映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

50歳の恋愛白書

2010年02月28日 | 洋画(10年)
 『50歳の恋愛白書』を日比谷のみゆき座で見てきました。

 時間が空いたので、アラフィフの恋愛模様を描いたお気楽な映画でも見ようか、ということで足を運んだところ、邦題から思い描いていたストーリー(キアヌ・リーヴスを中心とする甘いラブストーリー)とは大違いで、実にシリアスな映画となっています。

(1)原題は「The Private Lives of Pippa Lee」であって、まさにこのタイトル通りの内容になっているのです。
 評論家の服部弘一郎氏がいうように、邦題の方が「「ピッパ・リーの私生活」よりは観客にアピールすることは間違いなさそう」です。とはいえ、いくらなんでもあまりにかけ離れているといわざるを得ません〔いったいアメリカでは原題で観客を呼べるのでしょうか?〕。
 最後までこの邦題のことが気にかかって、あまり映画に入り込めませんでした。

 ただ、ほかにも問題点はあると思います。
 この映画では、原題の「ピッパ・リーの私生活」にしたがって、小さい頃、若い時、そして50歳の今の生活状況が映し出されます。ですが、それぞれが別々の物語となっていて、一人の女性像にうまくまとまらない感じがしてしまいます。
 特に、ブレイク・ライヴリーが演じる若い時分のピッパ・リーは、麻薬とセックスに溺れる大層荒んだ生活を営み、その母親の隠れた生活を見せる小さい時分とはなんとか接続していると思われるものの、ロビン・ライト・ベンが演じる落ち着いた50歳の美貌の女性とは、あまりにも落差がありすぎるのです。

 また、若いピッパ・リーは、30歳年上の小説家と結婚し、それまでの荒廃した生活から足を洗うようになります。ただ、その際に小説家の元妻は派手な事件を引き起こします。元妻がそうするのもわからないではないところ、それが余りに唐突であり、逆にそうであれば、現場にいたピッパ・リーは、簡単にはその衝撃から逃れられないと思われるにもかかわらず、のちに夫の不倫の現場を見つけたくらいで立ち直ってしまうのは、なんだかご都合主義だなと思いました。

 さらに、ピッパ・リーの小さい時分の母親との関係を強調するためでしょうか、自分の娘との関係もうまくいっていないように映画では描かれています。ですがこの関係も、ごく些細なことで正常に戻ってしまいます。だったら、わざわざ反抗的な娘に仕立て上げずともよかったのではないか、この点もまたご都合主義といわれても仕方がないのではないか、と思ってしまいます。

 50歳になったばかりの主人公のピッパは、夫に従って、現役を引退した高齢者が多く暮らすコミュニティに引っ越すことになります。目につく人たちはみな養老院にいるような人たちばかりですから、隣の友人の息子のクリス(キアヌ・リーヴス)に関心を持つようになるのも当然なのかもしれません。
 そこら辺りはこの映画ではじっくりと描かれていて、十分説得力があるように思いました。
 ただ、ラストは、ピッパとクリスが新しい生活を求めて車で旅立つ場面となるものの、移動の最中は新しい生活のことで頭が一杯になるにせよ、新天地に落ち着いて日常生活に入った途端に、これまでと大差ない退屈な日々の繰り返しになるのは目に見えているのではないでしょうか?

(2) ところで、この映画では、主人公と深い仲となるキアヌ・リーヴスの胸には聖人の刺青(タトゥー)が大きく施されています。そこで、刺青について若干触れてみようと思いましたが、長くなりそうなので、明日の記事といたします。

(3)総じて評論家の評価はまずまずのようです。
 服部弘一郎氏は、「映画自体は「恋愛白書」と言うようなロマンチックなものではない。50歳前後の人たちが経てきた人生の歩みをたどりながら、今ここからどうやって生きていくかを問いかける物語になっている」として70点を、
 渡まち子氏は、「センスのない邦題」ながらも、「豪華キャストの割には渋い人間ドラマの本作、いい意味で期待はずれの内容だった」として60点を、
 福本次郎氏は、「妻と母の役割をきちんとこなし、それなりに豊かな暮らしを送る50歳の主婦がふとした瞬間に感じる空白」、「愛や幸せなど幻想にすぎず、本心に嘘をついている、そんな家族の虚構に気付いてしまった彼女の心理がリアルに再現される」として50点を、
それぞれつけています。
 ただ、前田有一氏は、「なんと女性とは不自由な職業であろう」などと高見の見物的な位置に立って40点しか付けていません。ですが、「女性は常に受身であり、他者に引っ張られることでしか生き方を変えられないという残酷な事実」は、女性という「職業」に付着するものというよりも、むしろ男性との関係の中で生み出されるものと考えられるのではないでしょうか?

★★★☆☆

象のロケット:50歳の恋愛白書

束芋展

2010年02月27日 | 美術(10年)
 横浜美術館で開催されている「束芋―断面の世代」展を見てきました(3月3日まで)。

 「束芋」とは、“田端さんちの妹”というところから付けられたペンネームで、まだ30代半ばの女性ながら世界的に評価の高い美術作家で、今年はデビューからちょうど10年目ということでこの展覧会が催されたようです。

 束芋氏が特殊な形式のものを制作するため、なかなかその作品に触れる機会はありませんでした。実際に出会ったのは、2006年に同じ横浜美術館で開催された「ゴス展」に出展された映像インスタレーション「ギニョる」です。 
 これは、暗い部屋に入ると、上部に360度のスクリーンが設けられていて、そこに連続的に“手”が蠢く様子が映し出されるものです。色合いと言い、対象物の描き方と言い、酷く不気味な印象を受けました。

     

 さて、今回の展覧会では、2006年に朝日新聞夕刊に連載された吉田修一氏の小説「惡人」の挿絵の原画が、まるで絵巻物のように連続して全点が展示されています(注1)。

     

 小説の本文と切り離されて挿絵だけの展示となっているために、いま一つ理解できないところがあるものの(彼女によれば、各回の小説原稿の中からキーワードをピックアップして描いた、とのこと)、束芋氏がこのところ関心を集中させている“指”とか“手首”、“足首”が何度も描かれていて興味を惹かれました。

 それから、新作の5点の大型映像インスタレーションが展示されています。
 中でも興味深かったのは、「ちぎれちぎれ」と題された作品です。狭いベランダのような場所に鑑賞者は位置し、その前の距離を置いたところにはかまぼこ状のトンネルがあって、裸の人体が中に描かれています。その人体は連続的に変化し、たとえば手足がバラバラになって空中に飛んでいき、その様子が上の雲の間に描き出されるとともに、それは下の鏡に映ったりします。

           

 これらの作品は、どれも数台のプロジェクターを使って様々な形状をしたスクリーンに映し出されるもので、かつ映し出された映像は連続的に変化します。ですから、2次元の画像を収めたカタログとか画集などでは、その片鱗しか把握できず、実際に美術館に出かけて行って自分の目で見なくては全貌はわかりません(いくつかDVDも出されていて、そこでは作品を動画として捉えようとしていますが、結局は2次元的といえます)。それも、余り大勢の人が押しかけると、十分に鑑賞できない作品もあります(鑑賞者の足元に映像が映し出されたり、上記の「ちぎれちぎれ」のように、鑑賞する場所がごく狭い場合もあります)。そして展示の期間を過ぎてしまえば、見るチャンスはなくなってしまいます(それぞれのインスタレーションはかなりの広さを必要としますから、個別に切り離すにしても常設するのは難しいでしょう)。
 新しい作品の姿といえるのではないでしょうか?

