映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

中学生円山

2013年05月31日 | 邦画(13年)
 『中学生円山』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作は、中学生の話だというので躊躇したものの、『少年メリケンサック』以来の宮藤官九郎氏の監督・脚本作品ですから、やっぱり映画館を覗いてみたくなりました。

 舞台は、『みなさん、さようなら』で描かれたような大きな団地。
そこに住む円山家には、中学生・克也平岡拓真)のほかに、父親・克之仲村トオル)、母親・ミズキ坂井真紀)、小学生の妹・あかね鍋本凪々美)がいます(注1)。



 克之は平凡そのものの父親ですし、ミズキは韓流ドラマに熱中し、あかねは友達に触発されて彼氏を欲しがっています。
 一方、克也は、エッチな目的を達成するため、体を柔軟にしようと毎日自主トレに励んでいたところ、団地の上の階に住む下井草剛)と接触を持ちます。



 そんなときに、団地の近くの河原で殺された男の死体が発見されますが、克也は、下井が「子連れ狼」の殺し屋ではないかと妄想してしまいます。
 ここから話がいろいろと展開しますが、それは見てのお楽しみ、……?

 本作は、中学生が抱く「特大妄想」を映画化したものという謳い文句ながら、その実、彼の妄想自体はストーリー性がありそんなに奇矯なものではありません。むしろ、SMAPの草剛とか、監督・俳優であるヤン・イクチュン(注2)、ギタリストの遠藤賢司など、多彩な出演者の顔触れに圧倒されます。本作におけるその人たちの出方などを見ると、本作自体が、監督・脚本の宮藤官九郎氏の「特大妄想」のような気がしてきます。

(2)とはいえ、そんなものでは、こんなに妄想がいっぱい詰まった面白い映画を観た感想としてはつまりません。ここは、ひとつ妄想に妄想で対決してみたらどうでしょうか?
 例えば、このお話は、すべて父親・克之の妄想であったと妄想してみては(注3)?
 だって、雑誌ぐらいしかなかった昔と違い、様々の情報機器を持っている今時の中学生ならば、もっと物凄い妄想を抱いてもおかしくはないのではないでしょうか(R-18でも上映できないくらいの!)?
 最初に、幼い頃の克也の妄想が描き出されますが、空からぷるぷるしたものが降ってきたり、家族がスパイになったり宇宙人になったりする他愛ないもの。ですが、その後の克也の妄想にしても、五十歩百歩ではないかと思います(注4)。
 また、ヤン・イクチュンが演じる新任の電気屋は、母親・ミズキの妄想の中で、韓流の俳優が身をやつした姿となっていますが(注5)、それではつまらないのではと思います。



 さらに、徘徊老人を彼氏にする妹・あかねの妄想にしても、あかねの年齢ではその老人の正体である遠藤賢司自体を知らないのではないでしょうか(注6)?



 そんなことから、克也の妄想とされているものも、実は父親・克之が、中学生くらいだったらこんな妄想を抱くだろうなと考えてのものではないのか(自分が中学生だった昔のことを思い出して)(注7)、母親・ミズキの妄想も、余りに韓流ドラマにのめり込んでいるミズキの姿から、実は克之が妄想したものではないのか(妻の浮気をも推測して)、妹・あかねの妄想も、ギタリストの遠藤賢司を知っている克之が抱いたものではないのか、と思えてきます。
 むろん、やくざ相手に活躍する「子連れ狼」の平井についても、配布された「アダルト」と表示のあるDVDを見て克之が妄想したのではないでしょうか(注8)?
 そして、キャプテン・フルーツに変身する克之自身ですが、彼は、まわりからは謹厳実直で無味乾燥な人と思われているものの、実は一番こうした格好に憧れているのであり、あの狭い書斎(?!)に閉じこもり、コンピュータを前にして、いつもそれを妄想しているのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「クドカン流妄想系青春アクション映画「中学生丸山」。おバカな妄想シーンに気合が入りすぎだが、キャスティングはセンスがある」として55点を付けています。




(注1)仲村トオルは『行きずりの街』、坂井真紀は『スープ・オペラ』が印象的です。

(注2)ヤン・イクチュンは、特に、『かぞくのくに』と『息もできない』での演技が素晴らしいと思いました。

(注3)劇場用パンフレットに挟み込まれている「シナリオ載録」では、妄想の部分は《妄想》と記載されていて、いわゆる「現実」(映画の中でのリアル)ときちんと分けて書かれていますが、この際そんな区別は無視してみようということです。

(注4)せいぜいが、克也に梨を食べさせてくれる美女が現れたり、下着姿の「ゆず香」(克也が憧れているクラスメイト:刈谷友衣子)とプールの中で戯れたりするくらいです。



(注5)「現実」を描いていると理解することもできますが。

(注6)むろん、「現実」を描いているとしてもかまいませんが、少なくとも、彼氏を欲しがっているあかねの妄想として見た方が面白いのではないでしょうか?

(注7)克也のノートには彼の妄想が漫画で書かれているところ、「処刑人プルコギ」にはハングルが、「認知症のデスペラード」にはスペイン語が付けられていますが、常識的には、中学生の克也には無理なのではないでしょうか?

(注8)常識的には、中学生の克也には、漫画や動画で『子連れ狼』に接する機会があったように思えないのですが。




★★★☆☆



象のロケット:中学生円山

県庁おもてなし課

2013年05月28日 | 邦画(13年)
 『県庁おもてなし課』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)少々ボーッと見ることができる映画がいいのではと思って映画館に入ってみました。

 本作の舞台は、高知県。
 観光促進を旗印に、県庁の観光部に「おもてなし課」が設置され、若手の県庁職員・掛水錦戸亮)がその課に配属されます。
 といっても、課員は、課長(甲本雅裕)の他に3人ほど。
 ですが、掛水は張り切って、高知出身の人気作家の吉門高良健吾)に電話し、「観光特使」に就いてもらいます。



 ところが、1ヵ月ほどして吉門から電話がかかってきて、これまで何の連絡もないのはどうしたことかと掛水は責められます。
 その挙句、真剣に観光促進に取り組むのであれば、民間感覚を導入すべく、若い女性をスタッフに加えることが必要であり、さらには昔議論された『パンダ誘致論』を調べてみたらいい、と吉門に言われてしまいます。
 それで、「おもてなし課」にアルバイトとして明神多紀堀北真希)が入り、また元県職員の清遠船越英一郎)の意見を聞くことになります。



 果たして高知県の観光は促進されるのでしょうか、そして掛水と多紀との関係は、……?

 まさにご当地映画そのものであり、高知県として売り出し中の風物がいろいろ映画の中で紹介され(注1)、それらを背景にして、2組のラブ・ストーリーが展開されるというわけです(注2)。
 ただ、これまで見た典型的なご当地物といえる『津軽百年食堂』とか『恋谷橋』と違っているのは、それらのように大きな祭りとかイベントで全体を盛り上げるといったお手軽な道に逃げないで、すべてが未来へ向かっての進行形で終わっているという点でしょうか(注3)。

 本作の主演の錦戸亮は、どこかで見た顔だなと思っていたらDVDで見た『ちょんまげぷりん』でした。その際はかつらを被っていたために、今回なかなか本人だと気付きませんでした。
 また、この映画に出演している堀北真希高良健吾船越英一郎は、『白夜行』で一緒に出演していたなと途中で思い出し、興味深く見ることができました。

(2)本作の原作者の有川浩氏について、クマネズミは、てっきり男性作家だと(名前は、“ヒロ”ではなく“ヒロシ”だと)ばかり思っていたところ、高知出身の女性であり、本作だけでなく、『阪急電車』とか『図書館戦争』といった映画の原作を書いていますし(注4)、売れ方からすると『告白』の湊かなえ氏(有川氏とほぼ同年輩:注5)に似ているようながら、サスペンス作家ではなく、やはりライトノベル作家なのでしょう。

 その角川文庫版を、ざっと読んでみたところ、映画版は、原作をかなり忠実になぞっているようながら(注6)、原作の持つ一つの要素が、2つのラブ・ストーリーの陰に隠れがちになってしまっているような印象を受けます。
 というのも、原作では、観光促進に関するヒントがかなりたくさん散りばめられているのです。
 例えば、「馬路村」について、「交通の便が悪いのは大前提。そのうえで、それでもここに来たら楽しいと思わせることに力を尽くしている。それが村の隅々まで溢れている遊び心であり、馬路村の特色を押し出したメニューだ」、「不便な環境を逆手に取って不便を楽しむという機軸を打ち出している」(P.376)とか、「観光スポットの有機的な結合については情報の集積と発信を最重要とする」、「目標の優先順位は、情報-施設-交通と並べられている」(P.387)と述べられています。

 映画の中でこうした点が描かれていないわけではないものの(注7)、もっと本腰を入れて紹介などしたならば、本作も、通常のご当地物をかなり超えたレベルになったのではと惜しまれるところです。

