ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

血と肉と骨と

2006年04月24日 | ノンジャンル
法要が終わって、何となく脱力感に襲われながらも、仕事は
忙しく、切換えに苦労した。

墓参りには、都度行きながらも、さすがに7回忌の節目と
なる法要は、全く別の感慨深いものがあった。
母親が18歳という、人生において体力的にも、肉体的にも、
精神的にも絶頂の時に産んでくれたお陰で、自分は頑丈な
身体を持ち、その頑丈さ故に、人並みはずれた飲酒を
しながらも、仕事や生活に大きな支障とはならなかったという
事実がある。

院長先生も仰っていたが、内臓などに関しては、全く問題
ないようだ。
ところが、鍛え様のない脳は全く別問題だ。長年アルコール漬に
されれば、支障が出てくるのは自明だが、それでも、ぎりぎりの
ところで母親に救われたのか、断酒となった際には、脳波検査、
CT、MRIの結果はまるで問題なく、萎縮などもなかった。
自分でも不思議な気がする。

自分の身体は、自分のもので、どう扱おうが、自分の責任で、
自分で処するという、若い頃の考えとは打って変って、
大切にしようとかいうことでもないのだが、五体満足どころか、
頑丈な身体を与えてくれた母親に感謝すると共に、自分の血と
肉と骨は、母親から分け与えられたものだという実感が、墓前で
母親の遺骨を思う時に、じわじわと湧いてきた。

胎児である自分を、自らの血を吹き付けながら護り、育み、
身と骨を削りながら分け与えてくれたいう事を、何だかひしひしと
感じたのだ。
この世に出でてからも、長い間、自分の血ともいえる、乳を与え
続けて、私が自らの口で食べる事ができるまで、育んでくれたのだ。

母親はこの世にはいない。自分の記憶の中に生きてはいるが、
それも年を追うごとに靄がかかって行く。しかし、今、自分が
生きている事がそのまま、母親が生き続けている事なのだ。
考えれば当たり前の、そんなことを、自身の実感として
理解させる為に、母親は、骨になったのかとさえ思えてくる。
今の自分は、父親でもあるのだから。

では父親には、何を与えてもらったのか? 遺伝的にいえば、
確かに肉体も与えてもらっているのだが、父親に与えられたものは、
精神だと思っている。
人として、生きるという精神を与えてもらったと思っている。
自分の意志は、自分で築き上げてきたものに他ならないが、
その根本的な精神は、やはり与えてもらったものである。

母親に肉体を、父親に精神を与えてもらって、今の自分がある。


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