ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

懺悔

2010年12月26日 | ノンジャンル
懺悔と言うと、教会で牧師に罪を告白するイメージだが、
実は仏教用語である。

昨年、今年と振り返るに、ひと言で言えば飲まずに
自分自身とまともに対峙する時であったように思う。

無論それは今も続いているし、これからも続いていく。

くだらないプライドばかり高いくせに臆病で、
人の顔色ばかり伺っている小心さ。

そんな自分が情けなくて、強がって一段高いところへ
身も心も置こうとするが、その虚しさもわかっていて、
己の人としての幅、度量のなさに愕然とする。

寛容、包容という言葉から程遠い小ささだ。
時に情けなさ過ぎて、消えてしまいたくなることもある。

離脱症状で幻覚を見ていたとき、テレビ画面一杯に
ありとあらゆる罵詈雑言が浮かんでいた。
あれは、自分自身に向けての文字ではなかったか。

そんな自分に対するどうしようもない嫌悪を、
飲んで酔うことでしか紛らわせることができなかったのか。
かろうじてお酒で自分を支えていたのだろうか。

今、全てに対して素面で対峙している中で、そのことが
本当に良くわかるのである。
その当時は、お酒なしではとても自分を支えることは
できなかった。

自分自身は、その当時と大して変わりはない。
そして、お酒なしで、ひとつひとつのことに正面から対峙し、
自分の情けなさに折れそうになりながらも、なんとか
生き続けている。

あの時に死んでいたと思えば、恐いものはないはずなのだが、
それでも現実を生き続けていれば、恐いことは多い。

断酒を継続している自分を褒めようなどという気は
さらさらない。
他人から見れば、偉いとか、意志が強いとかということに
なるのだろうが、自分の意志の弱さは自分が一番知っている。

一日断酒は、一日を生きるということ。
素裸の自分と向き合って、一日を戦うということ。
誰に負けようと、自分に負けなければよい。

誰になんと言われ、なんと思われようと、自分に恥じることが
なければよい。

今のままの自分でよいとは思わない。
だが、ありのまま、今日のこの一日を生きていく。
一歩を前へ進める。 それはそのまま、戦いである。

この日、この空、この私。

たとえ一ミリでも、前を向いて進む戦いを誰でもない、
自身に挑み続ける。

いつでも、どこでも、今から始める、私から始める。

苦しさも、楽しさも、そのまま抱いて、前を向く。

そして、なにがあろうと、己の可能性だけは信じて
やらねばならない。