映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

バケモノの子

2015年07月31日 | 邦画(15年)
 『バケモノの子』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)細田守監督による『サマーウォーズ』が面白かったので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、暗い画面に炎などが見える中、「昔、ほんのすこし前の出来事。10万のバケモノを束ねる宗師の卯月が引退して神様になると言い出した。そして、熊徹が新しい宗師の候補の一人になった。だが、宗師になるためには弟子が必要にもかかわらず、熊徹は大太刀を振り回すだけのバケモノで、弟子なんかいない。まして息子などいるはずもない」などといったナレーションが入ります。

 次いで、渋谷のスクランブル交差点の光景が映し出され、行き交う人々の中に混じって歩いている一人の男の子・(バケモノの世界では九太)に焦点が当てられます。



 蓮が、路地に入り込んで、座って休み、食べ物を食べていると、道に落ちている空き缶の向こう側に小さな生き物・チコを見つけます。



 蓮はチコに、「俺も一人ぼっちだよ」と話しかけます。

 次いで、引越しの場面。
 9歳の蓮が、「交通事故だから仕方がない、お前はこちらで引き取る」と言う親族に対し、「父さんはどこにいるの?なぜ来てくれないの?」と尋ねると、「離婚したの知ってるでしょ。親権はこっちなのだし」との答え。
 それに対し蓮は、「一人で生きていく、一人で生きて見返してやる。お前たち大嫌いだ、父さんも大嫌いだ」と言って、飛び出します。

 また渋谷の場面で、蓮は、高架下の自転車置き場(注2)に隠れています。
 そこで、蓮は、弟子を探しに歩いている熊徹と遭遇するのですが、さあ物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、主人公の少年が、ひょんなことで渋谷の路地裏からバケモノ界に入り込んで、武術に長けたバケモノと師弟関係を結んで、成長していくというお話。登場するキャラクターのそれぞれがくっきりと描かれており、また人間界との関係も絶妙であり、なおかつアクション場面もなかなかの迫力があり、いろいろ問題点は感じられますが、まずまずの出来栄えだと思いました。

(2)本作について、劇場用パンフレットのインタビュー記事で、細田監督は、「「おおかみこども~」は、母親が子どもを育てる映画でしたが、これに対して、父親は子どもに何ができるのだろうか」云々と述べていて、本作は父親と息子との関係に焦点を当てた作品のように考えられているようです(注3)。
 とはいえ、熊徹は師匠であるこそすれ血縁上の父親では全くありません(注4)。
 言ってみれば、『るろうに剣心 伝説の最後編』で描かれている緋村剣心比古清十郎との関係にも相当するのではないでしょうか?剣心も親がおらず、比古清十郎が名付け親であり、かつまた育ての親でもあるのです。
 その上、九太が熊徹を胸の中に取り込んで一郎彦と対決したのと同じように、剣心も、比古清十郎から奥義の伝授を受けた上で志々雄との対決に臨みます。

 こんなところから、本作は、よく見かける成長譚をバケモノの世界を取り込んで描き出している作品ではないかと思います。

 ただ、それにしては、バケモノの世界に女っ気があまり見当たらないのはどうしたことでしょう(注5)?
 特に、熊徹の周囲には、豚顔のバケモノ・百秋坊とか猿顔のバケモノ・多々良しかおらず、いったい彼らの身の回りの世話は誰がやっているのでしょう(注6)?



 熊徹は、その性格等からして女っ気けがないとしてもしょうがありませんが、人間世界で言うオバサン的な存在までも見当たらないのはどうしたことでしょうか?
 あるいは、バケモノの世界では性がないのでしょうか?
 でも、熊徹と宗師の座を争う猪王山には子供がいるのです(注7)。
 それに、バケモノの群衆の中にスカートを履いているバケモノも描かれています。
 よくわかりませんが、このような世界で、「父親」とか「子」と言ってみてもどうなのかな、と思ってしまうのですが。

 それとよくわからないのが、映画の参考文献として挙げられているメルヴィルの『白鯨』と、中島敦の『悟浄出世』(この青空文庫で読むことが出来ます)です。

 前者については、蓮の引越しの際に登場しますし、九太が図書館で取り出すのがこの本であり、また一郎彦がクジラに変身するのもこの本を路上で見つけたことによるわけで、映画の中では随分と重要視されている感じを受けます。
 確かに、本作で描かれる九太と一郎彦との戦いは、『白鯨』で描かれているエイハブ船長と白鯨のモビィ・ディックの死闘を下敷きにして、素晴らしい出来栄えになっています。
 でも、どうして蓮(九太)と『白鯨』とが結びつくのか、本作の展開の中では唐突であり、余りピンと来ない感じがしてしまいます(注8)。

 後者については、古典の『西遊記』自体、あるいは中島敦の『わが西遊記』を構成するもう一つの短編『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』(これもこの青空文庫で読むことが出来ます)が参考文献として選ばれているのであればまだしも(注9)、どうしてこの本がという気がしてしまいます。
 というのも、『悟浄出世』の方は、三蔵法師らに出会う前の沙悟浄が、「今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今まで纏まった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふう」になってしまったために、「この河の底に栖むあらゆる賢人、あらゆる医者、あらゆる占星師に親しく会って、自分に納得のいくまで、教えを乞おう」と遍歴の旅に出かける物語だからです。
 こんな沙悟浄の姿がどのように本作に関係してくるのか、なかなか理解しづらい感じがしてしまいます(注10)。

 とはいえ、そんなことはともかく、よく知る渋谷の中心街の様子が実に詳細に描かれていたり、熊徹の家がファベーラをイメージして描かれていたりする点にいたく興味を覚え(注11)、さらには、熊徹と猪王山の宗師の座をかけた一騎打ちや、特に、九太と一郎彦の幻想的な戦いぶりの映像には圧倒されました(注12)。

 それにしても、渋天街では治安が悪そうとも思えないのに(武器を持って歩いているバケモノが見当たりません)、どうして宗師の後継者(注13)として武術に優れたバケモノが選ばれることになるのでしょう(それも、弟子を持っていることが条件になるのはなぜなのでしょう)(注14)?

(3)渡まち子氏は、「強くなるために修行した少年が、心と身体のバランスがとれた、本当の強さを学ぶことで成長する。すべての世代が楽しめる王道エンタメ・アニメーションに仕上がっている」として70点をつけています。
 前田有一氏は、「「おおかみこどもの雨と雪」を見て期待してやってきたようなライトユーザーであれば、そこそこの満足と感動の涙を流して帰路につけるであろう、安定した出来のアニメーション映画である」として55点をつけています。 
 中条省平氏は、「自己確立のなかで、主人公はバケモノの武道と人間の学問とに引き裂かれ、自分の分身というべきライバル・一郎彦の体現する悪とも向かいあう。娯楽としてのアニメにこれだけ濃密なドラマをつめこんだ力業は評価するが、そこに「白鯨」の新解釈まで持ちこむのはいささかやり過ぎではないか」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
 森直人氏は、「熊徹と九太、両方に細田がいる。明朗な冒険活劇に、これほどパーソナルな実感を刻む姿勢に筆者は惹かれる。細田自身の手による脚本は、台詞にゴツゴツと説明的で生硬な箇所も目立つのだが、あくまでも自分で語り切ろうとする情熱が瑕瑾を上回るのだ」と述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「親子とは何か、自分はいったい何者なのか。そんなことを考えさせるが、理屈はこねなくてもワクワクするファンタジーとして子供も楽しめる作品だ」と述べています。



(注1)本作の監督・脚本は『サマーウォーズ』やや『おおかみこどもの雨と雪』(DVDで見ました)の細田守〔同監督による原作小説『バケモノの子』(角川文庫)がありますが未読〕。
 なお、この拙エントリで、アニメ作品における監督の役割について触れた際に、細田監督を取り上げています。

(注2)渋谷駅の東西を結んでいる二つのガードの内、南寄りの方に自転車置き場が設けられています。

(注3)このインタビュー記事においても、細田監督は、「前作『おおかみこどもの雨と雪』は“母と子”で、前々作『サマーウォーズ』は“親戚”でした。本作のテーマは“父と子”になると思います」と述べています。

(注4)ただ、細田監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、続けて「本当の父親だけでなくいろいろな形の父親や師匠が世の中にいて、そんなたくさんの人たちとの関わりが、ひとりの子どもを大きく育てていくのではないかと思いました」と述べているところからすると、「血縁上の父親」(“本当の父親”)に限定して「父親」という言葉を使っているわけではなさそうです(本作のタイトルの「バケモノの子」にしても、“熊徹の子どもの九太”ということだとしたら、「子」も「血縁上の子」を意味していないことになります)。

(注5)公式サイトの「CHARACTER & CAST」で挙げられている中で女性は、と九太の母という人間世界における登場人物だけです(17歳になって人間世界に復帰した際には、今度は楓が蓮にぴったりまといつきますが)。



 なお、チコという小動物が九太とともに行動するところ、これが一部で言われているように蓮の母親の生まれ変わりだとしたら、例外といえるかもしれません。

 また、『おおかみこどもの雨と雪』では、逆に、雨と雪の父親が急死してしまうと、母親の花には男っ気が全くなくなってしまいます(せいぜい90歳の韮崎がなにかと気にかけてくれるくらいです)。

(注6)ジェンダー・バイアスのかかった言い方で恐縮です。

(注7)猪王山の息子の二郎丸に気に入られて、九太はその家に招待されますが、子どもたちで遊ぶだけで、母親は出てこなかったように思います。

(注8)蓮がいくら児童版を読んで知っていたからといって、世界文学全集に入っている完訳版の方は、大人でさえ気軽に手にできるシロモノではないのですから(楓が漢字を教えるとしても、蓮のように寝転がって読めるものとも思えません!クマネズミも、最初の方で挫折しました)。
 また、楓は、「実は、主人公は自分自身と戦っているんじゃないかな?」とわかったようなことを口にしますが、柴田元幸氏が言うように「これは別に『白鯨』に限らずよく出てくる話」ではないでしょうか〔「柴田元幸の『白鯨』講義」(雑誌『SWITCH』本年7月号掲載)〕?

