出演しますし、資本関係も単一国出資よりも、複数国出資の方が多く見られますから、こうした国別にどのくらいの意味があるのか分かりませんが)

(4)渡まち子氏は、「つくづくマヌケな内容ながら、本気度全開のVFXは一見の価値がある。いやはや、ノルウェー映画界には面白い人たちがいるもんだ」として55点をつけています。



(注1)本作には、比較的小柄なマウンテンキング(ハンスと大学生達が逃げ込んだ洞窟に居住してます)、頭が3つあるトッサーラッド(ハンスの説明によれば、成長するに従って頭の数が増えるが、最初のだけが頭で目があり、他の二つは突起物に過ぎない)、リングルフィンチ(気性が荒く、ハンスは投げ飛ばされてしまう)、60mを超す巨大なヨットナール(背中が曲がっている)の4種類のトロールが登場します。
 また、ハンスの説明によれば、トロールの寿命は1000年から1200年で、知能は低く、肉食で何でも食べるようです。

(注2)「ヒバゴン」については、以前はその目撃談などが新聞に掲載されたりしましたがWikipediaによればそれも昭和49年秋頃までのようです。
 また、映画『大日本人』については、昨年6月22日のエントリの(2)で取り上げました。

(注3)「カッレ(Kalle)」と聞くと、『名探偵カッレくん』(岩波少年文庫)を思い出しますが、これはスウェーデンの作家トリッド・リンドグレーンの作品。あるいは、北欧諸国ではこの名前が多いのかもしれません。

(注4)ハンスの説明によると、政府はTSTを設けておきながらも、トロールの存在を国民から隠そうと努めているとのこと。トロールの痕跡が見つかると、その周りにわざわざ熊の大きな足跡をつけたりして、この付近では見かけない巨大なクマが紛れ込んでいる、などと発表したりします。
 そういった政府の姿勢に疑問を感じたために、大学生達のカメラを通じて皆に公表するのだとハンスは言います。
 なお、ハンスは、トロールを倒すと、車の中でそのトロールに関する報告書をTSTあてに書いたりします。

(注5)獣医師からは、赤血球が少ないとか、狂犬病にかかっているとかの報告が入ります。
 ハンスは、だからアチコチでトロールの行動がおかしくなっているのだとし、またトロールに噛まれたトマスは早いところ病院に行かざるを得なくなるのですが。

(注6)トマスにしても、ハンスがトロールをここにおびき出してくるといって一人で森の中に入って行った時には、「ドッキリかな?どこかで彼が笑っているかも」とかなり訝しんでましたから。

(注7)本作においては、なぜかトロールはキリスト教徒を襲うとされていて、カッレもそのために襲わたようです。とすると、今度のイスラム教徒の女子学生はどうなるのでしょう(ハンスは、「わからん、一か八かだ」と叫びます)?

(注8)冒頭で申しあげたように、ノルウェー映画はこれまで一つも見たことがなかったので、これを契機にと思ってTSUTAYAで探すと、『処刑山 デッドスノウ』(2009年:日本では一昨年2月に公開)が置いてありました。苦手とするホラー物なため躊躇したものの、とりあえず見てみましたので、次回のエントリにその簡単なレビューを掲載することといたしましょう。




★★★☆☆




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海燕ホテル・ブルー

2012年04月05日 | 邦画(12年)
 『海燕ホテル・ブルー』をテアトル新宿で見てきました。

(1)実は、ある映画の上映時間が遅いため、その前に何かを見てやり過ごそうと思ったところ、本作が丁度いい具合に見つかったわけです。
 ただ、空き時間の穴埋めとはいえ、本作は拾い物でした。ナント、監督は『実録・連合赤軍』や『キャタピラー』の若松孝二氏。今年75歳ながらも相変わらず精力的で、船戸与一氏の原作に基づきつつ彼らしい映画を作り上げていて、かなり面白い作品に仕上がっています。

 物語の舞台は、伊豆大島らしき島の海岸縁に一つだけ建つ海燕ホテル。そのホテルのバーの名前がブルーというわけです。
 幸男地曵豪)は、現金輸送車強奪に失敗し捕らえられて懲役7年の刑を受けます。刑期を務めあげ出所した後、その計画を立案したにもかかわらず当日姿を見せなかった洋次廣末哲万)に恨みを晴らすべく、幸男は、彼が営んでいる海燕ホテルのバー・ブルーに現れます。



