映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

マダム・フローレンス!夢見るふたり

2016年12月16日 | 洋画(16年)
 『マダム・フローレンス!夢見るふたり』を吉祥寺プラザで見ました。

(1)メリル・ストリープの主演作というので、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭は、「based on true stories」の字幕が出て、1944年のニューヨーク。
 シンクレアヒュー・グラント)が、舞台の幕の前でハムレットの一節(注2)を朗唱した後、皆の拍手に対して、「ありがとうございます」、「次は、1850年のアラバマ州に遡りましょう」、「偉大な作曲家フォスターは、スランプでどん底状態にあります」と言います。
 幕が引き上げられた舞台(背景として木々の茂る邸宅が描かれています)の上では、憔悴したフォスターがピアノを前に座っています。
 そこに、舞台の上方から宙吊りの天使〔実は、フローレンスメリル・ストリープ)〕が舞い降りてきてフォスターの頭を撫でます。
 すると、ひらめきを得たフォスターは「Oh! Susanna」を演奏し出し、幕が下ります。

 楽屋では、フローレンスが「霊感を吹き込むような演技ではなかった」と言うと、シンクレアは「いや、素晴らしかった」と応じます。

 次いで、舞台の上でシンクレアが「今夜のフィナーレです」、「ヴェルディ・クラブ(注3)がおくるワルキューレの騎行です」と言うと、舞台の前のオーケストラがワーグナーの音楽を演奏し、幕が上がると、岩山を背景に槍を持つフローレンスを中心にしてワルキューレたちの姿が浮かび上がります。

 舞台が終わってパーテーが催され、フローレンスには記念品として時計が手渡されます。
 フローレンスは、「皆さんに感謝します。このクラブを作った時は、こうなるとは思いませんでした。25年間支えてくれた夫のおかげです。音楽は私の人生そのものです。今は世界大戦の最中、こうしたことが今まで以上に重要になっています。ニューヨークの音楽活動をこれからも支援いたします」と挨拶します。

 住まいにしている高級ホテルの部屋に戻って、フローレンスはベッドに横になります。
 シンクレアが「おやすみ」と言って、シェイクスピアのソネット(注4)の一部を朗唱すると、フローレンスは眠りに落ちます。
 シンクレアは、フローレンスの頭からかつらを外し、坊主頭にナイトキャップをかぶせ、脈拍を測りノートに記入すると、キスをして部屋から出ていきます。

 シンクレアはホテルを出て外を歩いて、自分の家に戻ります。
 家に着くと、愛人のキャサリンレベッカ・ファーガソン)が「お帰りなさい」と出迎え、彼女が「フローレンスは?」と尋ねると、シンクレアは「上々だ」と答えます。

 こんなところが本作の始まりですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は実話に基づいているとされ、類稀なる音痴の富豪の女性と、彼女をマネージャーとして支え続けた夫(事実上の)の姿を描き出します。なにしろ、最後にはあのカーネギーホールを観客で一杯にしてリサイタルを開催してしまうのですから、主人公の情熱はものすごいものがあると同時に、夫の献身ぶりも並大抵のものではなく、さらにまた専属の伴奏者の協力ぶりも特筆モノで、本作では、それらがなかなか巧みに描かれていて、まずまずの出来栄えでした。

(2)クマネズミは、本作を見るまでは、主役のフローレンスについて何の情報も持っておらず(注5)、とりわけ、カーネギーホールでリサイタルをやり、さらには「今もカーネギーホールのアーカイブの1番人気」であり、「アルバムは、デヴィッド・ボウイの“生涯愛した名盤”(注6)」となっていること(注7)など全然知りませんでした。
 それで、本作でフローレンスがものすごい調子で歌を歌いだすと、おかしいことはおかしいものの、本当に笑っていいものかどうか気になってしまい、かなり違和感を覚えてしまいました。
 音痴の人が一生懸命になって歌うのを笑ってはいけないと、言われてきましたし、特に彼女のように酷い音痴は、本人にどうすることもできないのでしょうから(注8)。 
 それに、この映画を見ている観客のクマネズミだって、陰で何を言われているかわからないのですから!
 
 といっても、フローレンスを見事に演じるメリル・ストリープには驚いてしまいます。



 なにしろ、『イントゥ・ザ・ウッズ』や『マンマ・ミーア!』とかで、圧倒的な歌唱力を見せつけているのですから(注9)。そして、その彼女が本作では実に無様な歌い方をするのですから(彼女が歌うモーツアルトの「夜の女王」の歌は、とてもその歌だとはわからないくらいです)!

 また、本作は、むしろ、事実上の夫であるシンクレアの献身的な努力がきめ細かく描かれており、それで見る方も何とかバランスがとれる感じです。



 シンクレアは、フローレンスが亡くなるまで35年間も事実婚状態でありながら、他方でキャサリンとの生活も営んでいました。
 こうしたところから、シンクレアは、フローレンスの財力を目当てに離れずにいたのだとも考えられます。でも、例えば、キャサリンから「そんなことをしたらお別れよ」と厳しく言われても、シンクレアは、フローレンスの歌を馬鹿にする若者に注意しに行くのですから、決してそうとばかりも言えないでしょう。
 むしろ、こうした場面を見ると、シンクレアはフローレンスをこよなく愛していたとも考えられるところです(注10)。それでも、シンクレアは、キャサリンも愛していて、キャサリンの不満が募ってくると(注11)、例えば、忙しいさなかに泊りがけでゴルフ旅行に行ったりします。
 常識的には理解するのがなかなか難しい人物であり、下手をすると悪者に見えかねない役柄を演じるヒュー・グラントは、むしろ愛すべき人間に見えるよう巧みな演技を披露します。

 更に、本作に欠かせないのは、フローレンスが歌う歌を伴奏するピアニストのコズメ・マクムーンでしょう。



 彼は、当初は伴奏を嫌がっていましたが(注12)、シンクレアの説得によって踏み止まります。
 それでも、フローレンスが狭いサークルで歌っている分にはかまわないにせよ、カーネギーホールという一般客が大勢入る著名な場所でフローレンスの伴奏をすれば、自分のキャリアに傷がつきかねません。ですが、最後には彼女の伴奏を進んで引き受けるのです。
 それを演じるサイモン・ヘルバーグも、映画では自分で演奏しているようで、なかなか頑張っています。

(3)渡まち子氏は、「劇中の登場人物がいつのまにかフローレンスを愛してしまったように、観客もまた、この奇妙な歌姫に魅了されるはずだ」として80点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「音楽家の夢の殿堂、ニューヨークのカーネギーホールでコンサートを開く夢に向かって突き進んだ超絶オンチ歌姫、フローレンス・フォスター・ジェンキンス(1868~1944年)の奔放な世界を覗き見る」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「山場を活(い)かすように、カメラも音楽も最初は控えめ、それが山場になるとケレン味たっぷりの映画づくり。おかげで薄手の人情話で終わるはずの映画に思いがけない奥行きが出ました。やっぱり映画は観ないと分かりませんね」と述べています。



(注1)監督は、『あなたを抱きしめる日まで』のスティーヴン・フリアーズ
 脚本はニコラス・マーティン
 原題は『FLORENCE FOSTER JENKINS』。

 なお、出演者の内、最近では、メリル・ストリープは『イントゥ・ザ・ウッズ』、ヒュー・グラントは『噂のモーガン夫妻』で、それぞれ見ました。

(注2)「Swounds I should take it, for it cannot be but I am pigeon-livered and lack gall to make oppression bitter」〔このサイトの訳によれば、「畜生、おれはその通りだ。 おれは鳩のようにおとなしく、抑圧を跳ね返すだけの意地がない」云々(第2幕第2場604行目以降)〕。

(注3)このサイトの記事によれば、ヴェルディ・クラブは、1917年にフローレンスが設立したもので、400人を超える会員がいたとのこと。
 なお、同記事には、本作に登場する人物の顔写真が、それを演じる俳優の顔写真と対比して掲載されています。

(注4)「Let me not to the marriage of true minds Admit impediments. Love is not love」(ソネット116:このソネットについては、このサイトの記事をご覧ください)。

(注5)本作の主人公をモデルにして作られたフランス映画『偉大なるマルグリット』も見てはおりません。

(注6)この記事に、デヴィッド・ボウイの「お気に入りのアルバム 25選」が掲載されており、その一番末尾に「THE GLORY (????) OF THE HUMAN VOICE / FLORENCE FOSTER JENKINS (1962, RCA)」が記載されています(収録曲はこちら。声はこちらで聴くことができます)。

(注7)劇場用パンフレットの「INTRODUCTION」より。

(注8)Wikipediaのこの記事には、「彼女の演奏したレコードを聴くと、ジェンキンスは音程とリズムに関する感性がほとんどなく、極めて限られた声域しか持たず、一音たりとも持続的に発声できないこと、伴奏者が彼女の歌うテンポの変化と拍節の間違いを補って追随しているのがわかる」とあります。
 本作によれば、フローレンスは、メトロポリタン歌劇場の副指揮者・カルロデイビット・ハイ)のレッスンを受けたりしますが、音痴のままです。

(注9)前者については、例えばこちらをご覧ください。

(注10)フローレンスは勿論シンクレアが大好きだったでしょう。ある時、フローレンスはシンクレアに、「あなたの子供が欲しかった」と言うくらいです。
 おそらく、フローレンスは、前の夫から梅毒をうつされ(17歳の時)、生涯それで苦しみましたから(本作に登場する医師は、「梅毒で50年生き続けたのは初めてだ」と言います。また、フローレンスが実際には坊主頭なのも、治療薬の副作用によるものでしょう)、シンクレアとは夜の営みができなかったのでしょう。

(注11)ある時、突然、フローレンスがシンクレアの家にやってきたことがありました。キャサリンは姿を隠さねばならず、「自分の家なのに、どうして隠れなくてはいけないの?こんな生活に耐えられない」とシンクレアを責めます。

(注12)マクムーンはシンクレアに、「奥様は音程が外れています。何しろ、声帯が普通じゃありません」と言いますが、報酬のこともあり(フローレンスが「150ドル以上は支払えない」と言うと、マクムーンは「月にですか?」と訊き直し、彼女は「週よ」と付け加えます)、結局は引き受けることになります。



★★★☆☆☆



象のロケット:マダム・フローレンス!夢見るふたり

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ブルーに生まれついて

2016年12月13日 | 洋画(16年)
 『ブルーに生まれついて』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)予告編で見て興味を惹かれたので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、画面の真ん中にトランペットが大写し。
 「1966年、イタリアのルッカ」の字幕。
 男が床に倒れていて、その前にあるトランペットを見ます。
 すると、その中から大きなクモが現れます。
 倒れている男〔チェット・ベイカーイーサン・ホーク)〕は、トランペットに手を伸ばします。
 実は、そこは刑務所の中で(注2)、看守が「ハリウッドからのお客さんだよ」と言って、映画プロデュサー(movie director)を連れてきます。

 次の場面では、「1954年 ニューヨーク市 バードランド(注3)」の字幕。
 チェットがファンの女性たちに囲まれてサインを求められ、「俺とマイルス・デイヴィスとどっちが好きだ?」などと言っています。
 楽屋から客席を見ると、マイルス・デイヴィスケダール・ブラウン)らが来ています。
 そして、司会が、「カリフォルニアからやってきたジャズ界のジェームス・ディーン、クールのプリンス」などと紹介すると、サングラスを付けたチェットが、彼のクワルテットとともに舞台に立ち、演奏を始めます。



 演奏し終わると、観客から、「良いぞ」の声がかかり、チェットも「ありがとう、愛している」と答えます。
 続いて、マイルス・デイヴィスやディジー・ガレスピーケヴィン・ハンチャード)が演奏し、それをチェットは席に座って聴きますが、しばらくすると、隣りに座った黒人の女とホテルの部屋に戻ります。
 その女は、「まだやったことがないなんて信じられない。随分と真面目ね」と言いながら、麻薬を溶かし始め、それをチェットに注射をします。

 そこへチェットの妻・イレーネカルメン・イジョゴ)が戻ってきます。
 彼女は、「こうなるとわかってた。全部持って出ていって」と言います。
 ふと机の上を見ると、注射器があります。
 彼女が「それは何なの?マイルスのせい?」と言いますが、彼女の膝にしがみついているチェットは、「こうすると、ママの膝に戻ったみたいだ」と答えます。

 次のシーンには、「1966年 ロサンゼルス」の字幕が。
 そして、さっきの1954年の場面は、チェットの自伝映画の撮影風景であることがわかります。
 カチンコが映り、チェットとイレーネ役の女優ジェーンが楽しそうに談笑し、監督も「アドリブは歓迎だ」などと言い、スタッフが出入りします。



