三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』1

2012年03月16日 | 戦争

いささか古い記事です。
<南三陸町>防災対策庁舎解体の意向を町長が表明
 東日本大震災の津波で多数の職員が死亡・行方不明になった宮城県南三陸町の防災対策庁舎について、佐藤仁町長は20日の定例会見で、解体する意向を明らかにした。町は津波被害を象徴する建造物として、保存を含めた庁舎の在り方を検討していたが、遺族や行方不明者の家族らが難色を示していた。
 佐藤町長は会見で「将来への教訓とするため、県外からは残した方がいいとの指摘が多かったが、今後も町に住み続ける遺族らの思いを尊重し、解体の方向で進めていきたい」と述べた。
 解体時期は未定。17日から遺族宅を訪問し、解体の方針を説明しているという。
 夫で町職員の三浦洋さん(当時40歳)を失った妻菜緒さん(36)は「庁舎の前を通る度つらかったが、それ以上に見せ物のようになっているのが嫌だった。解体することになって良かったと思う」と話した。(毎日新聞9月20日)

私の叔父は、原爆ドーム永久保存運動があった昭和42年ごろ、「原爆ドームなんか壊せばいい」と言ってた。
20年経っても、心の傷は少しも癒えていなかったわけである。
だけど、原爆ドームが保存されてよかった。
南三陸町の庁舎も残しておいてほしい。

広島と長崎の違いは、原爆ドームが長崎にないことである。

高瀬毅『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』の「もう一つの原爆ドーム」とは、長崎に落ちた原爆によって廃墟となった浦上天主堂のこと。
1958年に取り壊されたので、写真で窺うしかない。
「無残に崩れ落ちた教会と残された一部の壁。顔の半面が黒く焼けたマリア像や、イエス・キリストの使徒たちの像。首が吹き飛んだものもある」
「廃墟が宗教施設であるだけに、観る者に「人類の終末」を感じさせる、普遍性をもった風景写真になっていた」
当時、保存を求める声は大きかった。
長崎市の原爆資料保存委員会は、1949年の発足当初から1958年まで「保存すべき」という答申を出していた。
当時の田川長崎市長も保存については前向きだった。
浦上天主堂は長崎司教区の財産だから、市の考えだけで保存できない。
「ただ、教会サイドもある時期まで市と歩調を同じくしていた形跡がある」
ところが、1958年3月14日、浦上天主堂の取り壊し作業が始まった。
なぜ浦上天主堂の廃墟が取り壊されることになったのか。

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