映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

グランドフィナーレ

2016年04月29日 | 洋画(16年)
 『グランドフィナーレ』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)タイトルやポスターから面白そうな音楽映画かもしれないと思ったので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、スイスのホテル(注2)が舞台。ホテルの庭に設けられた回転する円形舞台の上で、女性歌手がバンドの演奏でポピュラーソング(注3)を歌っています。そのまわりでは、若者が踊っています。

 次いで、庭の長椅子に座っている映画監督のミックハーヴェイ・カイテル)の姿。

 さらに、別の場所で、2人の男が話しています。
 イギリス女王の特使と称する男(アレックス・マックイーン)が、「バリンジャーさん、休暇はいかがですか?」と尋ねると、もう一方の男(マイケル・ケイン)は「快適だ。以前はよく妻と来たが、今回は独りだ」と答えます。
 特使が、「なぜスイスに?今も指揮と作曲をされているんですか?」と尋ねると、バリンジャーは、「いいや、今は引退したよ」と答えます。
 特使がイギリス女王の話をすると、バリンジャーは、「君主が亡くなると、たった一人がいなくなるだけにもかかわらず、世界が変わる。結婚も同じだ」と応じます。
 そして特使が、「女王はあなたに勲章を授与されます。承諾していただけるのならば、女王もお喜びでしょう」、「フィリップ殿下の誕生日に授与式が行われますが、その際にあなたの「シンプル・ソング」をご自身の指揮で演奏していただきたい。女王の所望です」と言うと、バリンジャーは、「あの曲はやらない」と答えます。
 特使は、なおも「ソプラノのスミ・ジョー(注4)が歌いますが」と食い下がるものの、バリンジャーは「スミとはやらない。ふさわしい歌手はいない」とニベもありません。
 特使は、仕方なく「そのように伝えます。ごきげんよう」と言って立ち去ります。

 特使たちが出口に向かって歩いて行くと、プールがあり、水の中から男が上がってきます。
 非常に太った体をしており、背中にはマルクスのタトゥーが(注5)。

 他方、バリンジャーは、水浸しになっているヴェニスのサンマルコ広場にいて、水の上に敷かれた細長い板の上で女(注6)とすれ違ったと思ったら、水位が増してきて水の中に潜ってしまいます。



 彼が「メラニー!」と叫ぶと(注7)、目が覚めて椅子に座っています。

 こんな具合にバリンジャーはスイスのホテルで暮らしていますが、さあこれからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 タイトルやポスターなどから、本作は、以前見た『オーケストラ!』のような指揮者とオーケストラを巡る音楽映画なのではと推測していました。



 ですが、実際は大違い。冒頭でポップスが歌われる映画の大部分においては、引退した音楽家の主人公とその親友の映画監督とを巡るエピソードが描かれます。画面は様々に工夫を凝らしていて、一筋縄では捉えきれない感じが残るものの、80歳になる男の現在が、若者らとの対比の中で実に巧みに描かれていると思いました。

(2)それでも本作は、音楽映画ではあるでしょう。
 何しろ、上に書いた映画の冒頭のみならず、途中においても、そしてラストにおいても、ふんだんに音楽的な場面が描かれるのですから。
 例えば、バリンジャーは、切り株に座って牧場を見下ろしながら、牛の首についているカウベルなどを相手に指揮をとる動作をします。すると、彼の腕の動きに合わせてカウベルが鳴ったりするように見えてきます。
 また、映画監督ミックの息子・ジュリアンエド・ストッパード)は、バリンジャーの娘のレナレイチェル・ワイズ)を捨ててイギリスの歌手パロマ・フェイスに走りますが、ジュリアンの運転する車に乗りながら、彼女は実に奔放に「Can’t Rely on You」を歌うのです。
 さらにラストでは、バリンジャーの指揮するオーケストラが『シンプル・ソング』を演奏します。その場面では、スミ・ジョーが歌い、ヴィクトリア・ムローヴァがヴァイオリンを弾いています(注8)。

 でも、音楽だけではありません。
 引退して長閑な余生を送っているように見えるバリンジャーながら(注9)、離れたところにいる妻・メラニーや(注10)、アシスタントとして彼と一緒の生活をしている娘・レナとの関係が複雑なもの(注11)であることが次第にわかってきます。



 また、60年来の友人とされるミックとの関係も簡単なものではなさそうです(注12)。

 そのミックは、実績のある映画監督(注13)。引退しているバリンジャーとは異なり、依然として創作意欲が旺盛で、新作映画『人生最後の日』を制作することに熱心です。でも、順調には行きません(注14)。



 本作では、スイスのアルプスの美しい山々が背景となる大層美しい画像が映し出され、また様々な音楽も溢れるなかで、80歳という高齢の男たちが直面する問題を、大層巧に捉えていると思います。
 原題が『Youth』であることからわかるように、本作では、“老い”だけではなく(注15)、むしろそれを“若さ”と対比させながら物語を展開させていくのです。
 モット言えば、本作において特徴的なのは、主人公らが自分の青春を回想するという常識的な手法を採らずに、主人公らを若者の間に置いて、すべてを現時点として描いていることでしょう。
 例えば、バリジャーの娘・レナやミックの息子・ジュリアンだけでなく、もう一人、ハリウッドの若手俳優のジミー・ツリーポール・ダノ)も、バリンジャーやミックに接近してきます(注16)。
 上記(1)で触れたサンマルコ広場でバリンジャーがすれ違った女性(注17)とか、バリンジャーの体をもみほぐすマッサージ師の若い女も挙げられるでしょう。
 それにミックは、『人生最後の日』の脚本作りに参加している若い脚本家たちにいつも取り囲まれています。

 さて、妄想好きなクマネズミながら、仮に、バリンジャーと同じような年齢に達するとして、はたして彼と同じように振る舞えるでしょうか、それともミックのようになってしまうのでしょうか、それとも、………?

(3)渡まち子氏は、「中庭で催されるイベントの優美さや、全員が同じポーズをとる前衛的な構図など、完成度の高い映像の連打にしびれるが、とりわけアルプスの緑あふれる大自然の中で、フレッドが動物たちを前に指揮をする場面の美しさに思わず心を奪われた。老いをみつめながら、なおも人生を肯定する稀有な佳作である」として70点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「人は老いに向かって生きるが、老いと若さとの境界はどこにあるのか。「若さ」という原題を持つパオロ・ソレンティーノ監督の新作である。高級ホテルでバカンスを過ごす有名な老作家を主人公に、老いることの実相を通して、生きることの意味を独特の映像美で描き出している」として★4つ(「見逃がせない」)をつけています。
 林瑞絵氏は、「後悔や恐れを手放し、もう一度自分の人生を愛したくなる、若き巨匠の新たな代表作だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『グレート・ビューティー 追憶のローマ』(見たものの、エントリを書きませんでした)のパオロ・ソレンティーノ
 原題は『Youth』。

 なお、出演者の内、最近では、マイケル・ケインは『キングスマン』、ハーヴェイ・カイテルは、レイチェル・ワイズは『アレクサンドリア』、ポール・ダノは『プリズナーズ』、ジェーン・フォンダは『大統領の執事の涙』で、それぞれ見ました。

(注2)公式サイトの「Production Notes」には、「(このホテルは)トーマス・マンがかの傑作「魔の山」を書いた場所だった。マンと所縁のあるホテルということで、オーナーが改築などには慎重だったために、当時のままをとどめている」との記載があります。

(注3)The Retrosettes Sister Band による「You Got the Love」(歌詞はこちら)。

(注4)本文の(2)で書くように、本作のラストにスミ・ジョーが本人名で登場します。

(注5)カストロとゲバラのタトゥーがあるとされるマラドーナを模しているのでしょう(Wikipediaの「ディエゴ・マラドーナ」の項の「フィデル・カストロとの関係」参照)。
 公式サイトの「Production Notes」では、「実はソレンティーノ(監督)はマラドーナに特別な思い入れを持っている。16歳の時、両親が別荘の暖房装置の事故で亡くなったのだが、いつもなら同行しているところを、たまたまその週末はマラドーナの試合を見に行っていた。以来、ソレンティーノはマラドーナを命の恩人と慕っているという」と述べられています。

(注6)女(マリーナ・ゲネア)が肩からかけているタスキには「ミス・ユニバース」とあります。

(注7)「メラニー」はバリンジャーの妻の名。

(注8)このサイトで聴くことが出来ます。

(注9)例えば、いつもレストランで出会う夫婦がいつも互いにひと言も口を利かないので、今回の食事で口を利かないかどうか、バリンジャーとミックは賭けをするなど、実に他愛ない過ごし方をしています。

(注10)ヴェニスにある精神病院に長年入院しているように思われます。

(注11)ジュリアンに捨てられた娘レナに対して、バリンジャーが、「お前の気持はよく分かる」と言うと、レナは、「分かるわけがない。ママなら分かる。何度もパパに同じ目に遭わされたから。ママは耐えた。愛していたから。パパは、私たちには何も与えてくれなかった。音楽がすべて。ママに何でも任せっきり。男性への愛を綴ったアノ手紙も、ママと私も読んだ」と吐き捨てるように言います。

(注12)例えばバリンジャーは、若い時分に共通の知人であったギルダ・ブラックという女性とミックが寝たことがあるかどうかという点に酷くこだわります。

(注13)彼の映画に出演した女優が山の斜面に次々と現れる幻想的なシーンは、とても興味深いものがあります(ミックは、「自分は50人以上の女優を育てた。女優を育てる名監督だと言われている」と呟きます)。

(注14)ミックの監督作品に11本も出演し、新作への出演も依頼されている大物女優ブレンダ・モレルジェーン・フォンダ)がミックの元にやってきて、「最近のあなたの作品はクソ、新作もあなたのキャリアを傷つけるだけ。あなたの映画には出演しない」と言うのです。

(注15)バリンジャーとニックは、例えば、小便の出の悪さについて話したりします。

(注16)例えば、バリンジャーはジミーと、ストラヴィンスキーやノヴァーリスの話をします(ジミーは「ハリウッド俳優だって、ノヴァーリスは読むのです」とバリンジャーに言います)。また、ジミーはミックに、「僕は、欲望で動いている。だから恐怖で動くヒトラーを演じることは出来ない」等と言ったりします。

(注17)上記「注6」でも触れた「ミス・ユニバース」の彼女は、バリンジャーとミックが浸かっているプールに全裸で入って来て、彼らの度肝を抜きます。



★★★★★☆



象のロケット:グランドフィナーレ
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スポットライト 世紀のスクープ

2016年04月26日 | 洋画(16年)
 『スポットライト 世紀のスクープ』を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)本年のアカデミー賞の作品賞と脚本賞を受賞した作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「事実に基づく物語」(based on actual events)との字幕が出て、まずは1976年のボストン市警11分署の夜の場面となります(注2)。
 分署には、取り乱した女性や拘留されたゲーガン神父とか司教らがいて、地方検事補がやってきたものの、ゲーガン神父がやったことについて司教が女性を説得して(注3)、それで話がついたのか、立件されないことになって(注4)、司教と釈放されたゲーガン神父とが分署を出て車に乗って立ち去ります。

 次いで、2001年のボストン・グローブ社の編集室。
 記者スチュアートの退職パーティーが開かれています。
 まず、部長のベンジョン・スラッテリー)が簡単に挨拶した後、「スポットライト」チームのリーダーのロビーマイケル・キートン)が引き継いで挨拶します。
 「スチュアートの退職は、私にとって特に辛い。20年か?彼が、ポーカーで20年負けてくれたおかげで、私は子供を大学に行かせることが出来た。月曜日には新任の局長が来るそうだ」云々。

 パーティーで出たケーキを持ってサーシャレイチェル・マクアダムス)とマットブライアン・ダーシー・ジェームズ)が「スポットライト」の部屋(注5)に入ると、マイクマーク・ラファロ)が電話で、「警察が嘘をついていることは知っている。知りたいのは真実だ」「その話は我々向きじゃない」「うちで扱うにはネタが弱い」などと話しています。



 その後週末に、ロビーは新任の編集局長のマーティ・バロンリーヴ・シュレイバー)と会います。マイアミからやってきた局長の机の上にある『バンビーノの呪い』(注6)という本をロビーが見咎めたのに気がついて、局長は「ボストンを知ろうと思って」と言い、さらに「君はボストン?」と尋ねます。
 それに対しロビーが「記者の多くは地元出身者」と答え、局長が「ニューヨーク・タイムズの傘下に入っても?」と訊くと(注7)、ロビーは「何も変わりません」と答えます。
 さらにロビーは、「自分は選手兼監督。我々の仕事はベン部長に報告しています。今は次のネタ探しをしているところ。取材期間は2ヵ月程度。そして、1年間連載されます」などと、自分たちの仕事のあらましを話します。

 この局長が、ゲーガン神父の事件をモット掘り下げるべきだと編集会議で指示したところから、「スポットライト」チームが動き始めて、次第に事件の全容が明らかになってきますが、さあ、どのような展開になるのでしょうか、………?