 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、実在のジャズ・トランペット奏者のチェット・ベイカーの一時期を取り上げて劇映画として描き出したものです。彼は、大きな人気を勝ち得た時に、ドラッグが原因で前歯を折られて、演奏活動を続けられなくなりますが、必死に頑張って再度舞台に立つことができたものの、ドラッグからはついに逃れられませんでした。これが、彼を支え続けた女性とのラブストーリーの中で描かれていて、実に感動的な作品に仕上がっています。

(2)本作は、実在したチェット・ベイカーを描いている作品ながらも、フィクション的なシーンがかなり作り込まれており、むしろ劇映画としてみた方が面白いのではと思いました(注4)。
 例えば、上記(1)で紹介したように、本作の始めでは、1954年の出来事が映画の撮影ということで描かれていますが、実際にはそうした映画は製作されませんでした(注5)。
 なにより、本作で重要な役割を果たす女優のジェーンも実在しません(注6)。



 もとより、ある人物の伝記を映画化するといっても、ドキュメンタリーではなく俳優が演じる場合には、フィクションの部分がかなりの程度盛り込まれてしまうのは当然でしょう(注7)。
 あるいは程度の問題かもしれません。
 でも、ジャズに全くの素人のクマネズミにしてみれば、本作がチェット・ベイカーや彼を取り巻く人々を精確に描いていようがいまいが、物語として面白ければ何の問題もないと思えてしまいます。
 その上で、本作におけるチェットとジェーンとのラブストーリーは、なかなか良くできているのではと思いました(注8)。
 特に、最後の方で、オクラホマにいるチェットが、バードランドの舞台に再度立つためにニューヨークに行くという肝心な時に、ジェーンは自分にも重要な舞台のオーディションがあるから一緒に行けないと言って、二人の間に亀裂が入ってしまうのですが、バードランドでチェットが演奏し始めると、そのクラブにジェーンが現れるのです。この場面にはとても感動しました(注9)。

 それに本作では、主演のイーサン・ホーク自身が歌う「My Funny Valentine」とか「I’ve Never Been in Love Before」(注10)、あるいは「レッツ・ゲット・ロスト」(注11)、「虹の彼方に」(注12)、「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」(注13)など数々の名曲が登場するのですから堪えられません(注14)。

 間もなく公開される『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』も是非見たいと思っています。

(3)森直人氏は、「いわゆる伝記映画というより、ファンによる全力のトリビュート(称賛を込めた贈り物)と受け取るべきか」と述べています。
 小島一宏氏は、「全編を彩るジャズサウンドの心地よさ。映像の色彩や照明が醸し出すムード。そして、瞬きを忘れるほどの上質なシーンの数々に魅せられる」と述べています。



(注1)監督‥脚本はロバート・バドロー。
 原題は『Born to Be Blue』。

 なお、出演者の内、最近では、イーサン・ホークは、『6才のボクが、大人になるまで。』で見ました。

(注2)チェットは、公演先のイタリアにおいてドラッグで逮捕され、有罪判決を受けて投獄されています。

(注3)往年の名ジャズクラブ(この記事をご覧ください)。

(注4)公式サイトの「イントロダクション」には、「本作は一人の天才ミュージシャンの転落と苦悩を描くとともに、ある一人の女性との出会いによって再生する姿を描いたラブストーリー」とあります。

(注5)劇場用パンフレット掲載の菊地成孔氏によるエッセイによれば、この映画製作は実際には行われなかったものであり、従って、「本作は、この、頓挫した「ラウレンティス製作による、ベイカー伝記映画」が「製作されていた」という大胆な設定を基礎にはじまる」ということになります。
 さらに、菊地氏は「本作は、一言で言うと「ベイカーの人生=伝記からの素材を自由自在に再構成させた、完全なファンタジー」」とまで述べています。

(注6)劇場用パンフレットに掲載された川口敦子氏のエッセイでは、ジェーンについて、「ベイカーの生涯を彩った無数の女性をヒントにしつつ、旺盛な創意を注入して新たに生み出されたヒロイン」と述べられています。

(注7)上記「注5」で触れた菊地氏は、イーサン・ホークの歌について、「キーがすべて完全5度低い」と述べています。

(注8)なにしろ、ジェーンは、チェットの妻・イレーネによく似ているとされ、またチェットは、ジェーンに、「トランペットばかり演っていたから、恋愛経験が少ない」などと言ったりするのです。それで、ジェーンは、麻薬を止めるように親身になって言ったり、オクラホマのチェットの実家にまで一緒に出かけるものの父親がチェットを嫌うので、近くに車を駐車してそこで暮らしたりします。
 なお、ジェーンは、チェットとの会話の中で、チェーホフを引用しながら、「人が恋愛中の時に味わう感情こそ、ノーマルなものだ」などと言うほど知的な女性としても描かれています。

(注9)しかしながら、チェットは、バードランドの舞台に立つためにヘロインをやってしまい、なおかつ舞台では「許してほしい、この霧から抜け出せない僕を」「一度も恋をしたことがないんだ」などと歌うので、ジェーンは事情を悟り、涙を流し、そばにいたマネージャーのディックカラム・キース・レニー)に、チェットから貰った大事なネックレスを渡し、「これをチェットに返して」と言って立ち去るのです〔チェットが歌う「I’ve Never Been in Love Before」の歌詞については、例えばこちらの記事を〕。

 この場面は、最近見た『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』のある場面(同作に関する拙エントリの「注16」をご覧ください)を思い出させました。

 また、ひどく飛躍してしまい恐縮ながら、中島みゆきのアルバム『恋文』に収録されている「恋とはかぎらない」の歌詞の中の「24時間そばにいたいってわけじゃない/でも1番肝心な時は逢ってね」を連想してしまいました。

(注10)前者については、このサイトでイーサン・ホークが歌う映像を見ることができます。
 なお、チェットが歌う2つの曲は、アルバム『CHET BAKER SINGS』に収録されています(こちらで聴くことができます)。

(注11)この曲についての本作での演奏は、こちらで聴くことができます。

(注12)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます。

(注13)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます)。

(注14)本作で実際にトランペットの音を出しているのは、カナダのトランペット奏者のケビン・ターコット(この記事)。



★★★★☆☆



象のロケット:ブルーに生まれついて
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五日物語―3つの王国と3人の女―

2016年12月06日 | 洋画(16年)
 『五日物語―3つの王国と3人の女―』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)予告編で見て面白いと思い、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、ロングトレリス国の城(注2)の外に、様々な芸人たちが集まっています。
 城の中にカメラが入っていくと、王(ジョン・C・ライリー)と王妃(サルマ・ハエック)の前で芸人たちが芸を披露しています。
 火を使った芸に、一緒に見ている廷臣たちが笑います。
 芸人の中に身重の女がいることがわかります。
 王も笑うものの、王妃は笑わず、ついには立ち上がってその場を離れます。



 王妃の後を追う王は、「落ち着くのだ。私が悪かった。身重の女がいるとは知らなかった」などと王妃に言いますが、王妃は、部屋に入るとそこら中のものを壊し始めます。
 王は、「私が悪かった、許してくれ。私が何とかする」と言います。

 次の場面では、フードを深くかぶった背の高い魔法使いの男(フランコ・ピストーニ)が、王と王妃の前に現れます。
 王が「何者だ」と問うと、男は「私が何者であろうと、話は陛下にとり大事なこと」と答えます。
 そして、男が「お望みはお子様?」と尋ねると、王妃は「子供が得られるのなら、死をも厭わない」と答えます。
 それで男は、「危険を犯しても海の怪物を探し出し、生娘に料理させるのです」、「怪物の心臓を王妃様が食べれば、懐妊するでしょう」と言います。

 それで、王が潜水具を身に着け、手に槍を持って水の中に入っていきます(注3)。
 王は水の中に怪獣を見つけると、槍を突き刺します。
 怪獣がのたうち回ったために、王は突き飛ばされ死んでしまいます。
 他方、家臣たちは、怪獣から心臓を取り出します。
 そこに王妃が現れ、その心臓を持ち去ります。

 王妃は、その心臓を生娘に料理させます。
 生娘は、心臓を鍋に入れますが、鍋から立ち上る湯気にあたると、その腹が膨らんできます。
 他方、王妃は、部屋で心臓を貪るように食べます。

 結局、王妃も懐妊し、二人はそれぞれ赤ん坊を生みます。
 こんなところが、本作の始まりの部分ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょう、………?

 本作は、17世紀にイタリアで作られたおとぎ話『五日物語』に基づいて作られたファンタジー。3つの王国にいる女たちについての3つの物語が描かれています。話自体も面白いのですが、映し出されるイタリアの3つの城とか深い峡谷や洞窟などを背景とする映像美もなかなか素敵な作品です。

(2)本作は、イタリアのおとぎ話『ペンタメローネ』の51話の中から、『魔法の牝鹿』、『生皮を剥がれた老婆』、『ノミ』の3つを選び、統一的な視点(「女の性(サガ)」を描く:注4)に立って原作をかなりアレンジしつつ、ファンタスティックに描き出しています。

 例えば、上記(1)ではじめの部分を紹介した物語は、『魔法の牝鹿』に基づいています。
 すなわち、このサイトの記事(「魔法の牝鹿 イタリア 『ペンタメローネ』一日目第九話」:注5)に従えば、原作でも、王妃は、自分の子供と「乙女」(召使女)が産んだ子供とが仲がいいことに嫉妬心を覚え、火傷を負わせたりします。
 でも、原作では、むやみに子供を欲しがるのは、本作のように王妃ではなく王の方であり、また、全体としては、2人の子供(特に、「乙女」が産んだ子供)に焦点が当てられています。
 他方、本作では王妃に専ら焦点が当てられ、彼女は、王の死を代償にしても子供がほしいと思い、さらに産んだ子供・エリアスを独り占めしようとして、生娘の産んだ子供・ジョナを亡き者にしようとします(注6)。
 それで、本作の王妃は2度までも魔法使いを頼ることになります(注7)。

 ただ、こうした改変は、「女の性(サガ)」という本作のテーマに従って、主人公の王妃が「“母になること”を追い求め」る姿を強調しようとするからなのかもしれません(注8)。
 でも、生まれてきた2人の子供の父親は一体誰なのでしょう?
 原作と違って本作では、王妃が怪物の心臓を食べる段階で王はすでに死んでしまっていますから、特にわからなくなってしまっています。

 すべてこうしたことは、王妃の女性性を協調するために仕組まれているように思えてしまいます。
 ですが、男性側の観客として言わせてもらえば、子供を溺愛する父親だって数多く存在するのであり(注9)、子供を欲しがったり、生まれた子供を溺愛したりするのは、何も女性の専売特許とも思えないところです。

 とはいえ、そうしたいちゃもん(注10)をこうしたおとぎ話につけてみても、あまり意味があるとも思えません。
 それに、本作が「女の性(サガ)」をテーマとして描いているという点自体、日本語の公式サイトで言われている一つの見方に過ぎないともいえます(注11)。
 ことさらそんな見方に囚われることなく、海の怪獣が出てきたり、エリアスとジョナを襲う怪物が登場したりするのを(注12)、ファンタジーとして愉しめばいいのでしょう(注13)。

(3)渡まち子氏は、「こだわりのアーティストが作った、大人のための濃厚なファンタジーである」として70点を付けています。



(注1)監督はマッテオ・ガローネ(脚本にも参加)。
 原作はジャンバティスタ・バジーレ著『ペンタメローネ』(ちくま文庫)。
 映画の原題は「Il racconto dei racconti」(英題は「tale of tales」)。

 なお、出演者の内、最近では、ストロングクリフ国の王役のヴァンサン・カッセルは『美女と野獣』で見ました。
 また、 『ミラノ、愛に生きる』や『ボローニャの夕暮れ』に出演していたアルバ・ロルヴァケルが、『ノミ』に基づくハイヒルズ国の話の中で、王女・ヴァイオレットベベ・ケイブ)を鬼(オーガギヨーム・ドロネー)から救い出そうとするサーカス一家の母親の役を演じています。

(注2)ロケ地は、シチリア島の「ドンナフガータ城」。

(注3)この場面の撮影が行われたのは、シチリア島の「アルカンタラ渓谷」とされています。

(注4)公式サイトの「イントロダクション」に、「400年の時を経て、世界最初のおとぎ話が描くのは、現代と変わることのない女の“性(サガ)”」とあります。

 なお、この文章の内の「世界最初のおとぎ話」というのは、確かに『ペンタメローネ』が400年前に書かれたものとしても、例えば、日本のおとぎ話の典型である「かぐや姫」は1000年くらい前のものですから(Wikipediaのこの記事)、成立しないのではと思います(Wikipediaの「ペンタメローネ」に関するこの記事が言うように、「ヨーロッパにおける最初の本格的な民話集」なのでしょう)。

(注5)あるいは、このサイトの記事

(注6)エリアスとジョナを演じるのは、IMDbによれば、双生児の兄弟(クリスチャン・リージョナ・リー)とのこと。



(注7)原作においては、「長い白ひげを生やした賢者」の話を聞くのは1回だけです。
 他方、本作の王妃は、エリアスを探し出しジョナを亡き者にしようとして、2回目の要請を魔法使いにします。そして、王妃は怪獣に変身して、エリアスやジョナに襲いかかります。

(注8)公式サイトの「ストーリー」に、「ある王国では、不妊に悩む女王が“母になること”を追い求め」とあります。

(注9)例えば、秀頼を溺愛した秀吉。

(注10)さらにいちゃもんをつけるとしたら、例えば、『生皮を剥がれた老婆』に基づくストロングクリフ国の話では、どうして妹の老婆・ドーラハイリー・カーマイケル)はあれほどまでに若さと美貌を求めるのでしょうか〔妹は、燃えたぎる野望を持つ姉のインマシャーリー・ヘンダーソン)と違って、変化を好まず、貧しい生活のままで良いと思っていたのではないかと思います〕?



