マガジンひとり

自分なりの記録

明治・大正の雑誌メディア

2008-11-09 18:49:08 | Bibliomania
ミリオンセラー誕生へ! 明治・大正の雑誌メディア@飯田橋・印刷博物館(開催中~12月7日・祝日以外の月曜休館・10:00~18:00・一般500円)
雑誌は、手ごろな価格で多くの人びとに情報を提供し、啓蒙し、教養を深め、流行を生み出し、趣味娯楽の世界を広げてきました。また時には時代を動かす原動力にもなってきました。
日本では明治期に雑誌は盛んに発行され、大正から昭和にかけて大衆の読み物となりました。昭和2年には雑誌『キング』が初のミリオンセラーとなり、雑誌は大衆文化を支えるものとして、確固たる地位を確立しました。
本展では、大衆文化を担うメディアへと急速に発展した雑誌の成立過程を3つの時代に区分し、その時代においてどのような雑誌が求められ、読まれていたのかを紹介します。また、雑誌の部数の拡大、表現の広がりは出版と関連する産業の進歩・発達を映し出す鏡でもあります。その過程を、出版業界・印刷業界・流通業界の発達と併せて検証してみたいと思います。

《第1部》啓蒙の扉(雑誌誕生~明治中期)
草創期の雑誌は西洋から得た新知識の紹介や、新政府に対する批判、政治思想などを展開するものが多く、個人や団体が大衆の啓蒙を目的に発行していました。趣味・娯楽・文芸などの内容の雑誌はまだまだ少なかったのです。

《第2部》商業誌時代の幕開け(明治中期~明治末期)
明治22年の大日本帝国憲法発布、明治27~28年の日清戦争、明治37~38年の日露戦争と世の中を大きく変える出来事が相次いだこともあり、明治の後半期は新聞・雑誌の創刊数が激増した時代でした。ジャンルも多様化し、児童雑誌や女性雑誌、文芸雑誌などの創刊が相次ぎ、出版業界も活気づきました。

《第3部》ミリオンセラー誕生(大正~昭和初期)
大正時代の日本は、近代工業国としての基礎を築き上げ、急速に資本主義社会となっていきました。市場経済は出版業界においても、たくさん売って儲けるという思想のもと、万人にうける編集内容の雑誌が多く生み出されました。大正14年、その後に雑誌で初の100万部突破を果たした『キング』が創刊され、出版業界はマスプロ・マスセールスの時代へと突入していきました。



『滑稽新聞』第173号(自殺号)~明治41(1908)年
「新聞」という名であるが、生涯を通じ権力に屈せずジャーナリストとして貫徹した宮武外骨により月2回刊行された風刺雑誌。169号の記事が検閲にかかって発行禁止処分を受けたことに憤って、月8万部を売っていた最盛期に「自殺号」と称して廃刊した。とはいえ、これは外骨一流の洒落で、翌11月にはほとんど同じ体裁で『大阪滑稽新聞』を創刊している。



『キング』創刊号の新聞広告~大正13年12月5日の東京朝日新聞に掲載
「面白くて、ためになる」をキャッチコピーに、大人から子どもまで幅広く読まれる雑誌を目指して大日本雄弁会講談社から創刊された。創刊に際して、当時としては莫大な38万円が広告宣伝のために使われ、新聞広告のほか書店向けのポスター、チラシ、のぼりなどもたくさん作られた。その結果、50万部が刷られた創刊号は完売し、増刷も合わせ62万部を売り切ったとされる。

先日の映画『紅いコーリャン』に描かれる1920年代末の中国山東省は、古代と近代が共存して混沌としている。いっぽう、その9年後に姿を現す日本軍は、まるで機械のように組織化されて描かれている。それは、事実そうだったのではないかと思わされる。
アメリカ発の世界恐慌が昭和4(1929)年、満州事変が昭和6(1931)年ですと。その当時、欧米白人の列強諸国以外では唯一といえるくらい近代化に成功していた日本の国の、その原動力はいかなるものであったのか。
それがかいま見える展覧会であった。なにか大きな、社会をゆるがすような事件が起こったとき、それに関心を持ち、新聞・雑誌をむさぼるように丹念に読む。それを支える、取材から編集から印刷から流通から消費者の手に渡るまでのスピード。緊密な情報化・組織化。
たとえば流通ひとつとってみても、明治16(1883)年に郵便条例が改正され、毎月1回以上発行される定期印刷物は「第三種郵便」として、遠近にかかわらず全国一律料金で配送できるようになったという。国土の膨大な中国では無理に決まってるとしても、交通機関のまったく未整備だった当時の日本においても、画期的な英断だったのではないか。
そして農業国であった日本でだんだん都市化が進んでいく、そのライフスタイルの変化にも雑誌の存在が寄与していたともいう。それまで勤め人が少なかったので、「週」という単位は5・10日(ごとび)や半月・月に比べて実際の生活場面では希薄だったとされるが、週刊誌という週単位の刊行物があらたな要素を持ち込み、生活の近代化・西欧化にも寄与したとされる。
現存の週刊誌でもっとも古い歴史を持つのは『週刊東洋経済(当時は東洋経済新報)』で明治28年に創刊、大正8年までは月3回刊行の“旬刊”だったという。
その『週刊東洋経済』と『実業之日本』、あるいは『主婦之友』と『婦人公論』のように共通の読者層をターゲットとして2つの雑誌が競い合うライバル関係も出版業界を活気づけることとなった。マガジンハウスの『POPEYE』が成功すると講談社が『HOTDOG PRESS』を出す、新潮社の『フォーカス』が成功すると講談社が『フライデー』を出す、などそうしたことは最近までも引き継がれてきたようでありながら、ここへ来ていよいよ元気がなくなってきている。
新聞広告ひとつでさえ軽視できない。大正9年からの『月刊現代』を休刊させることになった講談社は、相撲の八百長など数々のタブーに切り込む『週刊現代』を続けることによって、一説によると年間20億円の赤字を出しているという。同じ月曜に出ている『週刊ポスト』と異なって東京新聞に広告を出せないほど逼迫してるみたい。
おそらく200万部近く出てる少年マガジンとか100万部近く出てるヤングマガジンとかマンガ雑誌の黒字で穴埋めしてるんでしょ。若い人がなんでもケータイとネットで済ませてマンガ雑誌とか買わなくなってる現今では見通しはあまりに暗い。
雑誌が失われてしまうと、それに関連していろいろな仕事も失われてしまう。政治や企業のタブーを取材する記者がいなくなってしまう。製紙も印刷も流通も小売も。
小室哲哉の事件のこととかは、やっぱりBUBKA誌でじっくり読みたいけんども、月末に発売されたばっかで11月末まで待たなければならないのは、スピード・アップされた現代社会ではいかにもまだるっこい。「小室哲哉+細木数子」の検索で、弊ブログの過去の「FX細木数子ラブホファンド江原啓之」なる記事が突然100くらいヒットしたりとか。映画『ブリュレ』の記事をアップした後になって監督の急死が報じられるとか。ニュースは生もの。
え??『マガジンひとり』の発行部数??北京オリンピックのあたりからちょっと増えて、1日平均450部くらいでしょか。「需要=部数」という効率化されてる強みがあるけどね、インターネットだけになったら人類おしまいよ。印刷物も共存共栄でいきましょう。

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