 本作は、2002年にボストン・グローブ紙の特集記事欄「スポットライト」に掲載された衝撃的な記事を書いた4人の記者の行動を、事実に基づきながら描いた作品です。巨大権力であるカトリック教会を相手にして、牧師たちの犯したおぞましい犯罪を暴こうとするだけに、様々な圧力がかかってくるものの、それらをはねのけて記事掲載に至ります。なかなか緊迫感あふれる映画に仕上がっていますが、カトリック教会の存在が身近でないことや、また、記事掲載がもたらす影響の実際について映画では充分に取り上げられていないことなどもあって、邦題の副題にある「世紀のスクープ」というにはイマイチの感じがしました。

(2)「スポットライト」チームが教会を巡る事件(注8)に取り組むことになったきっかけは、上で書きましたように局長の指示によるものですが、局長自身は、ゲーガン事件をめぐる女性記者のコラムを週末に読み、同事件に関する記事の新聞掲載が不十分だと思ったことによっています。
 「スポットライト」チームは、マイクが、この事件を取り扱っている弁護士のガラベディアンスタンリー・トゥッチ)と接触して、ボストンのロウ枢機卿が事件を把握していることを証する文書を探し出そうとします。



 また、サーシャやマットが被害者のヒアリングに当たり、加えて被害者団体SNAPのサヴィアノニール・ハフ)とか、神父の性犯罪を長年研究してきた元神父のサイプなどの話を聞いたりしながら、事件の核心に迫っていきます。
 とても地味な描写が続きますが、「スポットライト」チームの誠実な仕事ぶりが実に巧に描き出されていると思いました。

 ただ、本作における4人の記者の行動は、映画『大統領の陰謀』における2人の記者のように、自分たちで新たに問題を見つけ出してそれを白日のもとに晒すというものではなく、むしろ、従来から各種の調査が進められ、訴訟も起きている事件について、それらに携わっていた人達の手を借りながら、著名な新聞のコラム記事にまとめあげて大々的に公表するというところに意味があるように思われます。
 それはそれで価値は高いと思えるものの、今少しインパクトが弱いような気もします。

 また、いま少し申し上げれば、
イ)より噛み砕いて説明して欲しいところがあるように思いました。
 例えば、専らクマネズミの理解力のなさによっているのでしょうが、マイクが追求する文書は、事件を裏付ける非常に重要なものとされているにもかかわらず、いかなるものなのかがよくわかりません。誰がいつどんなことを何のために書いたものなのでしょうか?なぜ封印されている(sealed)のでしょう?
 そして、最終的には、ガラベディアン弁護士からのサジェスチョンによって、それが裁判所の記録保管所にあって今や公表されていることがわかるのですが、どうしてそういうことになるのか、よく理解できませんでした(注9)。

ロ)最近見た『マネー・ショート 華麗なる大逆転』でも感じたことながら〔同作に関する拙エントリの(2)をご覧ください〕、本作で取り上げられる4人の記者(同作でも、主要な登場人物は4人です!)の猛烈な働きぶりはよくわかるものの、彼らのプライベートな面があまり描かれていないように思いました。



 確かに、マイクが妻と離れて一人住まいをしていることや、サーシャは妻の仕事に理解のある夫がいたり母親と同居していたりすることなどがわかるとはいえ、私的な面で描かれているのはせいぜいそのくらいではないでしょうか(注10)。
 そんなことに時間を取り過ぎると、とても2時間の枠内には収まらなくなってしまうでしょうが、劇映画として幅が狭いような気がしました。

ハ)記事掲載がもたらした影響については、ラストの字幕で映し出されるものの、実にあっさりしていて、拍子抜けしてしまいます(注11)。
 局長が、「個別の神父の事件を取り上げるだけでは、従来同様個人的な出来事になってもみ消されてしまう。上の指示ですべてが行われている。標的は教会組織」とさらなる事件の追求を求めたのですから(注12)、出来上がった記事がどんな影響を及ぼしたのか、具体例を描き出すなど、もう少し本作で取り上げても良さそうに思います(注13)。

(3)渡まち子氏は、「アカデミー賞という冠がなければおそらく注目をあびない、映画ツウ好みの地味な映画なのだが、その質の高さは作品を見れば必ず分かる。不正や理不尽が横行するこの世の中でも、懸命に立ち向かう人間がまだいるのだと教えてくれる作品」として80点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「ここにはペンは剣よりも強いことが信じられる人々がいる。ちょっと古い? でもこれが報道に携わる者のあるべき姿だ」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 稲垣都々世氏は、「枝葉をばっさり刈り込んだシンプルでストレートな脚本。過剰なサスペンスを盛り込むことなく、地道に調査を続ける記者たちをじっくり追いかけることで、画面に緊迫感をみなぎらせる。真っ当な素材を真っ当に描く、実直で慎み深い知性を、この映画は持っている」と述べています。
 藤原帰一氏は、「デジタルニュースとともに購読者が減少し、新聞経営は苦しくなりました。他方、世論を煽るポピュリズムは広がるばかり。…社会正義を求める新聞が過去のものとなったかのような現状です。現実が無残だからこそ夢を見たくなる。せめて映画の中でマスメディアの夢を取り戻してください」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『扉をたたく人』のトム・マッカーシー
 そして、撮影監督がマサノブ・タカヤナギ(『ブラック・スキャンダル』も)。

 なお、出演者のうち、最近では、マーク・ラファロは『フォックスキャッチャー』、マイケル・キートンは『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』、レイチェル・マクアダムスは『誰よりも狙われた男』、リーヴ・シュレイバーは『ジゴロ・イン・ニューヨーク』、ビリー・クラダップは『パブリック・エネミーズ』(フーバー長官役)、スタンリー・トゥッチは 『ランナウェイ 逃亡者』で、それぞれ見ています。

(注2)冒頭の場面は、暗い中でいろいろの人が出入りしたりして、クマネズミには充分に把握できませんでした。

(注3)司教は、ゲーガン神父を教区から異動させるから今後こういうことは起こらないなどと言って、女性を説得したようです。

(注4)その時、分署には地方紙の記者一人しかおらず、すぐには外に漏れなかったようです。

(注5ボストン・グローブ紙の特集記事欄「スポットライト」を担当する記者4人(ロビー、マイク、サーシャ、マット)のための部屋。リーダーのロビーには個室が設けられています。4人の記者は、日頃、この部屋で仕事をします。

(注6)本書は、ボストン・レッドソックスにまつわる呪いの話を取り扱っているようです。

(注7)ボストン・グローブは、1993年にニューヨーク・タイムズに買収されましたが、2013年にボストン・レッドソックスのオーナーに売却されています。

(注8)本作が取り扱う事件の概要については、Wikipediaの「カトリック教会の性的虐待事件」の項の「アメリカ合衆国」が参考になります。

(注9)ガラベディアン弁護士が、「自分の申し立てに相手側が反対する申し立てを行ってきたので、自分の申し立ての正当性を主張するために問題の文書を添えている」とマイクに漏らしたことから、マイクが悟って裁判所の記録保管所に走ることになるわけのようですが。

(注10)局長は、日曜日にも会社に出勤しているようですから、おそらく独身なのでしょう。

(注11)せいぜい、ボストン大司教区では249人の神父らが性的虐待で起訴されたとか、2002年12月にロウ枢機卿はボストン大司教職を解任されたといったことぐらいです。
 なお、最後に、児童への性的虐待が判明した地域名がずらずらと映し出されますが(劇場用パンフレットの最後のページに記載されています)、アジアではフィリピン(5地域)が挙げられているものの、日本や韓国は挙げられてはおりません(日本でも、欧米と同じような組織が設けられているようですが、いったいなぜなのでしょう?)。

(注12)ロビーも、探し求めていた文書が手に入ったためにすぐに記事にしようと焦るマイクを抑えて、「今のままではゲーガン神父の事件だけとなって、司祭が謝罪して終わってしまう。この際は、ヴァチカンまで届く記事にする必要がある」と言って、多数の神父が関与していたことの裏付けを求めようとします。

(注13)あるいは、アメリカや欧米の人々にとっては周知の事柄であり、いまさら描くまでもないのかもしれません。
 でも、劇場用パンフレットに掲載されている町山智浩氏のエッセイ「『スポットライト』の後、何が起こったのか」では、その影響が広範に及んだことがかなり詳細に、そして興味深く述べられています。



★★★☆☆☆



象のロケット:スポットライト 世紀のスクープ
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モヒカン故郷へ帰る

2016年04月23日 | 邦画(16年)
 『モヒカン故郷に帰る』をテアトル新宿で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、ライブハウスで主人公の永吉松田龍平)がバンドを従えて歌っています。しかし何を歌っているのかよく聞き取れません。



 演奏が終わって、メンバーの一人は「お先でーす」と言って帰ってしまい、残りは楽屋らしき場所で椅子に腰掛けています。
 メンバーの一人が「やっぱり年金とか健康保険とかちゃんと払っていけるのか心配」と言うと、もう一人も「俺も、正直、今は居酒屋のメニュー考えている方が楽しい」と応じ、最初の男が「永吉、お前どう思う?」と振ると、永吉は、「俺は俺なりにいろいろ考えたんだけど、やっぱりなんだかんだあって、皆の言うとおりだと思う」と答えます。

 永吉が家に戻ると、由佳前田敦子)が眉間にシワを寄せて寝ています。
 永吉がそのシワを伸ばしたりしていると、由佳が目を覚まします。
 それで、永吉が「ただいま」と言うと、由佳は「ぶん投げんぞ」と怒ります。

 由佳は、永吉が買ってきたコンビニ弁当を食べながら旅行雑誌を見て、「ここに行きたい」と言います。そこには宮島の鹿が写っています。永吉が「なんで?」と訊くと、由佳は「だって、鹿が普通に歩いているんだよ」と答えます。
 そして、由佳が「明日、行くっしょ?行くよね?」と言うものですから、永吉もやる気なさそうに「ああ」と応じます。さらに、由佳が「準備は?」と年を押すので、永吉も「行くよ、行くって」と答えます。
 永吉が「まあ、仕方ねーべ。俺も、まっとうな長男として…」と言いかけると、由佳が「髪切っていけば?」と遮り、永吉は「絶対いやだ」と答えます。

 ここで、瀬戸内海を進むフェリーが映って、タイトルが流れます。
 こうして、二人は故郷の島(注2)に行くことになりますが、さてそこではどんなことが起きるのでしょうか、………?

 本作は、売れないバンドをやっている主人公が、腹ボテの恋人を連れて東京から故郷の島に戻ると、実家には両親と弟がおり、すぐに父親が末期がんだと判明して、そして……という物語ながら、特に主人公と両親の人物設定がユニークで、こういうストーリー展開の作品は他にもみられるとはいえ、なかなか面白く見ることが出来ました。なにしろ、1年間暮らしたことのある広島が絡む映画でもあるので。

(2)本作に類似する作品としては、まず『東京家族』が思い付くところでしょう。
 同作でも、本作と同じように、息子(妻夫木聡)が恋人(蒼井優)を連れて、フェリーに乗って広島の島に向かいます。
 息子は舞台美術に携わっているとされていて、ロックバンドをやっている本作の永吉と同じように、不安定な感じがします。
 ただ、島には、母親(吉行和子)を亡くしたばかりの父親(橋爪功)しかおらず、その父親も元教員で物静かであり、本作における実家の田村家とはかなり様子が違います。

 もう一つ、TVドラマの『流星ワゴン』(2015年)が挙げられるかもしれません。
 主人公の一雄(西島秀俊)が、橋本(吉岡秀俊)の運転するワゴンに乗って過去の時点に戻って人生をやり直そうとするお話で、中心となるのが一雄とその父親・忠雄(香川照之)との関係です。
 同作の雰囲気が本作とかなり違っているとはいえ、広島の鞆の浦が一つの舞台となっていること、主人公が不安定なこと〔一雄は会社からリストラされ、妻・美代子(井上遥)からも離婚を求められています〕、そして主人公と病院にガンで入院している父親との関係が描かれていること、といった点から同作のことが思い浮かびました。

 本作は、これらの作品と類似点がいろいろあるにしても、全体のトーンはかなり違っています。
 何しろ実に愉快な人達が映画に登場します。
 永吉の父親・柄本明)は、広島出身のロックミュージシャン・矢沢永吉の熱烈なファンで、長年中学校の吹奏楽部のコーチをやっていますが、その演奏曲を矢沢の曲(注3)にしてしまうほどです。



 また、永吉の母親・春子もたいまさこ)は、広島カープの大ファン。家には広島カープのグッズがあふれていますし(注4)、TVやラジオで野球中継を見たり聞いたりすることに余念がありません(注5)。



 そして、主人公の永吉は、30歳にもなっているのですが、売れないデスメタルバンド「断末魔」のヴォーカルをやっていて、由佳が妊娠しているにもかかわらず、どうもしゃんとしません(注6)。

 こんな家族の中に、これまた「私、そんな頭よくないし」と自分から言ってしまう由佳が加わるのですから、末期ガンの父親という厳しいシチュエーションが描かれているにもかかわらず(注7)、全編笑いに満ちていて、家族とは何かなど小難しいことは何も考えずに、思い切り笑ってしまえる作品でした。