 なお、この展覧会のタイトルには「断面の世代」という副題が付いています。
 これは、束芋氏によれば、「大きな塊になることによって、世の中を大きく動かし、後の世代にも影響を与えて」いる「団塊の世代」に対するもので、「個に執着し、どんな小さな差異にも丁寧にスポットライトを当て」ている世代を指すとのことです。「大雑把に1970年代生まれ」の世代で、もちろん彼女もそこに入ります(注2)。
 そう思って展示された作品を見直してみると、たとえば、「惡人」の挿絵や「ちぎれちぎれ」などでは、人体のさまざまの部位に「丁寧にスポットライト」が当てられて、切断された肉体の部位がいろいろうごめいていますが、それらはそのままであって、決して全体を構成することはないように見えます。果たしてその先にはどんなものが見えるようになるのでしょうか?

(注1)この小説は、妻夫木聡主演で映画化(監督は『フラガール』の李相日、ヒロインは深津理恵)され、本年秋に公開される予定です。
(注2)一つ違いですから同じ世代に入ること、「小さな差異に丁寧にスポットライトを当て」ていること、作品から不気味な印象を強く受けること、などから、ジャンルは酷く違いますが、日本画家の松井冬子氏と共通するものがあるのでは、と思いました(「医学と芸術」展に関する記事の中で松井冬子氏に触れています)。

板尾創路の脱獄王

2010年02月24日 | 邦画(10年)
 『板尾創路の脱獄王』を渋谷のシアターNで見ました。

 最近、俳優や芸能人がメガホンをとることが増えているところ、中ではこの作品がよくできているという評判を聞きこんだので、見てみようということになりました。

(1)実際に見てみると、以前TV番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』でよく見かけた板尾創路らしい作りになっているのでは、と思いました。決してまともに物語が進行しないのです。
 例えば、まず、『脱獄王』という題名をつけているからには、牢獄からの脱出の仕方がいくつかは詳細に描き出されるのだろうと思っていましたら、取り外せる前歯の中に小さなネジ回しが仕掛けられていて、それを使って手錠を外せるとか、体のあちこちの関節を外せるので頭さえ通ればどんなところも通り抜けることができる、などといった断片的なことが示されるだけで、脱獄の一部始終が映し出されることはありません。
 また、厳重に閉じ込められている牢屋の中で、時と所を無視した歌を突然板尾が歌い出します(劇場用パンフレットによれば、歌ったのは中村雅俊の「ふれあい」で、あくまでも板尾の直感によっているとのこと)。
 それに、最初に出てくるタイトルクレジットが、途中でも繰り返し映し出されたりします。
 
 そうした作りにすることに何かしらの意味が込められているのであればとにかく、とてもそうは思えませんから、真面目に筋を追っている観客はズッコケてしまいます。

 その最たるものは、ラストのシーンでしょう。
 板尾が何度も脱獄を試みながらも、脱走後いつも同じ行動を繰り返すために、結局はすぐに見つかって牢獄に連れ戻されてしまいます。それが何度も何度も試みられるものですから、板尾が無意識的に脱獄を行ってしまう性癖を生まれながらに持っているのかもしれないと、観客は思うようになってきます。
 そうしたところ、ラスト近くになって、板尾が脱獄を繰り返す真の意味が明らかになります。なるほどこれは感動的な作りになっているな、と映画全体を見直そうとした途端に、ラストのラストで更にもう一つ大きなズッコケが披露されるのです。

 こうなると、この映画をまともに論評しても始まりません。監督と観客の化し合いと言ってもいいかもしれません。監督が、ヒョッと流れを外して“どうだ”と言ってきたら、観客は“ウム、そうきたか”とかわしつつ受け止める必要があるでしょう。監督がそうすることに、一々意味など見ようとせず、そのボケ方が意想外かどうか、面白いかどうか、だけを見ていけばいいのではないでしょうか?
 そうしたことからすれば、監獄を中心にして描かれているために、全般的にシリアスなトーンが覆いかぶさってはいるものの、コメディ映画そのものでしょう(注)。
 昨年公開された品川ヒロシ監督の『ドロップ』は、なかなか良くできていましたが、すこぶる真面目な映画でした。喜劇人としての自分のポジションをよく踏まえているという点では、この作品の方が頭一つ分先に行っているのではないかと思いました。

 なお、この映画の主役は板尾自身が演じていますが(セリフはほとんどありません)、先の『空気人形』といいこの作品といい、俳優として非常にいい味を出しています。

(注)例えば、福本次郎氏は、下記の(3)で触れる評論で、「刑務所という司法制度を愚弄するかのような鈴木の行為は、国家に対する挑戦状。舞台は昭和初期、まさに日本が軍国主義に向かう過程で、民衆が鈴木を「脱獄王」と英雄視する場面が権力への強烈な風刺となって効いている」と述べています。確かにそう見えなくもありませんが、いまさらこうした大上段に振りかぶった左翼的な見方を持ち出す必要もなく、持ち上げ過ぎと言うべきでしょう。

(2)まことに唐突ながら、板尾が演じる主人公が最後に閉じ込められる監獄島は、特に島に向かって板尾の乗せられた船が進んでいく様子は、どことなくアルノルト・ベックリーンの「死の島」の光景に似ているのではないか、とフッと思いました。



 ベックリーンの「死の島」は、全部で5つのヴァージョンがあるとされ、上記の絵は1880年の当初のものです(バーゼル美術館蔵)。
 『ベックリーン≪死の島≫』(三元社、1998年)を書いたフランツ・ツェルガーによれば、この絵については、画家が自身を英雄視し、島を自分の埋葬地としている、とする解釈が成立するようで、そうであれば、板尾が監獄島に向かうシーンと僅かながらオーバーラップするのではといえるかもしれません。