 また、ハイヒルズ国の話では、王女・ヴァイオレットが嫁いだ鬼はなぜ殺されなければならないのでしょうか(描かれているだけでは、鬼は別段悪いことをしているようにも思えないのですが←あるいは、人間を殺して食べていたのでしょうか)?
 特に、ハイヒルズ国の話では、最後に王女が鬼の首を国王(トビー・ジョーンズ)に見せて、「こんな男のところに私は嫁いだのだ!」と言って非難しますが、婿選びの際に国王は既に鬼を見ているのではないでしょうか?

(注11)これも一つの見方に過ぎませんが、本作における王妃の行動を見ていると、魔法のような外力に頼って自分の欲望を達成しようとしてもろくな結果にしかならない、という教訓が得られるのかもしれません(なにしろ、王妃が焦って怪獣に変身せずとも、エリアスはジョナをもう追いかけることはないでしょうから)。

(注12)さらには、3つの王国の城〔上記「注2」の「ドンナフガータ城」、アンドリアの「デルモンテ城」(ハイヒルズ国)、アブルッツオ州の「ロッカスカレーニャ城」(ストロングクリフ国)〕とか様々の自然の景観〔上記「注3」のアルカンタラ渓谷、トスカーナの「ソヴァーナの洞窟」(ハイヒルズ国)、「サッセートの森」(ストロングクリフ国)〕も楽しむことができます。

(注13)なお、ハイヒルズ国の話の中では、王女・ヴァイオレットが城の中でギターを演奏しながら歌う歌う場面が描かれています!





★★★☆☆☆



象のロケット:五日物語  3つの王国と3人の女

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ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ

2016年12月02日 | 洋画(16年)
 『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』を新宿の角川シネマで見ました。

(1)コリン・ファースジュード・ロウの競演が見られるというので、大変遅ればせながら、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「a true story」の字幕が流れてから、1929年のニューヨークの街を大勢の人が歩いている様子が映し出されます。
 雨が降っているので、皆が傘をさしています。
 その中で、立ち止まってタバコを吸いながら、向かい側にそびえるビル(壁面に「チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社」とあります)を、睨みつけるように眺めている男(トマス・ウルフジュード・ロウ)がいます。

 次の場面では、スコット・フィッツジェラルドガイ・ピアース)の『グレート・ギャッツビー』とか、ヘミングウエイドミニク・ウェスト)の『日はまた昇る』などの本が映し出され、それらの本を編集した編集者のマックス・パーキンズコリン・ファース)が、原稿をチェックしているところが描かれます。



 さらに、「良くはないが、ユニークだ。読んでくれ」と彼の部屋に持ち込まれた原稿(注2)を、通勤に使っている列車の中とか(注3)、家まで歩く途中とかで読み続けるパーキンズの姿が映し出されます(注4)。
 この原稿は『失われしもの(O lost)』と題されており、トマスの手になるものです(注5)。

 パーキンズが、郊外の家に戻ると(注6)、家の中では、女優だった妻のルイーズローラ・リニー)が、ご婦人方と劇の練習をしています(注7)。
 パーキンズは、娘の一人が電話しているのを見咎めるものの、彼女は「来週の卒業式のこと」と言い訳をします。
 食事になると、娘の一人が、「ママが俳優に戻るのは反対なの?」と尋ね、パーキンズは「ママの年代の人がまたスポットライトを浴びるのはどうかな」と答えます。
 食後、娘達はラジオを聴いている一方で、パーキンズは原稿を読み続けます。
 10時になると、パーキンズは、「娘は10時に寝ること」、そして「恋をするのはまだ早い」と言います。これに対して、娘が「いくつになったらいいの?」と尋ねると、パーキンズは「40だ」と答えます(注8)。

 出勤途中の列車の中でもパーキンズは読み続け、とうとう原稿に「おわり」の文字が出現したところで、本作のタイトルが流れます。

 これが編集者マックス・パーキンズと作家のトマス・ウルフとが出会う最初の契機ですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 主演の二人ともイギリスの俳優ながら、本作では、1920年代にスコット・フィッツジェラルドなどの作品を手掛けた編集者・パーキンズと、当時のベストセラー作家だったトマス・ウルフに扮し、その二人の関係が中心的に描かれています。と言っても、そのまわりに位置する人物との関係を通じて二人の関係がクローズアップされてくるような描き方もされていて、なかなか重厚な作品になっているなと思いました。

(2)本作で描かれている編集者と作家の関係は、映画でいえば、プロデューサーと監督との関係に似ているのではないか、と思いました。
 特に、フィッツジェラルドとかヘミングウエイを世に送り出した名編集者という観点から見ると、最近の例からすれば、『モテキ』とか『バクマン。』、それに『君の名は。』のプロデューサーである川村元気氏などが、もしかしたらパーキンズに相当するのかもしれません。
 と言っても、映画の制作にあたっては実に沢山の人達が関係するので、書籍の場合の編集者-作家という単純な関係をプロデューサー-監督の関係になぞらえるわけにはいかないでしょう。
 それでも、『グレート・ギャッツビー』がベストセラーになったのは、作者のフィッツジェラルドの才能ばかりでなく、編集者のパーキンズの目利きがあった点を忘れてはならないのと同じように、今回の『君の名は。』の大ヒットも、もちろん原作・脚本・監督を手掛けた新海誠氏の類まれなる才能によるところが大きいとはいえ、プロデューサーとしての川村元気氏の存在も大きかったものと思います。

 さらに言えば、アメリカの場合、映画の編集権は監督ではなくプロデューサーが持っているため、監督の意向に反したカットがされてしまうことがあるようです〔それで、DVDなどで、ディレクターズ・カット版と称するものが現れたりします(注9)〕。
 本作に見られる編集者と作家の関係は、アメリカにおける監督とプロデューサーに関係により近いといえるのかもしれません(書籍の場合、映画のディレクターズ・カット版のようなものは考えられないでしょうが)。

 それはともかく、本作を見ると、編集者パーキンズの役割の大きさに驚かされます。
 処女作の『天使よ故郷を見よ』(1929年)でも、6万語以上、元の原稿から削除されていますが(注10)、次の『時と川について』(注11)になると、パーキンズは、「すでに5000枚だ。書き足さなくとも、作業に9ヵ月かかる」と言っています(注12)。
 原稿はすべてトマスによる手書きであり、パーキンズはそれをタイプさせ、その上で次から次へと削除していきます。
 現代だったら、パソコン上でいとも簡単にdeleteできますが、当時は、再度それをタイプしなければならず、その手間は大変なものだったでしょう。

 そればかりか、長大な原稿とはいえ、その隅々までトマスの思いが込められていますから、パーキンズが削除すると言っても、そんなに簡単な話ではありません。作業中、絶えず2人の間で激論がかわされます(注13)。



 それでも、こうした作業を通じて、パーキンズとトマスの関係は親密なものとなっていきます(注14)。
 でも、その作業に没頭していけばいくほど、出来上がる作品は誰によって生み出されたのかという疑問が湧いてきます(注15)。
 それに、トマスとそのパートナーのアリーンニコール・キッドマン)との関係とか、パーキンズとその妻ルイーズとの関係がギクシャクしてきます(注16)。



 そんなところが、本作では、なかなか巧みに描かれているように思いました(注17)。
 本年見た100本目の作品として良い映画に出会えたように思います(注18)。

 なお、映画を見ている際に随分と気になったのは、パーキンズが、会社とか家の中でも絶えずソフト帽をかぶり続けていることです。これはマナー違反なのではないかと思ったからですが。
 ただ、このWikipediaの記事には、「室内でも帽子を被る習慣はパーキンズの奇癖として有名になるほどだった。その理由について、彼の秘書を務めていたアーマ・ワイコフは、会社の下層階にあったスクリブナー書店の店員と間違われないようにするためだったと語っている。ただし自身では、急な来客時に外出するところだったと装って逃れるため、などとしていた」とあります。
 「奇癖」とされていますから、室内で帽子を脱がないのはやっぱりマナーに反していることであり、パーキンズも、常識ではおいそれと捉えきれない人物だったということなのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「作品そのものは渋いが地味な小品。だが、読書の秋に、こんな文学秘話の映画を見るのも悪くないだろう」として65点を付けています。



(注1)監督は、マイケル・グランデージ
 脚本はジョン・ローガン
 原題は『Genius』。
 原作は、A.スコット・バーグ著『名編集者パーキンズ』(草思社文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、コリン・ファースは『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』、ジュード・ロウは『グランド・ブダペスト・ホテル』、ニコール・キッドマンは『グレース・オブ・モナコ』、ガイ・ピアースは『アニマル・キングダム』、ローラ・リニーは『ハドソン川の奇跡』で、それぞれ見ました。

(注2)本作で言われている話によれば、著者・トマスの面倒を見ているアリーン・バーンスタインが持ち込んできた原稿で、他の出版社は拒絶しているとのこと。

(注3)おそらく、「ニューヨーク・セントラル鉄道」でしょう(現在では、「メトロノース鉄道」)。
 パーキンズは、ニューヨークの5番街にある出版社に勤務し、近くの「グランド・セントラル駅」を使って通勤していると思われます。
 なお、グランド・セントラル駅では、パーキンズの家から戻ったトマスを、そのパートナーのアリーンが出迎えたりします(パーキンズも、そこでアリーンを知ります)。

(注4)「a stone, a leaf, an unfound door; a stone, a leaf, a door. And of all the forgotten faces」など、後に著名になるフレーズが原稿に散見されます(この記事が参考になります)。

(注5)その原稿は、後に、タイトルが『天使よ故郷を見よ(Look Homeward:A Story of the Buried Life:1929)』(邦訳はこちら)とされて、出版されます。

(注6)Wikipediaのこの記事によれば、ニューヨークの北東に位置するコネチカット州ニュー・ケイナン(あるいは、ニュー・カナーンNewCanaan)。

(注7)後に、パーキンズの家でディナーがあった時、パーキンズの妻・ルイーズが「私も作家。戯曲に取り組んでいる」と言うと、トマスは「あの形式はダメだ。それで自分は小説に取り組んでいる」と答えます。



(注8)パーキンズは1884年生まれですから、この時は45歳位でしょう。

(注9)ここらあたりのことは、Wikipediaのこの記事を参照してください

(注10)パーキンズはトマスに、「刈り込むと言っても、あくまでも君の作品。最良の形で読者に届けたいだけだ」と言って、前渡金として500ドルの小切手を手渡すと、トマスは「削除には応じます」、「一銭の価値もないと言われたものに500ドルも!」と答えます。

(注11)原題は『Of Time and the River』(1935年)。

(注12)この記事によれば、処女作の原稿の4倍以上の原稿があり、なおかつ、月に5万語の割合で増えています。

(注13)例えば、トマスが「トルストイもこれほど削っただろうか?」と言うと、パーキンズは、「これまで削除したのは、2年間でせいぜい100ページほどにすぎない」と応じます。

(注14)街で、アリーンとパーキンズの妻・ルイーズとが出会って、カフェで話をした際に、アリーンが「彼をご主人に奪われた」と言うと、ルイーズは「主人は、ずっと息子を望んでいた。そこにトムが現れた」と答え、それに対しアリーンは、「別れません。彼のためにすべてを捨てたのですから」と言います。

(注15)完成した第2作目の『時と川について』に「この本をマックス・パーキンズに捧ぐ」という「献辞」をつけようとトマスが言うと、パーキンズは、「やめてくれ、編集者は黒子にすぎない。それに、歪めてしまった感じもする。改良するのではなく違った本にしているのかもしれない」などと言いながらも、結局はそれを受け入れます。
 ちなみに、パーキンズは『時と川について』に関し、「新聞の書評には賛辞が溢れ、「真の大作」と言われたり、J・ジョイスと比べられていたりする」、「3万部だ」、「天才扱いだ」などと、パリに滞在するトマスに連絡しています。

(注16)演劇に関係していたアリーン(この記事によれば、彼女は当時、「 a theater set and costume designe」であり、その後「作家」にもなっています)は、トマスに、「初日の大変さをわかって。大切な夜だから、今夜だけ私と一緒にいて」と言いますが、トマスは「自分にもマックスとの仕事がある」と答えてパーキンズのもとに行こうとします。それで、怒ったアリーンは、「この2年間、私はずっと一人きりだった。今夜だけとお願いしている」、「どちらを選択するのか、今すぐこの場で結論を出して!」と言ってトマスの頬を叩きます。そして、「それが、私の痛みよ」と付け加えます。
 他方で、パーキンズの妻も、いろいろな荷物を車に積み込んで、子どもたちと一緒に出かけようとしています。パーキンズが妻に、「トムは、人が一生のうちに出会えるかどうかわからないほどの作家だ。彼との作業は、私の仕事。たかが休暇にすぎないのだから、そんなことに時間を割けない」と言うので、妻たちはパーキンズを一人家に残して車で走り去ってしまいます。

(注17)アリーンがパーキンズのもとにやってきて、「あなたに対するあの献辞は、彼があなたを解放するということ。あなたは捨てられる」、「後になればわかることだけど、この先モット大変になる」、「残るのは虚しさだけ」と言います。
 また、フィッツジェラルドもパーキンズに、「トムは君を離れる」と言います。
 さあ、実際にはどうなることでしょう、………?

