無意識日記
宇多田光 word:i_
 



西野カナの名前を出したけれど、こちらからみれば彼女は今数少ない"流行歌"を歌える可能性のある子だなぁ、と思うが、そう、"流行歌"というイディオム自体、今や昔、昭和というかいっても平成の最初の10年くらいまでしか通用しなかったものだろう。

そういう意味では彼女は可愛そうだな、と思う。この間も新曲が配信チャート等で1位を獲っていたが、何だか高揚感が伝わってこない。私がチャートに興味が無いからそう感じるだけだ、と言ってしまいたいところだが、もっと興味の無い全米シングルチャートを聴いていると昔ながらの高揚感を感じる。あのアーティストがこのアーティストより上だった、向こうはまだ粘っているな、とか勝ち負けを楽しく語れそうな雰囲気が漂ってくる。つまり、ヒットチャートが"ひとつの土俵"として機能している為、順位付けに意味が出てくるのである。日本のチャートにはそれがもう無い。西野カナの次の2位や3位は西野カナに僅差で負けたというよりは、別の土俵でおんなじくらい売れた別の世界の歌、という感じ。本当に細かく分かれてしまったなぁ、と。

細かいジャンル分けならそれこそ米国の方がずっと徹底しているのだが、日米の何が違うって"中心"の有無である。これは非常に感覚的な話でしかない。比喩でいえば先述の"真ん中の土俵"の有無である。ヒットチャートには、ただの数字の羅列以上の高揚感があった。なんか忘れてたわ、という感じ。


だから、ヒカルの復帰後の日本でのチャートには、今の時点の気分でいえば、私は興味が無い。いやもっといえば、順位や枚数で何かを評価する事は出来ないし、誰かに勝ったとか負けたとかもない。ああ、それだけ儲かったんだね。で?てな具合。1人々々が音楽を聴いてどう思ったかとか、それが何人くらい居て分布はどんな感じだろうかとかそういった興味は恐ろしくあるが、ヒットチャートは、無い。

だからHikaruが復帰したら、全米チャートは楽しみである。思ってたより売れたなとか思ってた程売れなかったなとかチャートを見ながら予想が外れて悔しがったり予想が当たって嬉しがったりしている自分を今想像している時点で既に楽しい。何位だろうが構わないが、順位が出て、HikaruがPop Musicianとしてどんな位置に居るのかを知れる。いい感じ。


…うーん。あたしゃこの国に未練が無いんだろうか。日本で売れても売れなくてめ、売っても売らなくても、はぁそうですかくらいのリアクションしかとれない。日本語の歌は相変わらず好きだ。いや元々英語の歌より日本語の歌の方が好きなんだが、それなのになんだろうこの興味の無さは。諦めて、いるのかな。素直に世界中で歌えばいいのに、と相変わらず思っている。

私ほど極端でなくとも、似た感じで邦楽のヒットチャートに何の興味関心も示さなくなった人は私以上の世代に結構多いのではないか。自分の場合洋楽というオプションがあった為音楽を買って聴くという習慣が途切れる事はなかったが、邦楽なりJpopなりしか聴いていなかった層は、チャートの衰退とともに音楽を聴く習慣すら失ってしまったように思える。

やはり、信頼のおけるチャートの設立が課題なんだと思う。難しいのは、その設立によって誰がメリットを被るかが不明瞭な事だ。これは、リスナーも勿論だが、業界ではたらく人間たちや、ひいてはミュージシャンたち自身にも「やりがい」を与える。

「シーン」の存在の要はそこである。「いい曲をリリースすれば売れる」という"期待"が皆を駆り立てていたのだその感情が結集してチャートが作られていたのである。どこで勝負するかという土俵さえ見いだせれば、我々より上の世代もまた"帰って"くるかもしれない。

どうやってその"期待"を作り出すか。それがいちばん難しい。例えば週間動員数チャートなんかを作れたとしても、その数字同士を比較する事に意味があるかと言われたら難しい。そう考えると、CD購入行動ってあの時代特有の市場形成要因だったんだなと時を経て思う。そのバブルの最後の最後でヒカルがデビューした、と考えるとヒカルは旧時代の完全なる破壊者なのかもしれない。ならば、せっかくなので次の何かを生み出してはみませんかと言いたくなってくるが果たして。何までが宿命なのか、やっぱりさっぱりわからないッス。

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JUDY AND MARYの“くじら12号”を聴きながら、「90年代後半は特殊な時代だったなぁ」と改めて痛感した。彼らは敢えて売れ線を狙い東京ドーム公演にまで上り詰めた"成功者"だったが、特にメンバーが情熱を注げる音楽性ではなかった為程なく解散した。しかし、“そばかす”等数々の名曲を残している。今はどちらかというとアニソンのひとつとして紹介される事も多いのだけれど。

当時は、自身の音楽的嗜好を犠牲にしてでも売れ線狙いに賭けられる程の規模の"市場"があったのだ。作曲職人が狙ってヒット曲を作れる時代。広瀬香美なんかあざと過ぎて鼻につくくらいだったが、それでも売れてしまうのだから、そりゃあ作るわな。

今はそういう"市場"がないから、職人たちはゲームやアニメの曲を作っている。新しい世代の職人たちはボカロや同人出身だったりする。時代は変わった。今の時代を象徴する作曲家はときかれたら「梶浦と澤野かな…」と答えてしまいそう。朝ドラの音楽まで作ってしまうとか。いやはや。

西野カナなんかは随分とこちらからみてもわかりやすく、"古典的"とすらいえる。自分の世代の語彙で乱暴に形容してしまえば"浜崎あゆみとaikoのちょうど中間くらい"を狙っていて実に巧いと思うのだが、なんだか中規模のヒットにとどまっている。いや1位はとるんだからやはり市場自体が縮小しているのだろう。あの世代の彼らはもう音楽をあまり買わなくなっているのだ。それより更に若い世代はYoutubeが地上波テレビと同列だろう。いつでもどこでもタダで動画と音声が手に入る世代だ。

でも、実際に本当に対処しないといけないのは、90年代後半に市場を形成していた"元若者"の世代である。彼ら(いや、私たち、か)をつなぎ止め切れなかったのは何故なのか、そして、ある程度呼び戻す為には何をすれば有効なのか、そちらを突き詰めておかないとそれより若い世代にアプローチしようというエネルギーも生まれてこない。一体何が変わって何が変わっていないのか、それらと音楽にはどういう関係性があるのか。そろそろ時期的に90年代後半に活躍した人たちの様々な"20周年"がやってくる。その記念企画たちに皆がどれくらいのってくるか。結局トリはあゆとヒカルのデビュー20周年になるのだろうが、それまでに趨勢を見極めておきたいものである。

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