無意識日記
宇多田光 word:i_
 



JUDY AND MARYの“くじら12号”を聴きながら、「90年代後半は特殊な時代だったなぁ」と改めて痛感した。彼らは敢えて売れ線を狙い東京ドーム公演にまで上り詰めた"成功者"だったが、特にメンバーが情熱を注げる音楽性ではなかった為程なく解散した。しかし、“そばかす”等数々の名曲を残している。今はどちらかというとアニソンのひとつとして紹介される事も多いのだけれど。

当時は、自身の音楽的嗜好を犠牲にしてでも売れ線狙いに賭けられる程の規模の"市場"があったのだ。作曲職人が狙ってヒット曲を作れる時代。広瀬香美なんかあざと過ぎて鼻につくくらいだったが、それでも売れてしまうのだから、そりゃあ作るわな。

今はそういう"市場"がないから、職人たちはゲームやアニメの曲を作っている。新しい世代の職人たちはボカロや同人出身だったりする。時代は変わった。今の時代を象徴する作曲家はときかれたら「梶浦と澤野かな…」と答えてしまいそう。朝ドラの音楽まで作ってしまうとか。いやはや。

西野カナなんかは随分とこちらからみてもわかりやすく、"古典的"とすらいえる。自分の世代の語彙で乱暴に形容してしまえば"浜崎あゆみとaikoのちょうど中間くらい"を狙っていて実に巧いと思うのだが、なんだか中規模のヒットにとどまっている。いや1位はとるんだからやはり市場自体が縮小しているのだろう。あの世代の彼らはもう音楽をあまり買わなくなっているのだ。それより更に若い世代はYoutubeが地上波テレビと同列だろう。いつでもどこでもタダで動画と音声が手に入る世代だ。

でも、実際に本当に対処しないといけないのは、90年代後半に市場を形成していた"元若者"の世代である。彼ら(いや、私たち、か)をつなぎ止め切れなかったのは何故なのか、そして、ある程度呼び戻す為には何をすれば有効なのか、そちらを突き詰めておかないとそれより若い世代にアプローチしようというエネルギーも生まれてこない。一体何が変わって何が変わっていないのか、それらと音楽にはどういう関係性があるのか。そろそろ時期的に90年代後半に活躍した人たちの様々な"20周年"がやってくる。その記念企画たちに皆がどれくらいのってくるか。結局トリはあゆとヒカルのデビュー20周年になるのだろうが、それまでに趨勢を見極めておきたいものである。

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前から平原綾香の歌を聴いても歌唱力も作詞力も感じた事が無く余り興味をひくアーティストではなかったのだが、先日ラジオでインタビューを聴いて途端に印象が変わった。今後は彼女について訊かれたら(今までそんな経験一、二度しかないけれど)「是非これからも頑張って歌っていって欲しいですね。」と爽やかな笑顔で応じる事にしよう、うん。

彼女が何を言っていたかって。「私のアルバム作りのテーマはいつも同じ。"いい曲を歌う事"。人に作って貰った曲も自分で書いた曲もどちらも。」。嗚呼、仲間じゃないか。

「いい曲を歌う」―シンプルだが故に須く真実である。この言葉のマジックは、言ってる本人がたとえ口先だけだとしても、それはつまり、いやいや言わされているとか、意味がよくわかっていないんだけど取り敢えずとか、そういった場合でも効き目がある事だ。こう口に出して行動を起こし続けていれば、必ずや現実に"いい曲を歌う"事に近づいていく。口にして、行動し続ける事が重要だ。いわば"言霊"としての力を持つ類の言い回しなのである。

彼女がこの言葉を口にし続ける以上、必ずや成長する。いや、極端な話、彼女が全く成長しなくてもいつかどこかでいい曲を世に出す手助けをしてくれるだろう。私もこの言葉の力を信じている。彼女には今後も是非この信念を曲げずに歌っていって欲しいものだ。