 それに、広島で1年間生活して以来、隠れ広島カープファンであり、また矢沢永吉の隠れファンでもあるクマネズミにとっては、本作が広島物であることだけでもうOKとなってしまいます(注8)。

(3)渡まち子氏は、「柄本明の突き抜けた名演と、穏やかな瀬戸内の島の空気が、涙と笑いを同時に届けてくれる」などとして65点をつけています。
 森直人氏は、「自己実現と生活の葛藤、家族の再建といった難しい問題を、繊細なバランスで穏当さに定着させる沖田(監督)の仕事は、わかりやすい過激さよりも攻めの姿勢に思える。タイトルは島津門下の一人でもある木下惠介の名作を連想させるが、名前負けしていない健闘ぶりだ」と述べています。
 小梶勝男氏は、「親の死と、自身の結婚。どこにでもある家族の話が、瀬戸内海の美しい風景とともに、まったりと、ユーモラスに展開する。彼らの暮らしぶりは洗練とは無縁で、むしろみっともないが、愛情と共感をたっぷりと込めて描かれ、温かい笑いになっている。そして、死も結婚も、すべてを日常として受け入れてしまうようなゆるぎなさに、心を打たれる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『横道世之介』や『キツツキと雨』などの沖田修一(ちなみに、沖田監督は広島県出身ではありません)。

 なお、出演者の内、最近では、松田龍平は『まほろ駅前狂騒曲』、柄本明は『人生の約束』、前田敦子は『さよなら歌舞伎町』、もたいまさこは『マザーウォーター』、千葉雄大は『幕末高校生』、島の医師・竹原役の木場勝己は『家族はつらいよ』、由佳の母親役の美保純は『人生の約束』で、それぞれ見ました。

(注2)広島県の島で、「戸鼻島」という架空の名前が付けられています。

(注3)「アイ・ラヴ・ユー、OK」(1975年:矢沢のソロ・デビュー曲)。
 吹奏楽部の部員(富田望生)が「曲を変えたい。やたら渋すぎると笑われた」と言っても、治は「矢沢、武道館でやった」等と言って取り合いません(ちなみに、矢沢は、1977年に初の日本武道館単独公演を行っています)。

(注4)治の部屋には、もちろん矢沢永吉のグッズがあふれています。

(注5)どうやら広島カープの菊池涼介のファンのようです(菊池が打ってサヨナラ勝ちをした時には、泣き出します:ちなみに、昨日までの菊池の打率は3割6分で、セ・リーグ第3位!)。また、永吉の弟(千葉雄大)が浩二というのも、山本浩二によっているのでしょう。
〔追記:4月26日に、新井貴浩選手が20000本安打を記録しました!
    9月10日に広島カープがぶっちぎりのリーグ優勝を果たしました!
       始球式をした前田敦子が祝福をしました(この記事)!〕

(注6)永吉は、意見を求められると、わけのわからないことを言って逃げます。本文の(1)でも書きましたが、病院で父親・治の治療法について弟・浩二に意見を求められた時も、「俺は俺なりに、いろいろ考えたけど、やっぱりなんだかんだあって、浩二の言うとおりと思う」と言います。

(注7)父親・治が肺ガンで入院している病院の屋上で、永吉は父親の求めに応じてタバコを与えてしまい、父親は激しい発作に襲われます。あとで永吉は、母親の春子から頭を叩かれ、「ほんとに馬鹿だ」と叱られます。

(注8)例えば、『少年メリケンサック』(2009年)で、バンド・メンバーの佐藤浩市ら(ドラマー役の三宅弘城がモヒカン頭!)が、ライブ会場を探し求めて広島の繁華街をあちこち走り回る様は目に焼き付いています。



★★★★☆☆



象のロケット:モヒカン故郷に帰る
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蜜のあわれ

2016年04月21日 | 邦画(16年)
 『蜜のあわれ』を新宿バルト9で見ました。

(1)二階堂ふみが主演の作品というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、花が咲いている庭の木がカーテン越しに映しだされ、また老作家大杉漣)が原稿を書いている机の上には、花が活けてある花瓶が置かれています。
 その向こうでは、ソファーに寝そべりながら赤子二階堂ふみ)が本を読んでいます。
 赤子は「人を好きになるということは楽しいものでございます」と読み上げると、その本を放り出して庭の方に行きます。
 原稿を書くのを止めた老作家は、赤子の姿を眺めながらスケッチをし出します。
 それを見て赤子は、「おじさま、またサボってる」「あたいの絵なんて、一文にもならない」と言います。老作家が、「雑誌に口絵を頼まれている、金になるんだ」と答えると、赤子は「どれだけ?」と尋ねます。老作家が「2千円」と答えると、赤子は、「あたいの取り分は?モデルと画家で山分けするのでは?」と言います。老作家は、仕方なく財布から千円札を出して赤子に渡します。



 すると、赤子は「お出かけ!」と言い、さらに「おじさま、「人を好きになるということは楽しいものでございます」と言ってみて。一遍、男の人の口から聞いてみたいの」とせがみます。
 ですが、老作家は、「言えない。男には言えないことがあるんだ」と断ります。
 すると、赤子が「小説家でも言えないことがあるの?」と皮肉るので、老作家は、「小説家だからこそ、と考えられないかね」と言い返します。

 赤子は、「こんなところにいたら殺されちゃう」と言いながら外出しようとします。
 老作家は、「気をつけるんだよ。道は5時になると2つに別れる。分かれ道で迷うと戻ってこれない」と注意します。
 赤子は、「5時の道で迷わないようにします」と言って外出してしまいます。
 残った老作家は、「人を好きになるということは」とつぶやきながら、スケッチの続きを描きます。
 そこに書かれているのは金魚。

 これでタイトルが映しだされ、ここから物語が展開していきますが、さあこの二人はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、室生犀星の小説を実写化したもので、金魚から変身した少女と、老作家、老作家を慕う幽霊の女との間の三角関係を描いたファンタジー。昭和30年代の前半を舞台としていますが(注2)、あまり古さを感じさせません。それに、芥川龍之介を登場人物としたり、萩原朔太郎を人の口に上らせたりするのは、原作に見られないだけに、その必要性があるのか疑問で、体当たり的演技を披露する二階堂ふみはダンスまでこなし実によくやっており、共演の大杉漣も堅実な演技を見せているものの、クマネズミにはどうも乗りきれませんでした。

(2)本作の原作を、映画を見終わってからザッと読んでみました。
 原作は、全編が会話のみから出来上がっている一風変わった小説となっています(注3)。情景描写(脚本で言えばト書き)が全くなされないために、誰が話しているのか把握しにくい場面が出てくるほどです(注4)。

 ただ、こうした原作を実写化するのは、シナリオが出来ているも同然と思えますから、簡単そうに見えます。ですが、むしろ登場人物の置かれている状況についてほとんど何も書き込まれていないため、映画の設定をどのようにするかについて映画制作者の実力が問われてしまう怖さを持ってもいるようです。

 原作と本作との違いをほんの少々見てみましょう。
 始まり方や終わり方の相違を除いても(注5)、例えば、
a.本作で何回も口に上る「人を好きになるということは楽しいものでございます」というフレーズは、本作では、赤子が読む本の中に書いてある言葉とされますが、原作の場合は、女性の雑誌編集者が俳優宛に書いた手紙の中の言葉とされています。
b.本作では、アクタガワ高良健吾)という幽霊が登場したり、萩原朔太郎の名前が飛び交ったりしますが、原作小説ではそうなっておりません。



c.老作家を慕う幽霊の田村ゆり子真木よう子)と赤子との関係が、本作では濃密に描かれています(注6)。



d.原作にも田村ゆり子以外の女性が何人か登場しますが、老作家の恋人のような存在〔本作における丸田丸子韓英恵)のような〕としては描かれておりません。
e.本作に登場する金魚屋の辰夫永瀬正敏)は中年男ですが、原作では「金魚屋のおじいさん」とされています(注7)。



 さて、こうした種々の改変の内問題と思われるのは(注8)、bのアクタガワと萩原朔太郎を本作が取り上げている点や、dの丸田丸子の登場ではないでしょうか。
 確かに、芥川龍之介などを本作に登場させて、彼らが老作家のことをどのように話しているのか(注9)を映画の中で描けば、老作家の文壇における位置づけなどがある程度見る者にわかるでしょう。
 でも、本作は原作者の室生犀星の伝記的映画ではないはずであり、室生犀星自身とされる老作家と芥川らとの関係など無用の知識ではないかと思われます(注10)。

 また、老作家の実際の生活ぶりを描き出すためには、丸田丸子のような恋人の存在は意味があることでしょう。ですが、老作家が赤子を創り出したのは、そうした若い女性との実際の恋がうまくできなくなくなったからではないでしょうか?本作における老作家と丸田丸子との関係は結局破綻してしまうとはいえ、彼女が当初からいるのであれば、老作家は赤子を創り出さなかったのではないでしょうか?

 総じて言えば、原作の小説はファンタジー的色彩が濃いにもかかわらず、本作はむしろいわゆる「私小説」的色彩を強めている感じがします(注11)。
 好みの問題でしょうが、原作が映画『赤い風船』(1956年)にインスパイアされて書かれているとされていることもあり(注12)、もっとファンタジー色を強めた映画作りも考えられるのでは、と思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「映画は、金魚の少女を、二階堂ふみが演じたことで“勝ったも同然”で、犀星自身を投影している作家を無邪気に翻弄する小悪魔ぶりがあまりにハマッている」として60点をつけています。
 山根貞男氏は、「奔放な魅力の二階堂ふみと、渋みで輝く大杉漣。この2俳優の組み合わせが絶妙で、めったに見られない演技合戦が楽しめる」と述べています。



(注1)監督は、『シャニダールの花』や『生きてるものはいないのか』の石井岳龍
 脚本は港岳彦
 原作は、室生犀星の『蜜のあわれ』(講談社学芸文庫←単行本出版当初の題名は『蜜のあはれ』)。

 なお、出演者の内、最近では、二階堂ふみは『この国の空』、大杉漣は『25 NJYU-GO』、真木よう子は『脳内ポイズンベリー』、高良健吾は『きみはいい子』、永瀬正敏は『あん』、韓英恵は『ペタル ダンス』(DVD)、渋川清彦は『お盆の弟』でそれぞれ見ました。

(注2)例えば、本文の(1)で見られるような千円札が登場するのは戦後のことでしょう。

(注3)劇場用パンフレット掲載の高瀬真理子氏のエッセイ「室生犀星と「蜜のあはれ」」では、「「蜜のあはれ」は、昭和34年『新潮』1月号から4月号にかけて連載された作品で、最終章を除いて、全編会話体のみで構成された老境の作家と金魚との恋愛譚である」と述べられているところ、「最終章を除いて」とあるのは理解できません。ここは文庫版の「解説」で久保忠夫氏が述べるように、「『蜜のあわれ』は全編対話で終止している稀有の作品である」と述べる必要があります(あるいは、高橋氏は「後記 炎の金魚」を「最終章」と取り違えたのかもしれませんが)。

(注4)例えば、文庫版のP.74では、老作家、赤子、子供達、金魚屋のおじいちゃんの話が入り乱れていますし(もちろん、見分けがつくように書かれていますが)、またP.77の末尾の会話は赤子が老作家に対して行っているものであるのに対し、それにすぐに続くP.78の冒頭の会話は、赤子が田村百合子に対して行っているものです。

(注5)原作の冒頭は、「おじさま、お早うございます」という赤子の会話で始まりますし、終わりは、赤子が行ってしまった田村ゆり子に向かって、「田村のおばさま、暖かくなったら、また、きっと、いらっしゃい」云々の会話で終わります。これに対し、本作の冒頭は、本文の(1)に書いたとおりですし、本作の最後は、死んでいく老作家の回想の中で赤子と老作家が踊るシーンです。

(注6)本作では、田村ゆり子の手首の傷を赤子が舐め続けていると、田村は赤子にくちづけをします。

(注7)他に、本作には、バーテン(渋川清彦)とか医師の小沢上田耕一)、酌婦(若井堂聖子)といった人物が登場しますが、原作には出てきません。

(注8)いうまでもなく、原作の実写化にあたっては、原作に様々の改変の手が加えられることは当然のことでしょう(原作と映画とは別の作品であり、原作に忠実な映画というだけでは意味がないように思います)。

(注9)アクタガワは、萩原朔太郎が老作家について「昔の方が良かった」と言っていたことを、老作家に伝えます。
 ちなみに、「俳人としての芥川龍之介と室生犀星」と題したエッセイ(1938年)で、萩原朔太郎は芥川龍之介と室生犀星の俳句を比較して論じています(その中には、「室生犀星氏は、性格的にも、芥川氏の対照に立つ文学者である。彼は知性の人でなくして感性の人であり、江戸ツ子的神経の都会人でなくして、粗野に逞しい精神をもつた自然人であり、不断に燃焼するパツシヨンによつて、主観の強い意志に生きてる行動人である」などという興味深いフレーズが見受けられます)

