映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

華麗なるアリバイ

2010年07月31日 | 洋画(10年)
 あるフランス映画を見ようと思って出かけたところが、狙った時間帯には上映されていないことがわかり、それなら別のフランス映画を見ようということになって、『華麗なるアリバイ』を渋谷のル・シネマで見てきました。

(1)邦題を見て、この映画はいわゆる“アリバイ崩し”物かもしれないと思い、それも「華麗なる(grand)」というわけですから、ポアロ探偵も酷くてこずるのではと大層期待させます(アガサ・クリスティの原作によっていることが前もってわかりましたから)。

 ですが、実はそんなことは全然ありません。まず、期待したポアロ探偵はいっさい現れず、代わりに登場するのは風采の上がらない刑事であり、別段彼がこの事件を解決するわけでもありません(ラスト近くで、犯人らが一つの家に集まるのを見ていながら、何の手も打たないボンクラなのです!)。

 また、犯人と目された人のアリバイが映画の中で重要な争点となるわけではなく、従って“アリバイ崩し”がなされているわけでもありません。

 一番犯人らしいのが、殺された精神科医ピエールの妻のクレール。なにしろ、遺体のそばでピストルを持ってしゃがみこんでいたのですから!
 そこで、彼女は警察に連行されますが、彼女が申し立てたアリバイが成立したからというわけではなく、単に使われたピストルと彼女が手にしていたピストルが違っていたという理由から、結局釈放されてしまいます。
 それに彼女は、事件の舞台となった屋敷を所有する上院議員の妻と一緒にキノコ狩りに行っていたとされますが、なぜ上院議員の妻と別れて遺体のそばにいたのかという点については、映画では何ら問題にされません!銃声を聞いて飛んで行ったというのであれば、上院議員の妻も同行したのではないでしょうか?ここでは当初から「アリバイ」など問題視されてはいないのです。

 そこで、クレールでないとしたら犯人と目されるのが小説家フィリップ。というのも、酷いアルコール依存症で、飲んだ時の記憶が全くなくなってしまうことから、特に第2の殺人事件(ピエールの昔の愛人レアが殺されます)について自分の無実を証拠立てられないという点が問題となります。
 とはいえ、これでは身を守ってくれる「アリバイ」自体がまったく存在しないわけで、そんなものを「華麗なるアリバイ」とは言えますまい。
 それに彼には、最初の殺人事件についても、特に第2の殺人事件については、十分な動機がこの映画からはうかがえません〔最初の犠牲者ピエールに対しては、自分が愛する女性エステルが愛する男性だということで嫉妬はするでしょうが、だからといってまさか殺してしまうとは考えられないところです〕。

 そこで彼は、警察に捕まる前に自分で犯人を探さざるを得ないとしてアチコチ走り回ることになり、ついにエステルの仕事場に行って、……。

 最後になって、誰が犯人で、どうやって殺人事件を引き起こしたのか、動機は何かというごくオーソドックスな点が解明されます。なにしろ、犯人が現れて、まだ完結しない復讐行為を継続しようとして自分からいろいろ喋るのですから!
 それですべては明らかになり、フィリップも、晴れて、この事件のことを小説に書こうとして「fin」というわけです。
 とはいえ、ラストで目覚ましい事実が明らかになるわけでもなく、解き明かされるのは酷く地味な事柄でした。こういう地味な結末になるのも、やはり、ポアロ探偵がいて皆のいる前でなぞ解きをしないからではないでしょうか?

 ということで、最近見た『オーケストラ!』で天才ヴァイオリニストのマネージャー役を演じていたミュウ=ミュウ(上院議員の妻の役)とか、“華麗な”肉体を披露するカテリーナ・ムリーノ(ピエールの昔の愛人レアの役)などが登場するものの、全体としてフィット感のしない作品だと思いました。

(2)アガサ・クリスティ原作の映画は、以前同じル・シネマで『ゼロ時間の謎』を見たことがあります(2007年の年末)。



 その際に友人に書き送ったメールに、次のような感想を書いています。
「ストーリー自体は他愛ない感じですが、出演者の中に、今年の夏ごろル・シネマで見た「マルチェロ・マストロヤンニ―甘い追憶」に登場していた娘のキアラ・マストロヤンニ(母親はカトリーヌ・ドヌーブ)と、同じ頃渋谷Q-AXシネマで見た「石の微笑」に出演していたローラ・スメットとが入っているので、なにか本年最後に見る映画に相応しい感じがしてしまいました。
 ところで、こういう正統派ミステリ映画の場合、犯人は主役(もしくはそれに準ずる役)の俳優が演じます。ただ、最後のギリギリのところまであくまでも真っ当な人物として行動し、他方いかにも何か裏がありそうな雰囲気を漂わせている人物は決して犯人ではないというのが、大体どの作品にも当てはまりますから、見ているうちにおのずと犯人は絞られてしまいます。
 これはミステリ映画の宿命かもしれません。ですから、見どころは、謎解き以外の点で映画がどのような魅力を発揮しているのかではないでしょうか?この映画の場合は、フランスの金持階級の豪勢な生活ぶりと、上記した女優の出演とが見どころと言えるでしょう。」

 そうだとしたら、今回の『華麗なるアリバイ』についても、謎解きというよりももっと他の点に注意を向けるべきなのかもしれません。
 劇場用パンフレットに掲載されている監督インタビューでも、アガサ・クリスティーの原作の「本を読みなおしたところ、推理的要素よりも、登場人物たちの感情が緻密なのが魅力的に思えたので、(監督を)引き受けました」と述べられているところです。

 確かに、エステルは、実際に犯行に使われたピストルを、警察より先回りして見つけ出して隠してしまいますし、上院議員の妻もクレールに対して色々気を使ったりします。ただ、この映画に何人も登場する女性の心理状況をうまく観客に伝えるには、1時間半の長さでは大層難しいのではないかと思いました。

(3)映画評論家の論評はあまり見かけませんが、前田有一氏は、「ミステリとしては伝統的な舞台立てだが、それにしても刺激が足りない。かといってクラシカルな風格があるわけでもなく、この古典を引っ張り出して何をしたかったのかが伝わりにくい」し、「もう何もかもが賞味期限切れ。超ベテラン監督の、悪いところばかりが強く出てしまった印象だ」として40点しか付けていません。
 その評点は頷けるものの、前田氏は、「のっけから連発される登場人物名の羅列に、原作未読者はついていくのも大変だ」と述べているところ、こうしたサスペンス映画を前にしたら、まず登場人物の名前を何としてでも早めに覚えてしまうというのが当然の了解事項ではないでしょうか〔せいぜい10人くらいのことですから〕?
 それに原作は英語であり、舞台も人名もまるで違っているので、仮に原作を読んでいたとしても、名前を覚える努力を払わなければ映画のストーリーについてはいけないことでしょう〔本作はクリスティの手によって「戯曲」化されているとのことですから、あるいはそちらは映画と同じ設定になっているのかもしれませんが〕!



★★☆☆☆

象のロケット:華麗なるアリバイ
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必死剣鳥刺し

2010年07月28日 | 邦画(10年)
 『今度は愛妻家』で好演した豊川悦司が、今度は時代劇に登場するとあって、『必死剣鳥刺し』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)冒頭、いきなり海坂藩の藩主の愛妾「連子」が、主人公の兼見三左エ門(豊川悦司)によって殺害されるというショッキングなシーンが映し出されると、もうこの映画の世界から逃れられなくなってしまいます。
 といっても、そこからラスト近くまでは、実に淡々とした物静かな映像が続きます。海坂藩があるとされる山形県の四季折々の景色に囲まれながら、閉門を命じられ蔵の中で蟄居する三左エ門の様子、それが1年で許されて藩内を見回る姿が映し出されます。その中で注意を引く動きといえば、三左エ門と身の回りの世話をする亡妻の姪・里尾(池脇千鶴)との関係でしょう。
 池脇千鶴の如何にもといった抑制の利いた素晴らしい演技によって、ある一夜に2人が結ばれるのも当然と観客は納得がいきます。

 さらに、ラストには見せ場が2つも用意されているのです。
 一つは、三左エ門と別家の隼人正(吉川晃司)との対決です。隼人正も剣豪でありながら、三左エ門はなんとか打ち果たします。このときの有様は、二人の俳優に気迫が十分にこもっていて、そのぶつかり合いは実に見ごたえがありました。
 二つ目は、最後の乱闘場面です。
 数多くの相手に取り囲まれ、何人も倒しながら深手を負ってしまい、中老の津田民部(岸部一徳)のそば近くまでにじり寄っていくシーンは、迫力満点といえるでしょう。
 そして「必死剣鳥刺し」の場面です。ほとんど死んだようになった三左エ門の死を確認しようと近寄ってきた津田に対して、最後の最後の力を振り絞って剣を突き立てるのです(あるいは、死後硬直をも考慮に入れての「鳥刺し」なのかな、とも思えましたが)。
 こんなことが可能とは思いもよりませんでしたから、実際度肝を抜かれました!