 幸男が、なぜ当日来なかったのか理由を質すと、洋次は「失敗したら女を失うと考えたら怖くなって」と答えますが、なるほどバーには女が一人、黙ってタバコを吸いながら腰掛けています。



 その後揉め事があって、幸男は洋次を殺してしまい、結局このバーやその女・梨花片山瞳)を引き継ぐことになりますが、そんなところに、刑務所で同じ房にいた正和井浦新)が出所し、幸男の後を追って海燕ホテルに現れます。
 正和は、その後の状況を説明し、刑務所で計画したヤマを二人で実行しようと幸男に迫りますが、……。

 本作は、一人の女・梨花を巡る3人の男の話ともいえ、この女が鍵となりますが、若松監督が「風景に負けない」と言っただけあって(注1)、扮する片山瞳はとても魅力的にこの役を演じています〔と言っても、台詞は、ラスト近く「愚かな人たち!」のみ:彼女は、『探偵はBARにいる』などに出演したらしいのですが、印象に残っていません。次の出演作の『千年の愉楽』が期待されます〕。



 あるいは、この梨花は、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)や、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年)で描かれるような男を惹きつけて離さない女の列に連なるのかもしれません。そう思ってみると、片山瞳は、『雨月物語』の京マチ子や『砂の女』の岸田今日子に似て、下唇が厚い官能的な女優といえるでしょう。

 なお、幸男に扮する地曵豪は、『実録・連合赤軍』で森恒夫役を演じ、また正和役の井浦新は『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の主演ですし、『キャタピラー』で久蔵を演じた大西信満も本作で警官に扮しています(注2)。
 そして、片山瞳が、仮に京マチ子や岸田今日子に連なるとしたら、地曵豪らは、森雅之岡田英次に連なるといえるのでしょうか(注3)?

(2)こうした映画を何故今頃制作したのかなかなかうまく理解出来ませんが、あるいは6月に公開される若松監督の『11・25自決の日』の単なる前宣伝かもしれません。
 ただ、『実録・連合赤軍』や『キャタピラー』、そして『11・25自決の日』が若松監督の昭和三部作といわれているところからすれば、無尽蔵とも言いうる監督のエネルギーをも消尽させたに違いない作品群を取り終えたあとの(注4)、幾分解放された気持ちから生まれ落ちた作品なのかもしれません。
 公式ガイドブック(遊学社)掲載の巻頭対談(対談相手は原作者の船戸与一氏)で、若松孝二監督は、「これは、60年代の自分のやり方に戻って、むちゃくちゃに撮ってみようと思ったんだよね」などと述べています。
 確かに、本作で大島の砂漠を女が裸で走り回ったりするシーンを見ると、大昔アングラで上映されていた作品を思い出してしまいます〔1969年の『処女ゲバゲバ』(注5):その後、VTRを見たにすぎませんが〕。

 ですが、本作をそんな懐古趣味の作品とばかり規定してしまうわけにもいかないでしょう。
 というのも、本作においては、海燕ホテルの常連客の一人(岡部尚)が、「お前らこんなところで酒飲んでる場合か!今の原子力発電所の問題をどう考えているんだ!……原発事故はなあ、俺たちの飽くなき欲望の象徴だ!」などと叫ぶのですから。
 こうしたところに立って本作を振り返ってみると、あるいは梨花は「原子力平和利用」の象徴とも見なせて(注6)、幸男ら関係する男は皆、その圧倒的な魅力に取り憑かれるものの、結局は自分らが制御しうる物とならずに死に至ってしまい、梨花(→原子力)も元の場所(自然でしょうか)に戻ってしまう、というように解釈出来るかもしれません(誠に陳腐な解釈に過ぎませんが!)。
 ちなみに、本作のラストシーンには観音像が現れ、梨花がその中にスーッと入っていきますが、これは若松監督の『聖母観音大菩薩』(1977年)を想起させるところ、公式ガイドブック掲載の対談によれば、同作においては敦賀原発反対運動が描かれてもいるようです(残念ながら未見です)。