(注10)特に、いわゆる文壇が消滅して久しい今となっては。

(注11)何しろ、本作では、老作家の最後のシーンを描いているだけでなく(そのために、老作家の残り時間の少ないことを匂わせる会話を医師・小沢に前もってさせています)、幽霊の田村ゆり子と老作家の目が合うシーン、果ては丸田丸子との交情シーンまで描かれているのです(結局はうまく行きませんでしたが)。

(注12)文庫版掲載の「後記 炎の金魚」には、次のようなことが述べられています(P.182)。「「赤い風船」を見た後に、こういう美しい小事件が小説にかけないものか知ら」と、「1ヵ月くらい映画「赤い風船」に取り附かれ」たが、「日々の忙殺は「赤い風船」の喜びもまた私の頭からあと形もなく飛散して了った」。ところが、小説を書き終わってこの「後記」を書く段になって「赤い風船」のことを思い出し、「お前が知らずに書いた「蜜のあわれ」は偶然にお前の赤い風船ではなかったか」などと判った。



★★★☆☆☆



象のロケット:蜜のあわれ
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ルーム

2016年04月19日 | 洋画(16年)
 『ルーム』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)本作は、本年のアカデミー賞作品賞にノミネートされ、主演のブリー・ラーソンが主演女優賞を受賞した作品だというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、ベッドに寝ている5歳のジャックジェイコブ・トレンブレイ)に、母親のジョイブリー・ラーソン)が「寝なさい」と言います。



 ジャックは、寝返りを打って目をつぶります。
 そして、ジャックの声で、「昔々、僕が降りてくる前、ママは毎日泣いていて、テレビばかり見ていて、ゾンビになった。それから、僕が、天国から天窓を通って降りてきて、お腹の中からママを蹴って、外に飛び出すと、ママがへその緒を切って、「ハロー、ジャック」と言った」。

 朝になると、ジャックは目を開けて、「僕は5歳だ」と叫びます。
 ジョイは、「大きな子。もうお兄ちゃんね」と応じます。
 ジャックは、「お早う、じゅうたん。お早う、テレビ。お早う、トイレ。お早う、シンク」などと言って部屋の中を動き回ります
 そして、ジョイが「今日の計画、お誕生日のケーキを焼くの」と言います。

 ジャックは、歯磨きをしたり、背の高さをジョイに測ってもらったり、ジョイの真似をしてストレッチ体操とか腕立て伏せをしたり、それからケーキ作りを手伝ったりします。

 とうとうジョイが、出来上がったケーキを机に出します。
 ですが、ジャックが「ろうそくは?」と尋ねたところ、ジョイが「ないの。面倒なものは、あいつに頼めないの。ろうそくがなくてもケーキよ」と答えるものですから、ジャックは酷く怒ってしまいます。

 その夜、オールド・ニックショーン・ブリジャーズ)が「部屋」にやってきます。
 彼は、「あの子のジーンズだ。ブドウはものすごく高かった。代わりにナシの缶詰を買ってきた」と言いながら、机の上のケーキを見つけます。それが誕生日のケーキだとわかると、「いくつになった?言えばプレゼントを買ってきたのに」などといいます。

 ジャックは、この光景をベッドが置かれた洋ダンスの隙間から覗いています。
 こんなふうに映画は始まりますが、さあこれからどのように物語は展開していくのでしょうか、………?

 本作は、7年前の17歳の時に男に誘拐され、以来その男の家の庭に設けられた納屋(「部屋」と言われます)に監禁され、5年前に生まれた男の子と二人で生きてきた女性の物語で、前半が、その部屋の中での暮らしぶり、後半がその部屋を脱出してからが描かれます。原作は小説ですが、オーストリアで実際にあった話(注2)に基づいているとされます。何より、日本では、2年に及ぶ監禁事件が最近明るみに出たばかりですから(注3)、とてもフィクションとは思えないところであり、映画に惹きつけられます。

(2)それでも、前半部分については、少々問題点があるように思われます。
 例えば、17歳の時にニックがやってきて「犬が病気」と言われて騙されて誘拐された、とジョイはジャックに語っていますが、高校生にもなってそんな他愛もないことで人は誘拐されるものでしょうか(注4)?

 また、食料などはニックが納屋に運び込んでいますが、ジョイとジャックの2人分の生活物資として量が非常にわずかのように感じられます(注5)。
 それに、同じくらいに嵩張る廃棄物(ゴミ)の運び出しも描かれていません(注6)。
 これらのことは、納屋で人が生活していることを周囲に示す兆候であって、隣近所が不審に思って警察に通報する可能性が出てきます(注7)。
 7年間もの間、隣近所が何も気が付かなかったというのも疑問に思えるところです(注8)。

 とはいえ、本作は、監禁をメインテーマとしているというよりも、むしろ、親子の絆とか子供の成長ぶりといったことに焦点を当てているように思えます。そうであれば、こういったことはどうでもいいのでしょう。

 ですが、そうはいっても、前半部分についてはやはり異常な状況が描かれているので、興味を持ってしまいます。

 これまでも監禁を巡って映画は色々作られてきました。
 例えば、『アリス・クリードの失踪』は、ある大金持ちの一人娘を2人組みの男が誘拐・監禁するというものです(注9)。
 ただ、本作がこうした作品と異なっているのは、監禁の期間が7年と異様に長く、被害者が監禁されながらも一定の生活を営んでいるということでしょう。

 もっと言えば、従来の作品では、加害者が前面に出てくるのが普通でしょう(注10)。ですが、本作の前半で描かれる監禁状況においては、極力、ジャックとジョイの生活ぶりの方に焦点が当てられていて、加害者のオールド・ニックはほんの僅かしか登場しません。
 監禁がメインテーマならば重要な場面になるものと考えられますが、ジョイがニックに誘拐された時のことや、ジョイがトイレの蓋でニックに殴りかかって失敗した時のことは、ジョイがジャックに語る話の中での出来事に過ぎません。

 むしろ、納屋における2人の生活ぶり、特に、テレビを見たり、絵本を読んだり、歌を歌ったり、ラジコンで遊んだりと、活発に動き回るジャックの世界がどのように形作られているのか、見る者に想像させる方に主眼が置かれているように感じます。
 この場合、ジャックは、自分とかジョイと、テレビに映る人物とが違っているように思えてしまうようです。それで、ジョイは5歳になったジャックに、「テレビの中の人物は、私たちみたいな顔の人なら本物なの」と言ってきかせます。
 それでも、ジャックは、天窓に落ちている枯れ葉が本物だとは思えません。ジャックにとって葉っぱは、テレビで見た緑色の物しかありえないのです(注11)。



 生まれた時から外界と隔離された場所で育った子供が、自分の周りの世界とテレビの世界とをどのように見ているのか、本作におけるジャックの反応はリアルなものなのかどうか(小説として描かれたものにすぎないのかどうか)、クマネズミには判断がつきませんが、大層興味深い世界が本作で描き出されているな、と思いました(注12)。

 なお、解放された後の2人の様子は後半部分で描かれます。ただ、後半部分でも様々な騒動が持ち上がるとはいえ、特に、解放後にジョイは精神的にかなりのダメージを受け(注13)、自殺未遂まで引き起こすことになりますが、その展開はある程度推測出来るもののように思えます(注14)。

 また、確かに、主演のブリー・ラーソンの演技はなかなかのものとはいえ、本作のようなシチュエーションが与えられればこうした演技はプロならある程度出来るのではないか(主演女優賞には、やっぱり『キャロル』のケイト・ブランシェットがふさわしいのでは)、それより、5歳のジャックを演じた8歳(撮影時)の子役の絶妙の演技がなくてはこの作品は成り立たないのでは、と思ったところです(注15)。

(3)渡まち子氏は、「未知の環境にも柔軟に対応し、それを愛することができるのだから。世界を“発見する”息子ジャックと、世界に“戻る”母ジョイ。人生を取り戻した2人を演じ切ったブリー・ラーソン、ジェイコブ・トレンブレイの名演に心を奪われる」として85点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「監禁という残酷な出来事と解放後の騒動と厳しい現実を被害者の目線で綴っていくが、映画は被害者の傷ついた心に寄り添いながら、母子2人が新たな世界を力強く生きていく姿を描き出して胸に響く」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 藤原帰一氏は、「映画の表現力が強いので、見るのがつらくなるほど感情移入してしまう。親子の姿を見るだけで泣きそうになりました。演技だけでも抜群の作品ですが、ここはひとつ、ただの「泣かせる映画」では終わらない巧みな演出の醍醐味も味わってください」と述べています。



(注1)監督はレニー・アブラハムソン
 脚本は原作者のエマ・ドナヒュー
 原作は『ルーム』(講談社文庫:未読)。

(注2)2008年に発覚した「フリッツル事件」。

(注3)日本でも、これまで「新潟少女監禁事件」(2001年に被害者発見)などが起きています(Wikipediaの「監禁」より)。

(注4)あるいは、ジョイはジャックがわかるように説明を簡略にしているのかもしれませんが。

(注5)あるいは、映画では描かれていない時に、もっと物を運んでいるのかもしれませんが。

(注6)さらに、ジョイが食事を作る際に、煙が外に排出されることも考えられます(あるいは、電子レンジやホットプレートで調理するのかもしれませんが)。

(注7)ニックの住まいは野中の一軒家ではなく、街中にあり、周囲は別の家に囲まれています(あるいは、塀に遮られて納屋の様子が見えなかったのかもしれませんが)。

(注8)さらには、納屋の台所にはナイフ・包丁があったように思われ、そうであればそれを武器にジョイはニックと戦えなかったのか、などの疑問も湧いてきます。
 こうした点は、下記の「注13」で触れているTVレポーターも疑問に感じたようです。ただ、監禁状態にある被害者の心理状態は、外部の者にはうかがい知れないところであり、こんなところで常識を振り回すのは慎むべきではないかと思われます(朝霞の女子中学生監禁事件について、TVのニュース・ショーなどのマスコミは連日そうした点(「なぜ被害者は逃げ出さなかったのか」)を取り上げていましたが、興味本位に事件を見すぎているように思いました)。

(注9)他にも、例えば、『リミット』は、テロリストに誘拐されて、棺の中に押し込められ、砂漠に埋められた男の物語です。

(注10)上記「注9」で触れた『リミット』では、閉じ込められた男しか画面に登場しませんが。

(注11)また、ニックが本物なのかどうかもわからなくなります(「半分本物なんだ」とか「テレビの中に入ってしまうんだ」などとジャックは言います)。
 それで、いろいろジョイが説明してもジャックは納得せず、「世界なんて嫌いだ。テレビの方が良い」と言い張ります。

(注12)あるいは、ジャックにとって、自分自身とかジョイの方が、テレビと同じように平面的に見えてしまうといったことは起こらないのでしょうか?
 もっと言えば、納屋の中には鏡が置かれていないようです。その場合、はたしてジャックはうまく自我を形成できるのでしょうか(ラカンの「鏡像段階」!)。

(注13)監禁期間中に「ばあば」(ジョーン・アレン)と「じいじ」(ウィリアム・H・メイシー)が離婚したこととか、TVインタビューでレポーターから心ない質問(異常な状況下に置かれていた人に対して、ごく常識的なところから、「なぜ……ができなかったのか?」という実に賢しらな質問をしてしまいがちではないでしょうか?)を受けてしまうことなどによって。

(注14)とはいえ、頑なな「じいじ」が手を引いてしまった後、「ばあば」の再婚相手・レオトム・マッカムス)とジャックは何気なく交流していきますが(食事とか犬の散歩などで)、こんなことからもジャックがスムースに新しい世界に入り込めるようになっていったように描かれていて、こうした場面は感動的です(ジョイにはジャックがいるとはいえ、新しい男性が必要なのかもしれません←ニックがトラウマとなって大層難しいかもしれないのですが)。

(注15)今や、どの国の作品でも、子役の演技には目を見晴らせます。
 最近では、『僕だけがいない街』における中川翼鈴木梨央が凄いなと思いました。



★★★☆☆☆



象のロケット:ルーム
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リップヴァンウィンクルの花嫁

2016年04月15日 | 邦画(16年)
 『リップヴァンウィンクルの花嫁』をユーロスペースで見ました。

(1)評判の高さを聞いて映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、人々が大勢道路を歩いていて、その間にいた皆川七海黒木華)がポストの前で立ち止まって、携帯を手にしながら、もう一方の手をおそるおそる挙げます。



 画面では携帯のメッセージの内容が示され、相手から「目印は?」と訊かれて、七海は「ポストがあります」と答えます。
 もう一度七海が不安そうに手を挙げると、鶴岡鉄也地曵豪)が現れ、「皆川七海さんですか?鶴岡です」、「あっちにいい感じのカフェがあります。そこを曲がったところ」と言います。
 歩きながら七海は、「学校、むずかしいんでしょ?」、「あたしは、臨時教員。普通採用を目指しています」等と話します。

 七海はSNS(ハンドルネームがクラムポン)で、「お見合いサイトで、彼氏がアッサリ手に入ってしまった。ネットで買い物するみたい」とのメッセージを出します。

 次いで、七海の部屋。
 ベッドで寝ている鉄也に対して、起きた七海は「買い物に行ってきます」と言います。
 「一緒に行く」と言う鉄也に対して、七海は「疲れていらっしゃるんじゃない?ゆっくり寝ていてください」と答え、外出します。

