映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

Zアイランド

2015年05月29日 | 邦画(15年)
 『Zアイランド』を新宿の角川シネマで見ました。

(1)哀川翔(注1)の芸能生活30周年記念作品(注2)を品川ヒロシ(注3)が制作したということで(注4)、映画館に行ってきました。

 本作(注5)の冒頭では、宗形組組長(哀川翔)らが高級クラブから出てきたところを、敵対する竹下組の反町木村祐一)らに襲われ、無傷だった武史鶴見辰吾)は、反町らに復讐するものの警察に捕まり、刑務所に。

 次いで時点は10年後。
 10年前に、銃で数発撃たれただけでなく短刀で刺されもした宗形ながら、今ではカタギとなって、かつての仲間とともに運送業を営んでいます。
 そこに、刑務所から武史が戻ってきて、世話になっているはずの娘の日向山本舞香)を探します。ですが、日向は家出をしたとのこと。
 それで、宗形や武史らは、日向が行ったという銭荷島(注6)に向かいます。

 他方で、反町らの竹下組の者も、クスリを持ち逃げした吉田宮川大輔)を捕まえるべく、銭荷島に。

 ところが、その銭荷島では大変な事態が持ち上がっているのです。
 さあ、それはどんなことなのでしょうか、………?

 本作での哀川翔は、今はカタギの生活をしている元親分。出所してきた子分の娘が家出したため皆で探しに行くと、娘が行った先の島ではゾンビが出没。全体として、ゾンビ物(注7)とヤクザ物とが一体化した映画の中で、哀川翔は、ゾンビばかりか、親分時代の抗争相手だったヤクザらをも縦横になぎ倒すという無敵の活躍振りを見せます(注8)。

(2)哀川翔は、ゼブラーマンや昆虫探偵を演じるのも構わないとはいえ、やはり本領はヤクザ物にあり、『25 NJYU-GO』では専らピストルが使われましたが(注9)、本作では、日本刀を振り回したりハーレーダヴィットソンに乗ったりするのですから、格好良さが倍加されます。



 対するゾンビですが、銭荷島でゾンビ第1号となる吉田に扮する宮川大輔が秀逸です。
 NTVの「世界の果てまでイッテQ!」で披露される“お祭り男”宮川大輔ならではの凄さで(注10)、映画を盛り上げます。



 それに、宗形とラストで相まみえる反町役の木村祐一も、アクションシーンは初めてとのことながら(注11)なかなかの貫禄であり、今後こうした方面での活躍も期待されます。



 本作は、登場人物たちが皆次々と「絶海の孤島」(注12)のはずの銭荷島に集まってしまうなどという超ご都合主義的なところ(注13)が見られるとはいえ、本作の主眼がヤクザとゾンビの対決にあるのですから、そんなことはどうでもよく、数多いアクションシーンを愉しめばいいのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「孤島を舞台にヤクザたちが謎の感染者と戦う和製ゾンビ映画「Zアイランド」。群像劇、クロスオーバーのジャンルものとしてよくまとまっている」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「品川ヒロシ監督の「Zアイランド」は、なるほど、映画好きの監督らしいよく研究された娯楽映画であった」として70点をつけています。



(注1)最近見た哀川翔出演作については、本ブログのこのエントリの(3)をご覧ください。

(注2)本作もそうですが、「東映Vシネマ25周年記念」の『25 NJYU-GO』(2014年)とか、「映画デビュー25周年」の『ゼブラーマン―ゼブラシティの逆襲―』(2010年)、「主演作100本目」の『ゼブラーマン』(2003年)という具合に(ちなみに、本作は、哀川翔の「111本」目の主演映画)、哀川翔の映画には、節目を表すキャッチコピーがしばしば付けられます。

(注3)品川ヒロシの監督作品は、『ドロップ』(2009年)、『漫才ギャング』(2011年)、そして『サンブンノイチ』(2014年)を見ました。

(注4)本作は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事で哀川翔が述べているところによれば、映画『サンブンノイチ』に出演した折、彼が、「俺の30周年映画を取ってくれよ」と「軽いノリ」で頼んだところ、品川監督も、「分かりました。すぐやります」と受けてやりたい放題のことを詰め込んだ脚本を書いて云々という経緯を持っています。
 なお、こうした経緯については、本ブログのこのエントリの「注8」で若干ながら触れています。
 また、この記事によれば、続編の準備も図られているようです。

(注5)本作の監督・脚本は品川ヒロシ。
 上映時間は109分。

(注6)その島は、以前、武史と鈴木砂羽)と娘の日向とで家族旅行をしたことがある思い出の島。
 なお、タイトルの「Zアイランド」は、「銭荷島→Zeni-island→Zアイランド」ということと、「Zombieの島」という意味があるのでしょう。

(注7)これまでゾンビ物は余り見ませんでしたが、最近では『ワールド・ウォーZ』を見ました。
 なお、本作の医師のしげる風間俊介)は、「ウィルス型のゾンビは速いが、薬品型のゾンビは遅い」などと薀蓄を垂れますが、確かに、『ワールド・ウォーZ』のゾンビはウィルス感染で数が急増し、なおかつものすごい速さで走りますから、あるいはあたっているのでしょう。

(注8)出演者の内、鶴見辰吾は『バンクーバーの朝日』、木村祐一は『ジャッジ!』、風間俊介は『鈴木先生』、銭荷島駐在の警察官役の窪塚洋介は『TOKYO TRIBE』、竹下組の中で反町に対立する木山に扮する中野英雄は『謝罪の王様』、竹下組組長役の小沢仁志は『25 NJYU-GO』で、それぞれ見ました。

(注9)『25 NJYU-GO』では刑事に扮しているとはいえ、温水洋一が横領した金を奪い取ろうとする悪徳刑事なのですから、ヤクザ物の変形ではないかと思います。

(注10)なにしろ、ものすごい速さで、自転車に乗って逃げる医師のしげるを追いかけたりするのですから!この点からすると、ゾンビの吉田はウィルス型と言えそうですが、映画では薬品を飲むことでゾンビになっています(劇場用パンフレットの「PRODUCTION NOTES」では「ハイブリッドゾンビ」とされています。)。

(注11)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事で哀川翔が述べています(問13の答)。

(注12)本作の公式サイトの「Introduction」に、「絶海の孤島を舞台にした、後戻りなしの超絶アクション・エンタテインメント」とあります。

(注13)例えば、吉田がなぜそんな「絶海の孤島」くんだりまで出向いたのかが不明ですし〔一応、愛人の篠原ゆき子)の故郷とされていますが〕、また宗形は10年前の襲撃で足の神経をやられているはずにもかかわらず、大体において普通の歩き方をしていたりします。



★★★★☆☆



象のロケット:Zアイランド

あの日の声を探して

2015年05月26日 | 洋画(15年)
 『あの日の声を探して』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て興味を惹かれ、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、1996年に第1次チェチェン紛争は終結したものの、1999年8月モスクワでテロ事件が起きたことをきっかけに第2次チェチェン紛争が勃発したと説明され、1999年10月16日と日付のついたビデオ映像が画面の中に映しだされます。
 「牛が死んでいる」「家が燃えている」「大したことは起きていない」「戦争のあとなんだから」など、撮影しているロシア兵の声が。
 次いで、「何かやっている」「見てみよう」との声が入り、「テロリストを捕まえたところ。敵の精鋭だ」と言う兵士に対し、捕まった男は「農民です」と答え、さらに兵士が「狙撃兵だろ?白状しな」と言と、男が祈る仕草をするものですから、兵士は「バカにしてんのか?祈っても、お前の神なんか関係ない」と怒り、その男を銃で撃ち殺してしまいます。すると、その男の妻が泣き叫んで死体に取りすがるものですから、兵士はその妻も撃ちます。
 そばにいた娘・ライッサが「ママ!」と泣き叫びます。
 ビデオ映像は、「作戦は大成功です」といった声で終了し、タイトルクレジット。

 画面は通常のものとなって、小さな家の窓から、赤ん坊を抱えながら幼いハジが外を見ています。まさに、ハジの父親と母親が撃ち殺されたところ。



 ハジは、家の中を捜索しに来た兵士を隠れてやり過ごした後、荷物をリュックに詰めて背負い家を出ます。
 さあ、赤ん坊を抱えたハジは、これからどうするのでしょうか、………?

 本作で描かれるのは、1999年の第2次チェチェン紛争。具体的には、両親を目の前でロシア兵に殺されたショックで声を失った少年ハジとその姉ライッサ、ハジを引き取って暮らそうとする欧州人権委員会(注2)の職員・キャロルベレニス・ベジョ)、さらにロシア軍に半ば強制的に入隊させられたコーリャが主な登場人物。一般人、特に年若い者や女子供の境遇を否応なく変えてしまう戦争の悲惨さ・理不尽さが克明に描かれていて、衝撃を受けます。

(2)本作を見ながら、しきりと『アメリカン・スナイパー』が思い出されました。
 まず、様々な前史があるとはいえ、当時のプーチン首相がチェチェンにロシア軍を派遣することとしたのは、本作の冒頭で言われるようにモスクワにおけるテロ事件が直接的な原因とされていて、これはある意味では、ブッシュ・元米国大統領が、『アメリカン・スナオパー』で描かれるイラク戦争に踏み切ったのが同時多発テロとされている事情に類似しているように思われます。

 また、『アメリカン・スナイパー』の主人公クリスは志願兵であるのに対し、本作のコーリャはやむなく軍隊に入ってしまったという違いこそあれ(注3)、二人は、非合理的な訓練を施された上で、前線に送られます(注4)。



 さらに、両人とも、自国内ではなく他国(注5)に派遣されて、そこの住民たちと戦争をすることになり、敵の狙撃兵による犠牲者が仲間内に何人も出るようになります。『アメリカン・スナイパー』の場合、クリスは、手強い敵の狙撃兵を射殺することに成功しますが、本作の場合は、避難せずに市内に残っている男は狙撃兵に違いないということで、捕らえた住民の男をちょっとしたことで殺してしまいます。

 とはいえ、『アメリカン・スナイパー』にあっては、全編、狙撃兵クリスの視点から映画が制作されているのに対して、本作でハジやライッサが登場する場面は、クリスの狙撃用ライフルの照準の向こうにいる少年の側から戦争を見ていることに相当するでしょう。
 それで、『アメリカン・スナイパー』は、同作についてのエントリでも申し上げましたが、「戦争アクション物、あるいは一種の西部劇」として楽しめるのに対し、本作からは、戦争の悲惨さ・理不尽さを痛いほど感じることになります(注6)。

