Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

タデウシュ・ロメルとユゼフ・レティンガー-番外編(戦争と語学)

2023年09月08日 | タデウシュ・ロメル、ポーランド

「シャネルって、イギリス人やロシア人、ドイツ人と付き合っていたけど、彼女は母国語のフランス語以外、話すことはできたのかしら?付き合った相手がすべてフランス語ができたから、すべてフランス語だけを使ったということ?
シャネルがドイツのスパイだとかいう話もあるけど、そうなると余計フランス語だけしかできないのにそういう話が出るのは不自然。」

先日、友人にぶつけた疑問です。

欧州の歴史を調べていると、「まるで欧州には共通言語があるような錯覚」が起こります。

上流階級では「フランス語」がフランス以外でも使われていたり、教育や留学により多国語を話すことが可能な人は少なくなかったでしょうが、貧困の出のシャネルなど、どうだったのでしょうか。

ユゼフ・レティンガーがロンドンの亡命ポーランド政府のシコルスキーの顧問になっていたのは、シコルスキーが英語ができなかったため、通訳を兼ねていたといますが、語学に支障あった欧州人の話はあまり聞かないです。

ロンドンと言えば、第二次大戦時の語学教育について、立命館大学の講師を務めていた田山博子氏が書いていらっしゃいます。
この言語は、「日本、中国、トルコ語、ペルシャ語」と、欧州以外の言語ではありますが、本当だったら、欧州内同士の言語も問題はあったのではないでしょうか。

長いオマケとして。

第二次世界大戦中のイギリスにおける日本語教育1)
─敵性語として学ばれた日本語─
田山 博子

08/fic”R/’ÓŠ¹ (ritsumei.ac.jp)

抜粋:

Ⅲ ロンドン日本語学校(ロンドン大学SOAS)での集中コース
1 日本語教育の目的

激しさを増していく前線からの要求に答えるために、戦時下の日本語教育はその目的を限定されていく。それは、できるだけ早く、効率よく学習を終え、戦場でいかに母国のためにその学習を役立てるかということであった。言語教育が「敵国の言葉を学び母国の為に役立てる」という目的に収斂する近代の語学学習の構図であるといえよう23)。

SOASでこのコースがはじまったときのラルフ・ターナー学部長の話は以下のようであった。

「・・・ここでの学習は、18ヶ月間日本語を習った後、東南アジアの戦場で敵の通信を傍受し押収した書類を翻訳し、捕虜を訊問したりして、情報を取り、全軍の作戦に貢献するために行われる。イギリスの旧領土を奪い返し、そこの人民を解放しなければならない。当面の敵は頑強な日本兵でも、ジャングルでもマラリアでもなく、日本語である。これを早くマスターし、本当に弾丸の飛び交う戦線で活躍できるようにしてほしい・・・」と言う挨拶でロンドン大学での特別日本語コースは始められるのである。1942年に始まったこのコースは1947年までに非常に短い期間の訓練生も入れて総計648名の日本語学習者を作り出した。

2 コースの概略

授業は月曜から金曜まで、朝9時から12時、午後は2時から5時までで、このうち4時間は教師の指導の下で、あとの2時間は自習であった。放課後も予習、復習、宿題があり、また、毎週二回日本や極東に関連した題での講演が一時間ずつ行われ、日本語の背景となっている文化やインド、東南アジアの情勢についての知識が得られるようになっていた。

SOASで行われた戦時中の日本語コースは大きく分けて主となるA,B,C,D,Eの5コースと、時に応じて行われた短期間のコースがある。
次にあげるAコースが時期的に一番早く、それより3ヶ月遅れてB,C,Dの3コースが始まっている。そして、それまでの経験と反省を生かしてEコースがスタートするのが、1944年の6月である。

Aコース(State Scholarship(general purpose course)1942.5~1943.12
政府給費生のためのコース、もともとは民間人のためのコースであったため、学生は学校休暇がもらえた。選ばれた30名のうち28名が卒業。幾人かはこのコースの教官となる。このコースでは読み、書き、話すという一般的なトレーニングの他に、適性に応じて翻訳、訊問の2グループに分け、後に軍隊用語も学ぶようになる。

このコースの卒業生の中には、社会学者ロナルド・ドーア(Ronald Dore),日英の産業界に貢献した元国鉄総裁のサー・ピーター・パーカー(Sir Peter Parker),ケンブリッジ大学の教授で荻生徂徠の研究家であるマックエバン(John McEvan)、日本語と能の研究家であるパトリック・オニール(Patrick O’Neill)等がいる。