(3)評論家諸氏も、マアマアの評点を付けているようです。
 山口拓朗氏は、「ジャンルレスなうえに、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか、その境界線が確信犯的にぼかされている本作は、よくも悪くも板尾監督らしさを凝縮した、人を食ったような作品だ」として55点を、
 渡まち子氏は、「鈴木が、どんなに殴られ拷問されても脱獄を繰り返す理由は、なかなか感動的だ」が、「キャストに芸人仲間の友情出演が多すぎるので、せっかくのミステリアスな香りを削いでしまっているのが惜しい」などとして50点を、
 福本次郎氏は、「終盤まで小気味よいテンポで展開してきたのに、このラストシーンには一気に脱力してしまった。それが板尾創路の狙いなのかもしれないが。。。」として50点を、
それぞれ与えています。
 渡氏がこの映画に「ミステリアスな香り」を嗅ぎ取ってしまったのはチョットどんなものかなと思いますし、福本氏が「脱力」してしまったのは困ったことですが、マアこれらの論評は当たらずとも遠からずではないかと思います。


★★★☆☆


象のロケット:板尾創路の脱獄王

ゴールデンスランバー

2010年02月21日 | 邦画(10年)
 『ゴールデンスランバー』を吉祥寺で見てきました。

 伊坂幸太郎氏の原作を映画化したものは、これまで『アヒルと鴨のコインロッカー』、『フッシュストーリー』、それに『重力ピエロ』を見てきましたし、『クヒオ大佐』で類い稀な演技を披露した堺雅人が主役を演じもするというので、何はさておきと映画館に駆け付けたところです。

(1)実際に見てみますと、伊坂氏原作の4作品の中で、やはり『アヒルと鴨のコインロッカー』の一位は動かないものの、少なくとも二位にはなる出来栄えではないかと思いました。

 というのも、まず、『アヒルと鴨のコインロッカー』や『重力ピエロ』と同じように、この作品もまた仙台を舞台としているのです。主役の青柳青年が、仙台市内を所狭しと走りまくるのは、同市の地理をある程度知っている者には実に興味が惹かれる点です〔「勾当台公園」と聞いて、大体あそこだと分かれば言うことなしでしょう!〕。

 それに、主役を、今一番脂が乗り切っている堺雅人が演じていることも注目すべきでしょう。
 この映画では、単なる宅急便運転手にすぎない市民が、突然首相暗殺犯人にされるわけですが、日常生活を営んでいるときのあまり緊張感のない様子から、いわれなき犯人とされてなんとか逃げのびようとするときの真剣な表情への豹変ぶりは、この役者でないと出せないかもしれないと思いました。

 また、映画の中で重要な役割を演じることになるビートルズの「ゴールデンスランバー」は、アルバム「アビー・ロード」を聞いたときから好きな曲でした(この曲から、「Carry That Weight」へ、そして「The End」にいたるメドレーが実に格好いいので)。映画では、斎藤和義氏が歌っているとところ、またポールとは違った味わいがあるのではないかと思いました(注)。

 さらに加えれば、時事性の点でも面白さを持っていると思います。
 言うまでもありませんが、冒頭で総理がテロに遭って暗殺されてしまうのは、9.11事件をはじめとするテロ事件を思い起こさせますし、あるいは青柳青年によく似た人物が怪しい行動するところなどは、市橋事件を想起させます〔さらには、本人が思い当たらない事件で真犯人にでっち上げられてしまうのは、菅谷さん冤罪事件そのものといえるでしょう〕。

 そういった社会性・時事性を持つ作品でありながら、その点は前面に出さずに、あくまでも青春時代に築いた男女4人の強い絆を巡るお話というラインで描いているのが、この映画のいいところではないかと思いました。

 だから他方で、下記にもあるように、評論家の間で、「映像に力が感じられない」(小梶勝男氏)とか「権力による巨大な陰謀という部分は残念ながら迫力不足」(渡まち子氏)といった批判を招くのでしょう。
 ただ、9.11事件やその後のイラク戦争などを見ても、テロの背後にいる黒い組織はとらえどころがないようであり(ビンラディン!)、たとえその組織を力でつぶしたとしても不死身のごとく蘇ってくるようでもあって(アフガニスタンのタリバーン!)、むしろキチンと描き出さないでいた方が、そしてむしろ学生時代の友情の復活劇といった小市民的なドラマに徹する方が、かえってその不気味さが際立ってくるのではないでしょうか?

(注)アルバム「Abbey Road」に収録されているのは「Golden slumbers」と、一つの言葉として繋がっているわけではなく、それも複数形なのに、伊坂氏の小説の題名もこの映画のタイトルも単数形で一つの言葉となっているのは、著作権の関係からなのでしょうか?

(2)この映画では、仙台市内に敷かれている下水道管が重要な役割を果たしています。
 地下の下水道に重きが置かれている物語は、これまでも随分あると思われます。古くは小説『レ・ミゼラブル』でしょうし、これまで何度か映画化された『オペラ座の怪人』とか、ポーランドの「ワルシャワ蜂起」を描いたワイダ監督の『地下水道』(1956年)もあるでしょう。

 ちなみにここでは、以前の記事で触れた松浦寿輝氏の『川の光』(中央公論新社)を見てみましょう。
 川の工事で巣穴を追われたクマネズミ一家は、しばらく市立図書館に住み着きますが、やはり川辺に巣穴を見つけ出すべくそこを後にします。ただ、ドブネズミの縄張りを迂回して川岸に出ようとして、下水道を利用します。

 「浅い流れのわきに、水に足を取られずにネズミが走ってゆく程度の余地はある。しかし、下水道の床面は側面にかけて湾曲しているし、何やらわからぬもので足元がぬるぬるしているので、三匹とも何度も足を滑らせて汚水のなかに転がって、皆たちまち泥だらけになった。……」(P.104)

 映画の青柳青年も、おそらくはこんな感じで地下の下水道の管の中を走ったのではないでしょうか?

(3)映画評論家は総じて好印象を持ったようです。
 小梶勝男氏は、「いろんな場面がサラッと流されてしまって、映像に力が感じられない」としながらも、「十分に面白いことは認め」るとして80点をつけていますし、
 渡まち子氏は、「仲間たちとの信頼を唯一の武器に走る主人公に、いつしか感情移入してしまい、あれよあれよの大逃亡劇も思いがけず楽しめた」として60点をつけています。
 中で、前田有一氏は、70点をつけながらも、あろうことか先ず「いま民主党政権はいわゆる外国人地方選挙権を推し進めようとしていること」を持ち出してくるのです。
 評論の途中では、この作品は「基本的にはポリティカルサスペンスではなく、コメディを交えた友情ドラマ」だとしていて、そんな問題とは自分は無関係だという素振りは見せているものの、前田氏の関心は、この作品よりもむしろ政治の動向に向けられていることは明らかです。なにしろ、民主党政権は、「内閣に反対派の亀井大臣を入れている時点で、本気で通す気などゼロではないか」などと、政治評論家まがいのことを書いているくらいなのですから〔政府の方で通す気がないというのなら、わざわざ映画評論の中でそんな政治問題を取り上げる必要など端からなかったでしょうに〕!