 今度は、学校の場面。
 七海が教室に入ると、教壇に置かれた机の上にマイクが置いてあるので、「これ、なんでだろう?」と尋ねると、生徒の一人が「先生の声聞こえないから、マイク使ってください」と答えます。それで、七海も仕方なくマイクを手にし、「27ページを開いてください」と言いながら授業を始めます。

 次に、七海は、コンビニで出会った昔のクラスメートの似鳥玄理)の家で食事をします。
 似鳥に「メガネかけてた?」と訊かれたので、七海は「これは伊達メガネ。生徒に見つかると困るから」と答えますが、似鳥は「すぐにわかったよ」と言います。
 今度は七海が「似鳥さんは?」と尋ねると、似鳥は「キャバクラ」と答えるので、七海は「綺麗だから。いっぱい稼げるでしょう?」と言います。すると、似鳥が「紹介しようか?楽しいよ」と言うので、七海は「そこまで割り切れない」と断ります。ただ、似鳥は「親にバレたら殺されるけど、両親への仕送りは続けている」と言います。

 こんな風に本作は始まりますが、さあ物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、臨時教師の職を失い、さらにネットを通じて知り合った男と結婚したものの離縁させられるという悲惨な境遇に陥った主人公が、とても変わった何でも屋の手助けによって立ち直っていくというお話。タイトルからも見て取れるように現代寓話といった趣きであり、3時間という長尺ながらも、様々の見方が出来そうな気がしてきて、何か言いたくなってくるのを止めがたい実に興味深い作品に仕上がっていると思いました。

(2)そこで、映画素人ながら、つまらないことを申し述べることといたします。
 本作では、主人公の皆川七海が、これほど弱々しい女性が現代にいるのかなと思わずはいられないくらいのか細い存在として描かれています。
 例えば、派遣会社の担当者から、「教師がマイクを使うのはまずい」、さらには「声が小さいのは教師にとって致命的」とズケズケ言われて、臨時教員の仕事を簡単に失ってしまいます。だからといって、昔のクラスメートの似鳥のように、たくましく生きようとはしません。
 また、鉄也に「本来ならば損害賠償ものだ。全部捨てて出て行って。お元気で、さようなら」と一方的に言われ、家を追い出されてしまいます。七海は、あてどなく彷徨い歩き、何でも屋の安室綾野剛)からの電話に、「ここはどこですか?どこにいるのかわからない。どこに行けばいいのですか?」と泣き叫びます。

 その安室ですが、何でも屋として際どい仕事をやっているように見えて、これまたありえないほど人が良い存在に描かれています。



 例えば、ホテルの部屋のトイレからの七海の救助要請でやってきた安室は、シャワー室から出てきた七海と部屋で二人きりとなっても、「男は追い払いました。外で待っています」と言って部屋を出てしまいます。常識的な展開ならば、胡散臭い安室が七海に手を出しても当然と言える場面にもかかわらず(注2)、いともあっさりと安室は身を引いてしまいます(注3)。
 また、真白が死ぬと、わざわざ母親(りりィ)の住処を探しだしてその遺骨を持って行くのです。

 本作のタイトルに、アメリカのお伽話ともいえる「リップヴァンウィンクル」が使われていることや、上記したような主要登場人物の性格付けといったことから、本作自体はファンタジー、それも現代寓話といえるでしょう。
 そうだとしたら、あくまでも七海のサポート役に徹する安室は、昔のお伽話とか神話で活躍するトリックスターと言えるかもしれません。

 こうなると、3年前に亡くなった文化人類学者・山口昌男氏が思い出されるところです。
 山口氏は、その『アフリカの神話的世界』(岩波新書)のなかで、トリックスター的存在であるギリシア神話のヘルメスとアフリカの神話登場するエシェに共通する神話素として、次のような項目を挙げています(同書P.164)。
a.小にして大、幼にして成熟という相反するものの合一。
b.盗み、詐術による秩序の擾乱。
c.いたるところに姿を現す迅速性。
d.新しい組合せによる未知のものの創出(注4)。

 これらを本作について少々検討してみると、aについては、安室が「何でも屋」という商売をしていることが該当するかもしれませんし(注5)、bについては、例えば、安室が七海の家に送り込んだ男(和田聰宏)が引き金を引いて、七海は離婚せざるを得なくなります。またcについては、まさに七海が電話を入れるとすぐさま安室は姿を表しますし、dについても、真白Cocco)と七海とを最初に引き合わせたのは安室です(注6)。

 こうしてみると、安室はまさにトリックスター的な存在、すなわち、「大と小、成熟と幼、境界内と外、「日常」と「祝祭」、固定と動、死と生、上と下、男と女、秩序とアナーキー、光と闇、意味と無意味」(注7)といった「中心と周縁」の対立が解消する世界の存在なのかもしれません。
 なにしろ、安室は、大きな屋敷でメイドとして暮らす真白に七海を引き合わせ、少なくとも「成熟と幼」とか「死と生」、「男と女」といった対立を解消させる方向に事態を進ませようとしたのですから。

 そうはいっても、本作の場合、真白自身は「日常」、「秩序」、「光」といった中心的な項に位置していないでしょう。彼女はAVに出演し、毎晩銀座などで飲んだくれているほどなのですから(注8)。
 だとすると、本作における「中心」は二人が働いている大きな屋敷であり、「周縁」は偽装家族(注9)とかマザコン(注10)とかが蠢いているところ、あるいはSNS(注11)が煩雑に取り交わされているところと言えるかもしれません。ただ、その「中心」の真ん中には何が据えられているのでしょうか?
 もしかしたら、その中心の中心は空っぽなのかもしれませんし(注12)、逆に、大きな屋敷の一室に置かれている水槽で飼われてクラゲとかイモガイ(注13)、ヒョウモンダコといった猛毒の生物なのかもしれません!

 本作について、主役を演じた黒木華の演技は素晴らしいものがありますが(注14)、クマネズミには、むしろ綾野剛が演じる安室こそが主人公なのではと見え(注15)、そしてその安室役を綾野剛は実に見事に演じていると思いました。
 この二人の組合せは『シャニダールの花』(2012年)で見ましたが、4年経過して、それぞれが素晴らしい俳優になったなという印象を受けたところです。

(3)渡まち子氏は、「流されて生きてきた女性の変化と自立を独特の感性で描く人間ドラマ「リップヴァンウィンクルの花嫁」。まったりとした緊張感というと、矛盾に聞こえるかもしれないが、そういう表現がしっくりくる」として60点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「物語はシンプルだが、映像が各々のエピソードを膨らませている。ラストで七海と安室が真白の母親に会いに行くシーンは圧巻である。黒木とCoccoが好演」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 佐藤忠男氏は、「岩井俊二監督が世相風俗を面白く描いた映画である。とくに女優たちが生き生きとしていることと、ストーリーの展開が才気煥発で意外性が楽しめる」と述べています。
 近藤孝氏は、「「リップヴァンウィンクル」は米国の短編小説の主人公の名。寓話同様、七海も一時夢を見る。そして、悲しみを救済する儀式を経て、彼女は目覚め、再び現実と向き合う。今度こそは、その世界で幸福を見いだせるだろう。新しい冒険の幕開けを祝福したくなった」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『新しい靴を買わなくちゃ』をプロデュースした岩井俊二
 原作は、岩井俊二著『リップヴァンウィンクルの花嫁』(文藝春秋:未読)。

 なお、出演者の内、最近では、黒木華は『幕が上がる』、綾野剛は『天空の蜂』、Coccoは『KOTOKO』、りりィは『FOUJITA』(おばあの役)で、それぞれ見ました。

(注2)七海を五反田のホテルに呼び出した男は、その前に、自分の恋人が鉄也と浮気をしていると言いに七海の家に来ています。それで、仕方なく七海はホテルに行ったのですが、この話全体は安室が仕組んだもので、ホテルの部屋の中にも隠しカメラが設けられていて、七海とこの男が接する場面が撮影されています。そして、その写真が元で、七海は、鉄也の母親(原日出子)に鉄也と離縁させられてしまいます。
 離婚後に会った七海に安室は、「(ホテルに七海を呼び出した男は)別れさせ屋。ご主人のお母さんが雇った者です」と言います。鉄也の母親が安室に依頼したのでしょうが、彼はそんなことはおくびにも出しません。

(注3)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、岩井監督が、「安室は、裏設定ではおばあちゃんと暮らしたりして、その財産をせしめながらケアしたりとか、何人も同時に飼育しているようなキャラクター」などと述べているとはいえ。

(注4)そのほか挙げられている項目には、次のものがあります。
e.旅行者、伝令、先達として異なる世界のつなぎをすること。
f.交換という行為によって異質のものの間に伝達(コミュニケーション)を成立させる。
g.常に動くこと、新しい局面を開くこと、失敗を怖れぬこと、それを笑いに転化させることなどの行為、態度の結合。

(注5)さらに安室は、「市川RAIZO」という名刺を取り出し、「役者もしています」と七海に言います。

(注6)安室は、離婚後で収入の乏しい七海を結婚式の代理出席のバイトに誘い、七海はある偽装家族の一員となって、そこでCoccoと知り合うことになります(なお、その際に臨んだ結婚式における花婿役が、なんと『ラスト・ナイツ』を制作した紀里谷和明氏とは!)。



(注7)『アフリカの神話的世界』(岩波新書)のP.165。

(注8)その上、真白は末期がんにも侵されているのです。

(注9)七海は、結婚式に呼べる親族が父親(金田明夫)と母親(毬谷友子)の2人(それも離婚しています)しかいなかったので、安室に依頼して偽装家族に出席してもらいます。他方、上記「注6」に記したように、離婚後には七海も偽装家族の一人となるのです。

(注10)安室は、離婚した七海に、鉄也とその母親とが2人でレストランで食事をしている写真を見せ、「週に2回会っています」、「典型的なマザコン」、「こうなってよかったのでは?」と七海を慰めます。

(注11)七海は、それまで使っていた「クラムポン」が夫・鉄也に見つかってしまい、それからはハンドルネームを「カンパネルラ」に変えます。
 そんなことから、社会学者・宮台真司氏は、劇場用パンフレットに掲載されたエッセイ「あまたの寓話が交響し合う、半世紀に一本の傑作」において、宮沢賢治の童話(「クラムポン」は『やまなし』、「カムパネルラ」は『銀河鉄道の夜』、そしてエンドロールに映し出される「ねこかぶり」は、宮台氏によれば『水仙月の四日』)などを手がかりに本作について独自の分析を進めていきます(ちなみに、「安室」は『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイによるとのこと)。

 なお、本文(1)に出てくる「似鳥」は、宮沢賢治の『山地の稜』にも「土木に似鳥さん」と出てきます。

(注12)真白がメイドで働く大きな屋敷は、今は撮影スタジオで、元々誰も住んでいないのですから。

(注13)『シェル・コレクター』に登場し、その猛毒に驚いたばかりです!

(注14)当初はおどおどした感じを見せながらも、大きな屋敷からリップヴァンウィンクルのように日常生活に戻ってきて、アパートのベランダから外を見る時の清々しい感じを見せるに至るまでの七海の変化する姿を実に巧に演じているなと思いました。

(注15)ちなみに、上記「注11」で触れた宮台氏は、真白を主人公としています。



★★★★★☆



象のロケット:リップヴァンウィンクルの花嫁
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ちはやふる 上の句

2016年04月12日 | 邦画(16年)
 『ちはやふる 上の句』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、有名な「ちはやぶる」の歌が映し出され、「1000年前、在原業平が詠んだ激しい恋の歌」とのナレーションがあって、「クイーン位決定戦」の横断幕が掲げられる会場が映ります。
 「でも、今のあたしには、「ちはやふる」のかるたは「ちは」しか見えない」とナレーションが続いて、手が動いてかるたを素早くとります。そして、主人公の千早広瀬すず)の顔が大写しになって、タイトルが流れます。



 画面が変わると満開の桜となり、舞台は瑞沢高校。
 チャイムが鳴って、1年生達が廊下に出てきて、どのクラブに入るか話しています。
 ある教室では、千早が、集まった男子生徒を前に競技かるたを説明しています。
 男子生徒が随分と集まったのは、高校1年生の千早の姉がモデルで有名だから。
 千早は、「簡単でしょ、やってみようか」と言って、札を読み上げる録音された声が聞こえると、千早はものすごい勢いで札をとります。
 その札が、飛んでいく先に飾られていたダルマに刺さると、その凄さに男子生徒らは驚き呆れて、慌てて教室を出て行ってしまいます。
 逃げ出した生徒たちの後を追いかける千早を見た太一野村周平)は、かるた部に行こうとしていたものの、近くにいたテニス部のランニング集団に紛れ込んで隠れます。
 それに参加していた西田矢本悠馬)が太一に、「千早は白波かるた会のままだな。まさか、お前もテニス部?高校生になってもかるた、はないよね」と言います。

 次いで、ちょっとしたことで屋上に取り残されてしまった太一のところに、桜の花びらをたくさん身にまとった千早が、勢い良く飛び込んできます。
 千春は太一を見つけると、「どうしてこの高校に?太一の中学、中高一貫じゃないの?」と驚きながらも喜んで、「かるた部を一緒に作ろう」と勧誘のビラを太一に渡します。



 これに対して太一は、「おまえ、全然変わんねーな。お前と同じ温度でかるたをやる奴がいるかよ」、「俺はサッカー部だ」と言います。

 その後、あれこれがあって、太一は結局千早と一緒にかるた部を作ることになりますが、さあ、物語はどのように展開するでしょうか、………?

