映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

塀の中のジュリアス・シーザー

2013年02月27日 | 洋画(13年)
 『塀の中のジュリアス・シーザー』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)1月に『もう一人のシェイクスピア』を見ており、また演劇関係のドキュメンタリー作品『演劇1、演劇2』を見たばかりでもあり、この映画に興味を惹かれました。

 映画の舞台は、ローマの郊外にあるレビッビア刑務所。



 同刑務所では囚人による演劇実習が毎年行われ、舞台で上演される際には一般人にも公開されますが、その年はシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』(「ブルータス、おまえもか?」の台詞で有名です)をやることになります(注1)。
 俳優の選定に当たりオーディションが行われ(注2)、刑務所の重警備棟に入っている囚人たちが名乗り出ます。
 ブルータス役、シーザー役、アントニー役、キャシアス役などが次々に選ばれ、早速稽古に入りますが、さあ、シェイクスピアの戯曲は上手く演じることが出来るのでしょうか、……?

 日本だったらこんなことは絶対にあり得ないと思えるところ、本作では、実際の服役囚が画面に素の顔をさらして演じているのですから驚きです(なかには、稽古に熱心な余り、自分と役柄との見境がつかなくなってくる囚人がいたりします)。
 それも、皆よく台詞を咀嚼し情熱をこめて演じており、映画全体として戯曲の大体が分かるように大層上手く編集げられてもいます(76分という短さも好ましく思いました)。

(2)予告編などで、本作は本物の囚人によって演じられるとされていても、「本物の囚人」らしくプロの俳優が演じているに違いないと思っていました。
 でも、映画のラストに、出演する俳優の犯罪歴までもがはっきりと映し出されると、もしかしたら本当に「本物の囚人」が演じているのではないかと思わざるを得なくなります(注3)。

 仮にそうだとすれば、『演劇1、演劇2』と同じように(注4)、稽古と上演の様子が描かれているドキュメンタリー作品ということになります。
 でも、映画の途中で、面会から戻ったアントニー役が落ち込んでいる姿が映し出されますが、如何にも“演技してます”といった感じが漂っていますから(注5)、なかなかそうとも言えないのではないかという気もしてしまいます。
 それに、舞台が修理中ということで使えないため、刑務所内のあちこちで稽古が行われますが、演出家による駄目出し(注6)なども行われませんし、稽古の場所がむしろ舞台よりもずっと適している感じもするのです。



 そこで、仕方ありませんから、劇場用パンフレットに頼ることになります。
 すると、例えばこんなことが分かります。
・脚本が作成されている(その際には、シェイクスピアの戯曲の再構成・再構築が行われている)。
・ブルータス役は、2006年に出所しており、その後俳優に転身し、様々な映画に出演している。



・演出を担当した舞台監督のファビオは外部の者で、さらにキャシアス役が演出には協力している(注7)。

 要すれば、予め作成された脚本にのっとって、刑務所内の囚人と外部の俳優が一緒になって、最初から最後まで演技をしたということのようです。
 であれば、本作は劇映画であって、ドキュメンタリー作品とは言えなくなります(注8)。

 尤も、ドキュメンタリー作品とされる『演劇1、演劇2』であっても、まるで平田オリザ氏らの“素”の顔が映し出されているように見えながらも、けっしてそうではなく“演じて”いるようでもあり(注9)、なかなか劇映画とドキュメンタリー作品との線引きは難しいようです。

 さらに考えると、本作では、二重の意味で“リアル”が問われているのではないかと思いました。
 一つ目は、今申し上げたように、本作がドキュメンタリー作品なのか劇映画(フィクション)なのかという点ですが、二つ目は、本作で描き出されている『ジュリアス・シーザー』に感動するかどうか、という点です。
 すなわち、第一点目に関しては、“素”か“演技”かというところで“リアル”について検討できるでしょうが、第二点目については、演じられた戯曲について“リアル”さを感じるかどうか、ということではないかと思われます。
 ただ、劇映画とドキュメンタリー作品との線引きが難しいとなると、より重要なのは、第二点目ということになるでしょう。
 その場合、“リアル”とは何かということになるでしょうが、とりあえずここでは、観客に感動をもたらすヴィヴィッドなリアリティとでも言っておきます。
 本作の場合、台詞が英語からイタリア語に置き換えられ、どんな感じで観客に受け取られるのかはわかりませんが、俳優が喋りやすいように様々な方言混じりの台詞となっているようです。
 また、シーザーの暗殺場面とか、ブルータスやアントニーの演説場面とかが、舞台ではなく石の壁で囲まれた刑務所内となっていることはことのほか臨場感をもたらします(注10)。
 といったようなことから、クマネズミは本作の『ジュリアス・シーザー』に“リアル”を覚えました。

(3)渡まち子氏は、「監督のパオロとヴィットリオのタヴィアーニ兄弟は、共に80歳を越えるが、本物の刑務所や囚人を使った演劇を映画に収める実験精神や、刑務所内をモノクロで、本番の劇をカラーで描き分ける美的センスなど、感覚はすこぶる若々しい。日本では決して実現しないだろう映画作りで、アートに最大限の敬意をはらうイタリアらしい映画だ」として75点を付けています。



(注1)シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』については、この記事が大変参考になります。
 なお、同戯曲には、シーザーやブルータスの妻が登場しますが、そのウエイトが少ないため、男性の囚人による上演に適していると言えるのかもしれません。

(注2)オーディションでは、国境において名前、生年月日、出生地等を申告する際に、悲しみと怒りの2つを表現する、という課題を囚人に課します。

(注3)さらには、映画の中では、ブルータス役が「台詞が覚えきれない、これで観客に上手く伝えられるのか」などと素のようにしゃべったりしますし。

(注4)同作品では、平田オリザ氏の作・演出による『火宅と修羅』や『ヤルタ会談』などといった戯曲について、その稽古風景と上演時の様子がスクリーンに描き出されます。

(注5)他にも、シーザー役とキャシアス役が、稽古の最中に、素に戻ったかの如く喧嘩をし始めたりしますが、その写し方を見ると劇映画風の感じを受けてしまいます。

(注6)何も、『演劇1、演劇2』に見られる平田オリザ氏の精緻極まる「駄目出し」をここに求めるわけではありませんが!

(注7)と言っても、全体の演出は、この映画を制作(監督・脚本)したパオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟によっていて、ファビオやキャシアス役は演出家及び演出家補の役を演じたようですが(ファビオは、俳優に対して指示を出したりしますが、それも演技なのでしょう!)。

(注8)従って、本作の最初と最後に、刑務所内の劇場に入ってきたり退出したりする一般観客の姿が映し出されますが、それは演出されたものであり、さらには、舞台の模様がカラーで映し出されますが(それ以外はモノクロ)、それもその場面だけの限定的な演技なのではと思われるところです。
劇場用パンフレットによれば、舞台監督のファビオは、『ジュリアス・シーザー』のオリジナルを刑務所内の舞台で上演すべく、レビッビア刑務所に戻ったとのことです。

(注9)『演劇1、演劇2』を制作した植田和弘監督が書いた『演劇vs.映画』(岩波書店、2012年)で同監督は、演劇作家・岡田和規氏との対談において、「平田(オリザ)さんは徹底的にカメラを無視するんですが、それって実は意識しているってことですよね。僕は一体何を映しているのか、この人たちはどこまでが“素”なのか、“演技”なのか、ずっと疑問に思っていました。ただ、よく考えてみると、僕たちも普段そうじゃないかなって」などと述べています(P.202)。

(注10)映画の最初と最後に映し出されるブルータスの自死の場面は、刑務所内の舞台で演じられましたが、ブルータス役の迫真の演技は素晴らしいものがありました(なんだか、『ブリューゲルの動く絵』についてのエントリの「注3」で触れたブリューゲル作『サウルの自殺』を思い出しました)。




★★★★☆




象のロケット:塀の中のジュリアス・シーザー

東京家族

2013年02月24日 | 邦画(13年)
 『東京家族』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)本作については、最近の山田洋次監督の作品はあまり評価できない上に(注1)、小津安二郎の『東京物語』(1953年)をリメイクしている作品と聞いて、二の足を踏んでいたのですが、あちこちで評判を耳にするものですから、重い腰を上げて映画館に出かけてみました。

