『バケモノの子』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。
(1)細田守監督による『サマーウォーズ』が面白かったので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、暗い画面に炎などが見える中、「昔、ほんのすこし前の出来事。10万のバケモノを束ねる宗師の卯月が引退して神様になると言い出した。そして、熊徹が新しい宗師の候補の一人になった。だが、宗師になるためには弟子が必要にもかかわらず、熊徹は大太刀を振り回すだけのバケモノで、弟子なんかいない。まして息子などいるはずもない」などといったナレーションが入ります。
次いで、渋谷のスクランブル交差点の光景が映し出され、行き交う人々の中に混じって歩いている一人の男の子・蓮(バケモノの世界では九太)に焦点が当てられます。
蓮が、路地に入り込んで、座って休み、食べ物を食べていると、道に落ちている空き缶の向こう側に小さな生き物・チコを見つけます。
蓮はチコに、「俺も一人ぼっちだよ」と話しかけます。
次いで、引越しの場面。
9歳の蓮が、「交通事故だから仕方がない、お前はこちらで引き取る」と言う親族に対し、「父さんはどこにいるの?なぜ来てくれないの?」と尋ねると、「離婚したの知ってるでしょ。親権はこっちなのだし」との答え。
それに対し蓮は、「一人で生きていく、一人で生きて見返してやる。お前たち大嫌いだ、父さんも大嫌いだ」と言って、飛び出します。
また渋谷の場面で、蓮は、高架下の自転車置き場(注2)に隠れています。
そこで、蓮は、弟子を探しに歩いている熊徹と遭遇するのですが、さあ物語はどのように展開していくのでしょうか、………?
本作は、主人公の少年が、ひょんなことで渋谷の路地裏からバケモノ界に入り込んで、武術に長けたバケモノと師弟関係を結んで、成長していくというお話。登場するキャラクターのそれぞれがくっきりと描かれており、また人間界との関係も絶妙であり、なおかつアクション場面もなかなかの迫力があり、いろいろ問題点は感じられますが、まずまずの出来栄えだと思いました。
(2)本作について、劇場用パンフレットのインタビュー記事で、細田監督は、「「おおかみこども~」は、母親が子どもを育てる映画でしたが、これに対して、父親は子どもに何ができるのだろうか」云々と述べていて、本作は父親と息子との関係に焦点を当てた作品のように考えられているようです(注3)。
とはいえ、熊徹は師匠であるこそすれ血縁上の父親では全くありません(注4)。
言ってみれば、『るろうに剣心 伝説の最後編』で描かれている緋村剣心と比古清十郎との関係にも相当するのではないでしょうか?剣心も親がおらず、比古清十郎が名付け親であり、かつまた育ての親でもあるのです。
その上、九太が熊徹を胸の中に取り込んで一郎彦と対決したのと同じように、剣心も、比古清十郎から奥義の伝授を受けた上で志々雄との対決に臨みます。
こんなところから、本作は、よく見かける成長譚をバケモノの世界を取り込んで描き出している作品ではないかと思います。
ただ、それにしては、バケモノの世界に女っ気があまり見当たらないのはどうしたことでしょう(注5)?
特に、熊徹の周囲には、豚顔のバケモノ・百秋坊とか猿顔のバケモノ・多々良しかおらず、いったい彼らの身の回りの世話は誰がやっているのでしょう(注6)?
熊徹は、その性格等からして女っ気けがないとしてもしょうがありませんが、人間世界で言うオバサン的な存在までも見当たらないのはどうしたことでしょうか?
あるいは、バケモノの世界では性がないのでしょうか?
