映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ジュリー&ジュリア

2009年12月30日 | 洋画(09年)
 「ジュリー&ジュリア」を、日比谷のシャンテ・シネで見ました。

 今年もメリル・ストリープの映画を2本見て一層のファンとなったところ(「マンマ・ミーア!」と「ダウト」)、本作品が今年最後の公開というのですから見に行かずにはおれません〔来年2月には『恋するベーカリー』の日本公開が控えているというのですから凄いことです!〕。

 そして、本作品もなかなかうまく仕上げられているなと感心いたしました。
 もちろん、2つの原作をいとも巧みに一つの作品にまとめあげた監督・製作・脚本のノーラ・エフロンの並々ならぬ手腕によるところが大きいわけですが、またメリル・ストリープの素晴らしさも大きく寄与しているものと思います。なにしろ、彼女は、身長が10cmほど低く、声もずっと低いなど相当違った個性である実在の料理家ジュリア・チャイルドを実に上手に演じているのですから!

 それだけでなく、もう一人の主役と言えるエイミー・アダムスも、典型的な現代女性であるジュリー・パウエルを巧みに演じています。彼女の映画も今年は2本見たところ、メリル・ストリープと共演した「ダウト」もよかったと思いますが、「サンシャイン・クリーニング」は出色の出来でした。

 この映画で面白いなと思った点は、次のようなことです。
・ジュリア・チャイルドの生涯と、ジュリー・パウエルの1年間の暮らしとは、まとまりのある一つの映画作品であるにもかかわらず、全く別々のものとして描かれ、ジュリアが作ったフランス料理のレシピでしかつながっていないとされているのです〔ただ、ジュリーは、ジュリアが自分のことに不満を抱いているということを知るのですが、それはあくまでも人づてに聞いたこととされ、二人はついに会うことはありませんでした〕。
・といっても、ジュリアの夫は、マッカーシーの赤狩り旋風のなかで尋問を受ける羽目になり、またジュリーは、9.11事件の事後処理に従事する公務員だということで、どちらもその時の政治状況から無縁の存在ではありません。
 政治状況などは、こうした雰囲気の映画であればカットされてしまうのが普通でしょうから、その意味でこの映画は骨のある映画だと言えるかも知れません。
・また、ジュリアは、普及し始めたTVの料理番組の草分け的存在であり、他方ジュリーも、ブログという最新のメディアを使って自分のポジションを確保しようとします。いわば両者とも、新しい流れに乗っていると言えるでしょう。
・他方で、ジュリアの夫は外交官という古くからの固い職業に就いており、またジュリーの夫も、考古学雑誌の編集に携わっていて、時流とは離れた所にいます。

 というように、様々な視点から2人の女性、2つの家族を比べてみるのも面白いかな、と思ったりしています。

 評論家諸氏の受けも概して良さそうです。
 福本次郎氏は、「作り手の人生観が込められた究極のラブレターに、心まで満腹になった」として、この人にしては稀有なことに80点もの高得点を与え、また、渡まち子氏も、「ストリープが個性豊かな名演技とすれば、ジュリーを演じるエイミー・アダムスの良さは自然体。二人の対比が効いている」などとして75点をつけているところ、前田有一氏は、「脚本はこなれているとは言えず、快感度は低い」ものの、「二人の素敵な女優と彼の食いっぷりで、映画全体としてもなんとか持ったという感じ」で60点しか与えていません。
 前田氏は、「いちいち無理してヒロインを上げたり下げたりする必要はない」と述べたり、「毎日あんなに大量の料理を作って、いったいこの人はどう処理してるんだとか、資金はどっから出てるんだとか、余計な事を考えさせてしまうあたりも処理が足りない」と言っているところ、そんなつまらないことが気になるのであれば、要するにこの映画の楽しさに乗り切れなかっただけのことではないでしょうか?


象のロケット:ジュリー&ジュリア

パブリック・エネミーズ

2009年12月29日 | 洋画(09年)
 『パブリック・エネミーズ』を日比谷のTOHOスカラ座で見ました。

 『チャーリーとチョコレート工場』や『スウィーニー・トッド』など映画ごとに全く違った顔を見せるジョニー・デップが、今度はどんな顔を見せてくれるのだろうという期待で映画館に出かけてみました。

 実際のところ、今回の作品は、ジョニー・デップの格好の良さが前面に出ていて、その意味で実に魅力あふれる映画になっていると思いました。

 お話の方は、アメリカのギャングとFBIとの戦いが中心で、1930年代のシカゴの街の様子などが細部にまでこだわって描き出されています。

 この関係では、劇場映画ではなく、深夜に何度も繰り返し放映されたTVドラマ『アンタッチャブル』が描いている状況の丁度逆になっている感じで、大層面白いと思いました。

 無論最後には射殺されてしまいますが、『パブリック・エネミーズ』では、実在の銀行強盗のデリンジャー(ジョニー・デップ)が主役で、それを追いかけるFBI捜査官が脇役となっています。
 これに対して、『アンタッチャブル』では、FBI捜査官エリオット・ネスが主役で、ギャングが脇役になっているので、まるでさかさまの関係にあるように思えるのです。

 もっといえば、TVドラマとしての『アンタッチャブル』では、カポネが逮捕されたあとのギャング団(フランク・ニッティらが中心)とFBIとの戦いが描かれますが、フィクションの割合が相当高そうです。
 他方、『パブリック・エネミーズ』も、禁酒法が廃止になった後の時代を描いていますから(1933年から1年ちょっとの間)、時期的にはあるいは若干オーバーラップするかもしれないものの(同じように、フランク・ニッティが登場します!)、実話に基づいたストーリーなのです。

 こんな関係にあるわけですが、逆に両者に共通するのは、何といっても主人公の格好の良さでしょう。とりわけ、FBI捜査官エリオット・ネスを演じたロバート・スタックは大層魅力的でしたし(吹き替えを担当した日下武史の声も素晴らしかったのですが)、こちらの『パブリック・エネミーズ』におけるジョニー・デップも実に格好がいいのです(フランク・ニッティは、TVドラマの方がズッと個性的な俳優が演じていました)。

 要すれば、今回の映画においては、枠組みは歴史的にガッチリと作られているとはいえ、そうした枠組みの中で、ジョニー・デップの魅力を最大限に引き出すべく作品が制作されているのではと思いました。

 加えて、デリンジャーを中心とする銀行強盗団とそれを捕まえようとするFBIとの間の銃撃戦は激烈極まりないく、まるで日本のやくざ映画の出入りのような感じを受けてしまいます。
 そうです、ジョニー・デップが演じているデリンジャーは、新興のやくざ集団に結局は殺されてしまうことが分かっていながらも、刀を振りかざして単身突入する昔堅気が抜けない鶴田浩二とか高倉健が演じた役どころなのではないでしょうか?なにしろ、銀行強盗では、ノミ行為といった新しい儲け口から揚げられる資金の1日分しか獲得できないことが分かっていながらも、デリンジャーは、あくまでも銀行強盗にこだわるほどの昔堅気の男なのです!