 とはいえ、この映画については、酷くつまらない点にばかりこだわってみたくなってしまいます。
〔といっても、なぜ別家の隼人正は簡単に城内に入ることができたのか、三左エ門が剣を振り回すと相手は簡単に殺されるのに、彼自身はいくら切られてもなかなか死なないのはなぜか、どうしてこの時代に鉄砲が使われなかったのか、などといったことを問題にしたいわけではありません←それらはこうした時代劇における殺陣の定番なのでしょう!〕

・主人公の三左エ門は「必死剣」によって中老の津田民部を倒しますが、それによって必ずしも勝ったことにはならないのではないかと思えてきます。
 というのも、津田が極悪人ならば、それを最後に成敗したことによって勝ったことにもなるでしょう。ですが、彼は決して悪人ではないのではないでしょうか?海坂藩本家の存続を図るために、剣の達人である三左エ門を斬首とせずに藩主のそばにいて警護にあたれるように取り計らったのであり、それは功を奏して別家の隼人正を排除できたわけですから。
 それに、三左エ門を皆で切り殺して、隼人正を殺した下手人に仕立て上げようと謀ったにしても、元々三左エ門は斬首されても当然と本人が納得していたわけで、何の問題もないはずですから。
 津田を演じる岸部一徳がいかにも悪役面をしているがために、最後に「必死剣」で彼を倒す三左エ門をすごいと思ってしまうところですが、ちょっと立ち止まって考えてみると、いったい三左エ門は何をしたのか、と思えてしまいます。

・映画の冒頭の能舞台のシーンで、舞い終わると場内が静まり返る中、「連子」が“拍手”をし、それにつられてそのほかの聴衆も“拍手”をしますが、いったい江戸時代にそのような場合に“拍手”をする習慣があったのかどうか、大いに疑問です(ちなみにこのサイトをご覧ください)。

・その「連子」ですが、映画の中では皆に「れんこ」様と何度も言われているところ、むしろ「れんし」様というべきではないか、いやいや本来的には名前そのものを軽々しく口にはしなかったのではないか(普段住まっているところの名称などを代わりに使うのではないか)、などの疑問がわきました。

・三左エ門が「連子」の墓を訪れる場面がありますが、そこに「連子」に仕えていた女性が現れ、彼に何か云いたそうにします。ですが、彼はそれを遮って立ち去ってしまいます。おそらくその女性は彼に対して、「連子」殺害の理由を聞き糺したかったに違いありません。 あるいは、「連子」の咎とされるいろいろな行為にも理由があってのことなのだ、という内幕が明かされたのかもしれません(勘定方に切腹を命じたのはともかく、元々、「強訴」をした一揆の首謀者が斬首の刑に処せられるのは、当時それほど特異なことではなかったはずですし、荒廃した菩提寺の造営も光明皇后の新薬師寺ではありませんが〔7月14日NHK「歴史秘話ヒストリア」〕、昔からよく行われてきたことではないでしょうか?)。

 というわけで、豊川悦司と吉川晃司との斬り合いの迫力や、ラストの凄まじい殺陣は十分評価できるものの、物語全体はちょっとどうもという感じがしてしまいました。
 尤も、上で色々難癖をつけた点は、ラストのシーンに至るための単なるエピソードに関するものであり、ラストの2つの斬り合いこそが何より重要なのだという立場に立てば、どれもこれもどうでもいい点ばかりといえるでしょう!

(2) 藤沢周平の小説を映画化した者はこれまでもいくつか見てきましたが、ここでは『隠し剣 鬼の爪』(山田洋次監督、2004年)と比較してみましょう。

イ)『鬼の爪』も『鳥刺し』と同じように、山場が2度ほどあります。
a.主人公・片桐(永瀬正敏)とその友人・狭(小澤征悦)との対決は、三左エ門(豊川悦司)と隼人正(吉川晃司)との切り合いに相当するでしょう。
 ただ、『鬼の爪』においては、片桐は、藩の剣術指南役だった戸田の所に出向いて、相手の倒し方を習得する場面が丁寧に描かれています。とはいえ、そこで教えてもらったのは「隠し剣」ではなく(すでに伝授済み)、相手と向き合ってから視線をそらして背中を見せ、意表を衝かれた相手が隙を見せたところを切り倒すというもの。実際、その戦法を使って片桐は狭間を倒します〔むしろ、彼らを取り囲んでいたものからの発砲によるとも言えますが〕。
 他方、『鳥刺し』においても、三左エ門が隼人正を倒す際には「必死剣」を使いませんでした。

b.片桐が城内で家老(緒形拳)を暗殺しますが、これは『鳥刺し』において三左エ門が津田民部を倒すのに対応していると思われます。
 加えて、その際に片桐は「隠し剣 鬼の爪」を使いますが、三左エ門も「必死剣 鳥刺し」を使います。ただ、前者では、使った道具がどんなものなのか映画の中で示されるものの、後者にあってはどのようなやり方で津田を倒したのか今一よくわからないところです。

ロ)これだけ状況が類似している上、この二つの作品では、主人公と女性との関係がよく似ているとも思われます。
 すなわち、『鬼の爪』では、片桐は、禄を返上して町人となり蝦夷に向かいますが、その際に、以前片桐の家に女中奉公に来ていたきえ(松たか子)に愛を告白して一緒に北に向かいます〔随分と現代人っぽい感じがしてしまいますが!〕。
 他方、『鳥刺し』においても、三左エ門は、一生懸命身の回りの世話をしてくれる妻の姪・里尾(池脇千鶴)と、一夜限りながら関係をもってしまいます(あるいは、津田民部の謀略がなければ、戻って一緒になったのかもしれません。妻の実家に預けられる里尾に、「必ず迎えに行く」と言っているのですから)。
 このように身近にいて世話をしてくれる女性に、主人公が強い愛を感じてしまうというのは、『たそがれ清兵衛』(山田洋次監督、2002年)でも、井口清兵衛(真田広之)と朋江(宮沢りえ)との関係でも見られたところです。

(3)映画評論家の論評は余り見かけませんが、渡まち子氏は、「この映画は、勧善懲悪の形をとりながらも、剣に生きて死ぬ道を静かに否定しているように思う。それでも戦いに身を投じていく主人公のままならぬ人生が、人間の業となって浮かび上がってくるところに、暗い情熱がある。中老役の岸辺一徳の腹黒い表情、三左ェ門を慕う里尾役の池脇千鶴の秘めた情熱の顔つきが印象的だ。木彫りの鳥の人形を作る豊川悦司の横顔がストイックでいい」として60点を与えています。



★★★☆☆


象のロケット:必死剣鳥刺し
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レポゼッション・メン

2010年07月25日 | 洋画(10年)
 『レポゼッション・メン』を新宿武蔵野館で見ました。といっても、単に、待ち合わせの時間まで2時間近くあって、うまく当てはまるのがこれしかないという理由で見たにすぎませんが。

(1)ちょっとした近未来物ではないかと思ったのですが、そうには違いないものの、かなり社会性も帯びているようです。
 すなわち、この作品では、ほとんどあらゆる種類の人工臓器が作られている近未来において、それを製造・販売する企業・ユニオン社が、移植にかかる高額の費用を患者に融資しながら営業を拡大しているとされます。
 ただ、他方で、融資した資金の返済が一定期間滞ると、直ちに回収人(レポゼッション・メン:Repo Men)が出動して、抵抗する場合には麻酔銃で大人しくさせてから、人工心臓とか人工肺などを顧客の体内から取り出して回収するとされています(この点は、移植にかかるローンの契約を行う際には、あまり触れないようにしている、とされています)。

 この映画の主人公は、回収に練達した手腕を発揮するレミーであり、『シャーロック・ホームズ』での活躍ぶりを見たばかりのジュード・ロウが扮しています。また、その同僚のジェイクも重要な役割を果たしますが、『ラスト・キング・オブ・スコットランド』で印象的なフォレスト・ウィティカーが演じています。こうした芸達者な俳優が登場しますし、ふんだんにアクション場面も取り入れられていて(ジュード・ロウのナイフさばきは実に見事なものです!)、面白いことは折り紙つきといえるでしょう。

 ただここには様々な問題がありそうです。

イ)直ちに連想されるのが住宅ローンであり、この映画の背景にあるのが、下記の前田有一氏に言われるまでもなく、世界的な金融危機を引き起こした米国におけるサブプライムローンであるのは誰でもスグニわかることでしょう。

ロ)とはいえ、サブプライムローンの場合は、返済が滞ると住宅が差し押さえられて競売に付されますが、こちらの方では人工臓器そのものが回収されてしまうのです。いずれも、ローンの対象となった物件が取り上げられてしまうものの、人工臓器の場合はそんなことをしたら顧客の命も同時に失われてしまいます(ただ、眼、耳など生命維持に直接関係しない部位については、そんなことに直ちにはなりませんが)。
 従って、常識的には、いくら近未来物とはいえ、このような映画が成立するとはとても思えないところです。
 回収人が人工臓器を回収するとしても、そのあとには元の臓器に戻す必要があるのではないでしょうか?そうしなければ原状復帰とは言えないでしょう。
 あるいは、人工臓器の提供を受けた患者は、ローンの返済が難しくなった場合には、自己破産をすればいいのではないでしょうか?
いずれにせよ、ジュード・ロウらのレポ・メンが、格好良くぶっ放した麻酔銃で眠らせた人の胸をメスで切り裂いて手際よく人工臓器を取り出すなんてことは、それこそ“ありえない映像”としか思えないところです。

ハ)むろん、SF映画なのですから、別の可能的世界にあってはそうなっているのだ、“ありえないこと”を描くのがSFなのだ、としているのかもしれません。でも、そんな無茶苦茶な世界のことを知りたいとは誰も思わないことでしょう!

 劇場用パンフレットの「イントロダクション」で、「本作は人間の尊厳を問い、人命の価値を軽くする営利主義の実態をもリアルかつシニカルに暴き出す」と述べていますが、そんなご託宣の前に、この映画の設定自体が成り立つのかどうかをまずもって十分に検討すべきではなかったのではないでしょうか?

