無意識日記
宇多田光 word:i_
 



週末に庵野監督が「このままではアニメは後5年」的な話をして話題になった、という記事が出ていた。労働環境を問題視していたのかな。詳しい事はよくわからない。私からみると、後5年とかいう年限で限界が来るものといえば、アニメ業界でいえば"原作の枯渇"の方だろうとは思う。昨今、ジョジョや寄生獣など随分と古い作品がアニメ化されているが、これは現代にリアルタイムでアニメ化できる作品が少なくなってきた事が背景にある。昔に較べて漫画や小説が衰退したのではない。誰の目にも明らかなように、アニメの本数が異常なのである。深夜枠主体とはいえ、それなりの視聴率をとるにはそれなりの質の原作が必要で、そんなものが爆発的に増える訳もない。アニメ業界が肥大化し過ぎているのである。補食者と補食対象のバランスが崩れれば、確かに生態系の再構築が始まるだろう。

ただ、それは今手元にある発想に基づいて予想したものだ。同じく先週末、ラジオ番組「洲崎西」のアニメ化の話にも話題になっていた。ハッシュタグがトレンド入りしたというから相当だろう。番組中、冗談か本気かアニメ化の話もしていたし、ニコニコ動画にはラジオ音源を元にした"紙芝居"もアップロードされている事から、リスナーからすれば「あの番組ならアリかな」と思えるが、番組を聴いた事のない人からすれば「ラジオ番組をアニメ化? ちょっと何言ってるかわかんないんですけど?」という感じじゃああるまいか。確かに、突拍子も無い。

先の庵野監督の発言と結びつけるのは無理があるが、しかし、アニメの原作としてラジオ番組をという発想は皆にあったかどうか。現時点ではアニメ化に向いたラジオ番組が沢山ある訳ではないから我も我もと後続が続く事を期待するものではないが、この話の要点は、「思いも掛けない発想からガラリと風景が変わる」という事だ。発想は常に希望である。ま、洲崎西は5分アニメなんだけどね。


結局は、「何でもいいからいろいろやってみる」事に尽きる。そのうち何かが生まれるのだ。最初に西明日香を知った時は、こんな展開が待っているとは夢にも思っていなかった。当たり前だけど。最初は「何で洲崎綾と?」としか思ってなかったもんねぇ。それが中野サンプラザや大宮ソニックシティを売り切る(後者はこれからだが、あそこのキャパだったら99%間違い無い)のだから世の中わからない。


どうにも、宇多田ヒカルクラスになると、皆がプロフェッショナルなものだから(それでも結構手作り感ある方だけどね)、総てがオーガナイズされ、約束されたタイアップ、決められたプロモーション日程、賛否両論を呼ばないサプライズなど、いろいろとスムーズに行ってしまう。いやそりゃあ常に社運を賭けたビッグ・プロジェクトであり続けたのだから当たり前なんだけど、本人は兎も角、周囲は石橋を叩くように緻密にオーガナイズしてプロモーション態勢を整えていたのではないか。それでも、ヒットするかどうかは最後の最後までわからないんだと思うけど。

そういう、「え、何、次それなの? どうなるの?」みたいなプロジェクトがヒカルにはない。「点」と「線」を作るだなんて心底吃驚したものだけど、それはヒカルが大変じゃまいかという"心配"が大きかった。中身はメッセージとインタビューを纏めただけの"無難"なもので、それ自体にはサプライズはなかった。いや私個人は枕にして寝てるほど"なくてはならない"存在になってますのやけど。

一言で言えば、プロジェクト自体に"無茶"がないのだ。確かに、ひとつひとつのプロジェクトには「その発想はなかったわ」というものが多いが、しかし実際に触れてみると手堅く、明らかに"成功を狙って"作られたものが多い。宇多うたなんかそのいい例で、肝臓先生にも「その発想はなかったわ」と直に伝えてしまったのだが、内容的には大体うまくいくだろうという感じだった。あまりにもプロフェッショナル過ぎて「だだだ大丈夫なの!?」みたいな感じではなかったのである。売上予想の話じゃなく、作品の質として。

そういう意味で、宇多田ヒカルという"プロジェクト"はビッグすぎてThrill is goneな感じが否めない。しかし、だからこそ、なんというんだろうか、爆発力が期待出来ないようにも思えてきている。無茶な事をして欲しいのか欲しくないかは書いてて自分でもわからないのだけれど、そういう生き方もまたあるんだという事は頭の片隅に置いておいていいんじゃないかな。

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前回のタイトルを「こら、予算の話はよさんか」にし損ねた。だから何って話ですが。

制作費の捻出と回収はプロジェクトの主幹と言ってもいいのだが、音楽制作に於いてはあんまり重視されない。映画の売り文句が制作費なのとは対照的である。これは、音楽が個々人の創造力に依る所が大きいのに対し、映画はかなりの部分人海戦術で補える面があるからだろうか。ヒカルが行定対談の時に映像の現場は体育会系で内気な音楽制作の場とは雰囲気が違う、と言っていたが、つまり人数が居て組織立って手足を動かす事で映像の現場が回る~つまり、予算をかければクォリティーを上げられるセクションが多いという事だろう。

そういう実状を考えた時、映画はひたすら宣伝して収益の規模を拡大するのが大正義になる一方、音楽の場合は必ずしも経済的規模が創造性の一助になるとは限らない。人によっては、儲かれば儲かるほど上限なく意欲的になれる人も居れば、大成功によって追い詰められて自殺する人も出てくる。いやまぁ音楽家に限ったこっちゃないけどな、それは。個々の創造性に依拠する以上、ひとりひとりの価値観とモチベーションとそれに沿った環境作りは必須となる。

Hikaruの場合は、どこでどれくらいの規模でどんな結果を出せば"成功"といえるのか。それが話のテーマである。ここが明解であるかどうか、もっといえば、周囲のスタッフとどれだけ価値観を共有出来ているかが鍵となる。有名になっていい事があんまりなかった、と言いたくなったりしたのは、その"代わり"として得た資産にHikaruがあまり励まされなかった事を意味する。まぁ、それは見てりゃわかるんですけどね…長者番付に載った頃の"高い買い物"が卓上噴水ですから。

狂ったくまちゃんのように「富~名声~」と嘶ければ悪くないのだが、未だにそんなキャラじゃないし、これからもそうなりそうにない。ふぅむ。

モチベーションとはつまり、「また次も作りたくなる」とか「ずっとここに居たい」或いは「次はあそこに行ってみたい」とか人として意欲的な側面を見せる事なのだが、ここの母娘は揃って「今ある環境で物事を改善する」癖がついているから困ったもので。何が困るって、別にそこでなくてもよかったかもしれないのに周りに居る"同胞"たちをあっさり追い抜いてしまう事だ。場に対する執着が無いのにトップを取ってしまうというのは、事態を結構ややこしくするんだが、まぁその話は今はいいか。

何をすれば自分が満足するかを事前に見極めるのは案外難しい。手に入れてから初めて「私が欲しかったのはこれだったんだ」とか「私が欲しかったのはこれじゃなかった」とかわかる。やってみなければわからない。やってみてもよくわからないかもしれない。だから、「その結果次にどうしたくなったか」をみるしかない。その"サイクル"をどう助けるかが周囲の課題なのだが、"望ましい環境"作りは、果たして捗っているのだろうかな…。

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