★★★★☆

象のロケット:ゴールデンスランバー

ジャポニスム

2010年02月20日 | 美術(10年)
 2月6日の記事で取り上げたジェームズ・アンソールは、日本にかなり関心があったようです〔その記事の注において触れましたように、2004年に東京都庭園美術館で開催された「ジェームズ・アンソール展」では、葛飾北斎の絵手本『北斎漫画』を模写したデッサンが10点近くも展示されました〕。



 上記の絵も、「シノワズリー」(1907年)とのタイトルながら、明らかに日本の浮世絵や団扇などが的確に描かれています。

 としたところ、丁度現在、」東京駅近くにあるブリジストン美術館で開催されている「美の饗宴―東西の巨匠たち」展(4月11日まで)では、西洋絵画に見られるジャポニスムが紹介されています。



 シャルル=ルイ・ウダールの「蛙」(1894年)



 アンリ・ラシューの「装飾パネル」(1893年)



 オットー・エックマンの「五位鷺」(1896年)

 ただ、上で紹介した絵は、日本画の純然たる模倣ともいえ、西洋絵画自体にどのような影響を及ぼしたのかはこれだけでは分かりません〔とはいえ、19世紀末に、これだけ日本画を模倣した画家がヨーロッパにいたとは驚きですが!〕。

 美術館のHPには、次のような解説が見られます。
「ドガやモネら印象派の画家たちは、浮世絵などから日本的な要素を学んで取り入れました。例えば人物や事物を画面の端で断ち切って、スナップ写真のような瞬間性や偶然性を表したり、左右のどちらかに主要なモティーフが片寄っていたり、一部が極端にクローズアップされたりします。また遠近法が人間の眼の高さの地平線や水平線に一つの消失点を持つのに対して、俯瞰的に上から覗き込むような構図や、「枝垂れモティーフ」のように枝先の部分だけを描いて、画面の外に柳の存在を暗示させるという手法は、きわめて新鮮なものとして受け取られました」。

 とすると、むしろ近代絵画の発展という観点から重要なのは、下記のモネの「睡蓮」(1903年)とかドガの「踊りの稽古場にて」(1895-98年)の方なのでしょう。






 今回の展覧会では、HPに掲載されている案内文をザッと読んだだけですが、ジャポニスムにかかわる様々な絵画が中心的に紹介されているものと思っていました。ですが、こうした絵画が見られるのは、全体で140点ほどの展示の中で、わずかに30点足らずに過ぎません(「第2章日本美術との出会い」の部屋)。
 驚いたのは、「東西の巨匠たち」展の最初の展示室に入ると、すぐに目に付くのはレンブラントの絵画なのです。一体、レンブラントは日本画の影響をどうやって受けたのだろうと思ってしまいました。
 むしろこの展覧会では、ジャポニスムの紹介はほんの一部であって、全体としては西洋絵画と日本絵画(洋画)の移りゆきが展開されしています。美術館のHPの案内文には「西洋と日本の相互の影響関係を軸に」とあるところ、元々日本の洋画は西洋絵画を習得してはじめて出来上がったわけですから、「相互の影響」といっても、「ジャポニスム」を除いたら“一方的”なものでしかないはずです。
 結局のところは、今回の展覧会もこれまでと同様、それぞれの流れに従って順番に絵画を展示するだけのことに終わってしまっているように見受けられました〔つまらない揚げ足取りですが、ウダールは別にしても、ラシューとかエックマンを“巨匠”と呼べるのでしょうか?〕。

フローズン・リバー

2010年02月17日 | 洋画(10年)
 『フローズン・リバー』を渋谷シネマライズで見ました。
 予告編を見てこれは良い映画に違いないと思ったので、公開されたら早速見に行ってきました。

(1)実際にも、予想に違わず感動的な映画でした。
 映画は、アメリカ東部のセントローレンス川を間に挟んでカナダにも広がるインデアン保留地での物語であり、まさに初めて見る地域の様子ですからそれだけでも興味深いところ、画面に何度も登場する凍てついた川のように、描かれている二組の親子の生活も実に寒々しいものの〔アメリカにおける貧困の問題!〕、そんな中にあっても、映画に登場する二人の母親の人間性は土壇場で損なわれず、雪解けする春以降には光明が期待されるラストになっていて、観客には大きな感動がもたらされます。

 演じる俳優たちも、日本では余り知られていなものの、大層充実しています。
 この映画で女性の主人公レイを演じるメリッサ・レオは、働き口で得られるわずかな賃金を貯めて拵えた住宅購入資金を夫に持ち逃げされ、子供二人とトレーラーハウスに取り残されるという惨めな役柄を、素晴らしい演技力で演じています。
 また、レイと組んで東洋人の密入国をサポートするライラを演じるミスティア・アップハムも、インデアン・モホーク族の女性を、存在感のある演技で演じています。

 今少し内容に立ち入ると、この作品は、昨年見た韓国映画『母なる証明』の米国版とも言えるかもしれません。
 両者とも、男女の関係はほとんど描かれていません。二つの作品とも父親はまったく登場しないのです。といっても、『フローズン・リバー』では、長男が何度も「父親はどうした、なぜ探そうとしないのか」と母親につめよったりするので、マイナス要因としては存在しているかもしれないところ、『母なる証明』では全く何の言及もされません〔ただ、『母なる証明』では、息子の友達と愛人の関係が、若干描かれてはいます〕。
 いずれにせよ、二つの作品では、母親の子供に対する大きな思いがじっくりと描かれています。そうした思いが強すぎるのでしょう、どちらにおいても母親は犯罪に手を染めてしまいます。
 
 とはいえ、むしろ、違う点の方が多いとも思えます。
 『母なる証明』の方は、一組の母と子の関係が描かれているところ、『フローズン・リバー』の方は、二組の母と子の関係が映し出されています。
 さらに、『母なる証明』における母親は殺人事件を引き起こしてしまいますが、『フローズン・リバー』では、レイによって犯される罪は密入国の幇助に過ぎません。ただ、前者では、殺人の事実は明らかにされないために母親は警察に捕まらない一方、後者においては、レイは簡単に捕まって、4か月の刑務所入りになってしまいます。
 また、『母なる証明』における息子は知的障害者で、自分がやったこと〔女子高生を殺害〕を十分に認識できません。他方、『フローズン・リバー』における長男は、なんとか家計を助けようと売れる見込みのないメリーゴーランドを作ったり、詐欺事件を引き起こしたりしますが、マア普通の男の子でしょう。
 加えて、なんといってもやはり、『母なる証明』における母親と息子の関係には、東洋的な粘度の高さが強く感じられる一方、『フローズン・リバー』の母親・レイは、息子の将来における自立を考え、できるだけ一個の人格として扱うようクールに対応していると言っていいでしょう〔いわゆる西欧的なのでしょうか〕。

