映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

冷たい熱帯魚

2011年02月27日 | 邦画(11年)
 『冷たい熱帯魚』をテアトル新宿で見てきました。土曜日の午後だったせいでしょうが、ほとんど満席の状況でした。

(1)この映画を製作した園子温監督の作品としては、最近では、『愛のむきだし』と『ちゃんと伝える』を見ています。前者は、オーム真理教事件を題材の一つにしていますし、後者では父親とその息子が同時にガンを患うという設定が設けられています。両者ともそれなりにかなり厳しい状況が描かれているとはいえ、本作品の内容はそれらをはるかに凌駕しているでしょう。
 特に、本作品は、実際に起きた誠に陰惨な事件(「埼玉愛犬家連続殺人事件」)に基づいているのですからなおさらです。
 といっても、映画はその事件をなぞろうというのでは全然なく、当該事件をヒントにしつつも、あくまでそれだけで独立した一個の作品を形成しているといえるでしょう。
 ですから、実際の事件では、首謀者夫婦は逮捕され裁判で死刑判決を受けているとか(確定)、その妻は映画の愛子ほど若くはない、共犯の男は、この映画の主人公とは違って3年の実刑を科されたものの、出所後に事件のことを書いた著書を出版している(注1)、などと論ってみても何も始まりません。

 では何が描かれているのでしょうか?
 この作品で主に描かれているのは、崩壊しかかっている家族ではないかと思います。
 外見上一番家族らしい形態がとれているのは、主人公・社本吹越満)の家庭。なにしろ、両親と娘が揃っているのですから。



 とはいえ、社本の現在の妻は後妻(神楽坂恵)で、娘(梶原ひかり)はこの継母を酷く嫌っているばかりか、母親の死後すぐにそんな女と結婚した父親をも大層憎んでいます。
 ですから、殺人鬼の村田でんでん)が、娘に自分の店(大規模な熱帯魚店)で働くように勧めると娘は喜んでそれを受け入れてしまいますし、後妻の方も、娘から嫌われていることに加えて、社本が営む熱帯魚店が酷くシャビイなこともあり、結婚したことをいたく後悔しています(後妻は、家事をやる気などすっかりなくしていて、3人が揃う夕食に出されるものは、すべて冷凍食品を解凍したものばかり)。
 このように、社本の家はいつ壊れてもおかしくないわけですが、にもかかわらず社本は、何とかそれを維持し立て直そうと必死になります。
 たとえば、いとも簡単に人を殺害してしまう村田の行動を見たら、常識的には、人はすぐさま警察に飛び込んで告発しようとするでしょう(少なくとも、その場からなんとか逃げようとするでしょう)。しかしながら、社本にあっては、そんなことをしたら妻や娘の命はないぞと村田に脅されると、家を守ろうとするあまり見て見ぬふりをし、あろうことか次第次第に共犯者的な関係に陥ってしまうのです。
 こうした社本の思いつめた努力は、物語の進展の中で報われるのでしょうか、それがこの映画の見所の一つだと思います。

 社本以外の登場人物の家族も皆うまくいっていないようです。
 いうまでもなく、殺人鬼・村田とその妻・愛子黒沢あすか)との関係は、一見すると緊密なようですが、内実は酷くおぞましいものですし、渡辺哲が演じる顧問弁護士(大きな家に一人で暮らしているのでしょうか)の存在が胡散臭くなってくると、愛子の肉体を罠に使って彼を死に至らしめたり、また社本の妻と肉体関係を持ったりもします。

 また、村田に毒の入ったドリンクを飲まされて殺される熱帯魚愛好家(諏訪太朗)も、行方不明になると登場してくるのが、その弟と称する男で、仲間のチンピラを率いて村田の会社に現れます。ですが、顧問弁護士から一喝されると、いともあっさりと引き下がる始末。行方不明の親族を探そうとする必死さは微塵もありません。



 こんなところから、劇場用パンフレットのインタビューで監督は、「今回は“徹底的に救われない家族”を描いてみました」と述べていますが、そんな言い分を素直に信じ込んでしまいたくもなってきます。

 ですが、「たい帯魚」というように、矛盾する言葉を一つのタイトルの中にわざわざ押し込んでいることをも踏まえると、あまり監督の言葉を額面通り受け取る必要はないかもしれません。
 ここからは完全ネタバレになってしまいますが、ある意味で社本は、最後に自分の思いを成し遂げて死んだのではないでしょうか?なによりも、自分を下僕のようにこき使いクソミソに貶した村田を世の中から排除するのに成功し、あまつさえ、死体を愛子に処理させるということまでやり遂げたのです(愛子は、そのために精神的に変調を来してしまいます)。
 さらに、社本は、自分もとから逃れようとした妻を殺した上で自殺することによって、最小単位ながらもその家を維持し得たのではないでしょうか?
 さらに社本は、自分が自殺することで完全に独り立ちできることになる娘には喜んでもらえ、自分を評価してくれると思ったようですが、それはいくらなんでも無理でした。
 なにはともあれ、ラストシーンでの社本は、目的を達成した後の実に穏やかな死に顔をしているのです!

 仮に以上のように見ることが出来るのであれば、本作品は、身の毛もよだつ事件のために危機に瀕した家族の繋がりを、死を賭して守ろうと頑張った男の物語だとも言えるのではないでしょうか?

 こんな社本を演じるのは吹越満です。『ヘブンズ・ストーリー』で主人公の少女・サト(寉岡萌希)の父親役を演じていましたが、それほど目立つ役柄ではありませんでした。ですが本作品では、狂言回し的な役割を果たしつつ、物語の進行と共に次第に存在感を増し、ラストでは大層重要な働きをしており、この人ならではの良さを遺憾なく発揮していると思いました。

 そして、殺人鬼・村田を演じているのが「でんでん」。
 映画『悪人』のラストの方で、深津絵里に「出会い系サイトで知り合って殺しちゃうなんて悪い奴だ」と話すタクシー運転手役を演じていましたが、この映画ではその持てる力を100%以上発揮させています。とにかく、人のいい熱帯魚店のおやじさんという面と、自分に少しでも逆らう者をいとも簡単に殺してしまう殺人鬼の面とを併せ持った役柄を、大変な説得力を持って演じているのには驚きました。「悪人」というタイトルを付けるとしたら、むしろこういう男を描く映画こそふさわしいのかもしれません。



 女優では、村田の妻・愛子を演じる黒沢あすかが、体当たりの演技を見せています。なにしろ、村田と一緒になって殺人を犯したり、その死体をバラバラにする役なのですから、さぞかし大変だったのではと思います(なお、彼女については、なんといっても塚本晋也監督の『六月の蛇』〔2003年〕での演技が印象的でした)。




(2)映画は、見る者に様々なことを考えさせる大変優れた作品と思いますが、それだけでなくこの映画には、140分を越える長尺にもかかわらずクマネズミを退屈させない点が備わっています。
 すなわち、希代の悪魔・村田が経営する熱帯魚店の名前が「Amazon Gold」だったり(注2)、アマゾン流域で獲れる世界最大の淡水魚「ピラルク(Pirarucu)」がその店の水槽の中で泳いでいたりするので、ブラジルで生活した経験があるクマネズミは、それだけでこの作品には釘付けになってしまいました(注3)。
 さらに加えて、アマゾン川には、血の臭いに接すると凶暴性を増すとされる肉食性の淡水魚「ピラニア(piranha)」が生息することからも(注4)、この映画とブラジルとの関連性を考えないわけにはいきません。本作品で流される血の量はただ事ではありませんから!
 さらに、関連性を探れば、村田の山中の隠れ家の屋根には、大きな十字架やキリスト像が置かれていますが、これはリオデジャネイロのコルコバードの丘にある巨大なキリスト像を思い起こさせますし、あちこちに転がっているマリア像も、ブラジルのマリア信仰に連想を誘います。
 なにより、クマネズミの滞在中には、日本で保険金殺人(少なくとも3人を殺害)を引き起こした犯人が逃亡してきて、アマゾン奥地で銃撃戦の末に射殺されてしまうという事件がありました(1979年)!

