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ミッテラン元大統領-極右から左派、植民地主義者

2013年02月21日 | 人物

フランスの大統領のフランソワ・オランドは、ミッテラン政権での参事官でした。

ミッテラン元大統領(1997年―2008年フランス社会党第一書記)は、彼の奥様のダニエル夫人が人道活動家として活躍しているということもあって、マイナスイメージはあまり強く持っていなかったのですが、ウィキペディア(もちろん万全ではありません。)で改めて彼のことを知り新しい発見続々。

フランソワ・ミッテラン(ウィキペディア)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%B3

(抜粋始まり)

生い立ち 

1916年、シャラント県ジャルナックに生まれる。王党派であったミッテランは1934年から極右運動に参加、当時外国人排斥や王制復古を謳っていた右派の政治組織アクション・フランセーズに所属した。

ヴィシー政権

19399月、フランスの第二次世界大戦参戦をうけて、軍隊に召集される。その後負傷しドイツ軍の捕虜となるものの、194112月に逃走に成功しフランスに帰還。1942年からのフィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下で働き、1943816日には、戦前の国家主義活動、ヴィシー政権への積極的な傾倒ぶりが認められ、勲章を授与される。

ド・ゴール政権

しかし同年12月には対独レジスタンス運動に参加し、地下運動を始め、ロンドンに逃亡。1944年にはド・ゴールの臨時政府に参加した。19441028日にダニエルと結婚した。

1946年、ニエーヴル県選出の国民議会議員となり、植民地相、国務相、法相などを歴任し、第四共和政期の10年あまりをほぼ閣僚として過ごす。

この間、フランスが植民地の独立運動に直面していた1953年には、「ビゼルトからカサブランカまで、北アフリカにおけるフランスの影響力の維持は私にとってあらゆる政治問題の中でも一番の課題である」と表明し、翌1954年にアルジェリア戦争が勃発した際には、国民議会において「アルジェリアの反徒は戦争という最終形態しか見出せないのだ」と発言、反徒を射殺することを命じ、独立運動の鎮圧を図った。

ジャック・マシュ将軍がアルジェの戦いにおいてアルジェリア民族解放戦線 (FLN) メンバーの尋問の際に拷問を組織的に行ったのは、とりわけミッテランの命令をうけたものだとされている。

1959年、シャトー=シノン市長に就任(1981年まで)。

大統領選挙

1965年には、左派統一候補として大統領選挙に挑み、ド・ゴールと対決、結果的には敗れたが、決選投票において10619735 (44.80%) を獲得した。1971年社会党第一書記に選出される。

その後、ド・ゴールの後を継いだジョルジュ・ポンピドゥ大統領の任期半ばの急死をうけて行われた1974年の大統領選挙でも再び決選投票に持ち込み、12971604 (49.19%) を得たものの、13396203(50,81%)を得たヴァレリー・ジスカール・デスタンに僅差で惜敗する。

大統領就任 

ジスカールデスタンと再び争った次の1981年の大統領選挙では15708262 (51.76%) を得て勝利、第五共和政第4代大統領に就任。ピエール・モーロワ内閣を成立させ、有給休暇の拡大、法定労働時間の削減、ラジオおよびテレビの自由化、大学入試の廃止、死刑制度の公式廃止を行うとともに私企業の国有化や社会保障費の拡大をはじめとする社会主義的政策を取った。

しかし、翌1982年には、インフレの進行、失業者の増加に直面したため、賃金を凍結し、公共支出を削減するなど緊縮財政を取り、さらに首相もローラン・ファビウスに替え、自由主義的政策に転回することになる。西側の国家元首としては唯一金日成と会談している。

(中略)

大統領在任中の19932月には、1887年から1954年まで植民地支配したベトナムと和解した。

なお、1993年から1994年にかけてピエール・ベレゴヴォワ元首相や長年金庫番を務めていたプログスなど複数の側近が「自殺」したことから、不祥事のもみ消しを意図したミッテランの指示による殺人ではないか、という疑いがマスメディアにおいて高まった。

(抜粋終わり)

もともと極右。第二次世界対戦でドイツ軍捕虜になっていながら、なぜか親独のヴィシー政権下で働く。レジスタンス活動。植民地主義で敵に非情・・・・。

(フランスは、南太平洋で核実験を行っていますが、1960年と1961年、アルジェリアでも行っています。)

政治家とは、トップになるほどにクリーンではいられないものだと思いますが、穏健に思えるオランドがマリ侵攻に踏み切ったのは、あまり意外ではなかったのかな、とも思えてきました。

現在、マリがアフガニスタン化するのではないか、と危惧する声もでてきましたが、マリに限らず、西アフリカはどうなっていくことやら。

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