(2)ところで、この映画を見た直後に、吉村仁著『強い者は生き残れない―環境から考える新しい進化論』(新潮選書、2009.11)を読みましたら、その中に「個体選択」と「集団選択」という概念が論じられていました。
 すなわち、進化論では、集団選択(「生物は種全体に有利になるように行動する」という考え方)は極めて限定的とされ、個体選択(「生物が行動する動機は、必ず個体の利益になり、自分の子孫をヨリ多く残すことにつながらなければならない」とする考え方)による見方が一般的には定着している、とのことです。
 要すれば、身の危険を冒してまで溺れている他人の子を助けようとする「利他行動」は、一般の進化論では排除されてしまうようなのです。

 ですが、進化論からは排除されていても、実際には様々の生物がイロイロな利他行動をとっているのを目にします。そこで、「集団レベル選択」(「種」というレベルではなく、「村落」などのレベルで「集団選択」を考える)とか「血縁選択」(血縁度の高い相手に対しては利他行動をする)といった考え方も提起されています。

 では、映画『フローズンリバー』で、主役の母親レイがラストでとった“利他的”な行動(自分が刑務所に入るという犠牲を払うことによって、もう一人の母親ライラが自分でその赤ん坊を育てられるようにした)は、どのように進化論的な見地からは説明されるのでしょうか?

(3)評論家の皆さんは、総じて高い評価を与えています。
 山口拓朗氏は、「クライマックスで用意される究極の選択において、レイとライラの思いは完全にクロスする。ふたりがそれぞれに下した決断が意味する"慈愛"と"救い"こそが、この映画の真価だと断言してもいい」などとして85点もの高得点を、
 渡まち子氏は、「全編、雪と氷の寒々しい映像が続くのだが、母として女性としてしっかりと前を向く彼女たちの姿に心が震えた」。「派手なアクション映画や、TVの延長のようなドラマが悪いとは言わない。だが、地味でハードだがクオリティは極めて高いこんな秀作を見てこそ映画ファンだ」として75点を、
 福本次郎氏は、「女の友情、弱い者同士の互助精神、そして何より子を想う母の気持ち。そこでレイは己にできる最善の道を選ぶことで、ライラ母子も自分の息子たちも幸せに暮らせるように計らう」。「ラストシーンは、貧しさの中でも世の中捨てたものではないという希望に満ち溢れていた」として70点を、
それぞれつけています。

 山口氏の評点はあるいは高すぎるかもしれませんが、いずれの評論家もラストシーンにいたく感動したことは間違いないようです。

★★★★☆


象のロケット:フローズンリバー

今度は愛妻家

2010年02月14日 | 邦画(10年)
 『今度は愛妻家』を渋谷TOEIで見てきました。
 どうもなかなか評判が良さそうなので、足を運んでみた次第です。

 この映画には、大きく言って問題が二つあるかもしれません。
 一つめは、戯曲の映画化という点です。
 映画の設定場所が雑司ヶ谷の鬼子母神近くと酷く具体的で、かつ沖縄の海岸をバックにしたエピソードが出てくるものの、わざわざそんな映像を出さずとも済みそうでもあり、また、写真家の家の中の場面が長く、人の出入りが2か所のドアを通じてなされるようなところから(上手と下手でしょう)、どうやら戯曲を映画化したものかなと思って見ていましたら、劇場用パンフレットにも、2002年に上演された舞台作品(作・中谷まゆみ)とあります。

 もう一つの問題としては、評論家諸氏が指摘しているのですが、ストーリーをもっとシンプルにすべきではないか、という点です。
 例えば、小梶勝男氏は、「どんでん返し以降の水川あさみと濱田岳の恋愛劇や、北見家に出入りするオカマ(石橋蓮司)らとのクリスマス・パーティーの場面がだらだらと長すぎて、せっかくの「喪失感」が薄まってしまった。豊川と薬師丸のカップルに若いカップルを対比させ、物語に重層性を持たせようとしたのだろうが、単純に夫婦の話に絞った方が感動は大きかったと思う」と述べ、渡まち子氏も同趣旨のことを書いています。

 とはいえ、私にはそうした問題は欠点としては映らず、むしろこの映画のもたらす感動の方がずっと大きいものがあるのでは、と思いました。
 まず、戯曲の映画化ですが、私は、セリフの言い回しに新劇独特の臭みさえなければ、問題ないのではと思っています。いわゆる新劇の場合、やたらと明瞭に発声したり、オーバーな身振りをすることが多いのですが、まるで小中学校の学芸会を見ているようで、眼を背けたくなってしまいます〔因果関係はむしろ逆で、新劇の舞台の雰囲気を小中学校の学芸会の方で取り入れているのでしょう!〕。
 ですが、この映画では、主要な出演者が新劇関係者ではなく専ら映画人であることもあって、そうした新劇調はあまり見受けられませんでした。

 ですから、あとはストーリーと出演者さえよければ、私にとっては戯曲の映画化でもかまわないことになります。

 そのストーリーの要は、薬師丸が、「知らなかったな。私のことそんなに好きだったなんて。何で言ってくれなかったの」といったようなことを豊川に話すところにあると思われます(もう一つ、豊川が、「なんか新鮮なことを言ってくれよ」と言うと、薬師丸が「そんなことを言われても困るよ」と返事をする場面でしょうか)。
 これ以上のことを書くと、この映画の良さの大半が吹き飛んでしまいますから控えますが、映画は映画なりに(暗室を使って)、実に巧みにこの場面に辿り着いたものだとホトホト感心いたしました。

 そして、なによりこうした物語を演じる豊川悦司と薬師丸ひろ子とが、実にうってつけの役柄についているなと心底思わされました!
 薬師丸ひろ子については、若い時はその類い稀な可愛らしさでファンを増やしましたが、現在でも驚くべきことにその可愛らしさは十分残っている上に、大人の風情も兼ね備わっていて、後姿の写真だけで感動してしまいます。
 その上、豊川悦司も、芸術家の独りよがりなところと、思っていることと正反対のことを口に出してしまうという日本男性の良くありがちな特性とを実にうまく出して演技しているな、とこれまた感服しました。

 なお、2つ目の問題であるサブストーリーの是非ですが、確かにメインのストーリーで足りるかもしれないところ、メインがかなり重いものである場合には、この映画のようなサブを設けて、息抜きを図るということも必要であって、決して余計なものではないと思いました。むしろ、こうした現実のドタバタがあるからこそ、メインの悲しみが一層際立つのではないでしょうか?

 というわけで、この映画には大層感動し、結果として、新年になって早くも、洋画の方では『ずっとあなたを愛してた』が、そして邦画ではこの映画がいきなり本年のベスト1になってしまいそうな感じになってしまいました(前田有一氏には、「甘い甘い」と言われてしまいそうですが!)。
 もっと良い映画が出現すれば、星5つの評価システムを星6つとか7つにしなくてはなりません!

