映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

リトル・フォレスト 冬/春

2015年02月27日 | 邦画(15年)
 『リトル・フォレスト』(注1)の後編を新宿ピカデリーで見ました。

(1)昨年公開された前編の「夏/秋」につき、友人から良かったと聞き、クマネズミも、時間があれば映画館に行こうと思ったのですが、生憎すぐに公開が終了してしまい、見ずじまいでした。
 としたところ、最近、前編のDVDがTSUTAYAに並べられていたので、早速借りてきて見てみたところ、至極単調な田舎の生活が淡々と描かれていながらも、自分で作った野菜とか周りでとれる物を食材にした料理が色々描き出され、なかなか良く出来た作品だなと感じました。
 今回、後編の「冬/春」が上映されると聞いて、公開が終わらない内にと慌てて映画館に出かけた次第です。

 後編も、前編と同じようなトーンで映画が綴られているものの、母親(桐島かれん)からの手紙の内容が明かされたり(といって、具体的なことは何も書かれてはいませんでしたが)、友人のキッコ松岡茉優)やユウ太三浦貴大)がいち子橋本愛)に厳しいことを言ったりしたことがきっかけとなり、いち子の心境もかなり変わってきます、さあ、どうなるでしょうか………?

 『深夜食堂』と同じように、空腹の時は見るべからずといった作品ですが、本作(前編を含めて)の方は、材料さえ揃うのであれば自分で作って食べてみたい気にさせること請け合いです。そうした料理が次々と映画で紹介されながら、小森という集落が四季折々に見せる自然の光景が実に美しく映し出され、そのなかで徐々に主人公の心が動いていく有り様がじっくりと描かれ、ことさらめいた物語が語られるというわけではないものの、画面から目を一瞬間でも離せませんでした。
 特に、主演の橋本愛は素晴らしく、この先橋本愛と言ったらまずこの映画を思い起こすことになるものと思います(注2)。



(2)かなり昔、秋田県の大館で暮らしたことがあるクマネズミにとって(注3)、本作の撮影場所が県を異にするとはいえ(注4)、同じ東北地方ですから、この映画には酷く親近感を覚えました。

 特に、春の山菜採りは懐かしく思い出されます。
 後編では、ニリンソウとか、カタクリ、コゴミ、コシアブラ、タランボ(たらの芽)といった山菜が出てきて、それらをいち子は天ぷらにして食べていますが(注5)、クマネズミが覚えているのは、ゼンマイ(注6)とかウド、フキノトウ。
 そして、なんといっても山菜と言ったらミズでしょう。
 「ミズ」という言葉が前編に登場した時は、岩手でも同じように言うのだとゾクッとしました。というのも、他の地方に行って「ミズ」と言っても、ほとんど通じませんでしたから(一般にはウワバミソウと言うようです)。
 秋田にいた時は料理法がわからず、ミズをたくさん採ってきても単にオヒタシにするくらいでしたが、前編でいち子は「ミズとろろ」(注7)を作っています(注8)。

 次に、これも前編ですが、イワナの養殖の話が出てきます(注9)。
 いち子はユウ太と一緒に養魚場でアルバイト(注10)をし、キャンプ場の管理人シゲユキ温水洋一)から、塩焼きのイワナとイワナのみそ汁を振る舞われます。



 クマネズミは、イワナと聞くと、すぐに秋田森吉の太平湖に注ぐ川で釣ったイワナのことを思い出します。10人位の仲間と山に入ったのですが、その日釣れたのはこの1匹だけだったこともあり、とても印象深いものがありました(注11)。

 また後編には、「凍み大根」が出てきます(注12)。
 これは、大根の皮を剥いて縦に切った大根を、そのまま干して外の寒さで凍みさせたものとされています。
 作り方は違いますが、映画の中で軒先にぶら下がっている「凍み大根」を見て、秋田の「いぶり漬け」(大館では単に「がっこ」と言っていました)という大根の漬物を思い出しました。

 さらに、前編に登場する「米サワー」(注13)ですが、このサイトの記事によれば、「いわゆる「どぶろく」になる前の状態を楽しむドリンク」とのこと。
 「どぶろく」といえば、当時、秋田の山奥の村ではどこでも「どぶろく」をこしらえていましたから(丁度、後編の冬の頃合いです)、至極懐かしさを覚えます。

 そして、当時「どぶろく」を作っていた家の感じが、この映画に登場するいち子が暮らす木造の家屋に残っているように思えます。



 今どき東北の山奥に行っても、こんな古めかしい素朴な家はかなり珍しく(注14)、大部分の家は都会と同じような快適で効率的な作りになっていると思われますが、その点はさて置くとしても、このところ続けて見ている邦画を振り返ってみると、『さよなら歌舞伎町』のラブホテルは不特定多数の人が出入りする大きなものでしたが、『深夜食堂』の「めしや」の食堂は、いろいろのお客が出入りするとはいえかなり小振りであり、『娚の一生』のつぐみと海江田が暮らすことになる祖母の家は一家族用のものでずっと小さくなり、そしてこの映画でいち子が生活する家は、せいぜい二人が暮らせるほど小さなもの、というように、段々と規模が縮小してきており、同時にそれぞれの映画で描かれる料理の手作り度が増してきているようにみえるのは(注15)、大層面白いことだなと思います。

(3)中山治美氏は、「本作は、女優・橋本愛の成長の記録でもある。食い意地が張っていて食映画をくまなく観ている筆者ですら、料理に目もくれず彼女の表情の変化に見入ってしまった」として★4つを付けています。



(注1)原作は、五十嵐大介作の『リトル・フォレスト』(講談社)。
 監督・脚本は、『重力ピエロ』の森淳一

(注2)俳優陣の内、このところ、橋本愛は『寄生獣』、三浦貴大は『太陽の坐る場所』、温水洋一は『25 NJYU-GO』で見ました。
 なお、松岡茉優は、『桐島、部活やめるってよ』や『はじまりのみち』に出演していたとのことながら、印象に残っていません。

(注3)例えば、この拙エントリの(1)で触れたことがあります。

(注4)本作のロケ地は、岩手県奥州市衣川区大森。

(注5)後編の「春」の「Dish1」。
 原作漫画では、第2巻の「21 st dish」の「4月25日のタランボ」の中で取り上げられています(なお、原作漫画との比較については、この記事この記事が以下参考になりました)。
 なお、他にも、つくしの佃煮(「春」の「Dish3」)や塩漬けのワラビ(「冬」の「Dish7」)といったものも登場します。

(注6)当時でさえ、ゼンマイは山奥に行かないと見つからないとされており、普通見つかるのはゼンマイモドキであって、本当のゼンマイは見つけるのが難しいと言われていました。今はどうなのでしょう?

(注7)このサイトの記事によれば、その「赤い根元部分に、焼いた味噌を乗せて切りながら和えたもの」。こんなに簡単に作れるのなら、当時作って食べたらよかったのに、と残念に思います(なお、そのサイトでは冒頭に「ミズナ」と書かれていますが、それと「ミズ」とは違うものでしょう)。

(注8)前編の「夏」の「Dish5」。
 原作漫画では、第1巻の「11 th dish」として取り上げられています。

(注9)前編の「夏」の「Dish6」。
 原作漫画では、第1巻の「12 th dish」として「岩魚」が取り上げられています。

(注10)養殖場で育てたイワナを、ユウ太が運転する軽トラでキャンプ場の池に運びます。

(注11)なお、上記「注10」で車の助手席に乗るいち子に対し、ユウ太は、「都会では、何もしたことがないにもかかわらず、何でも知っているつもりで、他人が作ったものを右から左へ移している人間がいばっている」と社会批判をします。
 これは、「だから、小森で農業を営んでいる人たちを尊敬する。だから、自分は小森に戻ってきたんだ」というユウ太のポジティブな姿勢に通じて、「都会から逃げ出して小森にやってきた」に過ぎないという自分のネガティブな姿勢を反省するいち子にぐさっとくるわけでしょう(後編では、ユウ太やキッコに実際にそう言われてしまいます)。
 ただ、意見自体としては、いわば農本主義的なもの(あるいはものづくり重視)に過ぎず、現在の日本が世界の中に置かれている状況からしたら、一時代前のものと言えるのではないでしょうか?