(2)ジュード・ロウの作品は、何のかんの言いながら結構見ています。
 最近では、『シャーロック・ホームズ』や『Dr.パルナサスの鏡』ですし、少し前では、『スルース』、『マイ・ブルーベリー・ナイツ』、『ホリディ』や『こわれゆく世界の中で』といったところでしょうか。
 単なるクマネズミの偏見なのでしょうが、ジュード・ロウは、『リプリー』(1999年)や『コールドマウンテン』(2003年)などからしても、どちらかといえば主演するよりも脇で登場する方が生き生きとしてその真価を発揮しているのでは、と思ったりしています。
 『スルース』(2008年)は全編二人の俳優によって演じられていて、ジュード・ロウは主役といってもいい活躍ぶりですが、なんだか演劇を見ているような感じを受けましたし、『こわれゆく世界の中で』(2007年)は悪くはないものの、酷く地味で深刻な印象の映画で彼の良さが生きてはいないような印象でした(共演したジュリエット・ビノシュの影響があるのかもしれません)。

(3)映画評論家の論評はまずまずといったところでしょう。
 前田有一氏は、「いかにもいまどきのアメリカ人向きブラックジョークに満ちたSF映画」であり、「斬新な世界観、中国語があふれる近未来のアメリカの風景、容赦ない回収から、必死に逃げ回るハードアクションなど見所はたくさん」として70点を、
 渡まち子氏は、「ミュージック・ビデオ出身という新鋭ミゲル・サポチニク監督のテンポのいい演出が、ダーティな“ハッピーエンド”も含めて、シャープな印象を醸し出していた」などとして60点を、
 福本次郎氏は、映画は主人公の「男の心境の変化と、彼に降りかかる危険を振り払いつつ真実に近づいていく過程を通じて、肉体の機能は機械に代替させると同時に、人格を損なわずに心を入れ替えることも可能なのかを問う。しかし、歪んだ世界では正義や良識が排除の対象になるのだ」として50点を、
それぞれ与えています。

 どの評者もSF物に野暮なことは言わぬが花と決め込んでいる感じですが、しかしクマネズミとしては、この作品の設定自体が気になってしまうのです。



★★☆☆☆

象のロケット:レポゼッション・メン

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ロストクライム

2010年07月24日 | 邦画(10年)
 映画監督としても俳優としても今大変脂が乗っている奥田瑛二が主演の映画と聞きこんで、『ロストクライム -閃光-』を新宿の角川シネマ館で見てきました。

(1)この映画は、すでに時効が成立したものの一向に謎が解明されていない「3億円事件」(1968年12月10日)の隠された真相を暴くというので、巷間かなり話題となっています。映画製作の一翼を担った朝日新聞社も、新聞の社会面の下段で、「鳥越俊太郎「3億円事件」を語る」という企画物を公開直前の5日間にわたって掲載しました。

 映画は、奥田瑛二が扮するベテラン刑事・滝口と、渡辺大が演じる若手刑事・片桐とが、紆余曲折を経ながらこの3億円事件の真相に迫るというストーリーになっています。
 明かされる真相は、従来あまり口にされていなかった内容で、なるほどそういうようにも考えられるのかと興味を惹かれますし、事件当時の世相(3億円事件そのものとか大学闘争など)が巧みに映像で再現されてもおり、また俳優たちも皆渾身の演技を披露していたりして、2時間近いものですが飽きさせることはありません。

 とはいえ、随分と問題も多いようにも思われます。
イ)犯人ではないのに犯人扱いされたとして現金輸送車の運転手(警備保障会社の職員)が自殺しますが、映画では、それを恨みに思った息子(武田真治)が、3億円事件にかかわった者を次々と射殺していきます。ですが、いくら復讐とはいえ、主犯格の男はすでに自殺しているのに、さらに5人もの人間を次々に殺すでしょうか?4人を射殺するのに使ったピストルをどうやって入手したのでしょうか?

ロ)その復讐劇ですが、かたせ梨乃は大きな橋の上で1対1で、宅麻伸は人混みの中で、という具合にヤクザ映画もどきの酷くドラマチックな映像になっていて、嘘臭ささが100%といったところです〔映画ですから「嘘っぱち」でかまわないとはいえ、この作品の雰囲気とそぐわないのではと思いました〕。

ハ)自分の息子が3億円事件の主犯格の男とわかった警察官(夏八木勲)が、自宅に戻って息子を叱りつけると、すぐに母親(熊谷真実)が息子に毒入りのサイダーを飲ませる場面がありますが、とてもついていけない成り行きです。突然の話なのに、母親はどうして毒を手近かなところに持っていたのでしょうか(警察官の家族は、普段からそんなものを用意しているのでしょうか)?社会的地位などが気になる父親ではなくて、わが子を溺愛している母親がなぜそんな酷いことをするのでしょうか?息子は、毒入りだとわかっていながらコップを飲み干しますが、どうしてそんなことが予め分かるのでしょうか?
分からないことばかりです。

ニ)奥田瑛二の扮する刑事は、ベテラン刑事として余りにも典型的でありきたり。定年間近で、奥さんを数年前に癌で亡くして一人暮らし、頑固一徹、出世など顧みず、ひたすら歩き続けてホンボシを挙げること数多。
 そしてそれに配するに、これまた典型的な若手刑事。大学出で、正義感に燃え、初めのうちはベテラン刑事に反発するも、その知識・情熱に発奮して一緒になって活躍。
 これでは、いくら俳優が渾身の演技に打ち込んでも、欠伸が出てしまうもはムベなるかなでしょう。

ホ)そもそもこの事件については、事件を引き起こした犯人の中に警察内部の者の子供が2人もいることから、警察が組織をあげて真相に蓋をしたのだ、というわけですが、今となってはそれがたとえ真実だとしても、それだけではちっとも興味を引きません。何で現時点になっても、警察は真相究明者を無理やり実力をもって排除しようとするのか、観客には理解しがたいところではないでしょうか?
 事件当時の雰囲気としては、仮にそういうことがあれば、警察は組織をあげて身を守ろうとしたかもしれません。ですが今や、警察も一つの行政組織にすぎないと一般国民に思われるようになり、様々な大がかりな不祥事も摘発されてきていますから、いまさらそんな昔の事件の真相に蓋をしても始まらないのではないでしょうか?それをなぜ、映画における本庁の人たちは麗々しく後生大事に取り扱っているのか、そこには酷く時代錯誤的なものを感じざるを得ないところです。

ヘ)酷く詰まらないことですが、設定では若手の片桐刑事は剣道4段の腕前となっているところ、彼を捕まえようと5~6名の刑事が警棒で挑みかかると短い警棒でこれに応じ、まるで時代劇の殺陣のような具合に、一人一人なぎ倒してとうとう逃れてしまいます。これには空いた口が塞がりませんでした!この映画は現代劇ではないのでしょうか?

 といったことから、大変まじめに熱意を込めて制作された映画であることは十分認めるものの、違和感の方が大きく、あまり評価できないなと思った次第です。

(2)3億円事件を取り扱っている映画といえば、最近では『初恋』(2006年)がスグに思い浮かぶでしょう。



 ただこの映画は、今回の『ロストクライム』と違って、3億円事件そのものを扱うというよりも、むしろ主人公のみすず(宮崎あおい)と東大生の岸(小出恵介)との恋愛、それからみすずと兄(宮崎将)の兄弟関係を描くことの方に主眼を置いていると思えます。
 そこで、3億円事件に関するところだけ比較してみると、
イ)『初恋』では、高校生のみすずが白バイ警官に変装して3億円を強奪しますが、『ロストクライム』では警察官の息子が実行します。

ロ)『初恋』では、みすずの背後にはわずか2人しかおりませんが(岸とバイク屋〔藤村俊二〕)、『ロストクライム』では6人もの人間がこの犯行にかかわっています。

ハ)二つの作品とも、3億円を強奪した後のストーリー展開にはどうも腑に落ちないところがあります。
 『初恋』における3億円事件は、現職の運輸大臣である父親に対する岸の反抗心の現れ(父親に対する復讐)と思えます。というのも、現職の運輸大臣の息子がこの事件にかかわっているということが判明すれば、大変な騒ぎを引き起こしひいては内閣総辞職にまで発展すると岸は考えていたようです。
 ですが、このくらいの事件で内閣総辞職というのは大袈裟であり、せいぜい父親の大臣が辞職すれば済む話ではないでしょうか?
 さらに、犯行に協力したバイク屋は殺されてしまったようですし、消息不明とラストで表示されるところを見ると岸も外国で消されてしまったのでしょう。とはいえ、時の政権を擁護するためとはいえ、そんなことまでする必要があったとは到底思えません。
 他方、『ロストクライム』にあっては、過激派学生グループの犯行目的は資金調達ではないかと思われます。
 とはいえ、あれだけ労力をかけて実行したにもかかわらず、そしてうまく3億円を奪取できたにもかかわらず、なぜいとも簡単に札束を全部焼却処分にしてしまうのか、うまく理解できないところです〔単に度胸試しのお遊びで実行したとでもいうのでしょうか?〕。

 要すれば、3億円事件の謎は未だ十分に解明されてはいない、ということではないでしょうか?