 この映画に対しては、評論家の方でもやや意見が分かれるようで、一方で、
 前田有一氏は、「細部にこだわりぬいたマイケル・マン監督の挑戦は確実に成功しているが、それがイコール映画の面白さにつながらないのが難しいところ」で、「主人公の人生は確かに今見ても面白いが、「それで?」と思わず言いたくなってしまう」として55点を、
 福本次郎氏は、「ジョンが強盗を繰り返す理由としてはビリーの存在は影が薄く、いまひとつ2人の深い絆が見えてこ」ず、特に「ジョンが警察署の捜査本部に堂々と入って行く場面には疑問を挟みたくなる。ジョンが自分の死期を予感していることを表現したかったのだろうが、それまで積み重ねてきたリアリティが一気に崩れてしまった」として50点を、
それぞれ与えています。

 ところが、他方で、
 渡まち子氏は、「スリリングな逃亡劇と美男美女が織り成すラブ・ストーリー」であり、ジョニー・デップが「コートを華麗になびかせて、銀行のカウンターをひらりと飛び越える様は、今では滅多に見られないダンディな銀幕のスターそのものだ」として70点を、
 服部弘一郎氏も、「1930年代の風俗やファッションが華麗に再現されているのがこの映画の見どころ」であり、「随所に見せ場たっぷりなのだ」として70点を、
それぞれつけています。

 あんなに面白いのに「じつに退屈だ」と言い放つ前田氏の論評は理解し難いですし、福本氏は、「それまで積み重ねてきたリアリティが一気に崩れてしまった」と述べますが、この種の映画でどうして「リアリティー」という言葉が出てくるのかよく分かりません。
 やはり、「本作には、観客がスクリーンで最も見たいと望む要素が詰まっている」とする渡氏の論評に賛意を表したいところです。



象のロケット:パブリック・エネミーズ

カールじいさんの空飛ぶ家

2009年12月28日 | 洋画(09年)
 アニメ「カールじいさんの空飛ぶ家」をTOHO日劇で見てきました。

 少し前に同じデズニー映画の「クリスマス・キャロル」を見たばかりですが、その時は「パフォーマンス・キャプチャー」の方に目が行ってしまいがちだったので、もっと純粋のアニメで3Dを見たらどうだろうかと思っていたら、この映画が公開されたというわけです。

 この映画も特別のメガネを使って見たところ、3Dに関しては、「クリスマス・キャロル」でも思いましたが、観客をも引き込むような臨場感のある場面というのは数えるほどしかなく、あとは別に3Dにしなくともといった感じでした(自然の風景を描くシーンでは、近景・中景・遠景と分離されるものの、通常の場面はマア立体的だなといったレベルです)。

 それではストーリーの方はどうかというと、予告編からすれば、カールじいさんの妻であるエリーがもっと活躍するのかな、話自体はエリーが死んでからのものになるにせよ、何らかの形〔誰かに姿を変えて〕で登場するのかな、と思っていましたら、当初の10分間で色々動き回った後はまったく登場しないものですから、一寸拍子抜けといった感じになりました(エリー以外の女性はほとんど登場しない少し不思議な映画です)。

 代わりに登場するのがラッセルという子供で、カールじいさんと二人で大冒険をします。
 ただ、邦題からすると今度はカールじいさんの出番かと思うと〔原題は「UP」〕、確かに彼は頻繁に登場することはしますが、風船で空中に吊り上げられた家(カールとエミリーが暮らしていた家)を目的地まで引っ張っていくのが主な仕事で、様々に活躍するのはこちらのラッセル坊やなのです!

 なにしろ、ラッセル坊やが、怪鳥ケヴィンの救出を強く主張したがために、カールじいさんは、大事な思い出の詰まった家を手離す破目になってしまうのですから!
 それでも、どんどん飛行船の上から下の方に落下していった彼らの家は、最後の場面からすると、偶然なのでしょうが、目的地だった滝の上に着地したことになっていて、まずは目出度しといったところです。

 そうなのです、この映画の前半は、カールがエリーに行こうと約束していた南米ギアナ高地の“パラダイスの滝”(実際の滝は「エンジェル・フォール」)のそばに、二人が暮らしていた家を運ぶお話なのです。
 そして、このアニメでは、最近まで人跡未踏だったギアナ高地の様子がかなり克明に描かれていて、それを見るだけでも心が躍ってしまいます。
 というのも、このところいろいろな映像がTVでも放映されますが、あの巨大な台地が雲の間から覗いている様子は何度見ても不思議で、もっと探索を進めれば、これまで見たこともないような動植物などに遭遇できるのでは、と期待を持たせるところなのですから!

 そうした興味津々たる奇怪な地形を持った場所と、現代のアメリカとが簡単につながってしまうのですから、これはアニメの独壇場と言えるでしょう〔とはいえ、何故そんな途方もないところを訪れてみたいとカールとエリーが考えていたのかは、何も描かれてはいないので酷く唐突に感じられはするのですが!〕。

 怪鳥ケヴィンとか犬のタグと伝説の冒険家たちとの戦いなどの描き方は、これまでのディズニー映画そのものであまり新鮮味は感じられないものの、ギアナ高地を前面に取り出したという点で、このアニメ映画には○を与えてもいいのでは、と思いました。

 なお、評論家たちは次のように評しています。
 前田有一氏は、「本作はピクサーが初めて「飛び出す」立体映画にチャレンジした作品だが、正直なところメガネの立体効果を生かしているとは言いがたい」ものの、「2009年のアメリカ人が心地よく感じるであろう要素を主軸に組み込んだ、高度な計算に基づく作品」だとして85点の高得点を与えています。
 渡まち子氏も、「この映画の最大の見所はと聞かれたら、迷わず、冒頭の、セリフなしのモンタージュ形式で描く、カールとエリーの人生の物語だと断言する」云々として80点をつけています。
 ただ、福本次郎氏は、「いくら年をとっても未来に目を向けている限り人生は有意義なものであり続けることをこの映画は教えてくれる」ものの、「それはカールほどの元気があればの話で、たいていは加齢とともに体力も衰え気力を無くしていく現実をこの作品はもう少し考慮すべきだろう。。。」として50点しか与えていません。

 少し揚げ足取りをすれば、前田氏は評論の中で、「本作のテーマは、何度も繰り返される「別れ」。すなわち「別れの重層構造」のなかにあった」と、「この映画の中でしつこいくらいに描かれる「別れ」」を発見したことで有頂天になっている感じですが、何か新しいものを「見つける」からこその「別れ」なのであって、別に「別れ」だけがそこらに転がっているわけではないと思われますが。
 また、福本氏は、「加齢とともに体力も衰え気力を無くしていく現実」を考慮すべきと言いますが、何もこうした楽しいアニメでわかりきった厳しい現実をことさらめかしく「見つけ」なくとも良いのではないか、と思えるところです。


象のロケット:カールじいさんの空飛ぶ家

ロフト.

