無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ツイートがあると、「やれやれ」という気持ちになる。息災か、嗚呼息災かと噛み締める。どんな内容かよりはまずそれである。

ただ、今回は内容が少々物騒だった。交通事故に遭っとるやないかい。無事でよかった。いや無事とは書いてないがツイート出来る程度には大丈夫なのだろう。

深夜にぼーっとツイートを読んだら「"サングラス"と"ドラマ"と"虹色バス"が何だって?」と思ってしまった。幾つかの歌の歌詞を混ぜ込んで呟いたのかなって。結局私が寝ぼけていただけだが、ココで複数の歌にまたがって歌詞を解釈する話なんてしていたもんだから寝ぼけていてもアタマはそっちに向かったのだな。

次に「タクシーに乗っておきながら次はバスを使うってどういう一日だったのだろう」という疑問がわいた。バスを使うならずっとバスでいいだろうし、タクシーを使うんならバスを使う必要が無い気がするんだが違うのだろうか。それはロンドンの地理次第か。時間を節約したいならタクシーだしお金を節約したいならバスだろう。日本に居ればのケースだが、「何か急に具合が悪くなってタクシーを呼ぶ」→「診察と治療を受ける」→「帰りは病院から出ている直通便のバスで」みたいなのを想像してしまった。行きは慌てていてタクシーにサングラスを置き忘れる。顔色の悪さを隠すとか、そういう事もあったのではないか。用事のあったビルも大病院とかではないだろうな…なんて風に。なんかちょいネガティヴだな。寝ぼけていたんで許して欲しい。

まぁでも、とりあえずロンドンでの話って事でいいんでしょうかね。事故を起こした運転手は場合によっては人生投げ打って地獄の果てまで追い詰める羽目になる所だったが、まぁよかった。気をつけてうただきたいものだ。

で、ついでのように春画展のツイートをしている。リンクつきQTなのでアピールだろうから、9月の目白か。要予約とかでないのなら行ってみるかな。多分、帰りに寄るワールドディスクで費やす時間の方が遥かに長くなりそうだが。現時点では、春画自体にそんなに興味がある訳でもないので。規模もそんなに大きい風には見えなかったし、どれくらい盛況になるのやら。

私は日本という国にアイデンティティを感じている訳ではないので、作品が過去の日本のものだと言われても「そうですか」くらいにしか思えない。普段美術館に出掛ける習慣も無いしなぁ。嫌いじゃないんだけども。鑑賞の時間の過ごし方は心得ているつもりだし。

春画については、技術は大したものだと思うが、今のところ引き込まれるような作品に出会った事はない。せいぜい、今の18禁作画家との共通点や相違点などを論って、伝統というのはそういう所にも息づいているのかと少々学問的な興味を持ったりするだけだ。昔の絵描きさんより、今を生きる絵描きさんの人生の方が興味があるのかもしれない。いや、作品とのはそういうのを超えてくるから面白いんですけどね。

その意味では、Hikaruには、具体的にどの作品が気に入ったのかについて言及して欲しい所である。最初から学究的興味での鑑賞だったのならその旨教えて欲しいところだ。それとも、日本で開催される事自体に意義がある、とかなのだろうか。だとするとわざわざ足を運ぼうとも思えず。まぁいいや、3ヶ月経ったらまた気分も変わっているかもしれないので、またその時になったら検討する事にするわね。

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言葉同士の「近さ」の概念は異様である。器楽演奏は、ちょっとズレたらちょっと、大きくズレたら大きく直せばいいから素直なものだが、言葉は正解に実際に辿り着くまで今どれくらい近付いているかさえわからない。ヒカルはかつて作詞の作業を種々の表現で喩えていたが、「部屋の中にあるはずの古い写真を探しているような」といった言い方もしていたようにも思う。正解の存在だけは何故か確信していて、しかしそれがどこにあるかは(部屋の中だろうという程度にしか)わからない。さしあたっては闇雲に探すだけとなる。

この作詞の作業を、ひとつの楽曲の枠組みを超えて捉え直してみるとどうなるか。一曲々々の歌詞はバラバラで、一見はどれも繋がりがあるかないかはわからない。しかしそこには、同じ作詞家が書き同じ歌手が歌うという別の"共通のファクター"があって、それに基づいて我々は別の歌の歌詞同士を照らし合わせてみたりもする。

勿論割り切れているケースや、そもそもそんな発想もなかった場合もある。特に、タイアップ相手がバラバラであればそれによって世界が寸断されている感覚を無意識のうちにもつ。EVAとKHの世界を繋げて考えようとはなかなか思わないだろう。同人作家さんは別として。更に、前回述べたように、歌詞とは聴き手の人生に依拠したものだから、同じ歌詞でも受け取り方が異なる。そんな中で"共感"を広く呼べる歌詞は優れているとされる。

このように、沢山のフェイズが在る。包括的な議論は難しい。一方で、いち歌手の活動を何年にも渡って追い掛けているのなら、その歌詞自体もまた我々の人生の経験の一部として参照されるようになる筈だ。

歌詞ではないにしろ、それの齎す"威力"はGoodbye Happinessで皆体感した事だろう。『出会った頃の気持ちを今でも覚えてますか?』と歌いながら過去の名曲を想起されるアクションを次々と起こすヒカルの姿を見て感動した事も多いだろう。

まだヒカルは歌詞の面で直接そういった試みをした事は無い。せいぜい桜流しで『あなたが守った街』というフレーズを出したり、とかそういうタイアップ相手との関連性を印象付ける程度で、歌詞と歌詞となると…"Automatic Part2"っていう"タイトル"くらいだろうか。

兎に角、ヒカルのように"大きくて長いキャリア"を背景にすると、歌詞の書き方にも気を遣うようになるかもしれない。過去の歌を匂わせるような歌詞を書けば明示的に繋がりが出来そこに物語が生まれ始める。そうならないように意識的に分断する作業も必要になってくるし、更に今書いた歌詞の影響で過去の歌の歌詞の聞こえ方が変わる場合もある。前回述べた通り、歌詞は歌が奏でられている時間もそうでない時間も"生きて"いる。それらの間の幾何学は我々が自前で構成しなければならない。自分でも書いてて混乱してくる位にこのテーマは論点が多い。またもうちょっと整理がついたら書き直すわ。

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