(3)渡まち子氏は、「お役所という不自由な場所では厳しい現実も多いはずだが、故郷、仕事、家族を愛する気持ちを前面に出した楽観的なストーリーで、優しい気持ちになれる物語だ。映画の舞台は高知県だが、それぞれの故郷にあてはめれば、自分の街をきっと好きになる」として60点を付けています。



(注1)例えば、「仁淀川に架かる沈下橋」、「馬路村」、「高知市の日曜市」など。

(注2)掛水と多紀、それに吉門と清遠の娘・佐和関めぐみ)。

(注3)「高知県レジャーランド構想」は、まだホンの入口でしょうし、掛水と多紀との関係も掛水が「多紀ちゃん!」と呼んだ段階ですし。ただ、吉門と佐和との関係は決着がついたようではありますが。

(注4)TBSTVのドラマ『空飛ぶ広報室』の原作者でもあるところ、同ドラマは、最初の方をちょっと見たものの、航空自衛隊のPR臭さが嫌で止めてしまいました(むろん、自衛隊に反対するわけではありませんが)。

(注5)湊かなえ氏については、他にTVドラマの『贖罪』(WOWOW)と『夜行観覧者』(TBS)を見ました。

(注6)例えば、映画の冒頭は、原作の冒頭と同じように、県職員時代の清遠が「パンダ誘致計画」を県庁内で説いて回る場面です(もちろん、映画の方では、ヴィジュアル効果を狙って講演会という形式を使っていますが)。

(注7)パラグライダーを体験できる「吾川スカイパーク」の帰り道で、清遠に意見を求められた多紀が、「施設は、今のままではちょっと。まるで男たちの山小屋みたい。特にトイレが酷い。1度来た女性は2度と来ない」と言いますが、こんなところは、原作の「トイレ偏差値」を巡る議論に対応していると思われます(P.274)。



★★★☆☆



象のロケット:県庁おもてなし課

戦争と一人の女

2013年05月24日 | 邦画(13年)
 『戦争と一人の女』をテアトル新宿で見ました。

(1)本作は、雑誌『映画芸術』の編集長・荒井晴彦氏が脚本を書いたというので、映画館に行ってみました(注1)。

 映画は、太平洋戦争の終戦直前の東京を舞台にして始まります。
 冒頭では、軍服を着た大平村上淳)が陸軍病院から退院して、妻と子供が待ち構える門のところまで出てきます。



 彼には片腕がありません。出征した中国戦線の戦いで失ったのでしょう。

 次に場面は、闇市にある飲み屋に移ります。
 そこには、小説家・野村永瀬正敏)やカマキリ柄本明)、大平らがおり、女(江口のりこ)が相手をしています。
 女は、店を閉めることにすると言い、野村に対して「一緒にならない?」と尋ねると、彼の方も「どうせ戦争で滅茶々々になるのだから、今から二人で滅茶々々になるのも良い」などと応じるので、その家に転がり込むことに。



 さあ、彼らは終戦の前後をどのように過ごすことになるのでしょうか、……?

 映画ではその後、一方の傷病兵・大平は、「小平事件」と類似の行動をし、他方の小説家・野村は女とともに、坂口安吾の小説の主人公をなぞります(注2)。
 ただ、大平と野村とは殆ど接点がなく、二つの物語が別々に進行しているようにも見えます。とはいえ、映画の最初の方で、女が営む飲み屋に大平がいたり、最後の方では、女が大平に山林に連れ込まれて殺されそうになることがあり、重要なところで繋がっていますから、かろうじて全体を一つの作品と見ることができると思います。
 まあ、江口のりこ演じる女を振り子の支点として、実際に戦場に赴き厳しい目に遭った男・大平と、空襲下で無聊をかこつ男・野村(注3)やカマキリ(注4)を描くことによって、先の戦争の意味を問おうとしている作品ではないでしょうか。

 江口のりこは、TVドラマ『時効警察』で知り、『洋菓子店コアンドル』のマリコの役が印象的ながら、本作においては、体当たりの演技で持てるものすべてを出し切っているように思いました。
 また、永瀬正敏は、最近では『スマグラー』を見ましたが、風貌は坂口安吾から遠いものの、その演技力によって内面的にかなりのところまで接近しているのではとの印象を受けました。
 さらに村上淳は、『希望の国』、『生きてるものはいないのか』、『ヒミズ』など様々の作品で見かけ、本作でも甚だ存在感のある演技を披露しています。
 柄本明は、最近では『きいろいゾウ』で見ましたが、この俳優が出ると画面がずっと引き締まった感じになるのが不思議です。

 なお、本作では、ピンク映画(R-18指定)でもあり官能的なシーンが何度も出てきますから(注5)、そういう方面からも検討する必要があるのかもしれません。ですが、不慣れなことには手を出さない方が身のためでしょう。

(2)それで先の戦争についてです。
 連日空襲にさらされている野村は、「戦争で滅茶々々」になり、「日本という国はなくな」り、自分も死ぬものと思っています(カマキリもそう思いつつ、自分だけは助かると思っています)。他方、女は、空を飛ぶB29を見て「きれい」と言ったり、「焼夷弾、花火みたい」と言ったりするのです(注6)。
 戦争に徴用されないで家に女と閉じこもっている作家というのも、当時としては随分と特異な存在ながらも、戦時下の日本を表現する一つの方法なのでしょう。
 ただ、ここら辺りで言われていることは登場人物の心の中の事柄ですから、映画として説得力を持って描き出すのはなかなか難しいところではないかと思います(なにより、低予算映画ですから、空襲の場面の再現など期待すべくもありません)。

 そこで、本作において自ずと前に出てくるのは大平になります。
 彼は、幾人かの女を山林に連れ込んで強姦した挙げ句首を絞めて殺しますが、その際に、中国で実施されたとされる「燼滅掃討作戦」(あるいは「三光作戦」)のことを女に話したりします。
 さらには、警察での取調べに際して、「全部、軍隊で教わったんですよ。大元帥陛下のご命令で、殺人、強盗、強姦したんですよ」云々と喋ります。

 それにしても、中国戦線に投入された日本軍の兵力は百万を超えるでしょうが、帰還した兵士が「小平事件」のような重罪を犯した例は極く稀ではなかったかと思われます。
 ただ、戦争の一つの側面を強調するものとして映画では描き出されているのでしょう。

 とはいえ、こうしたシーンをいくら見ても、観客にはなかなかピンとこないのではないでしょうか?軍隊経験のある日本人の割合はかなり低くなっていることでもあり、事態をリアルに想像することが甚だ難しいのではと思われます(注7)。
 加えて、すべては大平が喋っているに過ぎず、そう映画で語らせる背景にイデオロギー的なものを強く感じざるをえません(注8)。
 やはり、いくら映画のストーリーの中に織り込んだとしても、こうした描き方では、若松孝二監督の『キャタピラー』におけるラストの原爆の場面と同じように、とってつけたような効果しか持てないのではないかとも思われてくるところです(注9)。

 そんなこんなから、なんだか本作については、70年ほど前の日本を舞台にしながらも、今の日本をファンタジックに描き出したものではないか、とも捉えてみたくなってきます。
 そうなるとやはり、連日空襲に晒されている女と野村の姿に立ち戻ることになるでしょう(注)。
 特に、終戦直後のカマキリに(注)。
 彼は、「ここでやめるとは何事だ!やめるなら、東京が焼けないうちになぜやめない!やめちゃダメだ。日本中がやられるまでなぜやめない!」と叫ぶのです。
 ここらあたりの場面からは、このところの日本に対して、やはり根底からやり直さなくてはだめではないのか、行き着くころまで行ってしまった方がいいのではないか、なまじのところで持ちこたえて反撃に移ろうとしても、逆に事態は一層悪化してしまうだけではないか、と本作が言っているようにも思えてきます(注10)。

(3)映画評論家の森直人氏は、4月26日付朝日新聞に掲載された映画評において、登場人物は「一見常軌を逸しているが、それは戦争という破壊的な外圧で狂わされた人間の姿であり、現在の不安定な状況に生きる我々の混迷とも重なるだろう。確かに大多数の平凡な小市民は社会環境を選べない。その中でどう生き抜いていくか。本作では世界の負性に同調してしまう男の繊細さではなく、「一人の女」の明るいバイタリティーに希望が託されている。 歴史化された時代を舞台にミニマムな男女関係を基盤とする映画だが、そこに脈打つ思考は紛れもなく「今」に向けた日本論だ」と述べています。