 でもやはり、頷けませんでした。
 単に、『東京物語』の表面的なシチュエーションを現代的なものに置き換えているだけで、内容的には余り現代のものになっていないのではないかという感じがします。
 瀬戸内海の島から老夫婦が東京にやってきて、2人の息子や1人の娘に出会うところ、老夫婦が携帯電話を所持していたり、都内見物をしている時にバスから見える景色の中にスカイツリーがあったり、横浜のインタコンチのホテルに泊まったりするのですが、そんなことは別に大したことではないと思われます(単に風俗が変わっただけのことでしょう)。
 一番違和感を覚えるのは、家族問題に焦点を当てるとしながらも、登場するどの家族にも目新しい問題が何も起きていないことです〔挙句は、一人暮らしの次男に恋人がいることが分かったりするのです!〕。
 むろん、『東京物語』で描かれている老夫婦と息子や娘とのやや冷たい関係は、本作でもそのままです。でもそれだけでは現時点でリメイクする意味など余りないのでは、と思えてしまいます(注2)。

(2)とはいうものの、そこは名だたる山田監督、様々な工夫を凝らしています。
 例えば、映画の冒頭を見てみましょう。
 小津監督の『東京物語』では(注3)、まず、尾道で、登校する子供たちの姿などに引き続いて、寺院(浄土寺)の前を通過する列車が映し出された後、家の中で父(笠智衆)と母(東山千榮子)が旅支度をしています。
 次女(香川京子)が勤めに出た後、隣の主婦(高橋豊子)が窓から顔を出し挨拶し、場面は東京の平山医院に移り、長男(山村聰)の妻(三宅邦子)が2階の掃除をしていると、迎えに行った長男が両親を連れて到着し、長女(杉村春子)も一緒にやってきますし、遅れて次男の妻(原節子)も顔を見せます。



 他方、山田監督の『東京家族』では、いきなり平山医院の場面となり、長男(西村雅彦)の妻(夏川結衣)が部屋の掃除をしています。そこに、長女(中嶋朋子)がやってきて、品川に迎えに行った次男(妻夫木聡)からの連絡の有無を尋ねます。
 そこへ次男から、両親(橋爪功吉行和子)が見つからない旨の連絡が入るものの、居場所を聞くと品川駅ではなく間違って東京駅にいるとのこと。長女は、「全く役に立たないんだから」と怒ります。
 場面は品川駅に変わり、携帯電話で次男が見つからない旨を連絡して、両親はタクシーを使って長男の家に行くことに。



 両親が長男の家に着いてから暫くして次男も長男の家にやってきます。

 こうしてみると、『東京物語』の方は、時間的な流れに沿って淡々とゆったり物語が進行しますが、『東京家族』では、冒頭の短い間に、家族を構成する各々の人物の感じを素早くスピーディに観客に把握できるよう、大層巧みに構成されているように思われます。

 描き出されている時間のスピードアップは、母親の死にもうかがえます。
『東京物語』の方は、大阪に立ち寄ってから尾道に帰り着いた後で亡くなりますが、『東京家族』では、東京滞在中にそれこそアッという間に亡くなってしまうのです(注4)。

 こうした慌ただしい感じは、両作の間に横たわる半世紀以上の期間に生じた社会現象のスピードアップに、あるいは対応していると言えるかもしれません。
 ただ、それは、東京と瀬戸内とを結ぶ鉄道として夜行列車(注5)が走っていた時代から新幹線の今へというような物理的な面のみならず(注6)、例えば昨今の急激な少子高齢化といった面でもうかがえるところでしょう。
 ですが、そういう方面になると、本作は余り切り込んではいない感じがします。

 例えば、まず老夫婦が泊まることになる長男の家には、『東京物語』と同じように2人の子供がいたりするところ(注7)、昨今では少子化で4人以上の家族の割合は減少してきているようです(注8)。
 また、『東京家族』における老夫婦の3人の子供は、それぞれ結婚しているか、結婚が見込まれていますが(注9)、未婚者が増えてきているのが現状ではないでしょうか(注10)?

 さらに、母親が突然に亡くなってしまいますから、本作には今のところ介護問題が生じていませんが、認知症の親の介護をどうするかに悩む家が増えているのが現状ではないでしょうか?

 こんなあれやこれやから、本作が余り現代的とはいえない感じがするな、と思ってしまいます(注11)。

 とはいえ、出演する俳優陣は、『東京物語』の優れた俳優陣と比較するのは酷ながら、皆それぞれの持ち味をうまく出していると思いました。
 特に、妻夫木聡は、『東京物語』では登場しない役柄ながら、このところの好調ぶりを維持していて、なかなかいいなと思いましたし、その相手役の紀子を演じる蒼井優も、まぶしさを感じました(注12)。




(3)渡まち子氏は、「名作「東京物語」を現代に置き換えた家族ドラマ「東京家族」。小津の愛した“紀子”が希望を象徴する」として70点を付けています。




(注1)尤も、最近では『おとうと』を見たくらいで、とても大きなことは言えませんが。

(注2)上記「注1」の『おとうと』に関するエントリで、「この作品は、日本の家族を描き続けてきた山田洋次監督の集大成的なものとされますが、その家族が今や大きく変質しつつある、という方を見ないで、旧来の枠組みの中で家族を描き出そうとしているのでは」と申し上げましたが、これは本作にも少なからず当てはまるのではないでしょうか?

(注3)『東京物語』の内容については、この記事が参考になります。

(注4)さらにいえば、『東京家族』において、父親の周吉は同郷の友人の沼田(小林稔侍)と居酒屋で飲み明かした際、そのメートルの上がり方の早さには驚きます。挙げ句の果ては、周吉は、「この国はどこかで間違ってしまったんだ。もうやり直しはきかないのか。このままではいけない」なとと気炎を上げる始末です。
 他方、『東京物語』における周吉は、次第に長男のことを沼田に愚痴り出しますが、「まァ ええと思わにゃいかんじゃろ」と言って納得もしている感じで、『東京家族』のような怒りには到達しません。

(注5)『東京物語』の頃は、この記事によれば、東京-尾道に約16時間かかったとのこと。

(注6)『東京家族』における老夫婦の住む「瀬戸内海の小島」がどこなのか映画では明示されていませんが、仮にロケ地の「大崎上島」ならば、広島空港のスグ南側に位置しますから、常識的には飛行機を利用するのではと思われます。
 ちなみに、三原から東京までは新幹線で約5時間ですが、飛行機ならば、フライト時間はおよそ80分間です。

(注7)中学生と小学生の男の子という年齢構成まで同じです。ただ、『東京家族』の場合は、弁当を持って塾通いという現代的な様子が描かれているところ、「閉じこもり」とか「いじめ」といった問題までは踏み込んではいません。

(注8)この記事における表4-2「世帯人員別一般世帯数の推移」。

(注9)次男の昌次は、母親に、紀子にプロポーズしたことを打ち明けます。
なお、昌次は、『東京物語』では戦死したとして描かれなかったキャラクターながら、本作においては、舞台美術に携わる若者といった役柄とされています。
 ですが、定職に就いているとは言えず、飛び込みの仕事を請け負っているにすぎないように見え(要すれば、フリーターかニートと言うところでしょうか)、その点を父親も心配しているようです。
 さらに昌次は、3.11の被災地救済のボランティアに出向いた際に紀子と出会ったことになっていたりして、今的な要素が取り込まれているように見られますが、そうしたことが彼の言動と深いところで結びついているようには余り受け止められませんでした。

(注10)この記事のグラフを見ると、『東京物語』の頃よりも、現在、婚姻率はかなり低下しており、逆に離婚率は倍くらいに増加しています(同居20年以上の離婚の件数になると、著しい増加が見られます)。

(注11)『東京物語』を現代的な視点から捉え直す上であるいは参考となるのは、『演劇1、演劇2』についてのエントリで専ら取り上げた平田オリザ氏の戯曲『東京ノート』ではないでしょうか?