でも、熊徹と宗師の座を争う猪王山には子供がいるのです(注7)。
それに、バケモノの群衆の中にスカートを履いているバケモノも描かれています。
よくわかりませんが、このような世界で、「父親」とか「子」と言ってみてもどうなのかな、と思ってしまうのですが。
それとよくわからないのが、映画の参考文献として挙げられているメルヴィルの『白鯨』と、中島敦の『悟浄出世』(この青空文庫で読むことが出来ます)です。
前者については、蓮の引越しの際に登場しますし、九太が図書館で取り出すのがこの本であり、また一郎彦がクジラに変身するのもこの本を路上で見つけたことによるわけで、映画の中では随分と重要視されている感じを受けます。
確かに、本作で描かれる九太と一郎彦との戦いは、『白鯨』で描かれているエイハブ船長と白鯨のモビィ・ディックの死闘を下敷きにして、素晴らしい出来栄えになっています。
でも、どうして蓮(九太)と『白鯨』とが結びつくのか、本作の展開の中では唐突であり、余りピンと来ない感じがしてしまいます(注8)。
後者については、古典の『西遊記』自体、あるいは中島敦の『わが西遊記』を構成するもう一つの短編『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』(これもこの青空文庫で読むことが出来ます)が参考文献として選ばれているのであればまだしも(注9)、どうしてこの本がという気がしてしまいます。
というのも、『悟浄出世』の方は、三蔵法師らに出会う前の沙悟浄が、「今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今まで纏まった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふう」になってしまったために、「この河の底に栖むあらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占星師に親しく会って、自分に納得のいくまで、教えを乞おう」と遍歴の旅に出かける物語だからです。
こんな沙悟浄の姿がどのように本作に関係してくるのか、なかなか理解しづらい感じがしてしまいます(注10)。
とはいえ、そんなことはともかく、よく知る渋谷の中心街の様子が実に詳細に描かれていたり、熊徹の家がファベーラをイメージして描かれていたりする点にいたく興味を覚え(注11)、さらには、熊徹と猪王山の宗師の座をかけた一騎打ちや、特に、九太と一郎彦の幻想的な戦いぶりの映像には圧倒されました(注12)。
それにしても、渋天街では治安が悪そうとも思えないのに(武器を持って歩いているバケモノが見当たりません)、どうして宗師の後継者(注13)として武術に優れたバケモノが選ばれることになるのでしょう(それも、弟子を持っていることが条件になるのはなぜなのでしょう)(注14)?
(3)渡まち子氏は、「強くなるために修行した少年が、心と身体のバランスがとれた、本当の強さを学ぶことで成長する。すべての世代が楽しめる王道エンタメ・アニメーションに仕上がっている」として70点をつけています。
前田有一氏は、「「おおかみこどもの雨と雪」を見て期待してやってきたようなライトユーザーであれば、そこそこの満足と感動の涙を流して帰路につけるであろう、安定した出来のアニメーション映画である」として55点をつけています。
中条省平氏は、「自己確立のなかで、主人公はバケモノの武道と人間の学問とに引き裂かれ、自分の分身というべきライバル・一郎彦の体現する悪とも向かいあう。娯楽としてのアニメにこれだけ濃密なドラマをつめこんだ力業は評価するが、そこに「白鯨」の新解釈まで持ちこむのはいささかやり過ぎではないか」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
森直人氏は、「熊徹と九太、両方に細田がいる。明朗な冒険活劇に、これほどパーソナルな実感を刻む姿勢に筆者は惹かれる。細田自身の手による脚本は、台詞にゴツゴツと説明的で生硬な箇所も目立つのだが、あくまでも自分で語り切ろうとする情熱が瑕瑾を上回るのだ」と述べています。
読売新聞の福永聖二氏は、「親子とは何か、自分はいったい何者なのか。そんなことを考えさせるが、理屈はこねなくてもワクワクするファンタジーとして子供も楽しめる作品だ」と述べています。