2009年12月22日 | 洋画(09年)
「ロフト」を渋谷のシネマ・アンジェリカで見てきました。

前田有一氏が、「117分間、つまらない部分なし。ベルギーで人口の10%が見たのもわかる傑作。こういう、面白いだけじゃなく厳密に作られた優秀なミステリが、なぜこんなにも小規模上映なのか、つくづく悲しい。本来ならば、六本木ヒルズの巨大スクリーンで、上の人たちも呼んで華々しくプレミアをすべき傑作なのだ」として85点を与えているので、そこまで言うのならと、初めての映画館に足を運んだ次第です。

この映画館は、渋谷のマークシティを通り抜けてすぐのところ(道玄坂の坂の上のそば)にあって、わかれば好位置にあるとはいえ、地下に設けられていますから、知らなければスッと通り過ぎてしまいます。とはいえ、毎週水曜日は誰でも1,000円ということで、まずまずの入りでした。

さて、映画の方ですが、まさにミステリー映画そのものですから、少しでも立ち入ったことを話せば真相解明の手掛かりを与えてしまうでしょう。と言って、何も書かなければ議論になりません。

まあこのブログはネタバレOKを標榜しているということでお許しをいただいて、若干踏み込んでみましょう。

まず、この作品はベルギーで制作されていることから、出演している俳優に全くなじみがありません。結果として、誰が犯人として相応しいのか俳優を見ただけでは全然分かりません(邦画ならば、出演する俳優のうち誰が主演級であるかはすぐにわかり、その人が犯人になることはまずあり得ないでしょう、というところから始めて登場人物を一人一人消去していくと、大体真犯人の目星は付くものです)。
その点は、ある意味でメリットかもしれません。

ただ、映画の中で話されている言語がはっきりとつかめず(オランダ語〔フラマン語〕でしょうか)、それも屋内シーンがほとんどにもかかわらず全編アフレコで入っているためにくぐもった感じがして、臨場感が乏しい憾みがありました。

そんな些細な点を除けば、映画の仕上がりは素晴らしいものがあります。

ストーリーの初めの方だけ申し上げると、ある建築家が、自分が設計したマンションの最上階に設けられたロフトルームを、4人の友人に提供すると言い出します、妻などに内緒でこのロフトで情事を楽しめるように。としたところ、ある日、ベッドに手錠で繋がれたまま血まみれで死んでいる裸の女が見つかり、集まった5人の男たちは、自分たちの中に犯人がいるに違いないとして犯人探しを始めますが、…。

次々と映し出される映像は、事件が警察沙汰となってこの5人が取り調べを受けて供述している内容に従っています。ですから、取り調べが進んでくると、同じ事件にもかかわらず、各人が自分を守ろうとして様々な供述をしますので、その経過を示す映像が変化してきます。
なるほどなるほどと映画の中に入り込んでいくと、途中でクルッとそれまで明かされたことが別の角度から見られるようになり、そういうことが何回かあった後、最後に真相が明かされるという具合です。

ミステリー映画としては本当によく考え抜かれて制作された作品だと思いました〔例えば、後半の方で、5人の内の一人の男性が、刑事から、自殺した女性の遺書がないことやナイフの指紋が拭き消されている点を指摘されますが、そしてそこからこの男性は真相に近づいていくのですが、観客サイドからすると、手錠でベッドに繋がれたままで死んでいた女性が自殺するなどありえないことではないか、と疑問に思ってしまいます。ですが、……〕。

それにしても、ここに登場する中年男の女性関係はものすごいことになっているな、これが一般的な姿ならば世も末だなと思わされます。どの男性も、妻とか愛人以外の女性にドンドン手を出すのです。挙句は、ロフトを提供している建築家が、友人たちがそれぞれ大事に思っている女性にまで手を出していることがわかってしまいます。
ただ、逆にいえば、女性たち(特に友人の奥方たち!)の方もまた男性たちの要求に積極的に応じているわけで、そうなってくるとお互い様で、結局何を信じていいかわからなくなってしまいます。

要すれば、5人の男性たちは、自分らの秘密を守るために信頼関係に基づいてロフトを共有したはずなのに、そのロフトのせいで信頼関係が木っ端微塵になってしまうという皮肉なことになってしまいます。
あるいは、建築家とか精神科医といった社会の上層部を構成している人たちの荒廃した裏側を暴き出そうとしているといっていいのかも知れません。

としても、そんなお題目めいた話はこの際遠慮して、この上質なミステリー映画が見せてくれる謎解きの面白さそのものを楽しむべきでしょう。

前田氏以外の評論家の評判もよさそうです。
小梶勝男氏は、「この手の映画は観客を驚かせるために無理な展開になっていくという、「どんでん返しのためのどんでん返し」に陥りがちだが、そのような欠点もない。深い感動や映像美はないものの、サスペンスとしては非常によく出来ていると思う」として72点を付け、
町田敦夫氏も、「観ている私たちの興味も最後まで途切れることがない。二転三転する意外な結末に、「だまされた快感」を味わうとしよう」として70点を与えています。

やはり、前田氏と一緒に、こうした優れた映画が、東京でも一つの小さな映画館でしか上映されないという理解しがたい状況を嘆かなければ、と思いました。


イングロリアス・バスターズ

2009年12月20日 | 洋画(09年)
 「イングロリアス・バスターズ」を銀座のTOHO日劇で見ました。

 この映画は、前作の「デス・プルーフ」が大変面白かったQ.タランテーノ監督の最新作であり、また「ベンジャミン・バトン」で好演したブラッド・ピットが主演しており、さらには雑誌で特集されたり(雑誌『ユリイカ』12月号「特集*タランティーノ 『イングロリアス・バスターズ』 の衝撃」)、洋泉社のムック本『「イングロリアス・バスターズ」映画大作戦!』が刊行されたり、と話題性タップリなところから、ぜひ見たいと思っていました。