 なお、ここらあたりのことは、ものすごく飛躍してしまい恐縮ですが、中島みゆきが作詞作曲した「恋文」の中にある「恋文に託されたサヨナラに 気づかなかった私/「アリガトウ」っていう意味が 「これきり」っていう意味だと/最後まで気がつかなかった」を思い出させてしまいます。

(注18)ラストのトマスからの手紙は感動的です(「…人生に大きな窓が開けられたように思います。そこを通れば良き人間になってあなたに会える。…」)。



★★★★☆☆

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ブリジット・ジョーンズの日記3

2016年11月22日 | 洋画(16年)
 『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)予告編を見て面白そうだったので、女性客ばかりの映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、5月9日のロンドン。43歳の誕生日を迎えた主人公のブリジット・ジョーンズレニー・ゼルウィガー)が、独りで居間のソファーに座り、一本のローソクが立てられたケーキを見つめ、「なんでまたこれなの?」と呟き、ワインを飲みます。そして、一人カラオケをしたり、踊り出したりします。



 次いで、「12時間前」の字幕。
 携帯が鳴ったのでブリジットが取り上げると、「ダーリン、誕生日おめでとう、ママよ」の声が。
 ママ(ジェマ・ジョーンズ)の顔が映って、さらに「43年前にお前を産んだ。出産は23時間かかったの。奇跡よ」と言った後、今度は、パパ(ジム・ブロードベント)が「おめでとう」と言います。

 それから、ブリジットは葬儀が行われている教会に入ります。その葬儀は、かつてブリジットの上司であり飛行機事故のために亡くなったダニエル・クリーバー(注2)のもの。
 牧師が、「ダニエルの思い出を語ってください」と促すと、ブリジットは、進んで前に出て「ダニエルは、大勢の人と触れ合いました。私もその一人。あなたを忘れない。皆同じよ」と語ります。

 教会の外に出てきたブリジットは、同じように葬儀に参列していた元カレで弁護士のマーク・ダーシーコリン・ファース)と遭遇します。
 マークは、連れ立っている女性(アグニ・スコット)を「カミラだ」と言ってブリジットに紹介します。
 ですが、うまく会話が弾まず、マークとカミラは立ち去ります。
 ブリジットは、「これが彼と別れた理由かも。彼の前ではうまくしゃべれない」と呟きます。

 ブリジットが、仕事場のTV局に出勤すると、皆が誕生日を祝ってくれます。

 こんなところから、ブリジットを巡る物語が始まりますが、さあどのように展開するのでしょうか、………?

 本作はシリーズの第3作ながら、これまでの作品を見なくとも十分に楽しめます。43歳で独身のTV局の敏腕プロデューサーが主人公。ひょんなことからIT企業の社長で大金持ちの男と出会い、また離婚協議中の元カレとも遭遇し、主人公はその二人と親密な関係になって、なんと妊娠までしてしまうのです(注3)。このテンヤワンヤを面白く描いていて、誠に他愛ない話ながらも、気分転換するにはまずまず向いているように思いました。

(2)これまでの作品のあらすじをネットで調べてみると、ごく大雑把には次のようです。
 第1作の『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001年)では、主人公のブリジットは32歳(後半では33歳)の独身で、出版社に勤務(後にTV局に移ります)。母親のクリスマスパーティーで出会った弁護士のマークと、勤務先の上司のダニエルとの間で気持ちが揺らぎます。
 第2作の『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月』(2004年)でも、ブリジットはマークとダニエルに翻弄されますが、最後にはマークがブリジットにプロポーズします。

 それで本作ですが、第2作の公開から12年経過し、ブリジットも43歳になっているものの、相変わらず独身のままTV局勤務を続けているという設定になっています。
 ただ、第2作で、マークがブリジットにプロポーズしたはずです。にもかかわらず、本作のブリジットはなぜか独身のままであり(注4)、なおかつマークはカミラと結婚しているようなのです(離婚協議中ということがすぐにわかりますが)。
 それに、前2作で活躍するダニエルは、本作には一切登場せずに、代わりに、アメリカ人でIT企業の社長・ジャックパトリック・デンプシー)が新規に登場し、ブリジットを巡ってマークと争うことになります。



 43歳の女性を巡って身分も金もある2人の男性が競うのですから、まさに邦題が言うように「最後のモテ期」なのでしょう。

 こんなところから、むしろ、前2作を知らないままに本作を見た方が、返って楽しめるのかもしれません(注5)。

 とはいえ、本作がいくらファンタスティックなラブストーリーとしても、話の展開がかなり強引であり、もうすこし筋立てに工夫が必要なのではと思いました(注6)。
 それでも、プロデューサーのブリジットが、プライベートなことを話しているつもりにもかかわらず、それをイヤホンで聞いたキャスターで仲良しのミランダサラ・ソルマーニ)は、指示事項だと勘違いして、そのままインタビュー相手にぶつけてしまい、相手が当惑するシーン(注7)など、笑わせるところがかなりあって、まあ、つまらないことを言い募っても仕方がないようにも思えてきます(注8)。

(3)渡まち子氏は、「主演のレニー・ゼルウィガーの劣化ぶりがあまりにヒド」く、「今回のブリジットの行動にはまったく共感できないのだが、このラスト、もしかして次もあるの?!これ以上老けたブリジットはかんべんしてほしい」として50点を付けています。
 前田有一氏は、「深刻さがないのが救いで、よって本作の笑える度は非常に高い。コメディとしては優秀である」として80点を付けています。
 秦早穂子氏は、「目くじらたてるは野暮の骨頂。手を叩き大口開けて笑うのも単純すぎる。イギリス式二重底の皮肉の裏をニンマリ楽しもう。女、40代、人生、ようやく半ば。ピンチは、これからである。全体を刈り込めば、ユーモアとスパイスは一層、利いたであろう」と述べています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「ブリジットらしい自虐の利いたユーモアと、思わず応援したくなるうそのないキャラクターはそのままに、正反対の男性が自分を巡ってケンカするという、女性にとってのファンタジーを巧みに織り込んだ脚本が秀逸」と述べています。



(注1)監督は、シャロン・マグワイア
 原題は『Bridget Jones's Baby』。
 原作者のヘレン・フィールディング氏が脚本に加わっています。

 ただ、第1作と第2作は、ヘレン・フィールディング氏の『ブリジット・ジョーンズの日記』(角川文庫)、及び『ブリジット・ジョーンズの日記 キレそうなわたしの12か月』(角川文庫)が原作なのでしょう。ですが、本作の原作が『ブリジット・ジョーンズの日記 恋に仕事にSNSにてんやわんやの12か月』(角川文庫)といえるのか疑問に思われます。というのも、同書についてamazonの「内容紹介」では、「幼なじみのマークと結ばれ、二人の子供に恵まれたブリジット・ジョーンズ。ところがマークが急逝」などと記載されていて、それは、本作の内容とは全く異なっているからです(これは、ありうるかもしれない第4作目の内容となるのでしょうか?)。

 なお、出演者の内、最近では、コリン・ファースは『キングスマン』、パトリック・デンプシーは『トランスフォーマー ダークサイド・ムーン』、ジム・ブロードベントは『ブルックリン』、ジェマ・ジョーンズは『恋のロンドン狂騒曲』、エマ・トンプソンは『ウォルト・ディズニーの約束』で、それぞれ見ました。

(注2)ダニエルは、第1作と第2作に登場し、ヒュー・グラントが演じています。
 ヒュー・グラントが本作に出演しない理由については、こちらの記事が参考になります。
 なお、本作においてダニエルは、飛行機事故で亡くなったとされていますが、飛行機は見つかったものの、遺体は見つかっていないとされています。

(注3)原題からすれば、本作ではブリジットが子供を生むのかなと予め予測がつきますが、邦題ではそんなことはわかりませんし、予告編もそのことを明示していませんから、クマネズミは、本作の後半の展開の仕方には少々驚きました。

(注4)ただ、ブリジットは、「あなたとは何年も付き合ったが、結局は別れた。二人で夢見たことと現実は違った。結局あなたは仕事だったし、私は独りで孤独だった」とつぶやく場面がありますが。

(注5)これまでの作品を知っていれば、ラストがどうなるのか、容易に想像がついてしまうでしょうし!

(注6)ブリジットがジャックとベッドインするにしても、何もわからずにジャックのベッドに入り込んでいて、そこにジャックが戻ってくるというのでは、策がなさすぎます。
 また、ブリジットが、ほぼ同じ日にマークと会ってベッドインしてしまうというのも、もう少し因縁話めいた背景が必要なのではないでしょうか?

(注7)同じようなシーンは、ジャックに対するインタビューでも見られます。まだ、ブリジットが妊娠していることを知らないジャックに対し、ミランダは、テーマのジャックの書いた本のことはそっちのけにして、「子供についてどう思うか」とか「家族に病気持ちの人は?」などと、ジャックが当惑する質問をします。

(注8)つまらないことですが、新宿ピカデリーの売店で尋ねたら、本作の劇場用パンフレットが作成されていないとのこと。もしかしたら、配給会社は、本作の公開にあまり期待していないのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期

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PK ピーケイ

2016年11月18日 | 洋画(16年)
 『PK ピーケイ』を新宿のシネマカリテで見ました。

(1)久しぶりのインド映画ということで映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、「本作はフィクションであり、如何なる個人も、社会も、宗教も傷つける意図はありません」との字幕が出て、「銀河は、他にも20億個以上もあり、それらを形成する星の中には人間に似た生物がひょっとしたらいるかもしれない」「その星の人が地球の探索に来ているかもしれない」などという説明がなされます。
 そして、先ずは月が、その次には地球が、さらに空中を流れる雲が映し出され、その雲の中から巨大な円盤状の宇宙船が地球に降下してきます。
 その宇宙船から、裸の男〔のちにPK(注2)と言われます:アーミル・カーン〕が地上に降り立ち、宇宙船の方は再び上昇します
 場所は、インドのラジャスタ-ン。何もない砂漠のようなところで、鉄道の線路が1本走っているだけ。

 丁度貨物列車が通りかかり、そのそばで男が歩いているのがPKに見えてきます。
 PKが男に走り寄ると、ラジカセを持っているその男もPKをまじまじと見ます。そして男は、PKが首からぶら下げているペンダントのようなものを奪い取ると、走って逃げ出します。
 それはPKが宇宙船と連絡を取るためのリモコンですから、それがなければ、PKは自分の星に戻ることができません。
 PKは必死になって男の後を追いかけます。ですが、男は、走っている貨車に飛び乗って行ってしまいます。PKは、かろうじて、男が肩にかけていたラジカセを奪い取りました。ですが、リモコンを奪われ、言葉がわからず、友達もいない状況で、どうやって元の星に帰ることができるのでしょうか?

 場所は変わって、インドから5000kmも離れたベルギーのブルージュ。
 インドからの留学生ジャグーアヌシュカ・シャルマ)は、インドの大スターの公演を見ようと自転車を走らせます。
 会場に着くと既に満席で、中に入るためにはダフ屋からチケットを買わざるを得ません。
値段を訊くと、正規の料金の倍以上の100ユーロ。
 ジャグーは諦めて帰ろうとすると、青年・サルファラーズスシャント・シン・ラージプート)が現れ、半分ずつ出し合ってチケットを買おうと提案します(注3)。



 しかし、二人のお金を合わせてもあと4ユーロ足りません。そこで、近くにいた男に助けを求めると、なんとその男が100ユーロでそのチケットを購入して劇場に入ってしまいます。
 二人は怒りますが後の祭り。

 ただ、これがきっかけとなって、ジャグーとサルファラーズは恋に落ちるのですが、さて、このラブストーリーと先程のPKの話とは、どのようにつながっていくのでしょうか、そしてPKは自分の星に戻ることができるのでしょうか、………?