 それに、こうしたシチュエーションはどこかで見たなと思い返すと、最近の伊勢谷友介監督『セイジ 陸の魚』でも、湖の畔にポツンと建つドライブ・インには、雇われ店長のセイジ(西島秀俊)やオーナーの翔子(裕木奈江)がおり、いつも常連客がたむろし、そこに“僕”(森山未來)が訪れるわけで、海岸縁に一つだけ建っている小さな建物の海燕ホテルを巡る本作の状況(洋次と梨花のいる同ホテルを幸男らがやってくる)にあるいは類似するといえるかもしれません(注7)。
 本作は、若松監督の昔の作品に通じている点はいくらもあるにしても、それを打破する視点とか他の監督の作品にも開かれている点があって、やはり現時点の作品ではないかと思われるところです。





(注1)公式ガイドブック掲載の撮影日記によります。
なお、そこにはさらに、「夢とも現実ともはっきりしない世界で、男たちを破滅の道へいざない続ける謎の女」で、「広がる黒い砂漠、噴煙たちこめる岩石の荒野、荒波が打ち寄せる灰色の砂浜。そんな風景に負けない存在が欲しい」とあり、片山瞳はオーディションによって選ばれたとのこと。

(注2)警官は、洋次や常連客の一人の姿が見えなくなったことを調べにバー・ブルーに現れますが、彼もまた梨花の魅力に目が眩んでしまい、結局は幸男や正和と一緒に死ぬ羽目に陥ります。

(注3)最近刊行された苅部直著『安部公房の都市』(講談社、2012.2)では、その第11章で安部公房原作の『砂の女』が取り上げられ、苅部直氏は、主人公の男について、作家の大江健三郎氏が「男の戦いをともに戦うことで、われわれは、われわれの生活を閉ざしている絶望的な困難との戦い方を見出す」と述べていることを引用しつつ、「読者もまた周囲の現実にある「灰色」の壁のありかを見さだめ、みずからの努力の向かう先を確認することができる」と述べています(P.206)。

(注4)公式ガイドブック掲載の撮影日記によれば、完成された台本が出来上がっていないにもかかわらず、昨年2月上旬に2日ばかり冒頭部分などの撮影が行われた後、『11・25自決の日』の撮影に入り、それが終了した5月中旬から、再び本作に取りかかるという日程の混み具合だったそうです(中の1日は、『11・25自決の日』の冒頭シーンの撮影に使われたとのこと)。
 なお、本作の後は、本年秋の公開が予定されている『千年の愉楽』に取りかかるとのこと。

(注5)『処女ゲバゲバ』に関しては、四方田犬彦・平沢剛編『若松孝二 反権力の肖像』(作品社、2007年)に掲載された四方田犬彦氏の論考「監禁と逃走」に、「無際限の解放空間であるべき荒野こそが、実はあらゆる逃走の可能性を摘み取ってしまう密室であるという巨大な矛盾を提示し、いかなる自由の獲得も無邪気な幻想にすぎないことを告げる。……あらゆる逃走は虚妄であり、その場に踏みとどまることでしか真の解放は獲得されないというモラルが、こうして提示されることになる」と述べられています(P.31)。
 本作の場合、海燕ホテルから抜け出て砂漠を走り出した梨花を正和が追っていくと、警官と幸男に遭遇し、結局は3人とも死ぬことになりますが、四方田氏のような観点から見てみると、密室とみなせるホテルから自由な空間であるべき砂漠に走り出ても、結局はそこに絡め取られてしまった様を描いている、といえるかもしれません。

(注6)大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ―3.11後の哲学』(岩波新書、2012.3)によれば、反原発の論陣を張る作家の大江健三郎氏も、1980年の著書においては、「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。このエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて反対したいとは決して思わない」と述べているようです(P.78)。

(注7)尤も、類似するのは状況だけで、その後の展開は両作で相当異なっていますが。




★★★☆☆




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僕達急行

2012年04月03日 | 邦画(12年)
 『僕達急行 A列車で行こう』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)この映画は、見終わった後の観客の気分をできるだけ楽しくしようと意図したものでしょう、すべてのことがうまくいくように筋立てされています。 
 登場人物の名前の付け方から始まって(注1)、彼らが抱える問題の解決の仕方に至るまで(その上、その将来まで)、ご都合主義の極地ともいえるのではないでしょうか(注2)?
 でもそんなことを論っても、森田芳光監督がそんなことはわかり切った上で映画を作っているのでしょうから意味がありません。あとはその流れに乗って、沢山登場する電車の走る姿を楽しめばいいのではないか、と思いました。