 実際に見てみると、この映画はちょっと変わったところがあります。
 主演はブラッド・ピットとされているものの(クレジットで最初に記載されていますし)、途中でどこかへいなくなってしまいます(最後の方で再登場しますが)。他方、ほとんど出ずっぱりなのはナチスSS大佐役のクリストフ・ヴァルツの方です(そうだからこそ、カンヌ国際映画祭男優賞を獲得したのでしょう)。
 また、ナチス物というのであれば、ナチスが悪逆の限りを尽くすのが定番でしょう。ですが、この映画で残忍なのは、ブラピを隊長とする連合国軍側の特殊部隊(バスターズ)の方です。
 さらに、従来であれば、場所とか人とかを選ばずなんでも英語で押し通してしまうのが米国映画のはずなのに(注)、この映画では、英語のみならず、仏語・独語、はては伊語までバンバン飛び交います。こうなると、英語一本槍のブラピは、主役と言えどもおのずと出番が縮減されてしまいます(伊語ができるという設定になっているものの、「ボンジョルノ」だけ!)。

 こうしたことがあるからでしょうか、おかしなところも随所に見受けられます。
 たとえば、ヒットラー以下ナチスの最高幹部(ゲーリングやゲッペルスなど)が来場しているというのに、その映画館の警備はお粗末極まりなく、映画館の映写技師が館内をぐるっと回ってすべてのドアーに施錠してしまっても見逃されてしまいます(あるいは、警護責任者のSSの大佐がそのように取り計らったというのでしょうか)!
 また、フランスの田舎の貧しい農家にユダヤ人狩りに行ったSSの大佐が、そこの主人に「英語を話すか」と尋ねるとその主人はたちどころに「Yes」と答えますが、いくらなんでも!

 でも、そんなつまらない詮索は、映画の類い稀なる面白さの前に吹き飛んでしまいます!
 なにしろ、ごく少人数の奇想天外な働きによって第2次世界大戦が史実よりもずっと早く終結してしまうというのですから、面白くないわけがありません。
 それも、チャーチルといった政治家や連合国軍の幹部らが案出した作戦よりもむしろ、一人の素人の若い女性の考えた復讐劇の方がうまくいって、その結果としてもたらされるのですから!

 となると、この映画の世界は、こちらの世界ではなく、もう一つの可能世界の出来事であり、「Once Upon a time 」で始まるファンタスティックなお伽噺だと受け止めておく方が遥かに楽しいでしょう。

 ですから、精神科医の樺沢氏が顔をしかめて次のように言ったりしているのを見ると(12月2日付け「まぐまぐ」)、ちょっとそれは違うのではないか、と思ってしまいます。 

 「物語としてはおもしろい」ものの、「いくらあのナチスが相手だからといって」、「暴力と残虐、差別と偏見の宝箱。悪趣味の極み」では、「見ている途中、猛烈な不快感に襲われる」。
 特に、「タランティーノはわざと、意識的に「最低映画」を狙って作っている」のであって、「批判が出れば出るほど、どこまでブラックなのかを見たいという人が現れる。こうした物議をかもす作品を意図的に作ってマスコミを巻き込んで話題作りをしていく。実際、アメリカでは大ヒットしているわけで、こうした戦略的な映画ビジネスマンとしてのタランティーノの腕前は無視できない」。
 とはいえ、この映画については、「私自身、コメディとして大笑いできたシーンもあったけども、やはり笑うに笑えないシーンが多すぎる」ことから、「「おもしろさ」<「不快感」」だ。

 アメリカではこの映画が低俗だと批判されていて、そうだからこそ「大ヒット」しているというのは本当のことなのかどうか、そんなことはなく、単にナチス物で面白いから「大ヒット」しているのかどうか、実際にどんな状況なのか確かめようがありませんが、別にそんなことはどうでもよくて(「戦略的な映画ビジネスマンとしてのタランティーノの腕前」が発揮されているのだとしたら、それはそれで慶賀すべきでしょう)、この程度の「暴力と残虐、差別と偏見、悪趣味」の映画で「猛烈な不快感に襲われる」というのでは、余りにひ弱過ぎるのでは、と思ってしまいます(ひょっとして樺沢氏は「草食系」?)。
 それにどこが「差別と偏見」なのでしょうか?確かに、「差別と偏見」のさまを描いていますが、だからといって、それが「差別と偏見」を助長していることにはならないでしょう!

 横沢氏は別として、映画評論家の間では総じて評価は高そうです。
 岡本太陽氏は、「本作はタランティーノ氏の映画に対する愛で作られた様な映画」であり、「驚くべきエンディングが待つ映画の中の映画」であって、「映画をこんなに美しく作る事が出来るのか、と観る者に啓示を与える」として95点もの高得点を与え、
 小梶勝男氏も、「本当に面白いし、よく出来たエンタテインメント」としながらも、「「キル・ビル」2部作にあった混沌がなく、「グラインドハウス」にあった奇跡がない」として91点を与えています。

 ただ、前田有一氏は、「延々と続く意味ありげな会話のやりとり、無駄にスタイリッシュな殺戮シーン、無駄にドラマチックな物語展開、そしてそれらを平然とぶった切る潔さ。タランティーノの集大成というべき、彼らしさのつまった152分間である」と、あまり気の乗らなそうな雰囲気ながら、それでも60点を付けています。

 それぞれの評論家のこれまでの長いタランティーノ監督との付き合い方の違いによって評価が分かれてくるのでしょうが、まずもってこの映画それ自体から議論を始めてみるべきではないかと思いました。

 そういうところもあって、私には、75点を付けている渡まち子氏の、「タランティーノは、現実ではできなかったヒトラーへの復讐をものの見事にやってのけた。しかも映画という最強の武器を使って。こう考えると、この戦争アクションは、痛快ファンタジーと呼ぶ方がふさわしい」とする論評が一番フィットしました(むろん、同氏も「タランティーノの偏愛するマカロニ・ウェスタンや数々の往年の名作へのオマージュもてんこもり」とタランティーノ作品への言及を忘れてはいませんが)。

(注)例えば、映画『愛を読む人』の場合、舞台がドイツで登場人物もドイツ人という設定であるにもかかわらず、英語しかでてきません!