 本作は、地球によく似た星から地球にやってきた異星人の物語。円盤からインドに降りてきた異星人は、円盤と交信できる大事なリモコンをインド人の男に取られてしまい、それを取り返そうと奔走する中で、テレビ局の若い女性レポーターに恋してしまいます。本作は、SF物であり、ラブストーリーでもあり、さらにはインドで勢力がある種々の宗派の問題を扱っているコメディという何でもありの作品で、見終わると実に楽しい気分になること請け合いです。

(2)本作では、最初の方で描かれるジャグーとサルファラーズとのラブストーリーの後に、PKのリモコン探しの長い物語が挿入されますが、最後には2つの物語が密接に絡み合うという展開になっていて、映画の構成がなかなか良く考えられているな、と思いました。

 もちろん、そればかりでなく、PKを演じるアーミル・カーンが、50歳を超えていながらも、実に若々しい肉体を披露しつつ縦横の活躍を見せ、それが本作の大きな見ものとなっています(注4)。



 それに、この映画を明るく盛り上げているのは、なんといっても、ヒロインを演じるアヌシュカ・シャルマの弾きれんばかりの若さと美貌ではないでしょうか(注5)。



 さらに言えば、PKのリモコン探しの長い物語が、実はジャグーに対するPKの悲恋物語にもなっているのです(注6)。そして、その展開の仕方が、すぐ前に見た邦画の『ぼくのおじさん』にかなり類似しているので驚きます(注7)。

 それと、そこでは宗教が色々と取り扱われています。
 監督は、劇場用パンフレットに掲載されているインタビュー記事において、「ある段階で、私はある結論に辿りつきました。宗教というのは人が生み出したものだということです。人が宗教を創り出したわけで、間違いなく神が創ったものではありません。もし神が宗教を創り出したのだとしたら、きっとそこには1つの宗教しか存在しないはずなのです」と述べています。

 そして、その見解の一つの現れが、「電話のかけ間違い」という大層興味深いコンセプトを巡る話なのでしょう。
 ジャグーの家に転がり込んだPKが、外からかかってきた間違い電話に、ジャグーがウソのいい加減なことを答えているのを見て(注8)、自分がこれまで見てきた様々の宗教は「かけ間違い」によるものだと言い出すのです。おそらく、間違い電話に出た偽の神様がウソを言っているにもかかわらず、電話をかけた者はそれが神様の声だと思って信じ込んでいる、ということを現しているのでしょう。
 その背景には、PKが、自分のリモコンを探し出そうと、いろいろな宗教の神様にお願いしたものの(注9)、何一つはかばかしい答えが返ってこなかったことがあります。
 各宗教の対応がいい加減なのは、神と人々を繋ぐ役割を果たしている人が、間違った電話をかけて聞いた冗談を、まことしやかに人々に信じ込ませているからだ、とPKは考えているようです。
 それで、PKは、ジャグーの父親(バリークシト・サーハニー)が崇敬する導師(ソウラブ・シュクラ)が開いている集会に乗り込んで、導師に反撃します(注10)。

 今やTV局のレポーターになっているジャグーは、こうした光景をTVで流しますが、そのため、PKが提起する問題に人々の関心が集まり、話がどんどん膨らんで思いもよらない方向に展開していきます。
 宗教とは何か、信じるとは何か、などという重たい話とラブストーリーが密接に絡み合って、ラストのクライマックスを迎えるわけですが、本作のこうした話の展開ぶりはなかなか良く練り込まれたものだと感心してしまいます(注11)。

(3)渡まち子氏は、「さまざまなジャンルをクロスオーバーしながら、宗教を皮肉る風刺が効いた社会派映画なのに、堅苦しいところは微塵もなく、インド伝統のマサラ・ムービーならではの明るさを保っているこの映画、滅多にお目にかかれない娯楽映画の快作だ」として85点をつけています。
 中条省平氏は、「笑いと社会的メッセージに加えて、ラブストーリーとしても充実の1作で、とくにラストのドンデン返しでは観客を唖然とさせ、落涙を誘うだろう」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)監督は、『きっと、うまくいく』のラージクマール・ヒラニ
 また、主演のアーミル・カーンは、『きっと、うまくいく』で見ました。

(注2)「PK」とはヒンディー語で“酔っ払い”を意味するそうです。おそらく、その宇宙人がわけのわからないことを言ったりするからでしょう。

(注3)公演(「Bachchan recites Bachchan」)の前半の詩の朗読はジャグーが、後半の演劇はサルファラーズが見るということで折り合います。ちなみに、この公演では、前半でR・バッチャンの詩の朗読が行われ、後半はA・バッチャンによる劇が演じられるようで、ジャグーはR・バッチャンの詩のファンであり、サルファラーズはA・バッチャンのファンだということになっています。

(注4)公式サイトの「INTRODUCTION」にあるように、アーミル・カーンは、「劇中では一切まばたきしないという荒業で、“PK”のぶっ飛んだキャラを表現してい」ます。

(注5)上記「注4」で触れた「INTRODUCTION」」では、「気丈で可憐でキュートでセクシーと四拍子そろった天井知らずのヒロイン力」とされています。

(注6)恋に敗れたPKは、自分の星に戻る際に、たくさんの電池を鞄にしまって持って帰ろうとします。ジャグーに「どうしてそんなことをするの?」と尋ねられ、PKは「戻ってから、録音した動物の声などをラジカセで聞くために必要」と答えます。ですが、PKがいない時にジャグーがカセットテープを聞いてみると、全てジャグーの声ばかり。そんなことから、ジャグーは、初めてPKの気持ちを知ることになるのですが、もうどうしようもありません。

(注7)『ぼくのおじさん』の主人公のおじさん(松田龍平)は、見合いの席で出会った稲葉エリー真木よう子)に一目惚れしてハワイまで追いかけるのですが、結局は、わざわざ事実を告げることによって、彼女が有名菓子店の社長・青木戸次重幸)と一緒になることを推し進めてしまいます。
 それと同じように、PKは、ジャグーを愛することになるものの、真実を語ることによって、ジャグーとサルファラーズの恋が成就するように動いてしまいます。

(注8)病院に電話をかけたと思いこんでいる相手に、ジャグーは「その患者は今朝死にました」「死亡診断書に心臓麻痺と書きます」などとウソの答えをします。すると、PKは驚いて、「どうしてそんなことを?」とジャグーに尋ねます。すると、彼女は「冗談よ。彼はいつも間違ってかけてくるから」と答えます。それで、PKは、「わかった。人が神に電話をかけるが、それはかけ間違いで、電話をもらった方が冗談で答えるのだ」などと言います。

(注9)こちらのサイトでは、PKが巡礼した先について詳細な記事が掲載されています。

(注10)その集会で導師は、「妻が半年前から半身不随になっているが、医者は何もできない」と言った男に対し、「ヒマラヤの聖地にある寺院に8日間籠もって祈りなさい」と言うのですが、PKは「かけ間違いだ」と叫び、さらに導師に向かって、「あなたは、間違った電話番号をかけている。正しい神様に電話がかかったとしたら、ここから4000kmも離れたところに行きなさいなどと言うはずがない」などと反撃します。

(注11)ラストは、PKが星に戻ってから1年後ということで、再びPKが、ほかの異星人を引き連れて地球にやってきます。その際、PKは、他の異星人に対し、次の4か条を守るべしと注意します。
・地球では、裸で歩いてはならない。
・言葉が難しい。
・衣服は「踊る車」から調達し、リモコンを下着の中に隠せ。
・神様に会わせるというやつがいたら、とっとと逃げ出せ。
 4番目のものは、本作全体の雰囲気にとても合致しているように思われます。



★★★★☆☆



象のロケット:PK(ピーケイ)
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人間の値打ち

2016年11月04日 | 洋画(16年)
 イタリア映画『人間の値打ち』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本作がイタリア・アカデミー賞の作品賞などを受賞しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、ミラノの郊外。
 名門高校で行われたパーティーが終わって、会場で働いていたウェイターのファブリッツィオが後片付けをしてから、仲間に「俺は1時間も早く始めたんだから早目に帰る」と言いながら外に出てきます。そして、自転車に乗って夜の街を走り、家路を急ぎます。
 時期はクリスマス休暇の前夜で、道路の両側には雪が積もっています。
 街を出て暗い中を自転車は走り続けるところ、後ろからと前から車が近づいてきます。
 そして、接近する車を避けようとしたもう1台の車が自転車に衝突し、ファブリッツィオは道路脇に投げ出されてしまい、そのまま動きません。
 にもかかわらず、衝突した車はなにもせずに行ってしまいます。
 ここでタイトルが流れます。

 次いで、その半年前のこと。
 同じ道を不動産屋のディーノファブリッツィオ・ベンティボリオ)が車で通ります。
 ベルナスキ家の邸宅前まで来ると、同乗している娘のセレーナマティルデ・ジョリ)に「ここでいいか?」と尋ねます。
 「送ったらすぐ帰る」と言いながらも、ディーノは、「さすがベルナスキ家の豪邸だ」と呟いて車を中に入れてしまいます。
 ここで、「第1章 ディーノ」との字幕が入ります(注2)。
 そして、セレーナはディーノに「チャオ」と言って、ベルナスキ家の一人息子のマッシグリエルモ・ピネッリ)と会うべく家の中に入ります。
 入れ替わりに、車から出たディーノのところに、ベルナスキ家の当主・ジョヴァンニファブリッツィオ・ジフーニ)の妻であるカルラヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)が現れます。
 カルラは、「セレーナは当家で人気者よ」「ちょっと用事があるので失礼するわ」と言って、車に乗って外出します。

 残されたディーノがテニスコートを見ると、ジョヴァンニらがテニスをしています。
 ジョヴァンニがディーノに「テニスをしたことは?」と訊くと、ディーノは「少々」「でもウエアを用意していない」と答えます。それに対し、ジョヴァンニは「そんなものは家にある」というので、ディーノはテニスに参加することになります。

 こうしてディーノはベルナスキ家に入り込むことになりますが、さあその後はどのように展開することになるのでしょうか、そしてファブリッツィオと衝突した車を運転していたのは誰なのでしょうか、………?

 本作は、一応は、ひき逃げ事件の真犯人を追うというサスペンス物。それが、富豪に取り入って大金をせしめようとする不動産屋の男、その富豪の妻、そして不動産屋の娘という3つの視点から描かれます。と言っても、事件の謎解きよりも、むしろ、それらの人々が様々な人と織りなして作り出されるエピソードの方に興味を惹かれました。

(2)本作については、サスペンスとされ(注3)、また、監督は、「主要なテーマは、増やすのも不安、失うのも心配なお金というものが、それに触れる人々の人間関係や運命や価値をいかに左右するかということです」と述べています(注4)。
 確かに、本作では、映画冒頭のひき逃げ事件の真犯人は誰かということが最後まで追求されています。
 また、「お金」を巡る問題がいろいろ描き出されてもいます(注5)。
 例えば、本作の原題は「Il capitale umano」(英題はHuman Capital)であり、それは「人的資本」(注6)のことであり、本作に当てはめれば、死んだウェイターのファブリッツィオに自動車保険から支払われる慰謝料を意味しています(注7)。
 また、上記(1)で記したように、中産階級のディーノは、なんとか富豪のベルナスキ家の中に入り込んで一儲けしようと企んでいます(注8)。

 ですが、本作を見ていると、そんなことよりも、3人の女性の動きに興味が惹かれます。
 ジョヴァンニの妻のカルラは、夫とうまくコミュニケーションができないままに、存続の危機にある街の劇場の再建に取り組み、その際、劇作家のドナートルイジ・ロカーショ)と不倫の関係を持ってしまいます。



 また、ディーノと先妻との子・セレーナは、ジョヴァンニの息子マッシと別れ、大麻所持で逮捕されたことのある下層階級のルカジョヴァンニ・アンザルド)と親しく付き合うようになります。



 さらに、ディーノの後妻のロベルタヴァレリア・ゴリノ)は心療内科医であり、ルカのカウンセラーとなっています(注9)。



 それぞれ、お金の面というよりも愛情関係の面で、自分の興味と関心に従って動いているように描かれています(注10)。

 これに対し、本作に登場する男性の3人はお金に囚われたダメ人間のように描かれています。
 ジョヴァンニは、ファンドの運営に全精力を注ぎ込み、お金が全てであるように行動します(注11)。また、ディーノは、そんなジョヴァンニに取り入って、多額の儲けをせしめようとします(注12)。