(注9)というのも、『悟浄歎異―沙門悟浄の手記―』では、沙悟浄の方から見た三蔵法師、孫悟空、猪八戒の姿が描かれていて、本作において、九太、熊徹、百秋坊、多々良が旅に出る姿と対応しているように思えるからですが。

(注10)このサイトの記事では、『悟浄出世』について随分とわかりやすく解説していますし、このサイトの記事では、「救済のために必要なのは賢者からの教えではなくて、賢者に尋ねに行くという骨折り損をもいとわない(悟浄の)姿勢」が、本作の「熊徹の動きを一挙一動真似してみる」九太の姿に通じている、と述べられていますが、よくわかりません。
 あるいは、単に、「強さとは何か」を求めて旅に出る九太等の姿に悟浄の姿勢が類似しているというだけのことでしょうか?

(注11)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事で、美術設定の上條安里氏が、「監督のイメージはブラジルのファベーラという街」と述べています。

(注12)一郎彦のクジラが細かい玉となって飛び散る様は、『ラブ&ピース』でミドリガメの怪獣・ピカドンが最後に飛び散ってしまうシーンを思い出させました。

(注13)そもそも、宗師という地位にどんな魅力があるのでしょうか?

(注14)といっても、渋天街のことがすべて蓮の夢の中の出来事であり、父親に対するわだかまりの潜在意識が、こうした争いに現れているのだとしたら(母親に対する潜在意識がチコとなって)、どうでもいいことになりますが。
 でも、これでは至極つまらない解釈にすぎませんし、なにより9歳の蓮が17歳まで入眠状態にあるというのも、およそリアルでない感じがしてしまいます。



★★★☆☆☆



象のロケット:バケモノの子


チャップリンからの贈りもの

2015年07月28日 | 洋画(15年)
 『チャップリンからの贈りもの』を恵比寿ガーデンシネマで見ました。

(1)本年3月に再開していた恵比寿ガーデンシネマ(4年前に閉館:注1)に、再開後初めて行ってきました。場所と内部の構造は以前と変わらないとはいえ、内装が随分とクラシックな感じとなり、また席もゆったりとしており、全体として大人の雰囲気をかなり醸し出していて(注2)、これからも利用しようという気になります。

 さて、本作(注3)はフランス映画で、冒頭では、「事実から生まれた物語」、「スイス 1977年」との字幕が映しだされます。

 次いで、刑務所の扉が開き、男(エディブノワ・ポールヴールド)が看守に伴われて出てきて、待ち構えていた男(オスマンロシュディ・ゼム)と抱き合い、彼が運転してきたトラックに乗りこみます。
 トラックがその傍を通る湖の光景が映し出されて、タイトルクレジット。

 車はオスマンの家に到着。
 オスマンは、娘のサミラセリ・グマッシュ)と酷くみすぼらしい家に住んでいて、その裏にこれまたかなりくたびれたトレーラーをエディのために用意してあります(注4)。

 3人で食事をした際に、オスマンはサミラに「エディが勉強を見てくれる」と告げ、さらにエディに「サラミは、分数はいいのだが、フランス語がどうも」と言うと、エディは「問題ない。俺が教えれば絶対だ」と答えます。



 サミラは、「将来は大学に行って獣医になりたい」と希望を述べるのですが、オスマンは「大学は無理だ、動物園に行け」と答え、エディは「まずは卒業して、仕事を見つけてからだ」と言います。

 オスマンの家は、家政婦をしていた妻(ナディーン・ラバキー)が腰の病気で入院中のために、どうやら火の車状態のようです(注5)。
 そんなさなかに、エディがクリスマスプレゼントだと言って、どこからかTV受像機を持ってきます。そして、そのTVから「チャップリンが亡くなりました」とのニュースが流れ、さらには、チャップリンが出演した映画や、チャップリンが死ぬ間際まで暮らしていたスイスの邸宅などが映し出されます。

 エディは、これらの映像を見てあることを思いつきますが、さあ、どんなことを思いついたのでしょう、そしてその結果は、………?

 映画は、喜劇王チャップリンの遺体を盗みだして、彼の家族から身代金(?)を奪い取ろうとした二人組のお話。実際に起きた事件に基づいており、チャップリンに対する敬愛の念を持って映画が制作されていることはよく分かるとはいえ、どうもテンポが緩い上に、全体的に盛り上がりに欠けた出来栄えになってしまっているように思いました(注6)。

(2)本作は、タイトルに“チャップリン”とあるだけあって(注7)、彼にちなむものがいろいろ仕組まれています。
 例えば、オスマンの家にあるTVには、チャップリンの『チャップリンの霊泉』(1917年:未見)や『街の灯』(1931年)がほんの一部ながら映し出されますし、チャップリンの邸宅やその墓地がロケに使われてもいるようです(注8)。

 そんなチャップリンの遺体を誘拐して身代金を得ようという「とんでもなく間の抜けた犯行劇」(注9)ですから、仕方のないこととはいえ、映画全体としてとても緩い感じがしてしまい、「コミカルなユーモア」など余り感じられない作品となっているように思われました(注10)。

 例えば、2人がチャップリンの棺を墓から掘り出して別の場所に埋める場面。山場の一つと言えるにもかかわらず、黙々とその作業を続ける様子が長々と映しだされるにすぎません。あるいは、何かギャグの一つでも織り込めるのではないでしょうか?そうしないというのであれば、もっと短くしたら、と思ってしまいました。



 また、墓地に入った2人が、その後の発掘作業での騒音にもかかわらず、スコップを抱えて忍び足でチャップリンの墓に近づくシーンは、全体の雰囲気がとても緩いためでしょう、普通なら感じられるユーモアを感じませんでした(注11)。
 さらに、2人組がチャップリンの家に身代金を要求する場面で、彼らのフランス語とチャップリンの娘の英語とがかみ合わない場面など、もっと面白くできそうなネタがいくつも転がっているような印象を受けるので、残念な気がしてしまうところです(注12)。

(3)渡まち子氏は、「犯罪映画というよりも人情話のこの作品、映画全体にチャップリンへのオマージュがあふれているのがいい」として60点をつけています。
 おかむら良氏は、「(チャプリン邸の)主人の遺体を誘拐する地元民の犯罪は、怖いというよりも、あまりに無謀で笑えた」として★3つをつけています。



(注1)この拙エントリで、4年前の閉館の際に上映された『人生万歳!』を取り上げ、合わせてその(2)において同館の閉鎖についても触れています。

(注2)この記事が参考となります。

(注3)監督は、グザヴィエ・ボーヴォワ

(注4)サミラは父親に、「エディとは会わない約束だったのでは?」と言いますが、オスマンは「彼のお陰で今がある」と応じます。後の話では、オスマンはアルジェリアからの移民、エディはベルギーからの移民で、グルノーブルで一緒に暮らしていた時に火事に遭遇した際、オスマンはエディに助けてもらったとのこと。
 ちなみに、Wikipediaの「チャールズ・チャップリン」の「生涯」の「死去」の項によれば、チャップリン遺体誘拐事件の主犯はポーランド人で、共犯者はブルガリア人とされています。

(注5)オスマンは、移民のためでしょうか、イルミネーションの電球の付け替えといった簡単な仕事に就いているだけで、健康保険は入っておらず、また妻との結婚も役所に届けていないために「家族手帳」を持っていません。結果、オスマンの妻の入院にかかる費用は、自由診療となって多額のものがオスマンに請求されることになるようです(請求額は約5万フランとされていました。当時のレートを1スイスフラン=120円としたら、600万円にもなってしまいます!)。

(注6)出演者の内、ロシュディ・ゼムは、『この愛のために撃て』において、主人公サミュエル(ジル・ルルーシュ)の相手役のサルテに扮していました。また、サーカス団のオーナー役のキアラ・マストロヤンニは『ゼロ時間の謎』で見たことがあります。

(注7)尤も、原題は「La rançon de la gloire(栄光の身代金)」(英題は「The Price of Fame(名声の代償)」)であり、チャップリン(Chaplin)は入っていませんが。

(注8)また、本作中の重要なシーンで何度も流される「Chaplin」という曲は、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「チャップリンmeetsミシェル・ルグラン、特を経たコラボレーション」で濱田高志氏が述べているところによれば、「チャップリンが映画『ライムライト』(1952年)のために書いた主題曲の旋律をモチーフに展開する楽曲」とのこと。
 さらには、チャップリンの孫娘ドロレス・チャップリンが、本作の中でチャップリンの娘役を演じていたり、チャップリンの息子ユージーン・チャップリンがサーカス団の支配人役で出演したりしています。



 その他の点については、公式サイトの「TRIVIA」の中の「本作にちりばめられているチャップリン作品へのオマージュ」をご覧ください。

(注9)公式サイトの「INTRODUCTION」より。
 なお、映画の中の話によれば、マリア・カラスの遺灰が盗まれたり(例えば、この記事)、エルビス・プレスリーの遺体盗掘未遂事件があったりしたようです。
 日本では、三島由紀夫の遺骨が、1970年(自殺の翌年)、多摩霊園内の墓地から骨壷ごと盗まれたことがあるそうです(この記事)。

(注10)公式サイトの「INTRODUCTION」では、本作は、「コミカルなユーモアとほろ苦い人間味を加え、現代社会にも通じる極上のヒューマンドラマ」だとされています。そんなところから、同じフランス映画で二人組が登場する『最強のふたり』的なものかなと予想したのですが、期待しすぎでした。

(注11)見つけ出されたチャップリンの棺に対して、秘書(ピーター・コヨーテ)が恭しく敬礼をしますが、クマネズミは、きっとこの棺の中には遺体が入っていないことになるのだろうなと予想したところ、見事その予想は外れてしまいました。
 本作は、事実に基づいているとはいえ、いろいろフィクションも加えているようです(劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事で、グザヴィエ・ボーヴォワ監督は、「無職のエディが突如、ステージで喝采を浴びたり、オスマンが妻の手術費を工面できたりするところは創作です。映画で再現したのは、事実関係よりもむしろ場所やディテールです」と述べています)。だったらもっと笑いの要素を取り入れるべく、ストーリーを改変してみてもいいのではと思いました。

(注12)逆に、エディが間抜けだからといって、サーカスの道化師にいきなりなれるわけでもないように思うのですが(間抜けでは道化師は務まらないでしょう)?
 なお、エディは、オスマンがその蔵書を保管していたところからすると読書家であり、フランス語をサミラに教えることができるという自信もあるようですが、サミラに実際に教えている場面は描かれておらず、またサミラに「俺の頭は空っぽ」と言ったりしています。どうもとらえどころのない人物です。



