映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ロボジー

2012年01月31日 | 邦画(12年)
 『ロボジー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)この映画は、予告編を見ただけでなんとなく全体がわかってしまう感じがして、パスしようかなと考えていたところ、実際に見てみるとなかなか面白く出来上がっていたので、拾い物でした。
 それには、主演のミッキー・カーチス(別名五十嵐信次郎)とか、濱田岳吉高由里子らの俳優陣の演技力の賜物であり、かつまた、『スウィングガールズ』や『ハッピーフライト』を制作した矢口史靖監督の力量が与って大きいのではと思われます。

 物語は、とある小規模家電メーカー・木村電器でロボット製作に勤しんでいた3人組(濱田岳ら)が、あと1週間の内に5分でも10分でもいいから動くロボットを作れとの社長(小野武彦)の鶴の一声で、窮余の一策として、被りものロボット「ニュー潮風」を作り、その中にミッキー・カーチス扮する鈴木老人を入れ、それを博覧会で披露したところ、バカ受け。今更、真実を言えなくなって、全国を巡り歩き、はては大学でロボット工学の講義までするようになります。
 そこに、このロボットに危ないところを助けてもらった吉高由里子まで加わって(実は、彼女は大学でロボット工学を研究しているロボットオタクなのです)、騒ぎは大きくなって、……。

 ロボット工学という最先端科学と、一線から疾うにリタイアした70過ぎの高齢者とが手を握るという破天荒な物語ながら、それぞれが抱える問題、さらには中小企業問題なども触れられていて、なかなか面白く見ることができました。

 主演のミッキー・カーチスは、『日輪の遺産』の冒頭とラストの方で登場する元通訳将校イガラシの役を好演していましたが、本作でも、その細身の体を十分に生かして、まさに適役に思えました。



 本作のヒロインである吉高由里子は、昨年の『婚前特急』と同様、コメディ・タッチの作品ながら、水を得た魚のように柔軟にスクリーンで活躍しています。



 また、濱田岳は、『今度は愛妻家』や『フィッシュストーリー』、『ゴールデンスランバー』など様々の作品で活躍しているところ、本作においてもなくてはならないキャラクター(社長と五十嵐信次郎と「ニュー潮風」との間に立って汗をかき続ける役柄)をこの人ならではの味わいをもって演じています。

(2)ロボットといえば、自動車工場で華々しく活躍している産業用ロボットが目に浮かびますが、むろんそれだけでなく、「AIBO(アイボ)」とか「ルンバ」といった身近なロボットも最近ではかなり出回っています。
 「アイボ」はエンターテインメントロボットであり、「搭載されたカメラから物体を視認し、声による命令を聞き分け、動作パターンなどを記憶・学習することによって個性を備えることなどが可能」でしたし(注1)、「ルンバ」はロボット掃除機です。

 こうした中で、本作に登場する「ニュー潮風」のような2足歩行型ロボットは、どんなコンセプトをもって制作されているのでしょうか?



 本作から窺えるのは、単に、人間の類似する外形を持った機械が、人間の行動の内の簡単なものを代行するというに過ぎないように見えます(だからこそ、老人が中に入っても様になるのでしょう)。
 あるいは、それを作り出した企業の技術力を世の中にアピールするということなのかもしれません。「ニュー潮風」についても、木村電器の社長は、ロボット博に出して企業宣伝をしようと考えたわけです。
 ただ、映画の中の大学の講義で明らかにされたように、その程度のことならば既に細かいところまで研究がなされていて、吉高由里子が、大学を卒業して木村電器に就職すると、すぐさま「ニュー潮風」2号が制作されてしまいます(注2)。
 でも、その際にも、なぜ人間の外形に似せたロボットを制作する必要があるのかが殆ど議論されてはいないように思われます。

 そして、そんなことをやっているからなのでしょうか、日本は工場等で使われる産業ロボットの面では、世界の先端を行く技術を持ち、かつ生産量をあげているにもかかわらず、日本のロボットが福島原発事故の現場で大活躍という報道は余りされていないように思われます(注3)。

(3)としたところ、現在、横浜美術館で開催されている展覧会で、自身の作品約100点を展示している日本画家・松井冬子氏(注4)と、ロボット工学者・石黒浩氏の対談が、雑誌『美術手帖』の本年2月号に掲載されています。

 一方の松井氏は、「爛れる自分の内臓をドレスの裾のように引き摺り、不気味な笑みを浮かべながら天地が反転する杉林を歩み行く女」(同誌P.67)など、大層不気味で陰惨な印象を見る者に刻みつける絵を沢山描いていますが、他方の石黒氏は、大阪大学大学院教授(基礎工学研究科システム創成専攻)で、「人間酷似型ロボット研究の第一人者」(同誌P.79)とのこと。


 (石黒教授と、教授をモデルに作られたジェミノイド)

 対談の中で、石黒氏は、「僕自身はアイデンティティーや存在感がすごく薄い人間というか、自分がわからないんです。松井さんも同じ感覚をお持ちなのでは?自分の存在に確信を持てないからこそ、人間らしさとは何かに余計にこだわる。それで僕はこんなロボットを、松井さんはあんな絵を描いちゃう(笑)。僕は共感しますけどね。すごくいい。」と述べ、松井氏も「ありがとうございます」と答えています。
 驚いたことに、芸術活動と最も遠い所に位置すると思われるロボット工学の第一人者が、芸術家同然の語り口で話しているのです!

 上記(2)では、「ニュー潮風」のコンセプトが分からないなどと申し上げましたが、もしかすると、その制作に当たっていた3人組は、自分のアイデンティティーを探すことに熱心だったのかもしれません!
 少なくとも、ミッキー・カーチス扮する鈴木老人は、皆から除け者にされかかっていたところ、「ニュー潮風」を被ることによってそのアイデンティティを取り戻したのではないでしょうか(なにしろ、木村電器の新型ロボット開発状況からして、まだまだ引退できない事情にあるようなので)?!

(4)渡まち子氏は、「もちろん映画はフィクションだし、このお話そのものが性善説に基づいて作られているのだからヤボなことは言わない。だがそれにしても、ニュー潮風の秘密がバレるかバレないかの“サスペンス”の部分が弱すぎる。それでも、新人俳優・五十嵐信次郎が実はミッキー・カーティスだということや、日本全国の有名ロボットが惜しげもなく集結するなど、見所は多い」として55点をつけています。



(注1)昨年12月18日のエントリの(3)で触れた立石泰則氏の『さようなら!僕らのソニー』では、「ストリンガー・中鉢体制」の誕生直後から展開されてきた措置の3番目として、犬型「AIBO(アイボ)」と二足歩行のヒト型「QRIO(キュリオ)」という「二つのエンタテインメント・ロボからの撤退」が挙げられ、「それを中止したのは、ストリンガー氏と中鉢氏が「技術」に関心がない、将来の家電製品のあるべき姿をイメージできない、見通しをもっていないからである」と述べられています(P.233~P.234)。

(注2)尤も、それも不調で、窓から地上に落下して壊れてしまうのですが。

(注3)例えば、米国の軍用ロボット「パックボット」(米アイロボット社が開発)の名前などを聞きますが。
 なお、WikipediaのASIMOの項には、「ホンダはアシモの技術を応用し、福島第1原発内で活用するアーム型ロボットも開発する予定だという」と述べてありますが、その後はどうなったでしょうか?
 また、こうした方面で研究が進まなかった事情を、なんと中国メディアが伝えているようです。

(注4)松井冬子氏については、一昨年1月7日のエントリ、及び昨年11月12日のエントリの(3)でも触れています。



★★★☆☆




象のロケット:ロボジー

マイウェイ

2012年01月29日 | 洋画(12年)
 『マイウェイ 12,000キロの真実』を渋谷TOEIで見ました。

(1)この映画については、評価がすごく分かれるのではないかと思います。
 クマネズミは、当初、オダギリジョーが久しぶりに主演する映画(注1)だから見なくてはと思って、映画館に駆け付けたのですが、半分過ぎまでは違和感に翻弄されてしまいました。
 本作が韓国映画ということはわかっていたものの、こんなにも戦前の日本や日本人が悪者に描かれるのか、という感じですから。

 でも、オダギリジョーが主演とされているのですから、どこかで流れが変わるのかなと思って見続けました。ところが、全般にわたって、むしろ相手役のチャン・ドンゴンがすごく格好よく描かれているのです。



 となると、本作は、オダギリジョーが主演となっていますが(クレジットの扱いなど)、実は隅から隅まで韓国映画であって、チャン・ドンゴンが主演の作品と考えるべきなのではないかと思えてきます(注2)。
 そうであれば、半分過ぎまでのストーリーも、あり得ないなどと言って否定ばかりもできないのかもしれません。韓国では、日本が戦前の朝鮮において甚だ酷いことをしたと、今以て学校で教えられているようなのですから!

 さて、本作の冒頭は1948年のロンドンオリンピックのマラソンの場面ですが、引き続いて、1928年に、ソウルに赴任する父親と共にやってきた11歳の長谷川辰雄少年が、地元のキム・ジュンシク少年(注3)とかけっこを競い合うというシーンが描かれます。
 それからおよそ10年が経ち、オダギリジョーの扮する青年の長谷川が登場し、ソウルで開催されたマラソン大会に、チャン・ドンゴン扮するキム・ジュンシクとともに出場します(注4)。



 実際は、ジュンシクがテープを切ったにもかかわらず、進路妨害をしたとのデッチ上げの理由で失格となり(注5)、2位だった長谷川が優勝し、その判定に怒った朝鮮人と日本人との間で乱闘騒ぎとなり、捕まったジュンシクを含む朝鮮人は満州辺境の軍隊に投入され、ノモンハン事件(1939年)が起きます。
 その戦場に突如として青年将校として着任した長谷川(注6)は、めちゃくちゃな国粋主義者で、ソ連の戦車に爆弾を持って体当たりをしろと朝鮮人たちに対して強制するも(注7)、圧倒的なソ連戦車隊に蹂躙されてしまいます。



 それでも、辛くも生き残った長谷川とジュンシクを含む日本兵は、ソ連軍の捕虜となってシベリア捕虜収容所に送られ(注8)、そこでも朝鮮人と日本人との間で乱闘騒ぎが起き、関与者として2人は銃殺される寸前のところで、今度は独ソ戦の最前線に投入されて(1941年)(注9)、……。
 そこらあたりから、ジュンシクと長谷川との間に友情が芽生えてきて、……。
 といった具合です。