象のロケット:イングロリアス・バスターズ

戦場でワルツを

2009年12月17日 | 洋画(09年)
 「戦場でワルツを」を銀座のシネスイッチで見ました。

 昨年3月のことになりますが、パレスチナ問題関係でドキュメンタリー映画『パレスチナ1948 NAKBA』を見たこともあり、この映画を予告編で知ってから、ぜひ見たいものだと思っていました。

 実際に見てみると、戦争の理不尽さ、悲惨さなどは、独特の色調ともあいまって、このようなアニメ映画でも十分伝わるものだな、むしろアニメの方がよく理解されるのかもしれない、と思いました。

 こうした点は、他の映画レヴューでも様々に書き綴られていることでしょうから、以下では二つの点だけに絞って書いてみます。

イ)この映画は、前者がドキュメンタリー映画であるのに対してアニメですから表現方法は違っています。とはいえ、いずれもイスラエルを起点に制作されている点が共通していて、その持つ意味合いは大きなものがあるのではと思います。

 前者の『パレスチナ1948 NAKBA』は、日本人の手になるもので、その映画の中では、彼が青年時代に滞在したことのあるキブツで見かけた廃墟が、パレスチナ人の村のわずかな名残であって、その村の元住人を探索していくうちに、こうした破壊行為が1948年の第1次中東戦争の最中にイスラエル全土にわたり行われ、70万人以上といわれる難民が発生し、さらには虐殺行為もなされた、という事実が次第に判明していくことになります〔この戦争は、パレスチナ人の虐殺・追放・難民化をもたらしたことから、パレスチナ側では「大破局・大惨事」を意味する「ナクバ」といわれています〕。

 ですが、映画では、ナクバによって難民となったパレスチナ人のみならず、その中で引き起こされた虐殺事件の経緯を知るユダヤ人の元軍人や、こうしたことを調査しているユダヤ人歴史家などが登場して証言します。
 このように、イスラエルといっても決して頑強な一枚岩ではなく、内側には少数かもしれませんが異見を持つ人々が存在し、常時臨戦態勢にある国家でありながら、その人たちの行動が厳しく規制されているわけでもなさそうに思え、これは非常に興味深いことだなと思いました。
(以上については、ブログ「はじぱり!」の昨年3月25日の記事についてのコメントの「1」を参照)

 今回の映画においても、イスラエル人である監督の友人が、20年以上も昔の出来事にかかわる恐ろしい夢に悩まされ、そのことを監督に打ち明けることから、当時の事柄に関して監督自身の記憶喪失も明らかにされます。そして、失われた過去にいったい何があったのかと監督が関係者に尋ね回って証言を集め記録して作り上げたのがこの映画だというわけです。

 その失われた記憶の核心にあるのが、イスラエルのレバノン侵攻(1982年6月)に伴って引き起こされた虐殺事件であり、映画においては、イスラエル軍は直接手を下さなかったものの、レバノンのファランヘ党(キリスト教マロン派の政党で、民兵組織を持つ)によるパレスチナ難民虐殺に間接的ながら加担してしまったこと、そして監督はその事件の現場を見ることができる位置にいたことなどが明らかにされます。

 この虐殺事件それ自体も実に大変なことですが、私には、こうした映画が、パレスチナ人ではなくイスラエル人によって制作されたということが、上記の映画で見られる光景(イスラエル人による様々の証言)と合わせて、酷く興味深いことだと思いました。

ロ)もう一つ特徴的な点は、記憶のフラッシュバックを巡ることがらです。
すなわち、この映画は、監督の友人が、24年前の出来事に関連するフラッシュバック的な悪夢(その時に殺した26匹の獰猛な犬に追いかけられるという夢)に悩まされ、そのことを監督に打ち明けることから始まりますが、これは、まさにPTSD(「心的外傷後ストレス障害」)の特徴的な症状を示していると思われます。
(以下は、HP「古樹紀之房間」に掲載されている論考「映画と記憶―『銀座の恋の物語』を巡って」を参考にしました)

 すなわち、日本でも使われている米国精神医学会が定める診断基準によれば、次の3つのグループに分類される症状のすべてにつき、それが「1ヶ月以上にわたって持続し、それにより主観的苦痛や生活機能・社会機能に明らかな支障が認められたとき」に、PTSDと診断されます。

a.再体験症状‥‥出来事に関する不快で苦痛な記憶が、フラッシュバックや夢の形で繰り返しよみがえる。
b.回避症状‥‥出来事に関して考えたり話したり、感情がわき起こるのを、極力避けようとしたり、思い出させる場所や物を避けようとする。
c.覚醒昂進症状‥‥睡眠障害、いらいらして怒りっぽくなる、物事に集中できないなど、精神的緊張が高まった状態。

 これらの症状の中でも、aの「再体験症状」が特徴的です。すなわち、戦闘とか性的暴力などのトラウマティックな記憶は、コントロールがきかずに勝手にその人の意識に侵入してきます。この場合、フィルムをまわすように事件が再現されて、患者はそれを止めることができないとされています。
 こうした厳しい症状が、繰り返しその人の意思に反して生じるために、それを軽減すべくbの「回避症状」が現れ、また常に緊張状態にあってリラックスできないために、cの睡眠障害などの症状を示すことにもなると考えらるようです。 

 こうしたPTSDは、池田小学校無差別殺傷事件(2001年)とか佐世保小学校殺傷事件(2004年)、JR福知山線の脱線事故(2005年)などの際に随分と問題になりました。

 この映画の冒頭に登場する監督の友人は、まさに自分が殺した犬に追いかけられるのですから、上記のaの「再体験症状」を示しているといえるでしょう。そして、監督とその友人とを一体とみなせば、監督の記憶から24年前の虐殺事件が消滅していることは、bの「回避症状」に該当しているといえるかもしれません!

ハ)この映画に対して評論家は次のように述べています。
小梶勝男氏は、「アニメの絵に力がある。日本ともハリウッドとも違う独特の絵画的な絵は、陰影の濃さが主人公の心象をリアルに表現する」とし、さらに「ドキュメンタリーをこのように見せるのは「あざとい」ともいえるが、私は「真実」を伝えるための最良の手法として評価したい」として91点もの高得点を与えています。

岡本太陽氏は、「これは監督にとって事実を知ると同時に、彼自身の心を癒すドキュメンタリー映画でもあり、"記憶を取り戻す事=自分自身を許す"、がフォルマン氏にとって一種のセラピーになっているのだ」として90点を与えています。

渡まち子氏は、「記憶を道案内役に、斬新な形で戦争の愚行を描いたこの見事な作品は、アニメーションやドキュメンタリーといったジャンルの枠を越え、映画史に確かな足跡を残すと確信している」として85点を与えています。