(注12)後編の「冬」の「Dish3」。
 原作漫画では、第2巻の「29 th dish」の「寒さ」の中で取り上げられています。

(注13)前編の「夏」の「Dish2」。
 原作漫画では、第2巻の「23 rd dish」として取り上げられています。

(注14)なにしろ、真冬でも、暖房器具は「だるまストーブ」(いち子は、自分で割った薪をくべます)とこたつなのですから。
 なお、Wikipediaの「リトル・フォレスト」の「製作」の項には、「モデルとなった家に住人が居るため奥州市前沢区にあった納屋を改造して使用した」と述べられています。そういう事情であれば、あの家の作りになっているのも納得できます。

(注15)『さよなら歌舞伎町』では、配達されたピッツァを店長の徹が客室に運びに行きますし、『深夜食堂』では、マスターの作るカレーライスやとろろご飯などをお客が食べます。それが『娚の一生』となると、つぐみの作る食事を海江田は美味しそうに食べますし、本作になれば、いち子は、自分で収穫したものを自分で料理して自分で食べます。



★★★★☆☆



象のロケット:リトル・フォレスト 冬・春

娚の一生

2015年02月24日 | 邦画(15年)
 『娚の一生』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)TVドラマ『Nのために』で好演していた榮倉奈々(注1)と、『今度は愛妻家』(2010年)が印象的な豊川悦司(注2)とが出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注3)の舞台は、明示されていませんが鹿児島(注4)。
 都会の生活に疲れて田舎(本作では鶴水となっていますが、出水でしょう)の祖母の家で暮らしていたつぐみ榮倉奈々)ですが(注5)、突然祖母が死んでしまいます。
 つぐみは、その家に一人で取り残されてしまったと思っていたところ、驚いたことに同居人がいたのです。
 その男・海江田豊川悦司)は、52歳(注6)の独身で角島大学(鹿児島大学のことでしょう)の教授。祖母の葬儀でやって来たのですが、生前の祖母から離れの鍵をもらっていて、丁度今夏休み中だからしばらくそこで暮らすのだと言います(注7)。



 さあ、2人の関係はどのようなことになるのでしょうか、………?

 祖母と昔親しくしていた大学教授が祖母の葬儀に突然現れ、祖母の孫をいきなり好きになってしまうという、あまり常識的ではない設定ながら、そういうこともありかもと受け入れてしまえば、このところ一段と魅力を増してきた榮倉奈々をふんだんに見ることができ、さらには豊川悦司のいつもながらのひょうひょうとした絶妙の演技もこれあり、120分をまずまず楽しく見ることが出来ました。

(2)こうした楽しい恋愛ファンタジーをいろいろ論ってみても仕方ないと思います。
 過去の経験から恋愛に対して頑なな姿勢を取り続けるつぐみの心が、海江田に接している内に次第にほぐれていく様子が映画ではじっくりと描かれて、まずもってそれを味わうべきでしょう。



 とはいえ、どうして「娚の一生」というタイトルなのかという点がよくわかりません。
 そもそも「娚」を「おとこ」とは普通読めませんが(注8)、その点はさておき、ストーリーがモーパッサンの小説『女の一生』(注9)や森本薫の戯曲『女の一生』(注10)と関連性があるのかと考えてみても、本作は夏休みというごく短い期間中に起きた事柄ですから、生涯を描いているこれらの作品とは関係なさそうです(注11)。

 次いで、豊川悦司が扮する海江田が角島大学で哲学を教えているという設定(注12)が、本作でほとんど生かされていないのはどうしてなのか、不思議に思いました。
 原作漫画を見てみると、海江田は有名人とされていて、つぐみの勤務先の会社で社内講演会が開催された時に講師として「哲学と社会生活」という演題で講演をしていますし、週刊誌に「哲学の細道」というコラムを連載していたり、また、彼の本が日本エッセイスト賞を受賞したりもしています。
こんな程度では全く不十分ですが、ないよりはましでしょう(注13)。
 でも、本作では、そんな断片的な事柄でさえも、哲学に関しては一切触れられていません。
 それに、いやしくも大学の教授なのですから、大学でゼミを受け持っているはずです。夏休み中だったら、そうした教え子の一人や二人訪ねてくるのが普通ではないでしょうか?
 訪れるのは、つぐみの会社の元同僚(安藤サクラ)とか、郵便局員(落合モトキ)や市会議員(前野朋哉)くらい。

 こんな世の中と隔絶した生活を営んでいるつぐみと海江田を見ていると、以前見た『きいろいゾウ』を思い出してしまいました。
 それもそのはず、同作は、本作と同じ監督の作品なのですから!
 そして、同作も、ムコ向井理)とツマ宮崎あおい)が都会を離れて三重の田舎で暮らしているという設定(注14)で、その暮らしている家屋の感じは、本作のつぐみが暮らす祖母の家と似たような雰囲気を持っています。 そのような家で、ムコとツマは世間とあまり接触することなく暮らしているわけです。

 この他にも『きいろいゾウ』との類似点を色々あげられるでしょうが(注15)、何よりも驚いたことに、同作でメインで登場している向井理が、本作では、突然つぐみの前に出現して、それも海江田に殴り倒されて病院に担ぎ込まれるという役を演じているのです(注16)。



(3)渡まち子氏は、「大人同士の恋愛物語だが、壁ドンならぬ床ドンや、「恋なのでしかたありませんでした」などのグッとくる決め台詞で大人女子をときめかせる胸キュン系の作品である」として60点を付けています。



(注1)『東京公園』や『アントキノイノチ』で見た時と比べると、榮倉奈々も随分と大人の女性になりました。

(注2)豊川悦司は、このところ『春を背負って』で見ましたが、『ジャッジ!』が出色でした。

(注3)原作は、西炯子作の漫画『娚の一生』(小学館)。
 監督は、『さよなら歌舞伎町』の廣木隆一

(注4)原作漫画の舞台は、原作者によれば「故郷の鹿児島」(このインタビュー記事)。

(注5)つぐみの年齢は、原作おいては「30歳半ばくらい」とされています(原作者のこのインタビュー記事)。演ずる榮倉奈々より10歳位上の歳になるでしょう。

(注6)原作漫画では海江田の年齢が51歳とされていますが、本作では52歳とされています(公式サイトなど)。きっと、海江田を演じる豊川悦司の年齢に合わせたのでしょう。

(注7)原作漫画の場合、海江田は、元々東京の女子大で教えていて、今夏は角島大学の友人の代打として鹿児島にやってきた、そして、これまでも何回か離れを利用したことがある、と言っています。
 これに対し、本作の場合、海江田は角島大学の教授という肩書です。としたら、大学のある都市(鹿児島)に自宅があるはずで、つぐみの祖母の家のある鶴水(出水)まで近距離ですから(新幹線で30分くらい)、原作漫画よりも頻繁に離れを利用していたのではないでしょうか?
 でも、本作の場合、海江田は、祖母の訃報を聞いて慌ててやってきて、何十年振りかで離れを利用するかのように見えます。
 ただ、海江田が暮らすという離れをつぐみが覗くと、机や椅子、それに本箱に沢山の本や果てはレコードプレーヤーまで置かれています。いつの間に、そんなたくさんの物を運び込んだのでしょう?
 むしろ、何回も離れを使っているために、そうした物が次第に溜まってきたのではないでしょうか?ですが、そうだとしたら、つぐみは、それまでそうしたことに全然気が付かなかったのでしょうか、やや訝しく思われるところです。

(注8)例えば、このサイトの記事

(注9)例えば、このサイトの記事が参考になります。

(注10)例えば、このサイトの記事が参考になります。

(注11)原作者の西氏は、インタビュー記事で、「確かに、海江田が、初恋を忘れられないまま長く生き、一生を終えようとしていたところに再び恋をして、やっとひとりの女性に行きつく話ですが、それと同時に、都会で忙しく働き、男のように生きてきた女つぐみの話でもある。ですから男として生きていかざるを得ない女性の話であり、男と女の話、という意味で“娚の一生”としました」と語っています。
 でも、海江田はまだ52歳であり、「長く生き、一生を終えようとしていた」などといえる状況では到底ありえませんし、働いているつぐみの話を「男として生きていかざるを得ない女性の話」と捉えるのもどうか(特に原作者が女性だけに、あまり理解できません)という気がするのですが?

(注12)海江田は「哲学」の教授とされていますが、いったい専攻は何でしょう(分析哲学、ドイツ哲学、フランス哲学、東洋哲学?)?

(注13)原作漫画と本作との違いは色々あります。
 例えば、海江田とつぐみが、京都にいる姉夫婦(徳井優濱田マリ)に会いに行く話は原作にもありますが、本作のように嵯峨野に行ったり、クラシックカーを乗り回したりはしません。
 ですが、大きな違いは、一つは、原作には海江田を慕う秘書の西園寺が描かれているのに対し、本作ではそうした人物が登場しないことでしょうし、もう一つは、本作のラストでつぐみたちは台風に見舞われますが、原作では地震(震度6)に遭遇することでしょう。
 前者については、本作では、海江田が大学に戻った際に秘書(美波)が登場するものの、その場面だけです。こうするのも、つぐみの心の動きに焦点を当てようとするためだとも考えられ、こうした簡略化は認められるでしょう。
 また、後者についても、九州では台風の被害が例年大きいこと、さらには『さよなら歌舞伎町』などで見たように、東日本大震災を通常のストーリーに組み込むのは困難を伴うこと、などを考え合わせると、本作のように改変することは適切なことではと思いました(なお、原作でも台風は描かれていて、来襲した日に海江田が、なくなったつぐみのネックレスを探し出します)。

(注14)本作の舞台は鹿児島ですが、ロケ地は、このサイトの記事によれば、三重県(伊賀市)。他方、『きいろいゾウ』のロケ地も、このサイトの記事によれば、三重県(松阪市)!

(注15)『きいろいゾウ』のムコは小説家という設定で、小説を書いている場面や、書いた小説を出版社に持っていく場面が描かれているとはいえ、本作の海江田が哲学の教授と思えないのと同じように、ムコはとても小説家とは見えません。
 また、本作のつぐみは、祖母の後を継いで染色家になろうとしており、『きいろいゾウ』のツマは絵本の「きいろいゾウ」が大好きで、映画にはその絵が動画として映し出されます。両者とも、芸術家的雰囲気を醸し出しているような気がします。

(注16)そういえば、向井理は、『深夜食堂』にもちらっと出演(坊主頭の会社員)していました。



★★★☆☆☆



象のロケット:娚の一生

マエストロ!