 本作は、リアルという観点から見ると、ありそうもない映像が至るところに転がっている感じがします。

 例えば、長谷川は、着任するなり、前線から部隊を退却させた日本軍の大佐に、皆の見ている前で切腹させます。
 確かに、丁度折よく刊行された『はじめてのノモンハン事件』(森山康平著、PHP新書)にも、例えば「ソ連軍の8月大攻勢で、フイ高地の指揮官だった井置栄一中佐が、独断撤退して自決を強要され、それに従ったこと」(P.314)と述べられており、自決の強要はあったのでしょう。ですが、それはあくまでもピストルによるものであって、いくらなんでも切腹(それも、皆の眼前での)など考えられません(注10)。

 また、ノモンハン事件の後、長谷川やジュンシクらは、ジュコーフスキーで戦われていた独ソ戦の真っ只中に投入されます(注11)。その悲惨な戦場を生き延びた長谷川とジュンシュクは、目の前に聳えるとてつもなく高い山を越えてドイツ側に向かいます。
 地図で調べると、ジュコーフスキーはモスクワに近いところにあって、ドイツへ向かう方角に映画で描かれているような峻厳な山があるようには見えません。それに、仮にそんな山が存在するとして、冬期と思われる時期に、食料を携行せず、耐寒装備も何ら持たずに(おまけに、長谷川は負傷しているのです)、山を越せるなんて、と思ってしまいます。

 すが、こうした点をいくら論っても意味がないでしょう。
 製作者側は、おそらくは、リアルという面よりもむしろ、別の面を強調しようとして、重々分かっていながらも意図的にそうしたシーンを挿入しているものと考えられるからです。
 例えば、日本軍の大佐の切腹は、日本軍が持っていた非合理性・残虐性(あるいは、戦争が引き起こす狂気でしょうか)を強調するための演出であり、またジュコーフスキーの前面に聳える高山は、長谷川とジュンシクの前途に待ち受ける計り知れない困難さを表現しているのだ、などというように。

 更にまた、この映画からは、戦時中の日本をどのように韓国の人たちは見ているかがある程度分かりますし、また男の友情といったものもよく描かれているといえるかもしれませんし、何よりも戦闘場面の迫力はとても日本映画ではうかがえない凄さです。

 としても、やっぱり前半の描写のせいで、そんなことは有り得ないと批判すべきではないと分かっているつもりながらも、なかなかこの映画を高く評価する気にもなれないといったところが実情です。

(2)ところで、本作は、“真実”の物語(“based on a true story”)であることが売り文句になっています(注12)。
 確かに、3つの最前線で戦った男が実在したのでしょう(注13)。でもその男は、映画を見る前までクマネズミはそう思っていましたが、日本人ではないと考えられます。形式的には戦前では日本人ながらも、実は朝鮮人なのでしょう(内地出身者なら、その実名が明かされているはずですし)(注14)。
 ただ、韓国映画において、そういう男をまともに主役とすると、今の韓国がとっている見解と齟齬を来す恐れがあるところから(志願して日本陸軍に入り、積極的に日本人になろうとした男のようにみえますから)(注15)、本作ではその男を、日本人(長谷川)と朝鮮人(ジュンシク)とに人格を分割して描き出そうとしたのではないか、と思っています。
 そして、二つに分割されて描かれていた人格が一つのものになった姿が、冒頭とラストで描かれている「J.S.KIM」とランニングシャツに記されている日本人ランナー(オダギリジョー)ではないでしょうか(注16)?

 さらには、“true story”というのも、“1人の男が3つの最前線で戦った”という点についてだけで、それ以上のことでこの映画で描き出されているものは、上でも述べましたように、すべてフィクション、あるいは幻想とみなすべきではないかと思われます。
 上記の「J.S.KIM」とランニングシャツに記されている日本人ランナーについても、舞台とされている1948年のロンドン・オリンピックでは、日本人の出場はまだ認められてはいませんでした。それに、仮にゼッケン「265」を付けて走り、最後でラストスパートをかけるのが韓国人選手だとしても、実際に上位に入ったのはアルゼンチン、イギリス、ベルギーの選手でした。というところから、このランナーは、霊的なものと見なすべきではないでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「満州、ソ連、ドイツ、フランス・ノルマンディーと、どれほどの危機に瀕してもしっかり生き残る展開には苦笑するのだが、歴史の大きなうねりに翻弄されながらも、生き抜く生命があるというメッセージは力強い」などとして65点をつけています。
 他方で、前田有一氏は、「主軸となる、日本人と朝鮮人の、最初はいがみ合っていたものの最後は友情で結ばれるドラマも、この歴史描写では台無しである。監督が本当に描きたかったのはこちらなのだと思うが、日韓に中立的な描写ができない今の韓国社会の偏向ぶりが、彼の演出の腕を縮こませてしまった。この映画は韓国資本100パーセントだが、もし韓国以外で同じ映画を作ったならば、ここまでひどくはならなかったのではないか」として40点をつけています。



(注1)オダギリジョーは、最近では、『悲夢』(2009年、韓国)とか『Plastic City』(2009年、香港)といった外国映画に出演することが多くなっている感じで、邦画では『奇跡』くらいでしょうか。

(注2)登場するヒロインが思慕の対象とするのがヒーローであり、それが主役だとすれば、長谷川には一切そういう要素は見られず、むしろジュンシクにはそれに近い場面が設定されていることから、やはりジュンシクが主役と考えられるところです。
 すなわち、本作に登場する唯一といってもいい女優(ファン・ビンビン)が、戦闘機に追いかけられているジュンシクを助けようと、自分の身を投げうって、地上から戦闘機めがけて射撃するシーンが描かれます。
 なお、ファン・ビンビンが扮するシュエライは、いくら天才的な狙撃手だとしても、そして、いくら日本兵によって一家が蹂躙された過去があるからといっても、朝鮮人兵と一緒になって駐屯しているにもかかわらず、その中から日本兵だけを選択して遠くから狙撃して殺してしまうなどという芸当ができるものなのでしょうか?

(注3)長谷川少年の祖父(憲兵隊司令官)の家の使用人の息子。

(注4)長谷川は、記者会見の席上で、「車引きが自分たちに勝つことが出来るのか」と、車引きのジュンシクを挑発します。その背景には、祖父を爆死させた朝鮮人に対する深い憎しみがあるのでしょう。
 他方、そのテロ事件で、関係者としてジュンシクの父親は酷い拷問を官憲から受けたうえで、使用人として働いていた家からも追い出され、その結果、ジュンシクは今や車引きになっているわけです。
 そして、ジュンシクの家には、ベルリンオリンピック(1938年)のマラソンで優勝したソン・ギジョン(孫基禎)が、マラソン出場許可証を持って現れ、「車引きの凄さを見せてやれ」とジュンシクを励まします。

(注5)映画では、むしろ、日本人選手がジュンシクの進路を妨害したりします。

(注6)最前線に登場する長谷川は、なんと長髪なのです!でも、相手役のジュンシクも長髪ですから、問題ないでしょう。

(注7)長谷川は、体当たりを敢行しないで逃げ帰ってくる兵士を、背後から撃ち殺したりします。

(注8)ノモンハン事件の際に、長谷川の部下だった朝鮮人イ・ジョンデが、すでに捕虜の班長となってソ連の監視将兵に取り入っているのです!

(注9)1941年6月の独ソ戦当初については、昨年4月30日のエントリの(2)で触れています。
 なお、Wikipediaの該当項目によれば、ソ連側は、「10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した」とのことで、あるいは、長谷川やジュンシクらもその中に混じっていたとされているかもしれません。

(注10)ノモンハン事件については、2009年7月19日のエントリでも少しばかり触れております。
 なお、日本軍がソ連軍の機械化部隊に徹底的に撃破されたにもかかわらず、軍部はその事実をひた隠しにして、兵器の近代化を推進することなく旧式の武器を精神力で補うという姿勢で大東亜戦争に突入してしまったから、結局は負けてしまったのだ、云々という説明が従来からヨクなされてきて、それはそうに違いないと鵜呑みにしてきたところ、ソ連崩壊後、当時のソ連軍の内情に関するヨリ詳しい情報が公表されるようになってきて、どうも日本軍は簡単に撃破されたのではなく、むろん勝利したわけではないにせよ少なくとも引き分けくらいではなかったのか、と言われるようになってきました(半藤一利氏の『ノモンハンの夏』など)。
 ただ、日本軍は勇猛に戦ったのだとしたら、なぜその事実を隠蔽してきたのか、また新たな謎が出てきてしまいますが。

(注11)ソ連軍からは粗末な兵器しか渡されなかった日本人兵や朝鮮人兵は、ドイツ軍の餌食となって次々に撃ち殺されていきますが、収容所で班長を務めていたイ・ジョンデは、機関銃にめちゃくちゃに撃たれても、ジュンシクに抱きかかえられるまでは簡単には死にません。
映画で中心的な位置を占める登場人物は、時代劇そっくりの壮烈な死に様がどうしても必要というわけでしょう!

(注12)本作の邦題には「12,000キロの真実」とあり、劇場用パンフレットのIntroductionも、「1枚の写真から始まった真実の物語」とのタイトルがつけられ、同パンフレットの裏表紙にも「based on a true story」とあって、どこまでも“真実”であることを強調している感じです。

(注13)劇場用パンフレットのIntroductionでは、「ノルマンディー上陸作戦後、アメリカ軍に捕らえられたドイツ軍捕虜の中から東洋人が発見された」と述べられています。
 なお、Wikipedeiaの該当項目によれば、「Dデイ当時のフランスには約200個大隊もの東方大隊が存在しており、この約半分はフランスに駐屯していたドイツ国防軍の師団に配属されて」おり、その「東方部隊」とは、「主にドイツより東方に位置する国からの出身者で構成された部隊」であり、「戦局が悪化するにつれ占領区域からの強制徴募や捕虜収容所から志願者を募ると言う方法で部隊が編成」されたとされていますから、その中に長谷川とジュンシクが混じっていたとしてもおかしくはないかもしれません。

(注14)ベルリンオリンピックのマラソンで優勝したソン・ギジョンは、朝鮮生まれですが、「日本代表」として出場しました(Wikipediaの記事によれば、民族意識が相当強かった人物のようです)。

(注15)『ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った!』(松木国俊著、ワック、2011年9月)によれば、「朝鮮人特別志願兵制度」が昭和13年度(1938年度)より実現して、「物凄い数の志願者が殺到した」とのこと(P.238)。
 ついで、昭和19年(1944年)の4月に朝鮮でも徴兵令が実施されました。
 時期的にも、さらにまた同書によれば、「徴兵令で召集された朝鮮人兵士は訓練中に終戦を迎えたために結局、戦地におくられることはありませんでした」とのことでもあり(P.240)、仮にノモンハン事件に朝鮮人兵士が参加していたとしても、志願兵だったことになり、ましてジュンシクのように刑務所に入っている者が戦地に送られたとは考えられないのでは、と思われます。
 なお、この著書は、決して反韓国キャンペーンの本ではないと思われるものの、「朝鮮が自ら近代化を遂げることは、残念ながら不可能」だったとして、その理由をいくつか掲げていますが、仮にそうだとしても、だからといって「朝鮮併合」が直ちに正当視されるとは思えないところです。

(注16)実況中継のアナウンサーは、「韓国のキム・ジョンシク」と叫びます!