福本次郎氏も、「これはアリ監督の自己再発見の旅であると同時に、ホロコーストの被害者として徹底的にナチスを断罪しておきながら、パレスチナの人民を大虐殺する正当性を主張するイスラエルというユダヤ人国家の抱えるジレンマを告発する行為でもある」として60点を付けています。

 全体的に、監督の記憶回復の方を重視しているようですが、上記ロで申し上げたように、私には、むしろ冒頭のフラッシュバックの方を重視したい感じがするところです。



象のロケット:戦場でワルツを

千年の祈り

2009年12月15日 | 洋画(09年)
 「千年の祈り」を恵比寿ガーデンシネマで見ました。

 予告編からかなり地味な映画なのではと思いましたが、多額の資金をつぎ込んで制作された映画(刺激的ですが大味なものとなりがちです)よりも、こうした感じの作品の方を好むものですから、時間があったら見てみようと思っていました。

 実際のところも、予告編通りの大変地味な仕上がりとなっています。
 12年前に中国から米国に行ってそこで生活している娘のところに、中国から父親が訪ねてきます。その目的は、離婚した娘の状況を見て、再婚を勧めることにあるようです。
 ですが、娘の方は、父親にわだかまりを持っていて、この訪問を快く思ってはいません(娘は、父親と夕食を一緒に取るのを避けるために映画館に行ったりします)。
 そのわだかまりが、父親の告白によって解消されるものの、やはり二人はそれぞれの道を歩んでいくことになるでしょう。
 と言ったようなストーリーで、それ自体には特筆すべきものはありません。

 ただ、父と娘の物静かな会話、父親が昼間公園で出会ったイラン人の女性との交流(英語と中国語とペルシア語(?)が入り混じったとても奇妙な会話です)、モルモン教勧誘員と父親とのとんちんかんな会話などによって、この映画が随分と厚みを増し、ラスト近くで父と娘がベンチに並んで座って前を流れる川を見るときの光景は、お互いの会話自体は少ないながらも、二人の来し方を思いこれからのことを考えている様が実によく出ていて、感動を呼ぶものとなっています!

 父と娘という普遍的な地平と、異国における少数民族同士の交流という特殊米国的な地平とが交錯して描き出されていて、素晴らしい映画に仕上がっているなと思いました。

 なお、「映画ジャッジ」の諸氏は次のように述べていますが、それぞれ問題があるように思われます。

 まず、服部弘一郎氏は、「父娘の対話は小津安二郎の映画を連想させるが、ウェイン・ワン監督はそれを十分意識しながらこの映画を撮っているようだ。父を演じたヘンリー・オーはさながら小津映画の笠智衆のようだ」として70点を与えています。
 それほど問題というわけではありませんが、監督が小津安二郎を意識していることはオフィシャルサイトや劇場用パンフレットに既に明示されているところで、こうして態々言われてもと思ってしまいます。

 次に、前田有一氏は、冒頭で「『千年の祈り』は、アメリカの中で、中国人とイラン人が仲良くするというお話」だとしたり、「中国、イラン、やがて途中からロシア人まで絡むこの奇妙なドラマの終結点ははたして?」などと書いていますが、こんなチャランポランでいい加減なプロの映画評は初めて目にするものです!
 この映画を見て、いったい誰が「アメリカの中で、中国人とイラン人が仲良くするというお話」が本筋だと思うのでしょうか?父親とイラン人女性との交流は、この映画に挿入されたエピソードの一つにすぎないにもかかわらず、それがこの映画のメインのストーリーだとするのはどうしてでしょうか?
 それでも、末尾で、「予想を超えるほど心震える、深い感動を与えられるラストシーン」として70点を付けているので、マア許せますが。

 さらに、福本次郎氏は、「しきたりに縛られた中国で生きてきた父と、米国に渡って自由を謳歌している娘」について、「映画は抑制のきいたタッチで彼らの葛藤と和解を描」くが、結局のところ、「古い価値観が新しい価値観に駆逐されていく、その寂しさが身にしみる作品だった」として60点をあたえているのはヨク理解出来ます。
 ところが、イラン人女性が、医者の息子がいるにもかかわらず、「老人ホームに送られたと知って、シー(父親)は己の行く末を予感するのだ。老人は家族が面倒をみる、中国でもイランでも当たり前なのに、米国では個を尊重するあまり、老いた親はホームに入れられる。イーラン(娘)以外に子供がいないシーにとって、彼女の境遇をわが身に重ねたに違いない」と述べています。
 ただ、以前は家で家族が介護するのが普通だった日本でも、老人ホームに入る高齢者がこのところ増えている状況を鑑みると、「個を尊重するあまり、老いた親はホームに入れられる」というより、勿論様々な要因はあるにせよ、設備の整った「老人ホーム」がたくさん建設されているかどうか、という点がクルーシャルな問題なのではないか、とも思えてきます。
 モット言えば、福本氏は、“個人主義の西欧、家族主義の東洋”という古色蒼然としたものの見方から脱却できていないようにも思われます。
 この問題は、ごく単純に言ってしまうと、昔は、経済状況が厳しかったがために、十分な数の老人ホームが確保されず、老人の世話は各家族でやらざるを得なかったものの、経済力が高まってくると次第に設備の整った老人ホームがたくさん建設されるようになって、老人の世話も家族の手を離れるようになってきた、という事態の流れではないかとも考えられます(むろん、そのほかの要因も考慮しなければならないでしょうが)。



象のロケット:千年の祈り

パリ・オペラ座のすべて

2009年12月09日 | 洋画(09年)
 「パリ・オペラ座のすべて」を渋谷のル・シネマで見ました。

 この映画は、邦題や予告編から、オペラ座の内部のみならず、それを中心としたパリ市内の様子がよくわかるように描きだされている名所案内風のドキュメンタリー映画なのかな、と思い込んでいて、それならパリに関心がありますから見てみようかなと映画館に出かけたわけです。

 ところが、実際に映画を見てみますと、ドキュメンタリー映画には違いないのですが、全編ほとんどバレーのことしか描かれておりません。それも説明は一切なしに(バレーの曲名は画像に現れますが)、専らバレーの練習風景が延々と2時間以上も(160分)映し出されるのです。
〔20歳でエトワールに抜擢されたマチュー・ガニオを見たいなとも思っていたのですが、ダンサーの紹介は一切なされないので、出演していたに違いないのですが判別できませんでした〕

 それで、タイトルをよく見てみますと「LA DANSE: LE BALLET DE L’ OPERA DE PARIS」とあり、映画の内容は原題にまさに忠実なのです!