(注1)本作の監督・脚本は『サマーウォーズ』やや『おおかみこどもの雨と雪』(DVDで見ました)の細田守〔同監督による原作小説『バケモノの子』(角川文庫)がありますが未読〕。
なお、この拙エントリで、アニメ作品における監督の役割について触れた際に、細田監督を取り上げています。
(注2)渋谷駅の東西を結んでいる二つのガードの内、南寄りの方に自転車置き場が設けられています。
(注3)このインタビュー記事においても、細田監督は、「前作『おおかみこどもの雨と雪』は“母と子”で、前々作『サマーウォーズ』は“親戚”でした。本作のテーマは“父と子”になると思います」と述べています。
(注4)ただ、細田監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、続けて「本当の父親だけでなくいろいろな形の父親や師匠が世の中にいて、そんなたくさんの人たちとの関わりが、ひとりの子どもを大きく育てていくのではないかと思いました」と述べているところからすると、「血縁上の父親」(“本当の父親”)に限定して「父親」という言葉を使っているわけではなさそうです(本作のタイトルの「バケモノの子」にしても、“熊徹の子どもの九太”ということだとしたら、「子」も「血縁上の子」を意味していないことになります)。
(注5)公式サイトの「CHARACTER & CAST」で挙げられている中で女性は、楓と九太の母という人間世界における登場人物だけです(17歳になって人間世界に復帰した際には、今度は楓が蓮にぴったりまといつきますが)。
なお、チコという小動物が九太とともに行動するところ、これが一部で言われているように蓮の母親の生まれ変わりだとしたら、例外といえるかもしれません。
また、『おおかみこどもの雨と雪』では、逆に、雨と雪の父親が急死してしまうと、母親の花には男っ気が全くなくなってしまいます(せいぜい90歳の韮崎がなにかと気にかけてくれるくらいです)。
(注6)ジェンダー・バイアスのかかった言い方で恐縮です。
(注7)猪王山の息子の二郎丸に気に入られて、九太はその家に招待されますが、子どもたちで遊ぶだけで、母親は出てこなかったように思います。
(注8)蓮がいくら児童版を読んで知っていたからといって、世界文学全集に入っている完訳版の方は、大人でさえ気軽に手にできるシロモノではないのですから(楓が漢字を教えるとしても、蓮のように寝転がって読めるものとも思えません!クマネズミも、最初の方で挫折しました)。
また、楓は、「実は、主人公は自分自身と戦っているんじゃないかな?」とわかったようなことを口にしますが、柴田元幸氏が言うように「これは別に『白鯨』に限らずよく出てくる話」ではないでしょうか〔「柴田元幸の『白鯨』講義」(雑誌『SWITCH』本年7月号掲載)〕?
(注9)というのも、『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』では、沙悟浄の方から見た三蔵法師、孫悟空、猪八戒の姿が描かれていて、本作において、九太、熊徹、百秋坊、多々良が旅に出る姿と対応しているように思えるからですが。
(注10)このサイトの記事では、『悟浄出世』について随分とわかりやすく解説していますし、このサイトの記事では、「救済のために必要なのは賢者からの教えではなくて、賢者に尋ねに行くという骨折り損をもいとわない(悟浄の)姿勢」が、本作の「熊徹の動きを一挙一動真似してみる」九太の姿に通じている、と述べられていますが、よくわかりません。
あるいは、単に、「強さとは何か」を求めて旅に出る九太等の姿に悟浄の姿勢が類似しているというだけのことでしょうか?
(注11)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事で、美術設定の上條安里氏が、「監督のイメージはブラジルのファベーラという街」と述べています。
(注12)一郎彦のクジラが細かい玉となって飛び散る様は、『ラブ&ピース』でミドリガメの怪獣・ピカドンが最後に飛び散ってしまうシーンを思い出させました。
(注13)そもそも、宗師という地位にどんな魅力があるのでしょうか?