★★☆☆☆






象のロケット:マイウェイ 12,000キロの真実

善き人

2012年01月27日 | 洋画(12年)
 『善き人』を有楽町スバル座で見ました。

(1)スバル座は、今回が初めてということになります。
 というのも、これまで同館は、「映写/スクリーンが大きく傾斜がフラット。見づらいことこの上なし」とか、「床が平坦なため前の席に座られるとやや頭が鬱陶しい」といわれていたので敬遠していたところ、そんなことはないとの意見をいただき行く機会を狙っていたのですが(注1)、漸くそれが実現したというわけです。
 実際にも、スクリーンが上の方に設けられていますから、傾斜がフラットでも見辛いということはありませんでした。ただ、前方の「非常口」の誘導灯と天井の明かりが、本篇が開始されても点いたままとなっているのは、最近の映画館ではあまり見かけないのでどうしたことかなと思いました。

 さて、本作(注2)の物語の時代は1930年代、場所はベルリン、そして主人公は大学教授のハルダーヴィゴ・モーテンセン)。
 彼の家には、2人の子供と妻と母親がいます。ところが、母親は結核のようであり、また認知症気味で、いつも部屋のベットで寝ていて、何かというとハルダーを呼びます。また、妻ヘレンは、やや精神的に問題があるようで、ほとんどの時間ピアノばかり弾いていて、家事をあまりしません。
勢い、ハルダーが皆の食事を作ったりすることになり、その合間に本を読んだりしていて、家庭は、ほとんど崩壊寸前といった有様です(注3)。

 あるとき、義父から、ナチに入党しないと大学教授の職を奪われてしまう、という話を聞きます。ですが、ハルダーは文学部教授で、大学では、プルーストについて講義していますし(注4)、また、皆と一緒にパレードに参加することなどを嫌ったりしていますから、入党については乗り気ではありません。
 ところが、彼が以前書いた小説(注5)につき、ヒトラーが至極高い評価を与えていると知らされ(注6)、同時に入党を勧められ(注7)、断り切れずにとうとう入党してしまいます。
 同じころ、学生のアンジョディ・ウィッテカー)が、ハルダーに惹かれて強く言い寄ってくることもあって、関係を持ってしまったことから、これまでの生活環境を一気に整理して、新しく出直そうとします(注8)。



 やがてハルダーは、大学の学部長にまで昇進し、合わせて親衛隊の大尉にまでなりますが(注9)、かって大親友だったユダヤ人精神科医のモーリスジェイソン・アイザックス)との関係(注10)は絶縁状態になり、にもかかわらずその所在を追求するうちに、ナチが、障害者やユダヤ人対し実際に何をやっているのかを理解し、「これが現実か、……」と絶句してしまうのです。

 見る前までは、ナチ時代における大学教授の暮らしぶり―これまであまり映画で描き出されてはいないように思われます―を垣間見ることができるのかな、と思っていましたが、それはある程度映し出されてはいるものの、結局のところはやっぱりユダヤ人の強制収容所の話に行き着いてしまいます。
 時間は短いのですが、いつものとおり、ナチによる言語道断のユダヤ人取締とか強制収容所における非人道的な有様がスクリーン一杯に広がることになってしまいます。

 そうなれば、ハルダーが悩みに悩んだ挙句に、ついにモーリスのために勇気をふるってしたことなども、強制収容所の有様からすれば、随分と矮小に見えてきてしまうのも仕方がないでしょう。なにしろ、一方にとっては、地位の保全とかプライドとかにかかわることで、本人にとっては大事かもしれないものの、他方にとっては生死にかかわる話なのですから!

 本作に出演する俳優は、「指導者官房長」のフィリップ・ボウラー役のマーク・ストロング(『キック・アス』や『シャーロック・ホームズ』などに出演)を除いて知らない人ばかりですが、皆それらしい雰囲気を出していて好感が持てました。

(2)この映画のハルダーといい、昨年見た『ミケランジェロの暗号』のルディといい、腰がしっかり座っていない親衛隊員をこれで2人知ったことになります。
 彼らのようなへなちょこ野郎が本当に親衛隊に入隊できるのかよくわかりませんが、少なくともハルダーについては、親衛隊のPRという面があったのでしょう。

 そして、いずれも、その親友がユダヤ人であることが問題となってきます。
 ただ、『ミケランジェロの暗号』の場合は、そのユダヤ人ヴィクトルを芸達者のモーリッツ・ブライブトロイが演じるのですから、一時は収容所に送られてしまうものの、とても一筋縄ではいかず、結局は、ルディの鼻を明かす結果となります。

 他方、本作においては、ハルダーと親友のユダヤ人・モーリスとの関係は悲劇的です。



 早いうちに国外へ脱出した方がいいと言われていたにもかかわらず、モーリスは、出国時に10マルクしか持ちだせないなんて受け入れられないとして、またハルダーも、モーリスは退役軍人だから監禁されるようなことはないなどと言うものですから、ついつい脱出が遅れてしまい、危難が徐々に迫ってきます(注11)。
 そこでモーリスは、出国許可証とパリまでの列車切符の取得をハルダーに依頼します(「親衛隊に所属しているのだから、何でもできるだろう」と言って)。ですが、ハルダーはなかなかうまく手配することができませんでした。
 やっとのことで切符を購入するも(上司のフレディ少佐の出国許可証を使って)、自分は急な仕事で外出しなければならなくなって、それをモーリスに渡すのを妻のアンに託したところ、とんでもないことが起きてしまいます(注12)。

 その後ハルダーは、モーリスが送り込まれたとされるシレジアの収容所に出かけて会おうとしますが(「調査官」の肩書で)、収容所長は、送り込まれたユダヤ人は、その番号しか分からず、またそのうちの大多数(10人のうちの9人)は送り込まれた直後に処分されてしまうと話します。
ハルダーはその時になってようやく、自分らのしていることが大変な事態をもたらしていることを理解するに至るのです。

(3)この映画のタイトル「善き人」から、『善き人のためのソナタ』(2006年)→出演者の一人のセバスチャン・コッホ→『ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア』(2005年:クマネズミはレンタルDVDで見ました:関係者の証言とドラマとを織り交ぜてあります)という経路でシュペーアにたどりつくと、いうまでもありませんが、本作のハルダーとは対極的な民間人も当時のドイツにいたことが確認されます。



 すなわち、民間の建築家にすぎなかったシュペーアは、26歳の時に進んでナチ党に入党し、その後ゲッペルス経由でヒトラーの知遇を得、「ヒトラーの内輪の仲間の重要な一員かつ親しい友人」となって、ついには37歳で「軍需相」にまでになります。
 にもかかわらず、ニュルンベルク裁判では、死刑を免れ禁固20年の刑を言い渡されます。
 ただ、ユダヤ人虐殺には関与していなかったとされることについては、彼がそのことを知らなかったはずがないと考えられているようです。

 第三帝国における民間人の生き方としては、むしろこうしたシュペーア(大臣のではなく、生活人としての)の方が、もしかしたら普通ではないかとも考えられます。すなわち、現状の善し悪しをハルダーのように思い悩むというよりも、あるがままの現状を受け入れて、その中で自分ができることを淡々と(あるいは積極的に)こなしていく、といった生き方です。しかし、そのことが、結果としてはユダヤ人虐殺の黙認という大層恐ろしい結果をもたらしてしまうわけでしょうが!

(4)読売新聞の福永聖二記者は、「ジョンは「善き人」というより、意気地なし。親友の悲劇に怒りを覚える彼自身、行動できなかったという非があるのだ。自分も同じかもしれないと思いつつ、なかなか共感できない。快哉を叫ぶことも、涙を流すこともできず、ただ苦いものが後に残る」と述べています。




(注1)昨年8月29日のエントリのコメント欄をご覧ください。

(注2)元々は、英国の劇作家C・P・テイラーが書いた同名の舞台劇(1981年)でした。従って、会話の大部分は英語でなされます。

(注3)ある時は、母親が誤って階段から転げ落ちている一方で、台所ではヘレンが料理をするも焦げ付かせてしまい、またその部屋では調律師がピアノの調律を行っているという有様です。

(注4)学部長からは、プルーストの母親がユダヤ人だからでしょう、その講義はやめるよう指示されます。なにしろ、窓の外では、思想的な問題がある著書などが山積みにされて、火をつけられてるのですから。

(注5)不治の病に侵された妻を夫が安楽死させるというストーリーのようです。

(注6)指導者官房長のフィリップ・ボウラーから直接言われます。なお、このボウラーは、Wikipediaによれば、「ナチス文芸保護審査委員会会長」でもあり、またT4作戦(優生学思想に基づき行われた安楽死政策)の責任者でもあります。

(注7)特に親衛隊少佐のフレディステーヴン・マッキントッシュ)から強く勧められます。フレディ少佐は、小説で名が知れている大学教授が入隊したとなれば、親衛隊にとって大きな宣伝効果があると考えたようです。
 なお、後からフレディ少佐は、ハルダーに、親衛隊の中では子作りが強く求められていて、子供がいない自分は少佐止まりだと嘆いたりします。

(注8)母親を実家に預け、妻ヘレンと子供とは別れ、アンと再婚します。
母親は、ヘレンと元の家で一緒に暮らしたいと言い、それはできないとハルダーに言われると、隙を見て薬を大量に飲んで自殺しようとします。その時は、ハルダーがそれを吐き出させて事なきを得ますが、余り時を置かずに死んでしまいます。
 なお、その葬儀に参加した元の妻ヘレンの様子を見ると、ピアノ教室で忙しくしていて、今や精神的にはすっかり回復している様子です(「2人の子供にとっても、親衛隊のあなたは誇りだ」などとヘレンは言うのです)。