(3)映画評論家の間では若干評価が分かれるようです。
 渡まち子氏は、「三億円事件は結局犯人の特定ができずに1975年に時効が成立した。土砂降りの雨の中の現金強奪劇は、他の映画でも何度も見た光景だが、本作のリアリティ は素晴らしい。華やかさはないが、全編に硬派でドライなタッチが効いた1本だ」として60点を与えていますが、
 福本次郎氏は、「壮大な構想の割にはミステリーとしてのツメが甘く、点と点を結ぶ糸がとぎれとぎれになってしまい、途中をはしょられて結果だけを見せられたような消化不良感が残る」として40点を与えています。

 渡まち子氏が言うように、この映画における「現金強奪事件」の「リアリティ は素晴らしい」とは思いますが、それは背景の一つであり、メインの両刑事による真相解明に関する部分はとても高い評価を与えられないのではと思います。




★★☆☆☆





象のロケット:ロストクライム
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ボローニャの夕暮れ

2010年07月22日 | 洋画(10年)
 ロマンティックなタイトルについ惹かれて、『ボローニャの夕暮れ』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)タイトルから、この映画はイタリアの古都を背景とする心温まるヒューマンドラマかなと思ってしまいました。なにしろ、「ボローニャ」といえばヨーロッパ最古の大学のある都市として有名ですから、日本で言えば京都嵯峨野あたりを舞台とするラブストーリー物に相当するに違いないと先入観をもってしまったわけです。
 ですが、実のところは、第2次大戦の末期のイタリアを舞台とするかなり深刻な作品でした。

 原題が「ジョヴァンナの父」というように、主役は、高校の美術の教師ミケーレ。
 彼には同じ高校に通う娘ジョヴァンナがいますが、なぜかいつも父親がそばに寄り添って、色々娘の面倒を見ようとします。
 そして、「もっと自信を持って接すれば、男の子とも仲良くなれる」などとポジティブに生活するよう説得します。
 それで娘の方も、イケメンで人気のある男の子と話をするようになり、それを見つけたミケーレは、ひそかにその生徒を呼びつけて、私の娘とうまく付き合ってくれたら成績評価の方もなんとかしよう、などと言い出す有様。

 とここまでは、まあ取り立てて言うべきことはないのですが(過保護が過ぎるとは言え)、突然、ジョヴァンナの親友である女子生徒が体育館で殺される事件が持ち上がり、アレヨアレヨという間にジョヴァンナが犯人となって、と話が急展開し、まさかこの映画で殺人事件が取り扱われるなんて、とアッケにとられてしまいます。

 こうした話の上に、イタリアにおけるファシスト党の躍進と凋落という歴史的社会状況が重ね合わされます。たとえば、ミケーレが住んでいるアパートの隣人で年来の親友の警察官セルジョが大のムッソリーニ支持派で、ジョヴァンナの事件においても様々にミケーレをサポートしてくれるものの、最後にはパルチザンにつかまって悲惨な運命に見舞われることになります〔こうした反体制の動きは、同じ枢軸国だったドイツや日本では全く目立ちませんでしたが、ファシズムを標榜する党が最初に誕生した国で反ファシスト派パルチザンが活躍したとはなかなか理解しがたいことです〕。

 予想とはだいぶストーリーが違ってしまったものの、まあこんなところであれば十分に受け入れ可能です。ですが、この映画でとても理解し難いのが母親デリアの行動なのです。

 父親ミケーレの風貌にはそぐわない美貌のデリアは、ジョヴァンナに酷く冷淡なところがあり、彼女が警察につかまって結局は精神病院送りになったところ、ミケーレの方は足しげく面会に行くものの、ジョヴァンナが母親と会うことを強く求めているにもかかわらず、なぜか一度も行こうとはしないのです。

 あるいは、ジョヴァンナに会うと、耐え難い真実を彼女が口にするかもしれないと恐れていたのでしょうか。というのも、病院の医師によれば、彼女がこうした精神状態に陥った原因は母親にあるようだからです。すなわち、母親が、ミケーレ以外の男性(具体的には、警察官のセルジョ)を好きになっていることをジョヴァンナがひそかに感じて、そういう錯乱状態になっているのでは、と医師は指摘します〔医師によるこの説明は理解不能ですが〕。

 そのことを医師から聞いてミケーレは納得し、自分はジョヴァンナの面倒を見ることに専念するから、セルジョ(妻を空襲で失って独り身になっていました)と一緒になった方がいいとデリアを説得すると、あろうことかデリアはそれを受け入れてしまうのです。
 そればかりか、終戦直後、セルジョがパルチザンにつかまって処刑されそうになっても、じっと見守るだけで彼を救出しようとはしません。
 加えて、しばらく経ってから、ミケーレと一緒に入った映画館でジョヴァンナ(そのころまでに、精神病院から解放されていました)がデリアを見つけ微笑みかけると、同行していた男性とは別れていともあっさりと元の鞘に収まってしまうのです。これはこれでハッピーエンドとはいえ、“エーッ!それでいいの”という感じになってしまいます。

 確かに、この映画の主人公は父親のミケーレかもしれないところ、母親のデリアの特異過ぎる行動が全篇を隅々まで支配しています。ですから、それを一般人にも納得いくように説明してもらわないと(あるいは理解できるように描いてもらわないと)、とてもこの映画を評価する気にはなれません〔イタリアでは大ヒットした映画とのことですから、おそらくクマネズミの理解力が劣っているがためにこの映画の良さが分からないのでしょう!〕。

(2)この作品では、母親デリアの行動とともに、ジョヴァンナの精神状態が中心的な位置づけを持っています。
 親友を殺してしまうという事件を引き起こしたジョヴァンナは、結局、精神障害によって責任能力なしと判定され、裁判では無罪を宣告されますが、代わりに精神病院への入院が義務付けられます。
 映画から受ける感じからは、一度てんかんの発作を引き起こしたり、思い込みが激しすぎるといったところが見受けられるものの、それほど酷い精神障害があるとは思えません。
 ですが、酷く汚れた精神病院に入れられると(注)、なぜか次第におかしなふるまいをするようになります。そこから受ける印象では、無理やり一定の枠組みの中に彼女を押さえつけようと病院側が対応したことや、もっと奇矯な振る舞いをする患者と一緒に隔離され彼らの影響を受けたのではないか、などと思えてしまいます。
 とはいえ、終戦直後には精神病院から解放され、父親との落ち着いた日常生活を取り戻していますから、病院でどういった治療を受けていたのか映画からはわかりませんが、かなりの程度治ってしまったのでしょう(7年余り入院していたことになります)。

 いったいこの精神病院は何なんだと気になっていたところ、次のようなネットの記事(2007年3月30日)に遭遇しました。同記事によれば、イタリアでは精神病院の大部分が公立のものであるところ、「3年ほど前に、ついに全土で公立精神病院が廃絶された」そうなのです!
 すなわち、「1960年代から精神病院の開放運動が始まったイタリアでは、78年に公立精神病院の廃止をきめる法律180号(運動の中心だった医師の名からバザーリア法とも呼ばれる)が成立しました。といっても、それですぐに全国で病院が閉鎖されたわけではなく、脱施設化と地域への開放は条件の整った町からすすめられていき、20数年かけてようやく完全に実施された」とのこと。
 非常に興味深い話なので、『精神病院を捨てたイタリア―捨てない日本』(大熊一夫著、岩波書店、2009.10)を読んでみようかと思っています(この本については、評論家の柄谷行人氏が読売新聞に書評を掲載しています)。


(注)なんだか『愛のむきだし』の後半において主人公ユウが隔離される精神病院に雰囲気がとてもよく似ている印象を受けました。そして、それらは、松尾スズキ監督の『クワイエットルームにようこそ』(2007年)で描かれている閉鎖病棟の明るく綺麗な様子とは正反対の感じです。ちなみに、後者の作品については、渡まち子氏が、「内田有紀が魅力的で、脇を固める個性的なキャラも豪華。拒食症の患者を演じた蒼井優が特に印象深い。精神病棟という密室空間にふさわしい狂騒に、舞台のような演出がさえまくる。寂しいのに前向きになれるラストが秀逸」と絶賛し85点をつけています。

(3)映画評論家はこの作品に対して、総じて好意的です。
 小梶勝男氏は、「いろんなことを考えさせるが、少しも難解な映画ではない。プーピ・アヴァーティ監督の演出は娯楽色豊かで、むしろエンタティンメントとしてよく出来ている。女子高生殺人事件をめぐるサスペンス、意外な犯人とその動機。娘や妻の性。戦争によって次第に壊されていく日常。それらがボロネーゼソースのように混じり合い、酸味も甘みも苦みも旨みも、様々に感じさせてくれる」として85点を与え、
 福本次郎氏も、「あらゆるものを犠牲にしても娘に無償の愛をそそぐ父親と、彼らから少し距離を置いている母親の姿が対照的だ。映画は第二次大戦をはさんだ激動の時代を生きぬいた親子を通じて、家族の絆とは何かを問う」として60点を与えています。

 小梶勝男氏は、哲学者ハイデッガーを持ち出しながらも「少しも難解な映画ではない」としていますが、どうして母親デリアの行動に疑問を持たないのでしょうか、ジョヴァンナの精神状態についてよく理解できるのでしょうか、不思議な感じがします。


★★☆☆☆



象のロケット:ボローニャの夕暮れ
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ヒーローショー

2010年07月19日 | 邦画(10年)
 前日の記事で申しあげたようなことから、『ヒーローショー』を新宿の角川シネマ館で見てきました。

(1)この作品は、「ヒーローショー」(住宅展示場や百貨店の屋上などで上演されるショー)に出演する若者たちが、女優を巡る争いから、思いもかけない殺人事件まで引き起こしてしまうという「青春★バイオレンス★エンターテインメント」映画といえるかもしれません。

 なにしろ主演は、ジャルジャルという漫才コンビの二人(後藤淳平と福徳秀介)で、いずれも30前の青年ですし、ヒーローショーの出演者に扮して映画の中で活躍するそのほかの俳優も、ほとんどが30前ですから、まさに「青春」といえるでしょう。
 また、この映画を制作した井筒和幸監督が、「今までは、“この辺でまとめておこう”というのがあったが、今回はリミットを作らずとことんやってやる!という気でやった」と語っていることからも分かるように(劇場用パンフレット)、「バイオレンス」のシーンは物凄く半端ではありません。

 ただ、「エンターテインメント」に関してはどうでしょうか?
 お笑いの2人が主役を演じているからと言って、この映画はコメディではありません。二人とも、至極真面目な演技を要求される役どころについています。
そのほかには経歴の変わった俳優が出演しているわけではありません。