 先の指摘はあるものの、映画評論家の評判も総じて良さそうです。
 小梶勝男氏は、「豊川と薬師丸はとても良かった。特に豊川は、表面的には軽薄に見えて、実は心に深い喪失感を抱えている男の役を、完璧に演じていたと思う。薬師丸もさすがに年はとったが、昔と変わらずチャーミングだった」として81点を、
 普段はかなり辛口の福本次郎氏も、「長年連れ添った夫婦だけがたどり着くなれ合いという名の愛情を、ほとんど室内の限定された空間の中で、ふたりのベテラン俳優が芝居のせりふのような間の掛け合いを見せる。一見古いホームドラマのようで、重い喪失感と後悔を含蓄に富む物語にまとめている」として70点を、
 また、渡まち子氏も、豊川悦司と薬師丸ひろ子の二人について、「本作でもピッタリ息があっている。特に健康オタクの妻・さくらを演じる薬師丸ひろ子の、可愛らしくて少し寂しげな雰囲気が印象的だ」などとして60点を、
それぞれ与えています。
 ところが、前田有一氏は、「私がうんざりしたのは、本作のとてつもないスイートさ、甘さである。せっかくいいストーリーなのに、その舞台世界には毒がなく、善人ばかりの甘い世界があるだけ。光あふれる明るい映像も甘い甘い。隅から隅までほとんどファンタジーな恋愛至上主義が広がっている」として40点しか与えていません。
 私には、先ほど触れた「知らなかったな。私のことそんなに好きだったなんて。何で言ってくれなかったの」という薬師丸の言葉の重さがあるだけで、「甘さ」など掻き消されてしまうのではと思えるのですが。


★★★★★


象のロケット:今度は愛妻家

おとうと

2010年02月13日 | 邦画(10年)
 『おとうと』を渋谷シネパレスで見ました。

 このところDVDは別として、映画館では吉永小百合の映画を敬遠していたのですが、山田洋次監督久々の現代劇であり、そろそろ見頃ではないか、それに私が丁度弟のポジションにいることでもあるし、ということで見に行ったところです。

 実際のところ、この映画における吉永小百合は、控え目で堅実な演技を見せていてマズマズでした〔鳥肌が立つような良妻賢母型のセリフだけは言わないでくれと願っていたところ、そんなシーンはありませんでした〕。彼女は、おそらくは実年齢よりも10歳程度若い設定の役を演じているものと思われますが、何の違和感もないというのは凄いことです。

 また、吉永小百合の弟役の笑福亭鶴瓶は、主演男優賞を獲得した『ディア・ドクター』以上に迫真の演技を披露していて、なかなかやるなと唸らせます。
 その他、吉永小百合の娘役の蒼井優も大層魅力的でした。
 したがって、総じて出演者には問題ないと思われます。

 ただ、ストーリーとか映像の面ではいくつか問題があるのでは、と思いました。
 特に、このお話の設定は現時点と推測されるものの〔なにしろ、ホスピスが設けられているのですから!〕、正直のところ、この映画からは高度成長あたりの日本の姿しか読み取れませんでした(ヤヤ言い過ぎですが)。
 というのも、吉永の娘である蒼井優が最初の結婚(相手は医者)でうまくいかなくなるきっかけが、親族にできの悪い叔父(鶴瓶)がいることが露見したためであったり、その2度目の結婚相手(加瀬亮)が職人(大工)であったり、というのは、現時点からするといかにも図式的で、作り物めいています。
 なにより、吉永が、早くに夫を亡くし、女手一つで娘を育ててきたという設定も、シングルマザーといえば今風ですが、未亡人とその娘と言えば昔風のことになってしまいます〔夫の母親が残されていたために、再婚するのが難しかったのでしょうが、そうした設定も、余り現代的ではないように思われます〕。
 また、吉永たちが生活している家の造りが、まるで小津安二郎風で、今時こんな家はあまり見かけないのではと思われます〔ガラス戸の外に縁側があり、そこから庭に出ると物干しが設けられていて、夏の時期には風鈴が鳴っているとは!また、旧式の小さなTVがタンスの上に置かれていたりします〕。

 ですから、映画の後半では、鶴瓶が行き倒れになって、結局は「ホスピス」に担ぎ込まれる場面となるところ、突然現代的問題に直面させられるようで、唐突でなにかそぐわない感じ(無理矢理接合されたような感じ)がしてしまいます。
 特に、ホスピスの所長(小日向文世)やその娘(石田ゆり子)が、いろいろ「ホスピス」の仕組みなどについて説明しますが、映画の流れがそこで断ち切れてしまい、何だこの映画は結局は「ホスピス」のPR映画なのか、とも思えてきてしまいます(注)。
 それに、人は必ず死ぬものであり、それも若ければ不条理を感じさせるとはいえ、鶴瓶くらいの年齢の者が死ぬことについてそれほど長々と映像で描かれても、という感じもになります。

 この作品は、日本の家族を描き続けてきた山田洋次監督の集大成的なものとされますが、その家族が今や大きく変質しつつある、という方を見ないで、旧来の枠組みの中で家族を描き出そうとしているのでは、と思われました。

 ただ、評論家たちの評価は大体高そうです。
 福本次郎氏は、「物語は、そんな姉と弟の腐れ縁を人情味あふれるタッチで描く。親ならばたいてい先に死ぬが、姉はほぼ同時に年をとる。幼いころから弟の素行を知っている、血縁の濃い姉という立場の微妙な距離感と戸惑いを吉永小百合が上品に演じ、彼女が口にする言葉の美しさが映画に品を与えている」として、80点もの高得点を与えています。
 前田有一氏も、「奇手に逃げず、昔ながらの定番の技術のみで、堂々と見せる風格ある映画という意味で」、「これこそ横綱相撲だなという感じを受ける」として75点を付けています。
 渡まち子氏は、「映画冒頭に山田洋次監督自らの作品の映像を巧みに使って、戦後の日本の価値観の変遷を一気に説明するパートが印象的。山田監督のテーマは、一貫して家族とは何かを問うものだが、彼のフィルモグラフィーを見れば、日本人が失くしてしまった大切なもののリストが出来てしまいそうでやるせない」などとして60点を与えています。

 ちなみに、山田洋次監督の前作『母べえ』に対する評点は、福本氏が50点、前田氏が30点ですから、見違えるように高くなったと言えます。
 ただ、渡氏については、前作が65点ですから、理由は分かりませんが、むしろ評価が下がったと言えるかもしれません。

