無意識日記
宇多田光 word:i_
 



―― @utadahikaru : おととし大英博物館で開かれた『春画-日本美術の性とたのしみ』が肝心の日本で結局開かれなかったことを今頃知ってびっくり。当時の日本人を身近に感じられてすごく面白かったし歴史の勉強にもなったので残念。


…だなんていうツイートが今朝あった。ったく、もう。

これだけの文章から何を読み取れるかを今書き連ねようかしまいか悩んでいるところ。「毎度そんなことしやがるから気軽にツイートしにくくなるんだよ!黙れ俺!」という気持ちと「いやいやそんなこと誰も気にしてないから」という気持ちがせめぎ合う。どないしょ。

コイントスで決めよっと。えいっ。

「いやいやそんなこと誰も気にしてないから」の勝ち。はふーっ。

さて何が読み取れるか。Hikaruはおととし2013年に大英博物館を訪れている。つまりイギリスに居たという事だ。しかも、日本で開かれなかったことを"今頃知った"のだから旅行でイギリスに行って日本に帰ってきて「日本でもやらないかなーわくわく」と待ち望んでいた訳ではなかった。「これ日本でやったら面白いだろうな~いや日本でやるべきだよね当然」という風だった。ならばこの2年、Hikaruはどちらかというとロンドンに住み日本にはたまに帰ってくる、みたいな生活をしていたと考えられる。すっかりロンドンっ子なのかもしれない。夫婦で住んでるんかいな。

そういやタイトルが「春画-日本美術の性とたのしみ」という独特の日本語表記であるからには、実際に企画されていて頓挫したのだろうな。最初からイギリスなどの日本以外の国でだけというのではなく、当事国である日本での開催を目論んでいたというのなら、それが中止になった経緯について、Hikaruは何か一言あるのだろう。いや勿論論旨は『残念』の一言に尽きているのだが、中止の理由がたぶん「なんでそんな理由で」と思わされてしまうものだったのだろう。ググればそこまで出てくるかな? 私まだ検索していないもので、すいません。

また、春画の時代の日本人を身近に感じられる事を『すごく面白かった』と言い切っているのも含みを感じる。その時代の日本人と今の日本人の間にも随分と共感できる面が多々あると知る事を重んじれる態度とは何なのか。「日本人であること」というアイデンティティには横軸と縦軸がある。横軸は、同時代の他の国の人たちのアイデンティティとの対比、そして縦軸は時間軸、今の日本人と昔の日本人のアイデンティティの対比である。イギリスという異国の地で日本人であるHikaruが昔の日本人と自分を照らし合わせる…それは、横軸方向にも縦軸方向にも景色が広がる感覚であったろう。日本人としての、イギリスに対する目線や、イギリスからの自身に対する目線が、春画展のそれらとどう似ていてどう違っているのか、確かに考え始めたら凄く楽しい。大英博物館(博物学に興味のある人間にとっては世界一の憧れの地。と同時にイギリス人による全世界からの簒奪の歴史の凝縮でもある。)ではそんな派手な反応は無かっただろうが、周りを見渡してどんな人たちが興味をも
って来ているかを眺めるだけで随分と学べる事も多かった筈だ。彼らからしても横軸と縦軸両方、斜め方向の文化であるのだし。

斜め方向の捻れの位置にある存在たちとも共感できるのが人間であるのなら、縦軸方向には共感しまくれりだろう、とHikaruは考えたのだろうが、何故か日本人には対しては開かれなかった。相手が春画だけに開かれていないのは何となく文化的後退の匂いがするし、なんだかそれはつまり今の日本に対して…という話はコイントスに勝ったとはいえ流石に行き過ぎなので、自重する事にしよう。


たった140字足らずでもこれだけ語る事が生まれる。もし何百何千字とMessage from Hikkiを書かれた暁にはどれだけリアクションできるかわからない。またそんな幸せな時間が来るのかな。たのしみ。

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3ヶ月間があいてさりげない一言を発してまた黙る、ってどういう心境なんだろう。こっちとしては実に有り難いけれど、普段iphoneを使っていて急に「呟こう」と思うものだろうか。誤爆だったりして。ないか。

Tweetもそうだが、Message from Hikkiにも波がある。名前の通り、当初はメディア露出の少ないHikkiが自らのキャラクターを伝える為に始めたんだろうが、程なくして"ただの日記"になっていく。我々に話し掛ける体ではあるけれど。それもやがて分散して全然何も言ってこない時期がポツリぽつり。やがて全く黙っていって…みたいなパターン。

2004年にレコード会社を"移籍"したのも大きかった…事になっているが、たぶん別にそんなには関係ない。書きたければ幾らでも方法はあっただろう。それが2006年にツアーをやるという事でメッセ連続更新を皮切りにMessage from Hikkiが"復活"した。以後、2007年以降もその勢いは継承されていき、2010年まで漸減しながらも更新は止まらなかった。

結構、正直な軌跡だなと思う。ファンと向き合う時期だという気持ちが高くなってきたら頻度が増え、別にいいかとなったら減る。それだけの事だ。あクマで相手があって書ける話がある、と。

Tweetによる「呟き」は、「別に誰かに伝えたいと思わなくても何か書いて」と促されて生まれるものだ。システムというより、その心理的後押しが真に独創的だったんだと思う。それに随分助けられてきた。牛乳と銭湯の話なんて、冷静に考えれば「知らんがな」という話である。あんたが最近どうとか、別に…。しかし、こちらにとっては何よりも"朗報"だ。伝わる中身より、言葉をくれたという事実が欲しいから。

だから、Message from Hikkiも、「何かを伝える」ことより「伝える」こと自体に立ち戻った方がいい。長文専用機という最近の傾向は否めないが、たとえ誰にも伝える必要を感じない内容でも書かれればそれがそこから意味を生むのだ。筆を執る時に考えちゃいけない。まず書き始めて、後から軌道修正していけばよい。何だか自分に言い聞かせてもいるような気がしてきたが兎に角。Hikaruもいちど自分の書いたものを読み返してみたらどうだろう。Message from Hikki は、Message to Hikki for the futureでも、ある筈である。

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