2015年02月20日 | 邦画(15年)
 『マエストロ!』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)西田敏行が指揮者に扮するというので見に行ってきました。

 本作の話は(注1)、不況の煽りで解散した中央交響楽団の楽団員を指揮者の天道西田敏行)が再び集めて再結成コンサートを開催するというもの。

 映画の冒頭では、「音だけの夢をよく見る。幼い頃、父さんが弾いてくれたヴァイオリンだ。まるで天から湧いて出てくるような音色」という語りがあった後に(注2)、香坂松坂桃李)がベッドから起きだして、テーブルの上に置かれている手紙に目を通します。
 それは、ミュンヘン交響楽団からの「採用見送り」のレターでした。

 次いで、香坂は、ヴァイオリンケースを持って、車で売工場の中に入ります。
 来合せた楽団員からここが練習場と聞いて、香坂は「まともな練習場もないってことですか」と嘆きます。



 どうやら、後から練習場に入ってきたフルート奏者のmiwa)が天道に頼まれて、他に行き場所がなく残っていた楽団員に連絡をとってここに集合させたようです。
 天道は集まった楽団員に対して、「次の演奏会までに、君らを銭のとれるオーケストラにする」と宣言します。



 ですが、この天道は、なかなか癖のある人物で、若くしてコンサートマスターになっている香坂らの楽団員と鋭く対立して、コンサート開催が危うくなってしまいますが、………?

 西田敏行以下の俳優陣が指揮をしたり楽器を演奏したりする姿はかなり様になっていると思いましたし、なにより映画の中で最後に流れる交響曲(「運命」と「未完成」)は、やっぱり名曲だと思わせる演奏のものです(佐渡裕指揮のベルリン・ドイツ交響楽団が演奏)。
 ただ、天道と香坂の父親との関係とか、天道の病気の妻の話など、邦画にありがちな人情話が組み込まれているのはどうかなと思いました(注3)。

(2)まだ『さよなら歌舞伎町』の余韻に浸っているせいでしょうか、あるいは同作に出演して活躍していた河井青葉松重豊を本作でも見たからかもしれませんが、本作を見ても、これはグランドホテル方式の作品なのではと思ってしまいました(注4)。
 例えば、中央交響楽団というオーケストラ(あるいは、練習場となる廃工場)が『さよなら歌舞伎町』に登場するラブホテルであり、西田敏行の扮する指揮者・天道は、ラブホテルの店長(染谷将太)に見えてきますし、コンマスの香坂がラブホの従業員でしょうか、そして、楽団員が属する各パートはラブホテルの客室といったような具合です。

 同じように比較するとしたら、天道は、『深夜食堂』に登場する「めしや」のマスター(小林薫)でしょうし、コンマスの香坂は、巡査の小暮(オダギリジョー)とかみちる(多部未華子)に該当するかもしれませんし、「めしや」を訪れるお客は、オーケストラの楽団員ではないでしょうか?

 そして、ラブホの店長(または、「めしや」のマスター)が、自分自身で、あるいは従業員(または、「めしや」の常連客など)を使って、ラブホ(または、食堂)を管理しているのと同じように、天道も、自分自身で、あるいは香坂を使って、オーケストラをコントロールしています。
 とはいえ、雇われ店長に過ぎない徹と違って、天道ははるかに強く楽団員を指導しますし、コンマスの香坂は、楽団員のトップということで天道と対決しますから、ラブホの従業員的な存在とはいえないかもしれません(注5)。

 それはともかく、仮に本作がグランドホテル方式の作品だとしたら、楽団員を巡るエピソードを、ラブホの客室内で起こる様々のエピソード(あるいは、『深夜食堂』の3つのエピソード)のように、もう少し充実させる必要があるのではという感じがしました。
 勿論、そうしたものが描かれていないわけではありません。
 例えば、フルート奏者の橘は、幼いころ阪神淡路大震災に遭遇して悲惨な光景を目にしています。
 これは、『さよなら歌舞伎町』の徹の両親が東日本大震災で被災したり、『深夜食堂』の3番目のエピソードが東日本大震災を取り扱っているのと同じように思えるものの、それらの作品でも触れたように、取って付けたような感じがしなくもありません。

 また、香坂については、彼の父親と天道との関係が明らかにされたり、天道の病気の妻の話が持ちだされたりします。
 でも、どうして、音楽をめぐる映画にこうした人情話が挿入されるのでしょう(注6)?

 本作に必要なのは、むしろ、楽団員同士の濃密な人間関係を描くエピソード(例えば、香坂と橘とのラブストーリー的なもの)ではないでしょうか(注7)?
 ですが、映画で描かれているのは、楽団員の間での実によそよそしい人間関係にすぎないように思われます(注8)。

(3)本作は、音楽を巡る映画なので、素人の世迷い言ながら、音楽方面のことに少し触れてみます。
 オーケストラの指揮者にまず必要なのは、入場料を支払っても構わないと聴衆が思えるようなレベルにアンサンブルを技術的に仕上げることでしょう。
 この点で、天道は、個々の楽器について詳細な知識を身につけてもいて、各パートの技術的レベルの引き上げに成功していて、全体としてまずまずのレベルにあるように思われます。
 ただ、プロの指揮者であれば、オーケストラが上手に演奏しましたね、というのは最低限のところであり、それだけでは済まないのではないでしょうか(注9)?
 演奏者が自分で満足するのではなく、入場料を支払っている聴衆に、自分たちの音楽を聞かせなくてはならないものと思います。
 そのためには、指揮者は、いったいどういう姿勢・考え方でもって「運命」や「未完成」に取り組んでいるのか、それを楽団員に十分にわからせて、実際の演奏において指揮者自身の「運命」や「未完成」を実現させる必要があるものと思います。
 その点からすれば、本作における天道の描き方では不十分のような気がします(注10)。

(4)渡まち子氏は、「再結成した名門オーケストラの奮闘を描く音楽ドラマ「マエストロ!」。オーケストラやクラシックのトリビアが楽しい」として70点を付けています。



(注1)原作は、さそうあきらの『マエストロ』(双葉社)。
 監督は、『毎日かあさん』(未見)の小林聖太郎
 脚本は、『バンクーバーの朝日』の奥寺佐渡子

(注2)ラストで、指揮者の天道がコンマスの香坂に「天籟は聞こえたのか?」と問いますが、それに通じています(「天籟」は香坂の父が残した言葉。下記の「注7」にある「もがりぶえ(虎落笛)」にも通じているのでしょう)。

(注3)本作に出演する俳優は、実に多彩です。
 すなわち、西田敏行(『武士の献立』や『終戦のエンペラー』)、松坂桃李(『万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-』)、miwa古舘寛治(『シャニダールの花』)、濱田マリ(『はじまりのみち』)、河井青葉(『さよなら歌舞伎町』)、モロ師岡(『私の男』)、斉藤暁(『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』)、嶋田久作(『謝罪の王様』)、松重豊(『さよなら歌舞伎町』や『深夜食堂』)など。

(注4)グランドホテル方式については、『さよなら歌舞伎町』についての拙エントリの「注8」をご覧ください。

(注5)そういうことでいえば、店長の徹は、コンマスの香坂に相当するかもしれません。だとしたら、天道は、『さよなら歌舞伎町』では描かれていないラブホのオーナーに相当するのでしょう。
 この点からしたら、『深夜食堂』の方が本作に類似しているといえます。

(注6)病床で香坂の父親が天道の指揮でヴァイオリンを弾き、それを天道の妻や幼い香坂が聞いていたというのが、復活コンサートの2日目における出来事の伏線になっているというのでしょうが、二つが合わさることで随分の“お涙頂戴”のシーンとなっているように思いました。

(注7)香坂は、マンションの一人住まいであり、橘はなぜか小さな舟の中で暮らしています(住むところがないので、天道に提供してもらったとのこと:それまではどこで暮らしていたのでしょうか?)。
 そして、香坂は、何億円もするヴァイオリンを弾きながら橘のいる舟に行きます。



 ただ、その時の会話は、橘の吹くフルートの音の素晴らしさを巡ってのもので、橘は「いつも思い出す音がある。もがりぶえ(虎落笛)って知ってる?震災の後に鳴っていた音」、「震災の後、焼け跡でお父さんの骨を拾った」、「音楽って切ない。今あると思っても、次の瞬間消えてしまう」等と話し、香坂は「でも、この世で一番美しいものは音楽だ」と答えます。
 なかなか含蓄がある会話ながら、これではラブストーリー的な展開は望めないでしょう。

(注8)これらは最後には解消しますが、例えば、フルートのパートにおけるmiwaとモロ師岡とか、オーボエの小林且弥とクラリネットの村杉蝉之介との関係など。

(注9)劇場用パンフレットに掲載の「TRIVIA」には、「プロのオーケストラの定期演奏会は、3日ほどの練習で本番を迎えます」と述べられています。 本作の中央交響楽団は、その域まで達していないかもしれないとはいえ、元々プロの集団だったのですから、せいぜい1週間位の練習期間ではないでしょうか?
 でも、本作では、演奏会まで1ヶ月位設けられています(劇場用パンフレット掲載の「STORY」には「復活コンサートは“わずか”1か月後」とあります!)。
 加えて、映画で描かれる練習風景からは、アマチュアのオーケストラに毛の生えたレベルのような感じがしてしまいます(香坂が「これまで何度も演奏したことがある曲」と言っていたわけですから、「運命」の出だしが8分休符であることを今更注意されることなんてあるでしょうか?←尤も、この出だしこそが「運命」という曲の要なのかもしれません。例えば、このサイトの記事を参照してください)。
 こんなオーケストラなら、潰れるのはあたり前ながら、本当にこれまで入場料を取る演奏活動をしてきたのか疑わしくなってしまいます。
 この点に関し、優秀な演奏家は引き抜かれてしまい、残っているのはクズばかりだからとも考えられますが、オーケストラは皆で合奏するものですから、全体のレベルが重要のはずです。それに、現在はどのオーケストラの懐具合も火の車であって、優秀で能力があるからといって再就職先が簡単に見つかるとも思えません。彼らは「負け組」とされていますが、それは就活面だけのことであり、演奏面ではないのではないでしょうか(現に、コンマスだった香坂が「負け組」に入っているのですから)?