 にもかかわらず、土曜日でしたがル・シネマは各上映回とも満席なのです(早めの順番の整理券を確保しようとすれば、上映時間の2時間以上前にチケットを購入する必要がありそうな様子です)。
 ということは、それだけ日本にはバレー・ファンが多いのかなとも思いました。ただ、バレーを現に習っている感じの観客が多いわけでもなく、また元々バレー音楽は、大きな陰りを見せているクラシック音楽のさらに一部なのですから、実際のところよくわからないところではあります。

 ですが、ですが、映画の方は、こちらの期待に反してバレーの練習風景が主に描かれるものの、それ自体として見れば、内容的に本当に素晴らしいものがあります!

 特に、現代バレーの「ジェニス」(ダーウィンの進化論がベースとされますが、特別なストーリーはありません)の場面は、著名なイギリス人振付家ウェイン・マクレガーの力のこもった指導ぶりが見られ(振付をしながらも、どんどん新しいアイデアが生まれてきます)、また人間の体はこのように動かすこともできるのだ、まだまだ肉体による表現の可能性は残っているのだということを目の当たりにでき、感動的してしまいました。

 また、「メディアの家」(ギリシア悲劇「王女メディア」に基づく)では、子殺しの場面が出てきますが、実際にバケツに入っている赤色の水を子役の頭からかぶせるのには驚きました〔ただ、ここまでリアルにやってしまうと、踊りを本質とするバレーの良さが失われてしまうのでは、という気もしますが〕。

 「パキータ」(ジプシー娘がフランス将校とめでたく結ばれるというロマンチック・バレー)の練習で、一人のバレリーナが「フェッテ」という回転を実に何回も行うのには驚きました〔フィギャー・スケートの4回転とはまた違った難しさがあるのでしょう!〕。

 他にも「くるみ割り人形」などの練習風景も映し出されましたが、それはそれでこのバレー団の伝統を感じさせるものです。

 このドキュメンタリー映画のもう一つの見どころは、こうした練習風景と練習風景との間に、スタッフたちの働きぶりも描き出されている点です。

 特に、バレエ団の芸術監督(ブリジット・ルフェーヴル)の八面六臂の活躍ぶりには圧倒されます。
 この映画では、それが次のような場面がいくつも挿入されて、実に具体的に描き出されているのです。振付家とダンサーの選定に当たること、ダンサーからの相談事を聞くこと、大口寄付者(破たんしたリーマンブラザーズの名前が挙がっていたのには苦笑させられました)の満足をいかにして確保するかを考えること、ダンサーの意識改革によってその技術的レベルアップを図ろうとすること、年金改革の説明をダンサーたちに受けさせること、等々。
 150名のダンサー等から成るパリ・オペラ座をうまく運営するべく、芸術監督がいかにありとあらゆることをこなそうとしているかが如実に分かります。

 それに、オペラ座の地下にある大きな水路とか、屋上で行われている養蜂などまでも満遍なく映し出されるわけですから、そういう点からすれば「パリ・オペラ座のすべて」というタイトルであっても、あながち間違いというわけでもなさそうです。


象のロケット:パリ・オペラ座のすべて
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脳内ニューヨーク

2009年12月07日 | 洋画(09年)
 「脳内ニューヨーク」をシネマライズで見てきました。

 「パイレーツ・ロック」でさすがと思わせる演技を披露していたフィリップ・シーモア・ホフマンをまたまた見ることができるというので、早速映画館に足を運んだ次第です。

 ですが、この映画は、これまで彼が出演した映画とか予告編から期待したのとは大違い、なんともかとも言い難い作品となっています。
 正直言ってほとんど何も理解できないものの、オシマイまで眠らずに見たのも事実です。強いてまとめようとすれば以下のようになるのでしょうか?

 映画の最初の方は、劇場でアーサー・ミラー作の「セールスマンの死」の制作にあたっている演出家・ケイデンを描いていて、その劇の方は、幕が開くと批評家の評判もよく成功します。ところが、フィリップ・シーモア・ホフマン扮する演出家が気を良くして家に帰ると、画家の妻との間がどうもうまくいっていないようで、突然、彼女が子供を連れてベルリンで開催される自分の個展の方に行ってしまいます。

 こうして主人公がニューヨークに一人取り残されるあたりから、様々な場面が入り乱れて、見ている方は途方にくれることになります。
 ケイデンは、突然、手がけてきた劇の上演が賞賛されて多額の賞金の付いた賞を受賞することとなり、それを資金として、自分が前からやってみたいと念願していた劇の制作に取り掛かります。
 ソレが途轍もない話で、マンハッタンにある巨大な倉庫を購入し、その中にニューヨークの街のセットを作り、そこで自分自身の真実の人生をありのままに描き出そうとするわけです。

 といっても、映画は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりすること、一貫した筋立てを壊すことに興味を見出しているようですから、こんな風なまとめを続けてても何の意味もないでしょう。

 評論家の意見もまちまちです。
 渡まち子氏は、「内と外が曖昧になる世界観がある種の到達点に至った作品と言える。さっぱりワケがわからないが、いつしか独特のイマジネーションに絡みとられる」等として65点を与えていますが、岡本太陽氏は、「タイトルが指す様に『脳内ニューヨーク』は概念的な作品であり、それを描いた事によりまとめきれない混乱が生まれる。チャーリー・カウフマンは素晴らしい脚本家だ。しかしこの映画を観る限りでは、監督としては良いとは言えないのではなかろうか」と、随分と舌足らずな評価を下しています。
 他方、山口拓朗氏は、「この世のミクロからマクロまでを包み込むかのような不思議さをもつ、知的で野心的でイマジネーションに富んだ1本だ」として70点の高得点を付けています。

 福本次郎氏は、例によって「この映画を観終わっても長く退屈なイマジネーションのトンネルを抜けただけという印象はぬぐい切れなかった」と40点を与えるにすぎません。
 ただ、同氏が、「秋分の朝、奇妙な違和感で目覚めたケイデンは額に大けがをする。外科、眼科、神経科とかかるうちに世界が少しずつ歪んでいく。彼の幻覚はこの時点で始まったと解釈すべきだ。本物の彼はその怪我がもとで生死の境をさまよっていて、後の演出家としての行為や家族との別れなどはすべてケイデンの脳内現象」だとする見解は傾聴に値するのではと思います。