 ならば、ストーリーはどうでしょうか?
 ここらあたりから、井筒監督が映画『告白』について問題にしている「リアル」ということと関連してくるでしょう。

(2)そこで、井筒監督の『告白』批判です。『週刊現代』の記事では、たとえば次のように述べられています。
 「ネットの評判で映画館に行った自分が恥ずかしい」。
 「冒頭から、松たか子のおネエ様が、あり得ないような中学校の作りモノの教室で、あり得ないような担任教師の喋り方で、多分、原作の小説にしかあり得ないような「告白」をあり得ないほどスラスラ云い始めた」。
 「映画リアリズムなどお構いなし」。
 「テメエの娘を(何だか解らないまま)殺された腹いせから、手の込んだ復讐を自分で企てて悦に入ってるアホ女教師」の「お話自体、元からトチ狂ってたわ」。
 「最後のほうは、松たか子の告白に厭きたし早く終われって祈ってたわ」。

 要すれば、井筒氏はこの作品に“リアリティー”を感じなかったのでしょう。

 そこで、前日取り上げた映画『告白』と比較しながら、「リアル」という点を見ていくことにしましょう。

イ)舞台
 『ヒーローショー』の専らの舞台は、千葉県勝浦と具体的に特定され、映画の中でそのことは言われていますし、また鴨川シーワールドも映し出されます。
 他方で、『告白』の舞台は、ある中学校のあるクラス(中学1年→2年)ということで、かなり抽象的です(むしろ、どこと具体的に特定できないように描かれていると言うべきでしょう)。

ロ)主役の設定
 たとえば、『ヒーローショー』の主役の一人である「勇気」は、元自衛官であり、映画の最初の方では配管工ということで、ある住宅のトイレの配管の修繕を行っています。ただ、このまま配管工を続けてもうだつが上がらないと、将来は石垣島でレストランを開きたいと考え、調理師免許を取得しようとしています。
 また、年上の恋人あさみがいて、暫くすると彼女には前の夫との間に子供がいることが分かってしまいます(尤も、離婚した夫に引き取られているのですが)。
 さらに、「勇気」は母親と一緒に暮らしていますが、母親は相当年下の若い男を自宅に引っ張り込んで、昼間からセックスをしているなど、家庭は崩壊しきっています。

 このようにかなり具体的に設定されていますが、他方の『告白』の主役である森口先生(松たか子)の状況は、“熱血先生”として全国的に有名な教師と結婚して子供をもうけたという点が特別なくらいで、どこにでもいる普通の人のように設定されていると思われます。
 さらに、その話し方は、誰に何のために話しているのかと疑問に思えるほど、最初から最後まで実に平板でよどみのないものです。普通人はコミュニケーションの手段として話すものでしょうから、こんな一方的な話し方はしないでしょう。まさに井筒監督がいうとおり、「あり得ないような担任教師の喋り方」です。
 また、生徒の一人である直樹については、その家の中が描かれ母親(木村佳乃)まで登場しますが、生活した跡が全く見られない酷く抽象的な空間としてその家庭が描かれているように思われます。

ハ)事件の背景
 『ヒーローショー』の場合、住宅展示場で上演されているヒーローショーが事件のきっかけになりますが、そのショーの低俗さとか(若い女性が怪人〔バクゲルグ〕に襲われると、彼女を救うために5人のヒーロー〔ギガチェンジャー〕が登場して、怪人をやっつけてしまうという他愛無いもの)、それを演じている若者の無気力ぶりといったものがかなり具体的に描き出されます。

 他方、『告白』の場合、事件の背景となるのは、森口先生が受け持った1年B組ですが、荒廃した様子を強調するためでしょう、森口先生の「告白」の前半では、生徒たちほとんど全員が何かしら別のことをしていて先生の話に注意を向けてはおりません。これは、酷いクラスの有様を具体的に描き出すというよりも、むしろ、中島哲也監督が意図的に過剰に演出していると言えるでしょう。
 なにしろ生徒によるダンス・シーンまで挿入されているのですから!
 井筒監督が、「あり得ないような中学校の作りモノの教室」というのも分からないではありません(だって、中島監督がこしらえた「教室」なのですから!)。

ニ)事件
 『ヒーローショー』で起こる事件の発端は、一人の若者の恋人が別の若者に寝とられたこと、という実につまらない出来事ですが、それが当事者達の誰もが思いもよらない方向に発展してしまって殺人事件に至ってしまいます。この場合、犠牲者をよってたかって痛めつけるシーン、まだ死に至っていない犠牲者を穴に埋めてしまうシーン、それに予期しなかった事態に主人公たちがたじろぐ様子が、実に入念に描かれていると思われます。

 他方、『告白』で引き起こされるメインの事件は、森口先生の子供が、受け持ちのクラスの生徒によってプールに投げ込まれて殺されるという、実にそっけないものです(とはいえ、幼い子供を殺す場面が描かれているのですから、『ヒーローショー』に比べたらその衝撃度ははるかに大きいでしょう)。


 こうして比べてみると、どうして井筒監督が『告白』を酷評したのかがよく分かるというものです。要するに、その映画から“リアル”さが全然感じ取れなかった、ということでしょう。
 逆に、井筒監督にすれば、自分が制作した映画のリアリティについてはすごい自信を持っていると思われます。

 確かに、『告白』からは井筒監督のいう「リアル」さが感じられないのは確かなことでしょう。
 ですが、にもかかわらず、『告白』には最初から最後まで一瞬たりとも眼が離せない面白さがある一方で、『ヒーローショー』は見ていて全然面白くないのです!退屈とまでは言いませんが、いったい何でこんなつまらないシーンが長々と続くような映画を見せられるのだ、と言いたくなってしまいます。
 どうも、映画の面白さと“リアル”かどうかということとは連動していないようなのです。
 いくらこれがリアルな現実なんだよと提示されても、それだけでは単なる事実の断片であって、そんなことならよく知っているよとなり、それを長々と見せつけられても、人は興味を持たなくなってしまうのではないでしょうか?
 むしろ、リアルな現実世界から離れていても、面白い構成で物語られれば、人はずっと興味を持つのではないでしょうか?
 それも、『告白』のように、ファンタジックに強調しながら話が展開していけば、画面に惹きつけられる度合いが増します。
 さらにまた、いまさらいうまでもありませんが、オペラとか歌舞伎の世界がそうでしょう。誰も、そこで描かれる世界がリアルなものだとは思いませんが、それでも深い感動をもたらします。それと同じことではないでしょうか?

 付け足して言えば、いくら“リアル”を追求しているからと言っても、劇映画で描き出されるものは、そのすべてが絵空事なのは言うまでもないことです。だって、殺人事件が起きる映画で、人が実際に殺されるわけではありませんから!
 要するに、“リアル”か“ファンタジック”かといってみても、程度問題に過ぎないのであって、その点ばかり云々して井筒監督のように批判してみても、何ももたらさないのではと思います。

(3)とはいえ、『ヒーローショー』に対する映画評論家の論評はまずまずといったところです。
 渡まち子氏は、「本作は出口の見えない鬱屈した日々の中で巻き起こる暴力のスパイラルを描く青春バイオレンス」映画であり、「暴力的な青春映画を得意とする井筒和幸監督だが、そのまなざしの中には、社会の底辺で生きていくであろう若者たちへのエールが込められてい」て、「何が何だかわからないままに悲劇と喜劇が繰り返し立ち現れるさまは、先読み不能で、その意味で映画初主演のコンビはフィットしている」として55点を、
 福本次郎氏も、「うだつの上がらない青春、凄惨な暴力、家族愛と友情。二転三転する展開は予断を許さない。だが映画はそれらをスピーディーに凝縮しようとはせず、登場人物の心情を丁寧に描いていく。さまざまな要素が絡み合っているが、結局、これは人は人と関わり合って生きていくしかないという物語なのだ」として50点を、
それぞれつけています。

 クマネズミには、福本次郎氏が「登場人物の心情を丁寧に描いていく」と述べている点が、だから退屈だったというところで、また、同氏は「これは人は人と関わり合って生きていくしかないという物語なのだ」と述べていますが、そんなことなら映画をわざわざ見るまでもなく、日常茶飯に人が感じていることではないでしょうか? 


★★☆☆☆


象のロケット:ヒーローショー
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告白

2010年07月18日 | 邦画(10年)
大評判の『告白』をTOHOシネマズ日劇で見てきました。

(1)この映画の原作本である湊さかえ氏の同名の小説は、一昨年の『週刊文春』の「ミステリーベスト10」で第1位であり、また本屋大賞をも受賞していますから、いつもだったらとっくに読んでいるところなのですが、なぜか敬遠してしまっていたところ(第2位の『ゴールデンスランバー』の方を読みました)、この映画もサスペンス仕立てですから読まずにいて正解でした!