★★★☆☆☆



象のロケット:チャップリンからの贈りもの

きみはいい子

2015年07月24日 | 邦画(15年)
 『きみはいい子』をテアトル新宿で見てきました。

(1)呉美保監督の前作『そこのみにて光輝く』が大層いい出来栄えだったので、本作もどうかと思って映画館に出向きました。

 本作(注1)の冒頭は、仏壇にお茶を供える老女・あきこ喜多道枝)の姿。
 「皆で飲みましょうね」と言いながら、鈴を叩きます。
 次いで、居間のちゃぶ台で自身がお茶を飲みながら外を見ると、桜の花びらが舞い落ちてきます。

 呼び鈴がなるので玄関にあきこが出ると、そこに若い男(岡野高良健吾)が立っていて、「申し訳ありませんでした。私、桜ヶ丘小学校の岡野と申します。うちの児童が、このあたりの呼び鈴を鳴らして回っていたようで」と言います。
 あきこは「いいんですよ」と答えながら、「さっきも、家の中に学校の桜の花びらが入ってきました」と言います。

 家の外に出てきた岡野に対して、他の先生が「ここのおばあちゃん、ボケているでしょう?」と尋ね、岡野が「学校の桜が入ってきたと言っていた」と応じると、その先生は「もう6月なのにね」と言います。
 その後、外で歩道を掃除しているあきこに対して、小学生の弘也加部亜門)が「こんにちは、さようなら」と言って走り去ってから、タイトルクレジット。

 次いで場面は、マンションの一室。
 若い母親の雅美尾野真千子)が、娘のあやねに服を着せています。
 着方が悪いのを見て、雅美は「どこを通しているの!」と怒り、あやねの頭に手を。

 ここまでで、本作に登場する主要な人物が3人描かれますが、さあ、彼らを中心にしてこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では、小学4年生のクラスを受け持つ青年と、娘を厳しく躾けようとして手を上げてしまう若い母親、それにボケの傾向がうかがわれる独り暮らしの老女を巡る3つの物語が描かれます。各話はどれも大層感動的であり、さらに、それぞれ単発のものとして展開しているように見えながらも、まとまりのある一つの映画となっているなと観客に思わせる、なんとも興味深い作品となっています(注2)。

(2)下記の(3)で触れる映画評論家の小梶勝男氏は、本作について、「小さな娘を延々とたたき続ける母親。暴れ回る子供たちの中でぼう然とする小学校教師。………それらは場面ごとの力はあっても、一つのドラマを織りなすには至らない。地域社会で起こる様々な問題のカタログを見ているように思えてしまった」と述べています。
 確かに、本作は、3つの物語がバラバラに描かれているような感じもするところです。
 ですが、そうでありながらも、実際には、子供を通じて大人が変化していく様子が共通して描かれており、なおかつ希薄ではありますが登場人物相互になんらかの関係があるようにも設定されていて(注3)、全体的に緊密な一つの物語を形成しているように思えてくるのです。

 例えば、ボケの症状が出てきているあきこは、両親と弟の位牌が並ぶ仏壇に話しかけることしかしない実にわびしい生活を送ってきたところ、自閉症の小学生・弘也と親しく交流することによって、「私、とっても幸せよ」と言うまでになります。
 そのあきこは、上で見たように小学校教師の岡野と面識がありますし、岡野の同僚の大宮高橋和也)は、弘也が入っている特別支援学級の「ひまわり組」を担当しているようなのです(注4)。
 こんなことから、あきこを基点にして、本作の登場人物に希薄ながらもつながりが見えてくる感じがします。

 また、大宮の妻・陽子池脇千鶴)は、同じ団地に住む雅美と仲がいいのです。



 そして、雅美が自分の娘・あやねとの関係で悩むのは(注5)、岡野が担任の4年2組の児童との関係に悩むのと無関係ではないように思えてきます。
 もっと言えば、一方で、陽子は、雅美が抱える悩みの原点を言い当てて、その立ち直りを助けますし、他方で、「ひまわり組のお楽しみ会」での大宮らの活躍ぶりを見て、岡野は、クラスの問題児の家に向かおうと決意します。
 こう見てくると、大宮夫婦が本作の基点になっているようにも思われます。

 さらには、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「「抱きしめられてくること」という宿題」において筆者の川本三郎氏が述べるように、「この映画には、何度か、抱きしめる場面があり、それが観客の心を和らげ」ますが、そういう観点からしたら、「家族に抱きしめられてくること」という宿題を児童たちに出した岡野こそがやはり基点とも言えるでしょう(注6)。
 そして、その宿題を「絶対にやってきます」と言いながらも翌日登校しなかった児童の家に向かって全速力で走るラストの岡野の姿は、ものすごく感動的です。

 本作は、それぞれ独立しているようにみえる3つの物語から構成されているとはいえ、そのことによってかえって繋がりのある一つの物語を描き出しているように感じました。

(3)渡まち子氏は、「いろいろと問題がある現代社会だが、希望は確かにあるのだと信じられる秀作。特別な事件は起こらない小さな物語でも、こんなにも人の心を動かす作品が生まれることに感激した」として85点をつけています。
 中条省平氏は、「学級崩壊に直面した岡野が「家族に抱きしめられてくること」という宿題を出し、生徒がそれに応える場面で、この映画は最良のドキュメンタリー的側面を見せる。堅実な演出のなかですかさずこうした即興的才能を発揮するところに呉監督の大器ぶりが窺える」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「最後の最後、見事に映画を感じさせる瞬間が訪れる。並列して描かれていた話のイメージが一つに重なっていき、その中を、小学校教師が、走る、走る。生き生きと動き出した映画に目を見張ったが、すぐにエンドクレジットになってしまった」と述べています。



(注1)監督は、『そこのみにて光輝く』や『オカンの嫁入り』、『酒井家のしあわせ』(DVDで見ました)の呉美保
 脚本は、『そこのみにて光輝く』や『さよなら渓谷』、『婚前特急』などの高田亮
 また、原作は中脇初枝著『きみはいい子』(ポプラ文庫)。同書は5つの短編から構成されていますが、本作は、その中から、「サンタさんの来ない家」、「べっぴんさん」、及び「こんにちは、さようなら」の3作を取り上げています。
 ちなみに、本作のロケ地は小樽。

(注2)出演者の内、高良健吾は『悼む人』、尾野真千子は『ソロモンの偽証』、池脇千鶴高橋和也は『そこのみにて光輝く』、富田靖子は『もらとりあむタマ子』で、それぞれ見ました。

(注3)こうした関係は、原作では書き込まれておりません。

(注4)あきこは、学校の教室で開かれた「ひまわり組のお楽しみ会」に、弘也の母親(富田靖子)と一緒に出席して、弘也が歌を歌うのを聞いたりします〔弘也は、ベートーヴェン作曲の「歓喜の歌」(第9交響曲第4楽章)のメロディーに乗せて、呉美保作詞の歌を歌います〕。さらにその教室で、あきこは大宮を見ています。



(注5)夫が単身赴任中で、雅美は一人であやねを育てていますが、躾が厳しく、あやねが自分の意に沿わないことをすると何度も何度も手を上げてしまいます。



(注6)弘也を迎えに来た母親が何度も謝るのに対し、あきこはその母親の背中を抱くように撫でますし、また陽子は「べっぴんさんだよ」と言って雅美の背中を撫でて抱きしめます。



★★★★☆☆



象のロケット:きみはいい子

マッドマックス―怒りのデス・ロード

2015年07月21日 | 洋画(15年)
 『マッドマックス―怒りのデス・ロード』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)大変な評判作ということなので、ミーハーとして覗いてみたくなって、遅ればせながら映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、主人公のマックストム・ハーディ)の声で、「俺の名はマックス。昔、俺は警察官だった」などと自己紹介し、また「核戦争によって地球は荒廃し、世界は崩壊した」と状況を説明します。
 そして、車(スーパーチャージャーV8インターセプター)のそばにいるマックスが映しだされます。
 地面にいた2つ頭のトカゲを捕まえると、それを口に入れてから、車を動かします。
 すると、その後を武装集団のウォー・ボーイズが追いかけ、ついに、その攻撃によってインターセプターは大破してしまい、マックスは捕まって砦に連れていかれます。
 そこで彼は、背中にタトゥーを入れられ、ウォー・ボーイズのための輸血袋にさせられてしまいます。

 ウォー・ボーイズの本拠地の砦では、イモータン・ジョーヒュー・キース=バーン)が独裁者として君臨しています。



 人々に対して、「これから、ガスタウンからガソリンをもちかえるためにウォー・タンク(War Rig)を送り込む。指揮はフェリオサシャーリーズ・セロン)がとる。ウォー・ボーイズはわが魂とともにある。われこそは救世主だ!」などと演説し、人々に貴重な水を供給します。

 次いで、ガスタウンに向かって車が動き出します。
 ですが、ウォー・タンクを運転していたフェリオサは、ガスタウンには向かわず、敵のいる方向にハンドルを切ります。さあ、どうしてフェリオサはそんな行動に出たのでしょうか、イモータン・ジョーはどうするのでしょうか、そしてマックスの運命は、………?

 舞台は、核戦争から45年後の文明が滅びた地球。そこに家族を殺されて復讐に燃える主人公が登場し、独裁帝国から武装タンカー・トレーラーに乗って逃げ出してきた女たち(注2)と一緒になって、彼女たちを追う独裁帝国の軍団と戦うという物語。でも設定とか物語などは二の次、ともかく画面に映し出される武装カーとか軍団の戦い方などが無茶苦茶で面白く、最初から最後まで見入ってしまいます(注3)。

(2)イモータン・ジョーの独裁帝国(注4)は、いくら彼がとても貴重な水資源を独り占めしているといっても、さらにまた絶対忠誠の親衛隊としてウォー・ボーイズを彼が持っているとしても、それだけでは運営・管理出来ないように思われます。
 なにより、人々の暮らしに必要な食糧の生産はどうなっているのでしょうか?
 ちなみに、劇場用パンフレットの「The World of Mad Max(マックスが生きる世界)」の「食糧」の項では、「彼らは、生き延びるために栄養を摂取できるものは何でも食べる。核戦争の影響によって誕生した奇形種のトカゲや昆虫なども貴重な蛋白源」などと述べられていますが、こんなことでは、イモータン・ジョーらの一部の人々は生きながらえるにせよ、大部分の人民はただちに餓死してしまい、帝国を運営していくことなど出来ないように思われます。
 それに、彼の周りには、彼の息子たちやウォー・ボーイズがいますが、かれらは皆兵士であって、日常の細々とした事務を取り仕切っているようには見えません。でも、大勢の人民を管理するためには、しっかりとした官僚機構がどうしても必要になるでしょう。