 本作は、主人公が高校に入ってかるた部を作り、その弱小チームを率いて東京大会で優勝するまでを描いています。競技かるたの面は、前編である本作でかなり描かれていますが、主人公と幼馴染の二人の男子高校生との関係がどうなっていくのかは後編の「下の句」で詳しく描かれるのでしょう。事件の謎解きを後編に期待させる『ソロモンの偽証(前篇・事件)』ほどではありませんが、本作もまずまずうまく後編につなげていて、問題点は色々見受けられるとはいえ、後編も期待させます。

(2)映画館に行く前に、競技かるたのルールなどを調べてから見たので、映画の内容はよく理解できましたし、実際の試合の様子を画面で見ると、出演者(特に、広瀬すず)の熱演もあって、その迫力はなかなかのものがあるなと思いました。

 とはいえ、競技かるたを観戦するスポーツの一種とみなす場合、野球とか大相撲などとは異なって、観客側からすると、競技者はいつも同じような動作をしているように見えて(注2)、あまり見栄えがしない感じがします。
 それに、とった札が遠くに飛んでいってしまい、競技者が一々それを拾いに行かなくてはいけないというのも、やや間延びした感じがするところです。
 本作では、こうした難点を克服するために、様々な方向からカメラを向けて撮ったりしています。その努力は買うものの、競技方法自体に何かもう一工夫あっても良いのかな、と思いました(注3)。

 本作は、競技かるたに焦点を当てることで、名人とかクイーンと呼ばれる人が存在することはニュースなどで知っていても、詳しい競技方法を知らないクマネズミのような一般の人々に対して、競技かるたを啓蒙していく上でかなり意義がある作品と言えるでしょう。
 それでも、上で述べたような難点があるように思えるところから、後編の『下の句』でも、同じような試合風景が描かれると、やや退屈してしまうかもしれないと、怖れます。

 それと、本作では、広瀬すずら中心的な人物の高校以前のことがよくわからず(注4)、いきなり瑞沢高校でかるた部を作って云々と話が進んでしまうのは、どうも説明不足ではないか、と思いました。
 特に、かるた部を結成する5人のうち、西田や上白石萌音)、駒野森永悠希)については、一応の性格付けがなされていますが、肝心の千早と太一は小学校時代から競技かるたをやっていたというくらいしかわかりません(注5)。



 さらに言えば、大人として本作に登場するのは、せいぜい、競技かるた会・府中白波会の会長である原田先生(國村隼)と、瑞沢高校のかるた部顧問の宮内先生(松田美由紀)の二人にすぎず(注6)、いったいこの子たちの家族はどうなっているのだろう(注7)、と気になりました。



 そうはいっても、本作は、2部作の前編に過ぎず、評価をするのは後編を見てからとすべきなのでしょう。これから膨らんでいくのだろうと予想させる点がいろいろあって、それが後編を期待させます。とはいえ、とにかく前編で、瑞沢高校チームは東京大会で優勝するのですから、なんだか「上の句」だけでも十分なような気もしてしまいました(注8)。

(3)渡まち子氏は、「競技かるたという、シブい世界を背景にした青春ストーリーだが、青春“スポ根もの”としてうまくまとまっている」として65点をつけています。
 読売新聞の多可政史氏は、「はかま姿で汗を流すフレッシュな俳優らがすがすがしい。春休みにぴったりの映画だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『FLOWERS-フラワーズ-』や『カノジョは嘘を愛しすぎてる』の小泉徳宏
 原作漫画は、末次由紀著『ちはやふる』(講談社)。

 なお、出演者の内、最近では、広瀬すずは『海街diary』、野村周平は『あやしい彼女』、上白石萌音は『舞妓はレディ』(エントリは書いておりません)、北央学園高校の須藤役の清水尋也は『ソロモンの偽証(後篇・裁判)』、松田美由紀は『2つ目の窓』、國村隼は『天空の蜂』で、それぞれ見ました。

(注2)接近して相対している競技者の体で隠れてしまって、状況がよくわかりません。特に、札は、観客側から殆ど見えないように思います(札が小型であることにもよるのでしょうが)。

(注3)例えば、全くの思いつきに過ぎませんが、札に指紋を判別できるセンサーをつけて競技者が触れば、どちらかのブザーが鳴るというようなことは考えられないでしょうか(例えば、フェンシングの試合のような感じ)?
 でも、かるたは、日本古来のものであり、それこそが美質といえるため、あまりこうした近代的なテクノロジーとは両立しないのかもしれませんが。

(注4)ほんの少し回想シーンは挿入されますが、小学校時代のことばかりです。中学校時代は千早、太一、そして真剣佑)3人はどうしていたのでしょう?
 こうしたことは、『下の句』で描かれるのかなとも思いますが、Wikipediaの「ちはやふる」の「あらすじ」を見ると、原作漫画においても「中学時代」は描かれてはいないように思われます。なぜなのでしょう?

(注5)西田(「肉まんくん」)については、白波会に入っていたらしいことや肉まんを持って試合に臨んだこと、奏(「かなちゃん」)については、呉服屋の娘で日本文化や古典に精通していること、駒野(「机くん」)については、コミュニケーション障害でいつも一人でいることや勉強ができそうなこと(ただ、劇場用パンフレットの「character」では「成績が学年2位」とされていますが、まだ入学したばかりなのにどうして順位がわかるのでしょう?入試の成績?)といったことがわかります。
 これに対し、千早については、競技かるたにものすごい情熱を持っていることやモデルの姉がいること、太一については千早に対し恋心を抱いていることくらいしかわかりません(劇場用パンフレットの「character」では「スポーツ万能、頭脳明晰、お金持ちでイケメン、性格も良い」とされているところ、「イケメン」を除いて、本作のどこからそのような特徴が見て取れるのか不思議です)。

(注6)その他、新の祖父・綿谷始津嘉山正種)がチラッと登場しますが、いずれにせよ、総じて大人が全くの添え物的存在となっているのは否めません。ただ、皆高校生ですから、プラス要因にせよマイナス要因にせよ、大人抜きの生活など成り立たないのではないでしょうか?

(注7)上記「注4」で触れたWikipediaの「ちはやふる」の「登場人物」を見ると、原作漫画においては、当然のことながら、それぞれの登場人物にそれなりの家族はいるようです。
 なお、つまらないことですが、千早には姉が、太一には妹、西田にも姉がいるというように、親族として原作漫画に描かれている人物は、総じて女性に偏っているような気がします。

(注8)太一は、ラストの方で、新の携帯電話番号が書かれたメモを千早に渡しますし、またズット黙っていた事実を新に告白までします。太一としては、これですっきりと千早に対することが出来るでしょう。そして、千早が、太一と新に対してどのように対応するのかは後編で描かれることになるのでしょう。でも、3人は高校生なのですから、どちらかに決まるというワケのものではないのではないでしょうか?そうだとしたら、仮に前編で終わったとしても(あとは見る者の想像に委ねるとしても)、それはそれで構わないのではとも思えます(なお、新は、前編の最後で「かるたはやらない」と言いますが、なぜそう言うかは前編の中で推測できるように作られています。おそらく、後編では、そのことを乗り越えて、新は競技かるたに復帰するのではないでしょうか)。



★★★☆☆☆



象のロケット:ちはやふる 上の句

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あやしい彼女

2016年04月08日 | 邦画(16年)
 『あやしい彼女』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)『ピース オブ ケイク』で好演した多部未華子の主演作ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、病院の手術室でしょうか、傷ついた男(注2)がベッドに横たわっています。
 そして、その隣に据えられたベッドに横になっている女(大鳥節子多部未華子)から血液が管を通って流れていきます。

 タイトルが映し出されて、女(瀬山カツ倍賞美津子)が踊りながら商店街を歩く姿が画面で描かれます。
 洋品店の店主に向かって、カツが「この服、去年のじゃないの?」とイチャモンを付けると、店主は怒って「余計なお世話」と言い返します。
 若者とぶつかってよろけて倒れたので、若者が「お婆さん、大丈夫?」と尋ねると、カツは「失礼だね、あたしには名前があるの」と応じます。

 カツは近くの稲荷神社にお参りをしますが、「とかく、この国は若い女至上主義、1歳でも若い女の勝ち」とか、「中年を過ぎた女は女ではない、老人という別の生き物となる」、「私も、若いうちは、お婆ちゃんになる前に死んでしまおうと思ってた」などとつぶやきます。

 そして銭湯の場面。
 カツはここでパートで働いているところ、客のみどり金井克子)とは犬猿の仲。カツが娘(幸恵小林聡美)の自慢話をしたり、「家には孫がいて、私がいなきゃあ回っていかない」などと言うと、みどりは「娘、娘とうるさい」と反撃し、「私はシニアなの」、「海外旅行をするので、パスポートの写真を撮ってきた」と自慢すると、カツは「遺影にちょうどいい」と皮肉ります。

 こんなカツが、幸恵と喧嘩して家を飛び出して夜道を歩いている時に、オードリー・ヘップバーンの大きな写真が飾られている写真館(「オオトリ写真館」)を偶然見つけ、その店主(温水洋一)の勧めに従って写真を撮ることになるのですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、韓国映画『怪しい彼女』(未見)のリメイク作で、舞台を日本に移して、中身は73歳にもかかわらず外見は20歳の主人公が、様々の歌を歌って大人気を集め、そして…、というストーリー。実に他愛無いお話ながら、主演の多部未華子をはじめ、出演者が随分と張り切っていて、まずまず面白い作品に仕上がっています。

(2)本作はタイムスリップ物ではなく、ふしぎな写真館に入った73歳の老女・カツが、外見だけ20歳の若い女・大鳥節子として同館を出てきて大活躍するというファンタジーです。
 活躍するのは歌を歌って。
 初めは、商店街主催ののど自慢大会で『見上げてごらん夜の星を』(注3)を歌い、新人発掘に悩んでいた音楽プロデューサーの小林要潤)に注目されます。



 次いで、カツの孫の翼のバンド「怪しい彼女」のヴォーカルとして、『真っ赤な太陽』を路上で歌い、さらに、バンドが小林のサポートでメジャーデビューし、『悲しくてやりきれない』をTVで歌います。



 クライマックスは、「TOKIO ROCK FESTIVAL」の沢山の聴衆の前で『帰り道』(注4)を演奏するところ(注5)。

 ここで注目されるのが、節子が歌う歌が発表された年です(注6)。特に、最初の『見上げてごらん夜の星を』が1963年です。
 というのも、節子の意識は73歳のままですから、上手く歌える歌というのは若い時分に感動して覚えた曲でしょう。1963年といえば、カツがちょうど20歳の頃に該当し、説得力は充分あると思います。

 加えて、オリジナルの『怪しい彼女』では70歳の老婆が20歳になるという設定ですが(注7)、変身する年齢をオリジナルのまま20歳とし、さらに本作において『見上げてごらん夜の星を』を使うということになれば、カツの現在の年齢を70歳ではなく73歳とする必要が出てくるでしょう。

 ただ、節子を演じる多部未華子の現在の年齢は27歳で、20歳というには少々難があるのかもしれません(もちろん、充分すぎるほど可愛いのですが!)。



 仮に、節子の年齢設定を25歳としてみたらどうでしょう。
 その場合には、今度はカツの年齢設定を78歳くらいにする必要が出てきますし、69歳の倍賞美津子の方に年齢の開きがかなり生じてしまいます。

 とはいえ、カツはよく笠置シヅ子の「東京ブギウギ」を鼻歌交じりに歌います。この歌は、1947年発表の歌ですから、本作の年齢設定の場合、カツがまだ4歳の頃となり、そんな歌が身につくのかどうか少々疑問に思われます。他方、現在のカツの年齢を78歳とすれば、その曲を耳にするのは9歳くらいであり、覚えていてもおかしくない年齢になると思われます(注8)。

 しかしながら、こんなつまらないことは全くどうでもいいことであり、本作については、多部未華子の歌の巧さを堪能し、カツと幸恵の母娘関係に思いを致し、さらにはカツとみどりと銭湯の主人・次郎志賀廣太郎)の三角関係のドタバタを愉しめば良いのではないでしょうか。

(3)渡まち子氏は、「韓国映画「怪しい彼女」を日本映画がリメイクした「あやしい彼女」は、多部未華子のコメディエンヌぶりが光る快作だ」として65点をつけています。



(注1)監督は、『謝罪の王様』の水田伸生
 脚本は吉澤智子

 なお、出演者の内、最近では、多部未華子は『ピース オブ ケイク』、倍賞美津子は『一枚のハガキ』、要潤は『吉祥寺の朝日奈くん』、温水洋一は『Zアイランド』、志賀廣太郎は『森のカフェ』、小林聡美は『紙の月』で、それぞれ見ました。