(注10)「運命」といった名曲には、過去の名指揮者による名演がいくつも録音されて残されています。そうした過去の蓄積に対して、天道は、どこに自分の独自性を出そうとしているのでしょうか?
 実際には、映画で流されるのは、佐渡裕指揮のベルリン・ドイツ交響楽団が演奏したものであり、それを聞いて観客がそれぞれ判断すればいいことなのかもしれません。
 でも、本作は、最後のコンサートに至るまでのオーケストラの舞台裏を描くものですから、そうしたことについての描写があってもいいのではないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:マエストロ!

深夜食堂

2015年02月17日 | 邦画(15年)
 『深夜食堂』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)『夏の終わり』の小林薫が主演の作品というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、路地裏にある食堂「めしや」が舞台。
 営業時間は夜12時から朝7時頃まで、メニューは「豚汁定食、ビール、酒、焼酎」。
 そんな店には、曰くありげなマスター(小林薫)が一人いて、「勝手に注文してくれりゃあ、出来るもんなら作るよ」と言っています。



 映画の中では、「ナポリタン」、「とろろご飯」、「カレーライス」というタイトルを持った3つのエピソードが、この「めしや」で展開されます。
 例えば、「とろろご飯」は、空腹のあまり無銭飲食をしてしまったみちる多部未華子)が、暫くの間「めしや」の手伝いをすることになるお話。



 マスターの痛めた手が治るまでということで、食堂の2階に住み込むことになったみちるですが、なかなか腕がよく、「めしや」に馴染んできます。
 そうしたところに、男(渋川清彦)が、「いい店だね。探し回ったよ」と言いながら「めしや」に入ってきます。男は、みちるの故郷の新潟からやってきたとのことで、彼女とは因縁がありそうです、さあどうなるのでしょうか………?

 本作は、路地裏の食堂を舞台に3つの人情話を描き出したもので、良く言えば「心を優しく癒して小腹をほっこりと満たす味な物語がスクリーンに広がる」(注2)でしょうが、傾向が似ているような話が多い感じがしますし(注3)、また今更の昭和レトロの味付けがいささか濃い目ではないかと思いました(注4)。

(2)本作は、場所がラブホテルから飯屋に変わっただけで、ツイ先日見た『さよなら歌舞伎町』とほとんど同じ雰囲気を持った作品といえそうです。

 まずは、Wikipediaの「深夜食堂」によれば、食堂「めしや」があるのは「新宿・花園界隈」とのこと(注5)。

 それより何より、小林薫扮する飯屋のマスターが、まさにラブホテルの店長(染谷将太)に相当するでしょう。
 また、それぞれのエピソードで顔を出す巡査の小暮オダギリジョー)とか忠さん不破万作)のような常連客などは、ラブホテルの従業員(南果歩ら)でしょうし、本作で描かれる3つのエピソードは、ラブホテルの各部屋で展開されるお話であり、各エピソードに登場する「めしや」のお客(高岡早紀など)は、ラブホテルの各部屋で蠢くお客(村上淳など)に該当するのではないでしょうか?

 そんなところから、本作は、『さよなら歌舞伎町』と同じグランドホテル方式による作品と言っても構わないと思います(注6)。

 とはいえ、『さよなら歌舞伎町』では、店長の徹の過去がある程度明らかにされるのに対して、本作の「めしや」のマスターの経歴については一切何の説明もありません(注7)。
 マスターは本作の主役なのでしょうが、各エピソードの場を提供しているだけであり、いわば“狂言回し”なのでしょう(注8)。

 マスターのみならず、他の登場人物についても、その過去はあまり描き出されません。
 ただ、2つ目のエピソード「とろろご飯」では、みちるが玉子焼きにまつわる幼い頃の思い出を語ります(注9)。
 また、3つ目のエピソード「カレーライス」では、福島の被災地にボランティアとして行っていたあけみ菊池亜希子)を巡るお話が綴られていて、この点は、『さよなら歌舞伎町』でも店長の徹と妹・美優(樋井明日香)とが塩釜出身とされていることと通じ、時代性を感じさせます(注10)。

 『さよなら歌舞伎町』を先に見たばかりというタイミングが悪かったのかもしれませんが、この映画にあまり新鮮味を覚えませんでしたし、その上、全体の雰囲気が昭和レトロといったものなので(注11)、『さよなら歌舞伎町』のように爽やかさを感じ取ることはできませんでした。

(3)渡まち子氏は、「繁華街の一角にある小さな食堂に集う人々の人間模様を描く「深夜食堂」。素朴で懐かしい料理の数々が魅力的」として65点を付けています。
 佐藤忠男氏は、「実際にはなかなかそんな店はないと思うが、社交下手な日本人としては、そんな場がほしくて深夜の食堂や酒場に幻想を抱く。そんなささやかな夢としてよく出来た映画だと思う」と述べています。



(注1)元々漫画(安倍夜郎の『深夜食堂』)が原作で、それがTVドラマとなり、そして今回の映画公開に至ったものながら、クマネズミは、漫画もTVドラマも見てはおりません。
 監督は、『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』(2007年)の松岡錠司(TVドラマの『深夜食堂』の監督も)。

(注2)劇場用パンフレット掲載の「イントロダクション」より。

(注3)本作で描かれる3つのエピソードは、どれも男女の関係に関わるものですが、どれも皆別れ話なのです〔例えば、最初の「ナポリタン」では、はじめ柄本時生)がたまこ高岡早紀)にあっさりと捨てられてしまいます〕。
 そういえば、最後に出てくる骨壷を巡る話も(下記の「注6」をご覧ください)、亡くなった夫にまつわるものです。
 ただ、新橋の料亭の女将(余貴美子)とマスターとの関係は例外なのかもしれません。

(注4)俳優陣については、最近では、小林薫は『春を背負って』や『夏の終わり』、高岡早紀は『花宵道中』、柄本時生は『幕末高校生』、多部未華子は『源氏物語―千年の謎―』、余貴美子は『寄生獣』、菊池亜希子は『わが母の記』(彼女は、『森崎書店の日々』が印象的でした)、田中裕子は『共喰い』、オダギリジョーは『渇き。』、渋川清彦は『外事警察』で、それぞれ見ています。
 なお、『さよなら歌舞伎町』で見た松重豊や、『幻肢』の谷村美月もちょこっと顔を出しています。

(注5)本作の冒頭でも、靖国通りを西から走ってきた車がJR線の大ガード下を潜って東側に出て、左側に歌舞伎町のネオンサインを見ながら進んでいく様子が映し出された後、マスターのいる食堂「めしや」が描き出されます。

(注6)グランドホテル方式については、『さよなら歌舞伎町』についての拙エントリの「注8」をご覧ください。
 なお、本作の3つのエピソードはどれも「めしや」で語られるものなので、決してバラバラとは思えませんが、さらに統一感を持たせるためでしょう、冒頭で「めしや」に置き忘れられた「骨壷」については、第1話「ナポリタン」では、派出所に届けられ、第2話「とろろご飯」では、再びマスターが警察から持って帰ってきて「めしや」の2階に安置し、第3話「カレーライス」では、マスターが寺に納めた後に本当の持ち主(田中裕子)が現れます(田中裕子の最後のセリフは、なんだか新劇じみていましたが!)。



(注7)マスターの顔の左側に大きな切り傷があるにもかかわらず。

(注8)ただ、マスターの醸しだす雰囲気がこの作品全体の雰囲気を決定していますから、劇場用パンフレットに掲載のインタビューで、小林薫は「マスターはお話ごとに登場するゲストの話を聞くだけ、脇役に徹している」と述べているとはいえ、決して「脇役」ではなく主役であることは間違いないでしょう。

(注9)この話は、『さよなら歌舞伎町』において、雛子(我妻三輪子)が正也(忍成修吾)に語る子供の頃の話にあるいは通じるのかもしれません。

(注10)東日本大震災の取り上げ方は大層難しいものと思います。『さよなら歌舞伎町』では取って付けたような感じがしましたし、本作でも、なぜ3.11と結び付くのか、特に、その災害で妻を亡くした謙三筒井道隆)が、なぜそんなにあけみを求めるのか、にもかかわらず最後はどうしていともあっさりと東北に帰っていくのか、よくわかりませんでした(謙三が求めていたのは、やっぱり愛する妻であって、あけみはその単なる身代わりにすぎなかったということが、自分に納得できたというわけでしょうか)。

(注11)特に、「めしや」のすぐ側に設けられている派出所の外観は、現在の「KOBAN」よりもかなり古い時代のものではないでしょうか?
 劇場用パンフレットに掲載されているインタビューで、美術の原田満生氏は、「昭和の香りは絶対に必要だと思い、壁や建具、色は意識しています」と述べています。
 でも、話の時点は現在なのですから(壁に貼られている値段表は昭和のものでしょうか?)、描き出される人情などは昭和的だとしても、セットをわざわざ昭和的なものにする必要性があるのでしょうか(『さよなら』の舞台となるラブホテルは、昔のものではなく、回転ベッドなど置いていない現在のものとなっています)?