(注9)さらに1938年には、ハルダーの小説の映画化が進み、撮影所にゲッペルス大臣夫妻が激励に訪れたりします。その時に、ハルダーは妻のアンを紹介しますが、ゲッペルスは「生粋のアーリア人だな」と称賛します。

(注10)ハルダーはモーリスと、第1次大戦では戦友でもあったようで、ヒトラーについて、「彼はイーペルで伍長で、使い走りにすぎなかった」などと笑いあったりしています(こちらの記事では、ヒトラーについての言及があります)。
 なお、ハルダーにも戦争経験があるとすると、親衛隊の制服を着用したときのぎこちなさには、少々納得できない感じもしますが。

(注11)例えば、タイプライターを没収されてしまったり、45歳以下のアーリア人を雇うことができなくなってしまったりします。

(注12)ハルダーは、ゲシュタポに出向いてモーリスの行方をそれとなく調査していたところ、検挙者にかかる情報を網羅的に文書にして保管している機関で、モーリスが検挙されてシレジアの収容所(アウシュヴィッツでしょう)に送られたことが分かります。
 ただそれだけでなく、その検挙にあたっては、ハルダーの妻が情報を警察に通報した旨が記載されていたのです。




★★★☆☆



象のロケット:善き人

はさみ

2012年01月25日 | 邦画(12年)
 『はさみhasami』を新宿のK’cinemaで見ました。

(1)本作の場合、観客がきっと少ないだろうと覚悟はしていましたが、そして見たのが平日の夕方ですから仕方がないのでしょうが、観客がわずか3名というのも、また凄まじいものがありました。
 さらに、本作は、理容学校・美容学校の協力を全面的に受けて制作されていますから、ある意味でベタな“ご当地物”そのものであり、そうであれば『カルテット!』と似たような感じになるだろうということも事前に予想がつきます。
 ただ、こうした事前の感触を持って出向きましたから、同じように他愛のないストーリーだとしても、『カルテット!』ほど出来の悪さを感じませんでしたが。

 物語は、中野にある理美容学校を舞台に、問題のある生徒3人を巡って展開します。
 主役は、同校の美容科の永井先生(池脇千鶴)。



 その生徒の洋平窪田正孝)は、自閉症気味で情緒不安定、他の生徒とのコミュニケーションに難があります(注1)。



 また、弥生徳永えり)も、彼氏(綾野剛)との関係がうまくいかない一方で(注2)、自分の美容師手の能力にも自身が持てなくなります(注3)。それで、洋平も弥生も学校に余り来なくなってしまいます。
 また、これは永井先生の生徒ではなく、理容科の生徒ですが、弥生と大の仲良しになる「いちこ」(お笑コンビ・大好物のなんしぃ)は、トップクラスの技能を持っているにもかかわらず、親元の経済状況がよくはありません(注4)。
 こうした問題生徒に対して、永井先生は、その先輩の築木先生(竹下景子)にも相談しつつ、親身になって解決策を考え(注5)、また「いちこ」に対しても学校側はなんとかしようと頑張ります(注6)。
 おそらく3人とも、理容師・美容師の国家試験にうまく合格することしょう。

 対人関係がうまくいかない洋平の問題は、その原因となった田舎の継母と、祖母の葬式で再会したことから解きほぐれ出し(注7)、弥生も、「目標を持って継続すること」と永井先生に言われたことにハッと気づいて再度頑張りだすなど、そんな簡単なことだったのと言いたくなってきますが、まあこうした作品にそれ以上を求めても仕方がないでしょう。

 主演の池脇千鶴は、『神様のカルテ』で、主役の栗原医師に突っかかる看護師の役を好演し、本作でも先生役をなかなかよくやっているところ、最近の出演作同様、あまりラブ・ストーリー的な雰囲気に縁がなさそうにみえるのはどうしたことでしょう。それに、なんだか随分と体格が良くなったのではと思ってしまいました。

 また、弥生役の徳永えりは、『春との旅』において、祖父役の仲代達也と一緒にあちこちを旅する孫娘役を好演していましたが、本作においても、中野や国立の街中などを歩く姿がとても印象的です。

(2)本作においては、竹下景子扮する築木先生が、持論の「技能中心」を何度も持ち出すのですから(注8)、永井先生の持論の「技能と人間関係」、それも「人間関係」ばかり描くだけでなく、映画ではもう少し、理容師・美容師が直面する技能上の問題を掘り下げてもらえたら、もっと興味深い映画ができたのでは、と思いました。
 勿論、そういう場面がないわけではありません。
 弥生が「いちこ」の凄さを認めて教えてもらおうとしたところ、「いちこ」は、左手の肘をもっと高く上げるように(さらには正確なポジションをとるように)アドバイスします。ただ、竹下景子の築木先生が、やる気を取り戻した弥生にアドバイスする際も、やはり同じ肘の高さが言われるだけなのです。
 まるで、髪を切る際の要めはすべて肘の高さにあるという感じですが、果たしてそんなものなのでしょうか?

(3)“はさみ”と言ったら、ジョニー・デップの『シザーズハンド』(1990年)でしょうし、また“理容師”ときたら、これまたジョニー・デップの『スウィニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(2007年)でしょうが、前者は人造人間の話ですし、後者はミュージカル仕立てですから、ここでは取り上げないことといたします〔邦画では、豊川悦司主演の『ハサミ男』(2005年)があるようですが、見てはおりません〕。



(注1)洋平が16歳の時にその母親が家を出て行った後、父親は後妻をもらったものの、その女性と洋平とはソリが合わず(洋平は、高校時代は自閉症だったようです)、高校を卒業すると、今度は洋平の方で東京に出てきてしまったとのこと。
 その間に、継母に赤ちゃんができてしまい、自分の帰るべきところがなくなってしまった感じがしたこともあって、他人とのコミュニケーションがうまくできなくなっているようです。
 彼の話によれば、学校ではしゃぐのも、集団の中にいると神経がざわつく感じがして、おどけてふざけないとダメになってしまうと思うから、とのことです。

(注2)弥生は、時々イラストレーターの彼氏の部屋に行きますが、彼氏の方は、自分のイラストにいろいろ口出しする会社の担当者(「もっとわかりやすいものを」と指図しているようです)とうまくいかずにふてくされていて、そんなこんなで二人の間はうまくいってはいません。
 さらに、弥生が彼氏と連絡が取れなくなってしまい不安に駆られている間に、あろうことか、彼氏の方では、電車でそばにいた女性に抱きついてしまったとの容疑で警察につかまっていたとの事情を、その姉から聞き出します。
 この件は書類送検で済みますが、彼氏の方は、家業を継ぐべく故郷に戻ることになります。

(注3)理容科の「いちこ」のはさみ捌きがまるで神業のよう見え、弥生は、自分の至らなさを痛快します。

(注4)元々「いちこ」は、奨学金を得て秋田から上京しているのですが、飲んだくれの父親が借金をこしらえて、その返済に充てるべく母親が奨学金を勝手に使ってしまい、結果として彼女は学校にいられなくなってしまいます。

(注5)永井先生は、生徒の親とも積極的に会って、生徒の真の姿を捉えようと努めます。
 ただ、ここで挙げた3人の生徒以外のことになりますが、学校を辞めてアパレル関係の仕事をしたいとする生徒の両親と面会したところ、両親から生徒の自由にさせてほしいと言われ打つ手がなくなり、どうしてもっと早い段階で気がつかなかったのかと自分を責めます。

(注6)どこかの理髪店で住み込みで働く一方で、学校の夜学(あるいは通信講座)に通うようにしてはどうかと、学校の先生たちはあちこちの関係先に当たります。

(注7)洋平は、立ち直って学校に通い出しますが、通学に使っていたバイクで転倒して大切な右手を骨折してしまいます。ただ、その年の国家試験は無理としても、両親も上京して、頑張っていこうという気になります。

(注8)築木先生は、生徒とが問題を抱えていても、技術の面白さで克服させることができるのでは、と考えています。
 実は、永井先生は、一人の先生に躓いたことがあり、どうしても褒めてもらえなかったわけで、でも必ずや見返してやろうと思ってここまでこれたようですが、その先生というのが築木先生なのです。





★★★☆☆





写真展二つ

2012年01月23日 | 美術(12年)
 アウグスト・ザンダーなどの写真が展示されているというので東京都写真美術館に行ってきました。
 展覧会は「ストリート・ライフ」と題し、19世紀後半から20世紀前半にかけて「ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち」の写真(館蔵)を集めていて、冒頭に掲げたザンダー(「若い農夫たち」1914年)の他は、アジェとかブラッサイ等です(~1月29日)。

 例えば、ジョン・トムソンの下記のロンドンの写真(The Water Cart:1877年-1878年)を見ると(注1)、背景はまるで違っていても、雰囲気自体は、なんだか日本の幕末~明治維新の頃とさほど違っていないのでは、という気もしてきます。




 こうしたヨーロッパの古い写真を見てから、同時に開催されている日本の写真家5名の作品を展示する「写真の飛躍」展(~1月29日)に飛び込みますと、その斬新さに圧倒されます。

 例えば、西野壮平氏の作品は、個別の都市についての膨大な写真をコラージュしたものです。展覧会では、8つの都市についての作品が展示されていますが、次に掲載するのは、「Diorama Map  Ro de Janeiro」(2011年3月-7月)です。



 作品に近づいて、そこに見られる個々の小さな写真を見ると、お馴染みの光景のものだったりしますが、離れて遠くから見ると、全体が当該都市の地図となっているのです(作品全体の大きさは1500×1745 mm) (注1)。



 個別の地域とか建物などについてどんな写真を使っているのかを見れば〔上記のものは、リオの背後に広がるファベイラ(貧民窟)でしょう〕、それに対する作者の姿勢が読み取れるでしょうし、また全体的を俯瞰して何を強調しているのかを見ることによっても、作者の都市自体に対するイメージといったものが感じられて、頗る興味を惹かれました。

 また、次の作品は北野謙氏の「アニメのコスプレの少女たち34人を重ねた肖像 台湾台北市のコミケ、ストリート上で 2009年4月18日撮影」です。



 これは遠くから見れば一人の少女を描いた日本画のように思えますが、実際にはたくさんの肖像画を重ねたものになっていて(注2)、その手法にも、さらにはその結果として作成された作品自体にも驚きを禁じ得ません。

