山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

蔵書を断・捨・離する

2023-01-14 02:28:33 | 宵宵妄話

 今年初めの話が、長い時間をかけて集めた本たちとの別れの話となるなんて、何という年の始まりなのだ。そう思いながらこれを書き始めている。

老人ならではの哀しい話である。いろいろな事情から、書斎を明け渡すことになり、そこに置いてあった5千冊ほどの蔵書をレンタル倉庫に一時保管したのだが、あの世に行くまでの間のレンタル料も馬鹿にならないので、本当に必要と思われる本だけを厳選して、新たに物置を設置してその中に移し、残りは思い切って買い取り業者に持って行き処分しようと決断した。今流行りの言葉で言えば、断・捨・離ということになるのであろう。

この言葉はあまり好きではない。この三つの言葉のどれも人間の冷たい心がその底に沈んでいるからである。出来るならば断も捨も離もない方がいいと思っている。邪魔になるから捨て去ってきれいさっぱりしようという考えは、一見正当なように見えるけど、そのような考え方で物事を合理的に進めて行こうという人間の本質は非情というものではないかと自分は思っている。人間というのはどろどろとした感情の沼の中で生きている生き物だと思っている。スッキリなんて言うのは、一時・瞬間の出来事に過ぎないのであって、直ぐに人間はどろどろの世界を求め、そこに入り込んでしまう。それでいいのではないかと思っている。

そう思いながらも、今回は思い切らざるを得なくなったのである。泣く泣く2千冊ほどを買い取り業者に運ぶこととなった。ハードカバー、新書、文庫本など種類は雑多なのだが、50年ほどをかけて買い集めた本であり、そのどれにも思い出が詰まっている。全部読み切ったかといえば決してそうではないのだが、本を買ったときの気持ちは消えずに残っており、その出会いの記憶は簡単に消せるものではない。

複雑な心境を抱えながら業者の店に数回通った。そこで販売されている商品の半分はマンガの類のように見えた。今の世は文字をじっくり読みこんで自分自身で物語のイメージをつくるなどという面倒くさいことはしないで、絵に書かれた既製のイメージに飛びつくのが当然となっているようだ。それを批判するつもりはないけど、自分はマンガについては作者の創作力は凄いなと敬服するけど、読者に対しての敬服心は持てない。

脱線したが、買い取り窓口で所定の手続きをして、とにかく諦めて業者の決めに従うことにした。多少は値がつくのかと甘い考えも浮かんだりしたのだが、結果はその昔の1冊の購入値段と変わらぬほどのものだった。2千冊の合計がたったの2千余円なのである。本の価値など全く無くなっており、これは紙くずの買い取りと同じだなと思った。新聞紙の回収業者が1カ月分の新聞を引き取る時にトイレットペーパーを1個くれるのと大して変わらない。人間も動物も死んでしまえば只のゴミとなるのと同じ様に本も変わらないなと思った。

昭和に生まれ、平成をやり過ごして生きてきたが、この本の世界でも時代は完全に変わっているのを改めて思い知らされた。それは本の扱いの問題などではなく、明らかに断絶の時代となっているという感じだった。昭和と平成はつながっていないし、平成と令和もその断絶はより一層拡大するのではないか。いやはやとんでもない時代を過ごしてここまで来てしまったなと思った。

この先どうなるのか。どうなろうと真老80歳超の自分がつべこべ言っても仕方のないことなのだが、これからを生きて行かなければならない子や孫の時代は大変だなと思わずにはいられない。利便性を追求し、使い捨てなど何とも思わなかったここ半世紀ほどの人間の暮らしの負の遺産が、今地球というこの星の息の根を止めるほどに問題化している。この問題をどう解決してゆくのか。地球以外の惑星や月などをビジネスの対象とする考えなども生まれてきているようだが、人間は地球の生物であり地球以外に生きる場所はないのではないか。如何なる世界に於いても「思い上がり」が身を破滅するという無数の事例があるけど、人間はその思い上がりを抑え込むことが出来るのか。あと半世紀の間には、その結論が出るのではないか。蔵書の断・捨・離の話に過ぎないのだが、不吉な予感を感じたのだった。今年も問題の多発する一年となるのではないか。

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