 朝、顔を洗っているときにケイデンの額に水道栓がブチ当たりますが、そこからはすべて彼の「脳内現象」だとすれば、あのぐちゃぐちゃの映像もわからないでもないな、という気がしてきます(なにしろ、額のケガの後に酷い痙攣を引き起こすのですから、無事でいるはずがありません!)。
 だいたい、17年たっても上演に至らない劇など考えられませんし、全身に刺青を彫られたわが娘を目の当たりにしたり、自分を演じていた俳優が飛び降り自殺をしてしまったりと、脈絡なしにめまぐるしく場面が変化しますが、「生死の境をさまよってい」る演出家の脳内で起きているイメージとすれば、筋を辿ることは一切放棄して、各場面ごとに読み取れるものだけを読み取っていけさえすればいいのではないか、と思えてきます。

 ここで一つ問題にしたらどうかと思っている点は、演出家ケイデンが、妄想の中にせよ、真の演劇は実生活そのものだ、と考えていることです。自分が制作している劇においてケイデン役を扮する俳優に対して、ケイデンが、そこは違う、そんなことは考えない、などと様々なダメ出しを行います。
 確かに、近代演劇は、リアルなことを宗として人間のありのままを描き出そうとするところから出発しているとされます。ですが、演劇にせよ、映画にせよ、役者(あるいは俳優)が演じるものですから、どんなにリアルにしてもその時点ですでに現実との乖離が始まっていると言えます。ですから、あとは程度問題となるわけで、リアルな世界から離れたファンタジックな内容であっても十分に受け入れ可能となります。
 とすると、ケイデンが映画の中で見せている演出方法は、そもそもの始めから成り立たないものなのです。原理的に出来そうもないことをやろうとするから17年もかかっているのであり、しかしそんな長期にわたる劇の制作など考えられないですから、すべて生死の境をさまよっているケイデンの脳内現象と見た方が良さそうに思えてきます。

 なにはともあれ、大変気になる映画なので、DVDが出たらもう一度じっくりと見直してみようと思っているところです。

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クリスマス・キャロル

2009年11月28日 | 洋画(09年)
 「クリスマス・キャロル」を丸の内ピカデリーで見てきました。

 ディズニー制作のアニメ映画など今更という気がしてパスしようと思っていましたが、デジタル3Dを覗いてみたいこともあって出かけてきました〔浦安のデズニーランドの中の劇場で、一度デジタル3Dを見たことがありますが、ごく短いものに過ぎませんでした〕。

 映画は、ディケンズの原作に忠実に映像化されています。クリスマス・イブの夜、守銭奴の老人スクルージは、3人の精霊に遭遇し、過去・現在・未来を経回る旅へと連れ出されます。最後に、クリスマスの日に自分に起こるであろう出来事を目の当たりにして、スクルージは、これまでの自分の行動を大いに反省し心を入れ替えます。
 マア、信仰を深めて従来の生き方を変えようと努力すれば、その未来にも光明が射すかもしれない、というのがこの映画のメッセージなのでしょうが、差し当たりそんな教訓じみた話はどうでもよく、問題となるのは、この映画がなぜ今このような形で制作されたのか、といったあたりだと思われます。

 この映画については、評論家の間で賛否両論に分かれています。
おすぎは、「映画的興奮がまったく無く、私は失望しました」と言っているところ(11月26日号の『週刊文春』のCinema Chartでも★2つです)、前田有一氏は、「古いが新しいストーリーを、最新のデジタル3D作品として映像化するあたりも心憎い。しかもこの立体加減がじつにメリハリを感じさせるもので、私が今年みた中でも一番の「飛び出し度合い」であった」などとして80点もの高得点を与えています。

 私は、前田氏の評価は的を得ておらず、どちらかと言えば「おすぎ」に近い感想を持ちましたが、要すれば、この映画で使われている最新のテクノロジーをどう見るのか、という点で差が出てくるものと思われます。

 さらに評論家にあたってみますと、岡本太陽氏は、65点しかつけていませんが、前田氏と同じように、「本作は最新技術で見せる。登場人物や町の景色が芸術的レベルで美しく、モーション・キャプチャーによる登場人物の動きもリアル。またこれだけ効果的に3Dを使った作品は今年一番と言っても過言ではな」いと述べています。渡まち子氏も、「最新デジタル技術の冴えを見せるのは、灯のような過去のクリスマスの亡霊の表現。変幻自在のその姿は幻想的だ」として60点をつけています。

 ですが、「おすぎ」が鋭く指摘しているように、この映画の呼び物の一つが、主演のジム・キャリーが一人7役をこなし、それぞれの役柄に応じて声を変えている点であるにもかかわらず、3D版の場合には、声が日本語吹替えになっているのです!
 むろん、「パフォーマンス・キャプチャー」というテクノロジーを使っていますから、7役それぞれの元の演技はジム・キャリー自身のものではあるようです。とはいえ、やはりアニメーション的要素が強い役柄(少年・青年時代のスクルージなど)の場合には、声の方が重要でしょう。

 加えて、このテクノロジーについては、「おすぎ」が、「実写でもなく、アニメーションでもなく、どこか中途半端なもの」で、「人間味みたいなものの欠如が感じられ、靴の上から足を掻くみたいな感覚が、どうしても拭えな」い、と述べているが妥当ではないかと思います。 

 それに、3Dに関して「一番の「飛び出し度合い」」と言われていますが、そして雪が降っているシーンではこちらにも雪が降っているように見えますが、大部分は、観客と離れた所が立体化されている、といった感じしか受けませんでした。
 こうなると、多額の費用をかけて3D化することにどれだけの意味があるのかと疑わしくなってしまいます。観客の方もわざわざ特殊メガネを着用しているのですから、もう少し臨場感を増して欲しいと思いました。

 ただ、「おすぎ」は、「J・キャリー、オリジナルで7人もの声を担当しているって聞いて、そっちを見るならなぁと思ってしまったのです」と述べているところからすると、この映画の「オリジナル」は3Dではなく通常の2Dのものだと考えているように思えます。要すれば、まず2D版を制作し、それに手を加えることで特別に3D版を制作していると考えているのでしょうが、果たしてそうなのかどうか、制作者側がどちらをオリジナルと考えているのか、確たることはわかりません。

 また、渡まち子氏が、「映像が全体的に予想以上におどろおどろしく、ホラー・ファンタジーのようだったのが意外。子供にとってはちょっと怖いかも…と心配になる」と述べ、また岡本太陽氏が、「本作は恐ろしい映像の連続。侮って観ると、こんなに暗くて怖い映画とは予想外という結果に。子供向けではないのは確実だ。予告編を観ると家族向けの映画の様だが、これは実はパニック・ホラー映画なのだ」と述べていますが、私にはこれらの意見はやや言い過ぎのように思えました。今時の子供がこのくらいで驚くわけはないと思われますから!


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