(注1)脚本にはもう一人中野太氏が加わり、また『映画芸術』誌に頻繁に登場する元文部官僚の寺脇研氏が統括プロデューサーとして参加しています。

(注2)すなわち、『戦争と一人の女』と『続戦争と一人の女』ですが、これらは青空文庫で読むことができます(ただし、青空文庫の『戦争と一人の女』は検閲削除版であり、無削除版は岩波文庫『桜の森の満開の下・白痴他十二篇』に収録されています)。
 なお、近藤ようこ氏は、これらの小説をもとに(さらに、『私は海をだきしめていたい』をも取り込んで)、漫画を描いています〔同作(青林工藝社舎)の「あとがき」で、近藤氏は、「ごく単純にいえば、これは戦争によって生かされている男女の話だ。しかし戦争が終わっても彼らは生きていく。人間はつまりどんな時代でもいきていくのだ。もちろんそれは今も同じなのだ」と述べています〕。

(注3)飲み屋で野村は、「暇、暇。もうどうにでもなれってとこだよ」と言います。



(注4)カマキリについては、坂口安吾はその小説で、「カマキリは町工場の親爺で」、「六十ぐらゐであつた」、「私達は日本が負けると信じてゐたが、カマキリは特別ひどかつた。日本の負けを喜んでゐる様子であつた。男の八割と女の二割、日本人の半分が死に、残つた男の二割、赤ん坊とヨボ/\の親爺の中に自分を数へてゐた」などと書いています(『続戦争と一人の女』)。



(注5)本作では、傷病兵・大平が、米を求める女たちを騙して山林に連れ込み、強姦して絞殺してしまう場面が数回描かれています。
 また、本作では、江口のりこが演じる女と小説家・野村との情交シーンが頻繁に描かれます。この女については、坂口安吾の小説では、例えば、「女は遊女屋にゐたことがあるので、肉体には正規な愛情のよろこび、がなかつた」、「妙に食慾をそゝる肉体だ。だから、女がもし正規の愛情のよろこびを感じるなら、多くの男が迷つた筈だが、一人も深入りした男がない。男を迷はす最後のものが欠けてゐた」などと書かれています(『戦争と一人の女』)。
 小説では、女についてそれ以上の進展は見られません。
 ただ映画では、女は大平と渋谷駅で出会い、山林に連れ込まれて殺されそうになります。その際に、首を絞められながらも女は「正規な愛情のよろこび」を感じ、大平は拍子抜けしてそのまま立ち去ってしまいます。
 これで、女は「正規」になったのでしょうか(?!)、その後RAA(占領軍兵士用の慰安所!)を経てパンパンになるものの「アイノコ」は生まれず、結局は日本人の子供を産むことになるようです。

(注6)坂口安吾の小説で、例えば、「夜の空襲はすばらしい。……夜の空襲が始まつて後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのやうな深い調和を感じてゐた。 私は然し夜間爆撃の何が一番すばらしかつたかと訊かれると、正直のところは、被害の大きかつたのが何より私の気に入つてゐたといふのが本当の気持なのである。照空燈の矢の中にポッカリ浮いた鈍い銀色のB29も美しい」などと書かれているところに相当するものと思われます(『続戦争と一人の女』)

(注7)若い観客にとっては、特にそうではないでしょうか?
 なお、雑誌『映画芸術』2013年春号に掲載された座談会において、客層について問われると、本作の統括プロデューサーの寺脇研氏は、「60歳以上の男性」と答えています。
 ただ、先の戦争について様々な情報を持っているはずの「60歳以上の男性」にこうした映画を見せても、「あゝまたか」と思うだけではないでしょうか?むしろ、ほとんど情報らしきものを持たない若い人にこうした作品を見てもらうことを考えるべきではないかと思いますが。

(注8)4月24日に日本外国特派員協会で行われた記者会見に関する記事によれば、「本作の予算は1,200万円、10日で撮影した」とのアナウンスに対して外国人記者から驚きの声が上がると、井上淳一監督は、「ここ30年、日本の戦争映画、もしくはマスコミが避けてきた天皇の戦争責任、いわゆる自虐史観といって攻撃される日本がアジアでやった悪いことを、低予算で、自分たちの好きなことができるからこそ、きっちりと描こうと思った」と述べ、さらに記者から、大平のような「原作にない表現を付け加えてまで、日本を侮辱するような表現をなぜ行ったのか?」という質問が出されると、井上監督は、「あえてやった。日本がやってきた、よその国を侵略し、植民地にして、殺したり、犯したりしたことをなきものにしようとする風潮だけは、絶対に許せないと思う」と述べたそうです。

(注9)本作の脚本を担当した荒井晴彦氏は、雑誌『映画芸術』2013年春号に掲載された俳優・村上淳との対談において、「若松孝二の『キャタピラー』を、俺はヒドイと思ったわけ。…広島のそばの村でもないのに錦の御旗のように原爆の映像をくっ付けて、反戦ですと。…『キャタピラー』を実作で批判しようと思ったのがこの企画の始まりだった」などと批判しています。

(注10)坂口安吾に言わせれば、「日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」、「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」(『堕落論』)とのことです。



★★★☆☆





探偵はBARにいる2

2013年05月21日 | 邦画(13年)
 『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』を渋谷TOEIで見ました。

(1)大泉洋松田龍平のコンビによる作品の第2弾であり、第1弾を見ていることもあり、映画館に行ってきました。

 本作では、主人公の探偵大泉洋)とその相棒の高田松田龍平)は、自分たちの仲間でオカマのマサコゴリ)が、ある全国大会で優勝した2日後に、何者かによって殺されてしまった事件を手がけます。
 殺されたマサコはショーパブで働いていましたが、マジックに凝り出し、皆の応援もあってマジックの全国大会(マジコン)に出場するまでになったものです。
 この事件の依頼者は、関西在住のヴァイオリニストの河島弓子尾野真千子)。
 殺されたマサコが熱烈なファンだったにもかかわらず、警察の捜査が全然進展しないために、自分らで犯人捜しをしようという訳です。
 さあ、探偵とその相棒は、上手く犯人を突き止めることが出来るでしょうか、……?

 前回の作品では、雪の中に埋められた探偵がやっとのことで這い出してくるシーンが最初の方にありましたが、今回の作品も、大倉山シャンツェのスタートゲートのところに、縛られた探偵が立たされているという意表を突いたシーンから始まります。
 それで話しはどんどん面白くなっていくのかなと期待していると、さにあらず、前作同様、松田龍平の存在感がどうも稀薄であったり、殴り合いの乱闘心が延々と続いたりという具合で、全体に締まりがなく、やっぱり上映時間(119分)を長く感じてしまいました。

 それでも、主演の大泉洋は、女性との絡みシーン(注1)などサービスにこれ努めていますし、共演の松田龍平も、最近の出演作『舟を編む』の「馬締」と同様、世の中の動きにワンテンポ遅れている感じがする相棒役をさりげなく演じています。また、ヒロインの尾野真千子は、これまで見たことがない“ガサツな関西女”を巧みに演じています(注2)。




(2)本作にはいろいろ問題点がありそうに思えます〔以下はかなりのネタバレになりますので、お気を付け下さい〕。
 例えば、
イ)政治家
 本作では、反原発の政治家として脚光を浴びている橡脇渡部篤郎)が、自分の過去の汚点(東京時代のマサコと愛人関係があった)を抹消すべく、人を使うなどしてマサコを殺したのではないかとの疑いが持ち上がります。
 これは、格好のいい大衆受けのするスローガンを立てて人気を得ている政治家の裏側に秘められたドロドロしたものを暴きだす筋立てになるのかなと期待していると(演じている渡部篤郎の風貌も、そうしたストーリーにマッチしている感じです)、その線は次第に尻すぼみになってしまいます(注3)。
 そうなるとこの政治家に残るのは反原発の旗手としての表の存在ばかりであり、それも全国の子供たちから激励文が山のように届いたり、また小学生のグループに感謝の手紙を読み上げられたりするのです。
 ですが、ここは原発の是非を議論する場ではないのであまり言いたくないところ、いくらなんでもこの関連で小学生を使っているのは大層おかしな気がします。
 確かに、小学生が原発のことについて何も判断できないというわけではないでしょう。
 でも、その存廃についてとなると、大人でも判断が非常に難しい論点がたくさん転がっているのではないでしょうか(注4)?
 果たして、小学生は、そんなことを十分に理解した上で、橡脇を前にして感謝の手紙を読み上げたりするのでしょうか?
 大人の入れ知恵で大人に言われたとおりにしているだけのことではないでしょうか?
 そんなものをまともに映画で長々と見せるなんて、という気にもなってしまいます。

ロ)動機
 探偵は、証言の食い違いから犯人を割り出すところ、それは余りにも手順を踏まなすぎの感がします(注5)。ただそれはサテ置くとしても、犯人の動機が薄弱ではないでしょうか?
 映画では、マサコが全国大会で優勝し脚光を浴びたのに対する嫉妬からとされているようです(「ゴミを処分しただけ」と犯人は言います)。
 ですが、人は果たしてそんな簡単なことで殺人まで犯してしまうものでしょうか?
 それに、仮に嫉妬で人殺しをするにせよ、少なくとも、現在とか幼少期の厳しい環境など背景についてもっと丁寧に描いてもらわないと、見ている方は説得されません。