★★★☆☆☆



象のロケット:深夜食堂

中島みゆき「縁会2012~3 劇場版」

2015年02月13日 | 邦画(15年)
 『中島みゆき「縁会2012~3 劇場版」』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)昨年末の紅白歌合戦に中島みゆきが12年ぶりに出演したことでもあり、また、2年ほど前に『中島みゆき 歌姫 劇場版』を見て大層感動したこともあり、ぜひ本作も見たいと思った次第です。
 とはいえ、料金が2,500円均一(前回は2,000円均一)とかなり高額(注1)。一旦は躊躇したものの、でも大画面かつ大音量の誘惑には勝てませんでした。
 実際見てみると、前回のようにPVが挿入されたり、オフステージの彼女の姿が映し出されたりすることもなく、全編、コンサートツアーの舞台で歌う姿を映像化したもの。
 「空と君のあいだに」から最後の「ヘッドライト・テールライト」まで全20曲を次々に歌っていきます(注2)。
 映像自体はすごく単純そのものながら、張り詰めた彼女の歌う姿からは女王然としたオーラがほとばしりでていて、観客は103分の間ずっと釘付け状態となります。

 こんな思いは、昨年12月20日にWOWOWで見た矢沢永吉のライブ生中継(注3)を見た時にも味わったところ、矢沢が65歳であり、中島が62歳で、丁度同じくらいの年格好のミュージシャンがまだまだ元気に頑張っているというのはとても素晴らしいことです!

(2)中島みゆきの歌は、歌詞と音楽が渾然一体となって、全体で一つのしっかりした世界を創り出していると思います。それが20曲も歌われるのですから、映画全体が宇宙と言えそうです。

 彼女の歌を聞きながら、その前に見たばかりの『さよなら歌舞伎町』のいろいろなシーンがしきりに思い出されました(注4)。
 なにしろ、本作の最後の方では「月はそこにいる」が歌われますが、『さよなら歌舞伎町』でも、ラストの方で、前田敦子扮する沙耶が「月のあかり」を歌ったりするのです!

 『さよなら歌舞伎町』には、群像劇だけあってかなりの人物が登場し、そのキャラクターたちのからみ合いによって一つの世界が立ち上ってきます。
 他方、本作においては、バックにしっかりしたバンドやコーラスが控えているとはいうものの、ライトが当たるステージには中島みゆきが独り立ち詰めで、それで一つの大きな世界を作り出しているのですから、凄いものだと感心いたしました。



(注1)当初は、前回と同様、2週間の限定公開とされていましたが、かなり公開延長されているようです。

(注2)映画の中で歌われている歌は、次の通り。
1.空と君のあいだに 2.あした 3.最後の女神 4.化粧 5.過ぎゆく夏 6.縁7.愛だけを残せ 8.風の笛 9.常夜灯 10.悲しいことはいつもある 11.地上の星 12.NIGHT WING 13.泣きたい夜に 14.時代 15.倒木の敗者復活戦 16.世情 17.月はそこにいる 18.恩知らず 19.パラダイス・カフェ  20.ヘッドライト・テールライト 

(注3)例えば、このサイトの記事を参照。

(注4)例えば、『常夜灯』の中の「次の夜明けに帰ってくるわ きっとあの人は だからここで待っているのよ あたし泣かないわ」の歌詞を聞くと、『さよなら歌舞伎町』の中で、デリヘル嬢スカウトの正也忍成修吾)を待つ雛子我妻三輪子)のシーンを思い出しますし、また、本作で歌われる『倒木の敗者復活戦』の歌詞からは、『さよなら歌舞伎町』の中で、染谷将太)が「自分はこんなラブホテルの店長で満足しない」、「ちゃんとしたホテルに就職するんだ」と叫ぶ場面が、さらに『ヘッドライト・テールライト』の中の「旅はまだ終わらない」という歌詞には、徹と妹・美優樋井明日香)が塩釜へ向かう高速バスに乗っている『さよなら歌舞伎町』のラストのシーンがダブります。
 とはいえ本来的には、こうした直接的に関係するものを持ち出すよりも、気分的に通じるところを申し上げるべきでしょうが、それはクマネズミの手に余ります。

さよなら歌舞伎町

2015年02月11日 | 邦画(15年)
 『さよなら歌舞伎町』をテアトル新宿で見ました。

(1)『もらとりあむタマ子』で好演した前田敦子が出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、大きな道路の脇にあるアパートの部屋のシーン。
 沙耶前田敦子)が、朝から窓辺でギターを弾きながら歌(注2)を歌っています。
 歌詞の中に「まわるベッドの上」とあるのを寝ている染谷将太)が耳にして、「今どき回るベッドなんてないよ」と言うと、沙耶は「なんで知ってるの?誰かと行ったの?」と咎めます(注3)。
 徹は「行ってない」と答えますが、沙耶は「だからあたしたちセックスレスなんだ」と応じます。
 その後、沙耶が、今日はレコード会社の人の前でライブをするという話をして(注4)、二人は自転車に乗って駅の方に向かいます(注5)。



 こんな具合に物語は始まりますが(注6)、本作では、主演の染谷将太の登場シーンは多いものの、前田敦子の登場シーンは、以降そんなにもありません(注7)。
 というのも、本作は、新宿歌舞伎町にあるラブホテル「HOTEL ATLAS」のある朝から翌朝までの1日を描いており、店長である徹やそこに働く従業員、それにそのお客たち達が織りなす様々の物語が集まったものとなっているからです(注8)。
 本作で映し出されるエピソードが随分と盛り沢山なために、やや焦点がボケた感じになります。ですが、ラブホテルを通して現代の日本社会の一面を描こうとの意図は、そうした試みがこれまでもいろいろなされているとはいえ(注9)、かなり成功しているように思われます。
 それに、苦い話がいくつも盛り込まれているものの、ロマンポルノ的要素(注10)を取り入れたこうした作品でありがちな湿った感じはあまりせずに(注11)、何よりも、本作の舞台である新宿歌舞伎町を靖国通りを隔てたすぐ近くに感じ取ることができるせいかもしれませんが、見終わってテアトル新宿の外に出ると、むしろ爽やかな感じがしてしまいました(注12)。

(2)本作は、脚本が荒井晴彦氏だという点でも興味がありました(注13)。
 荒井氏の脚本による作品をこれまでいくつか見てきましたが(注14)、政治的なもの、時代的なものを独自の視点(あまりクマネズミは賛成しないのですが)で色々潜り込ませていて、本作においてもどんな具合なのか気になったところです。

 以下は、脚本面で気付いたことを少々。
イ)一番目につくのは、徹とその妹・美優樋井明日香)が宮城県塩釜の出身で、両親が3.11の東日本大震災に遭遇して工場を失ったために、二人は学費が払えなくなり、結局、徹は沙耶に立て替えてもらい、妹もAVの仕事をしているという設定になっている点でしょう(注15)。
 確かに、こうした事例はありうるのでしょうが(注16)、特段そのような設定でなくとも、同じような状況設定にすることはできるのではないかと思われ、本作における3.11はなんだか取って付けたような感じがしてしまいます(注17)。

ロ)また、デリヘル嬢のヘナイ・ウンウ)が大久保通りを歩いている時に、在特会のデモ隊がヘイトスピーチしているところに遭遇する場面があります。
 この点について、劇場用パンフレットに掲載されたインタビューにおいて、荒井晴彦氏は、「歌舞伎町なら、当然、大久保は出てくるだろうし、ヘイトスピーチを横目に見て職場に行く韓国人のデリヘル嬢は、何を思うかと」と述べています。
 確かにそのとおりかもしれません。ただ、大久保通りと歌舞伎町との間には職安通りなどがあったりして、それほど接近している感じはしません。
 歌舞伎町の置かれている今の時代を描き出すために、果たしてヘイトスピーチが適当なものかどうかいささか疑問が持たれるのではないかと思います。

ハ)実際には撮影にあたり削除されてしまいましたが、雑誌『シナリオ』2月号掲載の本作のシナリオを見ると、上記(1)で紹介しました冒頭の場面の前に、もう一つのシーンが設けられています。
 そこでは、ラブホテルの前に徹が勤めていたグランドホテルでの出来事が描かれています(注18)。
 仮にこの場面から映画が始められたとしたら、本作のヒロインは、前田敦子ではなく、むしろデリヘル嬢のヘナを演じるイ・ウンウのように観客には受け取られたかもしれません(注19)。
 ヒロインを前田敦子にするためにも、このエピソードは削られたのではないでしょうか?