 しかしながら、そんなことはこの映画にあっては、全くどうでもいいのです。
 ウォー・タンクを疾駆させて逃げるフェリオサらと、それを追いかけるイモータン・ジョーらの武装軍団との戦闘ぶりが、常識の域を超えたレベルに達していて、見る方に息をも吐かせないほどなのですから!
 マックスを輸血袋としてフロントにくくりつけてニークスニコラス・ホルト)が運転する武装カーの異様な姿。



 さらには、武装カーに取り付けられたポールをしならせて敵の車に飛び乗る“棒飛び隊”の様子とか(注5)、手榴弾付きの槍“サンダースティック”が突き刺さって破裂する様などに目を見張ります。
 なかでも、ドラム・ワゴン(Doof Wagon)には圧倒されました!
 なにしろ、その車の上には巨大なスピーカーをめちゃくちゃ積み上げ、その前でウォー・ボーイズの一人が、マスクをかぶり赤い服を羽織りながら、火を噴くギター(注6)を弾いており、後部では並べられた4つの大太鼓を4人のドラマーが叩いているのですから(注7)。
 ウォー・ボーイズの戦意高揚のためであり、進軍ラッパ的な役割を果たすのでしょうが、それにしても破天荒なシロモノ(注8)!
 そして、最後に、このドラム・ワゴンがバラバラになって飛び散ってしまうのですから、凄まじい限りです。

(3)渡まち子氏は、「様式美に満ちたアクションと、恋愛や友情などバッサリ切り捨てた潔いストーリー、CGに頼らない本物のカースタントの迫力。これほど圧倒的な刺激に満ちた映画なら“ランボー”チックでダサい副題のことは許す!」として85点をつけています。
 前田有一氏は、「ダメ作確実と思われた「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は、しかしその予想を覆す、シリーズ最高傑作であった。のみならずここ10年間、これほどテンションの高いアクション映画は見たことがないほどの、歴史に残る大傑作として登場した。3DおよびIMAXにもぴったりの映画で、いくらでも追加料金を払うだけの価値があるとまずは最初に断言する」として95点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「あの手この手、新しい刺戟がつぎつぎとくり出されあきることがない。CGにたよらず、生身のスタントをつきつめているからだろう。監督自身が言うようにこれは、2時間の「目で見る音楽(ヴィジュアルミュージック)」だ。極上の」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「セロンの熱演が際立つ映画だが、それでもハーディーはしかと存在感を放つ。女も男も老いも若きも、体を張って、熱い、熱い。ミラー監督の、自由で過激な円熟の境地が、たまらなく楽しい」と述べています。
 柳下毅一郎氏は、「余計なものをそぎ落とされた純粋なるアクションはほとんど曲芸のように、シュールレアリスティックなカーニバルのように美しい。時間の止まった世界で「怒りのデス・ロード」の登場人物は瞬間に感情を炸裂させる。その大いなる死、大いなる勝利は神話のように我らの心を揺り動かすのだ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、ジョージ・ミラー
 なお、ジョージ・ミラーは、『マッドマックス』の第1作から第3作の監督でもあります。

(注2)フェリオサは、イモータン・ジョーによって監禁されていた若い5人の子産み女(イモータン・ジョーが自分の子孫を残すため)を連れて、独裁帝国を脱走しようとします。



(注3)出演者の内、トム・ハーディは『インセプション』で、シャーリーズ・セロンは『ヤング≒アダルト』や『あの日、欲望の大地で』で見ました。

(注4)フェリオサの運転するウォー・タンクを追いかけるイモータン・ジョーらの武装集団の画像は、イスラム国の画像とそっくりです!



(注5)このサイトの記事の中で、棒飛び隊について、「ミラー(監督)も実写をあきらめかけた時、ノリス(スタント・コーディネーター)、ギブソン(美術)、ダン・オリバー(特殊効果監修)が逆さのメトロノーム装置の開発に成功する」云々と述べられています。



(注6)Wikipediaの「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(「登場人物・キャスト」の「コーマComa-Doof Warrior」)のでは、「火炎放射器付きのエレキギターとサウスポー・エレキベースのダブルネック・メタル・ボディでディストーションを響かせたパワー・コード・リフ奏法を行う」と述べられています。どうして“サウスポー”なのかわかりませんが(あるいは、弦の張り方が逆なのでしょうか?)、映画の中で使われているのは、通常の6弦ギターと4弦のベースギターを合わせたダブルネックのギターのようです(ギター奏者が右足で踏んでいるのが「ディストーション」なのでしょう)。
 例えば、このようなものが売られています。
 ですが、YouTubeでこの映像を見てみると、そんな市販のものではなくて、4弦のベースギターのボディの上に6弦ギターを貼り付けて作られているような感じがします(それに、火炎放射のノズルが取り付けられているようです)。



(注7)Wikipediaの「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(「主に登場する乗り物」の「ドーフ・ワゴンDoof Wagon」)のでは、「後部席に4人編成で太鼓を叩くドレッドヘアのドーフ・ウォリアー」と述べられています。



(注8)ジョージ・ミラー監督は、このインタビュー記事において、「ドゥーフ・ウォリアーが存在するのにはロジカルな理由があります。言葉が発達する前、戦争や紛争では音楽がコミュニケーションの手段でしたよね。打楽器があったり、スコットランドではバグパイプがあったりしました」と述べています(「言葉が発達する前」と言っているところはよく理解できませんが)。



★★★★☆☆



象のロケット:マッドマックス 怒りのデス・ロード

雪の轍

2015年07月17日 | 洋画(15年)
 『雪の轍』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)3時間16分という長尺のトルコ映画(注1)ながら、昨年のカンヌ国際映画祭においてパルム・ドール大賞を受賞した作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、舞台となるカッパドキアが映し出され、遠くには岩山を歩く観光客の姿が見える中を、本作の主人公アイドゥンハルク・ビルギネル)が、岩山の縁をこちらに向かって歩いてきます。



 彼は、岩山をくりぬいて作られたホテル「オセロ」の中に入っていき(注3)、客に挨拶し、「キノコを採ってきた。ソテーにしようか?」と訊くと、客の方は、「満腹だ。ここに馬はいるか?」と逆に尋ねます。アイドゥンは「野生の馬がいる」と答えます(注4)。
 次いで、使用人のファトマが入ってくると、アイドゥンは「ニハル(アイドゥンの妻)は?」と訊き、ファトマが「とっくに起きて、部屋で朝食をとっています」と答えると、アイドゥンは更に「ネジラ(アイドゥンの妹)は?」と尋ねます。
 そんなやり取りの後、アイドゥンはホテルを出て、書斎と称している別の建物(ここも、岩をくりぬいて作られています)の中に入っていきます。

 次いで、車に乗って、アイドゥンと使用人のヒダーエット(ファトマと夫婦)とは、馬が飼われている牧場を回った後、学校に立ち寄ると、突然子供のイリヤスが車に石を投げ、窓ガラスに大きなヒビが入ってしまいます。
 ヒダーエットが子供を追いかけて捕まえてきて、アイドゥンに「小川の中に入ってしまい、ズブ濡れです。家まで送り届けましょう」と言います。
 そこで、イリヤスを家まで連れて行きますが、子供の父親のイスマイルネジャット・イシレル:注5)とビダーエットとが言い争いをし、殴りあい寸前になってしまいます。
 というのも、イスマイルは、家賃の滞納を理由に家主のアイドゥンがTVなどの家具を差し押さえたことに対し恨みを持っていたところに、息子のイリヤスが酷い悪さをしたと告げられたために、切れてしまったようなのです。
 この場は、イスマイルの弟のハムディのとりなしによってなんとか収まったものの、アイドゥンには揉め事がいろいろ起きてくるようであり、果たしてこの先どうなることでしょう、………?

 本作は、トルコのカッパドキアが舞台で、ホテルのオーナーである初老の男が主人公。その暮らしは裕福ながらも、決して平穏無事な生活を営んでいるというわけでなく、彼を取り巻く人々とのさまざまなトラブルに巻き込まれ、さかんに議論する様子が描き出されます。それが、秋から雪の舞う冬のカッパドキアを背景に展開され、特にこれという出来事は何も起こらないながらも、長尺を全く意識させないとても締まった感じの秀作となっています。

(2)主人公のアイドゥンは、親から様々の資産を受け継いでいて、その暮らしは裕福です。そして、それらの資産の具体的な管理は使用人らに任せ(注6)、自分自身は、書斎にこもって机の上のパソコンに向かいながら、地方紙のコラムに世の中を批判する記事を書いたりしていて、言うことなしの感じがします。



 でも、上で若干触れたように、些細な事ながらもいろいろなトラブルが起き、彼を取り巻く人たちと盛んに議論することになるのです。
 例えば、車の中で、アイドゥンが、家賃滞納の揉め事から「もう父の遺産を手放したくなる」と言うと、使用人のヒダーエットが、「この界隈で家賃滞納などこれまで聞いたことがない。あなたのやり方は手ぬるい」と非難したりします。

 また、車の窓ガラスを割ったイリヤスの父親のイスマイルは、「あんな子供のそんなことができるのか?一体何が言いたいのだ?」とか、「僅かな家賃の代わりにTVなどを取り上げ、今度は息子がと言ってくる。喧嘩を売りに来たのか?」などと立ち向かってきます。

 さらには、離婚して出戻ってきた妹のネジラは、食事の時間に、「悪と闘う代わりに、なぜ逆をしないの?私は、自分に向けられた悪には抗わない。悪人に後悔する時間を与えるのだ」などと言いますが(注7)、アイドゥンは「悪に加担するとは!」と驚き、「悪と闘えば、世界の悪を絶やせる」と言います(注8)。

 そして、若くて美貌の妻・ニハルからは、自分が行っている慈善活動(学校に対する寄付)に口を出さないでくれて言われます(注9)。



 あるいは、これらの人たちは、それぞれの立場で自分なりの自由を求めているのかもしれません(注10)。
 例えば、ヒダーエットは、主人のアイドゥンが長逗留先のイスタンブールに行かず家に戻るということを、内緒にしろと言われていたにもかかわらず、妻のファトマに携帯で連絡しますが、いかにも残念そうな口ぶりです。
 イスマイルは、ニハルが密かに持ってきた大金を、それだけあれば、滞納した家賃は支払えるでしょうし、あるいは自分で家を持てるかもしれませんが、理由のない金は受け取れないとばかりに、惜しげもなく火にくべてしまいます(注11)。
 ネジラは、自分の居場所があると思って戻ってきたにもかかわらず、どうもそうではなさそうな感じを敏感に読み取り、元の夫とヨリを戻すことを考えるものの、はてどうなることでしょう?
 そして、ニハルですが、イスタンブールには行かずに家に戻ってきたアイドゥンを2階の窓から見下ろすシーンがあります。ここでは、アイドゥンの内心の声(注12)が流れるものの、それはニハルには届かず、ただ撃ち殺したうさぎを手に抱えて家に入ってくる夫が見えるだけです。この姿を見たニハルは、自分も逃げ出したりしたら、アイドゥンが解放した馬のように自由になれるのではなく、逆にウサギのように撃ち殺されるかもしれないという恐怖に囚われてしまわないでしょうか?