ハ)乱闘
 本作には、探偵と高田が正体不明の集団(注6)に襲われる場面何度か出てきます。 



 洋画ならば、こんなときは銃が持ち出されるのでしょうが(注7)、邦画の場合は、せいぜいバットが使われるだけで、大部分が素手による殴り合いです。
 本作もその例に洩れず殴り合いが始まるものの、素手では致命傷を与えられず、何度も倒れた敵が蘇ってきます。変化をつけるためでしょう、歌舞伎の殺陣と似たように、探偵がかなりの数の敵によって胴上げ状態になったりもします。
 でも、組手に変化がありませんから(何しろ、数十人の相手に対し探偵と高田の2人が対峙するだけなのですから)、暫くすると酷く見飽きてしまいます(注8)。

ニ)ヴァイオリニスト
 本作のラストの方で河島弓子の素性が明かされますが、複雑な過去を持った美人の音楽家となると、どうしていつもヴァイオリニストになってしまうのだろうかと思ってしまいました(注9)。
 尤も、これは単に、映画を見ながら『オーケストラ!』を思い出したからに過ぎませんが!

(3)渡まち子氏は、「大泉洋、松田龍平の凸凹コンビはますます快調だし、尾野真千子扮するヒロインも事件をうまく転がす役で効いている。ハードボイルドなのだが笑いも絶妙。これは「3」を作るしかなさそうだ」として70点を付けています。




(注1)劇場用パンフレット掲載の対談の中で、大泉洋は「エロスの部分」と言っています。

(注2)最近では、大泉洋は『グッモーエビアン』で、尾野真千子は『外事警察』で見ました。

 なお、尾野真千子は、カンヌ国際映画祭のコンペ部門に出品されている『そして父になる』に出演していることから、報道によれば、現在カンヌに滞在しているようです(彼女は、同映画祭でグランプリを獲得した『殯の森』でも主役を演じていますから、因縁が深いようです)。



(注3)“影の女帝”とされる後援会長・新堂筒井真理子)も、単に金を使って問題のもみ消しを図ろうとするだけの存在でしかありません(マサコの友人のトオルも、故郷の室蘭に追いやられるだけで殺されませんでした)。

(注4)例えば、このサイトの記事が参考になるかもしれません。
といっても、その論じ方自体に問題があると指摘する向きもあるでしょうが。

(注5)犯人とされた男は、はじめは、政治家・橡脇がマサコのマンションから出て行くのを見たと言っていたのに、次には、彼がマンションに入っていくのを見たと前言を翻すので、探偵は彼こそが犯人だと睨みます。でも、他の証拠はないのに単にそれだけから、その人が犯人だとすぐに決めつけられるものでしょうか(記憶違いだったなどと、いくらでも言い抜けできますから)?

  なお、話しは飛躍しますが、証言の食い違いということで言えば、最近見たDVD『わすれた恋のはじめかた』(2009年)では、主人公の男(アーロン・エッカート)が、自動車事故で亡くなった妻の葬儀に出たときは赤いダリアで飾られていたと話したところ、聞いていた女(ジェニファー・ジョアンナ・アニストン)が、この地方では葬儀が行われた季節にダリアは花を咲かせないと言ったことから、主人公が妻の葬儀に列席していないことが明らかとなり、一体それは何故ということで謎が深まります。

(注6)実は、橡脇を支持する反原発グループ。暴力団とは無関係の素人の集まりとされているところ、そんな人たちは、探偵らがいくら橡脇の過去を暴こうとしているにせよ、彼らを抹殺しようまでと考えるものでしょうか?
なお、表面的には、昨年9月に起きた「六本木クラブ殺人事件」が念頭に置かれているのかもしれません。

(注7)といって、最近見た『L.A.ギャングストーリー』のように、マシンガンが持ち出されて火を吹いても、さっぱり当たらないのでは意味がありませんが!

(注8)ショーパブでの乱闘はともかく、市電内の乱闘は、ちょっと見には思いつきがユニークながら、なにせ場所が極端に狭いものですから、市電の中で大勢の人間が単に蠢いているだけとしか思えません。

(注9)このサイトの記事によれば、ラストの方で河島弓子がコンサートで弾く曲はラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」だそうです。元々はピアノ曲で、それをヴァイオリンの曲に編曲されたものを弓子は弾いているのでしょうが、ピアノ伴奏なしに無伴奏で弾くのはどうかなと思ってしまいます(例えば、宮本笑里氏の演奏はこちらで)。




★★☆☆☆




象のロケット:探偵はBARにいる2

ロイヤル・アフェア

2013年05月18日 | 洋画(13年)
 『ロイヤル・アフェア―愛と欲望の王宮』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)同じ映画館ですぐ前に見た『偽りなき者』で主役を演じたマッツ・ミケルセンが、またまた主演するというので出かけてきました。

 物語の舞台は、18世紀後半のデンマーク王室。
 映画の初めの方では、イギリス王室からカロリーネアリシア・ヴィカンダー)がデンマーク王クリスチャン7世ミケル・ボー・フォルスガード)のもとへ嫁いできます(注1)。
 カロリーネとしては、素敵な国王だという噂を耳にしていたので心浮き浮きとやってきたところ、城の外で出迎えた国王は、酷く奇矯な行動をして彼女を驚かせます。
 それで、カロリーネは男の子を生むものの、国王を遠ざけてしまいます。
 国王の方は、諸外国を訪ね回る旅に出ますが、精神状態が悪化してハンブルクにとどまることになり(注2)、その治療のために呼び出された医者の一人が、ドイツ内のデンマーク領アルトナ(注3)で町医者を営むドイツ人のストルーエンセマッツ・ミケルセン)。
 彼は、国王が発したシェイクスピアの戯曲の台詞に的確に唱和することができたために、国王の心を掴み、侍医に取り立てられます。



 ストルーエンセは、初めのうちは国王べったりでしたが、そのうちにカロリーネの相談をも聞くようになり、2人の中は急速に親密さを増します。
 なにしろ、美男美女の取り合わせであり、さらにカロリーネは聡明で、絶えず書物を持ち歩いているくらいですし、ストルーエンセの方も、当時流行の啓蒙思想に傾倒しているのですから、時間の問題だったのかもしれません。



 さあ、侍医と王妃の恋の行く先は、……?

 一見したところ、都会者(あるいは先進国人:イギリス人の王妃カロリーネと、ドイツ人の侍医ストルーエンセ)が、田舎者(あるいは後進国人:デンマーク国王たち)を自分たちの好きなように扱ったお話のようでもありますが、やはり“恋は盲目”を地で行くお話と受け取るべきなのでしょう(注4)。

 マッツ・ミケルセンが出演した映画でこれまで見たものは『誰がため』と『偽りなき者』ですが、本作でも、それらと同様、愁いを帯びたインテリという役柄を演じていて、まさにうってつけと言えます。

(2)侍医のストルーエンセは、当時の啓蒙思想にかぶれていたようで、映画の中では、王妃カロリーネが、宮廷内に設けられたストルーエンセの部屋にある書棚の奥に隠し置かれていたジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』を見つけ出してしまい、借りて読んだりします。

 ところで最近、東浩紀氏が『一般意思2.0』(講談社、2011.11)で『社会契約論』を論じて話題となりましたが(注5)、同氏はその中で、ルソーの本について、「個人の自由を賞揚するかわりに、個人(特殊意志)の全体(一般意志)への絶対の服従を強調している様にも見え」、「個人主義どころか、ラディカルな全体主義の、そしてナショナリズムの起源の書としても読むことができる」と述べています(P.28)。
 あるいは、東氏は、「人民全員でひとつの意志を形成すること(一般意志)は、ルソーの構想においては、必ずしも人民全員で政府を運営すること(民主主義)に繋がらない。彼にとって重要なのは、国民の総意が主権を構成していること(国民主権)、ただそれだけなのであり、その主権が具体的にだれによって担われるかは、国民が望むのであれば王でも貴族でもだれでもよいのである」とも述べています(P.38)。

 これらの点は、それまでの貴族政(注6)を廃してストルーエンセが実権を握った時の様子を見る上で、あるいは参考になるかもしれません。
 というのも、貴族からなる枢密院が解散された後、実権を握ったストルーエンセは、代議政(注7)を導入することなく、様々な改革を実行するからですが。
 もしかしたら、ストルーエンセは、自分は国民の総意(一般意志)を実行しているのだから、代議制など導入するまでもないと考えたのかもしれません。
 とにかく、検閲の廃止などに関するおびただしい数の新しい法令が出され、デンマークはそれまでの古色蒼然とした王国から時代の先端を行く国家となり、こうした状況を見て、ルソーと並ぶ啓蒙思想家・ヴォルテールから国王宛に手紙が到来するまでにもなります。

