Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

イディッシュ・コネクション-4(乗っ取られたホロコースト)

2024年08月09日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

イスラエル、ノルウェー大使館に対パレスチナ外交活動停止を通告(AFP=時事) - Yahoo!ニュース

【AFP=時事】イスラエルは8日、パレスチナ自治政府で活動するノルウェー外交官の権限を取り消すと発表した。ガザ紛争をめぐる「反イスラエル行為」に対する公式な抗議だとした。

【写真】スペインなど欧州3か国、パレスチナを国家承認

 イスラエル・カッツ(Israel Katz)外相は同日、「在イスラエル・ノルウェー大使館がパレスチナ自治政府で行っていた、いかなる代表活動も停止するよう通告した」と述べた。ガザ紛争をめぐる「反イスラエル行為」を理由としている。

(後略)

 

今年のアカデミー賞受賞式で、ジョナサン・グレーザー監督が言った言葉「乗っ取られたホロコースト」についていくつか生地を書きました。

ジョナサン・グレイザー監督のアカデミー賞スピーチ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

今考えると、グレイザー監督は単に、「ナチスがやってきたホロコーストを今度はイスラエルがやっている」と言う意味で言ったのだろうと思えてきます。

しかし、イスラエルはナチスのホロコーストだけでなく、「ホロコーストの被害者を利用して、”イスラエル・ユダヤ人全体=ホロコーストの生還者”という構図を作ってきた」と言う意味でも、「ホロコーストを乗っ取った」ともいえるのではないか、と気が付かされます。

 

こちらは今年1月29日のNHKのインタビュー記事です。

ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺ホロコースト アウシュビッツ生存者の子がパレスチナのために声をあげるわけ | NHK

「収容所から解放されたとき、父の体重は32キロでした」

両親がナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」を生き抜いたという、77歳のユダヤ人男性は、50年以上にわたってパレスチナの人たちのために声を上げ続けています。

その原点は建国まもないイスラエルで10歳の時に経験した、ある出来事にありました。

(ロンドン支局記者 松崎 浩子)

アウシュビッツから生還した両親
イスラエル出身のユダヤ人、ハイム・ブレシートさん(77)。

イギリスでパレスチナ人との連帯を掲げるユダヤ人団体の共同代表を務めています。

ブレシートさんの両親は、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」の生き残りでした。

600万人を超えるユダヤ人が組織的に殺害され、世界史上、例のない大虐殺とされるホロコースト。ポーランドに住んでいたブレシートさんの両親も1944年、アウシュビッツ強制収容所に送られました。

(中略)

収容所から解放された両親はイタリアの難民キャンプに向かい、そこでブレシートさんが生まれました。

1948年、イスラエルが建国。それに伴って、アラブ系の住民、パレスチナ人の多くがイスラエルによって住まいを追われました。

一方、ブレシートさん一家はこの年、イスラエルに渡り、テルアビブの南にある海沿いの町で新たな生活を始めたのです。

ブレシートさん
そこに住んでいたユダヤ人は、強制収容所から来た人たちだけで、町全体が収容所からの難民、いわば“生存者”でした。あとは、イスラエルに土地を追われ難民となった『ナクバ(大惨事)』を生き延びたパレスチナ人たち。
そこは“生存者”の町だったのです。どちらも、大きなトラウマを抱えながら生き残った人たちでした

ただ、ホロコーストを生き延びた人たちの多くは、ナチスと戦わなかった「弱者だ」とみなされることを恐れ、イスラエルではほとんど、過去の経験を語らなかったといいます。

ブレシートさん
「イスラエル人は生存者の話にとても鈍感で、耳を傾けようとしませんでした。それは私たち家族をイスラエルで孤立させることになりました。
私たちはヘブライ語を話し、イスラエル人でありたいと思いましたが、よそ者であると感じました。私たちは基本的に必要とされていない少数派でした」

そんなブレシートさんにとって、今も忘れられない出来事があります。

当時一家が住んでいたのは、もともと、パレスチナ人が暮らしていた家でした。母親からは、いつもこう聞かされていたといいます。

ブレシートさん

「私が5歳か6歳の頃から『ここは私たちの家じゃない。あなたが赤ん坊の時に追い出されたパレスチナ人の家なの。いつか彼らは戻ってくるから、私たちは彼らにこの場所を返すのよ』と母は言っていました。
そして彼らが残していった荷物を全部まとめて、きれいに保管していました。
私はイタリアで生まれましたが、自分が住んでいたローマの家を覚えておらず、イスラエルの家が私が知っていた唯一の家だったので、非常にショックを受けたのを覚えています。
母の言っていることが理解できず、自分の家がなくなってしまうのではないかと心配していました」

ブレシートさんが10歳になったある日、明らかにアラブ人だとわかる女性2人と3人の子どもが路上から家の方を見ているのに気付き、母親に「彼らが帰ってきた」と伝えました。

ブレシートさん

「彼らに家の中を見てもらった後、母が『あなたたちが戻ってきた時のために全部取っておきました。荷物は全部ここにあります』と言って保管していた荷物を見せると、彼らは泣き始めました。
母親たちが泣いていたので、私と妹、3人のパレスチナ人の子どもたちもみんな泣いてしまいました。
年配の女性が私の母に『あなたはとても特別な女性です。私たちのものを守ってくれて、とても感動しています』と言いました。

私が10歳だったこの日は、おそらく私の人生で最も重要な日でした。


なぜなら、『この人たちは敵ではない、私や妹や父を殺したいわけではない』とわかったからです。
私たちイスラエル人が、この2人の女性と3人の子どもたちにしたこと、それこそがひどいことだということを理解したのです」

このとき、パレスチナ人の親子はガザ地区から数時間だけ出る許可がおりて、自分たちの家に戻ってきていました。

その日、一緒に食卓を囲んだ親子は「また戻ってくる」と言ってガザ地区に戻りました。しかし、再び家を訪ねてくることはありませんでした。

(続きはリンクからお読みください。)

 

今や、イスラエルだけでなく、強いイディッシュ(ジューイッシュ)・コネクションが、米国を動かしている事実を隠さなくなっています。

(多くの善意のユダヤ系の人々が立ち上がったのが救い)

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