(3)この映画を見た後に、別の関心からフランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』(1992年)のDVDを見てましたら、本作品と通じる点がいくつもあるのではと思えてきました。
 別というのは、世界的な日本人デザイナーの石岡瑛子氏(71歳)についてのNHKTVの番組(注5)を見て、世の中にはすごい女性がいるものだなと驚き、それならアカデミー賞の衣装デザイン賞を受賞しているこの作品を見てみようと思ったからです(注6)。



 さて、どこらあたりが本作品が『ドラキュラ』と関連性を持っているのかというと、たとえば、
イ)どちらも大量の血が関係します。
 一方の『ドラキュラ』には、いうまでもありませんが、吸血鬼が登場します。それほど外に流れ出ないとはいえ、人間の体から吸い取られる血の量は大変なものです。
 他方、本作品の場合、解体作業が行われる浴室で飛び散る血の量はただ事ではありません。なお、あれだけ夥しい血を完全に洗い流すことなど不可能で、そうであれば海老蔵殴打事件ではありませんが、血痕のDNA鑑定によって行方不明者がそこにいたことの証拠を見つけ出すことができるのでは、そうなれば警察はもっと早い段階で事件をストップさせることができたのでは、などと余計なことを思ったりしてしまいました(注7)。

ロ)両者の隠れ家は、いずれも随分と人里離れた山の中に設けられています。本作品の場合、死体の解体作業を行う古ぼけた小屋に行くために、村田たちは車で随分山を登っています。だからこそ、長年にわたって秘密に出来たのでしょう。
 一方、『ドラキュラ』においても、ルーマニアのトランシルヴァニア地方にあるドラキュラ伯爵の城は、都市から随分離れたところにある峻厳な山の上に設けられています。そこに行くためには、やっと馬車が1台通れるくらいの細い道しかありません。

ハ)本作品における隠れ家の外観を見ると、十字架に架けられたキリストの像とかマリアの像とかが屋根などに取り付けられていますが、随分と壊れています。
 これは、ドラキュラ伯爵の城と似たような状況にあると言えるでしょう。なにしろ、ドラキュラ伯爵は、神を信じられなくなってしまったのですから、まともな聖像が置かれているはずがありません。たとえば、城の入口におかれている十字架には、動物の顔面した悪魔が架けられています(注8)。

ニ)吸血鬼を完全に殺すためには、心臓に楔を打ち込み首を刎ねる必要があり、それが『ドラキュラ』でも描かれていますが、これは、本作品において、顧問弁護士の生首を村田が社本に差し出すシーンや、社本が村田のボディを何度も執拗に突き刺す場面と通じるところがあるでしょう。

ホ)映画『ドラキュラ』では、全体としては吸血鬼を巡る物語ながら、ドラキュラ伯爵の妻エリザベートに対する強い愛が強調されているところ、本作品においても、殺人鬼・村田の突拍子もない行動が全編を覆い尽くしてはいるものの、やはり社本の家族愛が中心的に描き出されていると言ってもいいのではないでしょうか。

(4)渡まち子氏は、「衝撃的な内容は、見る人を選ぶだろう。ただ、人間の中に確かにある、ダークな側面を、エロスとタナトス全開でたたきつけるこの映画、抗し難いどす黒い魅力がある。勇気があれば、悪意の極北とそのなれの果てを覗いてほしい」として70点をつけています。




(注1)実際に殺人事件にかかわって有罪となって服役した男が書いた書物が、文庫版となっています(角川文庫『愛犬家連続殺人』〔志麻永幸、2000年〕)。

(注2)アマゾン川流域では、大勢の人(ガリンペイロといいます)が群がって金の採掘を行っていることによっているのでしょう(なお、映画PR用なのでしょう、この店のHPまで作成されています!)。

(注3)ただ映画で、村田が1000万円もの投資価値があると誇大に言っている「アジアアロワナ」は、おもに東南アジア産のようです(たとえば、このサイトのものは、100万円もします!)。

(注4)大昔になりますが、TVで放映された米国映画『ピラニア』(1987年公開)を見た記憶がありますが、いくらなんでも酷すぎる描き方で、実際にはむしろ臆病な性格を持つ魚のようです(また、「ピラニア軍団」も一時ありました)。

(注5)「プロフェッショナル/仕事の流儀」の第156回「時代を超えろ、革命を起こせ デザイナー・石岡瑛子」(2月14日放映)。
また、このサイトでも、石岡瑛子氏のことが簡単に紹介されています。

(注6)映画『ドラキュラ』の衣装については、記事を改めて述べてみたいと思います。

(注7)骨は焼却炉で完全に灰にしてしまうと、DNA鑑定が難しくなってしまうそうですが、できないわけではないとの情報もあります。仮にそうであれば、村田は、映画の中で「ボディを透明にす」れば警察も手が出さないというようなことを言っていますが、あるいはこれは埼玉愛犬家連続殺人事件当時(1993年)の事情に基づいた台詞なのかもしれません。

(注8)園子温監督の『愛のむき出し』では、巨大な十字架を西島隆弘らが担いで歩いている場面が映し出されています。




★★★★☆





象のロケット:冷たい熱帯魚

洋菓子店コアンドル

2011年02月26日 | 邦画(11年)
 『洋菓子店コアンドル』を渋谷シネクイントで見てきました。

(1)先だって『ちょんまげぷりん』のDVDを見たばかりで、またしても洋菓子を巡る映画とはゲップが出るかなとは思いましたが、このところ映画館で邦画をあまり見ていないこともあって、マアかまわないかと出かけてきたところです。
 ただ、平日の最終回でしたが、シネクイントは観客が10名足らずで、実に寂しい限りでした。

 さて、この映画では、『ちょんまげぷりん』と同じように映画の中で洋菓子が作られるところ、言うまでもありませんが、シチュエーションは両者でかなり違っています。
 まず、『ちょんまげぷりん』の方は、江戸時代の武士が現代にタイムスリップして、そこで身につけた洋菓子作りの腕前を、また戻った江戸時代で生かすというファンタジー物語ですが、こちらの『洋菓子店コアンドル』では、鹿児島出身の若い女性が、洋菓子店で働くうちに身につけた腕前にさらに磨きをかけるべくアメリカに赴くというストーリーです。
 ですから、前者では菓子作りの腕前はお遊び程度でも全くかまわないのに対して(江戸時代の人々は、洋菓子自体を知らなかったでしょうから。それでも、タイムスリップしてきた武士・木島安兵衛は、コンテストで優勝するのですが)、後者においては、登場人物は遥かに真剣に菓子作りに励みます。
 特に、『ちょんまげぷりん』では、木島安兵衛がレシピを見ながら作ったにすぎない洋菓子を、彼が居候しているともさかりえの家に来た主婦たちは、揃って美味しいと言って食べてしまうのに対して、この作品では、蒼井優(故郷では、父親の洋菓子店を手伝っていました)が自信を持って作ったものが、こんな菓子では売り物にならないから、早く田舎に帰った方がいいと戸田恵子に言われてしまうのです。
 それでも、生来の負けず嫌いの蒼井優は、なんとかパティスリー「コアンドル」の厨房に潜り込むことに成功して、次第に腕を上げていくのです。



 こう見てくると、『洋菓子店コアンドル』は、蒼井優の成長物語と考えることができるでしょう。

 ソウなると、主役の江口洋介はどうなってしまうのでしょうか?



 それがこの映画の問題点だと思えてきます。
 すなわち、クレジット・ロールの上からは、主役は江口洋介なのでしょうが、蒼井優の登場する時間の方がずっと長いように思えます。
 特に、映画では、蒼井優が菓子作りに懸命に努力しているポジティブな様子が何度も映し出されます。他方、江口洋介は、伝説のパティシエ、カリスマ・パティシエとはされていますが、娘を交通事故で失ったことから立ち直れずに、洋菓子店で菓子を作ることはせず、菓子評論家としてウジウジ生活をしているだけの存在、言ってみればネガティブな存在なのです。
 これでは、いくら主役とはいえ希薄な存在感しかなく、画面に出てこないはずです。

 それに、江口洋介は、娘を交通事故で失った際に妻と別れたはずですが、そのことが十分に映画では説明されません。妻の方だって、その影響は甚大なものがあったはずです。にもかかわらず、事故のあった当日、朝出かけるシーンが何度かフラッシュバックとして映し出されるだけで何も状況が明らかにされずに、ラストのシーンとなるのです。
 そのシーンでは、江口洋介がある人にケーキを届けます。これは、蒼井優がニューヨークに留学する際の条件として江口洋介に約束させたことですから、そんないい加減な場面ではないはずです(注1)。
 ですが、遠くから真横で映しているために、江口洋介が、持っているケーキの箱を手渡す人物が誰であるのか、察しの悪い観客にはよくわかりません(江口洋介は名前をインターホンで呼んでいるのですが、はて「マキ」とは誰だっけ?)。

 また、階段から落ちて骨折した戸田恵子は、入院当初様々な指示を出すのですが、結果的には何一つ守られてはいないようなのです。



 すなわち、ラストで晩餐会のシーンがあるところ、これはキャンセルの指示が戸田恵子から明確に出されたのではなかったかしら?
 たとえまだキャンセルされていなかったとしても、その準備に当たって相当の食材が必要と思えるにもかかわらず、厨房は、戸田恵子の指示で、すべて食材を処分した時のままなのではないかしら(注2)?

 後半は様々な場面でキツネにつままれたような感じを受けてしまいますが、まあこの作品は甘いスイーツを巡るお話なのですから甘く受け止め、深く詮索すべきではないのでしょう!

 実質的な主役の蒼井優については、これまでも『Flowers』とか『おとうと』、『百万円と苦虫女』、『フラガール』などを見、また最近も『変身』のDVDを見たばかりですが、なかなかこうととらえるのが難しい多面性を持った女優だな、との感を深くしました。

 江口洋介は、『パーマネント野ばら』で菅野美保の恋人の高校教師を演じていましたが、この映画でも評論家(実はカリスマ・パティシエ)の役であり、こうした知的な雰囲気の役柄に向いているのかもしれません。


(注1)江口洋介は、10年ほど前にパティシエを辞めたということになっていますが、そうだとすると辞める引き金になった事件がその頃に起き、妻と別れたのも同じ頃だと思われます。仮にそうだとすると、10年近くも別居状態が続いていることになり、常識的にはその間に離婚しているものと推測されます。
 ですが、江口洋介は、離婚しているのではと思われる女性の元にケーキを届けるのです。こんなことは余り考えられないのではないでしょうか? 
 また、蒼井優は、何のために江口洋介にそんなことをさせるのでしょうか(また元の鞘に収めようとして?それなら余計なことでは?)?