 ただ、ストルーエンセは、最初の内は、新しい法令について一つ一つ国王の裁可を仰いでいましたが、行政の細々したことまで見る気が国王にないのを見て取ると、自分の署名だけで法令が施行出来るよう、一括した権限を国王からもらい受けます。
 こうなると、最早ストルーエンセによる独裁政(注8)であり、貴族の生活を脅かす措置(注9)をとって彼らを敵に回すと、ひとたまりもなく排除されてしまうことになってしまいます(注10)。

(3)渡まち子は、「どこまで史実に忠実かはさておき、このスキャンダル劇は、時代が前進するときには清濁併せ持つ流れが存在すると教えてくれる。北欧を代表する俳優マッツ・ミケルセンの名演や、格調高い映像も含めて、奥深い歴史ドラマに仕上がった」として65点をつけています。




(注1)イギリス王室絡みのスキャンダルと言えば、例えば、エドワード8世とシンプソン夫人との「王冠を賭けた恋」とか、ダイアナ妃の離婚などが思い起こされます。

(注2)Wikipediaのこの項には、クリスチャン7世は、「おそらく統合失調症のような深刻な精神病に悩まされていた」と記載されています。

(注3)アルトナについては、このサイトの記事が参考になります。

(注4)映画では、王妃カロリーネの妊娠は辛うじてばれずに乗り切ったものの(その子・ルイーセも、クリスチャン7世の娘として育てられます)、小間使いとか王太后の目を余り気にすることなく、王妃カロリーネと侍医ストルーエンセは自由気ままに行動します。

(注5)同書については、映画『瞳は静かに』についてのエントリの(3)で触れています。

(注6)ルソーの『社会契約論』では、「主権者は、政府を少数の人々の手に制限して、行政官の数よりも単なる市民の数が多くなるようにすることができる。このような政体は、「貴族政」と名づけられる」とされています(岩波文庫、P.94)。

(注7)ルソーの『社会契約論』では、「主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない。一般意志はそれ自体であるか、それとも、別のものであるからであって、決してそこには中間はない。人民の代議士は、だから一般意志の代表者ではないし、代表者たりえない。彼らは人民の使用人でしかない」と述べられていて、代議政に対して否定的です(岩波文庫、P.133)。

(注8)ルソーの『社会契約論』では、「独裁」に関して、「最大の危険」があり「祖国の安全にかかわる時」に、政府の「成員の一人あるいは二人に、政府〔の権力〕を集中」したり、あるいは「すべての法律を沈黙させ、主権を一時停止するような最高の首長を一人任命」したりする、と述べられています(岩波文庫、P.171)。

(注9)ストルーエンセは、予算が逼迫してくると、貴族に支給される年金を減額してまで新しい政策を実行しようとします。

(注10)王太后を中心とするクーデターが成功し、デンマークは元の貴族制に戻り、ストルーエンセが実施した措置はことごとく元に戻されてしまいます(劇場用パンフレットに掲載されている早稲田大学教授・村井誠人氏のエッセイ「ストルーエンセの時代―デンマーク史上の晴天の霹靂」によれば、ストルーエンセによる独裁の期間は、1770年から1772年までの16ヶ月間)。
 ですが、1784年の、クリスチャン7世の息子による再度のクーデターによって、ストルーエンセの改革が復活することになるようです。




★★★☆☆



象のロケット:ロイヤル・アフェア

L.A.ギャングストーリー

2013年05月14日 | 洋画(13年)
 『L.A.ギャングストーリー』を渋谷東急で見ました(注1)。

(1)ライアン・ゴズリングショーン・ペンが出演するというので、映画館に出向いてみました。

 本作の舞台は、1949年のロスアンジェルス。
 ブルックリン生まれで元プロボクサーのコーエンショーン・ペン:注2)が、ロスの裏社会を牛耳っています。



 警察当局はおろか司法当局などにもコーエンの金が行きわたって、彼を取り締まることはできません。
 ただ、警察本部長のパーカーは、どんなことをしてでもコーエンをロスから叩き出したいとして、巡査部長のオマラジョシュ・ブローリン)に極秘指令を発します。
 すなわち、コーエンを逮捕する必要はない、違法な行為をやっても構わないから組織を潰せ、ただ警察官としての素性は隠せ、必要な人選はオマラに任せる、というものです。
 早速、オマラは5人を選び出し〔実際の人選は彼の妻によるものですが、その中に、ライアン・ゴズリング扮する巡査部長ジェリーが入っています〕、コーエンの賭場を次々に襲っていきます。



 でも、そんなにうまく事が運ぶでしょうか、彼ら6人の運命は、……?

 本作に関しては、「「ギャング×警察」の仁義なき戦い」とか「最凶の悪(ギャング)×最強部隊(ロス市警)」などといった派手なキャッチコピーが飛び交い、その冒頭では、コーエンがサンドバッグを叩く様子が映し出され、引き続いて、シカゴのギャング団に通じている男を、見せしめのためか残虐なやり方で殺してしまう場面(注3)となり、これは凄い映画になりそうだと観客に思わせます(注4)。
 ですが、見続けている内に、どうも以前見た『アンタッチャブル』〔TV版も少々(注5)〕の二番煎じ的な臭いがしてきて(場所がシカゴからロスに代わるだけではないでしょうか)、マシンガンがやたら吠えまくるものの、イマイチの印象でした。

 あるいは、ジョシュ・ブローリンが演じる主役のオマラが、『アンタッチャブル』におけるエリオット・ネス(ケビン・コスナー)ほど格好良くないためなのかもしれません。なにしろ、ジョシュ・ブローリンがかなり渋めなのと(注6)、オマラらが最初に賭場に踏み込むと、そこには用心棒として制服を着た警官が何人もいて逆襲されてしまい、オマラともう一人が捕まってしまうというテイタラクなのです(十分に内偵せずに突入したのでしょうか)。

(2)もっといえば、本作を見る少し前に、偶然にも『ラブ・アゲイン』のDVDを見たせいで、イマイチの感を抱いたのかもしれません。
 驚いたことにその映画では、本作にも出演するライアン・ゴズリング(注7)とエマ・ストーンが出演していて、実に軽妙に演じているのですから!

 同作でゴズリングが扮するジェイコブは、妻との間で離婚話が持ち上がった主人公キャルに対する恋愛アドバイザーで、とっかえひっかえ付き合う女性を変えている女たらし。その身持ちの悪いジェイコブが嵌まってしまったのがエマ・ストーン演じるハンナながら、そのハンナがキャルの娘であることが分かって、事態はてんやわんやになるといったところです。

 こんなゴズリングが、本作においては、コーエンの愛人・グレイスを演じているエマ・ストーンと一緒に出てきて、その間ですぐに関係が出来てしまうというのですから、二人ともそんなに厳しいことにはならないだろうな、と思いたくなってしまいます。



 案の定、グレイスは、見つかったらただでは済まないとなんども忠告されるものの、ジェリーともどもコーエンによって消されることはありませんでした(注8)。

(3)渡まち子氏は、「ロス市警の極秘チームと大物ギャングの“仁義なき戦い”を描く「L.A.ギャングストーリー」。暴力には暴力をという発想がアメリカらしい」として70点をつけています。



(注1)渋谷東急で上映が開始されると、予告編もなしにいきなり本篇に入ったのでおかしいなと思い、見終わってから入口付近を見回したら、「5月23日で閉館」との張り紙が掲示されているではありませんか!
 係の人に尋ねると、他に引っ越すわけではなく完全撤退とのことです。
新しく渋谷東口にできた「ヒカリエ」には、その前にあった渋谷東急文化会館内の映画館(渋谷東急もその一つです)が戻ってくるものと思っていたにもかかわらず、ミュージカル専用の「シアターオーブ」が設けられただけで残念だなと思っていたところ、この知らせです。

 渋谷では、TOHOシネマズなどが賑わっているだけに、なんとかならなかったものかと思ってしまいますが、ただ現在の渋谷東急は、駅から一館だけ離れたところに位置しているだけでなく、座席数も300と大き過ぎて(平日の夕方に本作を見たのですが、10名ほどがパラパラと座っているにすぎませんでした)、運営面でさぞかし大変だったのではと想像します。

 なお、渋谷では、このところ「シネマ・アンジェリカ」(2011.11)「シネセゾン渋谷」(2011.11)、「シアターN」(2012.12)などが閉館されてきているところ、そうした流れがもう続かないことを願うのみです。

