母親の墓前で手を合わせると、なぜか自分の
嫌なところをあからさまに見せつけられる。
それでいて、それを素直に認めて、
気をつけて直さないとなという気にさせられる。
そこに母親はいない。
ただ、その遺骨があるのみである。
だが、そこは、やはり母親に会える場所なのだ。
時には黙ってこちらを見つめている。
打ちひしがれた情けない姿に、雨を降らせて
私を追い返した時もあった。
時に、褒める代わりに虹をかけてくれた
事もあった。
そこには、人として生きる自身の原点がある。
どんな自分も、そこでは一旦受け入れて
もらえるからだ。
つまりどんな自分も、自ら認めることから
また新たに始めることができるという意味で
原点とも言えるのだ。
生きる手段としての断酒には、
無論その原点がある。
しかし、自分を自分たらしめる、
自身の原点といえば、それはやはり
母親なのであろう。
嫌なところをあからさまに見せつけられる。
それでいて、それを素直に認めて、
気をつけて直さないとなという気にさせられる。
そこに母親はいない。
ただ、その遺骨があるのみである。
だが、そこは、やはり母親に会える場所なのだ。
時には黙ってこちらを見つめている。
打ちひしがれた情けない姿に、雨を降らせて
私を追い返した時もあった。
時に、褒める代わりに虹をかけてくれた
事もあった。
そこには、人として生きる自身の原点がある。
どんな自分も、そこでは一旦受け入れて
もらえるからだ。
つまりどんな自分も、自ら認めることから
また新たに始めることができるという意味で
原点とも言えるのだ。
生きる手段としての断酒には、
無論その原点がある。
しかし、自分を自分たらしめる、
自身の原点といえば、それはやはり
母親なのであろう。
ギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」
に出てくるオスカル少年が卑俗な大人たちの振る舞いに怒り
太鼓を打ちならし、叫ぶ時、彼は「母なる絶対」に自分の行為が担保されていることを知っているのだろう。
スカートの中は、宝浄世界たる母胎を
象徴していたのかもしれません。