(注2)食材の粉の入った大きな袋を厨房から運び出すシーンが、映画の中では映し出されていました。


(2)映画の舞台となる洋菓子店(パティスリー)というと、車で井の頭通りを代々木上原から大原交差点の方を目指して進んでいった時に、左側に見える「ル・ポミエ」(Le Pommier:リンゴの木)がすぐに思い浮かびます(通りの向こう側には、北沢中学校があります)。
 シェフのフレデリック・マドレーヌ氏は、ノルマンディー出身、フランスの三ツ星レストランにてシェフパティシエを務めた経歴があり、この店は2005年にオープンし、2009年には麻布十番にも出店しています(奥様は日本人)。
 北沢店は、電車の駅からはやや離れてはいるものの、幹線道路の一つである井の頭通り沿いであり、また店の前には車が3~4台くらい入れる駐車場があって、車で比較的アクセスし易いのがいいと思います。
 この店については、たとえば、ブログ「加納忠幸のワインを飲もうよ」や「スイーツの夢」は高い評価を与えていますが、ブログ「絶え間なき渇望」はそれほど高い評価を与えてはいません。

(3)渡まち子氏は、「物語はいつしか、すれ違った男女のラブストーリーではなく、ケーキ作りの修行に励む若い女性の奮闘記になっていく。そこに、ある事情から“人を幸せにするケーキ”が作れなくなった元天才パティシエの再生物語や、経営危機に追い込まれたコアンドルの起死回生の勝負がからむ」が、「この物語の欠点は、主人公のなつめにケーキ作りの才能があるのかどうかがはっきりしないことと、なつめと、コアンドルの店主や十村との絆を描ききれてない点だ」として50点を与えています。



★★★☆☆




象のロケット:洋菓子店コアンドル

死なない子供、荒川修作

2011年02月23日 | 邦画(11年)
 ドキュメンタリー映画『死なない子供、荒川修作』を吉祥寺バウスシアターで見てきました。

 この映画は、以前私が見学したことがある三鷹の「天命反転住宅」(2009年2月11日の記事で触れたところです)をデザインした荒川修作氏に関するドキュメンタリーです。
 当初、渋谷のシアター・イメージフォーラムで上映されるとわかり、是非とも見に行こうと思ったものの、レイトショーのためなかなか時間が合わず、そのうちに終了になってしまったところ、このたび近くの吉祥寺バウスシアターで上映されると聞き及び、レイトショーながら出かけてきたわけです。

 本作品は、「天命反転住宅」を紹介しながら、その合間合間に、荒川修作氏の講演の模様を挟み込み、さらには以前彼が制作した前衛的な作品や、岐阜県に作られた「養老天命反転地」をも紹介しています(注1)。



 三鷹の「天命反転住宅」を紹介するにあたっては、私が利用した見学ツアーの様子だけでなく(同住宅には、ツアー専用のコースが設けられています)、宇宙物理学者の佐治晴夫氏が、住宅の細部について様々のコメントを述べたりします。



 ただ、荒川修作氏は科学的な思考を重視しており、佐治氏の説明にも興味深いものがありますが、ただあまり明晰にこの住宅について喋られると、なんだか荒川氏の姿勢とは齟齬するのではないか、その芸術的な側面が消えてしまうのではないか、とも思えてきますが。

 さらに、私が見学した際には見ることができなかったプライベートな居住空間の様子とか、そこに住んでいる人たちの意見なども、映画では紹介されています。
 特に、この住宅に居住する者は、皆、荒川氏との対決が迫られるようで、それぞれ自分なりの解釈で凌いでいたり、あるいはそういった有形無形の圧迫を受けるのを嫌がって退去する者も出てくるようです。
 実際のところ、メインの床が砂漠のように波打つ砂地模様であったり、部屋が球形であったり、どの部屋も扉がなくて中が丸見えだったりするのですから、そこで暮らし続ければ四六時中荒川氏の思考に触れていることになるでしょう!なぜ彼はこんな形の家を作ろうとしたのか、この部屋はどんな意味があるのかなどと考えることになってしまう一方で、この家で暮らす時間が蓄積されると、おのずと環境の影響を受けて、もしかしたら従来の思考方法から脱して新しい境地へと飛び移ったりしているかもしれません
 特に、この住宅で生まれて育ちつつある幼児の映像が何度も映し出されますが(あるいは、この映画を制作した監督の子供でしょうか)、成長したら彼女がどんな目覚ましいことをやり遂げたり言い出したりするのか、今から楽しみになります!



 また、こうした映像に挟み込まれる荒川氏の講演風景は非常に特異なもので、よく聞き取れないながら、目を剥くようなことを喋っているようなのです。



 すなわち、これまで人が言ってきたことはみんな間違っている、不可能だとされてきたことは可能なことなのだ、人は宿命を反転できるのだ、環境・雰囲気・考えはみんな借りものなのだ、現実は変えられるのだ、だから人は死ななくともいいのだ、西欧の哲学の言葉は嘘ばかりで全部間違っている(注2)、自分が言っていることは誰にも分からないだろう、等々。
 実際には、荒川氏は昨年5月に亡くなっており、その葬儀の模様がこの映画で映し出されています。ですから、その主張を文字通りに受け取れば、荒川氏の方が間違っていると言えるのかもしれません。ですが、彼によれば、言葉の意味するところが全然違うのですから、そうは簡単に言い切れないでしょう。
 少なくとも、不可能と思われたことを何でもいいからやってみること、それが死なないことの意味だと受け取れば、この「天命反転住宅」がこれから何事かをなすかもしれません。あるいは、この住宅で生まれた幼児が大きくなったら、「死なない子供」になるのかもしれません!

 加えて、岐阜県にある「養老天命反転地」の模様も紹介されているところ、その場面で取り上げられているのは、専ら子どもたちの遊ぶ姿です。次世代を担う子供たちの中にこそ「死なない子供」が見出されるというのでしょう。




 なお、荒川氏は、若い時にアメリカにわたり、著名なマルセル・デュシャンと出会ったり、またドイツでは物理学者ハイゼンベルクに賞賛されたりしています。その時の写真とか、また初期の頃の作品も映画の中で映し出されます。
 そうした酷く前衛的な作品は、よくわからないながらも、全体から受ける雰囲気から人の生と死とを取り扱っているようにも見えます。



 荒川氏は、終生「死」とその反対である「生」にこだわり続けたのでしょう。


(注1)2月9日の朝日新聞記事によれば、この作品の制作に当たった山岡信貴監督は、三鷹の「天命反転住宅」で暮らし子供も育てたそうで、住んだ感想を荒川氏に報告するために映画を撮り始めたとのことです。

(注2)たとえば、『三鷹天命反転住宅 ヘレン・ケラーのために』(水声社、2008年)に掲載されている建築家・丸山洋志氏との対談において、荒川氏は次のように語っています。
 「たとえば過ぎ去った20世紀、100年の哲学(思想界)の動きをみても、すべての、身体と環境から起こるイベント(出来事)を「内在化する、いやさせるためのロジックを一生懸命つくりあげようとした。……しかしこの与えられた身体は、いや動きは、いつもバイオトポロジカルな位置にあり、完全にオープンなんですよ。外側に開かれてるんです。それなのに、17世紀以後、約300年、この「観察する」「知る」という行為が中心になって、内在化の方向へ進ませてしまった」(P.99)。
 あるいは、人の「死」とは、「内在化」された西欧のロジックに従った見方によるものであって、その考え方を逆転して人は「オープン」なのだとわかれば、人は「死なない」のだ、ということなのかもしれません。そして、人は外に向かって開かれていることを身を以て理解するためには、いくら机に向かって思索を凝らしてもダメで、「天命反転住宅」のようなところで生活しなければならないのでしょう!



★★★★☆



RED/レッド

2011年02月20日 | 洋画(11年)
 大評判の『RED/レッド』を、遅ればせながら有楽町の丸の内ピカデリーで見てきました。
 見終わってから映画館を出ると、深夜に雪という天気予報にもかかわらず、すでに10時くらいで雪が相当降っているのには驚きました!
 気象庁は大型コンピュータを使って予測精度を上げているにもかかわらず、東京における降雪の予報はなかなか難しいようで、2月の連休の場合、事前の予報では大雪だったにもかかわらず実際にはそれほどではありませんでしたが、逆に14日の大雪は事前に予報されてはいませんでした。

(1)ところが、有能なCIAエージェントとなると、退職年齢に到達して年金生活に入っていても、よほど予知能力に長けているのでしょう、現役エージェントが組織した暗殺部隊による突然の襲撃に対しても、まるで待ち受けていたかの如くに十分対応できてしまうのです!
 そんな馬鹿なとは思わずに、そうだろうなと了解してしまえば、この映画の以降の展開を大層楽しく鑑賞できることでしょう。

 それにしても、この映画に登場するジジ・ババ(「RED(Retired Extremely Dangerous)」を結成!)、そしてそれを演じる俳優たちの元気なこと。
 ブルース・ウィルスは、『トラブル・イン・ハリウッド』で髭面を見せていましたが、この映画の中ではそれこそ縦横無尽に活躍しています。なにしろ、冒頭、オハイオ州の田舎で暗殺部隊の襲撃を撃退したと思ったら、もうすぐにミズーリ州のカンザスシティに出現したりするのですから。