 平田氏の著者『演劇入門』(講談社現代新書、1998年)では、「『東京ノート』は、小津安二郎監督の名作『東京物語』からモチーフをとっている」(P.112)などと述べられています。
 そして、「『東京物語』のなかで、私がいちばん好きなシーンは、原節子演ずる紀子が、笠智衆と東山千榮子演ずる義理の両親を、はとバスに乗せて案内するシーンだった」として、「そこで私の妄想が膨らみはじめる。美術館を舞台にしてみたらどうだろう。美術好きの姉とその姉の状況に合わせて美術館に集う兄妹たちという設定が、すぐに頭に浮かんだ」と述べています(P.116)。
 実際に『東京ノート』では、『東京物語』のシチュエーションが、田舎で父親の面倒をみている長女(美術が好きです)が上京し、美術館で一緒に食事をしようと兄妹たちが集まってくるというように置き換えられています〔特に、次男の妻は、次男から「他に好きな女の人がいる」と言われて、離婚を考えているようです(ハヤカワ演劇文庫『平田オリザⅠ 東京ノート』P.116)〕。
 勿論、戯曲と映画とではかなりの違いがあるでしょう。戯曲の場合は、プロットや設定も、映画とは異なり、相当簡略なものにして、観客の想像力に委ねなくてはならなくなると考えられます(平田氏の上記の著書のP.65など)。
 それでも、小津監督の『東京物語』をリメイクするというのであれば、映画の場合であっても、一度このくらいまで物語を解体した上で現代的なものを創り上げていくことが必要なのではと思われるところです。

(注12)蒼井優は、上記の『おとうと』でも魅力的でしたが、ぜひ、世のオジサマ族から息子の嫁にしたい女優といわれてしまうような存在にならないでもらいたいものです。




★★★☆☆



象のロケット:東京家族

演劇1、演劇2(下)

2013年02月21日 | 邦画(13年)
(3)それぞれの作品について
B.『演劇2』では、専ら、平田オリザ氏と外部の世界との交流が描かれています。
イ)映画では、平田氏と政界との繋がりがまず描き出されます。
 映画の撮影時期は2009年9月に民主党が政権を取る前で(注1)、その後政治の表舞台で活躍することになる面々と平田氏とが「こまばアゴラ劇場」の中で談笑する様子が映し出されます(注2)。こうした関係があったが故に、平田氏は、民主党が政権に就き鳩山氏が総理になると内閣参与に就任し、その所信表明演説などの原稿の作成に関与したものと思われます(注3)。
 こんな政界との繋がりは、平田氏の政治的信条に基づくものでしょうが、基本的には、その演劇活動をスムースなものにしたいと考えてのことなのでしょう(注4)。

ロ)国との関係では、平田氏は「拠点助成金」を強調します。
 この助成金は、劇団ではなく劇場に対して文化庁から交付されるもの。平田氏は、年に6,000万円から8,000万円が支給され、これがないと潰れるしかないと言いながら(注5)、それを申請する書類の内容をチェックしたりしています(3年に一度見直しが行われるとのこと)。
 助成金申請がその後どうなったのか詳しいことは分かりませんが、ネットで調べてみると、文化庁の「地域の芸術拠点形成事業」が2010年度で打ち切りとなったところ、2011年度から本格的に始められた「優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業」として「こまばアゴラ劇場」は、全国で12だけの「重点支援施設」に採択されたものの、それまでの「拠点助成」の約三分の一に減額されてしまったようです(注6)。
 政界との太いパイプがあったにもかかわらず、平田氏は「事業仕分け」の流れに抗しきれなかったというべきなのでしょうか?

ハ)地方との関係では、鳥取市鹿野町で2008年に始められた「鳥の演劇祭」(注7)に、平田氏は青年団を引き連れて参加し(注8)、鳥取市の竹内市長や鳥取県の平井知事と親しく会話する姿も映し出されます。

 なお、この演劇祭は昨年9月に第5回目が開催されたようですから、その後も順調のようです(注9)。今後、演出家・鈴木忠志氏が主宰する劇団SCOTが中心になって開催される世界演劇祭「利賀フェスティバル」のような広がりのあるものになっていくのでしょうか(注10)?それとも、山形国際ドキュメンタリー映画祭(想田和弘監督は『選挙』を出品したことがあります)のようなものになるのでしょうか?

ニ)さらに、鳥取県倉吉市の中学校の国語のモデル授業で、平田氏は演劇を教えます。
 教室を10人程度ずついくつかの班に分け、それぞれの班に演劇の台本を作成させ、なおかつ教室の前で演じてもらいます(注11)。
 テーマとして「転校生の紹介」が与えられますが、さすが現代の中学生、突拍子もない台本を作成したり、なかなか面白い演技を披露したりします(注12)。
 平田氏は、演劇の面白さを生徒たちに理解してもらおうと努め、最後の講評では、それぞれの班の出来栄えを評価しつつ、自分の演劇論を展開することを忘れません。

ホ)映画ではロボット演劇のことが取り上げられます。
 2体のロボットと2人の役者による20分の戯曲が、入念にコンピュータ調整が行われ、劇団員をも交えて稽古がなされた上で、上演されます(注13)。
 これは青年団だけでできるわけでなく、大阪大学や大阪の企業との緊密な連携が必要であり、特に事前のプログラムの作成や数値のインプットには思いがけない苦労があったようです。

 上演後、ロボットと一緒に演じる役者が「自分がロボットと違うのはどこなんだと考えてしまう」と言う一方で、平田氏は、「ロボットに内面性がないにもかかわらず、舞台のロボットには感情があったように見えたのではないか」と評価し、さらにまた映画『ロボジー』についてのエントリの(3)で触れた大阪大学のロボット工学者・石黒浩氏と、一層進化したロボットを使っての演劇について話し合います(注14)。

ヘ)『演劇2』では、平田氏の国際的な活躍ぶりも見逃されてはおらず、フランスのジュヌビリエ国立演劇センターでは、フランス語版の『砂と兵隊』が上演されました。



 興味深いのは、芝居の最後に暗転があってカーテンコールがあるというのではなく、「これで終了です」といった趣旨のことが書かれたものが、舞台上部に映し出されます。
 舞台では役者が観客とは無関係に繰り返し的な演技している中を、観客は三々五々退場していきます。拍手をしようと残っている観客に対して、平田氏は、「早く帰ってくれないか」などと言う始末。
 こうしたところにも、同氏の演劇観が現れているものと思われます。

(4)二つの作品全体については、評論家の内田樹氏が、劇場用パンフレットにレビューを掲載しています。
 例えば、「この映画の「成功」(と言ってよいと思う)の理由は二つある。一つは「観察映画」という独特のドキュメンタリーの方法を貫いた想田和弘監督のクリエーターとしての破格であり、もう一つは素材に選ばれた平田オリザという世界的な戯曲家・演出家その人の破格である。この二つの「破格」が出会うことで「ケミストリー」が生み出された。二人がそれぞれのしかたで発信している、微細な歪音がぶつかりあい、周波数を増幅し、倍音をつくり出し、ある種の「音楽」を作り出している。私はそんな印象を受けた」云々と述べています(注15)。

 内田氏の論評は、「平田オリザさんが舞台で造形しようとしているのは、「いかなる既存の過激さの表象にも回収されない種類の過激さ」ではないかと私は思う」というように瞠目すべき指摘がなされているものの、全体としてレトリックに過ぎているような感じも受けてしまいます。



(注1)撮影期間は、「2008年7月下旬から9月半ば」と「11月と12月」、それに「2009年2月と3月」、その後4年ほど編集に時間をかけて、昨年の後半に公開されました〔想田和弘著『演劇vs.映画』(岩波書店、2012.10)によります〕。

(注2)民主党の議員は、劇場で上演された平田オリザ作・演出の『冒険王』を観劇してから懇談をしているようです。玄葉光一郎氏が「『冒険王』の舞台がどうしてイスタンブールなの?」と聞くと、平田氏が「実際に、あの都市にあのような日本人宿があったことと、そこが東西の接点だということから」と答えたりします(このシーンが挿入されていることによって、『冒険王』の全体像を知らない者には、貴重な情報が与えられることになります)。