 もう一つ本作を見て印象に残った点を挙げるとすれば、言葉の問題でしょう。
 ハジとその姉イリッサはチェチェン語、コーリャはロシア語、欧州人権委員会のキャロルはフランス語、赤十字のヘレンアネット・ベニング)は英語というように、映画の中では様々な言語が飛び交います。
 冒頭で、ロシア兵がハジの両親を撃ち殺してしまいますが、そうなったのも様々な要因があるにせよ、言葉がお互いにうまく通じなかったことも大きかったのではと思いました。

 ただ、よくわからなかったのは、チェチェンからの避難民たちに事情聴取をする場合、ヘレンもキャロルも通訳を介しているのに対して、チェチェン人であるハジやライッサに対し、彼女らは直接話を聞こうとしていることです。



 それでもライッサは、映画の中で、米国に行きたかったから英語を勉強したと言っているので、ヘレンと意思疎通ができてもおかしくないとはいえ(注7)、ハジに対してキャロルはいきなりフランス語で様々な質問を浴びせかけるのです。
 本作でハジは、両親の射殺というこの上ない悲惨な目に遭って声を失ったとされていますから、どんな言葉で対応しようと事態に変化はないかもしれません。ですが、お互いの意思疎通の困難さを、言葉の違いが一層助長しているのでは、と思えてしまいます。

(3)渡まち子氏は、「チェチェンを舞台に声を失くした少年とEU職員との交流を描くヒューマンドラマ「あの日の声を探して」。手持ちカメラの粗い映像が殺伐とした戦争のリアルな狂気を体感させる」として65点をつけています。
 佐藤忠男氏は、「主役の少年を演じるアブドゥル・カリム・ママツイエフが実にうまい。ちょっとした表情一つにも、彼の切ない心の内を想像して見ていて涙ぐんでしまう。この子を助けるフランス人のEU職員キャロルを演じるベレニス・ベジョも好演だが、いちばん印象に残るのは難民の群れの集団演技だ」と述べています。
 谷岡雅樹氏は、「本作は、戦争を止めさせろという主張の最も効果的な二一世紀の金字塔映画だ」と述べています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「ハジ役のママツイエフは、演技経験のない本当のチェチェンの少年だ。横を通り過ぎる戦車の圧迫感に怯え、 一人残された心細さに震える姿は演技とは思えない。それがキャロルと出会い、きつく結んでいた口元を徐々に緩める。一方、コーリャは人間性を失っていく。そぎ落とされ、鋭くなるほおが象徴的だ。対立関係にある2人に、戦争の異なる悲劇を体現させたアザナビシウス監督の手腕が見事で、心を揺さぶられた」と述べています。



(注1)監督は、『アーティスト』のミシェル・アザナヴィシウス
 原題は「The Search」。

(注2)本作の公式サイトの「INTRO&STORY」では、「フランスから調査に来たEU職員のキャロル」とされていますが、EUに加盟していないロシア(その中のチェチェン)になぜ「EU職員」が調査に訪れるのかよくわかりません。
 推測ですが、キャロルは、ロシアも加盟している「欧州評議会」の下部組織の「人権委員会」に所属する職員なのではないでしょうか?

(注3)コーリャは、たばこを吸っているところを警官に見つかり、署に連行され、年齢を尋ねられ「19」と答えると、「若いな、善処してやる」と言われ、とどのつまりは軍隊に入ることになってしまいます。

(注4)実のところは、クリス・カイルが受けたものは、特殊部隊SEALに入るための過酷な訓練であって、彼はそれを前向きに捉えて克服するのですが、他方、本作のコーリャの受けた訓練は、旧日本軍において新兵に対して古参兵が行っていた陰湿な苛めを彷彿とさせるものです。

(注5)チェチェン共和国はロシア連邦の一員ですが。

(注6)本作のミシェル・アザナヴィシウス監督は、このインタビュー記事の中で、「戦争というものが起こった時には、誰が戦争によって得をしたか、勝利したか、そういったものはなく、全ての人間が被害者だと思っています。そして、そのような危機的状況の中では、人間の本性である良い面も悪い面も浮き彫りにされていく状況だと思います」云々と述べています。

(注7)住んでいたチェチェンの寒村でライッサが英語を簡単に学習できたのか疑問に思えるのですが、それはまあどうでもいいことでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:あの日の声を探して

イタリアは呼んでいる

2015年05月22日 | 洋画(15年)
 『イタリアは呼んでいる』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)気楽な御当地物ではないかと思って、映画館を覗いてみました。

 本作(注1)の冒頭は、親友のロブロブ・ブライドン)からの電話を受けるスティーヴスティーヴ・クーガン:注2)。電話の内容は、オブザーバー紙からグルメ取材の話があるとのこと。
 ロブは、「イタリアだ!良いワイン、いい女」「月曜日から」と言っています。

 次の場面では、早くも、二人の中年男(注3)が乗るミニ・クーパーがイタリアを走っています。



 ロブが、「刺激的なレストランに行く。音楽もi-podに入れてきた。イタリア・オペラとかウェールズの音楽を入れてきた。トム・ジョーンズも。僕は、トムと体型がそっくりなんだ」と言うと、スティーヴは「お前のカラオケ好きは御免だよ」と応じます。
 さあ、これからの二人のイタリア旅行はどんな塩梅になるのでしょうか。………?

 本作は、風光明媚なイタリアの名所旧跡やら美味しいイタリア料理を紹介しながら、お固いイギリス男性と奔放なイタリア女性との恋物語が綴られるお定まりの映画かなと思っていたところ、確かに、綺麗なイタリアの景色は映しだされ、イタリア料理もふんだんに紹介され、恋物語もあるにはあるのですが、そんなことよりなにより、登場する二人のイギリス人俳優のお喋りのものすごさに圧倒されまくりの映画でした。

(2)なにしろ、一方で、バイロンシェリーの詩が飛び出すかと思えば(注4)、他方で、『悪魔をやっつけろ』のハンフリー・ボガートや『ゴッドファーザー』のアル・パチーノなどたくさんの映画俳優のモノマネで会話が進められるという具合(注5)。



 英語が堪能で、なおかつ洋画に詳しければ詳しいほど、この映画を楽しむことができるでしょう!

 本作において、スティーヴとロブはイギリスの人気コメディアンで俳優とされていますが、二人は実際にもそのとおりであり、役名も実際のものが使われています(注6)。
 その上、劇場用パンフレットの「解説」では、「(本作には)脚本は存在せず、(監督の)ウィンターボトムが書いた大まかなシノプスに沿って、クーガンと(ロブ・)ブライドンが即興で演じ」たと書かれています。驚きました。

 日本で言えば、さしずめ『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八コンビの現代版といったところかもしれません。例えば、二人をタモリタケシが演じて(注7)、『奥の細道』や『赤光』を携えて、山形市の立石寺とか上山市の斎藤茂吉記念館とかを訪れながら、国道13号線(昔の羽州街道)を福島から秋田方面に向かって走るというプロジェクトはどうでしょう?少なくとも、宿泊地(温泉)と食べ物には何の問題もないでしょう。

(3)フリーライターのりんたいこ氏は、「ときには、2人が人生について考えたり、感傷的になったりする場面もあるが、おおむね彼らの軽妙洒脱な会話が楽しめる愉快な仕上がりだ」と述べています。



(注1)監督は、マイケル・ウィンターボトム
 原題は、『The Trip to Italy』、上映時間108分。

(注2)スティーヴ・クーガンは、『あなたを抱きしめる日まで』で初めて見ました。

(注3)海に面したレストランを訪れた際、二人は、「若い者は俺たちを無視している」「海を見よう、自然は俺たちを拒まない」などと話します。

(注4)本作で二人は、ジェノヴァでバイロンの旧居を、そしてレーリチシェリーの旧居を訪れています(バイロンとシェリーとは付き合いがありました。なお、シェリーは1822年にレーリチで暴風雨に遭って死んでいます)。

(注5)二人がどんな映画や俳優を持ちだしているのかについては、劇場用パンフレットに掲載の「『イタリアは呼んでいる』をもっと楽しむための手引き」に詳しく書かれています。
 同記事によれば、本作では、1953年の『ローマの休日』から2012年の『ダークナイトライジング』までが引用されています。

(注6)劇場用パンフレットには、「アカデミー賞脚色賞にノミネートされた才人スティーヴ・クーガンと、自身の名を冠したTVバラエティーで知られるロブ・ブライドン。それぞれが本人を演じているのですが、映画の中の人物設定と実人生との微妙な重なり合いがミソ」と述べられています。

(注7)ただ、この二人では歳が行き過ぎて『龍三と七人の子分たち』と同じ雰囲気になりかねません。
 やはり、本作と同じように50歳くらいの俳優を使うということになると、例えば、阿部寛堤真一のコンビも考えられるかもしれません(とはいえ、映画に対する造詣の深さとかモノマネということになると、どうでしょうか?)。



★★★☆☆☆



象のロケット:イタリアは呼んでいる

セッション

2015年05月19日 | 洋画(15年)
 『セッション』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)アカデミー賞作品賞などにノミネートされ、結果としては、助演男優賞(J・K・シモンズ)、脚色賞、編集賞を獲得した作品ということで、映画館に出向きました。

 本作(注1)の冒頭では、主人公のアンドリュー・ニーマン(19歳:マイルズ・テラー)が、ピアノなどが置かれている練習室で独りでドラムを叩いています。ドラムを叩くのが速くなるに従って、カメラもニーマンに接近していきます。



 突然、鬼教師として知られるフレッチャーJ・K・シモンズ)が部屋に入ってきます。黒のTシャツから黒の靴まで黒尽くめ。
 ニーマンは、「失礼」と言って、ドラムを叩くのを止めます。
 フレッチャーは、「かまわんよ。そのままで」と言いながら、コート掛にかかっているコートをとります。
 それからニーマンに向かって、「名前は?」、「何をしている?」、「私を知ってるか?」と矢継ぎ早に質問を浴びせ、ニーマンは、自分の名前と、まだ1年目ながらフレッチャーのことは知っている、と答えると、さらにフレッチャーは、「私が何をしているのかわかる?」、「知っての通り、私はプレイヤーを探している」、「わかっているなら、どうして演奏を止めるんだ?」と問い詰めます。
 そこでニーマンは、再びドラムを叩き始めますが、フレッチャーが、「もう一度叩けと言ったか?」と言うので叩くのを止めると、フレッチャーは「私は、どうして演奏を止めたのかと訊いたのだ。君の答え方は、猿も同然の応答だ」と突き放します。
 ニーマンがしどろもどろになると、フレッチャーは「基本をやってご覧」と求め、ニーマンがそれに応じてドラムを叩き始めると、さらに「倍のテンポで」と求め、ニーマンが一生懸命叩いていると、フレッチャーは部屋を出て行ってしまいます。

 これがニーマンとフレッチャーの最初の出会いですが、さあこれから一体どのように二人の関係は展開するのでしょうか………?