 さらに、ルカを養育する叔父のダヴィデは、亡くなったルカの母親の保険金で生活しています(注13)。
 男性側がこのようにお金に絡め取られたダメ人間として描き出されているからこそ(注14)、お金と直接的な関係を持たない女性側が本作において目立つようになるのでしょう。

 そしてその有様が、ひき逃げ事件の真犯人追求という縦糸と、上流・中流と下層の階級的な対立という横糸の中で描かれている点が本作の特色のように思えます。
 ただ、同じ事柄がディーノ、カルラ、セレーナという異なる3つの視点から何度も描き直されるために、最初のうちは随分と騒々しく落ち着かない感じがして、映画の中に入り込むのに時間がかかってしまい、全体的にもごった煮のような感じが残ってしまいます。

(3)村山匡一郎氏は、「パオロ・ヴィルズィ監督は、冒頭のひき逃げ事件の犯人は誰かという謎解きの緊張感を保ったまま、登場人物それぞれの生活をリアルに描き出す。その一方、構成の妙味を通して、主人公たちの感情や出来事を次第に膨らませつつ奥行きのある物語に仕立て上げた」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 真魚八重子氏は、「この映画では年齢や経験は関係なく、誠実さを知る者と、自己中心的な者が分かれて、それぞれの人生が交錯する。その中でも意外なのが「貪欲さ」「自己犠牲」「庶民」「確固たる己を持たない者」という個性の中で、その誰が一番の貧乏くじを引くかだろう。人間の値打ちは、金で計れてしまう。そのなんと、虚しくあじけないことか」と述べています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「マネーゲームで荒稼ぎする富裕層や、心のよりどころを求めてさまよう若者らの人生が交錯する物語は現代社会の縮図のごとし。人間の見え、欲望、愛の渇きをミステリー仕立てであぶり出す語り口がさえ、皮肉はたっぷりでも冷笑的にならない作り手の真摯な視点が映画に確かな情感を吹き込んだ」と述べています。



(注1)監督は、パオロ・ヴィルズィ
 原作は、スティーヴン・アミドン著『Human Capital』。

(注2)以下、「第2章 カルラ」、「第3章 セレーナ」、「最終章 人間の値打ち」と続きます。

(注3)公式サイトの「イントロダクション」に、「北イタリア・湖水地方にそびえ立つ美しい邸宅を舞台に、人びとの交錯する欲望の行方を描くラグジュアリー・サスペンス」とか、「今の時代を生きる私たち全てに、人間の幸せとは何かを問いかける比類なきサスペンス」とあります。

(注4)劇場用パンフレットに掲載の「監督ノート」より。

(注5)劇場用パンフレットに掲載されているエコノミストの浜矩子氏のエッセイ「カネの切れ目は出会いのはじまり?」に、「本作から受け止めるべき経済学的教訓」として、「株にしろ何にしろ、値下がりを当て込んで「空売り」するのは止めておこう」、「(それに)借金までしてカネをつぎ込むのは、もっといけない」、「芸術的支援に使ったはずのカネを、ぼろ儲けで回収しようとしてはいけない」の3点を挙げています。確かに、素人が「投機」を行うのは止めたほうが無難かもしれません。ですが、ですが言えるのはせいぜいそのくらいであって、もともと「投機」は立派な経済的行為であり、浜氏のように倫理的な観点から規制すべきではないでしょう。そんなことをしたら株式市場はやっていけなくなってしまいます(それに、本作では、ジョヴァンニは、当初は会社倒産の危機を迎えたものの、結局は賭けに勝って大儲けをしているのですから、こうした「教訓」を本作から導き出すというのもいかがなものかと思われます。モット言えば、浜氏の挙げる3番目の教訓は、本作のどこの部分に対応してるのかわかりませんし、浜氏が拠り所とする「経済学」とはどんな内容のものなのでしょうか?)。

(注6)「人的資本」とは、例えばこの記事では、「将来獲得可能な収入を現在価値で評価したもの」と定義されています。

(注7)その金額は21万8976ユーロ=約2千4百万円。
 ただ、それが一人の人間の価値としては安すぎると批判してみても、それ自体は一つの計算方法にすぎないのですから、とやかく言ってみても仕方がないように思われます。

(注8)ディーノは、背伸びをして、娘のセレーナを名門の私学校(グレゴリウス14世高等学校)に通わせ、狙い通りに、セレーナはベルナスキ家の一人息子のマッシと親密な関係になります。さらにまた、テニスを通じて、ディーノはジョヴァンニの面識を得、ついにはジョヴァンニが運営する「ベルナスキ・ファンド」に加わることになります(実際には、ファンドの規約に反して、ディーノは、銀行から借り入れた70万ユーロをファンドに投資します。ですが、その後ファンドが大きな損失を出したために、大幅に目減りしてしまうのですが、……)。

(注9)さらにロベルタは、ディーノの子供を宿してもいます。ただロベルタは、そのことをディーナに告げますが、「セレーナには言えないから、あなたから話して」と夫に頼みます。
 セレーナとの関係はなかなかうまくいかないながら、ロベルタは実際にはセレーナのことを親身になって考えています。

(注10)ただ、カルラについては、暗黙の内ながらも夫の財産に頼り切りであり、夫のファンド運営会社が倒産しそうになると何も行動できなくなってしまいますが。

(注11)カルラが再建しようとした劇場についても、ファンドの資金が必要なジョヴァンニはマンション業者への売却を考えており、カルラに劇場再建に出資できないと言います。

(注12)さらにディーノは、カルラに秘密の情報を売ることによって、ジョヴァンニのファンドに投資して損をした分を取り返そうとしますが、その際に、カルラにキスをも求める下劣な男なのです。

(注13)ルカが捕まる原因となった大麻は、実際には、このダヴィッドが栽培していたのです。

(注14)さらに、劇作家のドナートは、劇場再建ができず、不倫の関係も続けられないことをカルラから告げられると、口を極めてカルラを罵るどうしようもなさを示します。



★★★☆☆☆



象のロケット:人間の値打ち

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ハドソン川の奇跡

2016年10月11日 | 洋画(16年)
 『ハドソン川の奇跡』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)クリント・イーストウッドの作品だというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、機長の「離陸する」の声。それから「操縦不能」「ラガーディアに引き返す」「低すぎる」「もう少しだ、頼むぞ」などの声がして、USエアウェイズの飛行機が、両エンジンから煙を吐きながらニューヨークのビル街を低空で飛んで、ビルに激突し火に包まれます。
 そこで本作の主人公のサレンバーガー(57歳:トム・ハンクス)がホテルのベッドで飛び起き、今のが夢であったとわかります。

 次いで、本作のタイトル「Sully」が流れてから、大きな川べりの道をジョギングしているサレンバーガーの姿。ぼやっとした様子で横断歩道を渡ろうとして、車に衝突しそうになります。
 その後、機長はサウナに入りますが、頭を抱えて沈み込んだり、鏡で自分の顔を凝視したりします。

 次の場面では、機長(captain)のサレンバーガーと副操縦士(first officer)のジェフ(49歳:アーロン・エッカート)がNTSB(国家運輸安全委員会)のポーターマイク・オマリー)らによる事情聴取を受けます。
 最初に、ポーターが「ハドソン川の墜落事故の人的要因について調べる」と言うと、サレンバーガーは、「あれは墜落(crash)ではなく、不時着水(foeced water landing)です」と異議を唱えます。
 次いで、ポーターが「なぜラガーディア空港に引き返さなかったのか?」と尋ねると、機長は「高度が足りず、不可能と判断した。40年以上の経験に基づき、視認によって判断した」「乗客を救うには着水する他なかった」と答えます。これに対し、ポーターは「シミュレーションすることによって、引き返せたのかどうかわかる」と応じます。
 また、「睡眠時間は?」の質問には「8時間」、「ドラッグは?」には「否」、「飲酒は?」には「9日前」と機長は答えます。

 戻るタクシーの中で、ジェフは機長に「馬鹿げている。乗客を救ったのがいけないというのか」と怒ります。運転手は、「乗ってくださって光栄です。「ハドソン川の英雄」の記事は最高です」と言います。

 車の中からサレンバーガーは、自宅にいる妻・ローリーローラ・リニー)に電話をします。
 機長が「マスコミが大勢待ち受けている」と言うと、妻が「こっちも」と応じます。



 機長らは、マスコミにもみくちゃにされながらホテルの中にやっとの思いで入りますが、さあこれからどのように物語は展開するのでしょう、………?



 本作は、2009年1月15日に実際に起きた事件(この記事を参照)に基づいて制作されています。ただ、国家運輸安全委員会の調査が入り、英雄的な行為とされたことに疑問が呈されることによって、一方では機長の人間性が描かれることになり、他方で起きたことを客観視できることにもなり、ある意味で単純な出来事に深みが加えられているように思いました。

(2)本作が描くUSエアウェイズ1549便の事故は、わずか3分間ほどの出来事に過ぎません(注2)。救助に要した時間も24分間ほど(注3)。



 それだけをいくら克明に描いても映画にならないと考えたのでしょうか、本作では、事故があってからそれほど時間を置かずにNTSBによる調査や公聴会が行われたように描かれています(注4)。それも、NTSBの人間を、ある程度悪役に仕立てながら(注5)。
 でも、そうすることによって、事故に焦点を当てるだけでは表し得なかった機長の人間性が巧みに描かれることになり、さらには事故の全体像をより幅広い視点から見通せることになったように思われます。



 特に、「PTSD」の症状が事故直後から機長に現れた様子が(注6)、上記(1)に記したように、映画の冒頭で描かれていますし、さらには公聴会における機長の証言が本作の山場になっています(注7)。

 なお、「PTSD」と言えば、本作を制作したクリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』が直ちに思い起こされるところです〔同作についての拙エントリの(2)をご覧ください〕。
 そして、思い起こすと言えば、本作を見て、クマネズミは『フライト』(2013年)のことが頭をよぎりました。
 同作も飛行機事故に関する作品で、尾翼とエンジンにトラブルが生じて機体の制御ができなくなったものの、機長のウィトカーデンゼル・ワシントン)の長年の経験と勘によって、無事に着陸することができます。
 本作ではサレンバーガー機長が機体をハドソン川に着水させますが、それと同じように、同作のウィトカー機長は、背面飛行した挙句、草原に胴体着陸させることによって、犠牲者を最小限にとどめることができました。

 ただ、違っている点はいくつもあります。
 なにより、本作が事実に基づいているのに対し、同作はフィクションなのです。
 また、同作でも本作と同じようにNTSBの調査が描かれています。ただ、本作の場合、NTSBは機長の判断を的確なものと認めるのに対し(注8)、同作では、NTSBの公聴会において、ウィトカー機長は飛行中に飲酒したことを正直に告白してしまい、刑務所に入ることになってしまうのです。
 そのため、同作は、ウィトカー機長の類まれなる操縦技術(なにしろ「背面飛行」を敢行するのですから!)によって沢山の命が救われたことよりも、むしろ、アルコール依存症の恐ろしさとか、“正直であることの大切さ”の方を訴えている作品と見られてもしまいます。
 その点からすれば、本作は、起きたことを劇的にではなくあくまでも客観的に淡々と描いており、マスコミで“奇跡”と賞賛され機長が英雄視された事件を描くやり方としては、極めて適切ではないかと思いました(注9)。

(3)渡まち子氏は、「いくらでも冗長にできる物語を、約90分にキリリとまとめてみせた編集が潔く、緊張感を持続させてくれる。いい意味での古風な人間讃歌を作るイーストウッド監督らしさが出た良作だ」として75点をつけています。
 中条省平氏は、「われわれは自分の仕事をしただけだ」という機長の言葉に、イーストウッドが描きつづけてきたプロフェッショナルの心意気が美しく結晶している」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
 北小路隆志氏は、「本作での大惨事の映像は、今日の映画のシミュレーション化への批判的言及かもしれない。なるほどそれは便利な技術だが、「初めての出来事」にそれでも適宜対応しようとする人間のとっさのアクションを捉えられない」などと述べています。


(注1)監督は、『アメリカン・スナイパー』のクリント・イーストウッド
 脚本は、トッド・コマーニキ
 原作は、サレンバーガー機長とジェフリー・ザスローが書いた『Sully: My Search for What Really Matters』(あるいは、『Highest Duty: My Search for What Really Matters』)。

 なお、出演者の内、最近では、トム・ハンクスは『ブリッジ・オブ・スパイ』、アーロン・エッカートは『ラビット・ホール』、ローラ・リニーは『最終目的地』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の杉江弘氏のエッセイ「ハドソン川の奇跡は、なぜ起きたか」によれば、エアバス機は「離陸直後の(午後)3時27分11秒、カナダガンの群れに突入し」、「3時30分42秒ハドソン川に着水した」とのこと(かかったのは3分強です)。
 なお、同機がラガーディア空港を離陸したのは、午後3時25分56秒ですから、それからしても着水まで5分弱しかかかっていません。