 以上では、たった2人の写真家を取り上げたに過ぎませんが、それでもここには、数多くの写真を重ね合わせるという手法、そしてその要素となる写真を世界各地に出向いて取り歩いているという姿勢(注3)が共通して窺われて、大変面白いと思いました。



(注1)ジョン・トムソンの他の写真は、たとえば、こちらで。

(注2)展覧会のカタログ「日本の新進作家展vol.10 写真の飛躍」では、作者の西野壮平氏(30歳)は、「私はカメラを手にその都市を歩き、鳥瞰もしく仰視の視点で撮ったすべての断片を、記憶に沿って一枚一枚繋ぎ合わせ、地図に即して再構築し、都市の持つ特異性をイメージ化している」と述べています(P.32)。

(注3)上記「注2」記載のカタログにおいて、作者の北野謙氏(44歳)は、「一見一人のように見えるかもしれないが、この作品はある集団のメンバー全員が重なり混ざり合った群像写真である。私は世界中の様々な他者に会いに行き、現場で撮影した何枚もの肖像を、暗室で1枚の印画紙に重ねてイメージを作っている」と述べています(P.44)。

(注4)西野氏の作品は、ここで取り上げたリオ・デ・ジャネイロの他には、ニューヨーク、香港、ロンドン、イスタンブール、パリ、それに広島、東京のものが展示されています。また、北野氏は、上記「注3」記載と同じ箇所で、「今までに撮影した人々はアジア各地の150余りの集団」であり、「今後もプロジェクトはアメリカ、ヨーロッパ、アフリカへと私のライフワークとして続く予定だ」と述べています。


宇宙人ポール

2012年01月21日 | 洋画(12年)
 『宇宙人ポール』を渋谷シネクイントで見ました。

(1)コメディタッチのSF物ながら、なかなか評判がいいというので、見に出かけた次第です。実際にも、実に楽しい作品でした。

 イギリスからやってきたSF作家クライブニック・フロスト)とイラストレーターのグレアムサイモン・ペッグ)が、有名な「ネバダ州エリア51」を走っているときに、突然、ポールと名乗る宇宙人に出会ってしまいます。



 ポールは、60年前の1947年に、ワイオミング州に不時着した宇宙船に乗っていて、その時にアメリカ政府に捕まってしまい、以来ズット秘密基地にいて、様々な面で人間を手助けしてきました。ところが、それも最終段階となって、いよいよポールの超能力を入手すべく、脳を解剖する予定が組まれ(注1)、そんなことになったら生きてはおれませんから、ポールは、基地内部の支援者の協力を得て、基地を逃げ出して元の星に帰ろうとしているというわけです。

 後ろから、ポールを追跡する特別捜査官らが追っかけてくるので、クライブとグレアムの2人は、乗っていたRV車にポールを匿いながら、彼が目的とする場所(元いた惑星から救出隊がやってくる場所)に急ぎます。

 特別捜査官のゾイルは、間抜けな部下2人を使って執拗にポールを追ってきますが、実はビッグ・ガイ(『エイリアン』のシガーニー・ウィーヴァーが演じています)の指令に従っています。



 さらに、実は、……(注2)。

 もう一人の追手は、クライブとグレアムと宇宙人ポールの3人が泊まったモーター・プールの経営者モーゼス。というのも、ひょんなことからポールの姿を見てしまったモーゼスの娘ルースクリステン・ウィグ)を、口封じのために、3人は誘拐してきてしまったからです。
 おまけに、モーゼスは熱烈なキリスト教ファンダメンタリストであって、宇宙人の存在はおろか、進化論なども信じず、それは娘のルースにも強烈に浸透しています(注3)。
 そこで、ポールはルースの考えを破壊するだけでなく(注4)、見えなかった左目も治療してしまいます。

 逃げるのがルースも加わって4人、それを追うのもモーゼスが加わって4人、それに……(注5)、というわけでシッチャカメッチャカになりますが、サア上手くポールは救出隊に遭遇でき、元の惑星に戻ることができるでしょうか、……。

 こうした全体の流れの中で、細部の詰めも十分に行われている感じです。
 例えば、グレアムとクレイブとの関係。2人は無二の親友ですが、イラストレーターのグレアムの方が、SF作家のクライブよりもオープンマインデッドな人物として描き出されています。
 すなわち、宇宙人ポールに初めて出会った時、クライブの方は気絶してしまいますが、グレアムは、ポールの話に耳を傾けます。
 その上、ポールを受け入れることに対して、目が覚めたクライブは余りいい顔をしません。
 また、ルースは、クライブを差し置いてグレアムと恋仲になってしまいます。

 グレアムに扮するサイモン・ペッグは、『ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコル』でもユーモラスな役を演じていて、緊張感あふれる映画にとってまさに息抜き的な存在でしたが、この作品では本領発揮、『パイレーツ・ロック』で太ったDJ役だったクライブを演じるニック・フロストと、息のあった凸凹コンビを組んでいます。




(2)こんなことは申すに及ばないものの、全体的には、昨年見た『SUPER 8/スーパーエイト』によく似ています。
 そちらでは、宇宙船が不時着したのは1958年とされ、また宇宙人の外見もマッタク異なっているものの(それに、そちらでは自分で宇宙船を作り直して帰還しますが、本作では救助隊がやってくるのです)、長期間拘束された宇宙人が、囲いを破って逃げ出して、元の星に帰還するという粗筋はほぼ同一です。
 ということは、本作は、私のようにスピルバーグ・オタクではない者にも大層面白い作品ながら、スピルバーグのSF物などに造詣が深ければ深いほど様々な発見があるわけで(注6)、なおかつ、全体がコメディタッチで描かれているのですから、堪えられないに違いありません。

(3)渡まち子氏は、「逃避行スタイルのロード・ムービーは、映画ファンを夢中にさせるパロディと、小粋なセンスの感動が詰まった快作。何より、いろいろと問題はあっても、やっぱりアメリカという国への愛を表明する、勇気あるメッセージを感じるのだ」として75点をつけています。



(注1)宇宙人ポールに言わせれば、「長い間客だと思っていたら、実は囚人だった」わけです。

(注2)実は、ゾイル特別捜査官は、宇宙人ポールの逃亡を援助した基地内部の者であって、ビッグ・ガイの襲撃を撃退します。

(注3)ルースは、ダーウィンを神が撃っているところを描いたTシャツを着ていますし、ポールを見ると「悪魔!」と言って騒ぎ、果ては「アメージング・グレイス」を歌い始めます。

(注4)ポールは、『ツリー・オブ・ライフ』で描かれたようなビッグ・バン以降の宇宙の生成に関する情報を、念力でルースの脳内に注入するのです。

(注5)最後には、追手の元締めのビッグ・ガイがヘリコプターで現れますし、もう一方には、60年前に宇宙人が不時着するのを見ていたタラというお婆さんがいます。ポールの乗っていた宇宙船は、タラの愛犬ポールの上に不時着してしまったのです。それで、タラは宇宙人を助けますが、それを恩に着た宇宙人は、タラを伴って故郷の惑星に戻ろうとします。

(注6)たとえば、劇場用パンフレットに掲載されている町山智浩氏のエッセイ「眼からウロコの『宇宙人ポール』」をどうぞ。





★★★☆☆



象のロケット:宇宙人ポール

ミラノ、愛に生きる

2012年01月18日 | 洋画(12年)
 『ミラノ、愛に生きる』をル・シネマで見てきました。

(1)渋谷のル・シネマは、Bunkamura改装工事のために閉鎖されていたところ、昨年末にその工事が完了し、本作は、再開第1作目ということになります(映画館の内部は、以前とそんなに違ってはいないように見受けられますが、全席指定になったことが目立つ違いなのでしょうか)。そこで期待して出かけてみたのですが、確かに、舞台背景は豪華なものの、映画のストーリーとしてはちょっとどうかなという感じでした。

 本作は、ミラノに住む財閥レッキ家に嫁いだロシア人女性・エンマティルダ・スウィントン)を巡る物語です。
 冒頭は、その家での超豪華な食事風景。
 財閥をいまだに切り盛りしている祖父から何か重大発表があるとのことで、一族全員が集まっています。祖父の重大発表とは、自分は一線から退き、これからはエンマの夫・タンクレディと、長男エドアルドに任せるというもの。

 一方で、エドアルドは、友人のシェフ・アントニオと一緒に、サンレモ郊外にリストランテを開く計画を持っています。

 そんなアントニオを家の者に認めてもらうべく、エドアルドは、家で催されるパーティーの料理をアントニオに任せます。ところが、その料理を食べた母親のエンマは、余りのおいしさにアントニオに対していいしれないときめき(注1)を持ってしまうのです(注2)。
 様々な口実を作って(注3)、エンマは、サンレモ郊外の山の中にあるアントニオの山荘に出かけて、果ては性的な関係を持ってしまいます。
 むろんそれは2人の秘密でしたが、いろいろな兆候から、長男エドアルドは、母親のエンマが友人のアントニオと関係を持っていることを嗅ぎ取ってしまい(注4)、庭で母親を問い詰めます。ですが、その際に、誤ってプールに落下してしまい、打ち所が悪いこともあって死んでしまうのです。
 さあ、この富豪ファミリーはどうなってしまうのでしょうか、……。

 こういうストーリーを描くのであれば、エンマの夫のタンクレディが不倫を働いている場面とまでは言わずとも、エンマに冷たくふるまっている場面といったもの、あるいは、エンマが、故郷のロシアから遠く離れたところで酷く寂しい思いをしている場面、または家に縛られて自立できずに悶々としている様子といったものが、映画に説得力を与えるために最低限必要でしょう(注5)。
 ところが、本作では、そんな場面は一切描かれず、ただエンマは、アントニオが作った料理にときめいてしまったから不倫に及んでしまった、というだけなのです。
 もしかしたら、製作者側は新機軸を打ち出そうとしたのかもしれません。世の中には、ピアノを華麗に弾く演奏家に恋をしてしまったり、鮮やかな絵を描く画家を愛してしまったりする場合だってありますから、素晴らしい料理に感動する余り、それを作ったシェフにときめいてしまってもかまわないのかもしれません(料理は、ある意味で芸術作品なのでしょうから)。
 としても、随分の深みに嵌ってしまうまでに至るプロセスや背景をじっくりと描いてもらう必要はあるのではないでしょうか?

