山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

相互忍耐50年を迎える

2018-10-11 01:11:33 | 宵宵妄話

妙なタイトルとなった。かなりひねくれた感じもある。昨日、2018年10月10日は、我々夫婦が共に暮らし始めてから満50年を経過した記念日だった。普通だとやれ金婚式だなどと言って、先ずはめでたいということになるのだと思うが、我々にはその実感はない。かといって危機的な状況にあるわけでもなく、至って平穏に昨日から今日へ、そして明日へと時間は流れている。

50年前の10月10日、東京の某所で結婚式なるものを挙げたのだった。その場所を覚えていたのは、その後の10年間ぐらいで、今はもうすっかり忘れてしまっている。家内の方は覚えているのかもしれないけど、自分はずぼらな人間なので、一見真面目そうに見えても、覚えているのは場所などではなく、その日の天気やどうしてその日を選んだのかということくらいか。10月10日はその当時から晴天の特異日で、先ずは晴れの天気が保証されていた感じだったし、それにあやかってなのかこの日が体育の日として国民の休日となっていたからなのである。この日に式を挙げておれば、その後も結婚記念日なるものが晴天の休日として保証されるに違いないと考えてこの日を選んだのだった。

だから、しばらくの間は家内と一緒になった記念日を忘れることはなかった。しかし、いつの間にか国民の祝日は、世の中を覆っている効率主義、効果主義そして経済主義に毒され始めて、根拠の甘い祝祭日は動くことになってしまったのである。今頃は、体育の日はご都合主義で土・日曜日にくっついて動き回るようになってしまったので、雨の体育の日も増えるようになり、自分達の不変と思われたその記念日も、休日とは限らなくなってしまった。このような変更に対して疑念や不満を抱いている同世代人は少なからず居られるのではないか。と、先ず文句を言っておきたい。

さて、そのようなことはともかくとして、何と50年も経ってしまったのである。この50年の越し方をあれこれと振り返るつもりはないけど、ここまで何とかやって来られたのはどうしてなのか、それを二人での暮らしの根っ子のところで考えてみた。

ぐっと濃縮すると二つに集約できるように思っている。一つは何はともあれ、お互いが健康を保持して来られたこと。もう一つは喜怒哀楽に対する忍耐、即ち我慢が出来ていたことではないかと思う。この二つがあっての毎日の積み上げが結果として50年という時間になったように思う。

暮らしの現実は、愛しているとか、労わりあい助け合って、という一見美しいことばで表現できるようなものではない。勿論そのようなものが全くないという話ではなく、現実の毎日の中では、美しくて楽しくて満足できるようなことは、断片的で一時のものに過ぎないということである。

一般的に我慢というのは苦しく辛いことや悲しいことなどに対して使われることばだと思うけど、喜怒哀楽ということになると、喜びや楽しみに対しても我慢するというのは変ではないかということになるのかもしれない。でも、自分には喜び過ぎたり、楽しみ過ぎたりするのは破滅への道につながるように思えるのである。だから我慢する必要があるのだと思っている。喜びや楽しみというのは噛みしめるという姿が一番であり、それを上まってはしゃぐ言動は如何なものか。だから喜怒哀楽の全てに適当な我慢が必要なのではないか。そう思うのだ。二人ともそれをほどほどにやって来られたので、ここまで辿り着けたのだと思う。もしそれが出来なかったら、心は壊れて二人の関係は危いものとなり、その修復は困難になるのではないか。そんなふうに思っている。

健康のことだが、これは勿論心身併せてのものであり、天の加護と自助努力の結果が今につながっているように思う。家内は大病を患ったが、心を壊すこともなく立ち直って元気でいてくれているし、自分もそれなりに健康には注意して身体を動かしている。健康というのは、お互い個体としての自分自身の問題なので、それぞれが持っている身体と心に合わせて保持して行かなければならない。自分と家内の対応の仕方は全く違っているのだけど、ここまでやって来られたのは、お互いの自己管理をそれなりに上手くやって来ているということなのであろう。

さて、このあとも生きて行かなければならない。この先は今まで以上に忍耐を要するできごとが湧きあがって来るに違いない。老と死であり、その引き金となる病である。これらは生きものの全てに与えられた課題であり、何ものもそれを逃れることはできない。二人が本当に力を合わせて生きなければならないのは、これからが本番なのだと思う。

50年も夫婦暮らしを続けていて、二人は今妖怪化していると自分は思っている。ずぼらな自分は妖怪チョンボジジイとなっているし、それが原因で家内は妖怪小言ババアとなっている。この関係では家内の方により多くの忍耐が必要なのかも知れない。加害者よりも被害者の方に我慢がより多く求められているのが古来よりの世情であり、妖怪小言ババアには申しわけないと思うのだが、このチョンボジジイの動きの中には、かなり生来のものが入っているので、我慢が出来なかったらなるべく早く諦めて欲しいと思っている。

そうそう、諦めが肝心なのである。忍耐の終着駅は諦めなのだ。仏教では放念というのだろうか。一切の囚われの心を解き放っての新たな境地、老を重ねた人間には、やがては誰にでも天が配剤する恵みがそれなのではないか。この頃はそのようなことを思っている。

なお、妖怪は不死身だとも聞く。それは困るなと思っている。妖怪化もほどほどのレベルに止めて、人間を保って行きたいと思う。この二人の関係が何時まで続くのかは解らない。しかし、妖怪化が幾ら進んだとしても、もはやこの関係無しでは生きては行けないことは悟っている。この後もいつものように淡々とその状況に合わせて、一日一日を二人で積み上げて行きたい。そう思っている。

コメント
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