三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』(4)

2020年11月21日 | 

月刊『創』編集部編『開けられたパンドラの箱』で篠田博之さんはこのように危惧します。

弱者を排除しようとする排外主義的な気運が世界中に広がっていることと無縁ではないような気がする。


植松聖死刑囚の手紙(2017年10月)

トランプ大統領は事実を勇敢に話しており、これからは真実を伝える時代が来ると直観致しました。


「相模原事件 死刑確定でなにが失われてしまったのか」(「FORUM90」VOL.173)で、篠田博之さんはこのように語っています。

今の社会風潮の影響を強く受けていることは確かです。植松氏が施設の中でも障害者を否定する発言が目につくようになる2016年初めには、アメリカ大統領選挙を控えてトランプが連日のようにテレビに映されており、植松氏自身がそれに大きな影響を受けたと自分で言っているんですね。(略)今までの福祉重視みたいな社会とか、世界の在り方にトランプは暴力的に挑戦した。差別的な考えを隠さずに口にすることが許されるのだという風潮で、植松氏は世直しのためにそれが必要で、自分も社会のための救世主になるんだと論理を飛躍させていくんですね。(略)
そうやって彼が変わっていく半年なり1年というのは、世界中にある種の排外主義が広がっていった。彼はそれを自分の思想形成の中に取り入れていくんです。


渡辺一史さんの発言です。

もう一つあるのは「自己責任社会」です。とにかく助け合いや支え合いということにはコストがかかるだけで、最終的には自己責任で野垂れ死にするような人はすればいい、命の選別もやむなしというような風潮が高まる一方ですよね。(略)公の席ではなかなか口にしづらいようなことでも、あけすけに語ってしまうことが正しいことなんだというような、ポリティカル・コレクトネス批判というんでしょうか、簡単に言うと「キレイゴト批判」ですね。「障害者なんていらなくね?」「あいつら生きてる意味なくね?」というような、身もフタもないことを口にすることこそが正しいことだというような価値観。それらが2016年という時期に、色濃く植松氏の中でクロスして犯行に結びついたんじゃないかと思います。


『開けられたパンドラの箱』に、海老原宏美さんが談話を寄せています。
海老原宏美さんは脊髄性筋萎縮症Ⅱ型の障害があり、移動には車椅子を使い、人工呼吸器を日常的に使用しているそうです。

なぜその命が大事なのか。命が大事だということは、学校の道徳とかで習うけれども、なぜ大事なのかは習わないんですよね。そんなものは一緒に生きていくなかで感じとることだけれども、共に生きる環境がないから感じとれないし、誰も教えてくれない。その中で起きた事件なので、背景には複雑な環境があるのだろうけど、起こるべくして起きた事件なのかなと私は思っています。(略)
植松被告が本当に狂った人で、あんな危ない人を野放しにしておけないから、精神科病や刑務所に早く入れてほしいと思う人が多いんでしょうね。危ない人、よくわからない怖い人をどこかに隔離しておいてほしいというのは、重度障害者の人は接し方もわからないし、ケアも大変なので施設に入れておいてほしい、という考え方と全く一緒なんです。(略)
私が当事者として感じることは、良かれと思ってやってくれることがだいたい差別なんです。特別支援学校とかもそうですよね。送迎をつけて、保護者の負担を減らして、人手も増やして、学校の中で手厚く見てもらえる。
あたかもその子のためになっている感じがしますが、学校の中ではそれでよいかもしれないけれど、社会に一歩出たら障害を持った人のペースで社会は動いていないんです。あっという間に取り残されていくわけで、それをフォローする仕組みは社会にはないんです。
確かに同じペースの子しかいない環境ではいじめもないと思いますが、社会に出たらいじめられるんです。トロいとか、仕事ができないとか、挙げ句の果てに殺されたりするわけじゃないですか。それに対応する力は、特別支援学校では身につかないんですね。
そういうふうに良かれと思ってやってくれることが大概差別だという思いが私の中にあって、行政っていつもそういうところを勘違いしているなと思います。

海老原宏美さんの指摘にはうなずくばかりです。


新自由主義政策によって格差が拡大して貧困層が増え、弱者が切り捨てられています。
そんな中、死ぬ権利を主張する人は、イジメやパワハラ、経済問題などで「自殺したい」と本人が望むのなら認めるのでしょうか。
死にたいんだったら殺してあげようというのは間違っています。
安心して生きていける社会にするなどして、「生きる権利」を大切にすべきです。

海老原宏美さんはこのようにも語っています。

当事者として生きていて思うのは、周りが思っているほど私は大変じゃないんですよ。大変なことも多いですけど、結構面白いんですね。目の前に障害が治る薬があったら飲みますかと言われたら、私は多分飲まないと思うんです。障害と生きるって大変なことがありすぎて面白いんです。別に強がりではなくて、障害があることで、健常者にはない喜びを得られる機会がもの凄くたくさんあって、色んな人に出会えたり、指が動く、手が動くことをすごく幸せに感じられたりだとか、世の中の一個一個の現象に対してすごく敏感になるんです。
私は進行性の障害なので、いつどう死んでいくかわからない、いつまで生きられるか、いつまで体が動くかわからないという状態に置かれている。死ぬことが身近にあるんですね。だから逆に今やれることをやらなくちゃとか、生に対する、生きることに対する意識が健常者に比べると日常的に自分の中に湧き上がる機会も多い。1日1日を面白く楽しく生きていこうという思いがすごくあって、障害者として生きるってすごく面白いなと思うんですね。


最首悟さんの談話です。

今はまだ訪問介護などもお願いせず私たち夫婦で星子を見ていますが、もうそろそろそれも終わりかもしれません。心配はしていません。頼りになる人たちがいますから。
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