 また、エドアルドは、ことのほか“お母さん子”で、そうだからこそ逆に、アントニオとの裏切り行為が許せなかったのでしょう。
 にしても、エンマとアントニオの関係が分かったというのに、いとも簡単に画面から退場させてしまうものです。“お母さん子”故の憎しみから何かする場面だってあり得たはずにもかかわらず!

 また、長女のエリザベッタの深刻な悩み(注6)をエンマが親身になって聞く場面は設けられています。ですが、もう一人の子供である次男・ジャンルカは、初めから終わりまで放ったらかしなのです(注7)。これはどういう理由からでしょうか?

 一方で大都市ミラノ(それも豪勢な邸宅)、他方でサンレモの山中(ことさらみすぼらしい山荘)という具合に舞台を設定し、さらに一方で財閥のレッキ家での金のかかったパーティー、他方で森の自然の中でのエンマとアントニオとのセックス、という具合に、様々なレベルで対比的に状況を描き出そうとしているのはすぐに読み取れます。
 しかしながら、本作が映し出す対比の程度であれば、余りにも月並みすぎます(すぐに思い浮かぶのが、D.H.ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』でしょう)。
 ヴィスコンティを現代に蘇らせるという謳い文句となっていますが、そう言うためにはさらなる目の覚めるような捻りが必要になってくるのでは、と思われるところです。

 とはいえ、クマネズミにとって、ミラノでは、ドゥオーモの威容に圧倒されたり、近くのコモ湖の素晴らしい景観に感動したりしたことがあるので、文句ばかり書き並べるのはもうやめにしましょう。むしろ、たっぷりと描き出されているレッキ家の豪勢な暮らしぶりとか、登場人物のファッションなどを味わうべきと思います。

 主役のエンマに扮するティルダ・スウィントンは、『フィクサー』(『ラスト・ターゲット』についてのエントリの「(2)」で触れました)に出演していたのを見ただけながら、まさにロシア出身の貴婦人役にうってつけで、その姿全体に気品が漂っています。



 また、長女エリザベッタを演じるアルバ・ロルヴァケルは、『ボローニャの夕暮れ』において、高校教師ミケーレの娘ジョヴァンナに扮していて素晴らしい演技を披露していましたが、この映画では出番が少ないながら、なかなか難しい役柄をうまくこなしています。




(2)ここで、エンマの不倫相手のアントニオエドアルド・ガブリエリーニ)に若干注目すると、冒頭のレッキ家の会食の際に、ボートレースで、エドアルドは2着になってしまったと報告しますが、その時に1着だったのがアントニオなのです。アントニオは、どうやら料理の才能だけでなく、肉体的にも優れているようです。



 というところから、アントニオとエドアルドとは親友ということになっていますが、そしてエドアルドの方は対等のつもりで付き合っていますが、実際にはアントニオの方は、自分は料理人で富豪の息子のエドアルドとは身分的な差を感じており、だから逆に物凄い対抗意識を持っていたのでは、と思われます。あるいは、もしかしたら、エンマの籠絡を当初から考えていたかもしれませんし、少なくとも、エドアルドに内緒で、「ウハー」をリッキ家の会食の際に出すときは、リッキ家に思い知らせてやると考えていたのではないでしょうか?
 これは、ある意味では、『ミケランジェロの暗号』における画商の息子のヴィクトルと雇い人の息子ルディとの関係に似ているとも言えるのではないでしょうか?

(3)読売新聞の記者・恩田泰子氏は、「この映画は、彼女の中で理屈や計算を超えた衝動が生まれ、化学反応を起こす過程を執拗に追う。ミステリーのごとく、メロドラマのごとく、荘厳な家族ドラマのごとく。ルカ・グァダニーノ監督は、古典小説や映画のエッセンスを大胆に絡み合わせて観客を魅了、物語の中へ引きずり込む。彼女の変革が成就を遂げる終幕には、ほろ苦い歓喜を共有させられるはずだ」と述べています。



(注1)『恋の罪』の園子温監督の用語法で言えば(1月8日のエントリの「注1」を参照)、「ときめき(romannce)」でしょうか?そしてそれが次第に「愛(love)」になっていくのでしょうか?
 なお、原題は「IO SONO L'AMORE」であり、その英題は「I AM LOVE」なのです!

(注2)なにしろ、大勢と会食しているものの、エンマだけにライトが当てられ、全体から浮かび上がり、また食べているエンマの顔や料理が、スクリーン一杯に大写しになるのです。

(注3)長女のエリザベッタは、ロンドンに行って絵を学んでいるはずでしたが、途中で写真の方に転向すると言いだし、その個展がニースで開催されることになります。ニースへは、ミラノからだと、丁度サンレモを通って行くことになるため、その準備と称してエンマは、サンレモ郊外のアントニオの山荘に行こうとするのです。

(注4)エンマがそのレシピを秘密にしていたスープ「ウハー」が食卓に出されたのを見て、エドアルドは、エンマがそれをアントニオに教えたことを知ります。

(注5)エンマは、アントニオに、ローマに来てからは一度もロシアには戻ったことがないとか、本名はエンマではなく、ロシアではキティーシュと言われていた、エンマは夫がつけたものだ、などと話しますが、他愛のないレベルにすぎないと言えるのではないでしょうか。
 また、アントニオが住んでいるサンレモを何度も訪れるところを見れば、エンマがことさら家に縛られているとも言えないように思われます。
(まさか、Emma RecchiがEmma Bovaryに拠っているとは思いませんが!)

(注6)同性愛。エリザベッタを愛する男性グレゴリオはいますが、彼女は拒絶します。なお、兄のエドアルドには、この悩みを打ち明けていて、偶然にエンマは、そのことを記した手紙を読んでしまうのです。

(注7)長男エドアルドが亡くなったと判明した時、エンマは長女エリザベッタを抱きしめたりするものの、ジャンルカは一人手持無沙汰といった感じなのです(といって、父親が彼を慰めるわけでもありませんが)。また、葬式の後、エンマがレッキ家を立ち退く際にも、次男ジャンルカには一瞥たりともしません。
 なお、ジャンルカは、理想主義者の長男エドアルドと違って大層現実主義者で、レッキ家が富裕になったのも、祖父が戦時中政府と手を握って生産を拡大させたからで、またユダヤ人からだいぶ搾取をしていたことをも承知しています。
 また、父親がイギリスの工場を売却しようとしていることについても前向きで、それに反対する長男(そんなことをしたら家名に傷が付くとして)とは姿勢がだいぶ異なっています。
 としたら、父親は次男に目をかけるはずですが、映画ではそんなそぶりはうかがえません。

追記12.1.20〕下記の「がっちゃん」さんのコメントで気がついたのですが、本作の公式サイト(http://www.milano-ai.com/index.html)のトップに掲載されている画像は、拙ブログの冒頭に掲載されている画像から次男ジャンルカを消去したものとなっています(同サイトの「cast」でも、ジャンルカに扮するマッティーア・ザッカーロは掲載されていません)。にもかかわらず、同サイトのcastの背景となっている画像には、マッティーア・ザッカーロが大きく映し出されているのです。
 こんなことは本作の内容とは無関係でしょうが、評点としては★2つにしたくなってしまいます。
 なお、1月19日付朝日新聞朝刊の「ブランド×女優」という記事においては、本エントリで使用したティルダ・スウィントンの写真を掲載しつつ、本作で衣装を制作したジル・サンダースのデザイナーのラフ・シモンズが、彼女について、「私のデザインを完璧に体現してくれる。気品があり、かつ感覚の鋭い女性」とほれこんでいる、と紹介されています。



★★★☆☆




象のロケット:ミラノ、愛に生きる

カルテット!

2012年01月16日 | 邦画(12年)
 『カルテット!』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)この映画については、“カルテット”と聞いて“弦楽四重奏”だとウッカリ誤解してしまったのが失敗でした(注1)。実際に映画で取り上げられるのはピアノ四重奏であり、それも第2バイオリンに代えてフルートですから、かなり変則的です(注2)。
 それでも、もしかしたら本物の素晴らしい演奏でも聴けるのかな、と思っていたら、4人家族のそれぞれが楽器を受け持って演奏する話にすぎないことが次第に分かってきます。
 まあ、その演奏を通じてバラバラになった家族が結束するという物語であれば、なんとか許容できるのかなと思い直して見続けたのですが、その点でもまた完全に梯子を外されてしまいます。

 映画では、40歳くらいの父親(細川茂樹)が、リストラの憂き目に遭って家で主夫をやり、そのため、母親(鶴田真由)が浦安市場の魚屋で働いています。更にその家には、中学生の長男(高杉真宙)と高校生の長女(剛力彩芽)がいます。
 長男は、個人的にバイオリンを習っていますが、一方で自分の音という者を見出せず行き詰まっているところ、他方で、バラバラになっている家族の結束を取り戻そうと、ファミリーでカルテットを結成して演奏をしようと言い出します。
 というのも、10年ほど前の祖母(由紀さおり)の誕生日会の写真が出てきて、父親のピアノと母親のチェロ、それに長女のフルートで演奏していたことがわかったからです(元々、両親は音大の同期だったために、楽器の演奏には何の問題もありませんでした!)。
 ところが、父親は賛成するものの、母親はそんなことは出来ないと言い、不良がかった長女(注3)はマッタクそんな話を受け付けません。
 でも、父親と長男が、ミラコロというレストランに設けられているステージに立って演奏したりすると、母親も参加するようになり、最後には長女も加わってきます(注4)。
 さらに、長男には、東京の交響楽団から誘いがかかったりして、何度かその演奏に参加するようになって、プロのバイオリニストへの道が開けてきます。
 ただ、クリスマス・イヴの晩には、家族が浦安市文化会館のステージに出演することになっていたところ、長男の交響楽団の演奏も同日になってしまい、長男はどちらを選択するのか悩みます。サアどちらを選ぶでしょうか……、といった具合にストーリーは展開していきます(注5)。

 しかしながら、これでは余りにストーリーとしては他愛なさ過ぎます。
 勿論、れっきとしたプロが映画の中で様々の楽曲を演奏するというのであれば、音楽映画ということで、このような埒もないストーリーでも仕方がないかもしれません。
 でも、この映画に登場する家族を構成する4人の俳優は、楽器の演奏という点では皆ド素人ばかりです。としたら、ストーリーにはモット捻りがなくては映画になりません。
 一番の問題は、母親や長女が、当初、なぜ家族で演奏することを拒否したのかという点でしょう。
 2人は、ソコには簡単に口に出来ない問題があったかのような態度をとったりもします(注6)。
 ところが、どうやら母親は、長男には受験の問題があるし、浦安に設けた家のローンもあり、そんな遊び事など出来やしないといったごくごく単純な理由で、家族の演奏に加わるのを拒否していた感じなのです。
 また、長女の拒否の方も、単なる反抗期の現れにすぎず、いつも一緒になっている先輩から、フルート演奏してみなよと言われると、いともあっさりと家族の演奏に参加してしまうのです(注7)。

