前にレッド・ツェッペリンのセクシーさについて書いたが、彼らの何が突出しているって4人全員の"息が合う"ところだ。あれだけの才能が集まって誰がイニシアチブを握り切る事なく音が"バンド・サウンド"に収束していく様はまさに奇跡としか言いようがない。
何をやるかが予め決まっているていうのなら、みっちり練習して息を合わせていく事も可能かもしれないが、ツェッペリンの真骨頂はライブでの即興演奏にある。お互いが次に何をしてくるかが完全にはわからない中でステージにおいて4人の"息を合わせる"のがどれだけ難しいか。想像を絶するレベルである。まぁ20世紀最高のライブ・バンドなんだから当たり前だけど。
その為、ステージ上では4人が4人ともお互いの演奏を切れ目なく聴き続けている。息を合わせるにはそれしかなく、従ってそこから出てくるサウンドはまさに"LIVE"、"今ココ"にしか生まれ得ないグルーヴに満ちている。バンド全体がまるで一つの生き物であるかのように統一されて躍動する。そこに息づく"呼吸"のダイナミズムこそが彼らのセクシーさの正体だ。
そのダイナミズムは、例えばオーケストラのようにコンダクター(指揮者)を中心とした一体感、というのとは様子が違う。あクマでその場で1人々々が他のメンバーの出音に耳を傾け合った上で紡がれていくものであり、そこに"中心人物"は存在しない。
クラシックの作曲家は基本的に1人で、指揮者は作曲者の代弁者、或いはその世界への仲介者役である。一方、ツェッペリンの場合、各パートの演奏者たちがそれぞれのパートにおいて自分の演奏をする事で楽曲が形成されていく。即ち、ロック・バンドの演奏形態とは複数の作曲者・創造者によって作曲を遂行するスタイルであり、創造の過程において既に"他者との関わり合い"を含んでいる点が独特なのである。多分、ジャズも同じ…というか元々その形態を生み出したのはジャズの方で、そちらが20世紀の大体前半、ロックが大体後半に勃興した、という構図だな。
そうやって、誰か1人の理想を大人数で体現する様式ではなく、絶え間ない対話の中から数人の創造力を合体させるスタイルが生まれたのは様々な歴史的な必然だったともいえるが、ここでのポイントは、ジャズとロックのスタイルが、"作品の完成以前"の時点で他者との関わり合いを実際に持つ事である。
クラシックはパトロンの、ポップ・ミュージックは大衆の、それぞれ"反応を想像"しながら曲を書き上げてきた。つまり、実際に聞かせてみれるまで、作品が完成するまで他者との実際の対話はないのである。そこがロックやジャズと異なる点だ。
渋谷陽一はポップミュージックを「他者の音楽」と形容したが、それは創造の過程においては"架空の"他者を"想定"されたものであった。私はこれと対比してジャズやロックの類いの音楽を「他者との音楽」と形容したいと思う。数人のバンドメンバーと万単位の大衆が必ずしも同じ反応を返すとは限らないが、創造自体に他者との関係性を実際に持ち込む手法は、それだけで大衆との繋がりを持てる可能性をより大きく持つだろう。その意味で、アーティスティックな意義と大衆性を両立させる手法としてはより有用であるように思われるのだ。つづく。
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