という訳でいきなり彼女に対して好意的な目を向けるようになった私だが、勿論歌唱力や作詞力に対する評価は変わらない。能力の評価に私個人の好き嫌いは介在しない。いや勿論"i_の心を揺さぶる能力"を評価しようというのなら私の嗜好性はクリティカルだが、それは言葉遊びというものだろう。相変わらず彼女の作詞は下手である。

過去に一度彼女の作詞したという歌を耳にして「これ題材に如何にヒカルの作詞が巧みかについて語ってやろうか」と思った事があった。「でも自分がつまらない拙いと思った歌に字数と時間を費やす事もない」と思い直してその時は取り上げなかったのだが、その時踏みとどまって本当によかった。書き方次第では、読者に彼女についてネガティブな印象を与えかねなかったからだ。やっぱり、自分が気に入った事について書くのがいちばんである。

そして、自分が興味を持てなかったたりつまらないと思ったりした事については口を出したり書いたりしない方がよい。どうしても言いたくなったら、その日あった自分が面白いと思った事、ありがたいと思った事、喜んだ事楽しんだ事を思い出してそれを口にしよう、書き出そう。大坪由佳は毎日の日記に「その日ありがとうと思えた事だけを書く」と言っていたがまさしくそれだ。偏向とかではなく、単に自分が時間を割くのなら、まず「よかった事」について書いてみよう。その後にもし時間が余るというのなら、その時には愚痴のひとつもこぼせばよい。


私はというと、最近聴いて気に入った曲についてとか書いておきたい話は山ほどあるから、そちらに時間を費やす事にしよう。そのコンセプトをあらためて確認し直せただけでも、平原綾香のインタビューを聴けた事には価値があったと言いたい。


まぁ、それとは別にやはりヒカルの作詞能力は別格である。ただ、その緻密さに比較して、どうもまだまだ幅が狭い気がする。Popsとしての体裁というものを気にし過ぎな気がしないでもない。桜流しはそういう意味でもブレイクスルーだったのだがあれからもう二年半かよ。今それについて論じるのは時期尚早か。

変な話だが、一曲々々の歌詞は素晴らしいのに、全体として眺めた時にどこか物足りないと感じるのだ。ただ、それが何なのかがまだ言語化できていないので、今はその事を追伸的に付記するに留めておく。どんなキッカケであろうと、歌について考える機会を得られるのは喜ばしい事である。

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前回の煙草の話は「短期間で価値観が覆った一例」である。喫煙や禁煙、嫌煙の是非等については触れない。それが短期間であったが故に世代間の差が出やすくわかりやすいのだ。

職業柄、というのもあるかと思う。スタジオに詰め続けるミュージシャンの手軽な集中力維持として喫煙は欠かせない、と。これは以前論じた。同時に歌手として呼吸器系に影響は無いのかという心配を周囲はする。そのバランスだろう。

私のような人間にはそもそも喫煙という発想が無い。好きも嫌いも無いのである。だから、件のMJ死去の折のエピソードも自分のような人間からすれば「その発想は無かったわ」である。そういう意味では世代的にはやや適応的だったのだろうなと思う。この価値観の急激な変化に苛まれる事が一切無かったのだから。喫煙者が大手を振って歩いていた頃から肩身の狭い思いをするまで一通り対岸の火事である。

まぁそんなだから、ヒカルが今後結果的に"どっちにつく"のかは興味がある。本人としては全方位型、全世代型で行くつもりだろうし周囲もそれを期待しているだろうけれど、無意識的な日常の中にはそういう世代差がどうしたって出てくる。果たして、ここまで自分のファンたちが喫煙に対して拒否反応を示す事を予期していただろうか。していたんならいい。していなかったとすれば、無意識的な習慣の中に世代差が紛れ込んでいる可能性について心の端に留めおいておいた方がいいだろう。

勿論、"差"の中には世代の他に国や地域、人種や性、職種や信仰などなど様々な要素があるだろう。それらが複雑に絡み合って各個人が形成されている。"世代"だけ殊更に論うのがアンバランスなのも承知している。しかし、他の要素と違い、世代というのは時間に直接依存し、日々刻々と変化していくものだ。職種や信仰は何十年と変わらない事もあるし、母国が一生同じ人は大半だろうが、世代は変化し続ける。上の世代とは常にお別れを、下の世代とは常に出会いを。なので、"差"についてもとりわけ敏感でもいい気がする。