 また、モーガン・フリーマンは、『インビクタス』でマンデラ・南ア大統領の役を重厚にこなしていると思ったら、この映画では、『最高の人生の見つけ方』(2008年)と同じように末期癌患者ながら、ニューオーリンズにある老人介護施設で女性介護士に色目を使っているのです。



 さらに、ジョン・マルコヴィッチは、『メッセージ』で、人の死ぬ時期が分かる不思議な感じの医師を演じていましたが、この作品でも狂気を内に秘めつつも変わったオーラをふりまいています。特に、沼地のすぐそばに作られた隠れ家は、自動車のボンネットを開けると入口になっていて、地下に通じる階段を下りて行くと、様々の武器が所狭しと並んでいます。

 最後に、女性エージェントのヴィクトリアを演じるヘレン・ミレンは、『終着駅』でトルストイの妻を素晴らしい演技力でこなしていましたが、この映画ではスナイパーとして活躍もし、またマシンガンを撃ちまくったりもします。




 こうであれば、定年に達したからといってなにも杓子定規に退職させ年金生活に追い込まずともと思いたくもなります。なにしろ、年金はどの国においても大変な財政負担となってしまっているのですから。
 また、彼らなら、特別なプログラムを作らずとも、これまで通りのやり方を続けてもらえば十分でしょう。
 ですが、世の中には、70過ぎともなると体のあちこちにガタが来て、とても若い時と同じようには働けなくなっているオヤジも多いことでしょう。
 この映画に問題点があるとしたら、老齢となったエージェントのあり方について、はかばかしい指針を何一つ示してはいないことではないでしょうか?
 高齢者には高齢者なりの長所(すぐれた判断力、経験の蓄積など)があるはずです。それを大きく引き伸ばす一方で、短所(体力がなくなっていること、視力・聴力・記憶力などの衰え)をカバーするやり方を組織は教育すべきではないでしょうか。
 とすると、若いエージェントに負けず劣らずに銃が扱えることを示すのもかまいませんが、その良さを発揮するモッと違った面を描き出しても面白いのでは、と思ったりしました。

(2)映画の冒頭では、年金生活を送る元スパイのブルース・ウィリスが、役所の年金課の女性職員(メアリー=ルイーズ・パーカー)と電話で話しているところ、これは、偶々最近NHKTVで見た『無縁社会』(2月11日放送)の放送内容ともつながるところがあるのではと思いました。

 なにしろ、それなりに立派な一軒家で一人で暮らす元スパイは、毎日することが何もないので、年金が入手できないといった苦情を申し立てるという口実をわざわざ作って(届いた年金小切手を破り捨てています)、その職員と何度も電話で話そうとしているのです。といって、それまでウィリスは、この職員の顔も見たことがありません。

 といっても、この日のTVの放送内容自体は、「「無縁」となる人たちは高齢者だけでなく、すさまじい勢いで低年齢化し、日本列島に無縁社会が広がっている」ことが強調されていて、それなりに衝撃的ですが、高齢者の「無縁」化はむしろその前からNHKで随分と取り上げられています(注)。
 たとえば、昨年4月3日に放映された『無縁社会―私たちはどう向き合うか』では、「今、自分は、一人でマンションの27階に住んでいます。ある程度、お金はあっても、人ごとではありません。本当に身につまされました」という70代の女性の声が紹介されました。
 また、東京・葛飾区の都営高砂団地では、「単身化が進み、およそ900世帯のうち、ひとりで暮らす人が、すでに30%にのぼってい」るとのこと。さらに同団地では、「元日をひとりで過ごす人も少なく」ないそうで、水野由紀夫さん(仮名・56歳)は、「おととし、体調を崩して、タクシーの運転手をやめ、派遣の仕事をしてい」たが、「その仕事も半年前に失い、今は、人と話をすることすら、なくなり」、「去年、胃けいれんで倒れ、救急車を呼んだ」とのこと。水野さんは、「孤独死の不安を、急に感じるようになったと言」っているそうです(昨年1月6日放送『シリーズ“無縁社会”ニッポン①「“単身化”時代」』)。

 現実はかくも非常に厳しいわけですが、それはともかく、この映画は、年金生活に入り無縁社会に生きていかねばと覚悟していたはずのブルース・ウィリスが、実は「無縁」でも何でもない、というところから物語が急展開するのです。


(注)昨年の11月に文藝春秋の方から単行本として『無縁社会』(NHK「無縁社会プロジェクト」取材班)が出版されています。
 なお、2月18日の新聞記事によれば、2月11日に放映された『無縁社会』は「過剰演出」ではないか、との批判が寄せられているとのこと。確かに、「ネット縁」を求めている若者を「無縁」と決めつけるわけにはいかないのかも知れません。
 この問題については、ブログ「映画のブログ」のナドレックさんからご教示いただいた上武大学教授・池田信夫氏のブログ記事が随分と参考になると思います。
 また、より詳細には、これもナドレックさんのご教示によりますが、大妻女子大学の石田光規氏の論考も興味深いと思います。
 さらに、原理的に考えるには、京都大学の佐伯啓思氏の連載論考『反・幸福論』(新潮社の雑誌『新潮45』に掲載中)が面白いかもしれません。その第4回の冒頭には、次のような記載があります。
 「戦後日本は、個人の自由や様々な束縛からの解放こそを進歩であり、文明だと考えてきました。特に「イエ」から逃れることは近代化、民主化の不可欠の前提だとみなされたのです。そうであれば、個人の自由をさまたげる束縛、つまり「縁」から自らを切り離すことを必死でやってきたわけで、その延長上に「無縁」状態が出現するのは当然のことなのです」。
 なるほど。日米で同じような状態となっているのは、日本が米欧を目指してきたことの必然的な結果というわけなのかも知れません。


(3)渡まち子氏は、「「若いモンには負けないゾ!」のオヤジ・パワー炸裂の快作だが、このテのジャンルの映画には無縁に思える英国女優ヘレン・ミレンをキャスティングしたことが功を奏して、洗練された雰囲気に仕上がった。過激でひねりの効いたこのスパイ映画、できれば次々に新メンバーを加えながらシリーズ化してほしいものである」として65点をつけています。



★★★☆☆





象のロケット:RED(レッド)

白夜行

2011年02月19日 | 邦画(11年)
 『白夜行』を吉祥寺のバウスシアターで見てきました。

(1)この映画は、冒頭で少年・亮司の父親が殺され、その殺害事件の犯人は誰なのかを巡る事件の真相が物語の展開の中で明らかにされるミステリー物といえるのでしょう。
 とはいえ、事件が起きた昭和55年から次第次第に年月が経過し、その間に様々な人の死が物語の中に入り込んでくるために、そんな昔の殺人事件のことよりも、むしろ、主人公の孤児・雪穂堀北真希)の成長ぶりの方を専ら描き出そうとする映画なのかなと思ってしまいます(映画のラストのシーンは平成10年の出来事であり、全体として約20年ほどの時が流れます)。
 それも、雪穂は、遠縁の未亡人の家に養女に入り、お嬢様学校から大学に行き、ついには資産家の跡取り息子(姜暢雄)と結婚し、超高級ブッティックの開店に至るというのですから、よくある物語ではないかな、とも思えてしまいます。
 ただ、最初の事件に疑問を感じていた笹垣刑事船越英一郎)だけがずっと関心を持ち続け、時折警察に入ってくる情報をつなぎ合わせ、その上で退職後になって、亮司高良健吾)の母親から重大な情報を聞き出して、ついには事件の全容を明らかにするわけです(注1)。
 とはいえ、これではいくらなんでも話が間延びしてしまい、最後に笹垣刑事が事件の成り行きを懇切に説明しても、今一なるほどといった感じにはなりません。
 おまけに、事件に対する真犯人の関与の仕方に余り切実さが感じられず、そういうこともあるのかなといった程度の印象になってしまいます。

 と言っても、俳優陣が充実していますから、149分と随分の長尺ながら、退屈はしませんでした。
 まず、主役の堀北真希です。



 原作で描かれているイメージとは違うのなんだのと姦しく言われていますが、この映画だけを一つの作品として見た場合(言うまでもありませんが、映画は原作とは違う独立した作品と考えるべきでしょう)、大変よくやっているのではないかと思います。
 主人公の雪穂は、最初の事件との関連性を感じさせるものが彼女の中に窺えるようでは話がぶち壊しになってしまうところ、それでも完全に断ち切れてはいないという雰囲気を何かしら感じさせる必要もある、といった難役なのであり、これをこなせる若手俳優はそうはいないと思えるところ、堀北真希はよくやったと言えるのではないでしょうか。

 また、亮司役の高良健吾にも同じような雰囲気が求められるところ、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』で見せてくれたすぐれた演技力をこの作品でも見せてくれます。



 それに出色なのが、亮司の母親役の戸田恵子です。質屋を営む自分の夫が殺されて、警察官から質問されるときの風貌、しばらく間を置いてスナックのママとなって、客の笹垣刑事の相手をするときの容貌、さらには、事件から20年近く経って重大な情報を笹垣刑事に漏らす時の様子、といった3度の演技には観客を唸らせるものがありました。


(注1)こう見てくると、今回の作品は、松本清張の推理小説を原作とした映画『砂の器』に、雰囲気が酷く類似していると言えないでしょうか?なにしろ、その映画では、片や時代の寵児となっている売れっ子作曲家(加藤剛)がおり、もう一方に元巡査殺人事件の真犯人を執念深く追い詰める刑事(丹波哲朗)がいるのですから(これ以上類似点などを議論すると、今回作品のネタバレになりかねませんので、ここらでストップいたしましょう)!