(注3)劇場用パンフレット掲載の芝山幹郎氏のエッセイ「プロが描いたプロ」によります。

(注4)劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」では、「劇中では、不時着水直後のサリーは国家運輸安全委員会(NTSB)の調査にほとんどの時間を費やすことになる」と述べられています。

 なお、そこでは追加的に、「NTSBの聴聞が始まったのは18カ月後」とのことと書かれています。
 ですが、NTSBの結論が出されたのは2010年5月4日(NTSBの報告書の日付)ですから、「NTSBの聴聞が始まったのは18カ月後」ではなく、「NTSBの報告がなされたのは15カ月後」ではないかと思われます(なお、同報告書のP.131に記載されている「Public Hearing」は2009年の6月9日~11日に行われています)。
 また、この記事に「関連記事」として記載されている朝日新聞記事によれば、NTSBは、事故の翌日から調査を開始している模様です。

(注5)本作からは、NTSBのポーターらが、まるで機長らが飛行機をラガーディア空港か、あるいはテターボロ空港に着陸させることができたのではないか、という疑いを持って、機長らと相対しているかのように思えてしまいます。

(注6)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、「すぐにパイロットの仕事に復帰したのですか?」との質問に対し、サレンバーガー機長は「PTSDの症状がやわらぐのを待たなければならなかった。通常通りに睡眠をとれるようになって、血圧や脈拍が通常値になるまで3ヵ月ほどかかった」と述べています)。
 なお、ここらあたりは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」において、「サレンバーガーと作家のジェフリー・ザスローが著した原作には盛り込まれなかった部分に映画は焦点を当てている」に対応していると思われます。

(注7)機長は、NTSB側が行ったシミュレーションでは、両エンジンの不具合が判明してから空港に引き返すか着水するかを決断するまでに要した時間(30秒あまり)がマッタク考慮されていないと反論します。30の時間を組み込んでシミュレーションすると、ラガーディア空港とテターボロ空港のいずれに向かっても、途中でビルに激突してしまいます。

(注8)なお、上記「注4」で触れたNTSBの報告書の結論部分においては、例えば、「15. The captain’s decision to ditch on the Hudson River rather than attempting to land at an airport provided the highest probability that the accident would be survivable」などと書かれています。

(注9)最後につまらないことですが、サレンバーガーが、救命ボートからフェリーに乗り移った時に最初に行ったのは、携帯電話で妻・ローリーと連絡を取ることでした(彼が「大丈夫だ、かすり傷一つない」と妻に言うと、家にいた妻は初めのうち何のことかわからず「?」の状態になると、彼は「TVを点けろ。ハドソン川に降りたんだ」と言います。慌ててTVを点けた妻は、画面を見て「まさか…」と絶句します)。
 このシーンは、機長が、以降の厳しい局面を乗り越えていくために家族(特に妻)の支えがなくてはならないものだったことを描くためにも、必要なのでしょう。
 ただ、日本の雰囲気だったら、最初に会社に連絡を入れるのではないかな、家族とプライベートな連絡を取るのは一段落してからになるのではないかな、とほんの少しながら違和感を覚えました。
 なお、この記事によれば、ラガーディア空港から飛び立つ前に、機長は、会社の方に、携帯電話で登場した乗客数を連絡しているようです(映画の中で、「機長には乗客名簿は渡されない」といった会話があったように思いますが、よくわかりません)。



★★★★☆☆



象のロケット:ハドソン川の奇跡
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コロニア

2016年10月04日 | 洋画(16年)
 『コロニア』をヒューマントラストシネマで見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「事実に基づく物語」との字幕が表示されます(注2)。
 次いで、1973年当時のニュース映画の映像が流れ、アジェンデ政権下のチリ・サンチャゴで大規模なデモが行われている様子が映し出され、「一方でソ連が政権を支持し、他方でアメリカはアジェンデを非難、内戦状態にありますが、世界中が見守っています」といった解説が入ります。

 場面は変わって、旅客機がサンチャゴの飛行場に高度を下げて降りていきます。
 ドイツ人キャビンアテンダントのレナエマ・ワトソン)が、「ベルトを締めてください。当機は間もなく着陸いたします」と機内放送をします。
 その間に、男(ダニエル:ダニエル・ブリュール)が群衆にビラを配っているシーンが挿入されます。



 旅客機を降りた乗務員たちの乗り込んだ車がサンチャゴの市内を走りますが、デモ隊にぶつかって急停車します。車の中のレナが、外にダニエルを見つけて、乗務員の仲間に「私はここで降ります。4日後にまた会いましょう」と言って、ダニエルのところに向かっていきます。
 ビラを配っているダニエルもレナを認め、2人は抱き合います。
 ダニエルが「来るとは思わなかった」と驚くと、レナは「驚かせたくて」と答え、ダニエルは「向こう見ずだな」と付け加えます。

 2人はダニエルの家に。
 レナが「隠さなくてはいけないものはないの?」と尋ねると、ダニエルは「隠し女とか」と応じ、それに対しレナは「もしいたらタマを切り落とすわよ」と脅かします。
 そして、レナは「家宅捜索は終わり。次は身体検査」と言い、2人はベッドへ。

 ダニエルとレナは、大統領派の集会に参加します。
 求められて、ダニエルは演壇に上がって、「4ヶ月前にチリに来た。チリは僕の母国になった。戦おう」と挨拶します。そこには、彼が制作した「チリに自由を」のポスターが飾られています。

 突然、チリ軍部によるクーデターが起こり、街に出てその様子をカメラに収めようとしていた2人は兵隊に捕まってしまいます。さあ、その後どうなるのでしょうか、………?

 本作は、1973年に、社会主義のアジェンデ政権を倒した軍事クーデターに巻き込まれて、秘密警察によってナチスの強制収容所を模した施設「コロニア・ディグニダ」に拉致されてしまった恋人を救出すべく、自ら進んでその施設に入り込んだ女性の物語。事実に基づいて制作されている作品ながら、なまじのサスペンス物に優る手に汗握る脱出劇が描かれているので驚きます。

(以下は、本作がサスペンス物であるにもかかわらず、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作については、チリ・クーデターといった歴史的背景はあまり重視せずに、それは単なる枠組みとみなして、むしろ描かれているのは、警戒厳重で社会から隔絶した秘密アジトを、互いに恋する二人が脱出するフィクションのドラマと捉えた方がいいように思います。
 確かに、ダニエルとレナは、外国人にもかかわらず、街頭で、クーデターを起こした軍部に属する兵士によって捕まります(注3)。



 でも、クーデターそのものが描かれるのはその時だけで、レナは釈放されますし、ダニエルも、いきなり赤十字マークの付いた車に乗せられてコロニア・ディグニダに連行されてしまうのです(注4)。
 さらに、コロニア・ディグニダと政権との関係が示されるのも、ピノチェト大統領がその施設を側近とともに訪れる時くらいに過ぎません(注5)。
 本作において中心的に描かれるのは、皆から「教皇」と呼ばれているシェーファーミカエル・ニクヴィスト)の独裁的なやり方と(注6)、ダニエルとルナの逃亡劇と言っていいでしょう。

 ただ、ダニエルとルナの逃亡阻止について「教皇」側がとる方法は、ハード面に頼りすぎていて(注7)、ソフト面が疎かになっているような感じがしてしまいます。
 なによりも、ダニエルを救出するためにコロニア・ディグニダに行ったレナは、いともあっさりとその中に入り込むことができてしまうのです(注8)。
 最初にシェーファーによる面接がありますが、レナは、最近ここに連行されてきたばかりのダニエルと同じ外国人(二人ともドイツ人の設定)なのですから、入所を希望する理由をいくら説明しても(注9)、「教皇」の方では、最大限に警戒するはずであり、その嘘を見抜くのも簡単ではないかと思われます(注10)。
 ところが、最後にレナが「あなたに会うためにここに来たのです。私にはあなたが必要なんです」と言うのを聞くと、「教皇」はレナの入所を許可してしまいます(注11)。



 また、コロニア・ディグニダで暮らすようになっても、レナは、「教皇」の配下のギゼラリチェンダ・ケアリー)の命じることに、表立って反抗しないものの、心から従うような素振りを見せません。そうであれば、常識的には、「教皇」側は“要注意人物”としてレナを監視下に置くはずのところでしょう(決して単独行動はさせないなどの)。



 ですが、そのような警戒は何もしていないように思われます。それで、夜間、レナが貯蔵室で一人で芋の皮むき作業をしている時に、連絡のついたダニエルと何度も話すことができたのだと思われます(注12)。

 モット言えば、ダニエルとレナが二人だけで会うことができた貯蔵室に、外に通じる地下通路の入口の一つが設けられていたというのは、かなりご都合主義的な感じがします(注13)。

 しかしながら、本作については、様々の問題点を指摘できるものの、コロニア・ディグニダを逃れて国外脱出するまでのダニエルとレナの逃亡劇は、見る者をハラハラさせ(注14)、全体としてはまずまずのサスペンス作品に仕上がっているのではと思いました(注15)。



(注1)監督‥脚本は、フローリアン・ガレンベルガー(見終わってから、日本では限定的にしか公開されていない『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』の監督であることを知りました)。

 なお、この記事によれば、「(2016年7月)1日、イギリスの5館で公開され、うち3館における週末興行収入がわずか47ポンド(約6,345円・1ポンド135円計算)」だったとのこと。

 また、出演者の内、最近では、エマ・ワトソンは『ノア 約束の舟』、ダニエル・ブリュールは『黄金のアデーレ 名画の帰還』、ミカエル・ニクヴィストは『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』で、それぞれ見ています。

(注2)実際にチリにあったコロニア・ディグニダについては、Wikipedia のこの記事をご覧ください。

(注3)二人は、兵士らによって、他の捕らえられた人々と一緒に、大きな競技場に連れて行かれますが、雰囲気は、『黄色い星の子供たち』で描かれた「ヴェル・ディヴ(冬季競輪場)」に集められたユダヤ人たちと類似しているように感じました。

(注4)アジェンデ大統領派の内情に詳しい者(軍側のスパイでしょう)によって、ダニエルは、ポスターを描いた男だと指摘されたことによります(ただ、スパイによって、大統領者の運転手などと指摘された者は、その車には乗せられません)。
 コロニア・ディグニダに連行されたダニエルは、地下室で、顔面が変形してしまうほど酷い拷問を受けます。どうやら、コロニア・ディグニダは、秘密警察の拷問部屋となっていたようです(ただ、どうしてこれほど離れたところにそんなものを設ける必要があるのか、よくわかりませんが)。

(注5)映画によれば、簡単な歓迎行事が行われるくらいです。
 ただ、ピノチェト大統領に同行した軍の高官から、シェーファーに、兵器とか毒ガス(サリン)とかについて要望が出されますが。
 なお、映画で描かれているコロニア・ディグニダの規模からすると、そこで、こうした兵器などが製造・保管されているようにはとても思えません。
とはいえ、上記「注2」で触れた記事によれば、「2005年6月から7月にかけて、チリ警察はコロニー内部あるいは付近に兵器の隠し場所2か所を発見した」とのこと。
あるいは、映画に描かれていない工場があって、そこで作られていたのでしょうか(もしかしたら、女は農作業に従事し、男は兵器製造にあたっていたのかもしれません)?

(注6)カルト教団の教祖といった風情です。

(注7)ナチスが各地に設けた強制収容所と同じように、コロニア・ディグニダは、電流が通る鉄柵によって囲まれており、中には監視塔が立ち並び、さらには獰猛な犬が何匹も飼育されています。
 確かに、一度、ダニエルは正攻法によってコロニア・ディグニダから逃亡しようとしますが、鉄柵の電流に触れて気絶してしまい、その試みは失敗してしいます。

(注8)コロニア・ディグニダは厳重に管理され秘密扱いされているにもかかわらず、外国人のレナにも、ダニエルがそこに連行されたことが簡単にわかってしまい、ダニエルが捕まってから4日目にはその施設に向かうことができるのです(コロニア・ディグニダに向かう途中、レナは、バスの中から、飛行機の乗務員に「今日のフライトは乗れなくなった」との連絡を入れます)。

(注9)レナは、「これまでは神を探して暮らしてきました」とか、「あなたは信徒を天国に導くお方です」などと言います。

(注10)「教皇」は、「君はまだ若い、恋人がいるはずだ」、「お前は売春婦だ。地獄の獣の臭がする」などとレナを追求するのですが。

(注11)「教皇」は、寝る前、夜間の勝手な行動を封じ込めるために(あるいは性欲を減退させるためでしょうか)入所者全員に薬を飲ませます。「教皇」は、たとえレナが要注意人物であるにしても、それによってコントロールし得ると考えたのかもしれません。

(注12)ダニエルが、どうしてその時間に貯蔵室に一人で出向くことができたのか、よくわかりませんが(ダニエルは、一度逃亡を試みたのですから、監視下に置かれているはずなのですが。あるいは、ダニエルは、酷い拷問によって精神に障害をきたした者と「教皇」側にみなされているため、逃亡しても重大視されなかったのかもしれません)。

(注13)さらに言えば、レナとダニエルが逃亡したとわかった段階で、「教皇」側は、なぜ地下通路の外部脱出口に捜索隊を振り向けなかったのでしょうか?

