無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前から平原綾香の歌を聴いても歌唱力も作詞力も感じた事が無く余り興味をひくアーティストではなかったのだが、先日ラジオでインタビューを聴いて途端に印象が変わった。今後は彼女について訊かれたら(今までそんな経験一、二度しかないけれど)「是非これからも頑張って歌っていって欲しいですね。」と爽やかな笑顔で応じる事にしよう、うん。

彼女が何を言っていたかって。「私のアルバム作りのテーマはいつも同じ。"いい曲を歌う事"。人に作って貰った曲も自分で書いた曲もどちらも。」。嗚呼、仲間じゃないか。

「いい曲を歌う」―シンプルだが故に須く真実である。この言葉のマジックは、言ってる本人がたとえ口先だけだとしても、それはつまり、いやいや言わされているとか、意味がよくわかっていないんだけど取り敢えずとか、そういった場合でも効き目がある事だ。こう口に出して行動を起こし続けていれば、必ずや現実に"いい曲を歌う"事に近づいていく。口にして、行動し続ける事が重要だ。いわば"言霊"としての力を持つ類の言い回しなのである。

彼女がこの言葉を口にし続ける以上、必ずや成長する。いや、極端な話、彼女が全く成長しなくてもいつかどこかでいい曲を世に出す手助けをしてくれるだろう。私もこの言葉の力を信じている。彼女には今後も是非この信念を曲げずに歌っていって欲しいものだ。

という訳でいきなり彼女に対して好意的な目を向けるようになった私だが、勿論歌唱力や作詞力に対する評価は変わらない。能力の評価に私個人の好き嫌いは介在しない。いや勿論"i_の心を揺さぶる能力"を評価しようというのなら私の嗜好性はクリティカルだが、それは言葉遊びというものだろう。相変わらず彼女の作詞は下手である。

過去に一度彼女の作詞したという歌を耳にして「これ題材に如何にヒカルの作詞が巧みかについて語ってやろうか」と思った事があった。「でも自分がつまらない拙いと思った歌に字数と時間を費やす事もない」と思い直してその時は取り上げなかったのだが、その時踏みとどまって本当によかった。書き方次第では、読者に彼女についてネガティブな印象を与えかねなかったからだ。やっぱり、自分が気に入った事について書くのがいちばんである。

そして、自分が興味を持てなかったたりつまらないと思ったりした事については口を出したり書いたりしない方がよい。どうしても言いたくなったら、その日あった自分が面白いと思った事、ありがたいと思った事、喜んだ事楽しんだ事を思い出してそれを口にしよう、書き出そう。大坪由佳は毎日の日記に「その日ありがとうと思えた事だけを書く」と言っていたがまさしくそれだ。偏向とかではなく、単に自分が時間を割くのなら、まず「よかった事」について書いてみよう。その後にもし時間が余るというのなら、その時には愚痴のひとつもこぼせばよい。


私はというと、最近聴いて気に入った曲についてとか書いておきたい話は山ほどあるから、そちらに時間を費やす事にしよう。そのコンセプトをあらためて確認し直せただけでも、平原綾香のインタビューを聴けた事には価値があったと言いたい。


まぁ、それとは別にやはりヒカルの作詞能力は別格である。ただ、その緻密さに比較して、どうもまだまだ幅が狭い気がする。Popsとしての体裁というものを気にし過ぎな気がしないでもない。桜流しはそういう意味でもブレイクスルーだったのだがあれからもう二年半かよ。今それについて論じるのは時期尚早か。

変な話だが、一曲々々の歌詞は素晴らしいのに、全体として眺めた時にどこか物足りないと感じるのだ。ただ、それが何なのかがまだ言語化できていないので、今はその事を追伸的に付記するに留めておく。どんなキッカケであろうと、歌について考える機会を得られるのは喜ばしい事である。

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前回の煙草の話は「短期間で価値観が覆った一例」である。喫煙や禁煙、嫌煙の是非等については触れない。それが短期間であったが故に世代間の差が出やすくわかりやすいのだ。

職業柄、というのもあるかと思う。スタジオに詰め続けるミュージシャンの手軽な集中力維持として喫煙は欠かせない、と。これは以前論じた。同時に歌手として呼吸器系に影響は無いのかという心配を周囲はする。そのバランスだろう。

私のような人間にはそもそも喫煙という発想が無い。好きも嫌いも無いのである。だから、件のMJ死去の折のエピソードも自分のような人間からすれば「その発想は無かったわ」である。そういう意味では世代的にはやや適応的だったのだろうなと思う。この価値観の急激な変化に苛まれる事が一切無かったのだから。喫煙者が大手を振って歩いていた頃から肩身の狭い思いをするまで一通り対岸の火事である。

まぁそんなだから、ヒカルが今後結果的に"どっちにつく"のかは興味がある。本人としては全方位型、全世代型で行くつもりだろうし周囲もそれを期待しているだろうけれど、無意識的な日常の中にはそういう世代差がどうしたって出てくる。果たして、ここまで自分のファンたちが喫煙に対して拒否反応を示す事を予期していただろうか。していたんならいい。していなかったとすれば、無意識的な習慣の中に世代差が紛れ込んでいる可能性について心の端に留めおいておいた方がいいだろう。

勿論、"差"の中には世代の他に国や地域、人種や性、職種や信仰などなど様々な要素があるだろう。それらが複雑に絡み合って各個人が形成されている。"世代"だけ殊更に論うのがアンバランスなのも承知している。しかし、他の要素と違い、世代というのは時間に直接依存し、日々刻々と変化していくものだ。職種や信仰は何十年と変わらない事もあるし、母国が一生同じ人は大半だろうが、世代は変化し続ける。上の世代とは常にお別れを、下の世代とは常に出会いを。なので、"差"についてもとりわけ敏感でもいい気がする。

つまり、自然に歳を重ねて、自分と同じく歩んできた"昔からのファン"と歩調が合えば合うほど、下の世代とは乖離が大きくなってゆく。そういう時にミュージシャンは、例えば若い世代と共演したりして活性化をはかる。それによって若い世代からも受け入れられるかもしれないし、逆に「今時に取り入って」と眉をしかめられるかもしれない。そこはその時の状況次第。

だから、"差"に気付く事は大事だが、それを詰めたり逆に離したりといった事は自然に任せればいいとも感じられる。適切な距離感を見つけていく中で、結果歩み寄ったり距離を置いたりしておけばよい。その為の"気づき"だろう。そこを否定せずにまず受け入れるところから。あとのことはまたその時に考えればいいさ。

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