(注2)実は、交通事故に遭った(瀬山カツの孫:北村匠海)。

(注3)エンドロールでもこの歌が歌われますが、その際の舞台はライブハウスで、曲もロック調にアレンジされていて、節子は実に楽しげに歌い、観客もノッています。

(注4)本作ではフェスのために翼が創った曲とされていますが、実際には、ユニット「anderlust」のデビュー曲(デビューは、本年3月30日)。作詞・作曲は、本作の劇中歌プロデュース担当の小林武史氏とanderlustの越野アンナ(彼女は、本作において、翼が思いを寄せるアンナとして出演しています)の共作とされています。

(注5)初めて披露する曲にもかかわらず聴衆のノリがいいのはふしぎですが。

(注6)他の2つは、『真っ赤な太陽』が1967年、『悲しくてやりきれない』は1968年。

(注7)同作の公式サイトの「STORY」によります。

(注8)もっと言えば、本作の回想シーンからすると、夫に死なれたカツは幼い娘の幸恵を連れて大変な生活を強いられています。ただ、それが20歳位のことだとしたら(多部未華子が演じていますから)、東京オリンピック(1964年)とか大阪万博(1970年)などで日本経済が上昇する直前のことのように思われ、なんだかそぐわないような感じもするところ、それよりも5年ほども前であったなら、昭和30年代であり、描かれているような厳しい生活もあったのかなとも思えるところです(実際のところはサッパリわかりませんが、井戸端での酒瓶の洗浄とか健康食品の販売といったことはいつまで行われていたのでしょう?総じて、回想で映し出される映像は、歴史ドキュメンタリーなどでしか知りませんが、なんだか戦後すぐの復興期のもののようにも思えるところです)。

 また、20歳に若返ったカツが、銭湯でのぼせて倒れた際に名前を聞かれて「大鳥節子」と言ってしまいます。これはオードリー・ヘップバーンと原節子とを合わせたものとされています(公式サイトの「ストーリー」によります)。ただ、こうした場合に咄嗟にそうした名前が出てくるのなら、78歳の年齢設定の方がふさわしいような気もします。



★★★☆☆☆



象のロケット:あやしい彼女

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無伴奏

2016年04月06日 | 邦画(16年)
 『無伴奏』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)予告編を見て良さそうに思えたので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、表紙に「DESIGN」とある大型のデッサン・ノートに、ポール・ニザンの言葉(注2)が書きつけられます。
 次いで、「We shall Overcome」(注3)の歌が流れて、高校3年生の響子成海璃子)の顔が大写しになり、ジュリー仁村紗和)とレイコ酒井波湖)と一緒になって、「制服廃止闘争委員会」の文字が大きく書かれた黒板の前で、カーディガンやブラウスなどを脱いでシュミーズ姿になります。
 そして、響子が、脱いだ服を手にかざしながら、「こんな古ぼけた制服を着ることが身だしなみを整えることでしょうか?」「おしゃれをする権利を取り戻しましょう!」などとクラスメイトに向かってアジります(「1969.4」の字幕が出ます)。



 その後、3人は、大学の構内に入り、反帝学評の集会に行き、響子が「私たちも闘争委員会を結成しました」と言うと、活動家の学生は「俺達の部室を使ってもいいぞ」と言い、カンパ資金を渡してくれます。

 さらに、3人は街なかを歩いていて、響子は路上で「篝火」という詩集を学生から買います。そして3人は、レイコの案内で喫茶店「無伴奏」のある地下に降りていきます。

 中に入ると、バロック音楽が流れていて、学生らがスピーカーの方を向いて座って聴いています。ジューリーが「なにこれ」と言うと、レイコは「シーッ」と制し、コーヒーを3つ注文します。
 その時、大学生らしき男2人と若い女1人のグループが入ってきて、一方の男(池松壮亮)が響子の隣に座ります。



 渉が響子の手にする詩集を見て、「詩集買ったの、百円も出して?」と言うものですから、響子は「150円。50円はカンパのつもり」と答え、それに対し渉がさらに、「変わった人だな、これを書いたのはうちの大学の玉沢」と言うと、今度は連れの女(エマ遠藤新菜)がその詩集を取り上げて声に出して読み「なにこれ?」と言い、一緒に来た男(裕之介斎藤工)も「相変わらずマスターベーションの詩だな」と批判します。

 店の中には、喫茶店の入り口に掲げられている黒板に渉が書き込んだパッヘルベルの「カノン」(注4)が流れますが、さあ、この後、響子、渉、裕之介、エマの関係はどのようになっていくのでしょうか、………?

 映画の舞台は、1969年から1970年の大学闘争時代の仙台。自分の通う高校で騒ぎを起こしている主人公の女子高生が、女の子を連れている男子大学生2人と知り合い、その内の一人と恋仲になるというストーリー。学園闘争、大学闘争、名曲喫茶などで時代の雰囲気を出していますが、それらはあくまでも背景であって、映画で専ら描かれるのは4人の男女の特異な恋愛関係といえ、さらにはミステリー的な要素もあって、とても興味深い作品に仕上がっているなと思いました。

(2)映画の冒頭で描かれる響子たちの制服闘争は、原作小説では本作のように具体的に描かれてはいませんし、またポール・ニザンの言葉も原作小説では引用されていないように思います。
 とはいえ、このような映像にしたのも、原作小説を実写化するにあたり、それが舞台とする時代(1969年~1970年)の雰囲気をより一層画面に出そうと制作者側が努めたことによるものではないかと思われます(注5)。
 その結果、実際の状況に一段と近づけたかどうかは、当時を知らない者にとっては判断しようがありません(注6)。
 とはいえ、本作に登場する4人の言動が当時の雰囲気と密接に絡み合っているように見えるために、そうした努力は一定の意味を持ってくるでしょう。

 例えば、「無伴奏」で流れている曲について渉が響子に「この曲、知ってる?」と聞いたのに対し、響子が首を振ると、渉は「こんな曲も知らないの?」という感じで曲名を告げます。馬鹿にされたように思って、響子は「知らないとおかしいですか?」と口をとがらせますが、こういった知的教養を巡るやりとりは、今の時代では余り考えられないのではないでしょうか(注7)?
 また、響子が初めて渉や裕之介が暮らす茶室(注8)に行った際、先に来ていた裕之介が響子に、「“にじり口”の意味、知ってる?」と尋ね、響子が首を振ると、裕之介は「あそこで“俗世”と決別するんだ」と説明します。一緒にいたエマも「つまり、ここは“異界”なの。きっと響子も気にいるわよ」と言います。
 こんな気障っぽい会話も、今の時代には合わないに違いありません(注9)。

 このように会話を通じても、当時の雰囲気を出来るだけ醸し出そうとすることによって、響子、エマ、渉、裕之介の4人の関係(特に性的な)をよりリアリティのある背景の中で描き出すことになるものと思います(注10)。



 そして、4人の性的な関係ですが、響子と渉とのぎこちない有様、そしてエマと恋仲になっているはずの裕之介の響子を見る目に何かを感じさせるたりするのも、当時の時代がしからしめる部分があるのかなと見る者に思わせておいて、最後の方で驚くような事態が暴露され、なるほどなと見る者が納得できるという、ある意味でサスペンス仕立てになっていて、劇映画としてもなかなか面白く作られています。

 結局は、本拠地の東京に戻ることになる響子の、“異界”の地としての仙台(注11)で短期間に経験した非俗的なエピソードにすぎないといえばそれまでながら、起きた事件の特異さ(注12)からその後の響子に大きな爪痕を残したに相違なく(注13)、響子がそれからどのような道を歩んで現在があるのか興味がもたれるところです。

(3)荻野洋一氏は、本作に関するやや長めの論評において、「この映画には、未熟で愚かな若者たちの、非常なる悲しみが宿っている。だがそれは、主人公が知ってはならないことを知ってしまう悲しみではなく、知ってし まったのに、その知りえた事実から置いてけぼりを食ってしまう悲しみである。主人公は決定的に何かから取り残される存在なのである」などと述べています。



(注1)監督は、『太陽の坐る場所』の矢崎仁司
 脚本は、武田知愛・朝西真砂。
 原作は、小池真理子著『無伴奏』(集英社文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、成海璃子は『ニシノユキヒコの恋と冒険』、池松壮亮は『シェル・コレクター』、光石研は『恋人たち』で、それぞれ見ました。

(注2)池澤夏樹=個人編集 「世界文学全集 1-10」(河出書房新社,2008年)所収の「アデン、アラビア」(小野正嗣訳)では、「僕は二十歳だった それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。何もかもが若者を破滅させようとしている」とされていますが、晶文社刊の『ポール・ニザン著作集 巻1』(篠田浩一郎訳、1966年)では、「僕は20歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ」となっています。
 本作が設定している年代からすれば、響子たちが目にするとしたら後者でしょう。
 でも、本作も(エンドロール・クレジットで見ると)、また本文(3)で触れる荻野氏も前者によっています(尤も、内容に相違がないので、何の問題もありませんが)。

(注3)例えば、この動画

(注4)同曲は、三声に通奏低音を伴うものですから、響子、エマ、渉、裕之介の4人の関係を暗示しているとも言えるでしょう。

(注5)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、矢崎監督は、「物語の設定が50年近く前の仙台ということで、……今の仙台だけでは撮影は不可能でした。それで、あの当時の風景を捜すのに、車で1日1,500キロも移動した日もありました」などと述べています。
 劇場用パンフレット掲載の「ロケ地マップ」によれば、例えば、本作で印象的な竹林は、栃木市にある岡田記念館のものとのこと(なお、『太陽の坐る場所』についての拙エントリの(3)で触れましたように、矢崎監督が山梨県出身だからなのでしょう、ロケ地には山梨県の3箇所が使われています。)。

(注6)例えば、劇場用パンフレット掲載の「美術」によれば、喫茶店の「無伴奏」は、当時実在したもので、本作の撮影にあたっては、神奈川県の綱島に当時の店内をできるだけ忠実に再現したセットを作ったとのこと。でも、その喫茶店の実際を知らない者にとっては、これで当時の雰囲気が出ているのかどうかは判断できないところです。
 とはいえ、制作者側が払ったいろいろな努力が見る者に伝わってくる画面だと思いました。

(注7)大学闘争のバリケードの内側では、吉本隆明著『共同幻想論』を手にする学生が多かったともいわれているようです。

(注8)渉は、実家は仙台の老舗の和菓子屋ですが、今は裕之介の下宿先(裕之介は大きな屋敷の中にある茶室で暮らしています)に居候をしています。

(注9)実際には、渉と裕之介は、この茶室を茶室としてではなく生活の場として使っているのですから、裕之介の説明は頭でっかちのものといえるでしょう。
 なお、裕之介の「にじり口」についての説明は、原作小説においては物語を語る「私」によって説明されています(文庫版P.81)。さらに言えば、響子が買った詩集について裕之介が口にする批判も原作小説には見当たらず、こうした詩集の路上販売に対して「自分がひねり出した小汚い排泄物を路上で売るなどという馬鹿げた行為」などと「私」が述べたりしています。
 これらのことも、当時の雰囲気の一端を裕之介に担わせるための制作者側の方策なのでしょう。

(注10)この記事に掲載されている原作者の小池真理子氏のコメントにおいては、「試写を観ながら、私は客席で胸熱くし、自分自身のあの時代を思い返していました。時代背景の何もかもが、繊細に丁寧に描かれていて、私自身がスクリーンの中のどこかに隠れ、あの時代を生き直しているような感覚を味わいました」と述べられています。
 ちなみに、原作小説の「あとがきにかえて」においても、小池氏は、「私はただひたすら、かつての自分を思い出し、かつての自分をモデルとして使いながら、時代をセンチメンタルに料理し、味わってみようと試みた」と述べています(文庫版P.283)。

(注11)仙台という「茶室」に入るための響子にとっての「にじり口」は、下宿していた伯母・愛子藤田朋子)の家ということになるのでしょう。なにしろ、愛子は、響子の父親・孝一光石研)と違って、口では「門限は7時」とか「厳しく管理する」等と言っていながら、実際には響子を放任しているのですから。

(注12)響子が茶室で目にすることになるものは、現在では一応受け入れられつつあるといえるでしょうが、当時にあってはまだまだ特異なものだったのではと思われます(特に女子高生にとっては)。

(注13)当初、父親と母親と妹が東京に行くための電車に乗って出発した後、伯母とともに残された響子の顔付きと、1年以上経って東京に戻ることになり伯母の家を出発する時の響子の顔付きとの違いはどうでしょう、もっと言えば、レイコに連れられて「無伴奏」に最初に入った時の響子の胸のトキメキと、最後に「無伴奏」に立ち寄った際に幻影を見た時の響子の眼差しとは、一体どのように違うことになるのでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:無伴奏
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ヘイトフル・エイト

