山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

旅の熟成開始の年

2020-01-03 06:24:37 | くるま旅くらしの話

 令和二年は本物の令和が定着する年だと思う。昨年は、平成が半分近くあったから、今年からが一年丸々令和の時間となる。先日知友から人生のカウントダウンの話があったが、令和はまさに自分のカウントダウンの始まりの年なのだ。これは、この先常に心してかからなければならないと思っている。

 さて、その年の始まりに当って、我が人生の最後のライフワークだと思っているくるま旅について、いろいろ考えてみた。昨年は本当に一切のくるま旅を封印した年だったので、くるま旅のこれからについて思いを巡らす余裕もなかった。今年は3月が終われば一先ずは封印を解除して、本来の暮らしに戻るようにしたいと思っている。自治会に関わる仕事も若干は残っているので、それは片手間の位置付けで対処してゆくつもりでいる。

 くるま旅に目覚めてから20年以上が経った。この間自分のくるま旅に対する考え方も少しずつ変化して来ている。最初の頃は旅の全てを、これは本番前の下見なのだと考えて、手当たり次第に日本中を訪ね回るような旅だった。リタイア後は、なるべく遠い所からと考え、北海道、九州、四国、中国などの名所旧跡などを中心に訪ね回った。初めての場所は初めて見聞するものも多く、得る感動も多かった。又旅の現実の中で、日々変化する環境への対応にも、少しずつ知恵が増して行ったように思う。というのも、旅の環境というのは、毎日が防災対応の連続だからである。移動すれば今までとは違う環境となるのが旅の常であり、何が起こっても安全を確保しなければならないのがくるま旅の基本であり、油断は禁物なのだ。くるま旅は、普通のツアーの旅などとは異なり、暮らしに密着した旅なのだ。単なる物見遊山ではない。

 10年ほど経つと、物見遊山の旅がだんだんつまらなくなってきた。日本中を一巡りし終えると、もう一度同じことを繰り返すのがいいのか疑問を感ずるようになり、またやみくもに動き回るのがだんだん億劫になり出した。この頃から長期滞在の旅が増え出した。その多くは北海道での夏の旅くらしだった。特に涼しい環境の多い道東や道北での長期滞在は、多くの知己を得るのに役立った。そこでの暮らしの毎日は、やや退屈の混ざるものだったけど、大自然の中で海や山の幸を求めたり、大自然そのものを味わう時間は満たされるものが多かった。60代半ばの頃はまだ体力もあり、釣りや登山などに飽きることはなかった。

 さらに10年ほど経った今はどうなのか。旅にはテーマが必要なことを次第に強く思うようになった。目的なしの気ままな旅こそが憧れであり理想の旅なのだと考えていたのだが、テーマの無い旅は、そればかりを続けていると、やがてはただの時間の浪費、無駄遣いをしているに過ぎないことに気がついた。何もせず、何も考えず、時の流れるままに身を任せることができるのは、ほんの一時(いっとき)の喜びに過ぎないのである。溜まったストレスを解き放つのは大事で必要なことなのだが、解放し続けることは、逆に怠惰につながるストレスを矯めることになり、生き物としての活き活きさを失うことになる。人間というのは、真に厄介な生きものである。

 旅のテーマは無限である。しかし、人生は有限なのでテーマは絞ってゆかなければならない。どう絞り何をテーマとするかは、本人の自由である。好きなようにすればいいし、その目的が叶えられなくても、テーマの中に生きてさえおれば、それだけで人は活き活きと生きられるような気がする。

 今、自分の中では大きなテーマとしてあるのは、「来し方を訪ねる」ということである。来し方というのは過去ということだ。歴史と言ってもいいのかもしれない。全ての存在には歴史がある。どんな小さなものでも、たとえ新種であっても歴史はあるのだ。突然変異であってもその前の存在は無視できない。そのように考えて旅をしていると、そこに在るあらゆるものが興味・関心の対象となる。それを味わうのが旅の醍醐味なのではないか。この頃はそう思うようになった。

 因みに一昨年は北海道生誕150年の年だった。これを記念のテーマとして、150年の来し方を訪ねる旅を目論んだ。約4カ月北海道の各地を巡った。過去の多くは博物館や資料館の中に収蔵されているので、それらの場所を訪ねたりしたのだが、この結果、今まで20年近く毎年訪れていた北海道の印象は相当に変わったと思う。先住のアイヌの人たちを初め、開拓の先人たちの労苦や、時代を反映する囚人たちの労働貢献等など、北海道という北の大地の歴史は、縄文の昔から今日までの間に絶大なる変化のプロセスを経ていること、特にこの200年間の変化は、想像を絶するものだったということ。それは、現在という視点ばかり見ている人には決して見えないものなのだと思う。来し方を訪ねるということは、そこから得たもので、現在と未来を望見することでもあり、まさにこれこそが旅の真髄なのだと思った。これに気づくと、この次からの北海道の旅が変わって来るように思えてワクワクしている。勿論今年は北海道を訪ねるつもりでいるけど、何度も訪れている場所を再訪しても、新鮮な目で何かを感ずるに違いないと思っている。

 旅のテーマを持つということは、恐らくくるま旅だからこその恵みではないかと思う。バスや飛行機などの移動手段を用いての旅では、テーマを持っての旅が可能だとしても、よほど財的に恵まれていないと満足を得るのは難しいのではないか。1週間程度の短期間の場合は、満足は刹那的なレベルで終わってしまうのではないか。その点、くるま旅は時間調整は自在と言っていい。(勿論ある程度の制限はあるけど)

 さて、我が人生もカウントダウンが始まっている。それに気づいた今は、くるま旅も熟成させていかなければならないと思った。世の中では、老人が様々な事件を引き起こしているけど、特に気になるのは車の運転に関してである。くるま旅は車を運転して成り立つものなのだから、しばらくは免許の返上は考えられない。車の運転は、精神力が使えるのはほんの少しで、何といっても基盤は体力なのだ。これを保持するために、今のところ食事を基本に歩くことに力を入れ、睡眠も工夫するようにしているけど、更に何か工夫が必要なのかもしれない。

 先ずは身体の管理をベースとして、今年からは「来し方を訪ねる」をテーマとして、新たな気持ちでもう一度日本を一回りしたいと思っている。車検をあと2回済ませたら、SUN号の役割は終わると考え、その間にこの最後の夢を実現させてゆきたいと思っている。旅の熟成の成果は、縷々記録に残してゆきたい。我がくるま旅の終局の目的は、人生を心豊かに活き活きと生きるということであり、これは我が人生の老計であり、且つ死計でもある。今年はその計画の本格的な開始の年である

コメント
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