 なお、前原誠司氏は、平田氏に生まれた年(昭和37年)を聞いて「自分と同じだ」と言い、さらに「その年は、上祐など犯罪者が多いんだよ」などと話します。

(注3)当時の内閣官房副長官だった松井幸治氏との共著『総理の原稿―新しい政治の言葉を模索した266日』(岩波書店、2011)が出版されています。

(注4)上記「注1」で取り上げた『演劇vs.映画』における想田氏との対談の中で、平田氏は、「(政治に関わらない方がいいって言う)声があることはわかっていますが、あまり気にしないようにしています。政治と適度な距離を持つことは大事ですけど」などと述べています(P.154)。

(注5)劇団員年代別ミーティングの際、平田氏は、「今年は、助成金が1,000万円減らされて大変だ」、「最終的には、劇場の敷地を打って得られるお金でこれまでの借金を返済しなければならないかもしれない」などと述べたりしています。

(注6)この記事を参照(「こまばアゴラ劇場」HPの中の「これまでのお知らせ」に掲載)。

(注7)同演劇祭の中心である「鳥の劇団」については、この記事を参照。

(注8)2008年の演劇祭では平田氏の作・演出による『ヤルタ会談』が上演され、鳥取市長も観劇しています。

(注9)昨年のプログラムによれば、青年団も『銀河鉄道の夜』(作・演出が平田オリザ)で参加しています。

(注10)映画の中で、平田氏は、韓国の密陽市で開催される演劇祭が、この「鳥の演劇祭」によく似ていると言っていたように思います(同演劇祭については、例えばこの記事を参照)。

(注11)平田オリザ著『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、2012,10)の第2章では、富良野市立布部小学校における授業例が記載されています。
 そこでは、文部科学省の「コミュニケーション推進事業」が取り上げられているところ(たとえば、この記事で概略を確認できます)、その後その予算(特に自民党政権になってからの平成25年度予算案における扱い)がどのような扱いになっているのかはわかりません。

(注12)ある班では、転校生が火星人だったりします!

(注13)演じられる戯曲『働く私』は、働くために作られたにもかかわらず働く気力がなくなっているニートのロボットを巡るお話のようです。
平田氏は、劇団員に対するのと同じように、ロボットの喋り方や動き方に一つ一つ細かいダメ出しをしていきます。

(注14)方向性についてのヒントは、上記「注11」で触れた平田オリザ著『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』において、「無駄な動きを永遠に継続できるロボット」(P.75)、ロボットに「ランダムな動きを取り入れること」(P.76)とされている点に見られるのではないでしょうか?

(注15)内田氏のレビューは、同氏のブログでも、映画の公式HPでも読むことができます。
 なお、本作についてのレビューとしては、例えば、この記事も大変参考になると思います。




★★★★☆




演劇1、演劇2(上)

2013年02月20日 | 邦画(13年)
(1)この間取り上げました映画『鈴木先生』の原作漫画本の第10巻奥付に記載されている「参考文献」には、劇作家・演出家として著名な平田オリザ氏の『演技と演出』(講談社現代新書、2004年)が記載されていて、そういえば渋谷イメージフォーラムで同氏を描いたドキュメンタリー作品が昨年後半に上映され高い評判を得ていたにもかかわらず見逃してしまったなと残念に思っていたところ、このほどオーディトリウム渋谷で短期間上映されることが分かり、それならばと1日休暇を取って、総計約6時間の『演劇1』と『演劇2』とを続けて見てきました(注1)。

 この2つの作品では、ドキュメンタリー作品で定評のある想田和弘監督が、鳩山元総理の演説原稿を書いたことでも知られる平田オリザ氏に密着して、その演劇の世界を映像で描き出そうとします。
 見る前までは、いくら評判が高いといっても最後はその長さにうんざりしてしまうだろうなと思っていましたが(特に、連続して見たりすれば)、平田オリザ氏の実に旺盛な行動力や独特の見解などに圧倒され、なおかつそれを捉える想田監督のカメラワークの素晴らしさもあいまって、ラストに至っても更に見続けたいと思うほどでした。

(2)とはいえ、ドキュメンタリー作品の場合、どうしてもそこで中心的に描かれている事柄―本作の場合は、平田オリザ氏の考え方とか行動ぶり―の方に関心が集中してしまいますが、一歩離れて全体を見回すと、この映画を製作した想田監督の映画―「観察映画」(注2)―とは何なんだ、という点にも関心が向います。

 本作は、最初に申し上げましたように、6時間を一気に見させるだけの強い喚起力を持っている素晴らしい作品であることは間違いありません。ですが、平田オリザ氏の世界を描く上で欠くことができない同氏の舞台そのものに関しては、作品からはかなり断片的な印象しか持ち得ませんでした。
 確かに、素晴らしい舞台を実現するために様々なことを平田氏らが行っているわけで、そうした周辺的とも思える事柄は実に綿密に描き出されています。にもかかわらず、その核となるものが断片というのでは、見ている者はなんだかはぐらされた感じに囚われます。やはり、「観察映画」の観点から嫌った「舞台の記録映像」―それも最初から最後までノーカットの映像―が必要ではないでしょうか(注3)。
 これは、あるいは6時間もの映像を見続けただけに、却って一層そのような気になるのではとも思われます。それだけの長さの作品を作るのであれば、平田氏の一つの作品くらいは映画の中に取り込めたのではないか、と思われるところです(注4)。

 こうした点は、例えば世評が高い『選挙』(2007年)にもうかがえるのではと思います。
 同作をDVDで見てみましたが、確かになかなか興味深い作品ながら、なんだか重要な点が抜け落ちてしまっているきらいがあるのでは、とも思えてきます(注5)。
 映画は、2005年の川崎市議補欠選挙に自民党から立候補した山内和彦氏の選挙期間中の有様を克明に捉えています。ただ、そこに見られるのは日本的な風土に根ざした独特の風景ながら、ある程度一般人も見聞きしている感じがします。
 むしろ、なぜ山内氏はこんな選挙に立候補したのか、彼の主義主張は何なのかということ(注6)、さらには、どういうプロセスで山内氏が自民党公認候補に選ばれたのか、そしてその2年後の川崎市議選にどうして彼は不出馬だったのか、という選挙戦を挟んでの前と後ろの問題、そうした点に映画は深く切り込んでいないがために、山内氏の2週間の行動のみが延々とスクリーンに映し出されても果たしてどんな意味があるのかな、という思いがしてしまいます(注7)。

 こうしたことから、想田監督の「観察映画」という概念は実にユニークで興味深いものではあるものの、余りそれにとらわれ過ぎてしまうと(注8)、肝心なものを取り逃がしてしまう恐れがあるのではないか、という気がします。

(3)それぞれの作品について
A.『演劇1』では、平田オリザ氏の演劇それ自体についてのかかわりが専ら描かれます。

イ)本作の冒頭では、平田氏の『ヤルタ会談』の稽古の様子が描き出され、劇団員(島田曜蔵)の台詞の言い回しについて、繰り返し「駄目出し」がなされます。
 もう少し進むと、今度は、著名な『東京ノート』の一場面につき、劇団員(松田弘子)に対し、しつこいくらいの「駄目出し」がなされ、そのたびに一緒に稽古をしている2人の劇団員(後藤麻美、山村崇子)も、該当場面のはじめからやり直します。
 その際の「駄目出し」が、実に微細な点なのに見ている方は驚かされます。
 「駄目出し」は他の演目についても映し出されますが、例えば、「台詞と台詞の間、0.3秒長くして」とか、「あと1歩奥に入って」、「こういうグラデーションで」などといった感じです。

 平田氏が指摘した点を修正して劇の稽古は進行していきますが、どうやら平田氏は指摘した点を何かに書き記すことはせずにいるように見えます。
他方、「ダメ出し」を受けた劇団員は、指摘されたことを反復練習したりしてなんとか覚え込もうとします(注9)。
 とはいえ、映画を見ていると、数回繰り返しの稽古をした後は次の稽古の場面に移ってしまうようですから、果たして、平田氏や劇団員は個々の「駄目出し」の点をすべて本番の時まで覚えていて、指摘通り修正された舞台が実現されているのかという点になると、すごく訝しく感じます。
 でも、実際には、稽古の期間は2か月以上設けられているようなので、映画から観客が見て取る以上に反復練習が行われているものと思われます。