 本作は、若きドラマーと名門音楽大学の鬼教師との息詰まる師弟関係を描いた作品。すでにアチコチで言われていることながら、ラストの9分19秒の映像は圧倒的であり、またそこに至る盛り上げ方も素晴らしいものがあります。ただ、これもよく言われていることですが、本来自由なお楽しみであるはずの音楽(特に、ジャズは即興演奏が要でしょう)にもかかわらず、あれほどの統制を加える音楽授業というのはどんなものかな、という疑問は残りますが。

(2)本作については、よく知られているように、ジャズ・ミュージシャンである菊地成孔氏と映画評論家の町山智浩氏との間で論争が持ち上がっています(注2)。
 しかしながら、この論争、当初のやりとり(注3)だけでおしまいとはならず、実際には現在も進行中のような感じです。
 なにしろ、町山氏が、菊地氏の最初の記事について9項目に要約したところ、菊地氏のエントリ(4月19日)で、「(要約の項目として)「この映画は最初に一発キツいのを入れるだけのワンパン映画である」を入れて下さると有り難い」、「あれは単なる趣向を超えた、あの文章の核心に迫る重要な事(なので)」と言われてしまい、早速次の記事(4月22日)で町山氏が、「(菊地氏は)「『セッション』は強烈なパンチだけで、ラヴ(愛)がない」と言っている。そこが本当のポイントだったのだ」と応答すると(注4)、それに応じたエントリ(4月28日)において、「その通りですよ」などと肯定しながらも、まだ延長戦があるようにその後の記事で書いてもいるのです(注5)。

 ですから、このサイトの記事などのように、全体を鳥瞰して第三者的なところから評価を下すということは、まだとてもできそうにありません(注6)。
 そこで、この論争には深入りせずに、一介の「ジャズ素人」として、本作についての簡単な感想を申し上げれば、
・可能な限り速く正確に演奏できることが立派な音楽家になるための必須条件だとは、とても思えないところです。それで良ければ、人間ではなくマシンに演奏させれば条件にかなうわけですから。

・フレッチャー教授は、人間業を超えたところまでニーマンを引き上げようとしていますが、その前にニーマンは人間として壊れてしまうのではないでしょうか(注7)?そんな壊れてしまった人間が演奏する音楽に、人は感動しないものと思います。

・それに、シェイファー音楽院でフレッチャー教授が教えているジャズは、なんだか昔ながらのオーケストラによるもので(注8)、古色蒼然としているのではないでしょうか(注9)?



・そんなこんなを考え合わせると、本作は、ジャズをめぐるリアルなお話というよりも、途方もないファンタジーと捉えた方がいいのではと思えてきます(注10)。その上での鬼教師と生徒の間でのスポ根物語ではないでしょうか?

・ただそう捉えても、ラストの場面では、フレッチャーがニーマンを葬り去ろうとまでするのですからちょっとおかしい感じはします(注11)。ですが、フレッチャーとしては、そんな状況をもニーマンに超えさせたかったのだと観客に思わせるほど、ラストの盛り上がりは素晴らしいものがあります。

・ラストシーンでの演奏が機械的に過ぎ、ジャズとしてどうしようもないシロモノだとしても(注12)、なんであっても、とにかくニーマンは、目標と思われるものを達成したように描かれているのですから、スポ根ファンタジーとしたら、それだけで十分なような気がします(注13)。

(3)渡まち子氏は、「地味な脇役だったJ・K・シモンズはオスカー受賞も納得の怪演、ほとんどドラム演奏経験がないマイルズ・テイラーの熱演も見事。何より1985年生まれの若き監督デイミアン・チャゼルの剛腕に驚かされた秀作だ」として75点をつけています。
 前田有一氏は、「85年生まれのデイミアン・チャゼル監督はまだ30歳だが、とんでもない傑作を叩き出したものだ。ドラマーを目指していた自らの体験をもとに、鬼教師とそれにくらいつく若者の異様な人間関係を、見たこともない緊張感と不穏さでまとめあげた」として98点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「これまで多くの師弟関係を描く映画が知らぬ顔で通り過ぎた“嫉妬”に目を向けた脚本が新鮮だ」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「この映画では、追いつめる者と追いつめられる者が途中から戦い始める。報復もあり、わなもある。それが、題名通りの異様な「セッション」となっていく。音楽映画というジャンルからは想像できないスリルとサスペンス、そして恐怖。予想を裏切る展開が、実に面白い」と述べています。



(注1)監督はデイミアン・チャゼル
 原題は「Whiplash」。
 なお、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「すべては「緊張感の持続」のために」で宇野維正氏は、Whiplashには「むち打つこと」という意味があり、本作中で何度も演奏される楽曲名であり、さらにその作曲者のハンク・レヴィは「生徒にハードワークを強いることで知られ」る大学教師であって、なおかつ本作のストーリーラインが「“むちで打たれた”ように変な角度で曲がっていく」と述べています。
 また、本文の下記(2)で触れる菊地氏は、「(原題の)「WHIPLASH」は、SM映画やSM小説を英語で嗜む方には御存知「鞭の先端(しなって打ち付ける部分。因に握り手は<GRIP>)」という意味」だと述べています〔こちらのエントリ(4月8日)〕。

(注2)なお、このURLでは宇多丸氏の論評を聞くことができます。
 同氏は、その中で、特にニーマン(同氏は彼のことを「ちょいブサイクなポール・ニューマン」と呼んでいます)の父親(ポール・ライザー)が、映画館でニーマンに「別の道があるよ」「勝つことだけが人生じゃないよ」と言ったことに注目しています。すなわち、宇多丸氏は、父親はこちら側の健全な社会を代表していて、向こう側の狂気の世界に入り込んで「悪魔と契約」してしまった息子を、舞台のドアの隙間から諦めの表情で見ている、と述べているのです。

(注3)当初の、菊地成孔氏のブログ記事はこちら(4月8日)で、町山智浩氏のブログ記事はこちら(4月17日)。

(注4)菊地氏のこのエントリ(4月22日)でも、町山氏の「要約」について、「そいでもって出ました必殺技、「彼の言い分を要約するならば、こういう事です」とかいって、自分が都合悪い所は削除して(笑)勝手にまとめちゃう奴」などと述べていますが、このエントリに町山氏は触れていません。
 なお、菊地氏は、本作については、この他にこのエントリ(4月11日)でも若干ながら触れています。

(注5)菊地氏のブログのこのエントリ(5月5日)では、「「セッション」 に関しては、「完成稿」に、完璧に総てが書いてあり、我ながら何と素晴らしい映画評なのだろう。と感心する事しきり。なのですが、「読みずらい」「分りず らい」「文章が下手」という(笑)、ご指導ご鞭撻のお声が多く、書籍化する際、幼児用(6歳まで)に書き直した物を載せようと思っています。タイトルは 「西部劇の出来、不出来がわかってしまうインディアン」」と述べられています。
 さらに、菊地氏のブログの最新エントリ(5月13日)の冒頭でも、「いやあとにかく、「セッション」についてはですな、読み易い汎用を書きますんで、それで勘弁してつかあさい」と述べられていて、結局はその「汎用」の「書籍」が出されるまでは、菊地氏の言いたいことが素人にははっきりしないままというのが現状ではないかと思われます。
 (なお、そのエントリの中でも、「「セッション」は白人価値観――主人公2人が実際に白人だから。というだけでなく、大学教科だし、意味合いの問題です――で、即ちジャズの態だけどもロックみたいなモンなのよ。だからロックドラマーが褒めるわけ」という文章が挿入されていたりします!)

(注6)仮に当初のブログ記事のやり取りだけで終わっていても、菊地氏の文章が滅多矢鱈と長く、なおかつ文意の汲み取りにくいところが多いために、ジャズ素人には、二人の論争について評価を下すことなどとてもできなかい相談なのですが〔あるいは、クマネズミも、菊地氏のいう「<ネットによって長文を読む能力を失い、手っ取り早く罪状を言い渡し、一刻も早く血祭りが見たい陪審員>」(4月22日のエントリ)の一人なのかもしれません!〕。

(注7)現に、ニーマンは付き合っていた女性を突き放してしまいます。すなわち彼は、映画館の販売店でバイトをしているニコルメリッサ・ブノワ)と付き合っていたのですが、ある時ニコルに、「僕の将来のために、もっと時間が必要。会わない方がいい。このままだと喧嘩別れすることになる。そうなるよりも別れた方が」、「とにかく偉大なミュージシャンになりたい」と宣言するのです。当然のことながらニコルは、「立派な目標を追求するために会えない?何様のつもりよ!」と怒ってしまいます。
 (これで二人は別れてしまい、カーネギーホールでのジャズフェスティバルへの誘いの電話をニーマンがニコルにかけても、「ボーイフレンドと相談する」という返事しかもらえませんでした。ただ、別れた後一度ニコルからニーマンに電話が入っているのですから、ニコルもニーマンのことをそんなに嫌いになったわけでもなさそうに思いますが)

(注8)まるでクラシックのオーケストラの楽譜を読むように、「105小節から」などと生徒に向かって怒鳴ったりします。

(注9)菊地氏は、4月8日のエントリで、「ワタシの心中の叫びというか祈りというか「こんなのは、いまどき古くせえビッグバンドジャズを大学で白人が仕切ってる世界の話しであって、ジャズ界の総てじゃねえっす!!っていうか、この映画、ジャズの何がやりたいのか、ジャズ素人が適当にやってる映画ですジャズ知らずの観客の皆さんっ!!」というものでした」と述べているところ、クマネズミとしては「そうですか」としか言いようがありません。

(注10)極論すれば、菊地氏がこのエントリ(4月8日)で言うように、「これはマンガ」なのかもしれません(とはいえ、この「マンガ」については、このエントリ(4月11日)で議論されていて、「あまりにカリカチュアされた、昭和のスポ根マンガや、大映ドラマのような物」と洗練された表現も提示されています)。

(注11)カーネギーホールでのフェスティバルで、ニーマンは、当然「Whiplash」を演るとばかり思っていたところ、フレッチャーの曲紹介は「Upswingin’」。周りのメンバーを見ると、皆その楽譜を持っています。楽譜なしで演奏するものですから、ニーマンは仲間から「お前は無能だ」などと散々非難されてしまいます。

(注12)町山氏がこのエントリ(4月22日)で言うように、「アンドリューとプレイヤーたちの心はまったく結びつかない。演奏家たちの相互作用によるグルーヴも作られない。しかもそのソロも怒りをぶつけただけ。大事な聴衆は見えていない(映らない)」としても。

(注13)町山氏は、上記「注12」で触れたのと同じエントリで、「オイラは、クライマックスを、アンドリューとフレッチャー先生という音楽に傷ついた者同士が、音楽で殴り合った末に和解し、音楽で救われると捉えた.」と述べていますが、そう言う捉え方ができるかどうかとは関係なく。