 主人公の小町松山ケンイチ)と小玉瑛太)にしても、一人の鉄道ファンを賑やかしのために二人に分割した感じであり、色々な鉄道を描き出すための狂言回しにすぎないようにも思えました。



 あるいは、瑛太については『まほろ駅前多田便利軒』における松田龍平とのコンビ、松山ケンイチについては『マイ・バック・ページ』での妻夫木聡との組合せがクマネズミには思い浮かびます。
 ただ、それらのものとは今回の二人組はテイストが随分違っているように思われます。
 というのも、2人は就いている職業こそ違え(小町は不動産会社の社員で、小玉は鉄工所の二代目)、鉄道マニアという趣味が一致していて、顔を向ける方向がほぼ同一なのです。
 ところが、行天晴彦(松田龍平)にしても沢田(妻夫木聡)にしても、多田啓介(瑛太)や梅山(松山ケンイチ)とは反対方向を向いている感じなのですから(といっても、通底するものがあるからこそ近づくわけですが)。

 また、2人の台詞の言い方が、あまりリアルでなくゆっくりとはっきりしているところは、なんだか小津安次郎の映画(例えば、『東京物語』における笠智衆と東山千栄子の喋り方)を見ているような感じにも囚われました。

 森田芳光監督は、残念ながら昨年末に亡くなりましたが、『家族ゲーム』のときから、最近の『わたし出すわ』とか『武士の家計簿』までそこそこ見ていますから〔なぜか松田優作主演の『それから』(1985年)が印象に残ります〕、とても残念に思いました。

(2)肝心の鉄道の方ですが、九州地方の列車や駅などはクマネズミにはよくわからないものの、関東地方、特に東京西部方面のものは大体わかりますから、そんなことを手がかりに楽しめました。

 とにもかくにも、一つでも知った車両が登場すれば楽しくなります。
 クマネズミにとっては、通勤に使っている京王井の頭線(渋谷-吉祥寺:総延長12.7km、所要時間は急行で約17分)。
 残念ながら、走っている姿は、時折利用する京王線(新宿-京王八王子)しか映画に登場しないものの、京王井の頭線の電車については、映画の中で小玉が、「800形なんかは各駅の短い距離に対応するため、加減速力を重視してギヤ比が高くなっているんだ」というと(注3)、小町が、「金沢に行った時なんか、浅野川線で井の頭線が走っていたから、びっくりしたんだ」(注4)、「浅野川線は、駅間の距離が短いから、おなじようにそのニーズだった井の頭線がぴったりだったんだね」と応じます(注5)。


(浅野川線で走る3000系の電車)

 ここでいう「ギア比」とは「歯車比」のことでしょうから、Wikipediaで該当する項を見てみると、次のように記載されています。
 「鉄道車両においては主電動機側の小歯車(歯車数A)と被駆動大歯車(歯車数B)の歯車比 (=B/A) を表す。この場合、歯車比が小さいと車輪の回転数が大きくなり、低速性能(加減速)は低いが、高速性能(最高速度や高速域での加減速)は高くなる。このため、特急形電車や新幹線車両などはこれに値する。逆に歯車比が大きいと車輪の回転力が大きくなり、低速性能は高いが、高速性能は低くなる。特に通勤形電車はこれに値する」。

 これからすると、「駅間の距離」もさることながら(注6)、必要とされる車両が「特急形」なのか「通勤形」なのかが問題ということではないかと思われます(どちらにしても同じなのかもしれませんが)。
 京王井の頭線の場合、永福町駅から久我山駅までの下り(4km強)を、急行電車の場合ノンストップでかなり高速(90km/hとのこと)で走っていますが、やはり「通勤形」車両で対応しているのでしょう。