ロ)映画では、教職員を相手にしたワークショップで、平田氏が「架空の縄とび」を参加者に行ってもらう様子が描かれます。
 これは、平田氏独特の概念「イメージの共有」の実例ということで持ち出されます(注10)。
 すなわち、平田氏は、「演劇はイメージの共有のゲームであり、イメージがうまく作れると、そのイメージが観客に伝わる」、「でもその共有ができない人が一人でもいたら、全体がしらけてしまう」、「観客は、イメージの共有がしにくいものを劇場で見たいと思う」、「一番共有しにくい物は人間の心の中」などと話します。
 こうして、ワークショップの参加者の体と心をほぐすための具体的で単純なゲームから、演劇とは何かという抽象的なレベルにまで話が及ぶ平田氏の指導法は、その演劇論の広がりをいかんなく示すものと言えるでしょう。



 また、平田氏は、ある講義の中で「大人は様々な役割を演じながら生きています」とか、「仮面の総体が人格なんです。私たちは演じる生き物なんです」と述べます。
 こうしたところは、映画『鈴木先生』やその原作漫画の中で、鈴木先生が話している事柄と通じるところがあるように思われます(注11)。

ハ)本作では、中高生を相手のワークショップの模様も紹介されています。
そこでは、参加者が自分たちで台本を作成し、上演するわけですが、平田氏は最初に、戯曲の場面構成の話をします。
 すなわち、物語には、「起」「承」「転」「結」があり、さらにそのそれぞれにも起承転結があるが、演劇の場合、そのすべてを取り上げるわけにはいかず、その中からいくつなの場面を拾い出して台本を作成し、捨てた部分は観客の想像にゆだねるようにする、などと説明します。
 これはおなじみの説明ながら(注12)、参加者が台本を作成したり、上演に向けて稽古している間に、暇を見つけては平田氏は、パソコンを開いて自分の戯曲の台本を書きこんでいるのです(注13)。
 むろん、それは第1稿なのでしょうが、あの精緻極まる平田氏の戯曲台本がこのようにして作成されているとは、チョット驚きでした。

ニ)劇団の岡山公演では、平田氏の作・演出の『火宅と修羅』が上演されました。



 映画では、その「仕込み作業」の模様が映し出されますが、驚いたことに、劇の舞台に登場する役者たちも、その仕込みに加わっているのです。
 その中で、舞台美術の杉山至氏と舞台照明の岩城保氏は、役者ではなく専属のスタッフながら、想田監督のカメラの前では、かなり演技をしていたと話している点は、興味深いことです(注14)。

ホ)本作に登場する青年座の役者の中にはこれまで邦画で見た顔がいくつかあり、その意味でも親しみが持てるところです。
 例えば、古館寛治は、『キツツキと雨』で主役の克彦(役所公司)にいろいろ頼みごとをするチーフ助監督役を務めていましたし、志賀廣太郎は、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』では、主人公(浅野忠信)が入るアルコール病棟の患者を演じていました。



(注1)『演劇1』が2時間52分、『演劇2』が2時間50分。

(注2)「観察映画」については、想田和弘著『演劇vs.映画』(岩波書店、2012.10)の中で、その特徴が10項目にわたって列挙されています(例えば、「被写体や題材に関するリサーチは行わない」、「台本は書かない」、「ナレーション、説明テロップ、BGMを原則として使わない」など)(P.9~P.10)。

(注3)この点は想田監督も自覚しているようで、上記「注2」の『演劇vs.映画』の中で、「作品の最初から最後まで、すべてをノーカットで見せる」ことでは「「舞台の記録映像」にはなっても、ドキュメンタリーにはならない。少なくとも、僕が目指す「観察映画」にはならない」云々と述べる一方で(P.51)、他方で「「平田演劇の見せ場を映画の観客にも堪能してもらう」という点においては、どのように編集を工夫してみても、ついに僕は「演劇」二部作を通じて十分には実現できなかったように思う」とも述べています(P.87)。

(注4)あるいは著作権上の問題があるのかもしれません。平田氏の戯曲については、その舞台がかなりDVD化されて紀伊國屋書店から販売されていますから。

(注5)といって、なにも現象の背後に隠れている本質をえぐり取るべきだ、などと申し上げたいわけではありません。

(注6)映画からは、山内氏は「改革を実行する」人という極めて茫漠としたイメージしか伝わってきません。少なくとも、選挙期間中に開催された立会演説会における発言内容を伝える場面があってもよかったのではと思えるのですが。

(注7)山内氏は、川崎市議会で自民党が過半数を確保するための単なるタマとして、期間限定で使われただけ人のように思えてしまいます。

(注8)上記「注2」の『演劇vs.映画』の中で、想田氏は「観察映画は、観察する「個」としての作り手の存在を前提とした映像表現である」と述べているところ(P.34)、その意識があまり強く出過ぎると問題をはらんでくるのではないかと考えられます。

(注9)上記「注2」の『演劇vs.映画』に掲載されている座談会の中で、一方で劇団員の山内健司氏が、「「このぐらいかな」って自分のやりやすい間でやっていたところを、そこで「0.5詰めて」だったら、「ああ、そこは間延びしているんだな」と感じるっていうか」が述べているところ、他方で劇団員の松田弘子氏は、「オリザは「あと0.5秒」とか言うけれど、それは今やったことに対して相対的なことだから、自分で絶対的なものに直して覚えておかないと駄目で、そこは頑張ってやるようにしている」と述べています(P.184)。

(注10)本文冒頭で取り上げた平田オリザ著『演技と演出』の第1章「イメージの共有」で、詳しく展開されています。そこでは、「架空の縄とび」は“イメージの共有しやすいもの”の例として挙げられ、他方、「架空のキャッチボール」は“イメージの共有しにくいもの”とされています。

(注11)例えば、映画『鈴木先生』に関するエントリの「注8」をご覧ください。
 とはいえ、原作漫画で描かれている鈴木先生の演劇指導法は、従来ベースのもののように思えるところです。何より、取り上げられている演目が『ひかりごけ』なのですから!

(注12)例えば、平田オリザ著『演劇入門』(講談社現代新書、1998.10)のP.62~P.65。

(注13)上記「注2」の『演劇vs.映画』に掲載されている座談会の中で、劇団員の松田弘子氏は、「台本をオリザがパソコンで書いているのを見ると、やっぱり台詞の2行目のアタマはタブで寄せているんだ」と言っていますが(P.168)、あれほどたくさんの台本を作成しているにもかかわらず、随分と原始的なやり方でインプットしているのだなとクマネズミも思いました。

(注14)上記「注2」の『演劇vs.映画』に掲載されている座談会の中で、岩城氏は、「僕は仕込みのああいう現場では演じているんですよ。まさしく。照明って少人数のチームでやるんですけど、その中で割と僕ね、指示を出す人、リーダーを演じるんです」と述べたりしています(P.128)。



みなさん、さようなら

2013年02月14日 | 邦画(13年)
 『みなさん、さようなら』をテアトル新宿で見ました。

(1)昨年の大層面白かった『ポテチ』と同じ監督(中村義洋)‐主演(濱田岳)の組合せということで、映画館に足を運びました。

 物語は、小学校卒業式の前日の出来事がトラウマになって、団地(実に大きな団地で、その中には商店街まであって、何でも揃っています)の敷地の外へ一歩も踏み出せなくなった母子家庭の渡会悟濱田岳)を巡ってのお話(注1)。

 本作では、団地に住む子供たちの数が具体的に示されるところ、その出発点は、1981年(昭和56年)の卒業式の日。その日、小学校を卒業した107名は皆が団地の子供でした。
 それが17年経過すると、30歳(以下、年齢は推測です)の悟一人しか団地にいなくなってしまいます。
 その間、悟も、例えば16歳になると団地内で就職したり(注2)、団地内の同級生の女の子と付き合ったりと(注3)、それなりに努力してきました。
 でも、世の中の動きは激しく、団地内のいくつかの棟が取り壊されたり、商店街も大部分が閉鎖されたりしてしまいます。
 さらには、空いた部屋に外国人まで入居するように(注4)。
 いったい悟は、このままどう独りで生きていこうとするのでしょうか、……?

