前回書いたブログ記事
アラン・ドロン追悼・フランス映画界の戦後-11(サロンとセレブとヴィシー政権) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
は、終戦直後までの”サロン”の話ですが、(サロンをフランスでは開かなくなったとしても、2人の女性はそれぞれの人脈を生かしたでしょう。)、こうしてできた繋がりが、戦後のフランス(+イタリア、ハリウッド)映画人ネットワークを作っていきます。
戦後のフランスでのサロンのお色気接待部門を引き継いだ一つが、マダム・クロード」だったのだと思います。
アラン・ドロン追悼・フランス映画界の戦後-7(マルコヴィッチ事件とマダム・クロード) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
アラン・ドロンの支援者のポール・ルイ・ワイラーは、ひょっとしたら接待のマダム・クロードを利用したり、利用されたりしたのではないでしょうか。
アルザスのJaval家-7(Paul Louis Weiller) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
抜粋1:
ヨーロッパの王族、実業家、政治家の偉人たちの間で激しい社交生活を送りました (アリストテレス・オナシス、ヘンリー・フォード2世、ジャン・ポール・ゲティ、リチャード・ニクソン、ジョルジュ・ポンピドゥーなど、ポール=ルイ・ワイラーが一緒に仕事をしたり、彼のために働いたりした人、芸術、手紙、スペクタクルの人物など、彼が集めたマルセル・プルーストによって記述されたものの伝統にある最後のパリのサロン. ポール・ルイ・ワイラーはまた、数多くの慈善団体に資金を提供しました.
抜粋2:
彼は芸術の偉大な後援者の 1 人になり、ベルサイユ宮殿の修復を経済的に支援し、彼の影響力を通じて、バレエ団を設立し、多くの芸術家 (ロベール ・オッセン、ロジェ・ヴァディム、モーリス・ ベジャール、ローラン・ プティ) と俳優 (ミシェル・メルシエ、ブリジット・バルドー、アラン・ドロン…)を支援しました。
アラン・ドロンのほか、ワイラーが支援したブリジット・バルドー。後にマダム・クロードをパーティーに招いていたようですが、彼女の始まりが、”接待”に多かったという「モデル」。
支援者のために政治家と会ったりもしていたのでしょう。
ブリジット・バルドーの自伝をまとめていらっしゃる方のウェブサイトから抜粋させてもらいます。
ブリジット・バルドー 複雑恋愛相関図 (eonet.ne.jp)
・10代半ばで帽子デザイナーのモデルを始める。同時にその広告と共にファッション誌「ELLE」の編集に説得されて専属モデルになる
既に数本の映画に出演するが2足三文のギャラである。
・映画監督の助手だった、ロジェ・バディムが広告をみて、ブリジットにコンタクト。直ぐに交際がスタートした。
ちなみにロジェの本名はプレミアコフであり、フランスロシア領事の長男である。「左翼」
後に収入が無い助手では駄目だと、「パリス・マッチ」の記者に転進する。
・ロジェの友人で、ジャン・コクトーとの初対面。いたく気に入られたブリジットはコクトーに「君の存在そのものが素晴らしいのだ」と宣言される。
歌手であり、後にゲンズブールがブリジットと自分への曲作りの思い入れの差を気にするジュエット・グレコとも対面。
俳優、マーロン・ブランドがロジェのアパートメントの一室で滞在中にて最初で最後の対面。
・俳優 ジャン=ルイ・トランティニャン 1955~1957年 撮影中に恋愛
・1956年 ジャン=ルイが徴兵される。官僚フランソワ・ミッテランに呼び出され対面する。
手をしゃぶられながら「僕と寝たらジャンにはそれなりの場所に配置してあげるんだけど」
と要求される。ブリジットは怒りに震え一切応じず。
(ブリジッド・バルドーは、アラン・ドロンのように、家庭に恵まれてなかったわけではないようです。
【生誕89周年】ブリジット・バルドーは稀代の妖婦か? 天真爛漫な聖女か? (harpersbazaar.com)
参考:
フランス映画界と20世紀-ロジェ・ヴァディム - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
ミッテラン元大統領-極右から左派、植民地主義者 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
フランス映画界と20世紀 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
アラン・ドロン追悼、フランス映画の戦後-2(ドロンが反ユダヤ?・クロード・ルルーシュの『愛と悲しみのボレロ』 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)