(注2)ショーン・ペンは、最近では『ツリー・オブ・ライフ』が印象的でした。

(注3)驚いたことに、コーエンは、車2台を使って、男を車裂きの刑に処するのです。
 車裂きの刑といえば思い出すのが、明治大学准教授の重田園江氏が、その著『ミシェル・フーコー―近代を裏から読む』(ちくま新書、2011.9)において、「大好きな人の大好きな本」(P.268)として専ら焦点を当てる『監獄の誕生―監視と処罰』(田村俶訳、新潮社、1977年)であり、その冒頭に取り上げられるダミアンに課せられたものです(重田氏の著書の冒頭でも、フーコーの本の最初の部分が引用されています)。

 フーコーは、絶対主義王政期の身体刑から近代の自由刑への移り行きを議論していて、最早現代では車裂き刑など消滅しているところ、コーエン帝国というギャング団の内部においては、コーエンの王としての絶対振りを仲間に見せつけるためにも〔「王の絶対的な力を群衆に見せつけ、彼らの脳裏にその偉大さを刻みつける儀式」としての「公開処刑」(重田著P.65)〕、格好の刑罰として復活したのでしょう。

 ただ、警察に捕まったオマラらを救出するために留置場を壊そうと、窓に結んだロープを車で引っ張りますが、逆に車のバンパーの方が剥がれてしまいます。そんな車で、果たして車裂きの刑を実行できるのか、心許なくも思えてくるのですが〔歴史上に現れた二度目ですから、もしかしたら「みじめな笑劇」になってしまったかもしれません(『ルイ・ボナパルトのブリューメール十八日』(カール・マルクス著、上村邦彦訳:平凡社ライブラリー)〕。

(注4)さらには、街を歩く素人娘をギャングの一味が言葉巧みにだまして、コーエンが経営する娼館に連れ込んでしまう様子を見て、オマラは正義感に燃えて、その娼館に飛び込み、娘を救出するとともに、そこにいたギャングを警察に連行します。ところが、オマラの上司は、既に人身保護令がでているからとして、ギャングを釈放させてしまいます。
 最初の短い時間の内に、コーエン帝国の状況とか警察内部の腐敗振りを、観客に実に手際よく提示しているなと思いました。

(注5)TV番の『アンタッチャブル』については、このエントリで少しだけ触れています。

(注6)ジョシュ・ブローリンについては、『トゥルー・グリット』における敵役だったり、『恋のロンドン狂騒曲』での売れない小説家だったりするので、クマネズミにとっては、格好良い俳優のイメージがありません〔『ミルク』でも、主役のミルク(なんとショーン・ペン!)を暗殺するダン・ホワイトを演じていますが、印象に残っておりません〕。



(注7)ライアン・ゴズリングについては、『スーパー・チューズデー』が印象的でした。

(注8)そればかりか、オマラ以下6人の「最強部隊」のうち、二人は殺されてしまうものの、残りはまずまずの状況に戻ります(特に、オマラは、警察を離れ、幼い子供を伴って海岸でのんびりとして生活を楽しんでいる有様なのです!)。



★★★☆☆



象のロケット:L.A. ギャング ストーリー

藁の楯

2013年05月10日 | 邦画(13年)
 『藁の楯』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て面白そうだと思い、映画館に出かけてみました。

 話しは極く単純で、殺人事件の容疑者を、彼が出頭した福岡県警から、捜査本部が置かれている東京の警視庁まで48時間以内に移送するというもの。



 ただし、この容疑者・清丸藤原竜也)が殺した少女の祖父が財界の大物・蜷川(山崎努)で、清丸を殺した者に10億円を謝礼として支払うとの広告を新聞に出したから大変です。

 常識外に多額の謝礼がもらえるならばと、移送中の清丸を殺そうとする人間が大勢出現することでしょう。
 そこで、清丸が移送中に殺されないように、護衛のスペシャリストが付けられることになり、選ばれたのが警部補・銘苅大沢たかお)と巡査部長・白岩松嶋菜々子)。



 さらに警視庁の二人(岸谷五朗永山絢斗)と、福岡県警の一人(伊武雅刀)とが加わります。
 さあ、この移送は上手くいくでしょうか、……?

 護衛する価値がない殺人鬼を命をかけて護衛するという着想が面白く、また、同じ三池崇史監督の『十三人の刺客』のように、邦画にしては目を見張る大きなスケールであり、さらには大沢たかお以下の俳優陣が力一杯の演技を披露していて、とにかく最後までぐいぐい引込まれてしまいます(注1)。

 ですから、雑誌『シナリオ』6月号に掲載された「白鳥あかねの“気になる映画”~面白い映画とは~」において、脚本家の白鳥あかね氏と大石三知子氏が本作に対して、「凄く面白かった」、「これ日本映画の総力を挙げてって感じがしたよね、見応えがあって」、「これを観た時に、もうハリウッド映画はいらなくなるんじゃないかと思ったよ(笑い)、ほんとに」、「嬉しいのは、ハリウッドだけじゃないんだぜ、みたいな」というような手放しの礼賛を捧げていますが、その気持ちはよくわかります!

(2)しかしながら、この映画の基本的な設定は果たして現実に成立するのだろうか(注2)など、見ている途中からいろいろな疑問点が浮かんできてしまうのも事実です。

 例えば、単なる殺人事件の容疑者に過ぎない清丸について、どうして「国家の威信にかけても殺させてはならない」などと警察幹部が大言壮語し、さらには精鋭のSPまで付けるのでしょうか(他の事件の解明などで清丸の証言がなんとしてでも必要だというなら話は別でしょう。ですが、どうもそんな事情は見当たりません)?

 また、タイムリミットが「48時間」とされているところ、確かに検察への送検は身柄確保から48時間以内とされているものの(注3)、なにも清丸を殺せる機会は移送中だけに限られないのではないでしょうか(とにかく謝礼が10億円ですから、司法当局内部にも不埒な輩が多数現れるでしょう)?

 さらに、清丸は殺人事件での仮出所後に蜷川の孫を殺していて、死刑になる可能性がないわけではありませんから(注4)、わざわざ日本中を巻き込んで彼を殺させるまでもないのではと思われます(ただ、病気で余命短い自分の目の黒いうちに復讐を果たしたいと考えてのことかもしれませんが、それにしても)。
 なにより、本当に蜷川が清丸を早目に殺したいのであれば、腕の立つ殺し屋を10億円で雇った方が、こんな派手な大騒ぎを引き起こすよりもはるかに確実ではないかとも思われます。

 加えて、10億円の支払いも、蜷川による殺人教唆の上でのことですから、無効なものであり、仮に支払われても没収されると警察が宣言しさえすれば、誰も清丸に手をださなくなるのではとも思われます〔映画では、蜷川がその財力を使って、政府(警察を含めて)やマスコミを籠絡してしまったように描かれているところ、殺人が絡む重罪についてまでもそんなことが可能でしょうか〕。

 そこで、本作と同タイトルの原作木内一裕著、講談社文庫)ならばいろいろ書き込まれているに違いないのではと思って当たってみました。
 でも、例えば4番目の点につき、銘苅警部補の考えたことながら、「金はきちんと支払われるようになっているのだろう」、「事前に法の専門家達がありとあらゆる法の網をくぐる方法を十分に検討した上で始めたに違いないのだ」などと書かれているにすぎません(同書P.65)。
 酷く拍子抜けしてしまいました(注5)。

 あれやこれやは、この作品にとってどうでもいいことなのでしょう。そんなところに一々ツッコミを入れていたのでは物語が何も進行しませんから!
 とにかく、一方で、清丸を生きたまま48時間以内に検察に送検することが銘苅らに対する絶対の命令であり、他方で、その時間内に清丸を殺した者には10億円が支払われる、という枠組みで物語が出発進行するわけです!

 そして、ヴィジュアル的な効果を最大限に引き出すという観点から、原作に様々の改変が加えられ(注6)、映画的な工夫も凝らされていて、それらはかなりの程度成功しているように思われます(注7)。
 でも、ハリウッド越えとはそんなに素晴らしいことなんでしょうか、……(注8)?