 こうした自由を求める周囲の声を一身に浴びるアイドゥン自身も、冬の間はイスタンブールで逗留して自由を味わいたかったのかもしれません。ですが、父親の遺産の世界からやっぱり離れられずに、戻ってきてしまいます。
 戻ったアイドゥンは、書斎にこもって、長年の懸案だった『トルコ演劇史』の執筆に取り掛かろうとパソコンに向かいますが(注13)、さあ、この先の生活はどうなることでしょう?

 本作に登場する人物は、誰一人他の人に対して優位性を持たず、皆このゴタゴタした人間世界に絡め取られているように見え、お互いに議論すればするほど混迷を深めていく感じがして、それが雪の降る冬のカッパドキアの風景の中で描き出されると、リアルさを一層増すように思われます。



(3)渡まち子氏は、「ある意味、先読み不能な物語だが、くどくどと理屈をこねて自らの脆さをあらわにする小さき人間と、数億年前に形作られた奇岩の風景が広がるカッパドキアの自然の広大な空間が、圧倒的な対比を成している」として65点をつけています。
 中条省平氏は、「人間と人間とが向き合う緊迫した室内の対話劇と、パッパドキアの建築群や雪原など、開かれた外景との対比が見事な効果を上げている」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「3時間16分の巨編だが、長く感じるどころか、片時も気がそらせない。なぜか。矛盾だらけのアイドゥンの中に、観客は、いつの間にか、知っている誰か、あるいは自分自身を重ねずにいられないからだ。言葉と映像による人間探究、見事だ」と述べています。



(注1)トルコ映画は、これまで『蜜蜂』、『ミルク』、『』の“ユシフ3部作”を見ました。

(注2)監督は、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
 英題は「Winter Sleep」。

 なお、劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、本作について、同監督は「チェーホフの3つの著作が発想源」だと述べているところ、同パンフレット掲載のエッセイ「チェーホフとドストエフスキー―『雪の轍』とロシア文学」において、ロシア文学者の沼野充義氏は、チェーホフの『妻』と『善人たち』を挙げています(このサイトの記事によれば、沼野氏は、「もう1つがよく分からないのですが、おそらく戯曲の「ワーニャ伯父さん」や「三人姉妹」などが考えられます」と述べています)。

(注3)なんと、このホテルには若い日本人ペアも宿泊しているのです(このサイトの記事を参照)。

(注4)この記事によれば、「カッパドキア(Cappadocia)」は「「美しい馬の地」を意味するペルシア語:Katpatukに由来」するとのこと。

(注5)ネジャット・イシレルは、上記「注1」で触れた“ユシフ3部作”の『卵』において、主役のユシフを演じていました。

(注6)イスマイルの弟のハムディが、イリヤスが車の窓ガラスを割ったことに関して、何度もアイドゥンの元にやってくるのですが、アイドゥンは、「こういった話はヒダーエットや弁護士にしてくれ。もうここには来ないでくれ」とハムディに言います。

(注7)同席していたニハルも、「無抵抗を示すことで、悪人は恥じる」と言います。ただ、ニハルは、ネジラが「元夫に謝ろうと思う」と言ったことについては(下記の「注8」参照)、「何も悪いことをしていないのに」と批判的です。

(注8)この議論は、前夜アイドゥンが、自分の書いたコラム記事(家賃滞納のことに触れたもののようです)について、「悪に抗わなかったら、世の中が混乱してしまう」と言ったことに対し、ネジラが「随分と安易に逃げたもの」と批判したことに引き続いて行われました。
 ただ、その後でネジラがニハルに対して、「元夫のアルコール依存が、離婚してから酷くなった。私はどこで間違えたのか。自分の罪と向き合うべき。離婚せずに、私が違った対応をすればよかった。彼に許しを請おうと考えている」と言っていることからすれば、ネジラの私的な感情に基づいたものでもあるようです。

(注9)ホテルで開催された慈善活動関係者のパーティーに関して、ニハルは、「これは内輪の集まり。数ヶ月かけて行ってきた活動の総仕上げの場。あなたは遠慮して欲しい」とアイドゥンに求めます。これに対して、アイドゥンは、「失礼ではないか。男だらけにもかかわらず、主人を除外するとは。私はこんなことをしたことがない」と言い返します。
 夜になって、ニハルの部屋に行ったアイドゥンに対し、ニハルは、「お互いに干渉せずにうまくやってきた。以前のように喧嘩をくり返すのなら、私はここにいられない。イスタンブールに行って仕事を探すかもしれない」と言います。これに対し、アイドゥンは、「私が一度でも引き止めたか?君は恵まれすぎたんだ。感謝の気持というものがわからないのだ」などと応じます。

(注10)こうしたことを象徴しているのが、大変な思いをして捕まえた野生の馬を、イスタンブールへ出発しようとする際に、アイドゥンが解き放してしまうシーンなのかもしれません。
 劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督は、「馬たちは人間とは全く関わらず、人に捕まると彼らは、自由のために闘うのです。それは映画の内容にもふさわしいものでした」と述べています。

(注11)上記「注2」で触れたエッセイにおいて、沼野氏は、ここらあたりはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『白痴』を踏まえていると述べています。

(注12)「イスタンブールには行く必要がないのだ。すがれるのは君だけだ。君から離れることなど出来ようはずがない。君の下僕となってともに生きよう。許してくれ」といったような内容のアイドゥンの内心の声が流れます。

(注13)アイドゥンは、若い頃は舞台俳優として活躍したという設定になっています。



★★★★☆☆



象のロケット:雪の轍

アリスのままで

2015年07月14日 | 洋画(15年)
 『アリスのままで』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)ジュリアン・ムーアが本年のアカデミー賞主演女優賞を本作で受賞したというので見に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、主人公のアリスジュリアン・ムーア)の50歳の誕生日の食事会。



 そこには、夫のジョンアレック・ボールドウィン)、長女のアナケイト・ボスワース)とその夫、それに長男のトムハンター・パリッシュ)が同席しています。
 トムが、「彼女と別れたんだ。プレゼントは忘れた」と言い、また、アリスは、「(次女の)リディアはオーディションで来られないと言っていた」と付け加えます。
 そして、夫のジョンが、「僕の人生を通じて、最も美しく最も知的な女性だ。乾杯!」と挨拶して盃をあげます。

 次の場面では、講師として招かれたUCLAで、アリスは、子供が自然に母語を話せるようになるのはなぜかといった話題で講演をしています。
 「ダーウィンはそういう本能があるからだとしましたが、私の最新の研究をお話しましょう」と言って話し続けようとしたところで、ある言葉を忘れてしまい、話が中断してしまいます。
 その場は、シャンパンを飲んだことが悪かったようだ、などと取り繕いましたが。

 後の車の中の場面で、アリスは、忘れてしまった言葉が「lexicon(語彙)」だったことを思い出します。

 次いで、アリスは次女のリディアクリステン・スチュワート)に会います。



 演劇の道を志している彼女に対し、アリスは、「もう考え直す時では?」と尋ねますが、リディアは「大学に行くべきということ?でも私は、これで満足している」と答えます。

 今度は、アリスが街の中をジョギングしています。
 ですが、勝手知ったコロンビア大学の構内にもかかわらず、アリスは、自分が今どこにいるのかわからなくなってしまいます。
 それで、アリスは心配になって病院を訪れるのですが、一体どんな診断が下されるのでしょう、………?

 本作は、ニューヨークのコロンビア大学で言語学を教えている女性が、50歳で若年性のアルツハイマー病に罹患してしまったことを巡るお話です。この病気によって、彼女の記憶は次第に失われ、大学を辞めざるを得なくなるばかりか、家族をもいろいろ巻き込んでいくことになります。それでも、家族のそれぞれが、自分の立場から出来るだけのことをしようと努力する様が描かれ、そんなに暗い作品になっているわけではありません。
 むしろ本作は、アルツハイマー病の怖さを世の中に訴えることを主眼とするものではなく、それを通して、家族の絆を描き出そうとしているようにも思われます。
 とはいえ、映画では描かれないこの先、主役のアリスをも含めて皆がどのようになるのか、とても気になるところですが(注2)。

(2)本作は、アリスを巡る状況設定を、これでもかというくらいに厳しくしすぎている感が否めません。
 本作で中心的に描かれる若年性アルツハイマー病自体、余り見かけないものですし(注3)、とりわけ本作で言われている「家族性アルツハイマー病」(注4)はごく稀にしか起こらないもののようです(注5)。
 なお、アリスのアルツハイマー病が「家族性」のものであるというのは、DNA検査をすることでわかるのでしょうが(注6)、同病に対する予防法・治療法がまったく確立していない現在、結果が判明しても家族の不安を煽ることになるだけで、意味がないようにも思われるところです(注7)。
 特に、本作の場合、DNA検査を受けた長男のトムは陰性だったからよかったようなものの、長女のアナは子供を産んだにもかかわらず陽性の判定なのです。本人ばかりでなく、それらの子供(それも、よりによって双子とは!)は一体どうなるのでしょう(注8)?