★★★★☆☆



象のロケット:セッション


龍三と七人の子分たち

2015年05月15日 | 邦画(15年)
 『龍三と七人の子分たち』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)本作は、北野武の監督作品(注1)ということで映画館に出向きました。

 本作の冒頭では、主役の龍三藤竜也)が、ランニングシャツ姿で玄関先で木刀の素振りをしています。



 息子(勝村政信)が「何か羽織ってくれないか」、その妻が「世間体がありますから」と言い、また息子が「指サックを付けてよ。子供に、指を噛んでてなくなったとか、泳ぐとタッチの差で負けたとか言わないで」等と言います(龍三は、体に大きく刺青をしていますし、左手の指が2本ありません)。
 挙句、「今日から妻の実家の方に行きます」と言って、息子の家族は出かけてしまいます。
 龍三は、「何が世間体か!ブクブク太りやがって」と悪態をつきます。

 次いで、パチンコ屋のシーン。
 男(下條アトム)が龍三のところにやってきて、「玉ください」と言うものですから、「股ぐらに持ってんじゃないの」と応じた上で、「出ないけど、この台使っていいよ」と違う台に移ると、元の台で男がたくさん玉を出します。
 そこで、龍三が「玉貸して」と言うと、その男は「腕の差でしょ、僻まない」と応じるものですから、龍三は怒って「鬼の龍三を知らないのか」とばかりに喧嘩が始まり、とどのつまりは店員に追い出されてしまいます。

 結局、家でもパチンコ屋でも邪魔者扱いされた龍三は家に戻って、マサ近藤正臣)に電話で「飯でも行かないか」と声をかけ、駅前の公園で会うことになります。
 龍三がマサを待っていると、オレオレ詐欺の電話がかかってきたりとてんやわんやになるのですが、やがて元の仲間が集まってきたりして物語が動き出さいます。



 さて一体どんなことになるやら、………?

 お話は、藤竜也扮する龍三以下70歳超えの元ヤクザ8人が集って再度一家を結成し、悪事を働く現役ヤクザに目に物見せるという次第。最近、こういう老人パワーを見せつける映画が多くなってきているのも、社会の著しい高齢化を反映しているのでしょう。従前のタケシ映画らしいところはあまりみかけないとはいえ、それなりの笑いはあり、まあこんなものかなというところです(注2)。

(2)確かに、笑える場面がいろいろあります。
 例えば、上記のオレオレ詐欺ですが、息子を騙る男が「500万円失くした」と言うと、龍三は「500万円あるわけないだろ、50万円ならなんとかなる」と答え、その男が「カードは?」と訊くと、龍三は「吉田や水原ならある」と応じ、その男が「野球カードじゃない」と言ったりします。
 挙句、50万円を受け取ろうと公園に現れたその男に対して、龍三は、バックルを取り出し「金だ」、さらに昔の組のバッチについて「プラチナだ」と言い、さらには天皇陛下記念コインまで持ち出し、挙句は「メンツが立たない」と指を詰めようとするものですから、その男は大慌てて逃げ出してしまいます。

 また、競馬場で、馬券を買いに行く“はばかりのモキチ”(中尾彬)に対し、龍三が両手を開いて「5-5」を指示したところ、龍三の2本の指が無かったことから、“はばかりのモキチ”は「5-3」と勘違いして馬券を購入してしまい、残っていたなけなしの10万円をスッテしまいます。

 ところで、こうした、老人がパワーを見せつけるという筋立ての映画は最近増えているように思います。
 例えば、ドイツ映画『陽だまりハウスでマラソンを』は、80歳間際の老人がフルマラソンに挑むという作品ですし、『カルテット! 人生のオペラハウス』も、とっくの前に引退している歌手などが資金集めのためにコンサートを開くというストーリー。

 とはいえ、本作で描き出される老人は、マラソン選手であったり音楽家だったりと正統的で大人しい職種に以前就いていたというのではなく、昔はれっきとしたアウトローのヤクザ屋だったという点でユニークです(注3)。

 そうしたヤクザ屋が8人も集まるのですから、老人ばかりとはいえなかなかの迫力となります。
 例えば、“神風のヤス”(小野寺昭)が搭乗するセスナ機が映し出されたり(注4)、ラストの方では、悪事を働く京浜連合の幹部が乗ったベンツを追って、商店街の狭い道を龍三以下が乗ったバスがものすごいスピードで突っ走るシーンが映し出されたりします(注5)。 

 全体として、映画で描き出されるのは、年寄りの冷水的な所業だったということになるのでしょうが、一般の人なら、いきなりこんな格好のいいことをやらないで、まずは例えば、桂文枝の創作落語『じいちゃんホスト』で“じいちゃんホスト”たちが唱和する「ホスト10箇条」(注6)でも守ってみたらどうかと思うところです。

(3)渡まち子氏は、「藤竜也はじめ、ベテラン俳優たちの肩の力がぬけた名演で、老人映画の快作に仕上がっている」として65点をつけています。
 中野豊氏は、「元ヤクザじいさんvs詐欺集団のガキという基本ラインから台詞の応酬からなるジェネレーションギャップの可笑しさが湧き出してきます」として75点をつけています。
 中条省平氏は、「北野武という芸術家の端倪すべからざる個性を映しだす移植の怪作であり、快作だ」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)北野監督の前作は『アウトレイジ ビヨンド』。

(注2)『アウトレイジ』についての拙エントリで申し上げましたが、本作についても、「従来の映画では必ず見られたワケノワカラナイ場面が、今度の映画については1か所も見られ」ず、「少しぐらい「アートっぽい」ところがあったらな、とないものねだりをしたくなってしまいます」。
 また、本作でも「女性の役割があまりにも限定的なこと」は変わりがない感じがします〔京浜連合のボス・西安田顕)の女でもあるキャバクラのママ(萬田久子)が登場するとはいえ、さしたる活躍はしません―萬田のマンションで龍三と西とが鉢合わせして暴力沙汰がという寸前で、龍三が女装して逃げ出してしまうのですから―〕。

(注3)内訳は、龍三、マサ、“はばかりのモキチ”、“神風のヤス”の他に、“早撃ちのマック”(品川徹)、“ステッキのイチゾウ”(樋浦勉)、“五寸釘のヒデ”(伊藤幸純)、“カミソリのタカ”(吉澤健)。

(注4)「特攻」にあこがれている“神風のヤス”が武運長久の鉢巻を締めてセスナ機に乗り込んだからには、京浜連合のビルに突っ込むのかなと思いきや、進路を思い切り替えて横須賀港に停泊中の米軍空母に着陸してしまい、観客の方はずっこけてしまいます。
 まあ、CGを使いたくない北野監督の方針の下では、仕方のないところでしょうが、だとしたら役柄を変える必要はないでしょうか。

(注5)老人がバスを走らすという点からすれば、昨年末頃見た『まほろ駅前狂騒曲』での麿赤兒)たちによるバスジャック事件を思い起こさせます。

(注6)桂文枝の落語に出てくる「ホスト10ヵ条」は次のようなものです。
・テーブル拭いても鼻拭くな。
・店が混んでも咳込むな。
・飲んで吐いてもパッチを履くな。
・アレアレばかりで話をすな。
・テーブル近くに杖置くな。
・スルメ、オカキに手を出すな。
・席を立つ時よろけるな。
・カレー食べても加齢臭出すな。
・売上伸ばせ腰伸ばせ。
・生きて閉店迎えよう。

 無論、ホストたちに向けてのものであり、とても一般化できないでしょうが、その精神(?!)はどこでも同じではないかと思います(「じいちゃんヤクザ10箇条」も作成可能かもしれません?!)。



★★★☆☆☆



象のロケット:龍三と七人の子分たち

寄生獣 完結編

2015年05月12日 | 邦画(15年)
 『寄生獣 完結編』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)前作の前篇の出来栄えが素晴らしかったので、後篇にあたる本作もと思って映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、前作のあらましが描き出された後、車列がビルの地下室に入っていく場面。
 平間警部補(國村準)が、連続殺人鬼の浦上新井浩文)を連れて、特殊急襲部隊 (SAT) に所属する対パラサイト部隊のいるビルにやってきたわけです。
 平間は、隊長の山岸豊原功補)と会って、「あてにはなりませんよ」と言いますが、山岸は「いや、十分使い物になります」と答え、浦上を椅子に座らせ、何人もの重要参考人の面通しをさせます(注1)。
 ですが浦上は、どの人物についてもパラサイトであることを否定します。
 最後に、ガラスの向こう側に新一染谷将太)が。
 浦上は、新一の顔を自分の方に向けさせて見つめた上で、「いや、違うな。一瞬、目の中に違うものが混じっている気がしたが、気のせいだ」と言います。
 ここで、タイトル・クレジットが入ります。

 次いで、平間が、事件の写真を机の上に並べながら、「泉新一が住んでいるところの近くでいろいろな事件が起きている」などと部下に話しています。彼は、新一が一連の事件の鍵を握る人物だと睨んでいるようです。

 そして、人間を食べているパラサイトを新一が倒す場面。
 新一の右手に取り付いている寄生獣のミギー(声:阿部サダヲ)は、「我が身の安全のために、これ以上はやめよう」と言いますが、新一の方は、「もっと早く来ていれば、犠牲者が出なかったのに。一匹でも殺せば、人間の犠牲が減る。親玉をやっつけに行く」と答えたところ、誰かが自分たちの様子をうかがっているのに気が付きます。
 さあ、それは誰でしょう、そして新一は寄生獣との戦いに勝つことができるのでしょうか、………?

 本作は、同じ2部作ながらも、事件と裁判とから構成され後篇がダレた感じになった『ソロモンの偽証』とは違い、『るろうに剣心』のように頂上決戦を本作に持ってきたこともあって、前作での盛り上がりを本作まで維持し続け、見終わった後も満足感の残る仕上がりとなっているように思いました。

 特に、田宮良子深津絵里)が新一やジャーナリストの倉森大森南朋)と動物園で対決するシーンや、浅野忠信が演じる後藤と新一との闘いのシーン(カーバトルやゴミ処理場での戦い)は、前者は、子供を巡っての人間とパラサイトの愛情の争いと言えるでしょうし、後者は、人間とパラサイトがそれぞれの知力をかけた戦いであり、それぞれ完結編の盛り上がりに大きく貢献していると思います(注2)。



(2)ただ、原作漫画に書き込まれている大上段に振りかぶった思想性の高いセリフが、本作でいくつも繰り出されるために、少々辟易する感じにはなります。こういったものは、まともに登場人物が発言しないで、映画全体から観客が感じ取るようにすれば十分なのではないでしょうか。

 例えば、広川市長(北村一輝)が、突入してきた特殊部隊に向かって、「人間の数をすぐにでも減らさなくてはいけないことや、殺人よりもゴミの垂れ流しの方がはるかに重罪だということに、もうしばらくしたら人間全体が気づくはずだ」とか、「環境保護といっても、人間を目安としたものだ」、「万物の霊長というなら、人間だけの繁栄ではなく生物全体を考えろ」、「人間こそ地球を蝕む寄生虫だ」などと演説をぶちます(注3)。



 ですが、そんな御大層なことを言う寄生獣自身はどうなのでしょう(注4)?
 確かに、その捕食によって人間の数は減るかもしれません(注5)。ですが、人間の外見をした寄生獣自身は、人間を捕食することでそのまま地球上に生き残るわけで、相変わらずゴミを出し続けるのではないでしょうか?