 本作の舞台は団地の中だけという大変大胆で特異な設定にもかかわらず、一人の人間が少年から青年に至るまでの多感な時期を生きていく様子を、様々なエピソードを交えながら実に巧みに描いていて感心しました。特に、人の一番変化の激しい17年間を濱田岳が一人で演じているのですから驚異です(注5)。

(2)本作は団地の中だけを描いているにもかかわらず、時代の変化はそこに押し寄せてきて、決して世の中の動きと切れているわけではありません。

 例えば、むろん原因がまるで異なっているでしょうが、地方都市における商店街のシャッター通り化(注6)と同じ現象が本作の団地にも見られます。

 また、上で触れましたが、本作では、外国人の入居者が出現していることが描かれています。特に、30歳直前の悟は、団地内のグランドで、ブラジル人の少女・マリアとサッカーを通じて親しくなります(注7)。

 ただ、各地の団地で大きな問題になっている住民の高齢化については、本作では余り触れられていないように思います(注8)。

 また、団地の自治会のこともあります。これだけ長く団地に生活しているのですから、その自治会との接触があっても良さそうに思われるところ(特に、悟は団地のパトロールまでしているのですから)、そんな場面はありませんでした(注9)。

 といっても、これらの点は、本作がことさら団地の社会史を描くことに主眼をおいているわけではないのですから、何の問題でもありません。

(3)渡まち子氏は、「一生団地から出ないと決めた青年の孤独と成長を描く「みなさん、さようなら」。団地という閉じた世界で時代の変遷を描く演出が上手い」として65点を付けています。



(注1)その前日に、学校が終わって悟たちが下校しようとすると、突然中学2年生の少年が教室に入ってきて、包丁でクラスメートを刺し殺します。悟は危うく難を逃れますが、これがトラウマとなってしまい、団地の外に出られなくなってしまいます(映画の中では、病院で「過換気症候群」だと診断されたとされています)。
 小学校で起きた事件と団地の外へ出られなくなったこととの関係性がよく分かりませんが(団地の中にも中学生は随分いたでしょうし)、とにかく団地の出口の階段にさしかかると、悟は体の自由が利かなくなってしまうのです。

 むしろ、悟がこの団地の外へ出ることとなる切っ掛けが、母親を巡る出来事であることに興味を惹かれます。先の『ループ』に関するエントリで取り上げた浅羽通明氏の『時間ループ物語論』では、ループを抜け出す切っ掛けとなる事件は恋愛絡みとされているところ、本作では、悟が一番好きだった緒方早紀倉科カナ)と一緒にカラオケボックスへ行こうとしてこの団地を出ようとしたにもかかわらず立ち往生してしまいますが、看護師の母親(大塚寧々)が勤務先の病院で倒れたことを知った悟は、なんのためらいもなく団地の階段を降りて病院に向うのです。
 こんなことからすると、悟が団地の外に出れなくなった引き金自体は小学校の卒業時の事件とはいえ、より深層心理的には、母親のそばから離れたくなかったこと(いわゆるマザコン)にあったといえるのかもしれません(下記の「注8」で触れる事件の後処理からもわかるように、母親も悟をしっかりと見守っているのです)。
 悟は、母親が書いていた日記の最後に「あなたなら、どこへ行っても大丈夫」と書かれているのを読んで泣きますが、母親の太鼓判があるせいでしょうか、その後しっかりとした足取りで団地を出て行くことになります。

 なお、母親は結局帰らぬ人となってしまうところ、東京だったら墓地をどう手当するのかがスグに問題となるでしょう。ただ、母親が書いていた日記の最後に“散骨”を望んでいることが書かれています。これなら、当面お墓の問題はなくなりますが。

(注2)悟は、団地に設けられている商店街の中の店屋(魚屋、理髪店など)に職探しに行きますがどこでも断られ、最後になんとか洋菓子屋タイジロンヌ(ベンガル演じる泰二郎が営んでいます)に就職します。




(注3)悟は、隣の部屋の松島有里波瑠)とはしょっちゅう話しますし(ベランダに吊されている風鈴を鳴らすのが合図)、好きだった緒方早紀とは、団地内で開かれた同窓会で再会し、婚約するまでに至ります(結局は、破談になってしまいますが)。




(注4)映画の中では、卒業14年目、入居者の増加策として、2DKの部屋に単身者が入居できることとなり、それに伴って外国人の入居も増えてきた、と説明されています。

(注5)なお、25歳になった悟は、泰二郎から洋菓子屋タイジロンヌの経営を任されますが、小学校の同級生の薗田が協力してくれます。尤も、薗田はゲイで、暫くすると精神に変調を来してしまうところ、そんな薗田に扮しているのが、『ふがいない僕は空を見た』で注目された永山絢斗です。



(注6)例えば、一昨年の『サウダーヂ』に関するエントリの「注3」をご覧ください。

(注7)悟は、マリアを誘拐しようとする3人組を、大山倍達流の空手でなぎ倒してマリアを救出したりします(大山倍達は、ブラジルの格闘技カポエイラと対決したことがあるという噂があるようです)。
 なお、1989年の入管法改正前後から、ブラジル人の日本流入が増加しますが(2007年に約32万人)、上記「注6」で触れた『サウダーヂ』でも描かれているように、日本の長引く不況により帰国者が相次ぎ2011年には21万人にまで落ちています(数字は、この記事によっています)。

(注8)例えばこの記事には、「高島平団地は人口16,292人中65歳以上の方が6,612人、高齢化率は40.6%になります(平成23年10月1日現在)。しかし高島平二丁目団地に限ると、高齢化率は実に70%を超えると公表されています(高島平二丁目団地自治会報による)」と記載されています。
 なお、本作でも、悟が団地内をパトロールしていたときに、郵便受けから新聞がいくつも抜き取られていない部屋を見つけ、心配になって新聞を取り出して部屋の中を覗いてみるというシーンがあります。
 尤も、悟がそこから中を覗くと、部屋にいたおばあさんと目が合ってしまい、“覗き”だと騒がれたのでしょう、勤めていた洋菓子屋を解雇されてしまいます(ただ、お母さんの熱心な取りなしで元に戻してもらいますが)。

(注9)評判の原武史著『レッドアローとスターハウス』(新潮社、2012.9)では、例えば、「ひばりが丘団地」の自治会について、「各棟から選ばれた運営委員からなる運営委員会が最高議決機関となり、運営委員会に提出された候補のなかから、総会で会長、副会長、事務局長や、文化部、厚生部、運動部、婦人対策部、広報部の各部長などの役員が選ばれた」と述べられています(P.178)〔尤も、東急沿線では、「中央線沿線ほど地域自治が活発でなく、政治意識は新保守主義的」などとも指摘されていますが(P.393)〕.

 なお、「ひばりが丘団地」は、日本住宅公団によって「西武池袋線の沿線で最初に建てられた大団地」で(P.159)、「総戸数は2714戸」 、「全戸賃貸で、4階建てのフラットタイプ、2階建てのテラスハウス、4階建てのスターハウスからなってい」ました(P.162)。
 ちなみに、1960年に当時の皇太子夫妻が同団地を視察されたことが同書に記載されています(P.169~P.172)。
(同書全体についての書評は、例えばこの記事を参照)



★★★★☆



象のロケット:みなさん、さようなら

さよならドビュッシー

2013年02月07日 | 邦画(13年)
 『さよならドビュッシー』を渋谷ヒューマントラストシネマで見ました。

(1)昨年はドビュッシー生誕150年ということで、ブリジストン美術館に『ドビュッシー 音楽と美術印象派と象徴派のあいだで』展を見に行ったり、同展についてのエントリーの末尾にも書きましたように、この映画の公開を待ち望んでもいました。

 物語の主人公は16歳の橋本愛)。同い年のいとこのルシア相楽樹)と同じ家に暮らしています。
 というのも、10年前にルシアの両親は、外国における医療活動に従事すべく、彼女を遥の親にあずけて出国したきり行方不明になってしまったからです。
 それでも今や2人は音楽学校に通い、遥はピアニストを目指しています。
 としたところ、ある晩、祖父(ミッキー・カーチス)が居住する離れが火事となり、祖父のみならず、離れで暮らしていた2人のうちルシアが火事に巻き込まれて死に、遥も大火傷を負ってしまいます。
 遥は四肢に障害は残るものの、九死に一生を得て退院できるまでになり、再びピアノに向かいます。
 その背景には、莫大な資産を残して死んだ祖父の遺言がありました。
 それによれば、遥には12億円の資産が遺されますが、すべて彼女がピアニストになるために使われるというものでした。
 遥は、退院するとリハビリに一生懸命に励み、ピアノを岬洋介清塚信也)に習って目標を達成しようとします。



 ですが、シャンデリアが彼女の上に天井から落ちてきたりするなど、彼女を亡き者にしようとする不穏な動きが見られます。
 そればかりか、母親が、教会へ行く階段から落ちて意識不明の重体にもなります。
 こうなると、祖父やルシアが死んだあの火事についても疑惑がもたれるようになってきます。
 さあ、一連の事件はどのように解決するのでしょうか?
 そして、遥のピアニストになるという夢は実現するのでしょうか?