 また、アリスが高名な言語学者(コロンビア大学の言語学科教授)とされているのも、ことさらな感じがするところです。なにしろ、言葉を研究している学者がその言葉自体を次第に失ってしまうのですから(注9)。

 とはいえ、そうした事柄は(注10)、本作の物語をくっきり描き出すための方策として止む得えないかもしれません。
 それに、なにはともあれアリスを演じるジュリアン・ムーアの演技が素晴らしいのです。
 例えば、最初の方で、ジョギング中にコロンビア大学構内で道に迷ってしまった時のなんとも言えない表情。
 あるいは、次女のリディアに対し、もっと安定した道に就くように説得するときの母親の顔。
 さらには、アルツハイマー協会でのスピーチにおける姿(注11)。



 なるほどアカデミー賞主演女優賞を受けた女優だなと思ったところです。

 ただ、夫のジョン(注12)や長女のアナ(注13)の描き方については、本作が家族の絆を描き出したいというのであれば、今一よくわからないところがあるように思いました。

(3)渡まち子氏は、「若年性アルツハイマー病を発症した女性とその家族の葛藤を描く「アリスのままで」。オスカーを射止めたジュリアン・ムーア渾身の演技に目を見張る」として80点をつけています。
 藤原帰一氏は、「これは暗い。ハッピーエンドになるはずのない、救いのないお話ですが、最初から最後まで目が離せない。その理由はただ一つ、主演のジュリアン・ムーアがいいからです」と述べています。
 小梶勝男氏は、「身につまされるのは、程度は全く違うが、誰もが老いていく中で今の自分でなくなるのを受け入れざるを得ないからだろう。自分がなくなって、我々は何を残せるのだろうか」と述べています。



(注1)脚色・監督は、リチャード・グラッツァーウォッシュ・ウェストモアランド
 原作は、リサ・ジェノヴァ著『アリスのままで』(邦訳はこちら:未読)。

(注2)出演者の内、最近では、ジュリアン・ムーアは『クロエ』、アレック・ボールドウィンは『ブルージャスミン』で、それぞれ見ました。

(注3)映画では、つとに『明日の記憶』(2006年:若年性アルツハイマー病にかかる主人公は49歳)や『私の頭の中の消しゴム』(2004年)などで取り上げられているとはいえ、アルツハイマー病(AD)の5%未満が若年性発症型のアルツハイマー病であると推定されています(例えば、この記事)。
 さらに、このサイトの記事では、「一般集団における早期発症型ADの頻度を10万人あたり41.2人(発症年齢40~59歳)」(0.04%!)とする研究が引用されています。

(注4)映画の中で、家族性の若年性アルツハイマー病がその患者の子どもたちに遺伝する確率が50%で、発症率は100%だとされています(ただし、この記事では、「遺伝子に異常が見つかっても100%アルツハイマーを発症するとは限りません」とされています)。

(注5)このサイトの記事によれば、「家族性アルツハイマー病は、アルツハイマー病全体の約5%程度である初老期発症アルツハイマー病の約10%に過ぎないわけですから、極めて稀な疾患と考えられます」とのこと(ただし、前記「注3」で触れている記事によれば、「早期発症型ADの約60%が家族性」とのことですが)。

(注6)アリスのDNAのなかに、家族性の若年性アルツハイマー病を引き起こすいくつかの遺伝子(この記事)のどれかが見つかったということなのでしょう。
 あるいは、アリスの両親のどちらかが、そうした遺伝子を持っていたのでしょう。とすると、アリスの兄弟姉妹の中でも、若年性アルツハイマー病に罹患している者がいるかもしれません。

(注7)次女のリディアは検査を拒否します。前記「注3」で触れている記事によれば、「検査後の重篤な抑うつ症状も報告されている」とのことですから、ある意味で当然ではないかと思われます(検査を受けずとも、確率が50%なのですから、精神的に耐え難いことでしょう)。

(注8)ここらあたりのことは、特殊アメリカの状況なのかもしれません(日本では、この記事によれば、神戸大学付属病院では、発症前診断は行なわれていないとのこと)。

(注9)アリスが講義している最中に言い淀んでしまうシーンがありますが、その後の車の中で、出てこなかった言葉が「語彙」だということにアリスは気が付きます。

(注10)これらの設定に加えて、さらに、本作の監督の一人であるリチャード・グラッツァーがALSを患っていて、映画の完成後に亡くなっているのですから、言うことはありません(Wikipediaのこの項目によれば、「90%程度が遺伝性を認められない孤発性である。残り10%程度の遺伝性ALSでは、一部の症例に原因遺伝子が同定されている」とのこと。なんだか、家族性の若年性アルツハイマー病と類似した状況にある感じです)。

(注11)話した部分を黄色のペンで消しながら、また原稿を床に落としてしまいながらのスピーチですが、大学での講義と同じように、毅然とした態度で、「やってみたいことがあるのです。苦しんでなんかいません。闘っているのです。瞬間瞬間を生きているのです」とスピーチします。

(注12)夫のジョンは、まだ働き盛りの年齢ということから仕方がないとはいえ、ニューヨークに残る妻を次女のリディアに託して、ミネソタ州のメイヨー・クリニックに移籍してしまうのです(逆に、彼が、そういう良い話があるにもかかわらず、ニューヨークに残って献身的にアリスの介護をするという展開も、より作り話的な感じがしてしまうでしょうが)。
 ここらあたりについて、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「それでもアリスは、アリスのままだった」において、心理学者・植木理恵氏は、「一見、浅薄なように見えるかもしれませんが、仕事を辞めて介護に専念して、アリスの人生に引きずられていくことが、彼女に敬意を払っていることにはなりません。彼女をひとりの人間として尊重しているからこそ、自分も人生を捧げてきた研究をまっとうするという道を選んだ。その上で、次女に「君は僕より、いい人間だ」と流す涙には深いものがありました。より高度な人間関係であり、大きな愛だと思います」と述べています。
 ですが、ジョンがそう考えているとしたら、単なる自分勝手な言い訳にすぎないようにクマネズミには思えてしまうのですが(ニューヨークに残っても、ある程度の研究は可能でしょうし)。

(注13)長女のアナについては、若年性アルツハイマー病について陽性だと判明したのであり、さらには双子の子供を産んだわけですから、その苦悩の深さたるやもしかしたらアリスを凌ぐものかもしれません。にもかかわらず、動揺した姿が映し出されるとはいえ、いともあっさりと舞台から消えてしまいます(尤も、本作はアリスが主役の作品ですから、アナの厳しい状況を突っ込んで映し出すわけにも行かなかったのでしょうが、それにしても)。



★★★☆☆☆



象のロケット:アリスのままで


グローリー 明日への行進

2015年07月10日 | 洋画(15年)
 『グローリー 明日への行進』をTOHOシネマズ六本木で見ました。

(1)本年のアカデミー賞作品賞にノミネートされた作品ということで見に行きました(注1)。

 本作(注2)の冒頭では、主人公のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアデヴィッド・オイェロウォ)が、ノーベル賞の授賞式を前に、オスロのホテルで準備をしています。
 キング牧師は演説案を読みながら、「(服が)変な感じだ」と言うと、妻のコレッタカーメン・イジョゴ)は「アスコットタイよ」と答え、彼は「似合わないよ」と応じます。



 さらに、キング牧師は、「こんな姿を見たら、国の仲間がどう思うか」と言い、「将来は、小さな町の教師になるよ」と続けると、妻は「支払い担当は私」と応じ、キング牧師は「完璧だ」と言います。

 次いで、ノーベル平和賞の授与式の場面。
 キング牧師は、「道半ばで倒れた2000万人のニグロとともにこの栄誉をお受けします」と演説します。

 そして、1963年のバーミングハムでの教会爆破事件が描かれた後、映画は、1965年3月にアラバマ州セルマで黒人たちによって行われた約80kmに及ぶ抗議の大行進を巡る話に入っていきます。キング牧師は何を求めてこの大行進を行おうとしたのでしょうか、………?

 本作は、1965年のセルマ行進を描いた歴史物で、中心となるのは、前年にノーベル平和賞を受賞したキング牧師。彼は、一方で、ホワイトハウスに圧力をかけて黒人の投票権を保障する新法を制定させるためにはぜひとも広範な抗議活動が必要だとしながらも、他方で、自分がリーダーとなって行う運動によって沢山の犠牲者が出たことから、その推進に躊躇いを見せたり、また家族との亀裂に悩んだりもして、全体としてなかなかのドラマになっています。
 ただ、身近で黒人問題に触れたことのない者にとっては、遠い国の遠い時代のお話だなという感じになってしまうのも、正直否めないところです(注3)。

(2)とはいえ、例えば、先月17日には、サウスカロライナ州の教会で、黒人9人が死亡する銃乱射事件が引き起こされていますし、また昨年8月には、米ミズーリ州ファーガソンで、18歳の黒人少年が白人の警察官に射殺される事件が起きています。
 キング牧師のセルマ行進から半世紀ほどたった今でも、依然として黒人問題は米国のアキレス腱となっている感じがします。

 それでも、米国事情に疎いクマネズミは、1963年にワシントン大行進が行われ、さらに1964年に公民権法が制定されて、法律面では一応解決されたのかなと思っていたので、映画の背景が最初のうちは良く飲み込めませんでした。
 なるほど、最初の方で、黒人女性のアニー・リー・クーパーオプラ・ウィンフリー)が書類を受付に提出するも、却下されてしまう場面が描かれています(注4)。ただ、彼女が何を求めているのかが判然としません。

 次いで、ジョンソン大統領トム・ウィルキンソン)とキング牧師との会談の場面が描き出されます。このあたりで、ようやくキング牧師が何を求めているのかが描かれてきます。



 ジョンソン大統領が、「今はどうしようもない。まずは、南部で行われている隔離政策を解決し、それから貧困問題を解決しよう。その後で投票権だ」と言ったのに対し、キング牧師は、「待てません。南部では数千人が殺されましたが、一人も犯人は捕まりません。それは、陪審員の全員が白人だからです。そして陪審員になるためには投票権を持っている必要があるのです」と反論します(注5)。
 ここらまで来ると、ようやく投票権法制定の重要性がおぼろげながらわかってきます(注6)。

 でも、前年に制定された公民権法ではどうして駄目なのでしょうか?
 なにしろ、Wikipediaのこの項では、「1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった」と述べられているくらいなのですから(注7)。
 どうもよくわかりません。

(3)本作では、単調にならないような工夫がされています。例えば、セルマでの最初の行進が保安官や州警察等によって阻止され流血を見たことから(「血の日曜日事件」)、キング牧師が、2度目の行進では橋の中途で引き返してしまう様子が描かれたり、さらにはキング牧師の家庭不和の問題が取り上げられたりもしています。
 ですが、クライマックスが単なる行進なのですからいたしかたないとはいえ、全体としては平板な感じがしてしまいます。
 特に、キング牧師の女性関係については、妻のコレッタが「本心を教えてくれる?私を愛している?」と尋ねたのに対し、キング牧師は「もちろん、愛している」と答え、さらに彼女が「他に誰かいるの?」と訊くと、彼は、しばらく沈黙してから「いない」と答え、これを聞いて彼女は部屋を出て行く、というシーンで暗示しているにすぎません。
 でも、大勢の関係者が存命中のことでもあり、これ以上の切り込みは難しかったかもしれません(注8)。

