釜石捕虜収容所について、ブログで2度取り上げていますが、
『安倍首相の靖国参拝が台無しにするもの』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20131230
『空の空なればこそ』
http://blog.goo.ne.jp/afternoon-tea-club-2/d/20131213
ちょうど、ニューズウィークの編集部の小暮聡子氏がこんなコラムを書いていたので、貼り付けます。
ニューズウィーク(2014年1月14日)
祖父と私と「永遠の0」
http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2014/01/post-274_1.php
おじいちゃんは「戦争犯罪人」だった――私がそれを知ったのは、今から16年前、高校生のときだ。
祖父・稲木誠は第2次大戦中、岩手県釜石市にあった連合軍捕虜収容所の所長を務めていた。「連合軍捕虜」というのは、戦時中に日本軍がアジア・太平洋地域で捕虜として捕えた連合軍将兵約14万人のことだ。そのうち約3万6000人は日本に連行され、終戦まで全国各地の収容所で生活しながら労働力不足を補うべく働かされていた。祖父は3・11で大きな被害を受けた釜石市沿岸部の捕虜収容所で、製鉄所で働く捕虜約400人を管理していた。捕虜の国籍はオランダ、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどで、その多くは若者だった。祖父も当時、28歳だった。
釜石市が近年の歴史で海からの脅威にさらされたのは、3・11が初めてではない。終戦が迫った1945年7月と8月、この町は太平洋から連合軍による艦砲射撃を浴び、壊滅的な被害を受けた。祖父が管理する収容所でも、捕虜32人が犠牲になった。祖父は戦後その安全管理責任などを問われて戦争犯罪人(B級戦犯)となり、巣鴨プリズンに5年半拘禁された。巣鴨プリズンというのは、東條英機などA級戦犯も入っていた監獄のことだ。現在その跡地には池袋サンシャインビルが建っている。
祖父は大学で英語や哲学を学んだ後に学徒兵として徴兵されたため、巣鴨プリズンでは英字誌のタイムやニューズウィークを読んでいた。戦時中の日本の新聞と比べて質の高い報道に触れ「ジャーナリズムの世界でもアメリカに敗れた」と感じた祖父は、プリズンを出た後に記者になった。
それから20年以上が過ぎた頃、釜石市で元捕虜だったオランダ人のファン・デル・フックという人から釜石市長宛に1通の手紙が届いた。そこには「収容所での取り扱いは良かった」と書かれていた。「戦犯」という十字架を背負いながら生きてきた祖父にとって、それは天上からの福音のようにありがたいニュースだった。過酷な捕虜生活を生き延び母国へ帰ったフックさんが、人生の終盤に際して祖父の心を救ってくれたのだ。これをきっかけに2人は文通を始め、敵味方を超えた友情を育んでいった。フックさんから祖父に贈られた捕虜収容所での集合写真の裏側には、フックさんの字でこう書かれている――「1944年クリスマス 人情味ある所長であった稲木さんへ敬意をもって」。
私がこれらの話を知ったのは、高校時代のある夏の日だ。祖父は私が7歳のときに他界していたため、戦争体験については彼が記者を辞めてから出版した本などの手記を読んで初めて知ることができた。祖父の記憶と言えば、いつも優しくひょうきんで、幼い私に身振り手振りで英単語を教えてくれたこと。その祖父からは想像も出来ない壮絶な人生に、手記を読むうちどんどん引き込まれていった。単純に、祖父のことをもっと知りたいと思った。
祖父から直接話を聞くことが出来なかったため、それ以来私は祖父を知る人物を探してきた。大学時代には釜石市を訪れて祖父の元部下に会い、アメリカ留学時には元連合軍捕虜の戦友会に参加したり、メリーランド州にある公文書館で祖父の裁判資料をあさったりして調査を続けた。それでも、祖父を知る元捕虜を見つけることは出来なかった。
当時のことを調べるなかでは、知りたくなかったことも沢山出てきた。釜石にいたアメリカ人元捕虜(既に他界)が書いた本には、祖父のことが悪く書かれていた。祖父に有罪判決を下したアメリカ側の裁判資料にも、フックさんが手紙の中で回想する祖父像とはかけ離れた供述ばかりが並んでいた。今から10年前には、釜石にいた元捕虜が米ワシントン州に存命していることが分かった。だが私が電話をすると「話せない」とすぐに切られてしまった。当時の私はまだ勉強不足で、元捕虜の苦しみを本当の意味では理解できていなかった。
それから7年が過ぎた2010年、 知人から「釜石にいた捕虜がアメリカで見つかった」という連絡が来た。待ちに待ったはずのニュースだったが、私は嬉しいというより戸惑った。これまで別の収容所にいた各国の元捕虜たちと交流してきて分かったのは、彼らは終戦後もずっと痛みを抱えたまま生きてきたということだ。元捕虜の多くは90歳を迎えて静かな余生を送っている今、私が突然連絡をすれば当時の悲惨な記憶を蘇らせることになる。そう思うと、この捕虜に連絡することがどうしても出来なかった。
(後略)
このあと小暮氏はアメリカにいるもと捕虜のところを訪れ、歓待されたことを書き綴っています。
恐らく、お祖父様の稲木誠氏は優れた人柄で、この収容所の扱いも入鹿の里や水巻町の収容所と同じく、人道的であったと思います。
それは、出来上がったのが戦後18年後であっても、釜石に連行された中国人の慰霊の像があると言うことだけでも想像できます。
しかし、この小暮氏の文章のなかには、欧米の捕虜の話しかでてこず、しかも、
「ウォーナーさんには、日本や当時の体験、祖父や私に対する恨みや憎しみなどが一切見て取れないのだ。彼の4世代に渡る家族にも、全くそういう感情が見えない。ウォーナーさんのひ孫(19歳) に「ひいおじいちゃんから、戦争の話を聞くことはある?」と尋ねると、笑顔で「しょっちゅう。木の下とかでね」という答えが返ってくる。孫も、ひ孫も、みんな口を揃えて「おじいちゃんに会うたびに戦争体験について聞いてきた」と語る。それでも、彼らには私を警戒したり、非難するようなそぶりは皆無だ。それはつまり、ウォーナーさんがそういう教育をしてこなかったということに違いない。少しでもそういう語り方をしていたら、逆に4世代に渡って日本に対する憎しみが引き継がれていたかもしれないのだ。」
と書いています。
小暮氏は日本に連行された中国人300名については全く言及しておらず、逆に中韓を暗に批判しているようですが、お祖父様はそれをどう思うだろうか・・・と感じずにはいられません。
追記:
『永遠のゼロ』といえば、作者の百田尚樹氏は、昨年10月にツィッターで、
「すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。 そして他国の軍隊の前に立ち、「こっちには9条があるぞ!立ち去れ!」と叫んでもらう。 もし、9条の威力が本物なら、そこで戦争は終わる。 世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる。」
と呟いていたというのを、最近知りました。
「『他国』が攻めてくることは100パーセントない」とは言えず、安全保障についてはきれいごとだけを言っているわけには行かないと私は思いますが、「揉め事を解決しようとしないばかりか、相手を刺激して勝つこと」しか頭にない輩に限ってこういうことを言うもんだな・・・と思いました。
彼が安倍首相のお友達で、NHKの委員になるんですから、まったく。