 中山七里氏による原作が第8回「このミステリーがすごい!」大賞の受賞作ということで、本作もミステリー物と思っていたところ、謎解きの要素は大したことがなく、専ら主演の橋本愛をプレイアップすることが主たる眼目の作品のように思え、幾分肩透かしを食らった感じながら、ドビュッシーのピアノ曲ばかりかリストの難曲まで聞くことができ、全体としてはまずまずといったところです。

 主演の橋本愛は、昨年の『桐島、部活やめるってよ』で注目されたところ、まだ17歳ながら本作でも随分とその存在感を発揮しています(注1)。



 注目されるのは、遥のピアノの先生・岬洋介役の清塚信也、彼は本物のピアニストで、本作によって俳優デビューを果たしたとのことです(作中で、リストの「超絶技巧練習曲第4番マゼッパ」を鮮やかに演奏します)。




(2)〔以下では、ミステリー物ではタブーのネタバレ頻出になってしまいますので、ご注意願います〕
 本作は、原作と違っている点がいくつかあります。
 例えば、遥がコンクールで演奏する曲目について、原作の場合、本選の課題曲がドビュッシーの『月の光』であり、自由選択が『アラベスク第1番』とされているところ、本作ではそれが逆になっています(注2)。
 マアそんなことはどちらでもかまわないところ、犯人とされる人物が原作と本作とで違ってしまっており、また原作では、岬洋介の事件解決に果たす役割が大きいのに対し、本作ではその要素はずっと後退しています(注3)。
 それに、その点にもかかわりますが、原作では、母親は階段の事故でそのまま死んでしまうところ、本作の場合は、意識不明で発見された母親は、ラストではどうやら意識を取り戻すようなのです(注4)。
 さらに、岬洋介に事件への関与を指摘された際の遥の対応は、両者でかなり異なっています(注5)。

 また、誰しも思うところでしょうが、本作・原作ともに、遥の大火傷に対しては、かなりの違和感を感じてしまいます(注6)。

 でも、そんなあれこれを論ってもあまり意味がないようにも思われます。
 本作は、謎解きミステリーというよりも、むしろ、大きな会場でピアノを演奏する橋本愛をビジュアル的にプレイアップするための映画とみなすべきであって、原作に加えられた様々の改変も、橋本愛のイメージアップにつながるように配慮された結果だと考えられ、そうであれば映像自体をまず楽しんだ方が得策なのではないかと思われます。

(3)渡まち子氏は、「ミステリー映画としては弱いのだが、全編に美しい音が流れる音楽映画としてみればなかなか楽しめる」として50点をつけています。



(注1)なんだか、『のだめカンタービレ』でピアノを弾く上野樹里―『スウィングガールズ』の時は橋本愛と同年齢くらいだったでしょう―を思い出します!

(注2)本作の場合、ある晩、自分の名前の由来〔ラテン語の「光」(lux)〕から、ルシアは遥に対して、ピアニストになったら『月の光』を演奏会で演奏してくれと強く要望します(本作のルシアは、両親がいないという自分の境遇から、ピアニストにはならずに看護学校に行くつもりだと言います)。
 この点について、岬洋介役の清塚信也は、「原作にはなかったけれど、遥があの曲にこだわる理由を編み出したことで、必然性が生まれ、またピアノを知る人にも納得してもらえたと思います」と述べているところからすると、ルシアの話は清塚信也のアイデアのようです。
 ルシアの話だけからすれば、ベートヴェンの『月光ソナタ』でも構わないようにも思えますが、余りまぜっかえさないようにしましょう。

(注3)本作では、一連の事件についての主犯(祖父たちが死んだ離れの火事)が加納弁護士で、介護士のみち子(熊谷真実)が共犯(シャンデリアの落下など)とされています。そして、それを調べ上げたのは刑事とされ、岬洋介は、事前にそのことを耳にして遥に伝えたにすぎません。
 ところが、原作の場合、岬洋介が遥に対して、「お母さんを殺したのは君だ」と断定するのです(宝島社文庫P.391)。

(注4)「お母さんが手を握り返した」との連絡が遥の元に届きます。従って、原作と違って、本作の場合、母親についての殺人事件は起こらなかったことになります。そのためもあってでしょう、本作の場合、祖父とルシアの死に対して疑惑が提起されるのだと思われます(そうしないと、傷害事件しか描かれないことになってしまいますから)。

(注5)原作では、遥は、例えば「出鱈目よ、そんなの!第一、何であたしがお母さんを殺さなきゃならないの!」などと岬洋介に反撃します(P.394)。
 これに対して、本作では、遥が自分から岬洋介に、「私、ルシアです。お母さんにあんなことをしたのもあたしです」と言ってしまいます。
 本作の場合、遥が「コンクールが終わったら警察に行くつもり」と言うと、岬洋介は「君がお母さんを突き落したわけじゃない。君が思っているほど罪にはならない」と言います(本作の場合は、不起訴扱いにでもなるのでしょうか)。
 これに対して、原作の場合、岬洋介は遥に対して「いくらなんでも5年は収容されないだろう」と言い、遥も、「当分はドビュッシーの音楽と遠ざかるのだろう。…でも、いつかまたピアノを弾ける日がきっとくる。…だからその日までしばらくお別れだ。さよなら、ドビューッシー」と思います。
 本作の場合、タイトルの「さよなら、ドビュッシー」はどこに根拠を置くのでしょうか?

(注6)これは、昨年見た『私が、生きる肌』でも思ったことですが、表面的な皮膚の移植を巧みに行うことによって、特定の人物の顔を自在に作ることができるのでしょうか?骨格の違いなどによってかなりの制約を受けてしまうのではないでしょうか?法医学における「復顔」とは、頭蓋骨に肉などをつけて行う作業ではないでしょうか(なお、『私が、生きる肌』の場合は、男を女に作り替えるというもう一段階進んだところが描かれています!)?
 本作の場合は、遥を演じる橋本愛とルシアに扮する相楽樹の顔の骨格はかなり違うように思われますが、この辺りは小説ならば適当に誤魔化しがきくかもしれないところ、映画にあっては2人の顔が画面に映し出されてしまいますから、問題があからさまになるものと思います。



★★★☆☆


ルーパー

2013年02月04日 | 洋画(13年)
 『LOOPER/ルーパー』を渋谷東急で見ました。

(1)評判のSF物ということで映画館に足を運びました。

 物語の主人公・ジョージョゼフ・ゴードン=レヴィット)は、30年後の「未来」(2074年)からタイムマシンで送り込まれてくる人物を銃で殺す作業をする「ルーパー」の一人。



 2074年においては、殺人が不可能の世界となっているために、その時代の悪の組織を取り仕切っているレインメーカーは、消すべき敵を30年前の世界に送り込んでルーパーに殺してもらうというわけです。
 ある時、ジョーは、自分が処理すべき相手が「30年後の自分(オールド・ジョー)」(ブルース・ウィリス)であることが分かります。そのためヤング・ジョーはうまく銃を撃てず、オールド・ジョーは逃げ去ってしまいます。
 そうなると、掟によりヤング・ジョー自身が殺されてしまいます。
 そこで彼は、必死になってオールド・ジョーを探すのですが、オールド・ジョーが30年前の世界にやってきたのには理由がありました。



 さてどんなわけなのでしょうか(注1)?
 そして、はたしてヤング・ジョーはオールド・ジョーを消し去ることができるでしょうか?