 それに、もともと“寄生”とはどういうことでしょう?
 パラサイトとは、自分では十分な栄養を獲得できないからこそ、宿主に寄生して宿主が摂る栄養分をくすねて生きる生物のはずです。現に、ミギーは、自分では捕食せずに、新一が摂取する栄養によって生きています(注6)。
 ですが、本作に描かれる大部分の寄生獣の場合、宿主となるべき人間を捕食してしまいます(注7)。一体、何のために、それらの寄生獣は人間に“寄生”しているのでしょうか(ことさら寄生せずとも、元の姿で人間を襲えばいいのでは)?
 それに、そんなことを続けたら、寄生獣自身を破滅させるだけのことではないでしょうか(注8)?

(3)なお、前作について25点と酷く厳しい評価を下した映画評論家の前田有一氏は、本作についてもその姿勢を崩さず、相変わらず、「前作の際に指摘した問題点、シンイチとミギーの関係性の描写不足が重き足かせとなって、この後編にも悪影響を残している。橋本愛の、母性を感じさせない役作りもさらに足を引っ張る」などと御託を並べます。
 ですが、そう言っておきながら、「私がそれでも山崎監督を称えたいのは、観客の多くが意表を突かれてるであろう橋本愛の例のシーンである」と、山崎監督を賞賛するのです。
 その結果、前田氏の本作に対する評価は、下記の(5)で触れているようなものになっています。

 しかしながら、まずもって「シンイチとミギーの関係性の描写不足」等については、前作について拙エントリの(3)で述べたことを繰り返さざるを得ません。
 さらに、橋本愛が本作で見せる「予想外の大サービス」についても、評点が30点も増加してしまうほどのことなのでしょうか?

 確かに、前田氏が言うように、「件のシーンこそが、橋本愛の完結編におけるほとんど唯一にして最大の仕事」でしょうし、そして本作におけるこのシーンは、「描写も丁寧で時間も長」く、「柔らかなモヘアのニットも役柄に似合っていたし、その下の細い肩、真っ白なバスト、おそるおそる受け入れる太股の表情など、見事な表現力」と言えるでしょう。
 ただ、果たして、原作そのままを良しとする前田氏の基本的な姿勢に山崎貴監督が従ったとしたら、こうした映像が生み出されたでしょうか?
 というのも、対応する原作漫画の場面(注9)は、文庫版(第7巻)のわずか5ページ弱で展開されているにすぎず、8巻に及ぶ全体のストーリーを構成する不可欠で重要なエピソードといえるかどうか疑問に思えるからですが(注10)。

(4)また、前作についての拙エントリの(2)において、「原作のように、宇宙から異星人が地球に突如侵入するとする方」と申し上げましたが、劇場用パンフレット掲載の「Comment from Original Author」において、「地球外ではなく、地球内生命体によって人類の存在が侵されていくという「寄生獣は、どういうきっかけで発想されたのでしょう?」との質問に対し、原作者の岩明均氏は、「宇宙だとか、あまり自分から離れた場所の発想はけっこう苦手でして」云々と答えています。
 これからすると、原作においても、パラサイトは異星人ではなく地球内生命体なのでしょう。
 でも、映画『マグノリア』のカエルのように、空から「テニスボールくらい」の生命体がいくつも降って来る、などということは考えられるでしょうか?
 地球内生命体というのであれば、本作のように深海生物という方がまだ合理的かもしれません。ただ、本作のラストのように、深海に沢山のパラサイトが漂っているとしても、彼らはどのようにして栄養を確保しているのでしょうか(宿主はどこにいるのでしょう)?

(5)渡まち子氏は、「新一を演じる染谷将太の、時に表情を殺しながらの演技や感情を爆発させる芝居はメリハリがあって素晴らしいが、完結編ではやはり深津絵里の存在感が圧倒的だ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「期待をやや裏切る出来映えだった前編公開から5か月。早くも登場する完結編は、スタッフの頑張りによってかなかなかの盛り返しを見せた」として55点をつけています(注11)。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「人間を食う寄生生物の出現。それはあらゆる種の上に君臨する人類の尊大さに対する地球という生態系からの警鐘ではないか。そんな深遠な世界観を、山崎(監督)は緊密なドラマで描き出す」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。



(注1)浦上は、殺す女を物色している時に、寄生獣が女を食べているのに出くわしたことがあり、人間とパラサイトを見分ける能力を持っているようです(原作漫画第7巻第50話で、「人間でいろいろ遊んだおかげ」で見分けられるようになった、と浦上は言っています)。

(注2)さらに言えば、パラサイトが占拠する市役所に対する特殊部隊の包囲作戦についても、特殊部隊側が完勝寸前のところまでいきながら、アッという間に完敗するに至る経過が、緊迫感のある優れた映像で描かれていると思います〔本文の下記(4)で触れる前田氏が、原作の「市役所包囲作戦の斬新さ」が十分に描かれていないと述べていますが、原作漫画第7巻の第52話から第57話を巧みに映像化しているのではないでしょうか?〕。

(注3)言うまでもなく、広川の演説が『寄生獣』全体の思想を表明しているわけではなく、一つのエピソードと考えるべきでしょう。

(注4)尤も、広川は、寄生獣ではなく人間であることが判明しますが。

(注5)寄生獣の後藤は、新一に対し、「人間が増えて困るのは人間自身だ。私たちはお前たちを救っているのだ」と言います。

(注6)この点については、田宮良子が倉森に対して、「我々と人間は一つの家族なのだ。我々は人間の子供なのだ」とか、「私たちはか弱い。それのみでは生きていけない細胞体だ。だからあまりいじめるな」などと言いますが、その話の方が“寄生”という点に即しているように思われます。

(注7)寄生獣の後藤は、「人間を食い殺せ」という声が聞こえると言います。

(注8)田宮良子によれば、人間と同じものを食べて生きていられるように教育をし、そのようにしているパラサイトも出現しているとのこと。それなら、本来の“寄生”でしょう。でも、その場合には、表面的には人間に敵対するものではなくなってしまい、パラサイトの出現の意味が乏しくなってしまいます。

(注9)前田氏は、前作についての論評で、「なにしろあれときたら、少年漫画きってのエロさである」と述べていますが、少年漫画に疎いクマネズミには判断がつきかねます。

(注10)無論、ページ数とその重要性とが比例関係にあるとは言えないでしょう。
 でも、新一と里美が性的な関係を持ったことが(特に、映画―ゴミ処理場―と違って、里美の家でのこともあって)、その後の原作漫画の展開にうまく生かされていないように思えるのです。二人の間に子供ができていれば家族を守るという新しいファクーが生まれるでしょうが、何よりも彼らは高校生にすぎないのです。その後、原作漫画第8巻における二人は受験勉強に精を出し、里美は大学に合格し、新一は浪人生になったところで、ラストの屋上の場面。新一が里美を救うのに、性的な関係があったことが大きく関与しているとは思えないところです。

(注11)『るろうに剣心』の場合2部作の間隔は1ヶ月半ほど、『ソロモンの偽証』の場合間隔は約1ヵ月なのに対して、本作の場合前作から5ヵ月経過しての公開ですから、前田氏が「“早くも”登場する完結編」と述べているのは、冗談もしくは皮肉なのでしょう。


〔追記〕問題がありそうに思えながらも素人のためはっきりしなかった点が、この記事において明確に論じられているように思います。



★★★★☆☆



象のロケット:寄生獣 完結編

白河夜船

2015年05月08日 | 邦画(15年)
 『白河夜船』をテアトル新宿で見ました。

(1)本作(注1)は、安藤サクラ谷村美月が共演するというので映画館に出向きました。

 冒頭は、ベッドで掛け布団の上に横たわる女性の姿(注2)。
 次いで、主人公の寺子安藤サクラ)が下着姿でベッドで寝ています。



 すると、スマホが鳴ります(注3)。
 男の声で「寝てたでしょう?」。
 寺子が「そう、寝てた」と答えると、男は「会おうか?……木曜の7時に」と言います。
 寺子は、足を揺すりながら「どこで?」と応じると、男が「いつもの場所で」と言うものですから、「わかった」と答え、メモします。

 男は妻帯者の岩永井浦新)で、そんな男と不倫関係にある寺子ながら、「もしも今、私たちのやっていることを本物の恋だと誰かが保証してくれたら、その人の足元にひざまずくだろう。そうでなければ、ずっと眠り続けたいので、彼のベルをわからなくしてほしい」とのナレーションが入り(注4)、タイトルクレジット。
 さあ。岩永と寺子の関係はどうなっていくのでしょうか、………?

 主人公は若い女性。とにかくいつも眠っていて、わずかに目覚めている時間に、恋人や女友達と付き合ったりしています。ただ、恋人には、交通事故に遭い植物状態になっている妻がおり、また女友達は最近自殺しました。映画ではこんな関係が90分間描き出されるだけながらも、ほんの僅かながら希望の明かりも感じられ、原作小説の雰囲気がうまく映画で描き出されているように思いました。

 本作では、主演の安藤サクラが、『0.5ミリ』や『百円の恋』とはまたずっと違った側面を見せてくれてその演技の幅の広さに感心してしまいますが、寺子の女友達・しおりを演じる谷村美月も、その良さを遺憾なく発揮していると思いました(注5)。



(2)本作は、吉本ばななの同タイトルの小説(新潮文庫)を原作にした文芸物(注6)。
 原作は、文庫版で70ページ強の短い作品であり、登場人物が少ない上に、格別の事件が起こるわけでもなく、主人公の内面が書き込まれた部分と、沢山の会話の部分から構成されていますから、脚本に落とすことは、素人目にはそれほど難しくはないようにも思えるところです。
 現に、映画の進行は、原作の進行とほぼ同一といえるでしょう。

イ)とはいえ、例えば、原作にある「ただひとつ、ずっとわかっていることは、この恋が寂しさに支えられているということだけだ。この光るように孤独な闇の中に二人でひっそりといることの、じんとしびれるような心地から立ち上がれずにいるのだ。そこが夜の果てだ」という文章や(文庫版P.16)、久しぶりで出会った友人が地下鉄の駅に降りていった後ろ姿について、「私はその背中を見送っていた。私の心のなかの明るいところがあの子の背中について行ってしまったような、がらんとした気分だった」という文章(文庫版P.20)などは、イメージたっぷりながらも、特に下線部分などを映画として描き出すのはなかなか難しいのではないでしょうか?