 作品のごく簡略な粗筋は、中学教師である森口悠子(松たか子)が、自分の最愛の娘を、担任していたクラスの生徒―渡辺修哉と下村直樹―に殺されながらも、少年法の壁によって彼らが十分に罰を受けなかったことから、自ら復讐してしまうお話、というように言えるでしょうか。
 とはいえ、森口先生らの「告白」内容を、そのままストレートに信じていいのかについては、「なんてね」と最後に松たか子が言うところからしても(注)、疑問が湧いてくるように映画は作られていますから、こうした粗筋もあるいは成立しないのかもしれません。
 要すれば、この映画はサスペンスではあるものの、内容だけでなく形式それ自体もサスペンス的なものとなっていて、その点が頗る興味深いことだな、と思いました。

 主役の松たか子は、『ヴィヨンの妻』でもそうでしたが、十分練りこんだ演技を披露して感動的です。特に、最初のクラスで「告白」する場面は、まさに鬼気迫る感じで圧倒されました。
 また、先日『瞬 またたき』での活躍ぶりを見たばかりの岡田将生が、松たか子の後任の担任教師・寺田良輝役を演じているところ、この物語にふさわしい的確な演技をしています(当初はかなりオーバー目と思える熱血先生振りも、森口先生に要請されたものだと判明すれば、十分納得されるところです)。
 さらには、個々の生徒に扮した若い俳優たちの演技も実に自然さが漂っていて、映画全体の質を高めるのに貢献していると思いました。
 加えて、最後の講堂での大勢の生徒を使ったシーンは、大層様式化されていて見ごたえがあります。

 ということから、この映画は、最近では出色の出来栄えではないかと思います。
 とはいえ、いろいろ問題はあるのかなと思いました。

イ)森口先生が、講堂の演壇の内側に生徒の渡辺修哉が爆弾装置を設置したことを事前に察知して、起爆装置を破壊してしまったために、学校では大惨事は起こりませんでした。
 ただ、どうして事前に察知できたかというと、修哉があらかじめネットに掲載したブログ記事を読んだからとのこと。
 修哉は、2学期の始業式の日に自分も死ぬつもりでいますから、前日に記事を掲載したとも考えられます。ですが、常識的には、記事の「予約投稿」ができるのですから、爆弾が爆発するであろう時間よりも後に公表されるようにセットするのではないでしょうか?その場合には、いくら森口先生が修哉のブログを毎日チェックしていても、爆弾装置の設置のことまで予め把握できなかったことでしょう!
〔尤も、修哉の行動には完全性が欠けていて、この場合も、不注意から犯行に関する記事を自分のブログに予め掲載してしまった、とも考えられるところです。〕

ロ)昨今では中学校におけるエイズ教育が進展していて、牛乳にエイズ患者の血液を注射器で注入したくらいでは、なかなか感染しないものだとは、大部分の生徒は知っているのではないでしょうか(現に、修哉の血液検査の結果は「陰性」でした!)?
 にもかかわらず、森口先生がクラスの生徒にそのことを明らかにすると、生徒全員がパニックに陥りますが、それははたして現実的でしょうか?
〔尤も、母乳哺育による乳幼児のエイズ感染という事例がいくつもあるそうで、そこから類推すれば、あるいは感染の可能性を全面的に否定できないのかもしれません。〕

ハ)修哉が、最後に学校で大惨事を引き起こそうとしたのは、母親の注意を自分に引き付けるためだったとされ、それは修哉のマザー・コンプレックスがしからしめるものだと説明されています(そのためには、学校の生徒という無関係な者が犠牲になって、社会的な怒りが修哉に集中する必要があったとされています)。
 ただ、修哉の母親は、修哉が彼女を求めているのを十分に知りながらも、自分のこと、研究者として行きたいという自分の願いを第一に考えて、修哉から離れてしまう女です。常識的には、修哉は母親を酷く憎むのではないでしょうか?としたら、森口先生が最後にしたことは、無意識的に修哉が求めていることの実現ではなかったか、決して修哉に罰を与えたことにならないのではないか、とも解釈できるかもしれません。
〔尤も、マザー・コンプレックスといっても、様々な要因が含まれるのであって、その中には当然のことながら肯定的な要因―「愛情」―だけでなく、否定的な要因―「憎悪」―も含まれていると考えられるところです。〕

ニ)森口先生は、自分の娘を殺害した生徒が少年法の壁によって厳しい罰が与えられないところから、自分自身で「復讐」しようとするのですが、どんな理由があろうともそれはやはり私的制裁であって、法治国である日本では許されるべきものではないはずなのに、森口先生の復讐について映画ではなんら疑問視されていない点には大いに問題を感じてしまいます。
〔尤も、森口先生の復讐が実際に行われたのかどうかについては、この映画では確定できないように作られていると思われ、仮に実行されていないのであれば、こんなことを問題視しても意味はありません。〕

ホ)元々よく分からないのは、いったいなぜ映画は、3学期末の終業式の日における森口先生の「告白」から始まるのでしょうか?何を誰に何のために「告白」するのでしょうか?


(注)下で触れる粉川哲夫氏が、この点について次のように述べています。
「「なんてね」は、「なんちゃって」よりもソフトな言いかただが、いずれにしても、一旦強いことを言い、相手を驚かせたり、脅かしたりしたあとで、「なんちゃってね」と言うことによって、すべてを「水に流す」語法である。むろん、言ってしまった以上、いくら「なんちゃってね」という語を付加しても、言ったことが無化されるわけではないから、この語法は、そういう形で、言ったことがもたらすかもしれない深刻な帰結に対する責任を回避する予備工作的な操作である」。


(2)そこで「告白」です。
イ)「告白」というと、ルソーの『告白』とか、アウグスティヌスの『告白録』などが思い浮かぶところ、 なんとなく西欧的な概念、あるいはキリスト教的な行為(注)という感じがしてしまいます。
 とはいえ、いうまでもないことながら、映画『告白』における「告白」は宗教的行為とは言えません。
 ただ、原作の小説においては、第1章のタイトルが「聖職者」、第2章は「殉教者」、……第6章も「伝道者」とされていて、原作者はキリスト教における「告白」を十分に意識しつつ小説を書きあげているものと考えられるところです。

ロ)「告白」についてまずクマネズミが思いつくのは、例の『愛のむきだし』において、主人公のユウが神父である父親テツに対して、犯した様々の罪を「告白」する場面です。
 6月14日の記事でも若干触れたところですが、同作品において、ユウ(西島隆弘)の父親テツ(渡部篤郎)は、情熱的な女性カオリ(渡辺真起子)がたった3ヶ月で自分の下を去ると、ユウに「懺悔」を強要するようになり、ユウは、愛する父との繋がりを保とうとして、罪を「告白」するようになります。
 元々ユウは虫も殺せないほどの優しい性格でしたから、なかなか告白すべき罪などみつけられません。それでも、目の前に子どもを連れた母親がいたが疲れていたので席を譲らなかった、などの他愛もない告白をします。
 でもそのくらいでは父を満足させられないようなので、自分でわざと罪を作ってそれを告白するようになります。例えば、見つけたアリを足で踏みつぶしてしまうとか、足元に転がってきたボールを、それで遊んでいた子どもたちとは別の方向に蹴り出すなどといったものです。
 そのうちに、不良青年たちが自動販売機を破壊するのに加わったことからその仲間に入り、ついには「盗撮」行為を犯すようになるわけです。

ハ)また、酷く唐突ながら、フランスの哲学者M・フーコーが、その『性の歴史Ⅰ 知への意志』(渡辺守章訳、新潮社)の中において、「告白」を取り上げています。
 すなわち、フーコーは、まず「少なくとも中世以来、西欧社会は、告白というものを、そこから真理の産出が期待されている主要な儀式の一つに組み入れていた」のであり、「告白は、西欧世界においては、真理を生み出すための技術のうち、最も高く評価されるものとなっていた。それ以来、我々の社会は、異常なほど告白を好む社会となったのである」と述べます(同書P.76~P.77)。
 そして、「キリスト教の悔悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった」というところから、西欧における「告白」と「性」との関係を分析していきます(P.79)。
 ですが、そこからはクマネズミの手にあまりますし、映画との関連性も薄い思われますので、ここでは、「告白」に関して、フーコーが一般的に述べている個所を引用してみることにしましょう。
 すなわち、「人は、少なくとも潜在的にそこに「相手」がいなければ、告白はしないものであり、その相手とは、単に問いかけ聴きとる者であるだけでなく、告白を「要請」し、「強要」し、評価すると同時に、裁き、罰し、許し、慰め、和解させるために介入してくる裁決機関なのである。」「そこでは、口に出して言うということだけで、それを言語化した者においては、それが招く外的結果とは関係なく、内在的な変化が生じるような儀式である」(P.80)。

ニ)そこで述べられていることからすると、今回の映画における冒頭の森口先生の「告白」はどのようにとらえられるでしょうか?
・誰の「要請」に基づく「告白」なのでしょうか〔誰かに「強要」されてというより、森口先生自身の内心の声とも思えますが。しかし、なぜいきなり森口先生は「告白」するのでしょうか〕?
・誰を「相手」とする「告白」なのでしょうか〔クラスの生徒全員でしょうか、修哉と直樹でしょうか。しかし彼らは「裁決機関」なのでしょうか。そうでないとしたら、なぜ森口先生は「告白」をするのでしょうか〕?
・そこで「告白」されていることは「真理」なのでしょうか〔神の赦しを請うものであれば「嘘」は混じっていないはずですが、森口先生の「告白」は神の赦しを求めるものではないとしたら〕?
・「告白」されている内容は何に関するものでしょうか〔森口先生の「告白」には、性にかかわるものはほとんど含まれてはいないように見受けられます。でも、言葉に現れていない次元で「性」にかかわっているのではないでしょうか〕?