(注14)特に、やっとの思いで二人が駆け込んだ在チリのドイツ大使館も、決して安全なところではないということが分かるのですから。

(注15)本作のラストでは、サンチャゴ空港を飛び立つ飛行機が映し出されますが、管制官の指示を振り切っての離陸ですから、チリ空軍によってすぐにも強制着陸させられるのではないか、などの疑問も湧いてきます。あれやこれやを考え合わせると、本作は、コロニア・ディグニダとかドイツ大使館の問題の所在を世間にわかりやすくアピールするために、恋人らの逃亡劇というフィクションを物語の中心に置いたのではないか、と思えてきます。



★★★☆☆☆


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アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード)

2016年09月23日 | 洋画(16年)
 『アンナとアントワーヌ  愛の前奏曲(プレリュード)』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)『男と女』(1966年)のクロード・ルルーシュ監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、本作を監督したルルーシュが画面に登場し、「本作は、私の41本目の作品。今回は日本に行けず残念ですが、次回作(注2)が完成したら東京に行きます」などと挨拶します。

 その後、本編が始まります。
 まず、混雑した道路に牛が寝そべっている様子とかガンジス川など、よく見かけるインドの都市の光景が映し出され、さらにまた、そうした光景を手持ちの小型デジタルカメラで写し取っている男の姿が映し出されます。
 どうやらその男は、映画監督のラウールラウール・ヴォーラー)であり、新作のために撮影をしているようです。

 場面は変わって、ダンス教室で若い男女がダンスの練習をしています。その中のアヤナシュリヤー・ピルガオンカル)に対して、先生は「そうじゃない、こう飛べ。向きを変えてはダメだ」などと厳しく叱責します。
 さらにもう一つの場面では、ピストルを持った若い男サンジェイアビシェーク・クリシュナン)が宝石店に強盗に入り、宝石を奪って、最初はオートバイ、次いで待機していた車に乗り換えて逃亡します。
 それらの場面が何回か交互に映し出された後、ダンスの練習が終わって自転車に乗って帰宅する途中のアヤナが、サンジェイの乗った車と衝突してしまいます。
 サンジェイは、そのまま逃亡しようとする運転手に「止めるんだ」と言って、車を衝突現場に戻します。運転手が逃げてしまったので、サンジェイは、傷を負って倒れているアヤナを車の中に運び、「死なないでくれ」と呟きながら病院に急ぎます。
 病院に着くとサンジェイは、大声で「重傷なんだ、早く手当してくれ」と叫び、アヤナを手術室に運び込みます。そして、サンジェイが病院から出ようとすると、大勢の警官が待ち構えていて、彼は捕まってしまいます。

 留置場の面会室の場面。
 監督のラウールがサンジェイと面会し、「君のことを映画にしたい」「現代版の『ロメオとジュリエット』にしたい」と申し入れています。

 場面は更に変わって、場所はパリ。
 世界的な映画音楽家アントワーヌジャン・デュジャルダン)は、ピアニストのアリスアリス・ポル)とベッドで話しています(注3)。

 次いで、映画音楽の仕事でインドに行ったアントワーヌは、在インド・フランス大使サミュエルクリストファー・ランバート)が主催する晩餐会(注4)で大使夫人のアンナエルザ・ジルベルスタイン)に出会います。さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?



 本作でルルーシュ監督が、相も変わらず男女の恋愛を描いているといえばそれまでですが(注5)、舞台をインドにしているところがミソと言えるでしょう。インドの群衆、東洋哲学、神秘的な女性といったものが登場することによって、ご都合主義的なところが多々見られるにしても、まあ許されるかなと思えてしまいます。

(2)本作の導入部では、インドでよく見かける景色が単純に映し出されるわけではなく、上記(1)に記したように、実話に基づいているという設定のインド映画『ジュリエットとロメオ』の撮影風景やその映画のカットが映し出されたりする中で、インドの都市の光景が描かれていて、なかなか巧みな作りとなっています。
 そして、本作の主人公・アントワーヌは、そのインド映画の音楽を担当するということで、インドにやってくるわけです。映画の中でも、ディスプレイに映画のカットが映し出されるすぐそばでオーケストラが録音用に演奏し、それをアントワーヌがチェックしているシーンがあります。



 このように、さすがルルーシュ監督という出だしながら、物語が展開し始めると、雰囲気がなんだかオカシナなものになってきます。
 フランスからやって来た主人公・アントワーヌとフランス大使夫人・アンナとが、大使主催の晩餐会で簡単に意気投合するのはまあかまわないとはいえ、あれよあれよという間に2人だけで旅行するまでに発展してしまうのです。
 それも、アントワーヌの方は、ピアニストのアリスがわざわざパリからインドまでやってくるというのに。
 また、アンナの方は、愛する夫との間に子供がなかなかできない事態を改善するためという理由で(注6)、霊的指導者アンマ(注7)に会いに旅行に行くと言うのですが。

 尤も、アントワーヌの方は、電話でアリスから「結婚して」と言われるものの、その気がない彼は「待ってくれ、後から電話する」と言っているのですから、そんなに問題ないでしょう(注8)。
 ただ、アンナの方がどうもよくわかりません。



 夫のフランス大使・サミュエルを愛していると公言し、彼の子どもを欲しがっているにもかかわらず、どうして、途中(注9)で合流したアントワーヌをすぐさま受け入れて、一緒の旅をしてしまうのでしょうか?
 もちろん、晩餐会で2人が意気投合して(注10)、恋心が直ちに芽生えてしまったから仕方がないと言えばそれまでですが、あまりに事態の進行が早すぎる気がしてしまいます(注11)。
 それに、アンナは東洋哲学に入れ込んでいるためなのでしょうか、アントワーヌとの間に起きたことも、正直にサミュエルに話せば許してくれると考えていたようで、これも40過ぎの女性にしては随分と甘いものの見方をしているように思えてしまいました(注12)。

 それでも、物語全体が、いろいろなものが入り混じって独特の雰囲気を醸し出すインドにおける出来事を語るものであり、特に、アンマにアンヌとアントワーヌが大きく抱擁されるシーンなどを見ると、まあこういうこともあるかもしれない、と思えてしまうのですが(注13)。

(3)渡まち子氏は、「これは続編? 姉妹編? いや、やはり新しい大人の恋愛映画だ。クロード・ルルーシュ監督は1937年生まれなのだが、その感性は昔と変わらずみずみずしい」として65点を付けています。
 秋山登氏は、「老練な語り口には悠揚迫らざるものがあって、私たちがそれと意識しない間に、一瞬、日常と非日常とが相接する夢幻の世界に誘われていたりする。「愛が唯一のテーマ」と監督はいうのだが、しかしここには、アンマに象徴される霊性へ傾斜した文明論の気配が濃い」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「アンナとアントワーヌの行動は「一度きりの人生を悔いることのないよう愛を貫いて生きる」という西洋の価値観に基づくもの。真逆の現実や世界観が広がるインドを舞台に2人が愛を深めていくという構造には共感できない」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『男と女』のクロード・ルルーシュ
 音楽はフランシス・レイ

 なお、出演者の内、ジャン・デュジャルダンは『ミケランジェロ・プロジェクト』で最近見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の村上香住子氏のエッセイ「愛のゆらぎに胸を打たれる」によれば、ルルーシュ監督は、「次作『Chacun sa vie et son intime conviction』の撮影に入ったばかり」とのこと。

(注3)例えば、アリスが「あなたは世界的に有名」「女たらし」と言うと、アントワーヌは「女性収集家だ」と答え、またアリスが「何が一番好き?」と訊くと、アントワーヌは「自分かな」と言い、今度はアントワーヌが「君は何が一番好き?」と尋ねると、アリスは「愛よ」と応じます。

(注4)アントワーヌは、『偶然のシンフォニー』でアカデミー賞を獲得した世界的な映画音楽作曲家ということで、晩餐会のメインゲストとして呼ばれたようです。なお、この晩餐会には、アントワーヌが音楽をつける『ジュリエットとロメオ』に出演するサンジェイとアヤナも呼ばれています。

(注5)『男と女』(1966年)の原題が『Un Homme et Une Femme』で、本作の原題が『Un+Une』。

(注6)よくわからないのは、どうして子供ができないことをそんなにアンナが悩むのか、という点です。
 まず、アンナがサミュエルと結婚したのはいつごろなのでしょう?
 挿入されている回想シーンによれば、アンナがインドを旅行している最中に、パスポートなどの入っているバッグをなくしてしまい、どうしたらいいのかパニック状態になってフランス大使館まで辿り着いたところ、丁度大使が車に乗って門から出てきたのに遭遇し、懇切に話を聞いてもらい、云々ということで結婚に至ったようです。
 とすると、現時点からせいぜい2,3年前の結婚であり(大使の任期はせいぜいそのくらいでしょうから)、子供ができないと言って騒ぐのは時期尚早ではないでしょうか?
 あるいは、サミュエルが大使館前でアンナと遭遇したのは、彼が大使の時ではなく、モット若く公使とか1等書記官の時のことなのでしょうか(でも、車の中のサミュエルは、現時点の彼と変わりがない顔付きのように思われます)?

 それと、アンナを演じているエルザ・ジルベルスタインですが、いくら若作りをしていても、実年齢の48歳とそうかけ離れた設定ではないものと思われます。とすると、無論例外はいくらでもあるにせよ、一般的には、望めばすぐに妊娠できる年齢ではないように思われます。
 また、大使にしても、クリストファー・ランバートの実年齢が61歳ですから、そう簡単ではないかもしれません。
 なにより、アンナは、その後の物語の展開からすると、1度アントワーヌとベッドインしただけで妊娠してしまったのを見ると、あるいはサミュエルの方に不妊原因があるのではないか、とも考えられるところです。

(注7)アンマは実在の人物で、映画に登場するのもアンマ自身。



 なお、アンマについては、例えばこの記事とかこの記事が参考になります。

(注8)監督のラウールとの会話で、アントワーヌは、「結婚の話が持ち上がって困っている」「僕は、結婚に向いていないんだ」などと話しています。上記「注3」の会話からも分かるように、またアンナに「恋に恋している」「恋の感覚が好き」と言ったりしているように、アントワーヌは、独身で女性遍歴を楽しみたいようなのです(とはいえ、晩餐会の席上、アントワーヌは、アンナに「アリスと結婚する予定」と言っているのですが)。

(注9)アンナは、ケーララ州のアンマに会う前に、まず聖地バラナシ(ヴァーラーナシー:英語読みではベナレス)に列車で行くのですが(アンナは「インド人と同じことをする」と言います)、飛行機でバラナシにやってきて待ち構えるアントワーヌと出会うことになります。

(注10)アンナがアントワーヌに話したところによれば、夫のサミュエルがアンナの態度に怒って、晩餐会後「そんなに彼に夢中なら、出て行くがいい」と言って彼女を追い出したとのこと。それで、アンナは、アントワーヌが宿泊するホテルにやってくるのです(ただこの時は、アントワーヌが「サミュエルは本気じゃないのでは?」とか「一方的に攻められるのは好きじゃない」などと言って、アンナをサミュエルのもとに帰したものと思います)。

(注11)晩餐会の翌日、アンナは、アントワーヌがレコーディングしている現場に現れ、昼食を彼とともにするとはいえ、その翌日にはもう旅行に旅立つのです。

(注12)アンナとアントワーヌは一夜ベッドをともにするのですが、アンナの方は、サミュエルと離婚することになるなどとはマッタク思ってもみないようです(アントワーヌは、いうまでもなくアンヌとの結婚など微塵も考えてはおりません)。

(注13)例えば、アンナは、晩餐会のとき、アントワーヌに「インド人はスピリチュアリティそのもの」とか、「私は無限の宇宙と対話する」などと話しますし、また、アンマについて「彼女は本物の神」「私は奇跡を信じている」と言い、さらには監督のラウールが、アントワーヌに「路上生活者は、転生を繰り返して学んでいるんだ。苦しみこそ意義があると」と述べたりします。こういう台詞は、西欧人が東洋に抱いているイメージ(いわゆるオリエンタリズムでしょうか)が色濃く反映しているとも言えそうです。ただ、アントワーヌのしつこい頭痛が、医師は「脳内に血栓があり危険な状態」というものの、アンマに抱かれると解消してしまうようなのは、あるいは、映画制作者側もインドの雰囲気に飲み込まれてしまっているのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲
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