 ここには、何か斬新な物語をつくりあげようとするクリエイティブな気配がマッタク感じられず、一体何でこんな大甘の映画をわざわざ制作したのか、と言わざるをえないところです。

 他にもよく理解出来ない点がありそうです。例えば(注8)、
 長男の音楽の才能を認めてもらおうと母親は、昔の友人(東幹久)に頼み込み、その結果東京の交響楽団で演奏できることになります。
 ですが、なぜいきなり交響楽団なのでしょうか?そこで高名な指揮者(実際にも著名な秋山和慶氏が出演)に認めてもらえば、将来が保証されるとでもいうのでしょうか?でもはたして、交響楽団の単なる一員として弾く位で、その才能がわかるものなのでしょうか?
 それに、長男はまだ中学生のはずです。実際にメンバーになるためには、通常なら高校→音大というコースを辿らなくてはならず、まだまだ先の話ではないでしょうか?
 むしろこの場合は、常識的には、著名な音楽家の前で一曲演奏して、「素晴らしい、将来性がある」と言われて音大目指して頑張る、というストーリーになるのではないでしょうか?
 ラストを盛り上げるために、無理矢理オカシナ展開にしているとしか思えないところです(注9)。

(2)渡まち子氏は、「実はなかなかテーマは深いのだが、物語にはあまり深刻さが感じられない。才能豊かな上、素直な性格の主人公の頑張りで、ほとんどとんとん拍子に話が進み、予定調和のハッピーエンドへ。だがそれでもいいのだと思う。この作品の役割は、町や人々を元気にすることだ」として50点をつけています。

 確かに、「千葉県浦安市は、東日本大震災による液状化で大きな被害を受けた土地。これはそんな街で、一度は製作が危ぶまれながらも、住民の復興への強い願いによって完成した市民参加型の作品」なのでしょう。
 でもそれは、制作段階の話。映画作りに参加した市民は、なるほど頑張ったのかもしれません。ですが、そうした経緯で作られた映画だからといって、「この作品の役割は、町や人々を元気にすることだ」ということに直ちになるでしょうか?
 映画作りに携わることなく、この作品を単に見るだけの観客は、この映画のどこから「元気」を受け取ればいいのでしょうか?
 東日本大震災による被害は、古今未曽有のものであり、この映画のような他愛のないもの、簡単に乗り越え可能なものではないのではないでしょうか?むしろ、もっと厳しい現実に置かれている家族をキチンと描き出す方が、まだしもそうした実情に接近できるのではないかと思われます(実際の被災状況には、いうまでもないことながら、遙かに及ばないにせよ)。そして、にもかかわらず家族の絆を取り戻せた、という描き方にすれば、映画を見た人がなにかしらの「元気」を受けとめることができるのではないか、と思ってしまうのですが。



(注1)たまたま、最近丸谷才一氏の小説『持ち重りする薔薇の花』(新潮社、2011.10)を読み終えたことが影響しているでしょう。というのも、この小説は、「ブルー・フジ・クヮルテット」という弦楽四重奏団を支援する財団のトップ(経団連元会長という設定)が、同四重奏団を巡るスキャンダルをジャーナリストに話すといった内容なのです〔それも、「世界中どこでも、一流クヮルテットになると、4人がお互ひ仲が悪区手、ステージから降りると口もきかない、食事も一緒にしないといふ噂をよく聞きます」(P.9)といったところから話が始まるのですから〕。

(注2)変則的な編成ですから、ステージに立つ際には、誰かが既存の曲を編曲する必要があり、そう簡単に演奏できないのではと思われます。

(注3)長女は、自転車を盗んだ容疑で警察に連行され、そのもらい下げで父親が浦安警察の少年課に出向く場面があります。長女の言い分は、捨ててあったのを使っただけとのことで、警察にいる間は殊勝な態度を取っていますが、母親に連絡したにもかかわらず父親がやってきたことに苛立ち、家に戻っても父親の話を聞こうともしません。

(注4)父親は、今では物置になっている「Bachの部屋」に入って、10年ぶりくらいにピアノを弾き、それを長男が耳にして、家族演奏をしようという話に広がって行くところ、その間調律をしていないはずですから、いきなり弾き出すことはしないのではないかと思われますが(元音大生ですから、アマチュアよりもずっと耳がいいはずでしょうし)。
 また、母親も、別の日に、ケースに入っているチェロを取り出していきなり弾き始めますが、チェロこそは弦のチューニングをしないと弾けたものではないと思われます。
 さらに、長女のフルートも、長い間放置してあれば「錆」の問題が出てくるのではないでしょうか?

(注5)結局、長男は、自分はここでは演奏できないと言って(一生を棒に振るぞと止められにもかかわらず)、交響楽団の演奏に参加することを直前になって辞退し、音楽の先生のバイクに乗せてもらって、浦安市文化会館に向かいます。

(注6)父親と母親、それに長男の3人で、老人ホームで演奏をした際に、父親が“繰り返し”記号を見落としたために、演奏を続けられなくなってしまうことがありました。
 クマネズミは、こんなところに家族のトラウマ(何か過去に事件があって、父親がピアノに立ち向かうと失敗してしまう、といったような)でも隠されているのでは、と思ったのですが、この家族には何もそんな大仰な事件など起きてはいなかったようです。

(注7)ラストの方で長男と長女が、浦安の海岸べりで話しているところ、長男は、これからもバイオリンを頑張ると言い、他方長女は、大学へ行こうか先輩がいるニューヨークへ行こうか迷っていると言います。父親がリストラされ、家のローンがまだ残っていて、家の収入は母親の市場勤めだけだというのに、甚だ現実離れしたことをお互いに言っているな、という感じがしてしまうのですが。

(注8)以下申し上げることは、音楽界の実情に疎い者の偏見によるものかもしれません。誤っている点についてご指摘いただければ幸いです。

(注9)中学生の長男に対し、彼にバイオリンを教えている先生(田中美里)は、「自分の音はどこにあるの?」と疑問を差し挟みますが、その年齢でそんな質問を受けとめきれるのでしょうか?はたして、長男は、最終的に交響楽団よりもファミリーコンサートの方を選択してしまい、自分の音はここにある、などと言っていますが、それは演奏の根拠地を家族に定めたというだけのことであって、「自分の音」探しの結論とはいえないでしょう。「自分の音」とは、自分の表現(自分の内側から出てくるもの)であって、それは何処に本拠地を置こうとも変わらないでしょうから!




★★☆☆☆





象のロケット:カルテット!

永遠の僕たち

2012年01月14日 | 洋画(12年)
 『永遠の僕たち』を渋谷のシネマライズで見ました。

(1)本作は、自閉症気味の青年が主人公ですが、実はこれもまた、余命3カ月と宣告された少女を巡る物語でもあります。
 であれば、『50/50』と『私だけのハッピー・エンディング』、それに本作という具合に、短期間のうちに、同じ傾向の作品を3つも見たことになります(注1)!
 なんとなく、幽霊が登場する邦画が流行っているなとの印象を持っていたところ(『東京公園』、『朱花の月』、それに『ステキな金縛り』!)、洋画では「ガン」というわけでしょうか?
 と思いながら見ていたら、この映画には、なんと加瀬亮が、神風特攻隊員の幽霊役で出てくるので驚いてしまいました。

 本作の主人公イーノックヘンリー・ホッパー:近頃亡くなったデニス・ホッパーの息子)は、交通事故で両親を亡くし、その際に自身も、昏睡状態が3か月続き、さらに3分間ほど臨死体験をしています。
 そして、どうもその時に、特攻隊員のヒロシ加瀬亮)に出会ったようなのです(注2)。



 要すればイーノックは、交通事故以来、人とうまくコミュニケーションを持つことができず、昼間は、自身とは無関係の様々な葬儀に列席したりして時間をつぶし(注3)、夜に家に戻ると、部屋にはヒロシが待ち構えていて、一緒にゲーム(注4)などをしたりしています(注5)。

 ソウしたある日、イーノックは、いつものように葬儀に列席していたところ、アナベルミア・ワシコウスカ)という余命3か月の少女(注6)と出会います(注7)。
 イーノックとアナベルとの様々の交流がこの映画の中心となり(注8)、そこにヒロシがまた絡んできて、その存在が彼ら2人をより接近させたりします。
 結局アナベルは亡くなりますが、そしてヒロシがその先導役を買って出るために、イーノックは一人きりで残されてしまうものの、きっとこれからは一人立ちできるに違いありません(注9)。

 この映画には、予告編でも見られるような、自分たちの姿を白墨で形どる場面(殺人事件の現場類似の)など、実に鮮烈な映像が溢れています。



 さらに、イーノックとアナベルが着る衣装がなかなか凝っている点にも注意を払う必要があでしょう(ヒロシは、大部分、特攻隊の制服を着ています)。特に、アナベルに扮するミア・ワシコウスカは、20代前半の若さとすらりとしたスタイルで、どの衣装も実によく似合っていました(注10)。
 また、本作が始まると、ビートルズのアルバム『Let It Be』の冒頭を飾る「Two of Us」が流れます(注11)。

 本作は、実に若々しく瑞々しいヘンリー・ホッパーミア・ワシコウスカ、それにまたもや守備範囲の広さを披露する加瀬亮(注12)、さらに凝った衣装とか音楽、というように見所・聞き所が詰まっていて、見応えある作品に仕上がっていると思いました。

(2)幽霊の姿で登場するヒロシは、1941年に予科練を首席で卒業したと言い、またナポレオンとかリンカーンの幽霊に会ったことがあるとも言います。
 ヒロシの場合、恋人に対する思いを書いた手紙(注13)を仲間に託すことなく死ななくてはならなかったために、現世に対する未練が残っていて、それで幽霊になっているのかもしれません。とすると、ナポレオンの場合は、失意のままセントヘレナ島でヒ素で毒殺されたこと、リンカーンの場合はその2期目就任直後に暗殺されたことから、それぞれまだ現世に未練があって、幽霊の姿になっているとも、もしかしたら考えられます。