(注)ごく大雑把にいえば、「告白」とは、カトリックでは「告解」、プロテスタントでは「悔い改め」と言い、自分が犯した罪を他者(一般には、牧師や神父)に申し述べることを指すようです。そうすることで自分が罪を犯していることを認め、神の赦しを乞うための儀式とされているようです。

(3)評論家等の論評を見てみましょう。
 「映画ジャッジ」の面々は、この映画を高く評価しています。
 前田有一氏が、「レディオヘッドやクラシック曲がいい具合に使われ、スローモーションや青みがかった映像、けれん味あふれるVFXの効果など、監督の演出もびしっと決まっ」ており、「全員の持てる力が総動員された、映画らしい映画」であり、「現時点(2010年6月)における、私が見た中で本年度ベストといえる」と絶賛して95点を、
 福本次郎氏は、「様々な角度から撮影された短いカットを積み重ね、強調と省略、アップと遠景など、あらゆる表現術を駆使して心理的リアリティを追求した映像は衝撃に満ち、一瞬も気の緩みを許さない緊張感を孕む」として80点を、
 渡まち子氏は、「「犯人は少年法で守られる。でもこのままにするわけにはいかない」。同様の無念を抱く事件が現実に多いだけに、主人公のこの言葉はリアルな憎しみとなって観客に迫ってくるだろう。犯罪の法的処罰などまったく念頭に置いていないところに、この映画の暗いカタルシスがある」などとして70点を、
それぞれつけています。

 他方で、評論家の粉川哲夫氏は、この映画について、論評の冒頭で「この作品、力作だと思う」と述べるものの、最終的には「非常にいい線を行きながら、結局は「旧世代」の目線になっていると思う」と評しています(星4つの内の3つ。4月28日の記事)。

 また、評論家の浦崎浩實氏は、「僕は途中で寝ちゃったんです。……あれ、第一章の彼女の話だけでもう完結しているんじゃないかと」。「(松たか子は)大きな声では言えないけれど、大根ですよね。あの人はほっぺたと口の周辺だけで芝居している」などと語っています(雑誌『シナリオ』8月号「桂千穂の映画館へ行こう」)。

 さらに、監督の井筒和幸氏は、7月3日号『週刊現代』掲載の「今週の行ってみる?」において、この作品を徹底的にこき下ろしています。
 クマネズミとしては、映画ジャッジの評論家たちの言っていることの方に軍配を上げたいものの、現役の映画監督の意見ですから拝聴すべきところもあるのではとも思われます。であれば、まずは井筒監督が製作し現在公開中の『ヒーローショー』がどんなものなのか、それを見なくては話が始まらないと思い立ち、急遽映画館に出かけてみました。
〔以下は、明日の記事として掲載したいと思います。〕


★★★★☆

象のロケット:告白
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「建築はどこにあるの?」展

2010年07月17日 | 美術(10年)
 4月の下旬から3ヶ月にわたって竹橋の東京国立近代美術館で開催されている「建築はどこにあるの?7つのインスタレーション」展を見てきました。
 「7組の建築家による新作インスタレーションの展示」と聞いて、そんなものをわざわざと二の足を踏んでいたのですが、好きな建築デザイナーの伊東豊雄氏(注1)が参加していると聞き、また作品の写真撮影が出来ることも面白いなと思い、出かけてきました。

 この展覧会のねらいは、気鋭の日本の建築家にインスタレーションの制作を依頼し、それらの作品の「どこにどのような形で建築が現われてきているかを捜すこと」にあるようです。

 会場には、次のようなインスタレーションが置かれています。
・何か動物のようにも見える構築物(「まちあわせ」と題するアトリエ・ワンの作品。竹を曲げて東屋風に作られたもので、美術館の外に置かれています)、
・平面が三角形で体積が100立方メートルくらいある構造体(「とうもろこし畑」と題する中村竜治氏の作品。中は無数の紙のフレームで満たされています)、
・実際の建物の模型(「草原の大きな扉」と題する中山英之氏の作品。北海道の草原に作られているキオスクと納屋を3分の1のスケールに縮小したもの)、
・家の模型のような構造体(「物質試行51」と題する鈴木了二氏の作品。模型でありながら、全体を均一に縮小していません)、
・「空間」が明滅する部屋(「赤縞」と題する内藤廣氏の作品。レーザー光線で床に大きな縞模様ができています)、
・模型の一日を見せる映像空間(「ある部屋の一日」と題する菊池宏氏の作品。先ず模型が展示され、隣の部屋に置かれているスクリーンにその模型の映像が映し出されます)。

 そして、最後はお目当ての伊東豊雄氏のインスタレーション「うちのうちのうち」です。
 現在瀬戸内海の大三島に作られている「今治市伊東豊雄建築ミュージアム(仮)」の2分の1のスケールの模型とのこと。
 全体は、3種類の多面体が組み合わされて作られた空間になっています。そして、多面体内部の斜めになった壁面には、いくつかの空間構成システム(3次元チューブの連続体とか、湾曲するアーチの連続体といったもの)が展示されています。
 こうしたインスタレーションと実際の建物の設計との関係について、伊東豊雄氏は、当展のカタログに掲載されている「アンケート」において、次のように述べています。
 インスタレーションは、「未だ形態や機能の定まらない孵化過程の建築の前状態」であるが、「建築を設計する過程は、イメージやコンセプトが社会化されるプロセス」だ。


 以下の画像は、持参したデジカメでクマネズミが撮影した伊東氏のインスタレーションの様子です(注2)。
 インスタレーションの入口から中を見た感じです。



 壁面にあるいくつかの空間構成システムです。





 作品の天井の一部分です。




 本来的には、「建築はどこにあるの?」の答えを見出した上で、それを写真に収めて美術館の「公式ページ」に投稿すればいいのでしょうが、上に掲載した画像は会場での単なるスナップ写真に過ぎず、とても「答え」になどなってはいません。
 それに、仮に「答え」を見出せたとしても、場所によっては人が絶えず通りかかるためにうまく撮影できません。また、そもそもそんな「答え」があるのかどうかも疑問ですし、それが写真撮影に適したものであるかどうかも分かりません。
 逆に言えば、伊東氏の作品は、現在進行中のプロジェクト縮小模型ということですから、それ自体が「建築」であることは間違いないところでしょう。だとしたら、上の画像はどれもある意味で「答え」になっているのかもしれません!
 なお、伊東氏の作品は全体に非常に明るいので撮影しやすいのですが、他の作品は大部分、明るさの不足からフラッシュを必要とするものの、それは禁止されているのです!

 最後に、偶然、講演のために来館されていた伊東氏にお目にかかれたので、カタログにサインしていただきました!




(注1)伊東豊雄氏の作品については、「大館樹海ドーム」(1997年)や「せんだいメディアテーク」(2002年)を見て興味を持ち、その後も「TOD’S表参道ビル」(2004年)を見たり、東京オペラシティアートギャラリーで開催された個展に出かけたりしてきたところです。

(注2)記事の冒頭に掲げた画像は、この展覧会についての美術館HPに掲載されているものです。
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さんかく

2010年07月14日 | 邦画(10年)
 ちょっとしたコメディーが見たくなったので、『さんかく』を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。

(1)この映画に登場する人物は、皆それぞれちょっとずつダメぶりを発揮します。
 主役の百瀬(高岡蒼甫)は、釣具店のアルバイト店員ながら、後輩に対する態度もデカく、また400万円もの費用がかかった改造車を乗り回しています。
 百瀬の同棲相手の佳代(田畑智子)は、同年輩で化粧品販売員。数少ない親友から、ある商品の販売を勧められると、誰が見てもマルチとわかるにもかかわらず、親友がそんな事をするはずがないと、信じてしまいます。
 そんな彼らが暮らしているマンションの狭い部屋に、佳代の妹・桃(小野恵令奈)が夏休みということで一緒に暮らし始めるところから、この映画は動き始めます。
 桃は、中学3年生にもかかわらず、成熟していて、百瀬の気を引くしぐさをしたりして、ついには彼は佳代を捨てて桃の方に乗り換えようとするところまで行きますが、……。

 こんな狭い部屋に、いくら妹で中学生とはいえ、若い女の子を連れてきて一緒に暮らせばどんな事態になるのか、佳代さん、あんたは前もって考えなかったの?
 捨てられて初めて百瀬に対する愛を強く感じて、佳代さん、あんたは捨てないよう百瀬に付きまとうけれど、そんなことをしたら却って彼に嫌われるのが分からないの?
 夏休みが終わって田舎に帰った桃に何度電話を入れても返事がないにもかかわらず、1回キスをしたくらいで愛があったと信じて、その田舎まで改造車に乗って押し掛けていくのは、百瀬さんよ、いったい何を考えているんだい?
 そんなに百瀬が付きまとってくるのが嫌なら、桃さん、百瀬に1度くらい電話を入れてモウかけてくるなと言えばよかったのでは?

 などなど、映画を見ながら独りでつぶやいてしまいました。
 マアそれほど登場人物が身近な存在と思えるよう、リアルに造形されているのでしょう。それにコメディ色が加わるのですから、実に楽しい映画といえます。

 主演の高岡蒼甫は、以前井筒監督の『パッチギ』における威勢のいい在日韓国人高校生役を見事にこなして印象的でしたが、この映画における「ダメ男」振りもなかなかよく、今後の活躍が期待されるところです。
 また、小野恵令奈(AKB48のメンバー)も、大層自然な感じでよくやっているなと思いました。
 とはいえ、一番拍手を送りたいのは田畑智子。嫌われてもあくまでも一緒になろうとして一生懸命になっているときの仕草とか、田舎に引っ込んでしまって諦めきっているときの姿など、なかなかの演技力だなと思いました。

(2)この映画を見ている内に、そこで描かれている人間関係は、制作した吉田恵甫監督の前回作『純喫茶磯辺』(2008年)となんだか似ているのではと思えてきました。
 というのも、『純喫茶磯辺』では、祖父からの遺産を元手に喫茶店を開く父(宮迫博之)と、仲里依紗扮するその娘と、それに父が雇ったウエイトレス(麻生久美子)との微妙な関係(ある意味の三角関係でしょうか)が面白く描かれているからです。