(2)この映画で注目されるのは笹垣刑事でしょう。



 むろん、「2時間ドラマの帝王」といわれる船越英一郎が、準主役といった感じで映画全体を引っ張っていることもありますが(約20年という時間の経過をうまく演じていると思いました)、その描き方が原作(注2)とはいろいろな点で異なっているのです。そうしたところにあるいは本作品の特質もうかがえるのでは、とも思えるので、若干ですが覗いてみることといたしましょう(注3)。

 まず、映画の笹垣刑事は、白血病の息子が入院中にもかかわらず捜査から抜け出せずにいるうちに、とうとう子供を死なせてしまう、という設定になっていますが、小説ではそんな設定にはなっていません。
 おそらく、笹垣刑事のおよそ20年近くに渡る執念の根拠を観客に納得してもらうために、そうした設定が映画の冒頭近くで取り入れられたのではと考えられます。

 また、映画では殺人事件が起きると、県警本部の部長(キャリア組)が、所轄の警察署に乗り込んできて捜査本部が設けられ、その本部長に就きます(東京に戻るべく、ここでなんとか実績を上げようとします)。この場合、笹垣刑事は、所轄署の一介の刑事に過ぎません。
 他方小説では、笹垣刑事の方が本部の捜査一課に所属していて、所轄署に設けられた捜査班に加わる格好になっています。
 たぶん、『踊る大捜査線』などで見られるキャリア組とノンキャリア組との対立といったお馴染みの下世話な話題を持ち込んで、映画の物語をヨリ身近なレベルにしようと考えたからではないでしょうか。

 さらに、映画の場合ラストの場面では、笹垣刑事と真犯人が対峙することになりますが、小説ではソウはなりません。
 おそらくこの点が、映画と小説の一番大きな違いと言えるかも知れません。
 映画の場合、真犯人は自分の犯行であることを認めるわけですが、小説では、それまでの物語の展開から、問題の人間が真犯人だとみなせるものの、その人間は最後まで告白などはしません。もしかしたら、ソウではない可能性すら残っています。
 この点に関し、劇場用パンフレットにおいて、原作者の東野圭吾氏は次のように述べています。
 「私がこの小説で描きたかったのは、主人公たちの理屈では説明出来ない負の感情そのものです」が、「小説を読んだ人々は、どうしても理屈を求めます」。そして、「今回の映画では、主人公たちの感情にどんな〝理屈〟が付けられているか―それが最大の見所だと思います」。
 この映画を監督した深川栄洋氏ら制作側が考えた〝理屈〟(小説と違って随分と丁寧に貼られた様々の伏線から推測されます)が、こういったところにも窺えるのでしょう。

 総じて言えば、実に他愛ない結論で恐縮ながら、映画においてはそのエンターテイメント性の確保が随分と重視されている、と再確認したところです。
 無論、だからこの作品がダメだということではなく、映画と小説とはマッタク別物だとの立脚点から映画は映画として議論すべきだと、これまた再確認したところです。


(注2)『白夜行』の原作者・東野圭吾氏の作品を映画化したものは、これまで、青山真治氏が監督した『レイクサイド マーダーケース』(2004年)、あの沢尻エリカが出演している『手紙』(2006年)、福山雅治主演の『容疑者Xの献身』(2008年)、寺尾聰主演の『さまよう刃』(2009年)を映画館やDVDで見てきたところです。

(注3)映画全体としてみれば、他にも小説と異なる点を多数見出すことが出来ます。たとえば、清華女子学園時代、雪穂と江利子とが仲良くなったのは、映画の場合、いじめを受けていた江利子に雪穂が近づいたことによるわけですが、小説では、逆に江利子が雪穂に「友達になってくれない?」と話しかけ、雪穂が「あたしでよければ」と受け入れたことによっています。
 なにしろ、小説の方は、集英社文庫版で854ページもの大冊なのですから、違いが多いのは当たり前と言えば当たり前なのですが。
 (なお、小説が1999年に刊行されたことを反映して、殺人罪に係る「時効」が15年という点が数回取り上げられているところ、2011年公開の本作品では「時効」についての言及はなされていない、というのも興味深い点ではないかと思います)

(3)渡まち子氏は、「亮司は雪穂に操られた被害者なのか、それとも彼女の守護天使なのか。あるいは、雪穂の方が亮司の“作品”だったのか。さまざまな解釈を見るものに委ね、これから先も白い闇の中で生きねばならない者の哀しみを、余韻の中に漂わせた。ヒロインの堀北真希が高校生、大学生、さらに資産家に嫁いでブティック経営で成功する大人の女までを演じているのだが、顔色ひとつ変えずに、しかも自分の手を汚さずに犯罪を重ねる“悪女”を、静かな迫力で演じていて、新しい魅力を見せている」として65点をつけています。




★★★☆☆




象のロケット:白夜行

ちょんまげぷりん

2011年02月16日 | DVD
 休日にもかかわらず雪の時は外へ出るのも億劫となってしまい、家でTSUTAYAから借りてきたDVDを見ることにしています。今回は、昨年評判だった『ちょんまげぷりん』を見てみました。

(1)こういう映画を見ると、仮に江戸時代の武士が現代に登場することがあり得たとしても、現代の日本人とこんな風にスムースなコミュニケーションが可能だとは思えないと言ってみたくなったり、安兵衛が遊佐ひろ子と友也と遭遇した時は大層空腹だとされていますが、その前に何よりトイレの問題はどうしたのか、などといった日常的なことが気になってしまいますが(注1)、そこはファンタジーなのだからとすべて目をつぶってしまえば、あとは大層楽しく映画を見ることができます。

 何しろ、それぞれが全然違った世界に属しているはずとは言いながら、同じ日本人の顔をして同じ日本語をしゃべるのですから(注2)、それにそれぞれの世界についてごく普通に想定されている範囲内で話題も提供されますから、それほど違和感なく受け入れることができます。
 たとえば、極めて礼儀正しい武士の世界と不躾極まりない現代の世相、男尊女卑の江戸時代と女性の社会的進出が著しい現代、などといった枠組みはお馴染みのもの、確かに指摘されるとその時はハッとはしますが、毎度聞き慣れていることゆえ、そんなお題目はスッと通り過ぎてしまいます。
 とにもかくにも、かる―い感じでおもしろがればそれで十分なのではないでしょうか?

 特に、江戸時代の武士である木島安兵衛が、ほかでもない実に現代的なスイーツ作りに関して天才的な才能を持っているという着想は素晴らしいものがあり、スイーツ作りコンテストに参加した安兵衛と友也が、立派な天守閣をこしらえて優勝してしまうというのも実に面白いストーリーだと思います。

 主人公の木島安兵衛を演じる錦戸亮は、NEWS及び関ジャニ∞のメンバーで映画は初出演・初主演とのことですが、それにしてはたいした演技力だと感心しました。『愛のむきだし』の西島隆弘に匹敵するとも思えるところ、西島の『スープ・オペラ』に相当する第2作目が期待されるところです。



 また、木島安兵衛を自宅で面倒を見るシングルマザーの遊佐ひろ子を演じるともさかりえについては、クマネズミは映画でほとんど見かけませんでしたが、こういう役柄もとてもうまくこなす女優さんなのだと見直したところです(注3)。





(注1)元々、安兵衛が江戸時代に戻ってプリンを作ったとしたら、歴史が変わってしまいますから、タイムトラベルに関する原理的な問題を抱えています。
 それに、日本では明治になるまで牛乳はほとんど飲まれていなかったようなので、プリンを作る上で重要な材料が簡単には入手できなかったのでは、と思われます。
 また、江戸時代の人が、どうしてスイーツ作りに関する才能をもっているのか謎ですし、仮にそうした才能があるとしたら、もっと独特なスイーツを作り出して現代人をアッといわせるということも考えられるでしょうが、そこまでの踏み込みはありません。

(注2)「マンガ大賞2010」と「第14回手塚治虫文化賞(短編賞)」を受賞したヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)とは、この点が大きく異なります。と言うのも、後者では、ローマ時代の浴場技師のルシウスが現代の日本にタイムスリップするというのですから!平たい顔族の日本人とは、ラテン語しか話せないルシウスはうまくコミュニケーションが取れないのです。




(注3)同じように身長のある女優・吹石一恵が、『ゲゲゲの女房』などで成長著しいのと比べると、今一の感は免れませんが。


(2)この映画に関しては、登場人物として遊佐ひろ子とか安兵衛に着目しても構いませんが、少し友也を取り上げてみましょう。



 シングルマザー遊佐ひろ子の息子・友也には、次のような特徴があります。
・小学校に上がる直前(5歳~6歳)の子供。
・普段は幼稚園に行き、母親の会社から帰る母親を待って一緒に帰るという生活を送っています。
・何かというとすぐに泣いてしまうひ弱な子供。
・父親がいないせいか、安兵衛の毅然とした態度に却って親近感を持ってしまいます。
・ココゾというときは病身でも安兵衛を探しに行きます。

 こんなところで、少し前にDVDで見た映画『縞模様のパジャマの少年』(注4)に登場する少年ブルーノと比較するのはお門違いも甚だしいとは思いますが、彼については次のような印象を受けました。