ロ)逆に映像の方から見ると、例えば、本作の冒頭のしおりがベッドで横たわっているシーン(注7)とか、岩永の妻(竹厚綾)の病室でのシーンなどは原作にはないものです(注8)。
 これらは原作で描かれておらず、寺子が単に言及するだけなところ、それを実際に映像として映し出すことによって、主人公の寺子がベッドで寝ている姿とか寺子と岩永のベッドシーンなどとあいまって、本作が持っている“水平”の方向性(ある意味で、刺激の乏しい眠くなるような関係)を一層強調することになっているように思われます(注9)。

 そして、その方向性が破られるのが、ラストの隅田川の花火でしょう。この場面では、ずっと高いところに見られる花火が、ビルの間から二人によって見上げられるのですから(注10)。
 高いところに開く花火を見上げることによって、でも隅田川にかかる橋の上から大きく見える姿ではなく、離れたビルの隙間からあまり大きくないものを見ることによって(注11)、“水平”とも言える二人のこれまでの代わり映えのしない関係も、少しずつ変化していくのでしょう(注12)。

 あるいはそれを象徴するのが、同じシーンに流れるベートーヴェンのピアノソナタ第19番第1楽章Andanteではないでしょうか。
 様々な意味合いで使われているのでしょうが、一つ考えられるのは、この曲がベートーヴェンの弱冠27歳頃に作曲されたものであり、その後の彼の大変身を予感させるものであるという点かもしれません(注13)。

ハ)上記の流れを準備するものがもう一つあります。
 それは、原作にも登場するのですが、公園で寺子に近づいてくる高校生くらいの少女。
 彼女は、「求人雑誌を買ってアルバイトを見つけなさい。家はダメ、眠ってしまうから。とにかく手足を動かしなさい。このままいくと、取り返しの付かないことになる。あなたは、心が疲れきっている。あたしが誰だかわかるでしょ?」と実に不思議なことを言うのです。
 この少女は、劇場用パンフレットの冒頭の記載によれば、「岩永の妻の幻影(分身)」だとのこと。ここまではっきりと明かされてしまうと興醒めながら、注目すべき登場人物ではないかと思われます(注14)。
 特に、この少女は、他の主要な女性の登場人物が皆寝姿を見せる中で、一人だけ寝姿を見せないのです。
 おそらくは、これまでの“水平軸”の生活ではダメになってしまうという、寺子の内心の声が形になって現れたものではないかと思われますが、このことと、上記の花火とが合わさって、これから別の形での新しい生活が作り出されていくのでは、と見る者に思わせます。

(3)暉峻創三氏は、「本作は、その映像言語の豊穣さと身体言語の強靭さで、およそ「名作文学の映画化」などとは似ていない、映画ならではの愉悦に満ちたものとなった」と述べています。



(注1)監督は、脚本にも参加した若木信吾

(注2)寺子の女友達・しおりが自殺した時の姿ではないかと推測されます。
 しおりは、“添い寝”を商売にしており、それ用の豪華なベッドもありながら、「睡眠薬を飲んで小さなシングルベッドの中で死んでしまった」とされています。

(注3)原作が書かれたのは1988年と考えられるところ(下記の「注6」を参照)、大体同じ頃を取り扱っている『ソロモンの偽証』からもわかるように〔拙エントリの(3)を参照〕、まだ携帯も普及していない時代。
 原作では、寺子は、岩永からの電話を受話器を取って聞きますが(例えば、文庫版P.10)、本作ではスマホになっています。

(注4)文庫版のP.11に同じようなフレーズが書かれています。

(注5)谷村美月は、最近では『幻肢』で見ましたが、その良さがうまく撮られていないような憾みがありました(特に、衣装がしっくりと来ませんでした)。ですが、本作での彼女は、従来の作品では見られないような女性らしさがうまく引き出されているように思います。

(注6)劇場用パンフレット掲載の佐々木敦氏のエッセイ「眠るおんなたちとふたつの時間」によれば、原作は、当初、文芸誌『海燕』の1988年12月号に掲載されたとのこと。

(注7)上記「注2」参照。

(注8)これらはあるいは、寺子が想像したものとして映し出されているのでしょう。

(注9)寺子と岩永が待ち合わせる渋谷東口の歩道橋についても、その地上よりの高さが画面に映し出されることは少なく、専ら、歩道橋の上を横に水平に二人が歩く様子が画面に映しだされます。

(注10)「大切なのは花火ではなく、この夜、この場所に一緒にいる二人が同時に“空を見上げる”ことだった」(文庫版P.79)。

(注11)「ビルの陰に時々のぞくその“小さな花火”を妙に気に入って、互いの腕をしっかりと組んだままでいつまでも、わくわくして次の花火を待ち続けた」(文庫版P.82)。 

(注12)映画のラストに描き出される花火で思い起こされるのは、最近では、『薄氷の殺人』でしょう。

(注13)この曲は、ソナチネアルバムにも収められているソナタで、演奏が比較的容易であり、弟子の練習のために書かれたものとされています。
 とはいえ、上野学園大学教授・横山幸雄氏によれば、「小さな作品の中にも、ベートーヴェンらしさが見られる。すなわち、自然に音楽が流れていくだけではなく、一つの強弱やリズムといったものに対する意志の強さが、これだけ簡潔に短く書かれたものの中にある。ベートーヴェンらしさの入口という意味でも勉強になる」とのことです(YouTubeに収録されたものから)。

(注14)この少女に扮するのは、劇場用パンフレットによれば、漫画家・内田春菊の次女・紅甘が演じているとのこと。今後の活躍が期待されます。



★★★★☆☆



象のロケット:白河夜船

ソロモンの偽証(後篇・裁判)

2015年05月05日 | 邦画(15年)
 『ソロモンの偽証(後篇・裁判)』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)本作は、前作の「前篇・事件」の盛り上がりを踏まえて、期待を込めて映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、前篇のダイジェストが流され、「私たちの裁判が伝説になっていた。真実にたどり着きたいという思いで、裁判に向かっていった」とのナレーションが入ります。

 次いで、前篇の冒頭を受けて、桜が満開の校庭を見下ろせる校長室で、現在の校長(余貴美子)と赴任してきた中原涼子(旧姓藤野:尾野真千子)とが話をしています。
 校長が「中学生なのに裁判なんか出来たのは、藤野さんがスーパーマンだからと思っていた。私の代からちゃんと修正しておきます。でもよく投げ出さなかった、凄い」と言うと、中原は「本当はすごく怖かった。でも、勇気を、一緒にいた仲間からもらった。それで、想像もしなかった真実が待ち受けていた」と答えます。
 さあ、後篇ではどんな真実が明らかにされるのでしょうか、………?



 本作は、前篇と同様に出演者が中学生を演じる者も含めて皆よく頑張っており、またそれなりのテーマがいろいろうまく描き出されているとはいえ(注1)、そして言うまでもなく、事件の詳しい真相が明らかにされるにせよ、前篇で期待感をあれだけ釣り上げておきながらの後篇ですから、もう少しストーリーに工夫がされないものかと思いましたが、原作を踏まえた上での映画化ですからこれはこれで仕方がないのでしょう(注2)。

(以下は、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)

(2)前篇を見たクマネズミにしてみたら、警察・学校側が採る自殺説はかなり説得力があるものの(注3)、しかし事件には何か重大な裏があって真相はもっと別のところにあるのではないか(注4)、それには大人の嘘が関係しているのではないか(注5)、その大人とは誰だろうか(注6)、ということで、前篇に登場していた校長(小日向文世)以下、関係者が皆何か隠しているようにも見え、それなら面白い、後篇ではいったいどんな解決が見られるのだろうかと、期待に胸を膨らませながら映画館に出向いたわけです。
 それが、目をみはるような真相が暴かれることもなく、結局のところ、当初の警察・学校側の見込み通りというのであれば、肩透かしを食らった感じで、ナーンダという気にさせられてしまいます。
 これだったら、前・後の2部作にするまでもなく、3時間位にまとめられるのではないでしょうか?

 もう少し申し上げると、例えば、
イ)本作のタイトルは「ソロモンの偽証」となっていますが、一体誰が“ソロモン”であり、誰が「偽証」をしたのでしょう?
 本作からすると、三宅樹里石井杏奈)が、学校の法廷で、まず「真実を述べることを誓います」と言いながらも、「事件を目撃したのは、私じゃなくて浅井松子さんです」、「浅井さんが自分で告発状を書いて、私はポストに入れるのに付き合っただけです」と述べていますから、素直に受け取れば「偽証」したことになるでしょう(注7)。



 でも、“賢者”とされるソロモンが三宅樹里?
 それに、劇場用パンフレットの「Introduction」には、「裁判で明らかになる思いもよらぬ人物の【偽証】」とありますが、三宅樹里が「思いもよらぬ人物」?

 本作で描かれる三宅樹里については、とても“賢者”とは見受けられません(注8)。
 また確かに、自分が目撃したと言うのではなく、浅井松子に責任をなすりつけていますから、予想外の証言内容かも知れません。でも、三宅樹里ならそう言いかねないのではないか、と本作からは思えます。
 三宅樹里が「偽証」をしているとしても、「思いもよらぬ人物の偽証」とはいえないでしょう。

 それになによりも、「偽証」がタイトルとして事々しく持ち上げられている割には(注9)、裁判の中でいともアッサリと三宅樹里の証言が覆されるだけでなく、その証言によって裁判の進行はほとんど妨げられません。
 被告人・大出清水尋也)のアリバイが今野弁護士の証言によって立証された時、検事役の藤野藤野涼子)は、三宅樹里の「偽証」を申し立てることをせずに無視してしまいます。
 「偽証」をタイトルで使うからには、「偽証」が明らかになれば、誰かが何かの対応をするはずではないでしょうか?

 むしろ、本作の登場人物の中でこうした条件(“賢者”であり「思いもよらぬ人物」)に適っているのは神原板垣瑞生)の方ではないでしょうか(注10)?



 彼は、大出を巡る疑惑を晴らそうとして、学校内裁判を開くことに尽力し、大出の弁護人を買って出たほどの人物なのですから。
 その上、彼は、生前の柏木卓也望月歩)に最後に会った人物であることを法廷で自ら明らかにしたのですから。
 しかしながら、神原は、少なくとも法廷において「偽証」をしていないはずです(注11)。
 裁判の最後において、事件の夜中に起きた事柄をありのままに申し立てているにすぎません。

 一体、本作のタイトル「ソロモンの偽証」とはどのような意味なのでしょう?