(注14)といっても、渋天街のことがすべて蓮の夢の中の出来事であり、父親に対するわだかまりの潜在意識が、こうした争いに現れているのだとしたら(母親に対する潜在意識がチコとなって)、どうでもいいことになりますが。
でも、これでは至極つまらない解釈にすぎませんし、なにより9歳の蓮が17歳まで入眠状態にあるというのも、およそリアルでない感じがしてしまいます。
★★★☆☆☆
象のロケット:バケモノの子
(1)細田守監督による『サマーウォーズ』が面白かったので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、暗い画面に炎などが見える中、「昔、ほんのすこし前の出来事。10万のバケモノを束ねる宗師の卯月が引退して神様になると言い出した。そして、熊徹が新しい宗師の候補の一人になった。だが、宗師になるためには弟子が必要にもかかわらず、熊徹は大太刀を振り回すだけのバケモノで、弟子なんかいない。まして息子などいるはずもない」などといったナレーションが入ります。
次いで、渋谷のスクランブル交差点の光景が映し出され、行き交う人々の中に混じって歩いている一人の男の子・蓮(バケモノの世界では九太)に焦点が当てられます。
蓮が、路地に入り込んで、座って休み、食べ物を食べていると、道に落ちている空き缶の向こう側に小さな生き物・チコを見つけます。
蓮はチコに、「俺も一人ぼっちだよ」と話しかけます。
次いで、引越しの場面。
9歳の蓮が、「交通事故だから仕方がない、お前はこちらで引き取る」と言う親族に対し、「父さんはどこにいるの?なぜ来てくれないの?」と尋ねると、「離婚したの知ってるでしょ。親権はこっちなのだし」との答え。
それに対し蓮は、「一人で生きていく、一人で生きて見返してやる。お前たち大嫌いだ、父さんも大嫌いだ」と言って、飛び出します。
また渋谷の場面で、蓮は、高架下の自転車置き場(注2)に隠れています。
そこで、蓮は、弟子を探しに歩いている熊徹と遭遇するのですが、さあ物語はどのように展開していくのでしょうか、………?
本作は、主人公の少年が、ひょんなことで渋谷の路地裏からバケモノ界に入り込んで、武術に長けたバケモノと師弟関係を結んで、成長していくというお話。登場するキャラクターのそれぞれがくっきりと描かれており、また人間界との関係も絶妙であり、なおかつアクション場面もなかなかの迫力があり、いろいろ問題点は感じられますが、まずまずの出来栄えだと思いました。
(2)本作について、劇場用パンフレットのインタビュー記事で、細田監督は、「「おおかみこども~」は、母親が子どもを育てる映画でしたが、これに対して、父親は子どもに何ができるのだろうか」云々と述べていて、本作は父親と息子との関係に焦点を当てた作品のように考えられているようです(注3)。
とはいえ、熊徹は師匠であるこそすれ血縁上の父親では全くありません(注4)。
言ってみれば、『るろうに剣心 伝説の最後編』で描かれている緋村剣心と比古清十郎との関係にも相当するのではないでしょうか?剣心も親がおらず、比古清十郎が名付け親であり、かつまた育ての親でもあるのです。
その上、九太が熊徹を胸の中に取り込んで一郎彦と対決したのと同じように、剣心も、比古清十郎から奥義の伝授を受けた上で志々雄との対決に臨みます。
こんなところから、本作は、よく見かける成長譚をバケモノの世界を取り込んで描き出している作品ではないかと思います。
ただ、それにしては、バケモノの世界に女っ気があまり見当たらないのはどうしたことでしょう(注5)?
特に、熊徹の周囲には、豚顔のバケモノ・百秋坊とか猿顔のバケモノ・多々良しかおらず、いったい彼らの身の回りの世話は誰がやっているのでしょう(注6)?
熊徹は、その性格等からして女っ気けがないとしてもしょうがありませんが、人間世界で言うオバサン的な存在までも見当たらないのはどうしたことでしょうか?
あるいは、バケモノの世界では性がないのでしょうか?