・主人公の少年ブルーノは8歳(友也より少し大きいだけ)。
・強制収容所長に就いた父親の関係で、人里離れた収容所近くの邸宅に引っ越したため、友人はおらず、いつも一人で遊ぶしか仕方ありません(幼稚園で皆と遊ぶ友也とは、その点で環境が酷く異なります)。
・社会的なことに少しずつ関心を持ち出しますが、父親は自分の仕事のことにつき一切話をしようとしません(とてもできたものではないでしょうが)。
・元々は冒険物語が大好きなことから、家族に黙って裏庭から塀の外に抜け出し、森を通って、農場と思った建物(実は強制収容所)に近づきます。そこで、仲間のもとを離れているユダヤ人の子供シュムエルと有刺鉄線越しに友達となりますが、……。

 この二つの物語で描かれている子供について大きな違いを言えば、
・友也の方は父親的な存在を求めているのに対して、ブルーノにとって父親は、権威的ですごく煙たい存在でしょう。
・また、友也はまだ幼稚園生ということで社会的な関心はほとんどありませんが、ブルーノは次第に社会に対して目を開いていくようになります(といって、説明を大人に求めても、誰も何も説明してはくれません。それがのちに大きな悲劇をもたらすことになります)。

 でも、友也は、自分にとって安兵衛が大切な存在だとなれば、熱があるにもかかわらず彼が働くお店まで電車を使って探しに行くという一途なところがあり、また他方のブルーノも、友達のシュムエルの父親が行方不明になったとわかれば、一緒になって懸命に探そうします(それが大変なことになるとは何も考えずに)。

 こうやって比べていくと、それぞれの映画がどうして今頃になって制作されたのか、といった点にも興味がわき、欧米の事情やわが国の事情などにも目が向きますが、そんなことはトテモ手に余りますのでここらでひとまず打ち切りといたします(注5)。



(注4)イギリス・アメリカ合作の映画『縞模様のパジャマの少年』(2009年公開)については、渡まち子氏が、「真実に目をふさぐ偽りの平和は、やがて取り返しのつかない悲劇によって裁かれる。この映画の結末には思わず言葉を失った。主人公の少年二人はオーディションで選ばれた無名の新人だが、その匿名性が戦争の悲劇をより際立たせている」として65点を付けています。

(注5)欧米では、『ソウル・キッチン』を挙げるまでもなく、人種問題は絶えず人々の関心の的であり続けましたが、日本ではいかにも微温湯的な家族共同体的意識が現代でも横溢している、などといってみても今更めいて面白くありません。


(3)渡まち子氏は、「江戸から現代にやってきたお侍がお菓子作りに目覚めるというハートフル・コメディーには、現代人が忘れがちな“1本通った筋”がある」、「生活の描写にご都合主義のところはあるが、子育てと仕事の両立に奮闘するひろ子の生き方と、安兵衛が江戸から現代にやってくる不思議の理由が絶妙に重なる構成は上手い。テイストはあくまでもライト感覚。それでも物語はタイムスリップもの特有の楽しさにあふれていた」として60点を付けています。



★★★☆☆




ソウル・キッチン

2011年02月13日 | 洋画(11年)
 『ソウル・キッチン』を渋谷のシネマライズで見てきました。

(1)事前の情報を全く持たずにいたものですから、最初は韓国の首都にあるレストランの話なのかなと思ったりしていたのですが(『カフェ・ソウル』の連想から)、実際には映画は、ドイツのハンブルグにあるレストランを巡る実に楽しいお話でした。

 レストランといっても、だだっ広い倉庫を改造しただけのものながら、庶民的な料理を低価格で出すことから、常連客はついているようです。
 レストランの若きオーナー兼シェフのジノスが主人公ですが、様々の災難が一度にその上に降りかかってきます。
 たとえば、
イ)恋人ナディーンが、突然上海に特派員として派遣されることになります。
 ナディーンとのコミュニケ―ションはスカイプを使って行っているものの、ジノスはイライラが募ってきて、自分も上海に行きたくなってしまいます。
ロ)高級レストランのシェフだったシェインを雇い入れたところ、庶民的な料理を求めていた常連客にそっぽを向かれてしまいます。
ハ)重い食器洗浄機を動かそうとしてジノスは椎間板ヘルニアを引き起こしてしまい、暫く身動きが取れなくなってしまいます。

 こうした数々の災難は、レストランで披露されるバンド演奏につられてやってくるお客が増えてくることから、次第に解決の方向に向かっていきます。でも単純には物事は運ばずに、何度も危機が訪れて、そして……。

 さて、映画で興味深いのは、
イ)ドイツ映画であってドイツ語がメインながら、監督ファティ・アキン氏はドイツ在住のトルコ系移民であり、またギリシア系移民である主人公のジノス(演じるアダム・ボウスドウコスも両親がギリシア系移民)をはじめとして、映画の中では様々の人種が入り乱れます。



 ジノスの恋人ナディーンは、中国から帰国する際に中国人を連れてきますし、シェフのシェインを演じる俳優はトルコ南部の出身、ジノスの椎間板ヘルニアを診る理学療法士アンナを演じる女優はハンガリー生まれなのです。
 そして、アンナがジノスを連れていく整体師も、「骨折りケマル」といわれるトルコ人で、その待合室にはドイツ語新聞は置いておらず、トルコ式チャイが患者に振る舞われます!とはいえ、大きな病院で高額の手術を受けなければ一生半身不随だとされたジノスの椎間板バンヘルニアが、映画ではこの代替医療で完治してしまいます。

ロ)たまたま映画を見た日の前の回では、トークショーが行われ、出演した音楽評論家のピーター・バカラン氏の姿を映画館の入口のところで見かけましたが、映画のゴージャスなところは様々の音楽をふんだんに聴くことができる点でしょう。
 なにしろ、バンドマンのルッツが「ソウル・キッチン」の従業員であり、時間があると店でリハーサルをしていますし、またジノスの兄イリアスは、DJセットを盗んできて、レストランでレコードをかけまくるのですから!



 ただ、音楽のこと(さらには、映画に登場する料理のこと)は、劇場用パンフレットの解説に任せることといたしましょう。
 なお、映画『ノーウェアボーイ』のラストが、ジョンの「ハンブルグに行く」という言葉でしたから、この映画でも何かビートルズ関連のことがあるのかなと思いましたが、そうは問屋が卸しませんでした。

ハ)公的な事柄が随分と映画の中に入り込んできます。
・市の税務当局がレストランまで出向いてきて、滞納分を徴収しようとします。
・旧友ノイマンが、レストランの敷地を取得しようと、市の衛生当局を突き動かしてレストランの厨房を検査させたため、ジノスは短期間のうちにリフォームせざるを得なくなります。
・刑務所の内部が2度ほど映し出されます。
 1度目は、兄イリアスが仮出所が認められ、刑務所内の通路を通って外に出るところ。
 2度目は、イリアスが再度捕まって刑務所内を移動している姿とか、面会室でルチア(ジノスのレストランで働いている画家志望の女)と会っているところ。

ニ)レストランが置かれている具体的な場所が、大体のところ地図上に特定できるのです。
 というのも、旧友のノイマンにレストランの場所を聞かれて、ジノスは「ヴィルヘルムスブルクのインダストリー通り」と答えるのですが、それを手がかりにGoogle Mapのストリート・ビューを使うと、実際にもインダストリー通りの中間点あたりに、映画に登場するレストランによく似た建物が線路の脇に設けられていることが分かります!
 映画のロケ地を地図で探せるなんて、映画を2度以上も楽しめることになります。

 さらに、ジノスはハンブルグの街中にあるマンションから、市の南方にあるレストランに通っていますが、使う電車がs-Bahnであり、Wilhelmsburg駅で降り、そこからバスを使ってレストランに出向いているようです。
 映画では、s-Bahnの電車がたびたび画面に登場します。中でも印象的なのが、運河を跨ぐ鉄橋を通過するシーンでしょう。



 とにもかくにも、この映画は、そのストーリーと言い、出演する俳優と言い、また、音楽、料理等々、滅多矢鱈と興味深い要素が詰まっていて、稀にみる面白さを持った作品と言えます。

(2)上で書いたように、この映画の監督ファティ・アキン氏はドイツ在住のトルコ系移民ですが、最近TVニュース(NHK「海外ネットワーク」2月5日)で、ドイツのケルン市において、約 1,200 人の信者を収容できる大規模なモスクが建設されていることに対して、ドイツ人住民から反対運動が巻き起こっているとの報道がなれていました。
 ケルン市は、いまや10人に1人がトルコ系住民であり、市当局も、トルコ人移民はドイツ社会の一部だとして当該モスクの建設を許可したとのこと。
 ですが、ドイツ人住民からすれば、固まって暮らすトルコ系住民たちは、ドイツ社会の中に溶け込もうとしない異質分子と見えるようで、一昔前のユダヤ人差別につながるような感情を持っているようです。
 ただ、ユダヤ人とは、自分たちでまとまって暮らしているところとか宗教が一般のドイツ人とは別という点などで類似しているものの、言葉がトルコ語であり、食事の内容も異なるし、特に女性の地位が低いことはお話にならないようです。

(3)映画評論家・土屋好生氏は、「確かにこれは港町の片隅に花咲く特殊な移民の物語ではない。が、この国に足場を固めた移民2世による、新しいドイツの顔がここにはある。トルコ系の監督とギリシャ系の主演俳優、そして助演のドイツ人俳優。来るべきドイツ映画の新しい波を予感させる布陣であり、同時に、そこに「移民国家ドイツ」の明日の姿を見るような感覚に襲われるのである」と述べています。



