無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『ジャズのスタンダード・ナンバーを覚えてバーのラウンジとかで歌ってみたい』というHikaruの台詞を思い出す度に、嗚呼、他人と順序が違う人なんだなぁと思わずにはいられない。一生バーのラウンジで歌い続ける人も世の中にはきっと居て、その人はもしかしたらずっと「もっと大きなステージで」とそこを抜け出そうと頑張り続けて叶わなかった結果そうなったのかもしれないし、或いは誇りとやりがいをもってそこで心底幸せに歌い続けたのかもしれない。憧れるのもやるせないのも、どれも歌手の人生である。

聴衆の人数とか場所とかは、間接的には意味があるけれども直接的にはあまり意味がない。人数にかかわらず、歌に耳を傾けてくれるか、歌を愛してくれているかが重要だ。ファンであるあまり、どんな歌を、えぇっと、どんな酷い歌を聴かせても喜んでくれる人も居るかもしれない。歌が心底気に入らなくても、雰囲気を壊すまいと暖かく拍手してくれる人も居るかもしれない。本当に、色んな人が居る。どんな聴衆が望ましいかは歌い手1人々々にとって異なるし、しばしば何が望ましいかを理解できてもいないかもしれない。

Hikaruは上記の"夢"を叶えたのだろうか。誰もHikaruの事を知らない国で、ピアニストと組んで歌を聴かせて、誰かを振り向かせる事が出来ただろうか。Hikaruを知らない人はHikaruも知らない。つまり、どんな聴衆かは皆目見当がつかない。そもそもまともに聴いてくれていないかもしれないし、笑顔の拍手は「やっと終わってくれたか」という皮肉かもしれない。それヤだなー。こういうのは一ヶ所で一度だけでいいとも限らず、常連さんに覚えてもらって初めて勝負が出来る状況になったりする。ファンが居ないというのは過酷である。

場所は選ぶ。パンクを聴きたい人ばかりのところでジャズを歌っても仕方がない。ブーイングされるだけだろう。真にパワフルならもしかしたら聴き入ってくれるかもしれないが、そういうチャレンジはやはり無茶だ。ファンクラブ主催のライブなら(Hikaruには無いけれども)、皆振り向かせるまでもなく既にこちらを見てくれていて、どんなつまらない冗談でも大笑いしてくれる。いやはやぬるま湯である。

その間のどこかだ。いちばん“ちょうどいい”聴衆の居るところで歌ってこそ"いい勝負"が出来る。スポーツであれば、自分と大体同じレベルの相手、つまり自分よりちょっとだけ強いから何かひとつ特別な事をしないと勝てない相手や、自分よりちょっと弱いから少しでも気を抜くと途端に足元を掬われるような相手と勝負する事が自分にとって最もよい。成長の契機の機微はそこらへんを探る事で見いだせる。

ありていに言えば、フェスティバルに出てみればという事になる。ヘッドライナーを務めるのがいちばん素晴らしいが、少しだけ毛色の違う場所、違う聴衆を相手に歌うのだ。今更ワールドワイドのメジャー契約を持つ歌手がバーのラウンジという訳にもいかないかもしれないんだし、そっちの方がよっぽど現実的である。

そりゃもう様々な組み合わせがある。ロック系のイベントとソウル系のイベントでは選曲から変えていかねばならないだろう。少しアウェイとか、少しホームくらいがちょうどいい。アウェイ過ぎてもライブが辛いものになるだけだし、ホーム過ぎても学べる事が少ない。そこを選曲のアプローチで微調整して様々なジャンルの音楽祭に対してアジャストできるのがノンジャンル・アーティストたるUtada Hikaruの面目躍如である。自分の資質を最大限活かすチャンスである。

残念ながら日本では、ヘッドライナー以外は務められない。人気はどうなっているかわからないが、客の反応の前に、Hikaruの後に出てきて歌うのを他のミュージシャンが躊躇うんじゃないかというのがその理由である。皆して井上陽水状態になる訳だ。「そんな、畏れ多い」と。まぁサマソニやフジロックで後ろにメアリーJ.ブライジが控えているなら大丈夫だけど、日本人・邦楽のフェスティバルだと…誰か居るかねぇ。


ま、その前にHikaruなら「私フェスとかいうガラじゃないでしょ」って言っちゃいそうな気がしますけどね~。いやはや、それがいちばんリアルな反応だろうな。ま、仕方が無いか。望みを捨てる事は、ないけれど。

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集中力とは対話の密度であるから、Pop Musicへの集中力は市場の充実に左右される。Art Musicはほぼ自己の感性と出音との対話だから本人の情熱がそのまま集中力になりえるが、市場が失われてしまっては如何にPop Musicianに情熱があろうとどうにもならない。作品がPopsとして成立する保証が限りなく低くなるからだ。

市場さえしっかりしてしまえば、作り手には「手応え」というものが生まれ得る。それが期待出来なくなっているのを痛感した、というのはここで半年前に椎名林檎とテイラー・スウィフトの話をした時に述べたが、そこから、では、どうしたいのかというのが昔からのPop Musicianの課題だろう。

若い世代については私もよくわからない。無料文化とライブ活動の二極化、という風に遠くからは見えている。興業規模は2015年になっても衰える気配がない。そこにアニメ&ゲーム業界もアイドルも興業に来るものだから、充実の感触は計り知れない。いや、いちばん規模が大きいのは場合によってはアイドル業界のようにもみえるが…。

要は、音楽というものがあまり主役になっていない風なのだ。アイドルもそうだが、イベントやイベントに参加する人間が主役であって、それこそ中身は別にジャンケンでも構わないという勢いになっている。それは極端だけれども、若い世代がクラウド・ファンディングに手が届く時期になっても、全体構造自体は変わらないだろう。

さて。宇多田ヒカルのような"旧世代"はどうしたものか。寧ろ、小さくはあっても(いやかなり大きいけどね)確かなファンベースを築いている椎名林檎とは違って、"音楽主体の本格派なのにファンベースがマスメディア依存"のヒカルは、かなり難儀な状況になっているといわざるを得ない。

周りのスタッフの優秀さは、宇多うたアルバムで痛感した。プロモーション期間後半にぐぃっとギアを上げて、最終的に品切れのお詫び文までリリースする羽目になったのだから見事なものだ。もっとも、更にもう一段優秀なら品切れ自体起こさせなかっただろうけどそれは過ぎた要求というものだろう。

本人復帰ともなれば、その10倍のリソースと迫力でプロモーションが行われるだろう。手腕は大いに楽しみだとしかいえないが、果たしてそこに市場はあるのか。「宇多田の新しいのが出るのか。聴いてみようかな。買おうかどうしようか。」と興味を持ってくれる主体の集合が市場である。そんな人たちが、どれくらい残っているのか。それこそ、手応えがない。

"彼ら"が今人生のどんな位置に居て、音楽はその生活の中でどんな価値をもつのか。理想をいうなら、何もない所に宇多田ヒカルをねじ込める位のパワーがどこかから供給されればよいのだけれど、マスメディアってそんな力が今あるのか。そもそも、宇多田にどれ位興味を持ってもらえるのか。不透明感は日々強まるばかりなのだった。

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