つまり、自然に歳を重ねて、自分と同じく歩んできた"昔からのファン"と歩調が合えば合うほど、下の世代とは乖離が大きくなってゆく。そういう時にミュージシャンは、例えば若い世代と共演したりして活性化をはかる。それによって若い世代からも受け入れられるかもしれないし、逆に「今時に取り入って」と眉をしかめられるかもしれない。そこはその時の状況次第。

だから、"差"に気付く事は大事だが、それを詰めたり逆に離したりといった事は自然に任せればいいとも感じられる。適切な距離感を見つけていく中で、結果歩み寄ったり距離を置いたりしておけばよい。その為の"気づき"だろう。そこを否定せずにまず受け入れるところから。あとのことはまたその時に考えればいいさ。

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最近ヒカルについて世代の話題が多い(というか意識的に増やしている、かも)のは、有り体に言ってしまえば"宇多田ヒカル"が「古い」と感じる事が多くなったからだ。

音楽の話ではない。売上でいえば「1人で一時代を築き上げた」と言っても過言ではなく、従ってヒカルの歌は誰もがその時代の思い出と共にあるが、これから未来に向かってバックカタログにアクセスする世代たちをかなりの確率で魅了していくだろう。その魅力の前では新しいとか古くないとか未だに新鮮だとか古びれないとか失礼も甚だしい。そっちの話ではないのだ。人としての世代の話である。

Message from Hikkiを読んだ最初の頃僕は「随分と人の善意や向上心を信じる子だなぁ」と思ったし「田舎の陰湿さとか、全体として沈下する事を厭わない空気とか、知らないのかなぁ」とも思った。都会で育ったらこんな風に人を信じられるのだろうか、人の悪意を知らずに育ったにしてはものを知っているし、或いはそれらをはねのける強さを持っていたか、避け続ける強かさを持っていたか、いずれにせよあっけらかんと明るく強くなのに繊細な子だなと思ったものだ。

確かにヒカルは年齢的にみればやや先進的だったが、それから何年も経ってくると、若い世代がやたらと「呑気」なのに気がついた。ゆとり教育とかとは全く関係が無い。単に制度や医術や技術が発達してきて社会が成熟していくにつれ、人を出し抜いたり欺いたりするよりは情報を透明にして協力し合って生きていく方がベターなケースが増えてきたというだけだ。要は皆環境に適応してきただけなんだが、私のような古い世代はそれがやけに「呑気」に映る。つまり、時代が変わったので昔はそれで意味があったんだけど若い世代からみたらきっと我々は「無意味に殺伐としていた」ようにみえるんではないかな。

いや勿論、昔から人々は支え合って生きてきたし今だってほじくれば悪意なんて幾らでも見つかる。要は社会全体での割合やバランスの話だ。

だから、ヒカルが登場してきた時に人々に与えた印象、思いやりや優しさや気遣いや心遣いや前向きなものの考え方、前の世代からしたら甘っちょろいとしか思えない世間に対する"期待"など、確かにヒカルのような知性は伴っていないけれど、より若い世代のうちの幾らかは普通に身につけつつある。当時はヒカルが特別だったが、更に制度や医術や技術が発達した今、それが適応的である場面が更に増えたのだ。不平を言うのは私より上の世代になるのだろう。もどかしくて仕方が無いだろうな、社会がよりよくなったのに、自分はそこから疎外されていたら。

一方、ヒカルについて最初っから「古いなぁ」と思った事もある。煙草の話だ。もうその話はしないっつったのになぁ自分(笑)。

ヒカルの喫煙の話になると「ショック」と憚らずに言う人が多かった。勿論気にしない人も沢山居るのだが、ポイントは「他人の喫煙に落胆したと口に出して(字に書いて)言ってもいいという空気」がいつの間にか世間に出来ていた事である。これは本当に世代の差が大きい。