★★★☆☆



アンストッパブル

2011年02月11日 | 洋画(11年)
 『アンストッパブル』をTOHOシネマズ日劇で見てきました。

(1)こうした作品なら、何はともあれ大画面で音響の素晴らしいところと思って有楽町まで出かけましたが、期待どおりでした。何しろ、運転手なしに暴走し続ける貨物列車をストップさせなければ、市街地に突っ込んで積載物が爆発し大惨事になるという設定ですから、映画が終わるまでハラハラドキドキのし通しといった具合になります。

 この映画ではペアの組合せが随分と出てきて、それぞれその内部に鋭い対立を抱えています。
 まず何と言っても、市街地スタントンの方に向かって驀進する無人の機関車777号と、それを後ろから追いかけてドッキングしようとする旧式機関車1206号という組合せ〔2つの機関車はいずれも電気式ディーゼル機関車(ディーゼルエンジンで発電し、電気モーターを回す方式を採用)〕。
 これを十分に描き出すことがこの映画のメインなのでしょうから、他に映画に登場するものがどれもペアの組合せになろうというものです!
 例えば、暴走する機関車777号には、見学の児童が多数乗っている列車というもう一つのペアがあります。列車は777号と正面衝突しそうになりますが、間一髪のところで待避線に滑り込んだため惨事は免れます。
 また、機関車1206号は、ペアを組んでいた長大な貨物車両を切り離して、身軽になって777号を追いかけます。

 列車がメインとはいえ、映画にはやはりヒーローが必要になります。すなわち、旧式の1206号の機関室に乗り合わせたベテラン機関士のフランクデンゼル・ワシントン)と新米車掌ウィルクリス・パイン)との組合せ(注)。
 この組合せは、単なるペアではなく、その中に、黒人と白人、機関士と車掌、ベテラン(勤続28年のフランク)と新米(4ヶ月のウィル)、解雇通知を受けた者と新規採用の者、といった一層深い対立関係を含んでいます。



 さらに、フランクには娘二人がいますし、ウィルも妻と幼児がいますが、それぞれフランクやウィルとの関係がかなりぎくしゃくしています。
 また、会社側をみると、列車指令室には操車場長コニーロザリオ・ドーソン)が、会社の会議室には運行部長がいます。コニーはフランクの言い分を受け入れますが、運行部長は、会社上層部の意向を慮ってフランクの言い分を受け入れようとはせず、二人は激しく言い合います。
 加えて、元々777号の暴走を引き起こした操作ミス(ブレーキをかけ損なった)に絡むのが男性2人組みなのです。

 こうした様々な二項的な組合せ、対立関係を描き出すことで、単なる機関車の暴走という次元を越えて、物語に厚みが出てきていると思われます(暴走する機関車をストップさせることに皆が必死になる中で、いくつかの対立は解消に向かっていきます)。

 ですが問題点もあると思われます(以下は完全にネタバレになります)。
イ)1206号が暴走する777号に追い付いても、ブレーキの役割が果たせなかったわけですから、連邦の職員が理論的には大丈夫だと請け合った方法は役に立たなかったことになるのではないでしょうか?にしては、その職員の態度が格好良過ぎる印象を受けました。

ロ)最後の手段として、フランクは、個々の車両についている手動ブレーキを使うことにしますが、その際貨車の天井やタンク車の上部を駆け抜けます。ただ、そんな危険なことが可能であれば、777号のスピードはそれなりに落ちてきているはずですから、ヘリコプターを使って、もっと何人もの関係者を貨車に送り込めるのではないでしょうか?



ハ)最後の方で、ウィルが、機関車に伴走している車に一度飛び降り、それから777号に飛び乗りますが、彼は足を酷く負傷しているはずですから、何も彼でなくともよかったのではないでしょうか?
 むしろ元気な機関士を車に乗せて、777号に飛び移らせた方が現実的ではないかと考えられます(それに、飛び移れるくらいなら、ヘリコプターで空中から飛び乗れるのでは、などと思ってしまいますが)。

 とはいえ、あくまでも、生き物のように暴走する機関車と、フランクとウィルの英雄的行為をクローズアップするのがこの娯楽映画の大きな狙いでしょうから、そんなつまらないことに拘らないで、ハラハラドキドキすれば十分ではないでしょうか。

(2)暴走する列車という点に関しては、さすがに、ブログ「映画のブログ」においてナドレックさんが、実際には企画だけで流れてしまった黒澤明監督の『暴走機関車』に触れておられますが(注)、暴走するものを何とかしてストップさせるということに関してなら、『スピード』(1994年)があるかもしれませんし、また執念深く追いかけてくるトレーラーを描いた『激突!』(1973年)も、最後の最後まで手に汗握る暴走物と言えるのではないでしょうか?


(注)参考文献としては、「映画のブログ」の注で挙げられているものの他に、田草川弘著『黒澤明vs.ハリウッド』(文藝春秋.2006年)P.48~P.62があります。

(3)渡まち子氏は、「物語はさまざまな方法で列車を止めようと試みるフランクとウィルの八面六臂の活躍を活写。そこまでするか?!の無謀な作戦も含めて、手に汗握る展開だ。残念なのは、フランクとウィルの家庭のトラブルがチラリと描かれるが、これがあまり効果的ではなく、かえってスピード感を削いでしまったこと。しかし、2人をサポートする操車場長コニーを演じるロザリオ・ドーソンと、デンゼルたち2人の場面の切り替えが、アクション映画に人間性をプラスする効果を与えていた。それにしても、こんな恐ろしいことが実際にあったとは。乗客がいたらどれほどの惨事だったかと思うとゾッとする」として60点を与えています。



★★★☆☆





象のロケット:アンストッパブル

ヤコブへの手紙

2011年02月09日 | 洋画(11年)
 『ヤコブへの手紙』を銀座テアトルシネマで見てきました。

(1)この映画は、さあこれからさらにどんな展開がというところで幕となります。ただ、そういう思いにさせられるのは、映画のそこまでの展開からのことではなく、単にその短さのためです。終わってみれば、確かにあの時点で幕ということは理解できますが、なにしろたったの75分の作品。このところ2時間を超える映画を見つけているせいでしょう(たとえば、『モンガに散る』141分、『海炭市叙景』152分)、その半分の長さでは見る方にどうしても食い足りなさが残ろうというものです。

 でも、この映画は、その規模の小ささが逆に売りなのかもしれません。主な登場人物はわずか4人、それも主人公に仮釈放のことを伝える刑務所長は最初だけですから、実質的には3人で構成される映画といえます。

 主人公は、12年間入っていた刑務所から仮釈放された40過ぎの女性レイラ。彼女は、当てがないこともあり、仮釈放されるとヤコブ牧師の元に行きます。といのも、牧師からは、目が見えないので、自分のところに送られてくる手紙を読んでもらいたいという要請があったから。
 レイラは、牧師の家へ行くと、どうやら彼の申請により自分は仮釈放されたことがわかってきます。自分としては終身刑のつもりであって、こんな風に社会に放り出されたいとは思っていなかったところから、余計なことをしたと牧師に辛く当ります。
 ついには、牧師を冷たい礼拝堂の中に放り出したまま、家に戻って自殺までしようとします。
 ちょうどそこに、やっとの思いで牧師が戻ってきて、自殺を思いとどまったレイラと向き合い、そしてそこから物語はやや明るさを取り戻してきて、レイラも心を開くようになって……。

 レイラは、前半では、周りから差し出される援助の手を振り切って、自分の中に頑なに閉じこもり、周囲に対しては冷たい態度しか示しませんが、心が開かれる後半になると若干ながら眼差しが変わってきます。そうした微妙なところを、レイラを演じる女優(カリーナ・ハザード)が大層うまく演じているなと思いました。



 また、ヤコブ牧師を演じるヘイッキ・ノウシアイネンは、実際は65歳にもかかわらず、まるで80歳すぎの老人の感じを出していて、その言動が確かな説得力を持つに至っています。



 『ソーシャル・ネットワーク』といった超現代的なテーマを扱っている映画を見た後では、設定が現代に近いところとされているにもかかわらず、パソコンや携帯電話などの先端的なIT機器を何一つ登場させずに、大自然の中で静かに暮らす様(とはいえ、心の中は激しい葛藤があります)を描いている本作品は、一杯の清涼飲料のような効果をもたらします。

(2)劇場用パンフレット(注)にも記載されている点ですが、この映画の謎は郵便配達人ユッカ・ケイノネン)でしょう。これまでずっと毎日のようにヤコブ牧師に郵便を届けてきたところ、レイラが牧師の家にやってくると、途端に郵便物が届かなくなってしまうのです。それに、夜中に、牧師の家に忍び込んでも来ますし、なぜか使っている自転車が新品になるのです。
 その種明かしはされていませんが、見る側としてはこの人に注目せざるを得ません。



 なにより、この映画は、郵便配達人が郵便物をヤコブ牧師に届けなくなってから、局面が実質的に大きく変化するのです。
 元々ヤコブ牧師は、届けられる手紙に書かれている相談事・悩み事に対して、相談者を力づけるように聖書を引用しながら答えを用意することで、毎日を過ごしてきました。
 ところがそれがトンと来なくなったものですから、牧師は、却って自分を見つめ直す時間が出来たのでしょう、ついには、手紙に返事を出すことで相談者に生きる力を与えてきたとこれまでは考えていたのですが、むしろ、自分自身こそが手紙によって生かされていたこと、そういう真の自分の姿に思い至ります。