ロ)柏木の死について真相が明らかになったのでしょうか?
 この裁判は、柏木がどうやって死んだのか、大出による殺人なのか、それとも自殺なのか、その真相を究明するということで設けられたはずです(注12)。
 確かに、大出が殺したのでないことは明らかになりました。でも、柏木は、本当に自ら飛び降りたのでしょうか?
 肝心の柏木が死んだ時の様子については、神原の一方的な証言しかありません。それも、柏木が死んだ時には現場を離れていたと神原は言うのです。
 これでは、本当に柏木が自殺したのかどうかわからないのではないでしょうか?

 そもそも、柏木は、自殺するというのに、どうして神原におかしなゲームをさせた上で、わざわざ学校の屋上に呼び出したりしたのでしょう?一体、柏木は、神原からどんな言葉を聞き出したかったのでしょう?それを聞いてから、神原に何をさせたかったのでしょう?
 考えられるのは、神原にも、自分と同じように「この世の中はくだらない」と思ってもらいたかった、ということです。でも、これから死のうとしている人間が、なぜ思いを同じくする仲間を欲しがるのでしょう(まさか、一緒に飛び降りようとした?)?
 もしかしたら、柏木が神原に「死のうと思ってる」と言ったのは単に口先だけのことであって(自殺するつもりなどなくて)、実は、以前の友達のように付き合ってくれと神原に言いたかっただけなのではないでしょうか(注13)?

ハ)前・後篇と2部作(注)にするのは、長い中断が入って観客側の気持ちの維持・継続が元々難しい上に、サスペンス物の場合一層困難が増すのではないでしょうか?
 最近の2部作としては『るろうに剣心』を見ましたが、拙エントリで申し上げたように、後篇は期待通りの出来栄えだったと思います。
 これは、剣心佐藤健)と志々雄藤原竜也)との頂上決戦が後篇で描かれているために(そして、その志々雄を演じる藤原竜也の素晴らしい演技もこれあり)、前篇での盛り上がりが後篇まで持続しているように思います。

 これに反して、本作のようなサスペンス物の場合、前篇は、「事件」を描くことが多いでしょうからかなりの盛り上がりを見せても、謎解きが行われる後篇は、アッと驚くような真相解明でもなされない限り、期待はずれ感を伴ってしまうように思われます。
 特に本作の場合、前半の展開は素晴らしいものがあっただけに、後半の静かな展開との落差を大きく感じてしまいます。

 ところで、前篇が非常に面白かった『寄生獣』ですが、果たして後篇(完結編)はどんなもんでしょうか(注14)?

(3)渡まち子氏は、「大人は嘘をつく。それは時には愛する誰かを守るためだ。だがどんなに傷ついても真実に向き合うことで、子供たちは成長する。鑑賞後、語り合いたくなる作品だ」として75点をつけています。



(注1)例えば、劇場用パンフレット掲載のインタビューで、成島監督は、「今、学校や将来や家庭に居場所がないと絶望している子供がいたのなら、それでもとにかく「死ぬな」と伝えたい。「もうちょっと待て」と。待っているうちに、風穴を開けてくれる出会いがあるはずだから」と述べています。
 また、渡まち子氏は、本文の(3)で触れている映画評で、「子供たちの成長ドラマ、親子愛、不条理がまかり通る現代社会への警鐘など、多面的なドラマが浮かび上がる構成」と述べています。
 確かに、本作には様々なテーマが込められていると思います。でも、そうしたテーマは、サスペンス物としての出来栄えがあってこそ生きてくるものではないかとクマネズミは思います。

(注2)最近、土屋アンナのドタキャン降板騒動など、原作者と制作者側との意見対立によって、原作のドラマ化などが取りやめになるケースがいくつか起きています。
 先般も、同じようなケースを巡っての裁判で、制作者側が敗訴する判決がありました(この記事)。
 新聞の記事によれば、「原作は「母と娘」がテーマで、主人公は母親との葛藤があり、物語の終盤まで会いに行けないという設定。だが、脚本では、初回で娘が実家に立ち寄るなど、大きく改変されていた」そうです。
 本作の場合は、野田前田航基)が単なる生徒の一人になってしまっていること(原作では、現在の校長に会いに来るのが中原涼子ではなく野田とのこと)など、様々の変更点があるようです(原作未読)。
 ただ、膨大な原作を映画化するにあたってはこうした刈り込みは当然のことでしょう。
 ですが、原作とドラマ化・映画化されたものとは別物だとは言っても、原作と違った事件の真相とか犯人などといった基本的な改変をドラマ・映画に持ち込むことは、いくらなんでもできないことと思います。

(注3)前篇では、保護者に対する説明会で、城東警察署の佐々木刑事(田畑智子)は、「告発状が真実なら、目撃者が学校の屋上にいて事件を目撃したはずだが、そんな時間にどうしてそんな場所にいたのか。なぜ、すぐに110番したり、救急車を呼んだりしなかったのか」など、不自然な点を挙げて他殺説を否定し、保護者たちも納得します。

(注4)前篇で、主役の藤野は神原に対して、「あたしは神原君と違って、柏木君が自殺だとはまだ言い切れない」とか「大出君なら、やりかねないと思っている」などと言っています。

(注5)「嘘つきは、大人のはじまり。」とのキャッチフレーズが、公式サイトの最初に掲げられています(尤も、「大人のはじまり」と言っているのであって、「嘘つき=大人」と言っているのではないのかもしれませんが)。

(注6)前篇についての拙エントリの(2)や「注3」では、公式サイトの最初のページに掲げられている写真から、ユダに該当するのは誰かと探ってみたりしました(もちろん、遊びに過ぎませんが)。
 さらにまた、生徒にいい格好をする北尾先生(松重豊)が犯人ではないかとか、前篇ではあまり出番がない三宅未来(何しろ永作博美が扮しているのですから!)が何かやったのかもしれないと、考えたりしました。

(注7)三宅樹里の証言のうち、自分は屋上で何も見ていないという部分は正しいとしても、浅井松子から話を聞いたという部分は偽りです(大出のアリバイが証明されていますから)。

(注8)原作者の宮部みゆき氏は、YouTubeで公開されている「ソロモンの偽証 刊行メッセージ」において、「なぜ「ソロモンの偽証」なのか?誰が偽証しているのか?このタイトルにはどんな意味があるのか?」と自問して、「最も知恵ある者が嘘を吐いている。最も正しいことをしようとする者が嘘を吐いている。最も権威と権力を持つ者が嘘を吐いている。そのどれかなのかと自分自身では考えている」と応答しています。
 しかしながら、三宅樹里は、「最も知恵ある者」、あるいは「最も正しいことをしようとする者」、もしくは「最も権威と権力を持つ者」なのでしょうか?
 でも、本作からは、そのいずれとも思われません。

(注9)確かに、この学校裁判が行われることになったのは、三宅樹里が作成した告発状があったからです。でも、そのこと自体は「偽証」でもなんでもありません。

(注10)原作のうち『ソロモンの偽証 第II部 決意』についてのAmazonの記事〔「内容(「BOOK」データベースより)〕では、「史上最強の中学生か、それともダビデの使徒か」として弁護人の神原和彦が紹介されています。
 あるいは、原作本としては、三宅樹里をソロモンに、神原をソロモンの父のダビデに想定しているのかもしれませんが。

(注11)神原は、「中学に入ってから柏木君には一度も合っていない」と嘘をついていますし、柏木が受けた電話の相手は柏木自身だ、というような嘘(そうでないことを神原は知っていますから)を藤野に言いますが、これらは「偽証」ではないでしょう。

(注12)例えば、藤野はTV局記者に対して、「告発状の差出人は誰か、中身は正しいのか、柏木君は殺されたのか、自殺なのか、みんな自分たちで調べます」と言います。

(注13)ちなみに、このサイトの記事の「あらすじ」によれば、原作の第Ⅲ部の最後では、「柏木の自宅から遺書のような小説が出てきて柏木は自殺願望があったことが判明した」となっているようです(映画ではその部分はカットされています)。
 ただ、小説(それも中学生が書いた小説!)に何が書かれていようと、直ちに現実と結びつくものではありませんし、仮に柏木に自殺願望があったとしても、そのことと神原を呼び出すこととは簡単には結びつかないのではないでしょうか?

(注14)8月公開の『進撃の巨人』も2部作とのこと。



★★★☆☆☆



象のロケット:ソロモンの偽証 後篇・裁判

バードマン

2015年05月01日 | 洋画(15年)
 『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を渋谷シネマライズで見ました。

(1)本作(注1)は、本年度のアカデミー賞作品賞を獲得した作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、レイモンド・カーヴァーの詩が掲げられ、そしてタイトルクレジット。
 次いで、ロケットらしきものが空を飛んだかと思うと、ブロードウェイの劇場の楽屋の場面となって、男がパンツ一枚の格好で空中浮揚しています。
男は、主人公のリーガンマイケル・キートン)。そのモノローグが入ります、「なんでこうなった。酷い楽屋だな。股間のような臭いだ。俺達の居場所じゃない」。

 それから、彼のパソコンに、娘のサムエマ・ストーン)からスカイプで連絡が入ります。
 彼女が「パパ、何の花がいい?」と尋ねるので、リーガンが「何かいい匂いがするもの」と答えると、サムは「皆キムチの臭がする!」と言い(注2)、更にリーガンが「見栄えのいいもの、ただバラはダメだ」と応じたりします。

 そんな時に、「皆が待っている」との連絡が入り、リーガンは楽屋から舞台に向かいます。
 舞台では、リーガンが脚色した戯曲の稽古が行われますが、リーガンが自ら演出し主役も務めます。

 どうやら、数十年前に映画『バードマン』で一世を風靡しながらも、今や鳴かず飛ばずになっているリーガンが、この舞台に再起をかけようとしているようです。
 そんなことが果たしてうまくいくのでしょうか、………?