(4)渡まち子氏は、「その信念の代償として、キング牧師がわずか39歳の若さで命を落とした事実を知っているだけに、彼が実行した「ただ歩く」という偉業がなおさら胸を打つ」などとして65点をつけています。
 中山治美氏は、「明らかな差別を受けている人を目の前で見た時に、自分は、命を張ってでも彼らに手を差し伸べる勇気があるか?と。この映画、自分の度量というものを考えさせてくれますわ。ただキング牧師の人間性なり魅力があまり伝わって来ず。キャストがいささか弱いのがちょっと残念」として★4つ(星5つのうち)をつけています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「様々な人物が交錯する中で、エバ・デュバネイ監督は敵対する人々の憎悪を生々しく描いたが、テーマは融和だと感じた。人種差別が根深く残り、経済格差が広がる現代だからこそ、半世紀前を思い出させる意味があるのだろう」と述べています。



(注1)これでノミネートされた8作品すべてを見たことになりますが、やはり『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の作品賞受賞は順当のように思われます。

(注2)監督は、エヴァ・デュヴァネイ
 原題は『Selma』。

(注3)出演者の内、デヴィッド・オイェロウォは『インターステラー』(学校の校長役)、トム・ウィルキンソンは『グランド・ブダペスト・ホテル』(作家の役)、ティム・ロスは『グレース・オブ・モナコ』(レーニエ3世役)、オプラ・ウィンフリーは『大統領の執事の涙』(主人公の妻の役)で、それぞれ見ました。

(注4)受付の男から、「合衆国憲法の前文を知っているか?」とか、「アラバマ州の判事の数は?」と尋ねられ、それらの質問に彼女はうまく答えますが、「判事の名前を言え」との要求には答えられず、それで却下されてしまいます。

(注5)このサイトの記事によれば、「当時、投票資格の要件は州法の問題と考えられていたため、南部諸州は、黒人から投票権を奪うためのさまざまな策略をめぐらせたのと同様に、工夫をこらして陪審からも彼らを締め出し続けた。選挙人登録者名簿に黒人が含まれなければ、自動的に陪審員名簿に黒人は含まれなかった」とのこと。

(注6)このサイトの記事によれば、「「投票権法」の重要性は過小評価することはできない」とのこと。
 なお、同記事には、「投票は、州法の管轄下にあったし、今でも、そのほとんどはそのままである」と述べられているところ、こうした背景があるために、投票権法が制定された後、ジョンソン大統領が、アラバマ州知事ティム・ロス)にこの法律に従うように求めたところ、同知事が「その仕事は郡(カウンティ)の仕事だ」と反論したのでしょう。

(注7)Wikipediaのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアに関する項では、セルマ行進のことも投票権法のことも触れられていません。

(注8)この記事では、「(キング牧師が)なぜ死後40年以上映画化されなかったのか。その理由と、それをどう乗り越えたのか」について、デュヴァネイ監督自身が語っています。



★★★☆☆☆



象のロケット:グローリー 明日への行進

ラブ&ピース

2015年07月07日 | 邦画(15年)
 『ラブ&ピース』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『新宿スワン』がとてもよかった園子温監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、「朝まで生テレビ」の場面。“東京オリンピック2020”を議論していて、田原総一朗が「何を象徴するものになるのか?」と議論を提起したり、茂木健一郎が「脳科学的にはドーパミンが出るのです」と相変わらずのコメントを言ったりしている時に、田原が「ただ一人取り残された男、鈴木良一がいる!」と叫ぶと、それが映っているTVの前で寝ている男が映し出されます。
 その男が、主役の鈴木良一長谷川博己)。

 朝になると、良一は、勤め先の楽器の部品会社に出かけます。
 電車の中では皆の目が気になり、腹が痛み出してトイレに駆け込んだりします。
 さらに、ようやく辿り着いた会社の入口でもたついていると、皆から「おいバカ早く来いよ」と言われ、会社の中では、上司の課長(マキタスポーツ)から「君は必要な部品でもなく、かけらですらない」とバカにされて、まわりじゅうから笑われてしまいます。
 ただ、腹痛で苦しむ良一に対して、寺島裕子麻生久美子)が、「お腹がいたいのなら、この薬をどうぞ」と錠剤を渡してくれます。



 次いで、デパートの屋上の場面。
 良一は、一人で昼食のパンを口にしています。フト前を見ると、ミドリガメを売っている男が。
 彼は、衝動的にその亀を買ってしまいます。



 今度は、良一の部屋。
 TVから「原爆が投下されて70年」などの音声が聞こえます。良一は、ミドリガメに向かって、「これが本当の僕なんだ」と言って、ギターを弾きながら歌います。
 ちょうどTVでは「ピカドンとはどういう意味?」「怪獣?」と喋っていて、それを耳にした良一は、ミドリガメを「ピカドン」と名付けます。
 そして、ピカドンに向かって「日本スタジアムでライブできるくらい俺はビッグになる」と言います。

 さあ、果たして良一はビッグになるでしょうか、………?

 本作のメインのストーリーは、会社ではうだつが上がらず皆にバカにされている男が、ロックシンガーとしてビッグになるという夢を実現しようとするもの。その話が、ミドリガメを通して、廃品のおもちゃなどを拾い集めて再生する男の話と結びつけられ、さらに全体がラブストーリーになっている破天荒なファンタジーであり、あまり一般受けはしないかもしれませんが、主演の長谷川博己の熱演や西田敏行の味のある演技などもあって、クマネズミはまずまず面白く感じました(注2)。

(2)もう少し丁寧に見てみましょう(様々にネタバレしてしまいますので、ご注意ください)。
 本作では、一方に、良一の“ビッグになりたい”という彼の夢がギリギリまで膨らんで、東京オリンピックのために建設された「日本スタジアム」でのライブまで漕ぎ着けたところで、バブルが弾けるように消えてしまうというお話があります。
 また、もう一方に、廃棄されたフランス人形・マリア(声:中川翔子)やロボット(声:星野源)、猫人形・スネ公(声:犬山イヌコ)などや、飼い主に捨てられたペットを集めてきて、下水道の片隅で暮らしているホームレスの老人(西田敏行)を巡る話があります。



 彼は、クリスマスイブになると、壊れた人形などを元通りに修理して、それらを子どもたちに配るべく、サンタクロースになってトナカイが曳くソリに乗り込むのです。
 この二つの話が、最後は怪獣クラスの超“ビッグ”な大きさになってはじけ飛んでしまうミドリガメの「ピカドン」によって結び付けられています。
 ごく皮相的な解釈に過ぎませんが、本作全体で、バブル期以降の日本の姿(一方で、土地神話に基づき起きたバブルが弾けて「失われた20年」に陥った日本経済。他方で、新品同様の物がどんどん捨てられる日本社会の環境問題)を譬えているように思えるところです(注3)。

 ただ、そんなことを言ってみても、本作の枠組みについて少々撫でたにすぎず、何も始まりません。もう少し入り込むと、本作には、3つの面白さがあるように思いました。
 一つは音楽。
 もう一つはメルヘンチックな下水道でのお話。
 そして、怪獣の出現。

 音楽について言えば、映画の中で何度も流れる「ラブ&ピース」(園子温監督が作詞・作曲)がとても素敵であり(注4)、それにもまして、ラストの忌野清志郎の「スローバラード」がすごく感動的です(注5)。
 なにしろ、舞台衣装を脱ぎ捨てて、独り、雪が舞う商店街を泣きながら歩く良一の場面で、「昨日は車の中で寝た/あの娘と手をつないで……」の歌詞が流れるのですから(注6)!

 また、西田敏行扮する老人を巡る下水道でのお話には、人形や動物がいくつも登場し、随分とメルヘンチックですが、そればかりではありません。フランス人形・マリアが、自分が陳列されていた店のショーウインドウの前にいると、自分を捨てた女の子が別の新しいフランス人形を母親(神楽坂恵)に買ってもらっているという厳しい目に遭遇しますし、猫人形・スネ公も、サンタクロースになった老人に、「こうやって新しくして子どもたちに配っても、またすぐに捨てられてしまい、ここに戻ってきてしまうのさ」と毒づきます。
 廃品の回収・再生といっても、プラスの面ばかりでなく、マイナスの面があることに目が向けられているのでしょう。

 さらに、映画に登場するミドリガメの怪獣については、特撮技術が随分と駆使されていますが、目が大きくとても可愛らしい外観であり(注7)、また、ゴジラのように東京の市街を破壊しながら「日本スタジアム」に向かうとはいえ、人が誰も死なないことが強調されたりしていて(注8)、これまでの怪獣映画とは一味違った面白さになっていると思いました(注9)。

 そうして、これらを基本的なファクターとして出来上がっているのが、良一と裕子を巡るラブストーリーであり、最後の最後に裕子が良一の部屋の近くまで来ているところで、本作の幕となります。
 それにしても、裕子役の麻生久美子は、本作のヒロインと言うには、最初から最後まで本当に地味な存在として描かれていました(注10)!