ニ)雑誌『シナリオ』2月号掲載の本作のシナリオでは、その時の時刻が様々の手段を使って分かるようになっています(例えば、壁掛けの時計とか、腕時計、タイムレコーダーの液晶画面など)。
 それが、本作ではあっけらかんとデジタル表示されるだけとなっています。
 加えて、シナリオでは、最初の表示が「09:42」で最後が「07:28」となっていて、本作がだいたい24時間を描いているなということがわかります。
 これに対して、例えば、朝、徹がラブホテルに出勤する時刻が、シナリオでは「11:58」となっているにもかかわらず、実際の映画では、徹がホテルに現れて小銭を借りにホテルを出て行く時刻が「10:43」とされているのです。
 また、ヘナがヘイトスピーチのデモ隊に遭遇するのが、シナリオでは「15:06」あたりとされているのに対して、実際の映画では「11:30」です。
 実際の映画における時間の進行が、シナリオよりも随分と早目になっているのがわかります(注20)。

(3)森直人氏は、「本作の試みは新宿というトポスの中でロマンポルノと現在の空気を緩やかに結ぶ事にあるのではないか」として★4つを付けています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「東京・新宿のラブホテルの1日を描いたこの群像劇がさわやかな感動をもたらすのも、綿密な脚本と鮮やかな演出があるからだ」、「ラブホテルという告白装置が、群像劇を成立させ、現代の日本を映す」として★4つ(見逃せない)を付けています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「どうにもならない現実を受け止めて、それでも前向きに。希望を感じさせる終幕にかすかに残る苦さが、映画の味わいを深くしている」と述べています。



(注1)監督は、『きいろいゾウ』や『軽蔑』の廣木隆一

(注2)作詞・作曲が下田逸郎の「ラブホテル」。

(注3)徹は沙耶に、偽って大手の「グランドホテル」に勤めていると言っています。

(注4)沙耶は、3人でバンドを組んでいますが、彼女の話では、そのライブが上手くいってもメジャーデビューできるのは彼女一人だけのようです。

(注5)ギターケースを背負った沙耶が立ち乗りしている自転車を徹が漕いで、JR新大久保駅から新宿駅に向かう山手線の東側の道を二人は南に進んでいきます。

(注6)実際には、沙耶がギターを弾いているシーンと、沙耶と徹が自転車に乗っているシーンとの間には、他のエピソードの冒頭部分が幾つか挿入されています。

(注7)もう一つのシーンでは、沙耶が、レコード会社の竹中大森南朋)と一緒に件のラブホテルの部屋にいるところを徹が目にし、二人は言い合いをします(徹は、「マクラ営業かよ」と咎めますし、沙耶は「グランドホテルじゃなかったの?」と怒ります)。
 さらに、翌朝、花園神社で沙耶が徹と出会うシーンがあります(徹は塩釜に行くと言い、沙耶は「待ってるから」と答えます)。
 なお、染谷将太は、最近では『寄生獣』で見たばかりですし、前田敦子は『もらとりあむタマ子』の他に、『苦役列車』で見ました。

(注8)本作は、いわゆる「グランドホテル方式」といわれるものです。
 その点については、この拙エントリの(2)を参照してください。
 なお、そのエントリが取り上げた『シーサイドモーテル』は、ホテルの従業員がほとんど活躍しないという点で、元の『グランドホテル』と類似していますが、それから言えば、本作はむしろ三谷幸喜監督の『有頂天ホテル』と類似していると言えるでしょう。
 そして、ホテルの従業員に焦点を当てた作品としたら『グランド・ブタペスト・ホテル』が思い出されるところです。

(注9)例えば、見てはおりませんが相米慎二監督の『ラブホテル』(1985年)があります。
 なお、このサイトの記事からすれば、同作は、本作というより『シーサイドモーテル』類似の感じがします。

(注10)デリヘル嬢のヘナと客の雨宮村上淳)とのセックス描写は、随分と綺麗に撮られていると思います。



(注11)柳下毅一郎氏は、「実を言うとこの映画、どの挿話も深いところに触れることなくきれいに可愛く「いい話」としてまとめてしまう。妹がAV嬢なのも、恋人がホテトルやってるのも、深く傷つきせず悩むこともなく、かわいい音楽がかかって丸く収まってしまうのだ」と述べていますが、
 どうやら同氏は、従来型のベタベタ湿った感じのものがお好きのようです。

(注12)俳優陣では、染谷将太や前田敦子の他に、ラブホテルの清掃人役の南果歩(『わが母の記』や『家族X』で見ました)や、不倫をしている女刑事役の河井青葉(『私の男』で浅野忠信の恋人役でした)が印象に残りました。

(注13)実際には、荒井氏と中野太氏との共作(『戦争と一人の女』もそうでした)。
 雑誌『シナリオ』2月号掲載の座談会で、「荒井さんと中野さんでシナリオを書く手順というのは?」との質問に対して、中野氏は、「24時間の群像劇にするというのは、荒井さんから言われていて、それで参考資料を渡されて下書きを書いて。それを荒井さんがダーッと直していく」と答えています。

(注14)荒井氏が書いた脚本の映画としては、『戦争と一人の女』や『共喰い』、それに『海を感じる時』を見ています。

(注15)劇場用パンフレット掲載の「廣木隆一(監督)✕荒井晴彦(脚本)対談」において、荒井氏は、「群像劇なんだけど、ラブホの若い店長を主役っぽくしたいというので、そのバックグラウンドを作るのに、じゃあ震災絡みにしようかと」と述べています。
 ただ、同パンフレット掲載のインタビューにおいて、廣木監督は、「最初の脚本では、染谷の出身は東北ではありません。これは宮城に変えてもらいました」と述べています。
 要すれば、監督のアイデアを脚本家が具体化したということでしょう。

(注16)上記「注15」で触れているインタビューにおいて、廣木監督は、「津波の被害でデリヘルに勤めるようになった人もいると聞いた事あるんですよ」と述べています。

(注17)本作のラストでは、徹は塩釜に帰るために高速バスに乗り込むのですが、後部座席にはすでに沙耶が座っているのです。徹は、そのことに気付かずに席に座りますが、わざわざこのようなストーリーにする意味はどこにあるのでしょう?
 劇場用パンフレット掲載のインタビューにおいて、荒井氏は、「「東北へ」って(テロップ)出したかったくらい。「東北を忘れるなよ、お前ら」って」と述べていますが、そんな直なスローガンを出してどうなるというのでしょうか?

(注18)その出来事で、徹とベッドメイク担当のヘナはグランドホテルを解雇されてしまいます。

(注19)これはあるいは、劇場用パンフレット掲載のインタビューにおいて、荒井氏が「(最初)掃除のおばさんがいろんなカップルを見る話にできるかなと思ってた。そこに韓国人の女の子で何か企画できないかという話があって」云々と語っている話を引きずっているのではないか、と推測されます。

(注20)これは、廣木監督が、ラブホテルの清掃人の南果歩が匿っている男(松重豊)が犯した事件の時効が成立するのを描き出そうとして、全体の時間をシナリオの24時間から半分の12時間に切り詰めようとしたことの名残ではないかと思われます(雑誌『シナリオ』2月号掲載の「『さよなら歌舞伎町』座談会」における荒井氏の発言からの推測)。
 結局、時効が成立するのを見守る南果歩と松重豊の二人のシーンは、エンドロールの後に挿入されています。



 映画館の係員が、映画の上映に先立ってそのことに何度も注意したために、クマネズミもそのシーンを見ることが出来ましたが、本作は、徹と妹・美優が塩釜行きのバスに乗ったところでジ・エンドで十分ではないかと思います。



★★★★☆☆


サンバ

2015年02月06日 | 洋画(15年)
 遅くなりましたが、先月末に『サンバ』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)DVDで見てとても感動的だった『最強のふたり』(Wikipediaによれば、「日本で公開されたフランス語映画の中で歴代1位のヒット作」)の2人の監督と主演のコンビが制作した作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)では、セネガルからフランスにやってきて10年間まじめに働いてきたサンバオマール・シー)が、突然不法滞在とされ収容所に入れられてしまいます。



 その際、サンバは、ボランティアの移民支援団体の研修生アリスシャルロット・ゲンズブール:注2)を知ります。



 なんとかフランスに滞在できることになったサンバは(注3)、アリスとの関係を深めていきますが、はたしてサンバはフランスに長く滞在することができるようになるのでしょうか、………?