(3)渡まち子氏は、「正義を自問しながら懸賞金10億円の凶悪犯を守るSPを描くクライム・サスペンス「藁の楯わらのたて」。国内外で大規模なロケを敢行した気合の入った映像が見ものだ」として65点を付けています。



(注1)例えば、大沢たかおは『終の信託』、岸谷五朗は『夜明けの街で』、伊武雅刀は『キツツキと雨』、永山絢斗は『ふがいない僕は空を見た』でそれぞれ見ています。




(注2)本文で取り上げた雑誌『シナリオ』6月号の対談では、「この映画のミソは、殺された少女のお祖父さんの山崎努さんが、大金持ちで犯人に10億円の懸賞金を掛けるところ。それがリアリティがあるんだよね」「良く出来てます」と言われているのですが。

(注3)刑事訴訟法第205条第1項

(注4)本作の原作には、「現在の法体系では、二つの幼い命を奪った卑劣な犯罪者を死刑にできない事は蜷川も十分承知していた」とか(同書P.12)、「二度目の殺人とは言っても前の刑期は務め上げている。再犯である事を考慮しても無期懲役までいくのかどうか銘刈にはわからない。だが、いずれにしても十年程で娑婆に戻って来るのは間違いないように思われる」と書かれています(P.21~P.22)。
 ですが、Wikipediaの記事には、「殺人・犯罪に対する厳罰化を求めるマスメディアの報道・世論の影響で、2人殺害にも死刑判決が数多く出されるようになり、更には、1人殺害の事件でも死刑判決が出されるケースが見られるようになった」として、「2009年の闇サイト殺人事件」が挙げられています(ただし、第一審判決ですが)。

(注5)尤も、原作には、「素人の」銘刈の考えが記載されています。
 すなわち、「清丸を殺した人間に蜷川は十億を払わないと宣言しておいて、家族に民事訴訟を起こさせる。「夫が殺人を犯したのは蜷川の広告のせいだ。損害賠償せよ」というような。その上で裁判の途中で和解する。和解金は十億円。和解が成立すれば裁判所は口出しできない。あきらかに茶番だが、法的にはどうする事もできないのではないだろうか。しかも、確か賠償金には税金がかからないのではなかったか」(P.65~P.66)。
 ただ、これも全くの「素人」考えですが、「清丸を殺した人間」の家族はそんな訴えをすることが出来ないのではないか(当事者ではないため)、仮に出来たとしても請求する損害賠償金額は10億円になるはずがないのではないか、そして請求金額を越える和解金などあり得ず、また、社会通念に反する多額の和解金について全額が非課税となることはないのではないか、とも思われます。

(注6)ネタバレになりすぎてしまうので、数ある中から一点だけ挙げてみると、白岩・巡査部長が原作では男性なのです。
 こうしたアクション物ではヒロインの活躍が必要ですから、女性のSPで構わないものの(『SP THE MOTION PICTURE』で真木よう子が出演していることもあり)、何もシングルマザーという設定にせずともいいのではないでしょうか(ラストシーンを感動的にするための工夫でしょうが、いかにもの感がしてしまいます)。

(注7)例えば、護送車やパトカーが数十台連なる中にタンクローリーが突っ込んできて、最後に仰向けにひっくりかえり、爆発炎上するという場面があります。

(注8)映画はそれぞれの国で培われてきた特性を追求すればいいのであって、カーアクションはアメリカ映画の特性ですから、ハリウッドに任せておけばいいのではと思えるところ、一体いつまでアメリカの物真似をしようというのでしょうか、などというのは余りに杓子定規な物言いかもしれませんが。



★★☆☆☆



象のロケット:藁の楯

カルテット!人生のオペラハウス

2013年05月08日 | 洋画(13年)
 『カルテット! 人生のオペラハウス』(注1)を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』(注2)に出演していたマギー・スミスの主演作というので映画館に足を運びました。

 舞台は、音楽界の一線から引退した音楽家たちが暮らす超高級老人ホーム「ビーチャム・ハウス」。逼迫するホーム運営資金を確保しようと、毎年コンサートを開催しています。
 それに向けて皆が練習に励んでいるものの、本年はお客を呼べる目玉がなかなか決まりません。
 そこに、著名なプリマ・ドンナだったジーンマギー・スミス)が新に入居してきたのですから、皆が色めき立ちます。



 でも、ジーンは、もう私は歌わないと出演を固辞します。
 加えて、既にその老人ホームに入居していたテノールのレジートム・コートネイ)は、ジーンと向かい合うことを避けようとします。というのも、彼は以前ジーンと結婚したものの、彼女の心ない行為によって傷つけられ離婚したことがあるため。
 にもかかわらず、コンサートのチケットの売れ行きが思わしくないため、何とかしなければと苦慮していたシィドリック(コンサートの監督:マイケル・ガンボン)は、ジーンとレジーの入った4重唱をコンサートの目玉にして客を呼ぼうと言い出します(注3)。
 さあ、そんなコンサートは成功するでしょうか、……?

 本作のストーリーは実に他愛ないものながら、ラストで4重唱を歌う4人のキャラクターが誠にうまく設定され、ユーモアもふんだんに醸し出され、さらに舞台となる老人ホームの環境も素晴らしく、実に楽しい映画の時間を過ごすことができました。

 また、映画の中心となる4人が皆70代(マギー・スミスは78歳!)で、初監督のダスティン・ホフマンも76歳と、まさに老人映画といえるものの(注4)、皆そんなことを感じさせない溌剌とした演技であり確実な演出で、アッという間の99分でした。




(2)「カルテット」と聞いてクマネズミが思い出す本は、昨年10月に87歳で亡くなった丸谷才一氏が書いた最後の長編小説『持ち重りする薔薇の花』(新潮社、2011年)。
 ただし、同作で取り扱われるのは、本作のような4重唱ではなく弦楽四重奏団です(注5)。
 とはいえ、「一体にクヮルテットの四人組といふのはみんな、あれだけすばらしいアンサンブルを見せながらしかし仲が悪く、よくメンバーが入れ替わるもの」と述べられていて(P.6)(注6)、本作のジーンとレジーの確執を彷彿とさせます。
 さらに、同作では、チェロ奏者の奥さんが家出をして、独身の第2ヴァイオリン奏者のもとに行ってしまったものの、10日後に何事もなかったように元の鞘に納まって、クヮルテットもそのまま存続したというエピソードが、実に愉快に綴られています〔「紫一色の虹が立つ」(P.176)〕。
 こんなところは、ジーンとマギーのその後に思いが至ります(注7)。

(3)また、本作を見ながら、高齢になっても、楽器の演奏の場合はそれほど衰えが見られないものの(音量は別かもしれませんが)、声楽の場合は体力等が失われているために、たとえ少人数の前であっても歌声を披露するのはなかなか難しいのではと思ったりしていました。
 ですが、見終わってから劇場用パンフレットを見ると、そこに掲載されている前島秀国氏のエッセイ「“真実”を奏でる本物の音楽家たち」には、本作に出演したギネス・ジョーンズについて、「極めつけが、撮影時(2011年)75歳とは思えぬ圧倒的な歌唱力を披露したガラコンサートの場面。そこで彼女が歌う「歌に生き恋に生き」は、いわば歌手の存在証明を代弁するようなアリアである」とか、「彼女に限らず、「ビーチャム・ハウス」の住人を演じる“本物の音楽家”たちは、すべて本編の中で実際に演奏を披露している」とあり、また、「本作を彩る主な曲目」と題したページには、「オペラ『トスカ』より「歌に生き恋に生き」/作曲:ジャコモ・プッチーニ/歌:デイム・ギネス・ジョーンズ」と記載されています。
 なるほどそうなのかといったところですが(注8)、これだけでは、あの歌声が昔のCDによるものではないかとの疑問が解消されないのではとも思いました(とはいえ、ざっとネットで調べたところ、ギネス・ジョーンズが同曲を歌ったCDは見当たりませんでした)。

(4)渡まち子氏は、「ホフマン監督75歳。同年代の役者や歌手を、敬意と愛情をもって見事に演出して、元気が出る作品を作ってくれた。老人映画とあなどることなかれ」と65点を付けています。




(注1)原題が「Quartet」ですから仕方ないものの、ことさら邦画の『カルテット!』と同じように「!」まで付けることはなかったのではないでしょうか?

(注2)同作をすでに映画館で見ていますが、クマネズミの怠慢により、エントリをアップするに至っておりません。

(注3)ソプラノのジーンとテノールのレジーの他に、バリトンのウィルフビリー・コノリー)とメゾソプラノのシシーポーリーン・コリンズ)。ウィルフは好色な年寄ですし、シシーは認知症気味ながらも可愛いらしいお婆さんといった感じです。

(注4)邦画で老人が大勢登場する作品として思いつくのは、とりあえず次の二つです。
イ)『デンデラ』(2011年)
 同作については、劇場では見逃しましたが、TSUTAYAでDVDを借りてきて見てみました。
 物語は、姥捨て山に捨てられた老女たち50人ほどが、そのまま死なずに生き残って、自分らを捨てた村の人々に対して復讐を企てるものの、……というもので、本作の出演者は、浅丘ルリ子(71歳)、倍賞美津子(65歳)、山本陽子(69歳)、草笛光子(78歳)、山口果林(64歳)、白川和子(64歳)等々といったところです(年齢はすべて2011年当時―1歳くらいのズレがあるかもしれません)。

ロ)『黄金花』(2009年)
 同作については、当時91歳の木村威夫氏が監督として制作し、老人ホームを舞台とする作品で、出演者も、原田芳雄(69歳)、川津佑介(74歳)、三條美紀(81歳)、松原智恵子(64歳)、絵沢萠子(70歳)、長門裕之(75歳)等といった具合です(年齢はすべて2009年当時―1歳くらいのズレがあるかもしれません)。

(注5)同作では、財閥系の大企業の名誉会長であり、経団連の前々会長である梶井玄二が、小説家の野原に対し、「ブルー・フジ・クヮルテット」について面白いエピソードを語り聞かせるという構図が取られています。

(注6)同作では、さらに例えば、「世界中、どのクヮルテットも、四人がいっしょに微笑するのはCD用とかポスター用の写真を撮るときだけ、なんて言われているらしい」とか(P.8)、「世界中どこでも、一流クヮルテットになると、四人がお互ひ仲が悪くて、ステージから降りると口もきかない、食事もいっしょにしないといふ噂をよく聞きます」とか述べられています(P.9)。

(注7)レジーが、自分に対するマギーの思いを盗み聞きし、それまでの恨みを払しょくしてもう一度やり直そうと彼女の手を握り締めます。
 ただ、そうは言っても、あれだけ気位の高いマギーが、そう簡単にこれまでの生き方を変えてレジーに寄り添うようになるとも思えないのですが!

