ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

飲み方、生き方

2007年07月19日 | ノンジャンル
習慣的に飲酒をしていた頃のことを振り返ると、悪いこと
ばかりでは当然なく、むしろ良い事の方が多かった気がする。

性格的に、「であらねばならない。」、「であるべきである。」
という傾向が強いせいか、大らかさに欠けている、どちらかと
いえば神経質な面を、お酒を飲んで麻痺させることで、
発散させるバランスを取っていた時期は、お酒の場が、非常に
楽しいものであった。

一日の疲れを癒し、文字通り明日の活力としていたお酒は、
楽しいもので、身も心もふっと力が抜けていたように思える。
この頃は、当然、依存症でもなんでもなかったはずである。

依存症になるならないは、もちろん経年的、習慣的な
多量飲酒はそのリスクを高めることは明らかであろうが、
お酒の「飲み方」に大きく関わっていると思える。

楽しく飲んでいるうちは、なんら問題ないのではなかったか。

その人の性情や、環境、その他諸々の主要な原因はあるだろうが、
結局、楽しく飲めなくなってしまって、酒量だけが増えながら、
発散できずに余計にストレスがたまるという状況が依存症の
始まりといえるかもしれない。

楽しく飲んでいた時期があったのだから、そのままの状態で
あれば、依存症になどならなくて済んだのであろうが、
裏を返せば、自分の性質上、なるべくしてなったとも言える。

いくら飲んでも楽しくない、むしろ余計にむしゃくしゃして、
さらに飲まずにはおれない。こうなってしまうと、もう
依存症の始まりであろう。

「せっかく、飲みにいったんやったら、楽しんで、
 面白かったという顔をして帰ってきなさいよ。」とは、
カミサンによく言われたことである。

このあたりから、自分の飲み方というものがおかしくなって
しまっていたのだろうが、母親の死によって、目に見えて
お酒の飲み方が変わっていったともいえる。

何か淋しさをお酒で埋める、晴れようのない憂さを、お酒で
晴らそうとする。
素面では耐えられないことから、お酒に逃げる。。。
どうしようもない「飲み方」がそこにはあった。

断酒して、回復の道を進んでいるとはいえ、内科的に目に
見える回復に囚われると、大きく道を外れることになる。
飲まずにはいられないという、おかしな飲み方になって
しまった自分自身に目を向け、それを今後、素面で
どう向き合って対処していくのかという内面的な葛藤と努力を
続けていくのが、本当の意味での回復への道、つまり、自身の
成長ということなのである。

飲まないだけでは、自身の問題は何も解決しない。
少しずつでも、日々の生活の中で、自身の問題と対峙して、
それを克服していくという、地道な積み重ねがあって、
本当の意味での再生があるのだ。

自己との戦いである以上、世間や、周りや、他人のことは
どうでもよい。
自らが、自らの足で、一歩一歩階段を登っていけばよい。
声を掛け合い、励ましあって、共にそれぞれの階段を登って
いくことは良しとしよう。
それは、楽しい生き方であるに違いない。

だが、わざわざ立ち止まって、止まっている人や、転んだ人を
見下して、どれほど優越感に浸ろうとも、自分は一歩も登れて
いないのである。
これほど楽しくない生き方はないのではないか?


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