でも、熊徹と宗師の座を争う猪王山には子供がいるのです(注7)。
それに、バケモノの群衆の中にスカートを履いているバケモノも描かれています。
よくわかりませんが、このような世界で、「父親」とか「子」と言ってみてもどうなのかな、と思ってしまうのですが。
それとよくわからないのが、映画の参考文献として挙げられているメルヴィルの『白鯨』と、中島敦の『悟浄出世』(この青空文庫で読むことが出来ます)です。
前者については、蓮の引越しの際に登場しますし、九太が図書館で取り出すのがこの本であり、また一郎彦がクジラに変身するのもこの本を路上で見つけたことによるわけで、映画の中では随分と重要視されている感じを受けます。
確かに、本作で描かれる九太と一郎彦との戦いは、『白鯨』で描かれているエイハブ船長と白鯨のモビィ・ディックの死闘を下敷きにして、素晴らしい出来栄えになっています。
でも、どうして蓮(九太)と『白鯨』とが結びつくのか、本作の展開の中では唐突であり、余りピンと来ない感じがしてしまいます(注8)。
後者については、古典の『西遊記』自体、あるいは中島敦の『わが西遊記』を構成するもう一つの短編『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』(これもこの青空文庫で読むことが出来ます)が参考文献として選ばれているのであればまだしも(注9)、どうしてこの本がという気がしてしまいます。
というのも、『悟浄出世』の方は、三蔵法師らに出会う前の沙悟浄が、「今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今まで纏まった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふう」になってしまったために、「この河の底に栖むあらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占星師に親しく会って、自分に納得のいくまで、教えを乞おう」と遍歴の旅に出かける物語だからです。
こんな沙悟浄の姿がどのように本作に関係してくるのか、なかなか理解しづらい感じがしてしまいます(注10)。
とはいえ、そんなことはともかく、よく知る渋谷の中心街の様子が実に詳細に描かれていたり、熊徹の家がファベーラをイメージして描かれていたりする点にいたく興味を覚え(注11)、さらには、熊徹と猪王山の宗師の座をかけた一騎打ちや、特に、九太と一郎彦の幻想的な戦いぶりの映像には圧倒されました(注12)。
それにしても、渋天街では治安が悪そうとも思えないのに(武器を持って歩いているバケモノが見当たりません)、どうして宗師の後継者(注13)として武術に優れたバケモノが選ばれることになるのでしょう(それも、弟子を持っていることが条件になるのはなぜなのでしょう)(注14)?
(3)渡まち子氏は、「強くなるために修行した少年が、心と身体のバランスがとれた、本当の強さを学ぶことで成長する。すべての世代が楽しめる王道エンタメ・アニメーションに仕上がっている」として70点をつけています。
前田有一氏は、「「おおかみこどもの雨と雪」を見て期待してやってきたようなライトユーザーであれば、そこそこの満足と感動の涙を流して帰路につけるであろう、安定した出来のアニメーション映画である」として55点をつけています。
中条省平氏は、「自己確立のなかで、主人公はバケモノの武道と人間の学問とに引き裂かれ、自分の分身というべきライバル・一郎彦の体現する悪とも向かいあう。娯楽としてのアニメにこれだけ濃密なドラマをつめこんだ力業は評価するが、そこに「白鯨」の新解釈まで持ちこむのはいささかやり過ぎではないか」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
森直人氏は、「熊徹と九太、両方に細田がいる。明朗な冒険活劇に、これほどパーソナルな実感を刻む姿勢に筆者は惹かれる。細田自身の手による脚本は、台詞にゴツゴツと説明的で生硬な箇所も目立つのだが、あくまでも自分で語り切ろうとする情熱が瑕瑾を上回るのだ」と述べています。
読売新聞の福永聖二氏は、「親子とは何か、自分はいったい何者なのか。そんなことを考えさせるが、理屈はこねなくてもワクワクするファンタジーとして子供も楽しめる作品だ」と述べています。
(注1)本作の監督・脚本は『サマーウォーズ』やや『おおかみこどもの雨と雪』(DVDで見ました)の細田守〔同監督による原作小説『バケモノの子』(角川文庫)がありますが未読〕。