 さらに、ヒロシは、特攻隊の制服を着用していたり、イーノックにお辞儀の仕方とか「セップク」の意味などを教えたりと、西欧人が抱いている型どおりの日本人イメージに沿った描き方がされているのは事実です。

 とはいえ、ヒロシは、イーノックとアナベルの距離を縮めるのにも随分と大きな役割を果たします。
 たとえば、イーノックとアナベルとヒロシの3人が水辺でお喋りをしているシーンがあります。



 アナベルにはヒロシの姿は見えませんし、声も聞こえません。ヒロシが何か言うと、イーノックはそれをマイルドに翻訳し直してアナベルに伝えたりして(注14)、ヒロシの怒りを誘ったりしますが、他方でアナルとイーノックの中はより深くなるようです。

 さらにまた、ラストの方でアナベルが臨終近くになると、イーノックは病室を飛び出して一人泣きだし(注15)、自分の家に戻りますが、そこに現れたヒロシは、自分はアナベルの長い旅のお伴をするといって、これまでの戦闘服に代わって、モーニングにシルクハットという正装を身にまとっています。そして、恋人に渡すはずであった手紙を読み上げて、自分のようにならないように早くアナベルのところに戻れと言って姿を消します。たぶん、もう現れることもないのではないでしょうか。

 こうしてみると、ヒロシは本作では脇役的な存在ですが、イーノックやアナベルと同様、かなりしっかりと造形されていると思いました。

(3)映画評論家の評価は随分と高いものがあります。
 樺沢紫苑氏は、「心理学的にも精緻に描かれていて興味深いが、何より切ないラブストーリーとして完成されていて、感動させられる」として90点をつけています。
 青森学氏は、「この作品は登場人物の死を通して生きることの意味を真摯に見つめた秀作である」として85点をつけています。
 渡まち子氏は、「青年の成長物語でもある繊細なラブ・ストーリーで、感動が心に染み入る」として70点をつけています。




(注1)ただ、『50/50』の場合、アダムは、5年後の生存率が50%と宣告されますが、『私だけのハッピー・エンディング』のマーリーについては、余命半年とされ、本作のアナベルの場合には、さらに短くなって3か月とされています。

(注2)イーノックが目覚めると、ベッドにヒロシが座っていたとのこと。

(注3)イーノックは、本当なら高校に通うべき年齢ながら、両親のことをからかった同級生に暴行を加え入院させたことから退学処分となって、いまはどこにも通っていないようです〔彼の面倒をみているメイベル叔母さん(ジェーン・アダムス)が、「高校のパンフレットをベッドの上に置いておいた」と言ったりしています〕

(注4)「battleship」という海戦ゲーム。
 なお、ヒロシは、イーノックに、葬式巡りは止めるべきだと忠告しますが、イーノックは意に介しません。

(注5)主人公のイーノックのこんな有様から、本作の原題が「Restless」(不安で落ち着かない)となっているのでしょうか。

(注6)アナベルは、「ダーウィンの評伝」を熱心に読んでいる女の子で、「人類について偉大なことを言っているから、ダーウィンが好き。アインシュタインなど問題外」と言い、また「腐肉の臭いを遠くから嗅ぎ取る虫で、親虫が幼虫の面倒をみたりするのがいて、とても面白い」などとも話し、鳥とか虫の生態に猛烈に詳しく、実に上手に動物の絵も描きます。
 こうしたアナベルに対して、イーノックは『ビーグル号航海記』を贈ろうと本を持って家に入ると、アナベルが床に倒れているのを発見します(このときは、アナベルが、死んだときの予行演習をしたようなのですが)。

(注7)イーノックが、ある葬儀に列席していて、葬儀社の社員に呼び止められ、疑いをかけられたところを、アナベルが親戚だとして救ってあげたところから、2人は親しくなります。
 アナベルは、最初のうちは、ガンにかかった子供たちの病棟で働いていると言っていましたが、途中で、「実は、自分はそこの患者なの」と打ち明けます。
 また、家には、母親と姉のエリザベスシェイラー・フィスク)がいます(アナベルによれば、父親は「森の番人」だったとのことですが)。

(注8)ハロウィンの夜に、イーノックとアナベルは結ばれ、それ以降2人は、バドミントンをしたり、草原で遊んだり、ボートに乗ったり自転車に乗ったりなど、愉しい時間を一緒に過ごすようになります。

(注9)アナベルの告別式で、イーノックは、アナベルの思い出を皆の前で進んで語ろうとするのですから。

(注10)ハロウィンの夜の仮想に際しては、イーノックは、ヒロシのような特攻隊の戦闘服を着、アナベルは日本の着物を着ています。

(注11)この曲については、例えば、このサイトの解説が分かりやすいと思います。

(注12)加瀬亮は、このところでは、『婚前特急』、『海炭市叙景』、『マザーウォーター』から『アウトレイジ』と、実に幅広い範囲の作品に出演しています

(注13)“上官から、天皇陛下バンザイと言って敵艦に突っ込めと言われたが、自分はあなたの名前を言って死ぬ”といった感じの内容ですが、こうした手紙であれば、仮に出そうとしても、事前の検閲によって相手には渡らなかったのではと思われます。

(注14)例えば、ヒロシがアナベルの服装について、「男みたいな服装だ」というと、イーノックは、「似あっているよ」と通訳してしまいます。
 ただ、逆に、何かの拍子にアナベルが「ナガサキの仇討ち?」と口を滑らしてしまい、それまで知らなかった長崎原爆投下のことを知って、ヒロシはショックを受け、浴槽に沈み込んでいる場面もあります。

(注15)イーノックは、アナベルに、「何かしてあげたい。ガラパゴスへ行くとか、季節を春にするとか」と言いますが、アナベルは、「今で十分、……もうすぐみたいだけど、大丈夫?」と言います。



★★★★☆




象のロケット:永遠の僕たち

私だけのハッピー・エンディング

2012年01月12日 | 洋画(12年)
 『私だけのハッピー・エンディング』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)これは、前に見た『50/50』の女性版といったらいいでしょうか、大層元気溌剌で明るい性格の30歳の女性マーリーケイト・ハドソン)が、検診で、大腸ガンを患っていて、それも余命半年であることを宣告されてしまいます(『50/50』のアダムの場合は、5年後の生存確率が50%ですから、まだましなのかもしれません)。

 『50/50』のアダムは公共のラジオ局に勤めていますが、それと同様に、マーリーも広告代理店で活躍していますし、友人もいます〔『50/50』ではカイルの存在が大きかったところ、こちらでは仲良しが何人も(注1)〕。
 また、『50/50』では、セラピストのキャサリンが恋人になりましたが、本作でも、マーリーの主治医ジュリアンガエル・ガルシア・ベルナル)が恋人となります。
 さらには、両人には、大層心配する両親がいます。『50/50』では、父親がアルツハイマーでしたが、こちらでは父親とマーリーとの折り合いが良くありません。それで、両作において活躍するのは、必然的に母親になります(注2)。

 でも、相違点もあります。例えば、本作にはファンタジックな要素も挿入されており、なんと神様(ウーピー・ゴールドバーグ)が出現するのです(注3)。



 それに、ラストは大きく違っていると言えるでしょう(注4)。

 全体として、『50/50』の二番煎じといった感は否めませんが、マーリーの生き生きとした(?!)明るさもあって、マズマズと言った出来ではないでしょうか。

 主演のケイト・ハドソンは、昨年春に見た『キラー・インサイド・ミー』において、主人公の幼馴染ながら結局は殴り殺されてしまうという大変な役柄を演じていましたが、本作においては持ち前の明るさを縦横に発揮して、難病物特有の暗さを跳ね返していて、逆に末期癌患者には全く見えないという難点はあるものの、よくやっているのではないかと思いました。



 主役のマーリーの恋人役を演じるガエル・ガルシア・ベルナルは、昨年の『ジュリエットからの手紙』が印象的でしたが、そちらでも本作でも、人の良さそうな好青年という役柄に実にうまくはまっています。



 もう一人、マーリーの母親役のキャシー・ベイツは、『わたしの可愛い人―シェリー』における主人公の同業者役が印象に残っているところ、本作においては、この母親にしてこの娘ありとの関係(その恰幅のいいこと!)からしても、適役なのでは、と思いました。




(2) 『50/50』については、かかるに違いない多額の医療費のことに全く触れられていないと不満をもらしましたが、本作では、驚いたことにその問題が取り上げられているのです。
 ただし、一つは、神様(ウーピー・ゴールドバーグ)がマーリーの願いを聞きとどけてくれるというファンタジックなやり方で、もう一つは、病院が開催するチャリティー・パーティーという現実的なやり方で。

(3)青森学氏は、「関係性を失いひとり世界から取り残される主人公であっても、その想いは周囲の人間の心に仕舞われることに自分の生きた証を見るヒロインになにか心に温かいものを感じた」などとして70点をつけています。
 また、渡まち子氏は、「難病ものにありがちな湿っぽさがないところがいい」として50点をつけています。



(注1)独身のアーティストのサラ(ルーシー・バンチ)とか、妊娠中で、マーリーが亡くなると同時に、出産するルネ(ローズマリー・デウィット)など。

(注2)仕事からマーリーが自分の家に戻ると、そこでは母親がキッチンでステーキーを焼いています。母親は、「何か手伝いたいの」と言い訳をするところ、マーリーは、「放っておいて」と怒ります。これは、『50/50』のアダムが、煩いからと母親に余り連絡しないのに対応するでしょう。

(注3)マーリーは、夢の中で、神様(ウーピー・ゴールドバーグ)から、3つの願いを適えてあげると言われ、2つの願いはスグにしてしまうものの(“空を飛びたい”とか“100万ドル欲しい”と言います)、3つめのお願いはせずに目覚めてしまいます。
 物語の展開にともなって、2つの願いは上手く実現するのですが(ハンググライダーの1日券が懸賞で当ったり、100万ドルの保険が下りることになったりして)、ラストになると、3番目の願いが“愛”だったことがわかります。

(注4)マーリーは、もしかしたら効果があるかもしれない治療法(ただし副作用が強い)を、充実した毎日を過ごしたいとして拒否することで、半年後に亡くなってしまうのです。
 とはいえ、自分のお葬式を、対岸から神様(ウーピー・ゴールドバーグ)とベンチに腰掛けながら楽しそうにマーリーが眺めているシーンを見れば、見ているこちらも和んでくること請け合いです!



★★★☆☆



象のロケット:私だけのハッピー・エンディング