 そこで、もっと他の作品はドウカナと思って、『机のなかみ』(2006年)をTSUTAYAから借りてきました。



 驚いたことに、この映画では「さんかく」の関係が二つも出てくるのです。
 まず、主演のフリーター(あべこうじ)は、愛人と同棲しているかたわら、家庭教師先の女子高生(鈴木美生)に一目惚れしてしまい、愛人を冷たく扱うようになります(ここら辺りは、映画『さんかく』の主人公とそっくりに思えます)。
 女子高生の方も、彼に気があると受け取れるような物言いをしたりするので、彼の思いは次第に深まって一線を越えようとしたところで、突然この映画は、フィルムが破損したようになって中断します。
 そこからは、この女子高生のこれまでの日常生活が描き出され、実は同級生の男子生徒が好きなのだと分かります。ですが、その男子生徒は、前から彼女の親友と深く付き合っていて、彼女はそのことを言い出せないままなのです。
 とはいえ、その男子生徒の方も、彼女のことを憎からず思っていることが次第に分かってきます(ここにも「さんかく」が読み取れます)。
 そして、この二つのストーリーが、女子高生の父親が彼女の部屋に闖入するところから一緒になって、……。

 どうも、『さんかく』を制作した吉田恵甫監督は、「さんかく」の人間関係に強い関心を持っていると言えそうです。
 これらの映画では、一人の男性と二人の女性とで「さんかく」が形成されています。
 といっても、『純喫茶磯辺』では、父と娘とは単なる親子関係ですし、また『机のなかみ』における家庭教師の同棲相手と女子高生とは、わずか1度顔を合わせるだけで希薄な関係といえるでしょう。
 ところが、『机のなかみ』における男子高生と二人の女子高生の関係は、典型的な三角関係といえます。何しろ、それぞれの女子高生は親友の関係でありながら同じ男子高生が好きなのですから。ただ、一方の女子高生はそれを公言して憚りませんが(実際に肉体関係がありそうです)、もう一方の女子高生は親友にそのことをはっきり言えません(でも、その男子高生と二人で映画を見たりします)。結局二人は、喧嘩別れしてしまったようです。

 こうした観点から『さんかく』を見てみると、佳代と桃とは、もともと姉妹の関係で、また桃には同級生で好きな男子高生がいることから、百瀬を取り合うことにはならず、二人の間ではほとんど波風はたちません。とすれば、『さんかく』の人間関係は、『机のなかみ』における家庭教師を巡る「さんかく」の関係に類似していると思います。

(3)映画評論家は、総じて好意的です。
 小梶勝男氏は、「3人とも、どうしようもなくダメな感じがするのは、それだけリアルで、見ている方が身につまされるからだ。まるで自分のことを見ているような気がする」が、ラストの「3人は3すくみの状態」の「三角形が美しい。3人は複雑な表情なのだが、これから、相手のダメさを許すことで、自分のダメさも許せるようになるのではないかという、そんな予感が漂っている。観客もまた、ダメな自分を許すことが出来るような気がしてくる。この光景だけでも、本作を見る価値はあると思う」として81点を、
 福本次郎氏は、「ありふれた暮らしがいつしか予想外の修羅場になっているという本来は深刻な物語なのに、泥臭いまでにリアルなセリフと軽妙な語り口のおかげでそこはかとない笑いを誘」い、「3人が3人とも自分の気持ちばかりを優先し、他人の気持ちには鈍感になっていく。その過程で百瀬のセコさと佳代の思い込みの激しさがエスカレートし、彼らの世界が少しずつ歪んでいく構成が素晴らしい」として70点を、
 渡まち子氏は、「「できたら目をそらしたい、認めたくない」イタい自分を、観客は百瀬と佳代と桃の中に見てしまう。ビミョーな三角関係には、おしゃれなかけひきや真剣な修羅場もなく、ひたすらドンくさい。なるほど実際の恋愛は“映画のように”ドラマチックなものばかりではないのだ。そんな等身大のこのお話は、物語として盛り上がりに欠けるので、夢中にはなれないのだが、見終わってしばらくしてからジワリと効いてくる」として55点を、
それぞれ与えています。



★★★☆☆


象のロケット:さんかく
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闇の列車、光の旅

2010年07月11日 | 洋画(10年)
ブラジルに3年間いたことがある因縁で、中南米の映画が上映されると出来るだけ見に行くようにしてきたことから、『闇の列車、光の旅』もTOHOシャンテシネで見てきました。

(1)この映画の中心人物は、自分たちを取り囲んでいる厚くて高い塀を何とか乗り越えようとする若い二人です。
一人は、メキシコの田舎のギャング集団(ストリートギャング集団「マラ・サルバトゥルーチャ」のサブグループなのでしょう)から何とか逃れ出ようとするヒーローのカスペルであり、もう一人は、ホンジェラスの首都の貧民窟から逃れ出てアメリカに行こうとするヒロインのサイラです。
当初二人は、何の関係もなしに別々の生活を営んでいましたが、ヒロインらがアメリカに行くべく乗り合わせた列車(といっても、その屋根に不正乗車しているにすぎませんが)を、ヒーローがボスと一緒に襲撃した際に、離れていた二つの線が一つの線に合わさります。
その際にボスがサイラを暴行しようとするのをやめさせようとして、ヒーローはボスを殺してしまうことから、彼は「マラ・サルバトゥルーチャ」の仲間からつけ狙われます。はたして二人はアメリカに無事入国できるでしょうか、……。

この映画が興味深いのは、色々な出来事が複線的に描かれていることではないかと思いました。たとえば、
イ)ヒーローとヒロインが、メキシコとホンジェラスと、全然別の国で無関係に生活しているところから物語が始まります。
尤も、中米という酷く狭いところに人為的にひかれた境界線で別の国になっているだけのことで、言葉もスペイン語が共通ですから、それほど隔絶した感覚ないのかもしれませんが。

ロ)カスペルは、列車を襲撃する前に、自分の恋人をボスが暴行しようとして誤って殺してしまったことを知っていて、そのボスが再度サイラを暴行しようとしているのを見て抑えが利かなくなったのでしょう、思い余ってボスを殺してしまいます。ところが、ヒーローは、このボスの取立てで、このギャング集団の仲間になり、その後も目を掛けられてきたようなのです。

ハ)この列車襲撃の際に、カスペルは、自分が目をかけてきたスマイリーという少年を同行させますが、ボスを殺した後、スマイリーのためを考えて自分と同行させずにギャングのもとに戻します。その結果、逆にスマイリーは、ギャング団に忠誠心を示そうと、ヒーローを殺そうと追跡するようになります。

ニ)サイラは、自分を救ってくれたヒーローに好意を持ちますが、彼は、ボスに殺された恋人のことが忘れられないこともあって、ヒロインを遠ざけようとします。ですが、彼女はくじけずあくまでもカスペルについていこうとします、そして、……。

この映画を監督した日系アメリカ人のキャリー・ジョージ・フクナガ氏は、弱冠33歳で、これまで2本の短編映画しか製作していないにもかかわらず、無名の俳優たちを使いながら、初長編のこの作品を頗る感動的なものに仕上げたのは素晴らしいことだと思います(ちなみに、大層感動的な長編第1作目の『息もできない』を製作したヤン・イクチュンも35歳です!)。

(2)この映画では、メキシコのグアテマラよりに位置する町のストリートギャング集団「マラ・サルバトゥルーチャ」が登場します。
これは現実のギャング団であり、元々は、アメリカのロサンゼルスに住み着いたエルサルバドル難民を守るために結成されたエルサルバドル人だけのグループだったそうですが、現在ではアメリカだけでなく、中米全域にその活動拠点を広げる強大なグループとなっています(このように勢力が拡大したのは、アメリカ政府が多くのマラ・サルバトゥルチャを本国のエルサルバドルに強制送還してしまったことによるとされています)。

劇場用パンフレットに掲載されている川崎美穂氏の解説によれば、彼らは、「自らが凶暴なギャングであることを示すためのタトゥー」をいれています(「映画の中でも、彼らのアジトには専属の彫師がいて、稚拙なデザインを極めて不衛生な環境下で仲間に入れている場面がある」)(注1)。



また、「人を殺めた者は目の下にティアドロップス(注)のタトゥーを入れる場合が多い」とのこと(注2)。下図では見難くて恐縮ですが、右目の横下に小さな刺青が描かれています。




(注1)同じように国境を巡る物語である『フローズン・リバー』でも、その女主人公レイの腕にはタトゥーが入っていました(尤も、レイがギャング団の一味というわけではありません)。
(注2)映画の中では“ラグリマ”とスペイン語で言われていますが、そのタイトルをつけた非常に有名なクラシック・ギターの曲がF・タレガによって作曲されています。


(3)評論家諸氏は、総じてこの映画に対して好意的です。
渡まち子氏は、「劇中には、中南米の移民問題と犯罪組織の実態がリアルに描かれ社会性を感じさせるが、同時に、青春映画のみずみずしさをも放っている。容赦ない結末の中に、かすかな光が見えるのは、真っ直ぐに前を向くサイラの瞳のおかげかもしれない」として75点を、
福本次郎氏は、「映画は経済格差の底辺からなんとか這いあがろうともがく少女と、組織を裏切った少年の逃避行を通じて、中米の貧困の現実に迫る」作品であり、「貧しさが犯罪を生み、犯罪が産業を衰退させて更なる治安の悪化を生むという負のスパイラル。先のことなど考えず、今だけしか見つめられない彼らの現状が切ないほどリアルに再現されている」として70点を、
前田有一氏も、「ほのかな意外性を感じさせるラストシーンは、パウリナ・ガイタンのパーフェクトとしかいいようのない素晴らしい表情のおかげで、観客も一気に涙が噴出する。過酷極まりない長い旅の、そのつらさ全てがこの数秒間、一気に感動に変換されて押し寄せ」、「人々の満足度を大いに高める優れた締め方であった」として65点を、
それぞれ与えています。



★★★★☆



象のロケット:闇の列車、光の旅
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