 見る前は、『最強のふたり』と同じようにコミカルな要素の強い作品なのかなと思っていたところ、実際にはフランスにおける不法滞在者の問題に迫る随分とシリアスなものとなっています。日本でもこの先こうした問題が増えていくのかと考えさせられますが(注4)、本作は、移民問題だけでなく、主役のサンバを巡る様々な人たち(特に“燃え尽き症候群”のアリス)との関係が濃密に描かれていて、まずまず面白い作品となっています。

(2)主役サンバを演じるオマール・シーの相変わらずの立派な笑顔を見ることができるのは、本作の大きなメリットでしょう。
 加えて、ビルの窓ふき用ゴンドラに乗った時の大騒ぎとか、取締当局に追われて屋根伝いにウィリアムと逃げる際のドタバタなど、コミカルな演技を繰り広げてくれるのですからなおさらです。

 とはいえ、たいしたことではありませんが、気になったことがいくつかあります。
イ)先月7日にパリ市内で起きたシャルリー・エブド襲撃テロ事件の犯人らは、アルジェリアからの移民の子孫とされていますが、このところフランスでは、イスラム系移民が様々な問題を引き起こしているようです(注5)。
 なかでも、本作で取り上げられている不法移民問題は深刻のようで、以前見た『ル・アーヴルの靴みがき』でも取り上げられています。
 とはいえ、同作においては、アフリカのガボンからやってきたイドリッサ少年は、不法移民として警察から追われますが、主人公のマルセルらによって、ロンドンにいる母親のもとに無事脱出することになります。
 反対に、本作の主人公のサンバは、10年間誠実に働いてきて、長期の滞在許可証をもらえると喜び勇んで県庁を訪れたところ、思いがけず不法移民として収容所に入れられてしまい、そこから本作の物語が始まります。

 ただ、サンバが何の疑いもなしに県庁を訪れたのは、どうやら「15年以上、または合法的に10年以上のフランス滞在を証明できる外国人は、自動的に滞在許可証の発給対象者」になっていたからのようです(注6)。
 にもかかわらず、サンバが不法移民とされてしまったのは、この記事によれば、サルコジ大統領の時代は、不法滞在の出身国への強制送還につき目標数字が定められ、警察は目標達成すべく「往々にして(もの言わぬ)移民という弱い立場を強引かつ理不尽に悪用し」たためであり、「理由なく国外追放される外国人がたくさんい」たとされています。
 要すれば、サンバが県庁に自分から出頭したのは、飛んで火にいる夏の虫も同然だった、ということになります。
 ですが、本作を見ていると、サンバは「郵便受けが壊れていた」などと県庁の係官に話していて、そういうことからすれば、滞在許可証を申請できる日の通知を受け取ることができず、その日を逃してしまった、というのが不許可の理由のようにも受け取られるところです。
 要すれば、サンバの側に単純な手続きミスがあっただけのことのようにも思われました。
 実際のところは前者(取締当局の狙い撃ちに遭遇した)のように考えられますが(注7)、どうもよくわからない感じが残ります。

ロ)サンバは、ジョナスイサカ・サワドゴ)と収容所で知り合い親友になるものの、先に収容所を出たサンバがジョナスの恋人と性的関係を持ったり、後から出てきたジョナスにそれをなじられて喧嘩したりするのは、あまりにジョナスが可哀想でどうかなという思いにとらわれます。
 勿論、劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、オリヴィエ・ナカシュは、「サンバはたくさんの欠点や欲望を持った男。彼を聖人として描くことは、家族に仕送りをするために働いているという一面しかない人間だと、単純化してしまうことになる」と述べていて、それはまさにその通りながら、あまりにシリアスなのではと思ってしまいました(注8)。

ハ)本作では、アリスが“燃え尽き症候群”であるとされています。
 この点については、劇場用パンフレットに掲載された「Production Notes」に、「『最強のふたり』を撮影することによって燃え尽き症候群がどんなものかを、自分たちで「経験してしまった」と笑う二人(監督の)は、それを新作のもう一つのテーマとして組み込もうと決めた」とありますから、明確な意図のもとにアリスの人物造形を行っているものと思います。
 でも、本作におけるアリスの描き方では、“燃え尽き症候群”に陥っているというよりも、これまでとは全く違う分野の新しい活動の場に出向いていて戸惑っているだけ、という感じしかしないのですが。
 最後の方で、アリスが元の職場に戻って働く様子が映し出されますが、それもなんだか付けたりのような印象を受けてしまいます。

ニ)サンバが当局の目を逃れて生活している間、彼を支えてくれたのはウィルソンタハール・ラヒム)ですが、彼こそが“サンバ”の名を冠されてもおかしくない存在です。
 なにしろ、アルジェリア出身の不法移民ながら、ブラジル出身だと称して、ポルトガル語を巧みに操ったりサンバを踊ったりするのですから!
 でも、同じ西ラテン語族(あるいは西ロマンス語)に属するからといって、あのようにポルトガル語がフランスで通じるものなのか、不思議に思われます(とはいえ、イタリア語は、耳で聞く分にはよくわかるとブラジル人が言っていました)。

(3)渡まち子氏は、「そもそも移民問題と、燃え尽き症候群は、まったく別問題ではないのか? なんだか中途半端な印象が否めない作品だが、ともすれば社会派に傾きがちなテーマを、あえて軽く仕上げた個性は評価したい」として55点を付けています。
 前田有一氏は、「「サンバ」はコミカルな場面もあるが、基本的にはきわめてシリアスな移民問題を扱ったドラマである。オマール・シー演じる主人公のサンバは、あれほど前向きで誠実な「よきひと」なのに、ほんの不運で転落人生を歩むことになる。その理不尽さと、それを修正しない、あるいはしようとしないフランス社会の事情というものを、きわめてディテール豊かに描いた佳作である」として65点を付けています。



(注1)監督・脚本は、エリック・トレダノオリヴィエ・ナカシュ
 なお、本作には、デルフィーヌ・クーラン『フランスに捧げるサンバ』という原作があるようです。

(注2)シャルロット・ゲンズブールについては、最近では、『メランコリア』や『最終目的地』で見ています。

(注3)サンバに対する裁判所の判決は「フランスの領土から退去すること」。ただし、強制退去ではないため、おとなしくしていればフランスに滞在できる、再度、長期の滞在を申請できることになります。

(注4)この記事によれば、日本における不法滞在者は、2009年1月現在で約11万人とされています(2004年からの5年間でほぼ半減!)。
 これに対し、この記事によれば、フランスにおける不法滞在者は「30万人から100万人いると見積も」られているそうです。
 この数字が正しければ、フランスにおける不法滞在者問題の深刻さは、日本の比ではないことになります。
 とはいえ、この記事によれば、日本においても、「偽造技術の向上により精巧な各種偽造証明書が出回っているほか、偽装結婚・偽装認知等により不正に在留資格を取得する事案」が発生し、「犯行手口が、悪質・巧妙化する傾向にあ」るとのこと(最近でも、こんな事件がありました)。

(注5)その状況については、例えばこの記事を参照。

(注6)このサイトの記事(「永久滞在許可証(Crate de Resident)」の項)によれば、現在は廃止されているようです。

(注7)劇場用パンフレット掲載の「Story」では、「すでに不許可の通知を送った」と係官からサンバは告げられる、とされています。

(注8)なにしろ、ジョナスは、喧嘩の果てに運河に落ちて死んでしまうのですから。
 勿論、サンバが意図的にジョナスを運河に落としたわけではなく、またジョナスが死んだことにより、サンバはジョナスの身代わりとなって10年の滞在許可を獲得したも同然になるのですから(ジョナスは政治難民として10年の滞在が認められました)、仕方がなかったかも知れません。



★★★☆☆☆



象のロケット:サンバ

ビッグ・アイズ

2015年02月03日 | 洋画(15年)
 『ビッグ・アイズ』をTOHOシネマズで見ました。

(1)昨年の佐村河内事件が未だ記憶に生々しかったり、丁度TBSTVで『ゴーストラーター』が放映されたりしていることもあって、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「based on the true event」の字幕が映し出されてから、大きな目を持った子供を描いた絵の複製(それには、すべて“KEANE”のサインが入っています)が何枚も輪転機から刷り上がって出てくる場面。
 次いで、アンディ・ウォーホルの「キーンの絵は素晴らしい」との言葉が字幕で紹介されます。

 それから舞台は1958年の北カリフォルニアとなり、記者のディック・ノーラン(ダニー・ヒューストン)の語りで物語が展開していきます。
 まずは、マーガレット(エイミー・アダムス)が部屋で荷造りをして、娘のジェーンと一緒に大慌てで家を飛び出します。どうやら横暴な夫から二人で逃げ出したようで、車はサンフランシスコへ。

 ノーラン記者は「当時は、仕事を持たない女性は離婚しなかった」と語りますが、夫と別れたマーガレットにあるのは絵を描く才能(ナッシュビルで学んだとのこと)だけ。
 彼女は、生計を立てるために、家具の工場で働く一方で(ベッドボードにイラストを描く仕事)、ノースビーチの通りで似顔絵を描いて売ろうとします。



 そこで出会ったのが、同じように通りで絵を売っているウォルター(クリストフ・ヴァルツ)。



 彼は自分について、本業は不動産屋、日曜画家として絵を描いていると言います。
 すぐに二人は気が合って、ハワイで結婚式。

 二人が描いた絵はなかなか売れませんでしたが、ひょんなことでマーガレットの絵が新聞に掲載されて人気が出てしまいます。
 すると、ウォルターは、マーガレットの絵は自分が描いたものだと外に向かって言い始めるのです。マーガレットはこの後どうなっていくのでしょうか、………?