(3)渡まち子氏は、「笑えて泣けて最後に感動…と言いたいところだが、特撮怪獣モノのノリにのれなければ、最後まで置いてけぼりなので、要注意だ」として50点をつけています。
 前田有一氏は、「この映画、音楽がとてもいいので、相当ヘンな映画だがなかなか見せる。それでもたとえば「リアル鬼ごっこ」(7月11日公開)にくらべると、突き抜け感が圧倒的に足りず中途半端な印象」として60点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「さまざまな手法やジャンルを混ぜ合わせ、謎を秘めながら何が飛び出してくるかわからない予測不可能な物語展開の妙味は、まさに園子温監督ならではの映画的エネルギーと魅力に溢れていて大いに楽しめる」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)本作は、園子温監督が25年前に書いた脚本にほぼ従っているとのこと(劇場用パンフレット掲載のインタビューで、同監督は、「95%くらいは当時の脚本を忠実に再現しています」と述べています)。

(注2)出演者の内、最近では、長谷川博己は『地獄でなぜ悪い』、麻生久美子は『小野寺の弟・小野寺の姉』、西田敏行は『マエストロ!』、良一のマネージャー役の渋川清彦は『深夜食堂』、マキタスポーツは『苦役列車』で、それぞれ見ました。

(注3)大きく膨らんだミドリガメの怪獣が、以前、良一が口にしていた「ビッグになります」とか、「僕は寺島裕子さんが大好き。彼女と付き合いたい」などと喋った後(良一の本心を怪獣が代弁してくれた感じです)、泡が弾けるように空から消えてしまいます。そして、まるで、不動産自体にそんなにすごい価値はないのだと人々が気づいた途端に、バブルがはじけてしまったのと同じように。

(注4)映画で歌われる「ピカドン」や「絆」も園監督が作詞・作曲しています。

(注5)4年ほど前に見た『ナニワ・サリバン・ショー 感度サイコー!!!』でもこの歌が歌われ、物凄く印象的でした。

(注6)そして、部屋に戻った良一が窓辺であのミドリガメがいるのを見つける場面で、「ぼくら夢を見たのさ/とってもよく似た夢を」との歌詞が流れるのです!
 なお、良一が商店街を歩いて行くシーンは、『地獄でなぜ悪い』のラストで、長谷川博己扮する平田が現場から引き上げるシーンを思い起こさせます(尤も、同作で平田は走っていましたが)。

(注7)劇場用パンフレット掲載のインタビューで、園監督は、「この映画はたくさんの子どもたちに観てもらいたいと思ってる」ので(?!)、「もの凄くかわいい怪獣にしたいと思いました」と述べています。

(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビューで、園監督は、「今回はそこが大事かなと思って。「全員無事です」ってわざわざセリフで言わせてるんです」と述べています(「怪獣の歩みが遅いため、全員が避難できている模様」といったレポーターの声が入ります)。

(注9)怪獣となったピカドンが日本スタジアムに進んでいく際には、ベートーヴェンの第9交響曲第4楽章の行進曲風のところが流れます。
〔園監督の『気球クラブ、その後』の中で、気球が空に上った時などに、クラシック・ギター曲「モーツァルトの魔笛の主題による変奏曲(F・ソル作曲)が何度も流れることを思い出させます〕

(注10)でも、ライブ会場で、裕子だけが周りと同じように踊っていなかったりしているために、逆に目立ってしまうのですが!
 なお、劇場用パンフレット掲載のインタビューで、園監督は、「いままでの役柄を把握した上で、そこからちょっと出てもらうイメージです。メイクも汚い感じにして、なるべく地味な人になってもらいたいなって。それでもかわいかったですけどね」と述べています。



★★★☆☆☆



象のロケット:ラブ&ピース

トイレのピエタ

2015年07月03日 | 邦画(15年)
 『トイレのピエタ』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)手塚治虫氏の原案に基づいて映画が制作されているというので(注1)、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、ビルの屋上の縁に男(主人公の園田野田洋次郎)が一人で立っていて、下を覗きツバを落とし、「風強いな」とつぶやきます。



 次いで、ビルの窓拭きのゴンドラが映し出されます。
 園田は、もう一人の男に「今日初めて?今日は揺れるよ。でも大丈夫だ、落ちたら死ぬだけだから」などと言っています。
 ですが、その男は気を失って倒れてしまいます。
 園田が、「ゴンドラに乗って倒れたやつは初めてだ。今日は風で休止ということにしよう」と言ったところでタイトルが入り、そして屋上に倒れている園田の姿。

 次は病院の場面。
 園田が看護師に血を採られ、さらにCTスキャンを受けます。

 しばらく場面は飛んで、また園田は窓拭きをしています。
 休憩中に、同じ仕事をしている男から「どうすんの、これから?バイトをずっと続けるの?」と訊かれ、園田は「窓を拭く俺たちは、壁に張り付いた虫みたいですよね」と答えます。

 ある時、園田がビルの窓を拭いていると、偶然、中にいた女〔園田の美大時代の恋人・さつき市川紗椰)〕が窓を開けて、「久しぶり」と声をかけてきます。
 さらに、彼女が「最近、絵を描いている?」と尋ねるものですから、「描いていない」と園田は答えると、彼女は「明日からここで私の個展をやるの。よかったら来て」と言い、それに対して園田は「気が向いたら」とボソッと応じます。

 また病院の場面。
 園田は、医師(古舘寛治)から「胃に悪性の腫瘍ができています。明日にも入院して、治療を始めます」と言われ、「無理です」と答えますが、医師はさらに「このまま何もしなければ、3ヶ月くらいしかもちませんよ」と言われてしまいます。

 さあ、園田はどうなるのでしょうか、そして医師の話を聞く際に同席していた女高生・真衣杉咲花)との関係は、………?

 本作では、美大出の主人公が胃がんで余命3ヵ月と宣告されてから、自分の部屋のトイレにピエタの絵を描いて死ぬまでが綴られています。その間に、17歳の女子高生との儚いラブ・ストーリーが挿入されています。その女子高生を演じる杉咲花の奔放な演技が素晴らしく、また映画初出演の主役の野田洋次郎のひたむきさも本作にぴったりであり、全体として優れた作品に仕上がっているなと思いました(注3)。

(2)韓国映画『嘆きのピエタ』をDVDで見たことがありますが(この拙エントリの「注9」を御覧ください)、同作は母親と息子との関係(かなり捻ってあります)が描かれているのに対して、本作ではむしろラブ・ストーリー絡みです。

 と言っても、本作でも、園田の母親(大竹しのぶ)が登場します。



 ただ、息子に対して「俺はお前くらいの歳には、……」とか「金払うからお前の絵を売ってくれ」などと言う父親(岩松了)の陰に隠れてしまっていて、せいぜい「ちゃんと食べてるの?そろそろ家に帰ってきなさいよ」などと言うくらいの存在に過ぎません。

 もう一人母親が登場します。
 園田が入院した病院に小児がんで入院している拓人の母親(宮沢りえ)です。



 拓人と園田との間に交流があったことから、拓人が亡くなった後、彼女は息子の絵を描いてくれるよう園田に懇願します。ですが、彼女が息子のことしか眼中になかったからでしょうか、園田はその願いを受け入れませんでした。

 その点で言えば、園田の美大時代の恋人のさつきも、絵を描いている園田に向かって「私と絵とどっちが大事なの?」と怒って、園田から「そういうこと言うやつ、最低」と言われてしまいます(注4)。



 逆に言えば、女子高生の真衣は、これらの女性に園田が見出だせなかったものを持っていたのでしょう。



 ただ、彼女は、オートバイに乗りながら、運転する園田に「一緒に死んじゃおうか?生きているより死んだ方が楽じゃない?」と言ったにもかかわらず、途中で「早く帰れ」と言われて降ろされてしまうと、園田に向かって「根性なし」と毒付いたりするのです(注5)。

 とはいえ、彼女は、園田の母親のように控え目すぎることもなく、またさつきのように利害得失を考えて行動することもなく、自分の考えを園田の思いなど考慮しないかのごとくにストレートにぶつけてきます。
 果ては、園田が好きだと言った金魚を買い求めて、学校のプールに放ち、そのプールを二人で泳いだりするのです。
 園田は、こんな純粋な若い真衣に惹かれ、また真衣の方も、厳しい家庭環境もあり(注6)、死に向き合う園田に惹かれたのかもしれません。

 そして、園田は、死にゆく自分とこうした真衣との関係を、十字架から降ろされたイエスとイエスを嘆くマリアとの関係に見立てたのでしょうか(注7)、真衣の像をトイレ中に大きく描き、その中心的なところに便器に座る自分を置いたのです。
 ただ、本作については、「浄化と昇天」、「ピエタ」ということが強調されますが、クマネズミは、トイレに描かれたものから、むしろ真衣は千手観音ではないかと感じたところです(注8)。

(3)日経新聞編集委員の古賀重樹氏は、「ビルの屋上から下を向いてつばをはいた宏が、アパートのトイレで天井を向いて聖母子像を描くまでの物語だ。身ぶりで語り切ろうとする松永監督の意志がまぶしい」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 北大准教授の阿部嘉昭氏は、例えば、「杉咲花に、主人公のメッセージの場に立ち会わせる、スケベでノンシャランでいい加減な(しかも彼もまた絶望者だ)リリー・フランキーが、その伝達者の媒介性をもって天使にみえてくる逆転まで用意される」として、「この作品のリリー・フランキーは、これまでの彼の出演作のなかでも最高の部類に入る」と述べています。



(注1)本作の原案は、手塚治虫氏の日記の最後に記載されていたメモ書きとされ、それはこの記事に掲載されています。
 なお、同記事の「映画」の項では、本作について解説されていて、「恋愛映画にするためにピエタの種類も母子像に変更された」と述べられています。これはおそらく、手塚治虫氏がイタリアで見たのが「フィレンツェのピエタ」であり、「キリストの死体を他の数人が支えるという作品」であるのに対して、本作でトイレに描かれるのは「サン・ピエトロのピエタ」と類似の構図だからでしょう。
 また、同じ記事には、手塚治虫氏の娘がTwitterで「タイトルに「トイレのピエタ」を使って欲しくないと思った」とつぶやいたことが記載されていますが、本作の鑑賞とは何の関係もないでしょう。

(注2)監督・脚本は松永大司
 原作も松永大司著『トイレのピエタ』(文藝春秋:未読)。

(注3)本作の出演者の内、最近では、杉咲花は『イン・ザ・ヒーロー』、リリー・フランキー大竹しのぶは『海街diary』、宮沢りえは『紙の月』、岩松了は『バンクーバーの朝日』、古舘寛治は『マエストロ!』で、それぞれ見ました。

(注4)またさつきは、真衣に言わせればダサイ服を着た美術誌ライターとつきあうことで個展の開催に辿り着けたようです。

(注5)あるいは、夕方に病院にやってきて、真衣は園田に「今からどこかに行こう」と誘うのですが、園田が「今から夕食だから無理だ」と断ると、「どうしてこんなお願いも聞いてくれないの。死ね!もっと苦しんでいる人がいっぱいいるんだから!」と叫びます。

(注6)真衣は、認知症の祖母と、外で働き家事をしない母親との3人で暮らしています。

(注7)園田は、拓人とその母親と一緒に行った教会でピエタのレプリカを見ます。その際、母親が「これなんだか知ってますか?」と訊くと、園田は「ピエタですよね。学生の時に習いました」と答え、母親はさらに「どうしてこんな穏やかな顔をしていられるんですかね」と言います。

(注8)Wikipediaのこの項によれば、千手観音は、「十一面四十二臂とするものが一般的」とのこと。これに対して、園田が描いた絵では、顔は5面で手は20本ぐらい。ですが、全体の雰囲気がなんとなくこの千手観音に似ているのではという感じを持ちました。
 あるいは、昔の切手の絵柄で有名な狩野芳崖の「慈母観音」でしょうか。





★★★★☆☆



象のロケット:トイレのピエタ