この2年間、桜流しが無かったらと思うとゾッとする。私が言うと意外に聞こえるかもしれないが、この曲があったからあと何年でも待つ気になれたのだ。いや、無きゃ無かったで待ってたとは思うのだが、Hikaruだからどうのという前に「この曲を書いた作曲家の次の曲がどうしても聴きたい」とそれだけで思わせた歌の力に平伏したのだ。自分で言うのも何だが、非常に純粋な動機である。まぁその割にポール・カーターにあんまり思い入れが無いのは何故なのか自分でもよくわからんが、たぶんこれが"日本語の歌であること"が大きいのだろう。この私をして「嗚呼、日本人でよかった」と言わしめたのだから。正確には、「この歌を構成する言語であるところの日本語(とほんのちょっぴりの英語)を理解できる人間でよかった」だけど。
ある意味、この二年、ずっと桜流しの衝撃の残像を食べて生きてきたと言っていい。「そこまで言う曲か!?」と思われそうだがもうまさにこれは「あなたなしで生きている私」の話なのだ。感情移入の仕方が違う。EVAQありがとう庵野さんありがとうだ。円盤もう一枚買うべきだったか。感謝の印に。
残像は偉大だ。ただそれを追うだけで人が生きていけるのだから。希望って大事だなと。
残像とか残り香とか。"本体"がそこに居た事を示す、従って"今はそこに居ない"事もまた、残像は断言してくれる。これもまさに、歌の中で歌われている『見ていた木立の遣る瀬無きかな』、あなたが隣に居ないのに今年も同じように桜は散り流れていく…あなたの残像を残酷に浮かび上がらせる。
だがしかし。我々の宇多田ヒカルは帰ってきてくれると約束してくれている。そこが違う。つまり、総てが違う。影を追い続ければ必ず本体に辿り着けるのだ。
そう、影の話だった。これでも前回の続きなのだ。
迫り来る影に怯えるキャンシーと愛の影を追う愛囚と。迷いと逡巡に彩られた歌と、確かな愛の形に約束の手形を刻みつける歌と。その時のそれぞれのヒカルの精神状態も、少しずつ反映されているようにも思える。
キャンシーの歌詞をもう一度振り返ってみよう。
『かすかな物音
追ってくるmovin' shadow
振り切れなくなる影』
これ、当時は「検事ドラマ"HERO"の主題歌だから、ちょっぴりサスペンステイストを出したんだな。相変わらず絶妙の匙加減だ。」だなんてあっさり絶賛してたもんだが、さてこの影の正体って結局誰?と考えてみたら、あら、これは自分自身の影以外無いんじゃないのという結論に至った。歌のメインテーマが『近づきたいよ 君の理想に』なのだから、彼女は寧ろ彼の(いや性別はどっちでもいいんだけどね、歌っているのが女性なので)影を追う立場であって、誰かに付け狙われる筋合いはない。そんな中で振り切れない影といえば未来永劫どこまでもついてくる自分自身の影しかないんじゃないの、となる。
先に述べた通り、影とは本体の存在を示唆するが決して本体そのものではない存在、つまり本体の存在を肯定する本体の否定なのである。禅問答的だが、影に追われるとはつまり自己肯定と自己否定の間の揺らぎなのである。自分自身に対する自信があるのかないのかわからない状態。だから次のフレーズが『少しの冒険と傷付く勇気もあるでしょ』なのだ。
影は正確に自分と同じ動きをする。それを私は目で見れる。これは、鏡と同じ効果を持つ。Hotel Lobbyでコールガールが鏡を見て自問自答を繰り返すシーンを思い出そう。そこでは主人公が、鏡を見ながら自分自身の本音と対話していた。影もまた、同じ効果があるのなら、影に怯えるのは現在の自分自身の立ち位置や振る舞いや立場等々に不満があるとか認めたくないとか、そういう感情の存在を示唆してくれる。自らを客観視、客体視してくれる鏡や影のような存在はとりわけ重要なのである。
おっと、熱が入りすぎて愛囚の愛の影の話まで行けなかった。…んだが、次の更新いつになるんだ!? 私もからないよ…。
追伸:で、自分自身を影だと言ってる人の影は、一体どこにあるんですかねぇ…連休中に探してみましょうか。そうします。あはははは…。
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