なお、この拙エントリで、アニメ作品における監督の役割について触れた際に、細田監督を取り上げています。
(注2)渋谷駅の東西を結んでいる二つのガードの内、南寄りの方に自転車置き場が設けられています。
(注3)このインタビュー記事においても、細田監督は、「前作『おおかみこどもの雨と雪』は“母と子”で、前々作『サマーウォーズ』は“親戚”でした。本作のテーマは“父と子”になると思います」と述べています。
(注4)ただ、細田監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、続けて「本当の父親だけでなくいろいろな形の父親や師匠が世の中にいて、そんなたくさんの人たちとの関わりが、ひとりの子どもを大きく育てていくのではないかと思いました」と述べているところからすると、「血縁上の父親」(“本当の父親”)に限定して「父親」という言葉を使っているわけではなさそうです(本作のタイトルの「バケモノの子」にしても、“熊徹の子どもの九太”ということだとしたら、「子」も「血縁上の子」を意味していないことになります)。
(注5)公式サイトの「CHARACTER & CAST」で挙げられている中で女性は、楓と九太の母という人間世界における登場人物だけです(17歳になって人間世界に復帰した際には、今度は楓が蓮にぴったりまといつきますが)。
なお、チコという小動物が九太とともに行動するところ、これが一部で言われているように蓮の母親の生まれ変わりだとしたら、例外といえるかもしれません。
また、『おおかみこどもの雨と雪』では、逆に、雨と雪の父親が急死してしまうと、母親の花には男っ気が全くなくなってしまいます(せいぜい90歳の韮崎がなにかと気にかけてくれるくらいです)。
(注6)ジェンダー・バイアスのかかった言い方で恐縮です。
(注7)猪王山の息子の二郎丸に気に入られて、九太はその家に招待されますが、子どもたちで遊ぶだけで、母親は出てこなかったように思います。
(注8)蓮がいくら児童版を読んで知っていたからといって、世界文学全集に入っている完訳版の方は、大人でさえ気軽に手にできるシロモノではないのですから(楓が漢字を教えるとしても、蓮のように寝転がって読めるものとも思えません!クマネズミも、最初の方で挫折しました)。
また、楓は、「実は、主人公は自分自身と戦っているんじゃないかな?」とわかったようなことを口にしますが、柴田元幸氏が言うように「これは別に『白鯨』に限らずよく出てくる話」ではないでしょうか〔「柴田元幸の『白鯨』講義」(雑誌『SWITCH』本年7月号掲載)〕?
(注9)というのも、『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』では、沙悟浄の方から見た三蔵法師、孫悟空、猪八戒の姿が描かれていて、本作において、九太、熊徹、百秋坊、多々良が旅に出る姿と対応しているように思えるからですが。
(注10)このサイトの記事では、『悟浄出世』について随分とわかりやすく解説していますし、このサイトの記事では、「救済のために必要なのは賢者からの教えではなくて、賢者に尋ねに行くという骨折り損をもいとわない(悟浄の)姿勢」が、本作の「熊徹の動きを一挙一動真似してみる」九太の姿に通じている、と述べられていますが、よくわかりません。
あるいは、単に、「強さとは何か」を求めて旅に出る九太等の姿に悟浄の姿勢が類似しているというだけのことでしょうか?
(注11)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事で、美術設定の上條安里氏が、「監督のイメージはブラジルのファベーラという街」と述べています。
(注12)一郎彦のクジラが細かい玉となって飛び散る様は、『ラブ&ピース』でミドリガメの怪獣・ピカドンが最後に飛び散ってしまうシーンを思い出させました。
(注13)そもそも、宗師という地位にどんな魅力があるのでしょうか?
(注14)といっても、渋天街のことがすべて蓮の夢の中の出来事であり、父親に対するわだかまりの潜在意識が、こうした争いに現れているのだとしたら(母親に対する潜在意識がチコとなって)、どうでもいいことになりますが。
でも、これでは至極つまらない解釈にすぎませんし、なにより9歳の蓮が17歳まで入眠状態にあるというのも、およそリアルでない感じがしてしまいます。
★★★☆☆☆
象のロケット:バケモノの子