 本作は、主役の画家・マーガレットを演じるエイミー・アダムスの変わらない魅力と、相手役のクリストフ・ヴァルツの抜群の演技力に頼るところが大きいと思います。
 エイミー・アダムスはすでに40歳ですが、まだまだ可愛らしく、最近でもいろいろの映画(注2)に出演して活躍しています。
 この映画では、一見すると、外に対し自分が描いていると偽ってしゃべっているウォルターを演じるクリストフ・ヴァルツ(注3)の方が目立ってしまいますが、マーガレットを演じているのがエイミー・アダムスだからこそ、後ろに引っ込んでいてもやはり主役だなと思えてきます(注4)。
 とはいえ、マーガレットが描いた眼の大きな人物画があまり好きになれないので、本作の全体としての印象はまあまあといったところ。

(2)冒頭で触れた佐村河内事件は音楽の作曲に関するものであり、TVドラマ『ゴーストライター』は小説家を巡るものですが、本作はゴーストペインターの問題を取り扱っています(注5)。

 それぞれ分野は違っていても、類似する点がある感じがします(注6)。
 佐村河内事件(注7)の場合、中心人物の佐村河内守氏はあまり作曲できなかったようですが(注8)、本作のウォルターも、パリの美術学校に通っていたというのは嘘であり、ほとんど絵を描けません(注9)。
 他方で、佐村河内事件でゴーストライターとして作曲していた新垣隆氏は、大層腕の立つピアニストであり作曲家だとされていますし(注10)、本作におけるマーガレットも非常に人気のある絵を描く画家です。

 また、佐村河内氏が、新垣氏の作曲による作品を自分が作曲したと言ったのと同じように、ウォルターも、マーガレットの手になる絵を自分が描いたと言い張ります。
 そればかりか、佐村河内氏が、自分は全聾(注11)であるなど様々の嘘をついたのと同様に、ウォルターも、例えば「どうして眼の大きな子供を描くのか」との質問に対し、「戦後のベルリンで見た戦災に遭った子供たちを見た。この目には孤児たちが映っている」などと嘘を答えます(注12)。
 ですが、この答えに大衆は感激してしまい、マーガレットの絵の評判は一層高まります。

 さらにいえば、佐村河内事件では、新垣氏が「これ以上、自分の好きな音楽で世間を欺きたくないという気持ちが、自分の中で大きくなってきた」ことから記者会見(注13)を開いて真相を暴露しましたが、マーガレットも真実の自分を取り戻そうと、ラジオ放送で真相を告白した後に、ハワイの裁判所にウォルターに対する訴訟を提起します。

 まあ、言ってみれば、佐村河内事件も、本作の話も典型的なゴーストライター事件であり、こうしたことはよく引き起こされるのだということでしょう。

 とはいえ、本作は、ゴーストペインター問題ばかりでなく、マーガレットとウォルターの夫婦関係やマーガレットと娘のジェーンとの母娘関係も見所であり、更に言えば下記の(3)で触れる藤原帰一氏によれば「50年代から60年代のアメリカ」を大層上手く捉えているとのことでもあり、様々な観点から議論できるものと思います。

 ただ、全体的には、実にたくさんのマーガレットの絵が映し出されること(注14)からも分かるように、本作は彼女の絵に対するティム・バートン監督の深い愛に基づいて制作されたように思われ(注15)、そんな思い入れのないクマネズミにとってはイマイチの感が残りました。

(3)渡まち子氏は、「米国美術界を騒がせたゴーストペインターの実話「ビッグ・アイズ」。アダムスとヴァルツ、バートン組初参加の俳優の上手さが光っている」として70点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「評論家より大衆に愛された女性画家の“事実は小説より奇なり”。これもバートン好みの世界なのだろう」として★3つ(見応えあり)を付けています。
 藤原帰一氏は、「巧みな画像構成のおかげで、50年代から60年代に変わってゆくアメリカを追体験した気持ちに浸ることができる。絵はもう一つでも額縁は見事な作品」と述べています。
 相木悟氏は、「芸術と商売について考えさせられる、含蓄のある一作であった」と述べています。



(注1)監督は、ティム・バートン。
 彼の作品は最近見ていませんが、以前、『スリーピー・ホロウ』(1999年)、『チャーリーとチョコレート工場』(2005年)、『スウィニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(2007年)などを見ました。

(注2)最近では、エイミー・アダムスは、『人生の特等席』、『ザ・マスター』、『アメリカン・ハッスル』、『her 世界でひとつの彼女』で見ています。

(注3)最近では、クリストフ・ヴァルツは、『恋人たちのパレード』や『おとなのけんか』で見ています。

(注4)本作の最初にアンディ・ウォーホルの言葉が映し出されるところからも、マーガレットがスーパーに買い物に行くと、彼女が書いた絵の複製がアチコチに目に付くシーンは、ウォーホルの「200個のキャンベル・スープ缶」といったものを踏まえているのでしょうが、あるいはエイミー・アダムスの雰囲気も、ウォーホルの「マリリン・モンロー」に関係していると言えないでしょうか?

(注5)他にも映画では、『ヤング≒アダルト』の主人公メイビス(シャーリーズ・セロン)はゴーストラーターですし、ズバリ『ゴーストライター』という作品もあります(後者では、ユアン・マクレガーが、元英国首相の自叙伝のゴーストライター役を演じています)。

(注6)ただし、TVドラマ『ゴーストライター』は現在放映中ですので、ここでは取り上げません。
 〔サイトの番組紹介からすると、物語の最初の方は、あらまし次のようです。たぐいまれな才能と美貌とを兼ねそなえた小説家・遠野リサ(中谷美紀)が主人公。彼女は、実は既に行き詰まりを感じていたところに、小説家を夢見て地方から東京にやってきた川原由樹(水川あさみ)があらわれます。リサは、由樹を自分のアシスタントとして雇い入れ、プロットを書かせますが、由樹がプロットを書くようになってから連載小説の評判が上がり始めるのです。さあ、この二人の関係はどうなるのでしょうか、………?〕

(注7)佐村河内事件については、この拙エントリの「注7」をもご覧ください。

(注8)ウォルターが、絵の制作に関しては完全にマーガレットに任せていたのとは違い、佐村河内氏は、新垣氏の作曲にある程度関与していたようでもあります。下記「注12」の記者会見において、新垣氏は例えば、「彼(佐村河内氏)は言葉のみならず、いろいろなクラシック音楽のレコード、CD、録音などを聞いていました。それで、彼なりに、自分の(表現)したいものを選んで、提示したこともあります。それから図表や言葉というもので提示されました」とか、「佐村河内さんのために曲を書くという面もありました。彼との関わりの中で、作品が生まれるということなのですが、彼との共同作業であると私は全ての作品に おいて思うのです。同時に、全ての作品は私のできる限りの力の範囲で作るものであり、そういう意味では、一つ一つが大事なものです」などと述べています。

(注9)ハワイにおける裁判において、裁判長から言われて、二人は法廷で絵を描くことになるのですが、ウォルターの方は、「肩が痛い」と拙い言い訳をして、筆を取り上げることすらしませんでした。
 ノースビーチの通りで売っていた絵も、他人が描いた絵のサインの上に自分の“KEANE”を重ねたものでした。

(注10)東大教授で作曲家・指揮者でもある伊東乾氏は、このサイトの記事で、「「非音楽的」「反音楽的」と言うべき音楽のアナーキスト、新垣隆君は、古典的な音楽の書法、ピアノの演奏、ソルフェージュなど音楽全体の基礎に、彼が勤務する桐朋学園大学の全歴史の中でもたぶん数番目に入る、超優秀な能力を持っています」と述べています。

(注11)新垣氏は、下記「注12」の記者会見で、「耳に関しては、私の認識では、初めて彼と会ったときから今まで、特に耳が聞こえないということを感じたことは一度もありませんでした」と述べています。

(注12)目を大きく描くわけについて、マーガレットは、「人はなんでも目を通して見る。この目は私の気持ち。目を見れば何でもわかる」などと言っています。
 もとより、ウォルターもマーガレットもヨーロパに行ったことはありませんでした。

(注13)http://riocampos.tumblr.com/post/75782273344

(注14)劇場用パンフレットに掲載されている「Production Notes3」によれば、「映画全編を通しては300枚の絵と数百枚のスケッチ」が用意されたとのこと。
 なお、藤原帰一氏は、「マーガレットが毎日描き続けた絵、大きな目の少女の連作の魅力が伝わってこない」ことが本作の問題とされているところ、同氏の文脈からすると、マーガレットの絵そのものに問題があるというよりも、絵を描くマーガレットという画家の本作における描き方が不十分だという趣旨と思われます。ただそうだとしても、芸術家の内面を映画で描くのは至難の業と思われますが。

(注15)劇場用パンフレットに掲載されている「Production Notes1」において、製作・脚本のスコット・アレクサンダーは、「ティム・バートンはマーガレットの絵を愛している。アウトサイダー・アートの概念に共感していて、批評家によるアート評価が正当化されることに納得していないんだ。これこそがこの作品の真のテーマだ」と語っています。
 例えば、本作においては、1964年のニューヨーク万博で展示されることを当て込んで制作されたマーガレットの絵(ユニセフに寄贈)が、ニューヨーク・タイムズに掲載された批評によって酷評されますが、それに対するウォルターの怒りは、あるいはティム・バートン監督の怒りなのでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:ビッグ・アイズ