Bコース(Service Interrogators’ course)1942.7~1945.7
訊問官養成コース、学生は語学の単位をもっている者が軍の中から選び出された。
戦場の日本軍の俘虜および捕虜を取り調べ情報を集める訊問官を養成するため専ら会話の練習を行う。軍からの要求で、短期間に訊問が行える会話力をつけるために、日本文の読み書きはせずに、ローマ字を使い、聞く力をつけることが重点的に行われた。全期間を通じて、海軍からは13名、陸軍からは42名、空軍からは19名の計74名が選抜され、休暇もない特訓の13、16、20ヶ月を送ることになった。しかし全体の18%に近い13名は卒業できなかった。61名の卒業者はインパール、ビルマ戦線へと送られた。

このコースの卒業生の中には、「風は知らない」「スージー・ウオンの世界」などの小説で知られるリチャード・メイスン(Richard Mason)、浄瑠璃の研究家チャールズ・ダン(Charles Dunn)駐日大使となった外交官のサー・ヒュー・コータッツイ(Sir Hugh Cortazzi)等がいる。

(中略)

日本語の主任講師は、駐日英国大使官付き武官として、1928年に来日し、小樽高商、静岡高校で英語を教えたフランク・ダニエルズ、その夫人のおとめやロンドン在住の日本人などを含めて、全期間を通じて計39人のイギリス人、カナダ人2世が教育にあたった。ダニエルズが中心となって主にイギリス人が文法を教え、日本人やカナダ人二世は会話や音声教育、漢字は草書体の練習などにも力が入れられ、おとめ夫人が筆順の指導をしている。イギリス人の教官の中には、軍人であった人が多いが、この中で、ピゴット少将のことに触れたいと思う。

彼の父.F.T.ピゴットは1888年に明治憲法制定のための日本政府法律顧問として来日している。ピゴット一家はそれから3年間滞日するのだが、このピゴット父子の日本との「絆」は日英親善の大きな礎となる。父ピゴットは、ロンドンの日本協会の創立者であったし、息子F.S.Gピゴットは一度断たれた日英の絆を復活させようと、戦後、日本協会を実現させている。

1941年12月に起こった日本の真珠湾攻撃は彼に激しい驚きと悲しみを与えるが、自分が敵国の言語を読み、書き、話すことのできる数少ない英国人であることを自覚し、SOASでの日本語の指導を申し出たのだった。戦争が終わると、彼の旧知の友、『バターン死の行進』の責任をとって裁判にかけられていた本間中将を救うため、又、重光葵への投獄の宣告を軽減しようとできる限りの働きかけをしている。

ピゴット少将のような心情の持ち主が教員の一人であったことによって、日本語コースで学ぶ人々は大きな影響を受けたに相違ない。
コースで学んだ学生は、軍関係者、それも軍入隊以前に学校でフランス語やドイツ語などの語学を学び優秀な成績を修めていたものや、IQの高い、グラマー・スクールの大学入学直前の学生や、既にギリシャ・ラテン語などの外国語でよい成績を修めている優秀な大学生であった。緊急に大量に要請するため、このように日本語要員が選ばれていたのである。

ほとんどの学生は、この急拵えの日本語教育を日本や日本語のことに興味すら持ってすらいないという白紙の状態で始めることとなった。しかし、中にはサー・ヒュー・コータッツイのように、契機となる経験を持ったものもいる。

また、日本語を選んだのが本当に偶然であった場合もある。召集後、語学特別訓練の募集があった時、ロナルド・ドーアは4つの外国語(日本語、中国、トルコ語、ペルシャ語)の中から第一希望をトルコ語(19世紀の歴史を読んでおり、興味があったから)第二希望は中国語を選んだ。ところが、すでに野蛮な国と言うイメージがあった日本語を希望する人はひとりもいなかったので、彼の希望は通らず、日本語のコースへ
まわされてしまったと言う。しかし、電話のインタビューで、彼は「人生であれほど運の良い間違いはなかった」と感慨深げに述懐して言う。語学の才能のあった彼は、コースの助教にも選ばれている。

インタビューや質問票での返答で、日本語コースに入る前は、やはり新聞、ラジオのニュースなどから、日本に対してあまり良いイメージを持っていなかったと答えた人が多い。しかし、実際に、訓練が始まってみると、週ごとのテストがあり、それに失敗すると原隊復帰というプレッシャーがあり、もともと語学には適性のある優秀な学生だったこともあって、それまでに学んだことのある語学とまったく体系の違う言語の習得にのめり込んでいった。


参考:

東洋アフリカ研究学院 - Wikipedia

ロンドン大学SOAS100周年イベントの動画 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

SOAS出身者たちにとって今の日本は - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« タデウシュ・ロメルとユゼフ... | トップ | スペイン人Iさんの婚約・日仏... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

タデウシュ・ロメル、ポーランド」カテゴリの最新記事