山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

過去の未来の現在

2019-06-16 01:49:46 | 宵宵妄話

 一個人の現在というのは、全て過去における未来の結果である。人は誰でも生きて行く上で常に未来というものに夢を託すところがある。夢の形や姿は区々(まちまち)だ。大小様々だしマイナスの夢だって描くかもしれない。己の未来をどう描くかはまさにご本人の自由自在の世界だ。そして描いた夢の結果である現在という時間に生きている。今日はそのようなことをしみじみと思った。

20年ぶりに元勤務先企業のOB会に出席した。その会社を辞してから唯の一度もこのような類の集まりに顔を出したことがない。特に深いわけがあるのでもなく、ただ、この集まりが毎年6月中ごろに開催されるので、その頃は旅に出かけていることが多くて、知らず疎遠になっていただけなのだ。気にもしないでいる内に20年も経ってしまったというだけのことなのである。

20年ぶりの出勤というような気持で勤務先だった場所を目指したのだが、東京の下町に建てられた本社事務所は、自分が会社を辞める頃に新たに事務所を建て増ししていて、昔の面影は全くなくなっていた。地下鉄の駅を出てから事務所までの道も、辺りはすっかり変わってしまっていて、そこここに高層マンションなどが建ち並んで、人は多いけど殺風景な街となり果ててしまっていた。雨の中を道に迷いながら辿り着いたので、少しばかり都会に対する恨めしさが膨らんだようである。

OB会の総会という形で開催されたこの集まりには、70名ほどが出席していた。生憎の雨だったので、出席を取りやめた人もいたのかもしれない。何しろ、自分は初めての出席なので、まさに浦島太郎の心境なのである。総会が始まって会の運営に関する連絡事項の後、来賓の挨拶ということで、現役の役員の一人が挨拶をされたのだが、その顔を見て驚いた。40年ほど前の自分の部下の一人だった人物が、会社を代表して挨拶しているのである。褒めていいのか、心配していいのか。やや複雑な心境となった。

ま、現役の人にはそれほど関心は無い。関心があるのは、自分と同じようにリタイア後の人生を送っている人たちである。しばらく出席メンバーの顔を見渡しながら、一人一人についての記憶を辿った。全員20年前とは違った顔となっていた。膨らんだりしぼんだり、様々な顔の老人がテーブルを囲んで座っていた。じっと見ていると彼が誰なのかが少しずつ判って来るのだが、名前まではなかなか思い出せない。自分は社内教育という特殊な(?)仕事をしていたので、多くの人たちを知る機会に恵まれていた。しかし20年或いはそれ以上に出会っていないという歳月は、人と人との関係を簡単に記憶から消してしまうようだ。各テーブルを訪ねて一人ひとり挨拶などをすればもっとはっきりするのだろうけど、自分は昔から酒を注いで回るようなことはしないので、遠くから見ているだけである。それでいいのである。

幹事の話では、この会の平均年齢は73歳だとか。定年が延びて70歳まで働くとかの時代となってしまって、新入会員は毎年数人にも満たないという。このままで行くとこの会も高齢化が進み、間もなく敬老会になってしまうと話す人もいた。世の中まさに高齢化が随所に及んでいる時代なのだなと改めて思った。

還暦を過ぎれば、どのような時代となっても(70歳まで働く時代となっても)、人は老計と死計を考えなければならない時期に来ている。どんなに元気でいても否応なしに老はやって来るし、死も近づいてくる。これをどう察知しどう対応するかが人生を締めくくる上での最大の課題であり又楽しみではないかと自分は考えている。冒頭に「現在は過去における未来の結果」だと書いたが、老の世代では、過去における未来を描くということは、老計・死計をしっかり立て、それを着実に実践するということであろう。

今日の集まりの中で、一人ひとりの昔の顔と今の顔とを思い出しては比べながら、皆どのような現在にあるのだろうかと、思った。そして、この先にどのような未来を描いているのだろうかと思った。

人生というのはその人の生涯をかけた表現の歴史だと自分は思っている。生きている間にどれくらい自分なりの自分を表現できているか。それが人が生きるという意味なのではないか。つまり、人は自分を表現するために生きているのである。そしてそれは、全ての人に当てはまるのである。自分と同じように老の時間を送っている昔の仲間の人たちを見ながら、お互いが残りの時間の中で目一杯満足のゆく自己表現が叶えばいいなと思った。

コメント
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