(注)こう述べたからといって、当然のことながら、ホスピス自体を批判するわけではありません。劇場用パンフレットには、この映画の「みどりのいえ」のモデルとなった山谷のホスピス「きぼうのいえ」について、参考文献が記載してあります。
 一つは、「きぼうのいえ」施設長である山本雅基氏が書いた『山谷でホスピスやってます』 (じっぴコンパクト新書)で、もう一つは同じ施設をルポルタージュした中村智志著『大いなる看取り』(新潮文庫)。前者には、山田洋次監督の序文が掲載されており、また後者には、山田監督に対する著者のインタビューが載っています。
 それに、この映画には「きぼうのいえ」入居者が4人も出演しており、またそこでパストラル・ハープを演奏しているキャロルさんも映画に登場します。
 これらはそれ自体はどれもとても素晴らしいことだと思います。
 ただ、失われつつあるホノボノとした日本の良き姿といった感じのものをここまで描いてきた映画の中に、こうした「きぼうのいえ」的なものを入れ込もうとすれば、それは唐突な印象しか与えず、ですから映画の中でこの「ホスピス」の仕組みといったものを観客に向かって説明せざるを得なくなって、物語の流れがそこで断ち切られてしまっているのではないか、と思いました。


★★★☆☆

象のロケット:おとうと

Dr.パルナサスの鏡

2010年02月10日 | 洋画(10年)
 『Dr.パルナサスの鏡』をTOHOシネマズ六本木で見ました。

 『ダークナイト』のジョーカー役が忘れられないヒース・レジャーとか、『パブリック・エネミーズ』で活躍したばかりのジョニー・デップなどが出演するとあって、公開されてから1週間もたってはいませんでしたが、見に行ってきました。

 この作品の物語は、設定が現在で舞台はロンドン。ただ、そこに登場するのは、「Imaginarium」という幻想世界を見させてくれる道具を操る見世物一座で、それは馬が牽いて移動したりしますから、どうしても19世紀以前の感じが付きまといます。
 加えて、その座長・パルナサス博士の年齢が1000歳だとか、さらには悪魔も登場しますから、マア現代のお伽話でしょう。

 この映画の特徴は3点あると思います。
・まず、かってない豪華メンバーが登場すること。
 すなわち、主役のヒース・レジャーは、この旅芸人一座の客寄せ人を演じますが、撮影途中で亡くなってしまい、ジョニーデップ、ジュード・ロウ、そしてコリン・ファレルがその代役を務めています。
 と言うと、継ぎ接ぎのかなり変な映画だと思われかねませんが、「Imaginarium」に設けられている鏡の向こう側の世界にヒース・レジャーが飛び込むと、この3人になり替わるというように描かれていますので、全く違和感なく受け止めることができます。
・次に、その鏡の向こう側の幻想世界が、常識では考えられないくらい突拍子もないものに描かれているということ。
 まあCGの世界ですからどんなものでも描けるのでしょうが、デズニー映画とはまた質の違った面白さがあると思いました(あるいは『チャーリーとチョコレート工場』の世界に類似しているのでしょうか?)。
 ただ、そのファンタジックな世界で、3人が縦横に活躍すると、この映画の本来の主役であるヒース・レジャーの影がかすんでしまう結果ともなりかねないのですが。
・最後に、パルナサス博士の娘役で登場するリリ-・コールです。
 この女優は、1月下旬の『週刊文春』のグラビアにも登場しています。それによれば、ケンブリッジ大で学ぶ才媛である一方で、スーパーモデルでもあるとのこと。秋川リサによく似た感じの顔つき(「ドール顔」というそうです)で、まだ21歳ですからこれから活躍することでしょう!

 こういう映画は見ていると、なぜか無性に嬉しくなってきてしまいます。

 無論、問題がないわけではないでしょう。
 現代のお伽話とはいえ、どうしてこんな話を今しなければならないのか、いきなりうらぶれた見世物一座が現れても、唐突過ぎてなかなか物語に入っていけないではないか、悪魔がマジで登場するにはもう少し何等かの手続きが必要なのでは、などなどです。

 とはいえ、やはり、鏡の世界の素晴らしさの前には何を言ってみても始まりません。ただただ、その幻想の比類なさを楽しむべきでしょう。

 評論家の皆さんも、おおむねそんな感じでいるようです。
 おすぎは、「「ところがどうでしょう。オープニングからこれはスゴイ!!何時もと違う、いや、そんなことよりスクリーンに目が釘付けになってしまいました」と高く評価します。
 渡まち子氏も、「複数一役は他の映画でも時折みかけるが、ルックスの変化を人間の欲望の多様性として用いると、物語と絶妙にシンクロする。苦肉の策とはいえ、結果的にこれが本作のエッセンスになった」などとして65点と、マズマズの評点です。
 ですが、前田有一氏は、「鏡の中の世界は、まさにテリー・ギリアムワールドで、本作最大の見所。よくこんなものを思いつくなと思わせる、不思議なファンタジー世界の具現化には、誰もが驚かされるに違いない」としながらも、ジョニー・デップらについて、「彼らが出てくるたびにかなりの違和感というか、ヒースの死という現実に戻されてしまう」として55点氏か与えません。
 さらに、福本次郎氏となると、「パルナサスがいざなう空間は、目を見張るような色彩やめくるめくようなスリルを味わせる映像とは程遠く、絵本に描かれているような控え目な描写」となっているが、「撮影途中で亡くなったヒース・レジャーの役をジョニーデップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルといったスターが演じることで、CGに回す予算がなくなったのかと変な勘ぐりをしてしまうのだが。。。」と、相変わらずピンが1本はずれたような論評をして50点です。


★★★☆☆

象のロケット:Dr.パルナサスの鏡

ミレニアム

2010年02月07日 | 洋画(10年)
 「ミレニアム  ドラゴン・タトゥーの女」を渋谷のシネマライズで見てきました。
 この映画は、デンマーク映画『誰がため』を見た直後で北欧にやや関心が向いていることもあって(注1)、原作を読んだばかりでオチを知っているとはいえ、ぜひ見てみたいと思っていました。

 この映画のヒロインに関し、前田有一氏は、「脱ぎっぷりのいい期待の新鋭ノオミ・ラパス演じるヒロインも、キャラクターがつかみにくく感情移入しにくい。常識離れしたいでたちで、男性不信な若い女の子だが、もう少しチャーミングさを感じさせてくれれば、主人公との関係にも説得力が生まれ、今後のシリーズの吸引力にもなりえたのではないかと感じる」と述べています。

 加えて、こちらは原作を知っているから理解できるようなものの、ヒロインのリスベットが、どうして後見人の弁護士の監視の下に置かれているのか(なぜ自分の口座から自由に預金を下ろせないのか)、そして、なぜあのようにぶっきらぼうな態度をとるのか、等々、この映画だけを見ている観客には十分にフォローできない点がいくつもあるのではないかと思いました。