勿論喫煙者の割合が下がっている(特定の世代の女性は除くようだが)のは事実みたいなんだけど、要はその中で「どちらの発言力が強いか」という事だ。

私の世代はその勝敗が逆転していったのをまざまざと見せつけられた世代だ。私が幼い頃は職場で喫煙するのが当たり前で、禁煙コーナーは建物の片隅に小さくあるだけだった。それが今や全く逆転どころか「全館禁煙」と堂々と謳っている所も多い。禁煙かどうかも大事だが、「それを"堂々と言える"空気」こそが肝要である。時代が下り、嫌煙者が勝者になっているのが今の時代である。

私がヒカルだったなら、絶対に自分が喫煙者である事をバラそうとしなかっただろう。MJが死んだ時に一本だけ吸ったエピソードも話さない。何故なら、イメージダウンのリスクが大きいからだ。もし公表するなら中途半端な事はせずに「私は喫煙者の味方」だと言っただろう。勿論現実のヒカルはイメージダウンなんぞ気にしないタマなのだが、もしそうならもっと更にあけすけに日常生活について語ってもいいハズだ、というのが嫌煙者の逆転を見てきた人間の感覚である。要するに私からみて、ヒカルの喫煙に対する感覚が"時代遅れ"にみえたのだ。

その優しい人間性は完全に時代を先取りしていたが、一方で喫煙に対する感覚のように"古臭い"と思える所もある。それらを総合して、最近何となくヒカルという人間が"古い世代"になってきたんちゃうかなぁと思うようになった、という話でした。勿論、私自身はヒカルより更に古い世代なので、"こちら"からみればヒカルは当然新しくフレッシュなまんまなんですけれどもね~。

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その昔ヒカルは欲しい才能として「財布から狙った金額の小銭を素早く取り出す才能」というのを挙げていたな。それで思い出したが、その昔私はコンビニでの支払いが777円だった事がある。まぁそこまでは普通の話だが、その時支払いをしようとして小銭入れに入っていたコインを総て取り出したらピッタリ777円だった、という所までいけばこれは普通の話ではあるまい。でそれがどうしたと言われたらそれまでなのでそれはさておき。

今や電子マネーでの店頭支払いも普通になって、例えばキオスクなどで手早く支払いをすべき場面などでは重宝する。お釣りのやり取りが無いもんね。ヒカルは日本で電車に乗る習慣もないだろうから、この便利さを享受しているかどうかはわからないが、体験すれば随分変わったなぁと思う事だろう。狙った金額の小銭を手早く取り出す才能を手に入れていたとしても、もう使う場面ではない。そうやって、前の世代の特別な技能は次の世代で普通になったり不要になったりしていく。喜ばしいやらうら寂しいやら。

そういう技術面での進展が各世代間の"感覚の差"となってあらわれる。想像はできても、なかなか実感はしづらい。ヒカルに"下の世代"が沢山出来ている今、どうやってその感覚を取り入れていくかは課題だろう。

開き直ってもいい。向こうからこちらに興味を持ってくれれば、作法は勝手に覚える。或いは親目線でもいい。躾る。いやそれはヒカルの趣味じゃないかな。

花より男子2の時に随分下の世代も耕したと思ったがそれも今は昔。ヒカルが実際に原作を読んでいたのだからリアルタイムだ。EVAに至っては後追いである。それらからもう8年とか経過している。ヒカルは今の若い世代がリアルタイムで通過している作品群に普段触れているのだろうか。ラノベとかボカロとかソシャゲとか。

結局、差が出てくるのはそこらへんか。上の世代が過去の名作のリメイクに必死になっている間にも若い世代はどんどん新しい作品を生み出していく。それこそ、スマホで卒論を書くなんてことまで言われるのだから。卒論書いてる時点でもう若くないとか言われそうだけど。

無理に若作りもして欲しくないが、かといって若い世代の文化を無碍にしないで欲しい。まぁそこらへんは心配していないが。ヒカルこそその"若い世代の才能"のアイコンだったのだから。もう若くない、というスタート地点に立てるのもまた特権といえるんだし。