2016年04月04日 | 洋画(16年)
 『ヘイトフル・エイト』を渋谷シネクインで見てきました。

(1)タランティーノ監督の作品というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、雪をいただくワイオミングの山々が聳えていて、雪雲が横に大きくなり、鳥が群れをなして飛んでいます。
 雪野原が広がって、牧場の柵が見える間もなく、辺りは吹雪に。
 道端に建てられた十字架のキリスト像が映し出される中でタイトル・ロールが流され、終わると6頭立ての馬車が雪道を走ってきます。

 ついで、「第1章 レッドロックへの最後の駅馬車」の字幕。
 走る駅馬車の前に黒マントの男(サミュエル・L・ジャクソン)が現れて、「もう一人乗れるか?」と尋ねると、御者のO.B.(注2:ジェームズ・パークス)が、「お前は何者だ?やつらに何が起きたんだ?」と訊きます。



 それに対して、男は「マークス・ウォーレン少佐、前は北軍の騎兵隊に所属」と言い、そばの3つの死体を指して、「こいつらを金に換えに行くんだ」と付け加えます。
 O.B.は、「レッドロックに行くのか?こっちはあの猛吹雪に3時間も追われている。追いつかれる前にそこに行き着かないと」と言います。
 ウォーレンが「乗っていいか?」と尋ねると、O.B.は「決めるのは俺じゃない。中のやつが貸し切りにしたんだ。そいつと話しな」と答えます。
それで、ウォーレンが馬車に近づこうとすると、中の男(カート・ラッセル)がライフルを構えながら、「銃をそこの岩の上に置き、両手を挙げてこっちにこい」と命じます。



 ウォーレンがそのとおりにすると、その顔を見た男は「たまげたな、ウォーレンか?」と尋ね、ウォーレンも「お前は首吊り人(hangman)のジョン・ルースだな」と応じます。
 さらに、ルースが「どうして雪のワイオミングに?」と尋ねると、ウォーレンは「賞金を稼ぎに」と答えます。
 すると、ルースは、手錠で連行している女(ジェニファー・ジェイソン・リー)を見せて、「デイジーだ」と言うと、デイジーもウォーレンに「よう、ニガー!」と言います。ルースは続けて、「こいつの賞金が1万ドル。その1万ドルは俺が手にする。だからお前を馬車に乗せたくない」と言います。



 これに対して、ウォーレンは「俺の賞金はその女じゃない」と3つの死体を見せます。
 それで、ルースはウォーレンを馬車に乗せることにします。

 この馬車は、さらにもう一人の男、レッドロックの保安官に任命されたというマニックスウォルトン・ゴギングズ)を拾い、レッドロックに向かいます。



 ですが、吹雪が一層酷くなり、馬車は途中で「ミニーの紳士服飾店」(Minnie’s Haberdashery)に立ち寄ります。
 そこには既に4人の男がいました。
 さあ、都合8人の男女は、この先どのようなことになるのでしょうか、………?

 本作は、猛吹雪で人里離れたロッジに閉じ籠もらざるを得なくなったワル顔の8人の運命を描いています。時代設定が南北戦争からおよそ10年後で、北軍関係者と南軍関係者との対立は厳しく残っており、また人種差別も露骨です。そんな状況でいったい誰が生き延びることが出来るのだろうか、という点が次第に解明されていくミステリー仕立てとなっています。問題点はあるとはいえ、登場人物の個性が際立っていて、3時間近い長尺ながら、時間のたつのを忘れてしまいます。

(以下では、本作が「ミステリー」とされているにもかかわらずネタバレをしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)タランティーノ監督作品としては、ここのところでは『ジャンゴ 繋がれざる者』(以下、「同作」とします)を見ました。
 クマネズミの怠慢によってエントリを書きませんでしたが、この拙エントリの(2)で若干触れたように、同作では、黒人の主人公ジャンゴジェレミー・フォックス)と、白人の賞金稼ぎの歯科医のキング・シュルツクリストフ・ヴァルツ)が、愛する妻・ブルームヒルダケリー・ワシントン)を救出し、彼女を酷い目に合わせた白人に徹底的に復讐します。
 黒人が主人公であるとか、賞金稼ぎが登場する、時代設定が接近している(同作は南北戦争直前の設定)、さらには本作に出演するサミュエル・L・ジャクソンやウォルトン・ゴギンズ、ブルース・ダーンが同作にも出演している、といった類似点があります。
 加えて、本作では6頭立ての馬車が活躍しますが、同作においてもキング・シュルツは歯のオブジェが屋根に付けられた馬車に乗っているなど、いろいろ共通項を挙げられるでしょう。

 ただ、本作は、ミステリー仕立てとなっている点が、前作とかなり違っています。
 すなわち、8人が吹雪のため人里離れた服飾店の中に長時間閉じ込められる上に、彼らがお互いに憎しみ合う要素を持っていて、いつ騒動が持ち上がってもおかしくない一触即発の雰囲気が本作に漂っています。
 特に、ルースは、1万ドルの賞金がかかっているデイジーを連れているために、自分を殺して賞金を横取りしようとする奴がいるかもしれないと(あるいは、デイジーの仲間が彼女を奪いに来るかもしれないと)、絶えず細心の注意を周囲に払っています。
 また、ウォーレンは、ただ一人の黒人で皆の憎悪の対象となっていますし、さらに、北軍に属していたことで、略奪団の首領の息子で黒人などに対し無法の限りを尽くしたマニックスと厳しく対立します(注3)。
 これは、服飾店に先にいた4人についても同じで、南軍の将軍だったスミザーズブルース・ダーン)はウォーレンと対立しますし、ウォーレンは「ミニーは犬とメキシコ人が大嫌いのはず」と言って、ミニーの不在の間服飾店を預かっているというメキシコ人のボブデミアン・ビチル)に疑問をいだきます。さらには、絞首刑執行人のオズワルドティム・ロス)とカウボーイのジョーマイケル・マドセン)も、胡散臭い雰囲気を醸し出しています。

 それで、ウォーレンがスミザーズ将軍に、その息子の最後について衝撃的な話をしたことから、同将軍はキレてしまいますが、結局ウォーレンが将軍を撃ち殺すことになり、騒動の幕が切って落とされます。

 ただ、ミステリー仕立てというには少々問題点もあるようにも思われます。
 例えば、見ればただちにわかることですが、公式サイトや劇場用パンフレットが「8人」だけを強調しているものの、実際には異なる状況となっているのはどうしたことでしょう?
 まず、馬車に乗っているのは4人ですが、もう一人、御者のO.B.がいるので、服飾店に閉じ込められるのは実のところ9人なのです。
 このO.B.は、員数外といえば員数外であるとはいえ、服飾店と馬小屋との間にロープを張り渡す作業をマニックスと一緒にしたり(注4)、カウボーイのジョーの拳銃から抜き取った弾丸を入れた桶を馬小屋まで捨てに行かされたりした挙句、毒入りのコーヒーを飲んで死んでしまうのです。きちんと一人前の仕事をしているように思われます。
 こうした人物が登場するのであれば、なにも「8人」ばかりを強調しなくともいいわけです(注5)。

 ということからでしょうか、本作には後半で突如10人目の人物まで登場します。
 デイジーの兄のジョディチャニング・テイタム)で、デイジーを救出すべく服飾店の床下に隠れ潜んでいて、ウォーレンがボブを撃ち殺した時に、床下からウォーレンを撃って華々しく登場します(注6)。
 そして、ボブやオズワルド、ジョーがその仲間であることも判明し、服飾店の店主のミニーらがどうなったのかもわかります。

 本来的なミステリーであれば、駅馬車の4人(あるいは5人)と服飾店の4人が合流した時点で登場人物は全て揃い、あとは謎の解明と、その8人(あるいは9人)の中にいるはずの真犯人の追求に進んでいくはずです。
 そういう観点で見ていたクマネズミは、映画の後半になってからのジョディの出現には驚いてしまいました。
 とはいえ、考えてみると、本作は、真犯人は誰かといった謎の真相究明を行うミステリーではありません。
 酷く厳しい関係に置かれた8人(あるいは9人)がどのような決着を最終的に迎えるのだろうか、という興味で観客を引っ張っていきます。
 ですから、こんなところで10人目の人物が登場すると、驚くことは驚きますが、あまり肩透かしを食らった感じにはなりません。

 ただ、上で書いたことからもある程度わかるように、当初服飾店で打ち揃う8人(あるいは9人)について、駅馬車に乗って服飾店に着く4人(あるいは5人)と、その店にいた4人とは雰囲気がかなり違うように感じます。すなわち、前者の4人がお互いに憎悪する関係にあることはよくわかるものの、後者の4人は一見したところそうした関係にあるように思えないのです。
 こうした状況は、ジョディの登場によって一気に変わるとはいえ、見る者にやや間延びした感じを与えかねないように思われます。

 なお、酷くつまらないことながら、この服飾店のトイレはどこにあるのかという点が気になりました。
 特に、ルースは、長期間目を瞑らないでいることが出来ると豪語していましたが、生理的要求は逃れられないでしょう。その場合、服飾店の店内にトイレは設けられていないように思われます。多分、店の外に設けられているのでしょう(注7)。
 いずれにせよ、長時間馬車に揺られてきて、その上服飾店でコーヒーなども飲んだのですから、生理的な要求は高まっているものと思います。
 ただ、トイレに行く場合、手錠で繋がっているデイジーをどうするのかという問題があり、またどうしても背後がおろそかになりがちですから危険なことこの上ありません(注8)。
 映画を見ながらそんなことに気を取られてしまいました。

 でも、それらのことはどうでもいいことです。
 本作は、大量の台詞が取り交わされる中で、次々と目覚ましい出来事が起きていくのですから、3時間という時間を見る者に覚えさせません。

(3)渡まち子氏は、「セリフで圧倒しセリフで魅せる本作、身も凍る猛吹雪の中でのドラマだが、まるで舞台劇のような熱っぽさだった」として80点をつけています。
 中条省平氏は、「前作『ジャンゴ 繋がれざる者』に続く西部劇で、密室内でのミステリーというのがミソ。2時間48分の長尺だが、物語にたえず捻りをきかせて、まったく飽きさせない。堂々たる娯楽映画の名人芸を楽しめる」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「ジャンル映画の格好良さは最大限に表現しながら、ジャンルの約束事を外していくのがタランティーノ流。B級映画史と戯れているようにも思える。その遊びに、すさまじいエネルギーをつぎ込んでいるところが感動的だ」と述べています。
 秋山登氏は、「気品などさらさらない。奥行きも幅も厚みもない。清新、端正からもほど遠い。そんな作柄なのに、しかし、絢爛たる話術が強く人を引きつける。映画でなければ表現できない世界をきっちりと組み上げ、深々と陶酔させるのだ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『イングロリアス・バスターズ』のQ.タランティーノ
 原題は、「The Hateful Eight」。
 なお、本作に登場する主要人物は、実際には8人ではありません。というところからすると、原題における「eight」の意味は、「8人」ではなくて、「8作目」(eighth)ということなのかもしれません(本作は、タランティーノ監督が制作した長編映画の8番目のもの)。

 また、出演者の内、最近では、サミュエル・L・ジャクソンは『キングスマン』、ティム・ロスは『グローリー 明日への行進』、ブルース・ダーンは『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』で、それぞれ見ました。

(注2)「O.B.ジャクソン」という名のようですが、終始「O.B.」と言われます。

(注3)他方で、レッドロックに向う馬車の中で、マニックスは、ウォーレンに賞金がかけられていることを暴露します。というのも、ウォーレンは、囚われていた南部連合の捕虜収容所から逃げ出す際に、収容所に火を放ったのですが、それによって収容所に宿泊していた新兵の47名が焼死してしまったからです。それで南軍から追われたのですが、さらに37人の北軍兵士も焼き殺されたことがわかると、「殺人ニガー」として北軍からも追われたと、マニックスは言います。

(注4)「10歩ごとに杭を打ち込」んで、その杭を伝うようにロープを張るという作業をします。こうしたシーンがきちんと描かれているために、このロープは後で意味を持つのかなと思ったのですが(例えば、馬小屋に死体が見つかって、その事件の解明に際してロープ付近の靴跡が手がかりとなる、など)、あまり効果的な使われ方をしません。

(注5)服飾店の店主などがいても構わないことになるでしょう。なにしろ、ジョディ一味は、O.B.の駅馬車が着く前に服飾店にやってきて、店主のミニーのみならず、駅馬車の女御者ジュディなど6人も殺してしまうのです!

(注6)映画の冒頭のタイトル・ロールでチャニング・テイタムの名前が映し出されるのですから、映画のPRでその存在をいくら隠しても余り意味がないように思われます。

(注7)よく覚えていないのですが、服飾店と馬小屋との間の他に服飾店とトイレらしき小屋との間にもロープを渡したように思います〔付記:下記の「maru♪」さんのコメントを御覧ください〕。

(注8)外のトイレ小屋に行く場合には、いくら銃を手に持っているとしても、酷い吹雪のために防護が疎かになり、服飾店内からの銃撃にさらされてしまうでしょう(それに、冷えきって戻ってきた時に服飾店の中に入れてもらえないかもしれません)。



★★★★☆☆



象のロケット:ヘイトフル・エイト
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