 タイムトラベル物は、どんなに工夫しても原理的に問題を持ってしまうと考えられますが(未来の者が過去に現れて過去の者とコミュニケーションを持てば、その時点でそれは過去ではなくなってしまいます。そしてコミュニケーションを持たないのであれば、物語に仕立てる意味がなくなってしまいます)、そんなところに余りこだわらずに本作を見れば、なかなか楽しめる作品ではないかと思いました。

 主演のジョゼフ・ゴードン=レヴィットは、『ハーフ・デイズ』に出演していましたが、本作では、30年後の自分であるブルース・ウィリスに外観を合わせるべく随分とメーキャップ等をしています(注2)。
 また、同じルーパーでジョーの友人のセス役を、『ルビー・スパークス』のポール・ダノが演じています(注3)。
 さらに、物語の鍵を握る女・サラ(注4)に、『砂漠でサーモン・フッシング』に出演したエミリー・ブラントが扮しています。



 本作の出演者は皆、その持ち味をいかんなく発揮していると思いました。

(2)タイトルが「ルーパー(looper)」となっているため、「ループ(loop)」とどのような関係があるのかと気になります(注5)。
 おそらくは、こんなことではないでしょうか。「現在」の「ルーパー」は、30年後の「未来」から送られてくる“未来の自分”をたちどころに始末しなくてはなりませんが、そうする「ルーパー」は、その時点から30年間は必ず生きているわけです。そうして30年経過すると、またもやその“未来の自分”が30年前の過去に送られて、そこには“過去の自分”が必ず存在して、その自分に射殺されるものの、銃を放つ自分はまた30年生きて、云々ということになるのでしょう。
 この繰り返しを指して「ループ(loop)」といい、それに荷担するジョーたちを「ルーパー(looper)」というのでしょう。
 
 とすればこの物語は、ちょうど最近刊行された浅羽通明氏の『時間ループ物語論』(洋泉社、2012.11)の対象範囲に入ってくるのではないかと考えられます(注6)。
 同書は、早稲田大学教育学部国文科で同氏が行った講義の一部であり、「時間ループという特異な現象、これを扱った物語を題材として、日本の現代を生きる私たちが抱いている価値観、人生観の一断面へ迫ってみ」るという狙いのもとに、議論が進められています(P.6)。

 ここでは、クマネズミが興味を持った少々の事柄について、同書と本作との関連性を調べてみましょう(分厚い本でもあり、随分とおざなりなものになってしまいますが)。
 例えば、同書においては、時間ループ物語には「時間ループ現象の苦しみを主に描くタイプと、時間ループ現象の利点を描くタイプとがあるよう」だと述べられています(P.20)(注7)。
 ただ、本作におけるヤング・ジョーは、その作業に疑問を持つこともなく淡々とルーパーとしての仕事をこなしていて、むしろ、得られる報酬をため込んでフランスに移住する夢を実現しようと頑張っている感じです。
 こうなるのも、ループに巻き込まれている当事者たちの意識に差があるからではと思われます。
 本作のジョーは、「ルーパー」との自覚はあるものの、時間ループの中に巻き込まれているという意識は持っていないようです。
 他方、同書で取り上げられる作品において当事者たちは、自分たちが時間ループの中に巻き込まれているとの意識を次第に持つに至ります(注8)。それで、「多くの場合、主人公は時間ループを抜け出そうとじたばた奮闘」することになります(同書P.19)(注9)。

 とはいえ、以上の比較は、本作においてヤング・ジョーが独りでいる間のことであり、オールド・ジョーが登場しヤング・ジョーとコンタクトをとるようになってくると変更せざるをえないでしょうが、そしてそれは大層興味深いことと思われますが、長くなり過ぎてしまいますのでそれはまたのちの機会といたしましょう(注10)。

(3)渡まち子氏は、「今の自分と未来の自分が出会う前代未聞のSFタイムトラベルの秀作「LOOPER/ルーパー」。最大の見所は無気力な主人公の心の成長だった」として75点をつけています。
 また、前田有一氏も「そこそこ頭を使うものの、それほど難解でもない。正月明けにみるにはほどほどの、やや知的な大人SF」として80点をつけています。



(注1)オールド・ジョーが結婚した女(サマー・チン)は、彼が掟に従ってレインメーカーの手下に捕えられる際、流れ弾に当たって死んでしまいます。彼は彼女を深く愛していたために、タイムマシンで過去に遡り、レインメーカーを抹殺することで彼女の死を取り消そうとします。

(注2)いくらメイクをしても元々の顔形がかなり違うのですから、そんなことまでしなくてもという感じです(違和感だけが残ります)。
 なお、ブルース・ウィリスについては、最近では『RED/レッド』や『トラブル・イン・ハリウッド』で見たくらいです。

(注3)セスは、30年後の自分を殺す羽目になった時に酷く取り乱してしまい、エイブジェフ・ダニエルズ: 30年後の「未来」からレインメーカに送り込まれた者で、ルーパーを支配下に置いています)の追手から逃れるべくジョーに匿ってもらおうとしますが、『ルビー・スパークス』でルビーに手を焼くカルヴィンを思い出しました。

(注4)サラは、レインメーカーと同じ年月日に同じ産院にいた三人の新生児のうちの一人・シドを育てていたことから(シドは、サラの姉の方が本当の母親だと言い張りますが)、オールド・ジョーにつけ狙われることになります。

(注5)なお、looperはloopの派成語でしょうが、鳩山元総理に付けられたあだ名loopyも同じ派成語のようです!

(注6)本書全体については、このサイト記事が大変興味深く紹介しています。

(注7)同書では、前者の例として、北村薫『ターン』とかR・R・スミス『倦怠の檻』等々が挙げられ、後者の例として、アニメ『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』などが挙げられています。

(注8)たとえば、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)においては、まず主人公・諸星あたるの担任教師・「温泉マーク」が、「学園祭の前日」が毎日繰り返されているのではという大層おかしな感じに囚われます。

(注9)ただし、ここには問題があります。同書が指摘するように、「意識と記憶が連続しているとすると、人間だったら、何か意志的な行動を試みて次のループをこれまでとは違うものに変えようとするでしょう」、「でも、それができるとなると、もう厳密には時間ループとは言えないんじゃないか」、「逆に、意識と記憶の連続がなく、それも一日前とかに還元されてしまうとなると、当人たちはまったくループに気づく可能性がなくなる。そもそも時間ループという怪現象が意識されることもないでしょうし、苦しみもつらさもありえないことになりましょう」(P.34)。

(注10)本作においては、オールド・ジョーが登場し、それをヤング・ジョーが追いかけます。そして、ヤング・ジョーは、オールド・ジョーを見つけ出し、掟に従って射殺しようとしますが、そこで彼を射殺するとこのループ(シドが成長してレインメーカーとなって、そして……)がまた繰り返されると悟って、銃を自分自身に向けて放ちます。

 ここで注目されるのが、シドがレインメーカーとなるループを断ち切ろうとして、ヤング・ジョーがとる行動です。これは、彼のサラとシドに対する深い愛情によると考えられるのであれば、同書が、恋愛を「時間ループ」を終わらせる要因として捉えていることにあるいは通じているのかもしれません〔例えば、「『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は、ラムの一方的な独善的恋愛ユートピア提示でできあがった時間ループ小世界が、あたるの応答(「いちばん好きなのはラムだ」)により相思相愛と確認することで終わる物語」だとされます:P.95〕。
 そして、以後のサラとシドにとって、同書でいう「直線的時間」(「毎日のくりかえし、毎週、毎月、季節のめぐり……」のような「円環的時間」ではなく、「人が生まれ育ち老いて死ぬプロセス」のような「不可逆」の時間:同書P.268~)が進行することになるのでしょうか?





★★★☆☆



象のロケット:LOOPER/ルーパー