 さらに映画では、筑後社長(ピエール瀧)の鉄道模型のジオラマが映し出されます。



 これを見ると、2月のNHKTVの「ブラタモリ」で取り上げられた国分寺の店「しげまつ」を思い出します(注7)。
 というのも、そのお店は、「和菓子と鉄道模型というフシギな取り合わせのお店」で、「鉄道好きの和菓子職人であるご主人の趣味が高じて、鉄道模型のお店も開くことに」なったとの話です。
 番組で見ると、お店の真ん中が仕切られていて、左側が和菓子屋で奥さんが店に立ち、右側で鉄道模型を取り扱っています。そして、その地下にジオラマが置かれているという次第(一般には公開していないとのこと)。
 鉄道模型愛好家はこんなジオラマに憧れるでしょうが、問題はそれを設置する場所。普通の広さのマンションなどでは、いくら家人の了解があってもとても無理でしょう。でも、こうして地下室を設け、そこにジオラマを展開できれば、誰に気兼ねすることもなく自分の世界に浸れることと思います(羨ましい!)。

(3)前田有一氏は、「楽しめる趣味こそが幸せを呼び込む──いくら仕事をしても生活が上向かないこの時代にとって「僕達急行 A列車で行こう」が語るそうしたテーマは耳に心地よい。万能薬ではないにしても、生きるのが大変な現代に対する、これが一つの回答であることは確かだろう」として65点をつけています。
 渡まち子氏も、「登場人物の名前がすべて特急の名前だったり、九州ロケの美しい風景、軽やかな会話や心地よい効果音など、すべてが旅情を喚起させて楽しい。主演の松山ケンイチ、瑛太をはじめ、出演者は皆、好演。森田監督の早すぎた遺作が、さらりとした幸福感に満ちた佳作だったことが何より嬉しい」として65点をつけています。




(注1)映画の副題に「A列車で行こう」とあり、これはてっきりジャズの名曲に拠っているものとばかりおもっていたところ(2004年の『スウィングガールズ』でおなじみ!)、2011年秋より、JR九州が熊本駅-三角駅間にて運行している特急列車の名称とのこと〔Wikipedia:この場合、Aは、大人 (Adult) や天草 (Amakusa) の頭文字から取られたようです〕。
 それが分かっている人には、タイトルを見ただけで、九州を巡るストーリーだなと分かることでしょう!
 九州新幹線を描いた是枝裕和監督の『奇跡』といい、鉄道は九州なのでしょうか(ちなみに、こんな新聞記事が3月中旬に掲載されていました。)?

(注2)たとえば、ずっと小町につきまとっていたあずさ貫地谷しほり)を画面から退場させるべく、彼女が結婚相手として連れてきた男性はボブスレー選手だという外国人青年のサンダーバード・ジュニア。これは、ひとえに列車「雷鳥」を映画に登場させるための前フリなのではないでしょうか?

(注3)Wikipediaの記載によれば、京急800形電車の場合、歯車比は6.07で、特急形や急行形の電車に比べて高くなっています〔ちなみに、新幹線N700系電車の歯車比は2.79、小田急の特急「ベイリゾート」の歯車比は4.16〕。

(注4)北陸鉄道浅野川線は、石川県の北鉄金沢駅と内灘駅を結ぶ、総延長6.8kmの鉄道(所要時間14分)。
 なお、Wikipediaの記載によれば、一部区間の地下化に伴い車両を不燃化するため、井の頭線の3000系の電車を導入したとされています(井の頭線では、昨年末からすべて1000系となっています)。

 ちなみに、3000系の歯車比は6.07(1000系の歯車比は7.07で、特急形や急行形に比べて高くなっています。

(注5)以上は、雑誌『シナリオ』4月号掲載の森田芳光監督の手になるシナリオによります(P.28)。
 なお、ここらあたりは、『Railways 愛を伝えられない大人たちへ』で、富山地方鉄道を走る西武鉄道の特急電車レッドアロー号を見たことを思い起こさせます(ちなみに、レッドアロー号の歯車比は5.73)。

(注6)駅間の平均距離を計算してみると、浅野川線は0.62kmで、京王井の頭線の0.79kmに近く、小田急小田原線の1.79kmとはかなり相違していることが分かります。

(注7)タモリの鉄道好きはよく知られているところ、先般惜しまれて亡くなった原田芳雄氏も鉄道好きで、彼らが『タモリ倶楽部』で愉快そうに話していた放送を思い出します(このことは、『ウルトラミラクルラブストーリー』を取り上げた記事の冒頭で触れています)。




★★★☆☆




象のロケット:僕達急行
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