 それだけでなく、前田氏は、「多数の人物名などが飛び回り、把握しきれぬほどの情報量もあって、物語についていくのは結構きつい。私もその一人だが、これはどう見ても未読者向きではないだろう」とも述べています。
 そうした点はないことはないと思われます。例えば、犯人が特定されるに至っても、それまでこの犯人が主人公のジャーナリスト等とすこぶる良好な関係にあったことが映画では十分に描き出されていないがために〔たくさんの登場人物一人一人について、もっと時間をかけた描写が必要でしょう〕、原作を読んでいない観客には、それほど驚きをもたらさないのではないか、とも見ていて思いました。

 実際のところは、この映画は、あの長い原作(邦訳は2巻本)にかなり忠実に作られているように思われます。
 原作では、リスベットは、一見したところでは魅力が余りないような女性として描き出されていますから(注2)、ヒロインを演じた女優ですら出来過ぎの感じもします。
 また、原作では、いうまでもなく映画以上にたくさんの人名がちりばめられていて、短時間で読み切ってしまう場合は別として、なかなか覚えきれないほどです〔原作本に付録として付いている「登場人物」表は、随分と助かります〕。

 とはいえ、いくら何でも原作を完全に映画化することは不可能ですから(またそうする意味もないでしょう。映画と小説とは別物なのですから!)、省略されているところも多くあります。
 一番目につくのは、主人公の女性関係です。
 原作では、雑誌『ミレニアム』の編集長エリカの役割が大きく、主人公のミカエルとは肉体関係を持っています(その夫が公認する三角関係!)。ところが、映画では、あまり魅力的ではなさそうな女優がエリカを演じており、かつまたほとんど何の役割も果たしません。
 また、原作では主人公は、ヴァンゲル家の女性とも肉体関係を持つに至りますが、他方、映画においては、主人公はリスベットとしか肉体関係を持ちません。
 言ってみれば、映画では、原作に登場する女性をリスベット一人に集約させているといえるのかもしれません。

 無論こうでもしなければ、とても一本の映画の中に物語を納めるのは不可能でしょう。
 ただ、そのように改変するのであれば、ヒロインのリスベットを、映画においては、「もう少しチャーミングさを感じさせてくれ」る女優が演じることで、もっと魅力的な女性に描き出しても、あるいはよかったのかもしれません。
 ですが、リスベットは、パソコンの隅の隅まで知り尽くしている天才的ハッカーという設定であり、かつまたアスペルガー症候群の患者かもしれないとされていて(リスベットの場合、画像記憶に秀でています)、なまじ魅力的な女優ではこなせない役柄ではないかと思います。
 そうしてみると、主人公のミカエルを演ずる俳優も、こちらが思い描いていたよりも年齢が高い感じで、かつ中年太りしていてあまり魅力的ではありませんが、リスベットと愛人関係になるのには、ある意味でうってつけの役者と言えるかもしれません。

 また、主人公のヴァンゲル一族に対する調査は、原作においては、紆余曲折を経て随分の時間をかけて行われ、その挙句の真犯人の解明なのですが、映画においては随分とテキパキと真犯人にぶち当たるように描きだされています。
 そこまでするのであれば、映画に登場する人物を、もっと大胆に刈り込んでもよかったのかもしれません。
 とはいえ、そんなことをすれば、どこにでも転がっているありきたりのつまらない通俗作品になってしまうのではないでしょうか〔猟奇殺人事件の解明〕?
 大所帯のヴァンゲル家の暗闇に、ミカエルとリスベットの二人だけが立ち向かって真相を解明していくという姿が、映画を見ている者に緊張感をもたらします。

 という具合に、この作品は様々な欠点を持ってはいるものの、映画のように描き出すことにも一理あり、かつまたこの映画はそれ自体としてなかなか重厚な物語を描き出しているのではないか、まずまずの出来栄えといえるのではないか、と思いました(注3)。

 なお、この映画を見たいなと思った理由の一つに、この非常に面白いミステリが展開する場所が実際にはどんな感じなのか確認してみたいということもありました。映画を見ますと、想像以上に素晴らしい景色であり、ストーリーを追いながら、それらの景観にも堪能したところです。

 評論家の論評を見てみますと、
 前田氏は、先に述べた点に加えて、「ムードはいいだけに、もう少しストーリーを面白く見せることができなかったものかと、残念に思う」として30点を与えています。
 ですがこれでは、この映画の仕上がり具合からいって低すぎる点数ではないかと思います。
 やはり、渡まち子氏が言うように、「2時間半を超える長さだが退屈とは無縁で、ミステリーの規模も壮大。大いに見応えがある。ただ、原作ファン以外も見る、映画の構成としては果たしてどうなのか」というところで、65点も適切ではないかと思います。

 ただ、いつも辛口の福本次郎氏は、「大昔に起きた失踪事件を洗いなおす主人公が、警察も解明できなかった真相を突き止めていく過程がアイデアに満ち溢れ、地道にパズルのピースを埋めていく作業とリアルな暴力が交錯し、スリルとインテリジェンスを兼ね備えた上質なミステリーに仕上がって」おり、「ミカエルとリスベットの記憶力と洞察力・行動力と技術力が見事に一体となって一枚の写真から真相を解き明かす壮大なドラマは一瞬も目が離せなかった」として80点もの高得点を与えています。
 主人公に調査を依頼したヘンリックの「一族に熱心なナチス信奉者がおり、その思想からユダヤ人排斥、さらに聖書の言葉にヒントを得た連続猟奇殺人」が引き起こされるという社会性が色濃く出ているミステリー映画に、福本氏はいたく共感するものがあったと思われますが、やや高すぎる評価ではないか、と思いました。

(注1)北欧の映画については、スエーデン映画は、昔、ベルイマン監督の映画をよく見たことがあり、またフィンランド映画も、2年以上前になりますが、カウリスマキ監督の『街のあかり』を見たことがあります。デンマーク映画も見たとなると、残るはノルウェー映画ですが、ナント13日から『処刑山 デッド卍スノウ』というホラー映画が公開されるようです。ただ、酷くグロテスクな内容とのことですので二の足を踏んでしまいます。
(注2)例えば、「髪を極端に短く刈り、鼻と眉にピアスをつけ、拒食症のようにやせた青白い肌の娘である」とか、「骨のつくりが細いため、少女のように華奢で弱々しく見え、手は小さく、足首は細く、胸のふくらみを服の下に識別するのは容易でない。24歳だが、14歳くらいにしか見えない。口は大きく、鼻は小さめで頬骨が高いので、どことなく東洋人のような顔立ちに見える」などとあります(P.58)。尤も、「説明のつかない魅力」はあるとも書かれてはいますが(P.59)。
(注3)この映画の邦題は原作通りですが、原題は、原作とは違い「女を憎む男たち」というものです。ただ、映画の中で引き起こされる様々な猟奇的な事件が“女を憎”むから引き起こされたとするのは、一面的に過ぎるのではないか、と思いました。

★★★☆☆


象のロケット:ミレニアム