 本作は、昔はスーパーヒーロー映画の主役として世界的なスターだった男が、その後の長い低迷状態を抜け出そうと、自分で脚色・演出・主演を務める作品をブロードウェイの舞台に掛けようとする物語。主人公の内心の声や妄想がそのまま地続きで映像になったりするなど、舞台初日までのハチャメチャな状況が一層混乱した感じで描き出されますが、実に興味深い作品に仕上がっています(注3)。

(2)下記の(5)で触れる前田有一氏が、本作を「ハリウッド内幕的な物語」と規定し、「とくに、アメコミ映画に興味がない、アメリカのショウビズ界にもまたしかり、なによりマイケル・キートンがどういう人生を歩んできた人か知らない。そういう人は、遠慮しておいた方が無難である」と述べています。
 となるとクマネズミは、前田氏の言う「遠慮しておいた方が無難」な種族に属するようです。というのも、主役を務めるマイケル・キートンについて、今までその出演映画を見たことがありませんから、彼が「どういう人生を歩んできた人か知らない」わけで、アメコミについても、それほど「興味がない」ので、見たことがある作品といえば『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』とか『キック・アス』くらいですし(『ダークナイト』も見ましたが記事をアップしませんでした)、さらに「アメリカのショウビズ界」の状況などまるでわかりませんから。

 にもかかわらず、クマネズミは、この作品を随分と面白く見ることが出来ました。
 例えば、
イ)本作は、レイモンド・カーヴァーの小説を軸にしながら(注4)、徹頭徹尾、愛をめぐるお話となっていて、特に、リーガンとサムとの関係は、『インターステラー』のクーパーとマーフとの関係を思い起こさせるものがあり、アメコミ映画などの情報にそれほど通じていない者でも、十分に楽しむことができます。



ロ)本作の冒頭で早速空中浮揚のシーンがあることからもわかるように、映画の中では現実と内面・妄想との境目がなく、簡単にリーガンは二つの領域を行き来します。といって、観客はそれで混乱するわけではなく、むしろ映画の厚みが増している感じがします。
 なお、この空中浮揚は、イニャリトゥ監督の前の映画『BIUTIFUL ビューティフル』のラスト近くで描き出される臨死体験の模様(天井から死にゆく自分の姿を見る)に通じるところがあるのかもしれません。

ハ)上のことにも関連しますが、イニャリトゥ監督は、最初から最後まであたかもワンカットで撮影したかのように全体を構成していますが、そのことによって、リーガンが舞台を迎えるまでの混乱の中で次第に追い詰められていく様が観客側にうまく伝わってくるように思います(注5)。
 この点について、前出の前田有一氏は、「本作のカメラワークに新鮮さは薄い」として、「巷で言われているほどワンカット長回しをほめたたえる気にはならない」と述べていますが、問題は手法が新しいかどうかではなく、何がそれによって描き出されているのか、ということではないでしょうか?

(3)加えて、大層トリビアルながらも面白いことがいくつも転がっているなと思いました。
 例えば、
イ)本作は、むしろ文学方面に少しでも通じていると一層面白いかも知れません。
 例えば、レイモンド・カーヴァーです。
 なにしろ、リーガンがブロードウェイの舞台で上演しようとしているのは、カーヴァーの短編小説『愛について語るときに我々の語ること』をリーガンが脚色したものなのですから(注6)。

 ただ、映画の冒頭でレイモンド・カーヴァーの詩が引用され、字幕では「君は何を望んだのだ?/“愛される者”と呼ばれ 愛されてると感じること」となっていますが、ここは村上春樹氏の訳(注7)、「君はいったい何を望んだのだろう?/それは、自らを愛されるものと呼ぶこと、自らをこの世界にあって愛されるものと感じること」の方が適切なのでは、と思われます(注8)。
 他人からどう見られるかではなく、むしろ自分自身を自分でどのように見るのかが大事なんだということではないでしょうか?

ロ)リーガンは、楽屋で、上演する劇のことでジャーナリストたちのインタビューを受けるのですが、その際、ある記者が、「なぜ、漫画の主役を演じることからレイモンド・カーヴァーの小説を上演することに?」と尋ね、加えて「お分かりでしょうが、フランスの哲学者のロラン・バルトは、昔、神話とか叙事詩でなされたことが、今や洗剤のCMや漫画でなされている、と述べています」(注9)などとリーガンに言います。
 リーガンは面食らってしまうものの、この質問は、バルトを知らない他の記者がとんでもない質問をするものですから(注10)、立ち消えになってしまいます。

ハ)劇場用パンフレットに掲載されているインタビューで、エマ・ストーンは、「25テイクも撮影した時は、楽屋で座っていても自分のセリフも言えなくなっていた。………、ある段階を通過すると、決まった型にはまったようになって、呼吸をしている、完璧に振り付けされた機械のように動けるようになるの」と述べています。
 もしかしたらこの状態は、前々回の拙エントリの(3)で取り上げた三浦哲哉著『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)が言う「モデルたちの自動的な身体」(あるいは「自動運動」)に該当するのではないでしょうか?
 なにしろ、同書によれば、ある女優の言ですが、「(ロベール・ブレッソン監督の撮影では)ショット毎に20回から75回ものテイクを重ねる日々が続いた」とのことですから(同書P.140)!

(4)ただ、しいて難を言えば、
 例えば、
イ)リーガンのこれまでの経歴からしたら、映画の中でタビサリンゼイ・ダンカン)という著名な批評家が言うこと(注11)が、常識的には正しいのではと思えます。
 いくら、リーガンが学生の頃、演技をレイモンド・カーヴァーに褒められているとしても(注12)、それだけでは優れた戯曲は書けないでしょうし、また舞台の上での訓練を十分に受けていない者がいきなり主役を演じたり演出家になったりするのも酷く難しいのではないでしょうか?
 たとえ、リーガンという名前によってブロードウェイでの上演が可能になるとしても、もとよりその成功などはリーガン本人によっても考えられないのではと思われます。

ロ)それが、実弾入りのピストルをリーガンが本番で発射するだけのことで逆転し、タビサは翌日の新聞のトップに、リーガンの芝居を「スーパーリアリズム」だと絶賛する記事(見出しが「The Unexpected Virtue of Ignorance」!)を書いてしまうのです(注13)。
 ですが、本来のリアルな演劇というものはそういうことで達成されるのでしょうか?
 なんだか、本来の狙いとはかけ離れた演劇の本筋以外のところでリーガンが賞賛されるだけのことではないか、とも思えてしまいます。

ハ)また、リーガンは内心のバードマンの声(注14)に促されて次第に自信を取り戻し、初日の舞台に出て行くのですが、これは単に昔の栄光にすがりついているだけのことであり、この舞台上演をキッカケに新しい自分を創りだそうということになっていないようにも見えるところです。

 ただ、これらの点などは制作側で予め織り込み済みのことであり、としたら、こうした事柄を踏まえた上で、映画全体を見直していく必要があるのかもしれません。

(5)渡まち子氏は、「元ヒーロー役者が現実と虚構の間で追いつめられていく様を描く「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」。奇抜な映像と役者の演技合戦、ひねった映画批判と見どころ満載の傑作」として95点をつけています。
 前田有一氏は、「本作は、ハリウッド業界人がわがことのように感じられるこうした主人公の境遇に、うまいこと共感できる人以外にとっては、地雷になりかねない作品である」として55点をつけています。
 中条省平氏は、「手持ちカメラによる長回しが活用されて、ハリウッドの大作というより、実験映画のような生々しい臨場感がみなぎっている。そこに芸術派監督アレハンドロ・G・イニャリトゥの高度な技術的達成が見られる」として★4つ(見逃せない)をつけています。
 藤原帰一氏は、「この「バードマン」も、楽屋オチやテクニックを取り除くと、自分に意味はあるのかという叫びが聞こえるところはまるで同じ。ただ今回は、叫びが生々しくても目を背けようとは思わない。観客に耳を傾けさせる表現の工夫があるからです」と述べています。
 森直人氏は、「全編ワンカットのように切れ目のない映像が、舞台裏の臨場感と共に、精神の牢獄をさまよう閉塞感を演出するのが驚異的だ。観客はリーガンの脳を通してすべてを見るような、特異な体験を味わうだろう」と述べています。



(注1)本作の監督は、『BIUTIFUL ビューティフル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

(注2)韓国人が経営する店だからでしょう。

(注3)最近では、出演者のうち、代役としてリーガンの劇に出演するマイクを演じるエドワード・ノートンは『グランド・ブダペスト・ホテル』、エマ・ストーンは『マジック・イン・ムーンライト』、リーガンの劇でマイクの相手役レズリーに扮するナオミ・ワッツは『美しい絵の崩壊』、プロデューサー役のジェイク役のザック・ガリフィナーキスは『ハングオ-バー/消えた花ムコと史上最悪の二日酔い-』で、それぞれ見ました。

(注4)劇場用パンフレット掲載の巽孝之氏による「RAYMOND CARVER」が、簡にして要を得た解説となっています。

(注5)劇場用パンフレットのインタビュー記事において、イニャリトゥ監督は、「リーガンの視点になって、劇場の中や廊下を歩きながら感じている彼の絶望を観客にも感じてほしい」と述べています。

(注6)映画から伺われる劇中劇は、マイク(エドワード・ノートン)とレズリー(ナオミ・ワッツ)の夫婦ともう一組の夫婦が4人でキッチンで酒を飲みながら愛について昔話をし、とくにマイクの話に登場するレズリーの元彼の役をリーガンが演じているものと思われます(ラストでは、寝室にいるマイクとレズリーのところにリーガンが突然現れてピストル自殺するのでしょう。レズリーの元彼を演じるリーガンがこの劇の主役ということは、リーガンの戯曲では、原作よりもマイクの話に焦点が当てられているように思われます)。

(注7)村上春樹訳『Carver’s Dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選』(1994年、中央公論社)所収の「おしまいの断片」より(同書P.295)。

(注8)レイモンド・カーヴァーの「Last Fragment」の該当箇所は、「And what did you want ?/To call myself beloved, to feel myself/beloved on the earth」。

(注9)今更ながらのロラン・バルトですが、これは、彼の『Mythologies』〔1957:邦訳『現代社会の神話―1957』(みすず書房)〕所収の「石鹸と洗剤」などによっているのでしょう。

(注10)その記者は「顔の若返りのために豚の精液を注射しているって本当か?」と尋ね、リーガンは「そんなのは嘘だ」と答えます。

(注11)タビサは、バーで近づいてきたリーガンに対し、「あなたは、いい芝居があの劇場で上演されるのを邪魔した。ここは演劇界。あなたみたいのが、主演・演出・脚本なんてするのは許せない。あなたは、役者じゃない、タダの有名人にすぎない」と言います。

 なお、マイクも、「俺の舞台」と言うリーガンに対して、「あんたを除く名優の舞台」と言い返します。



(注12)リーガンは、カーヴァーが書いてくれた手紙を後生大事に持っていて、それをタビサに見せます。ただ、カーヴァーは小説家であり、演劇方面にどれだけ通じていたのでしょうか(このサイトの記事によれば、映画用脚本を書いているようですが、戯曲は書いていないものと思います)?

(注13)芝居が終わると、タビサは、誰よりも早く椅子から立ち上がって出口に向かいます。

(注14)バードマンは、リーガンに対し「お前はもっとすごいやつだ。舞台のバカよりはるかに大物だ。カムバックしよう。スーパーヒーローの道を拓いたんだ。不死鳥の復活だ。何千ものスクリーンでお前は輝いた。お前は重力に勝てる。お前ならできる」などと語りかけます。






★★★★☆☆



象のロケット:バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)