 あえて言えば(単なる一つの解釈に過ぎませんが)、これまで届けられた手紙は、まさに手紙の体裁をとってはいるものの、本来的な手紙、真の意味でヤコブ牧師に届けられるべき手紙ではなかったのかもしれません。 
 そうした非本来的な手紙が来なくなったという事実がヤコブ牧師に送り届けられたことによって、ヤコブ牧師にとってはそれこそが真実の手紙―いわゆる手紙の外見をしてはいませんが―となったのではないでしょうか?
 そんな真実を手にした牧師を前にすれば、レイラは自分の犯した犯罪のことを包み隠さず打ち明けることもできたのでしょうし、これから生きていく方向も見出せたのでしょう。
 レイラも、自分の過去を語る前に、雑誌のページを破って音を立てて封筒を開けたように見せかけ、あたかも実際の手紙を読んでいるかのようなふりをして、牧師に話すのです。無論、牧師の方も、そんなことはスグに分かります。真実をつかむためには、現実の手紙は却って邪魔になる、むしろ真実そのものが手紙なのだ、ということなのかも知れません。
 ただ、牧師の方は、そんな真理を得たことの代償を払わずにはいられないのでしょう、レイラにコーヒーを振る舞おうと家の中に戻りますが、……。


(注)通常の冊子形式ではなく、映画にちなんで封筒の中にはがきや手紙の形式で差し挟まれていて、そのアイデアには驚きました。

(3)そういえば、3年ほど前に、同じフィンランドのカウリスマキ監督の『街のあかり』を見ましたが、そちらも本作品同様こじんまりとした映画でした(78分)。
 とはいえ、街の暴力団や、その女、宝石商強奪事件、等々、内容的には激しいところがあります。でも、何度も女に騙されながらもなんとか認めてもらおうとグッと堪える主人公とカ、路面電車が走るヘルシンキの街の様子などは、いかにも北欧的だなと思わせるところがあります。

 なお、フィンランド関連のことは、『トイレット』についての記事の(2)の注をご覧下さい。

(4)渡まち子氏は、「まるで善悪両方の境界線のような謎の郵便配達人の存在が、この映画の不思議な余韻の原因のひとつかもしれない。役者はほとんどなじみがないし、監督のクラウス・ハロも日本では無名に近い。だが優しくて清廉なこんな作品を作るハロ監督という人に、今後注目してみたくなった」として75点を与えています。



★★★★☆



象のロケット:ヤコブへの手紙

ソーシャル・ネットワーク

2011年02月06日 | 洋画(11年)
 すでにグラミー賞の4冠を獲得していて、さらにアカデミー賞の最有力候補ともされていますから、早目に見ておこうと、『ソーシャル・ネットワーク』を吉祥寺のバウス・シアターで見てきました。

(1)この映画はFacebookの創始者であるマーク・ザッカーバッグ氏のことを中心的に取り上げていますから、実在する人物を主人公にしたreal story物と言えるかもしれません。

 といっても、まずもって、マーク(ジェシー・アイゼンバーグ)が作り上げたFacebookがどんなものであるかについては、映画で全く解説されませんし(アメリカ人なら誰でも知っているからなのでしょう)、ウィンクルボス兄弟が営んでいる「ハーバードコネクション」との違いがどこにあって、どうしてFacebookの方があれほどの人気を集めたかについても、映画からは全然わかりません。
 さらには、この映画において、マーク・ザッカーバッグの成功譚を描く際のよりどころとなっている訴訟の話にしても、ごく漠然としたことしかわかりません。映画で描かれている場所は何なのか、弁護士と一緒になって双方は何を議論しているのかなど、はっきりとしないのです。
 それに、いったいどうして、ウィンクルボス兄弟に多額の和解金を支払わなくてはいけないのでしょうか、また長年の親友であったエドゥアルド・サベリンは何をマークに要求したのでしょうか(注)?

 そこで、この映画は、マークの業績というよりも、むしろその人となりをある程度事実に即して描き出した作品と見ることができるかもしれません。
 でも、女子学生とのお付き合いは、冒頭でこそ大層印象深く描き出されてはいるものの、そして、付き合っていたエリカ(ルーニー・マーラ)に「最低な人物」と言われて、逆に「くそ女」とかブラジャーのサイズなどをパソコンで書き綴ったことがFacebookにつながってくるわけですが、それ以上のことはありません(ラストで、彼女のページを開いてパソコンを見つめているマークの思わせぶりな姿を映し出してはいますが)。



 では、マークの友人関係はというと、エドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)はギリギリまでサポートしてくれますが、結局は離反するに至ってしまいます。



 逆に、Napsterで有名なショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバーレイク)の考え方に共鳴して、一緒に事業の拡大を図るものの、ショーンは薬物所持疑惑により逮捕されてしまい、マークのもとを去ることになってしまいます。



 こうして見ると、マークの周囲にいる人たちはみな彼から離反してしまうように見えます。そうだとすれば、なにもわざわざ映画にするような人物とはとても思えないところです(彼に、何か他に特別魅力的な才能があるようには描かれてはいませんし)。
 ただ、実際のところは、彼の築いたFacebookに全世界で5億人もの人が参加しているわけですから、彼をどこまでも支えた人たちが存在したことでしょう。ですが、そういった人たちは、この映画からは十分にうかがえないところです。
 といったところから、この映画でマークの人となりがうまく描かれているかというと、あまりそんな感じを受けません。

 それでは、この映画で描かれているのは一体何なのでしょうか?
 何だかよく分からないながらも、この映画は大層面白く、最後まで退屈させません。
 そこで、レトリックめいた言い草で恐縮ですが、映画自体が“Facebook”の機能を演じているのではないのか、Facebookが面白いのと同じような具合でこの映画が面白いのかもしれない、と言ってみたくなります。
 マークが付き合っていたエリカがボストン大だったことから、Facebookの範囲がハーバード大だけでなく、周辺の大学にまで拡大し、マークがロスアンジェルスに居を移すころはスタンフォード大も取り込まれ、さらにウィンクルボス兄弟がイギリスでレガッタをやる頃、ちょうどオックスフォード大とかケンブリッジ大にまで範囲は拡大しています。
 マークを含めて人々があちこちに激しく動き回ることで、付き合う人の範囲、いわば人脈がどんどん拡大するのと軌を一にして、Facebook自体も拡大しているように見えます。まるで、マークらは、パソコン内を高速で飛びまわる信号のようです。

 こんなことは単にそう見える程度の話かもしれませんが、とにかくそうでも考えないとこの映画がなぜ面白いのか、うまく言い当てられない気がします。
 とはいえ、そうだとしても実のところ、この映画がグラミー賞の4冠を獲得し、さらにはアカデミー賞を狙うほどの感動作なのかといえば、クマネズミには理解力が不足しているのでしょう、そうは思えなかったところです。


(注)映画の中では、エドゥアルドの収益を確保すべきという提案をマークが否定したりしていますから、Facebookの収益源がどこにあるのか、観客にとっては分からず仕舞いとなります。ただ、このサイトの記事を読むと、時点は若干古いながら、実際のFacebookは、やはりきちんと収益源を確保していることがわかります。


(2)映画の中で、ウィンクルボス兄弟は、マークが自分たちのアイデアを盗用したのではないかと訴えに、ハーバード大学の学長(ダグラス・アーバンスキー)に会いに行きますが、この学長は、クリントン政権で財務長官をやり、オバマ政権では米国家経済会議議長だった経済学者のローレンス・サマーズ氏をモデルにしています。
 学長は、兄弟の訴えに対して、実に尊大な態度をとり、学生間の争い事に対して学校側は介入しないと言って、全く取り合いません。映画で見られるこうした態度は、実際の人物を髣髴とさせるようです。
 ローレンス・サマーズ氏は、研究者として顕著な業績を上げていることもあるからでしょう、どこへ行っても尊大な姿勢は崩さず、その結果敵対者を多く作り出してしまい、ついには、学長であった2006年に、女性が科学で優秀な成績をあげられないのは素質の差だと受け止められてもおかしくないような発言をして大学の内外から激しい批判を浴び、ついには同年6月30日に学長を辞任しているのです(ここらあたりはwikiによります)。
 そんな彼が、知ってか知らずか、女子学生のランク付けから出発したFacebookに結果的に肩入れしたことは、興味深いことだなと思います。
 ちなみに、本年1月下旬にスイスで開催された「ダボス会議」に出席した際に、菅総理は、12人の「有識者」を招いた会合を持ちましたが、そのなかにこのサマーズ・ハーバード大学教授も含まれていました。

(3)渡まち子氏は、「ネット世代の若者の実体を、若手俳優のジェシー・アイゼンバーグが見事に演じてみせた。某大な量のセリフの中に、他人の痛みに無頓着で、時に幼児性さえ感じさせる難役。今までインディーズ作品中心に活躍していたアイゼンバーグが、意外なほどの底力で主人公の屈折と悲哀を演じき」っていて、「確かなのは、21世紀の反体制は、ネットの海の中で誕生するということ。同時代性こそ、この映画最大の魅力である」として、85点もの高得点を与えています。



★★★☆☆



象のロケット:ソーシャル・ネットワーク