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731部隊おぼえ書き⑥

2023-01-26 16:38:36 | Bibliomania
軍医秦正氏(はたまさうじ)の証言
秦正氏は1910年11月、東京都渋谷区幡ヶ谷笹塚に生まれた。38年28歳で千葉医科大学を卒業、同学附属病院皮膚泌尿器科や沼津市楠病院分院を経て39年から教育徴集により軍医予備員候補者教育を受け、41年7月には動員令状を受けて関東軍の満洲ハルビン市郊外の部隊に所属。軍医中尉に進級していた44年5月に沖縄に向かう途中の朝鮮釜山で「満州第731部隊に転属を命ず」の電報命令を受け、ハルビンに戻って7月20日ハルビン東南約20キロメートルの平房屯所在の731部隊本部に到着した。

731部隊は1945年8月9日、ソ連が攻めてきたことにより敗戦直前の13日に逃亡しているので、秦は約1年間731部隊にいたことになる。731部隊の終幕近くに入隊しているのが彼の特異な点であるが、当時の翻訳班でソ連医学の文献を翻訳していた2名は医学の知識がなかったため、医師でありかつ満洲国のロシア語国家試験を通った秦を呼ぶことでソ連の文献を731部隊の研究に役立てようとしたらしい。彼が所属した総務部は太田軍医大佐以下約150名、配下に5課があり、彼は調査課の翻訳班6名の班長を務める。

翻訳の文献の選択は、雑誌その他ソ連刊行物の目次をまず訳し、調査課長・石光薫(大佐相当技師)に提出し指示を仰いで文献を翻訳する。731部隊は、抗日活動に従事していて関東憲兵隊により逮捕された中国人・ロシア人・朝鮮人・モンゴル人などを「特移扱(とくいあつかい)」として「マルタ」と呼んで生きたまま人体実験に使用していたが(以下・愛国者)、秦の翻訳班は文献翻訳を通じてソ連の最新事情を知ると共に敵愾心を煽り、ソ連及び中国愛国者をマルタとして行う細菌兵器研究と生産を鼓舞し、想定される対ソ戦においてソ連の防疫陣を麻痺させ勝利を得ようとしたのである。

発疹チフス・消化器系伝染病・ペスト・炭疽・ガス壊疽・波状熱(ブルセラ病・家畜伝染病)・シベリア森林ダニ脳炎・凍傷・K洗剤・DDT(農薬・殺虫剤)等に関するソ連の研究業績を1年で約150編翻訳し、ソ連及び中国愛国者(秦の知る範囲にて約12名)に対して次のような人体実験を行わせた。

①炭疽菌
1944年12 月頃、隊長北野政次、第二部長碇軍医大佐の指揮下で安達実験場 において、約6名の愛国者(少なくとも1名はソ連愛国者)に足枷をつけたまま護送してきた車から降ろし、約20m間隔に立てた木柱の根元に後手に縛って座らせ、100~200m高度の飛行機から炭疽菌の細菌弾を落として爆発させ、愛国者の鼻咽喉粘膜に純粋培養炭疽菌を散布させた。その結果、数日ないし十数日で重篤な炭疽を発した愛国者に対し、診療部長軍医大佐永山太郎は各種の「治療」を試みたのち、遂に死亡させた。

②凍傷
44年8月、秦はソ連の凍傷治療法を翻訳。従来の日本で行われる低温摩擦法と異なり、ソ連では摂氏22度の温水で治療が行われていた。彼はこの文献により第一部の吉村技師に示唆を与え、次のような人体実験を行わせた。44年冬、吉村が出産直後のソ連婦人愛国者に対して行った「凍傷」実験である。先ず手指を水槽に浸した後外の寒気にさらし、激痛を伴う組織凍結にまで至らしめ、凍傷の病態生理学的「実験」を行った。更にこれをさまざまな温度の水によって「治療」した。日を改めて再び凍傷にさせ、何度も繰り返した結果、その手指は壊死して脱落した。

③ガス壊疽
1944年12月頃までに秦は「ガス壊疽治療血清力値測定」その他ガス壊疽に対するソ連医学の治療水準を示す文献3編を紹介し、第一部二木技師に示唆を与え、次のような人体実験を行わせた。二木は文献に基づき、菌毒力を何らかの手段で高めることによってソ連医学の治療水準を相対的に低下させうると考えた。44年12月頃、1名の中国愛国者の大腿前面を小切開し、一側にはガス壊疽菌のみを、他側にはガス壊疽菌と土砂の混合物を接種した後、両側の発症状態を比較検討し、土砂混入はガス壊疽菌毒力を増強せしめることを確認。足が極度に膨張し、壊疽に陥らんとするや外科的切開その他各種の「治療」を加えた結果、遂に死に至らしめ、屍は診療部の所軍医中尉の手で病理解剖に附した。

④ペスト菌
秦の在隊当時ソ連においてはスルフィヂン(ソ連製サルファ剤の一種)が各種疾患に試用されていた。彼は「赤痢に対するスルフィヂンの効果」やその他スルフィヂンに関する数編の文献を翻訳提供し、第一部軍医少佐高橋正彦に示唆を与え、次のような人体実験を行わせた。45年1月頃高橋は約3名の愛国者にペスト菌を注射して重篤な肺ペスト及び腺ペストに感染させた後、日本製サルファ剤で「治療」を試み、遂に死亡させた。

秦は、敗戦前後に731部隊が全員逃亡した後もなぜハルビンに残っていたかについて、個人的な親族関係のことによると説明している。①動員を解かれ現職に復帰できるのを喜ぶ気持ち②妻の家がハルビンにあり妻とその弟が病気であったこと(両人とも翌年死亡)③妻と秦の母とは折り合わず日本に帰って母と一緒に暮らすことが嫌であった④秦が日本の名古屋大でやっていた医学研究資料がことごとく空爆で焼けてしまい、可能ならばソ連へ行って医学研究をやりたいと考えた。

ハルビン市の妻の家に潜伏し、9月にハルビン市日本難民委員会(後日本人民会と改称)付けの皮膚泌尿器科医師となり、46年7月には東北民主聯軍(後の人民解放軍)の命令を受け出頭したのち参軍し、外科・皮膚泌尿器科医生やロシア語翻訳を務める。しかし中華人民共和国成立後の1951年4月、瀋陽公安局に逮捕され、撫順戦犯管理所へ収監された。この収容下において、シベリア抑留とは対照的に日本人戦犯は厚遇を受け、日本人戦犯の1食は中国人3人分の食費が充てられていたとされる。これは毛沢東と周恩来の「戦争犯罪の原因は個人的な問題ではなく歴史的・社会的なもの。日本人戦犯を平和を愛する人に生まれ変わらせ、破壊的な要因を平和的な要因に変えることこそが根本的な解決方法である」との方針によるもので、55~56年の軍事裁判においても撫順戦犯管理所と太原戦犯管理所にいた日本人戦犯1017名は起訴免除となり、6月21日、7月18日、8月21日の3回に分けて帰国。107名の起訴は45名に減り、死刑は誰一人いなかった。秦は3回目の1956年8月21日、45歳で日本に帰国し、1984年7月、73歳で亡くなった。

※中国帰還者連絡会(中帰連、中国抑留者が帰国後に結成した)の平和記念館会員・對馬テツ子さんが、731部隊の史実を語り継ぐ連続学習会・第15回 にて語った内容を抄録しました。

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