(注8)さらに、この記事によれば、「66歳~87歳の女性32人が参加するコーラスグループ」が存在するとのこと。




★★★★☆



象のロケット:カルテット! 人生のオペラハウス

ハッシュパピー

2013年05月06日 | 洋画(13年)
 『ハッシュパピー バスタブ島の少女』を渋谷のシネマライズで見ました。

(1)カンヌ国際映画祭やアカデミー賞などで高く評価されたということで映画館に行ってみました。

 本作は、水没の危機に瀕した島で暮らす父娘の物語です。
 主役は、6歳の女の子のハッシュパピー。ママは、彼女が生まれるとすぐ立ち去ってしまい、そらからは酒飲みで体調を崩しているパパと一緒にバスタブ島で暮らしています。



 水没の危険があるということで、島にいた住民の大半は移住してしまいましたが、今でもわずかの住民が暮らしていて、時々学校の先生もボートでやってきます(注1)。
 そんな暮らしが、ある夜、ものすごい嵐がやってきて破壊されてしまいます。
 この父娘は一体どうなってしまうでしょうか、……?

 本作では、次第に水没しつつある島という厳しい現実が描かれますが、かなりファンタジックな映像が沢山出てきて(なにしろ、ラスコーの洞窟の壁画に描かれ現在は絶滅しているオーロックスという牛が登場するのですから!)、全体が現代のお伽噺になっているように思われます。ハッシュパピーの父親はどうやって所得を得ているのだろうかなどといった下世話なことを言い出さないで、彼女の奮闘振りを楽しめばいいのかなと思います。




 主役のハッシュパピーを演じたクヮヴェンジャネ・ウォレスは、史上最年少で主演女優賞にノミネートされただけあって、可愛さを売り物にするでもなく、また大人顔負けの演技を披露するわけではないものの(日本の売れっ子の子役によく見られるそうした嫌みが全くありません)、際だった存在感を醸しだしていて、さすが大した少女です。

(2)見る前に余り情報を持っていなかったものですから、物語の舞台は、地球温暖化現象によって水没しかかっているどこか太平洋の島々の一つかなと思っていたところ(注2)、島の遠景に大きな石油コンビナートが映し出されたり、登場人物が皆英語を話したりしていることから、アメリカ南部海岸らしいと朧気に分かってきます。
 ただ、南極や北極の氷壁が溶けて海に落ち込む映像が何回か挿入されたりしますから、島はやはり地球温暖化によって水没しかかっているように見えます。
 でも、アメリカ南部の海岸は、むしろ地球温暖化とは直接関係のない石油の採掘の進展などといった要因によって地盤が沈下している面もあるのではないでしょうか(注3)?

 よくわからなかったのは、どこら辺りに堤防が設けられているのかという点です。
 最初は、劇場用パンフレットの表紙に描かれている地図に記載されている点線が堤防の位置なのかなと思いました。
 ですが、そうだとしたら、地図に描かれているバスタブ島はその堤防の外側に位置しますから、嵐によって島が水没してしまうことはないのではないかという気がします(嵐によって引き起こされた高潮によって水没するかもしれませんが、それは一時的のはずで、暫くしたら水は自然に引くのではないでしょうか)。

 それに、ハッシュパピーの父親などが、決死の覚悟で堤防を爆破したら、どんどん水が引いてしまいました。ということは、堤防は、島よりもっと海の中に設けられているはずです。
 なんのために?島を水没から守るために?
 でも、襲ってきたのが猛烈な嵐だとしても(注4)、それによって水没してしまうような堤防なら、設けても意味がないのではないでしょうか?
 なんだかクマネズミには、ここらあたりに干拓地を作ろうとする事業によって(さらに石油コンビナートを拡大するためでしょうか)、島民が追い立てを食らっているようにしか思えませんでした。

 まあ、仮にそうだとしても、現代文明の進展によって、ハッシュパピーら島民による従来からの生活が破壊されるという構図は何も変わりませんが(注5)。
 とはいえ、本作はそんなエコロジー的な面よりも、むしろ、一人の小さな少女が父親の死を乗り越えて世界に立ち向かっていく成長譚と見てはどうかなと思いました(注6)。

(3)渡まち子氏は、「荒々しいカメラワークと繊細な音楽の対比も絶妙。絶望的な世界に屹立する小さなヒロインの雄雄しいシルエットと、心優しい野獣がおこした奇跡の神話は、生命力そのもの。心揺さぶる傑作だ」として90点もの高得点を付けています。
 また、前田有一氏は、「みる人を相当選ぶとは思うが、共感できる人は即お気に入りになるタイプの映画。もしあなたがその一人だと思うならば、ある程度作品世界を予習したうえで、思い切って見に行ってみてはどうか」として60点を付けています。



(注1)初めのうちは、ハッシュパピーらがなんだか森の中で原始生活を営んでいるような感じにもなりますが、例えば、父親が病院のリストバンドを付けたまま戻ってきたところからすれば、近くに現代の病院は設けられているようです。
 また、父親は、ハッシュパピーを連れて水路に入って、魚の捕り方を教えたりしますが、その際に使用するボート(何かの大きな箱を代用したもの)には、ちゃんとエンジンが付けられています(どうやって燃料を得ているのでしょう?)。

(注2)よく取り上げられるのはツバルですが、その地盤沈下の原因は、地球温暖化だけではなさそうです(例えば、このサイトの記事を参照)。

(注3)例えば、このサイトの記事によれば、「ニューオーリンズ市内の約80%のエリアは、海抜ゼロメートル地域であった。しかも、メキシコ湾での石油の採掘などが影響し、70年代から一貫して地盤が沈下しており、水害の危険性は非常に高かった」とのこと(P.3)。
 また、このサイトの記事によれば、「ルイジアナ南部の湿地消失量の約10%は,メキシコ湾沿海部における石油やガス探査や採掘用の人口運河ネットワークの開削に起因すると推定されている」とのこと(P.28)。

(注4)2005年にルイジアナ州ニューオーリンズ市を襲ったハリケーン・カトリーナのようなものすごい嵐だったのでしょうか(死者が1500人以上)。

(注5)堤防を爆破したことによって水が引いた島で暮らしていたハッシュパピーらは、強制的に立ち退かされて収容所に連れて行かれ、それどころか父親は、医師の診察で緊急の手術が必要だと、ベッドに寝かしつけられてチューブを取り付けられます。しかし、彼らはそんな収容所を脱出して元の島に戻ってしまうのです。
 こんなところは、本作の反現代文明的な立場によっているのでしょうが、それにしても、死んでしまった父親を、インドのガンジス川でよくみかけるような火葬にわざわざ付すこともないのではないでしょうか(父親の遺骸を積んだボートは、堤防で堰き止められた水路の中をどこに行き着くというのでしょうか)?

(注6)それも、決して一本調子ではなく、逃げ去ってしまったママを追い求める場面が何度も出てきます。最後には、ハッシュパピーは、仲間たちと一緒に、女たちがたくさんいるナマズ料理を出す店に行き着きます。ママらしそうな女が、彼女にワニ料理を出してくれますが、「あたしとパパの面倒を見てくれない」と頼むと、「あなたのパパを知らないから」と断られるものの、ハッシュパピーは思い切り抱いてもらいます(「ママに抱っこされた数を覚えている」などと言いながら)。
 それで吹っ切れたのでしょう、その店から戻る途中、巨大なオーロックスに追いかけられますが、ハッシュパピーはそれに立ち向かい、「あんたたちはヒマね、あたしは家族を守らなくちゃ」と言ってのけます。すると、オーロックスの方も立ち去ってしまいます(オーロックスは、ハッシュパピーの前に立ち塞がる厳しい現実を象徴しているのでしょう)。



★★★☆☆



象のロケット:ハッシュパピー