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WILD LIFEでAutomaticやFirst Loveやtime will tellといった初期の楽曲をヒカルが歌うのを聴いて、「16歳の頃は"大人のような歌唱"だったのが26歳だと"大人の歌唱"だなぁ」と思った、という話を昔した。真似るとかフリをするとかしなくてもありのままの心持ちで歌える年齢になったのだなぁと。

今32歳。いつ復帰するかはわからないが、今より若くなる事はない。ならば、今後は反対に「まるで若い人のように歌う」必要が出てくるかもわからない。過去の歌を歌う時もそうだし、これから作っていく歌がそういった歌唱を"要求"しないとも限らない。野沢雅子がおばあちゃんになっても悟空や悟飯や悟天の声を演じているように、歌手も巧く立ち回れるのだろうか。


小説には「地の文」というのがある。台詞以外の文章、鈎括弧で括られていない場所の文字の事だ。これを"語る人"のケースは様々だ。わかりやすいのは登場人物による叙述で、例えばシャーロック・ホームズは助手のワトソンの手記という形を取っている為地の文は全てワトソンの言葉だ。しかし、わかりにくい例も多く、色々と視点が揺らぐケースもあって、「ナレーターさんあんた誰だ!? 作者なの?? だったらオチ知ってるんでしょ今すぐ教えてよ」とか幼い読書家の私は思ったものだ。

で、思ったのだが、まず作者が小説家のキャラクターを書いて、そのキャラクターがまた小説家でその人が物語を書いている設定の小説とか無いのだろうか。もう21世紀だし誰かはやっていると思うんだけど少なくとも私は知らない。そこでは、実際の読者である我々は「二重の地の文」を読まされる羽目になる。かなりややこしいが、地の文の"視点"を批判的に検討するにはなかなかに効果的な方法ではないかと思う。

小説以外でなら「劇中劇」という、こちらはかなりありふれた手法がある。芝居の中で芝居の芝居をする。最近ではアニメでも劇中劇が扱われ、SHIROBAKOに至っては作中で制作されたアニメを実際に円盤付録にするなど意欲的な試みもみられる。

しかし、文章における地の文、或いは語り手の視点というものは独特だ。劇中劇は広い意味での"画面"の与える情報が総てなので語り手の視点はある意味固定である。ナレーターも補助的な役割しかもたない。しかし小説や歌詞だと語り手が総てである。何をどうその人が語るかで世界の見え方も世界そのものも変わってしまう。

歌詞でもその"二重の地の文"が実践できないだろうか。語り手を語る語り手の視点で作詞をするのである。それならば、物語の中の登場人物たちと歌い手の年齢がかけ離れていても何とかなるのではないか。ただ、多分現実には文字数が足りなくて実現は難しいかもしれない。スターシステムのように、1人の登場人物が幾つもの曲に再登場してキャラクターとして認知された挙げ句にその人が今度は語り手になる、とかまずそこらへんから地均しをして…みたいな回りくどいステップを踏みながらやっていかないと辿り着けないだろうかな。


…深夜ならではのあやふやな感じが印象深い話でございました。これ、朝になって読み返したら後悔してるパターンまっしぐらとちゃうやろか…w

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春画ツイートの関連記事をやっと読んだ。まぁそんな感じか。ある程度影響力を加味した呟きだったのかな、とは思うがこのRT数で果たしてどうか。今はその日の話題に上る為には2万RTくらい必要だからな…。

それはまぁ憂慮しても仕方ないとして。どうやら一応日本でも開催される可能性があるようで、それを見越しての呟きだったとすれば、私もその折には見に行く所存。都内だっていうし。

実施の可不可もそうだが、展示のアレンジメント(展示アレンジか…なんだこのくすぐったいダサさは)の方法論も問われる。大英博物館では年齢制限が設けられたとか。本当に博物館史上初ならセンセーショナルだな。日本ではどうなることやら。

アートかポルノかという議論は私には関係ないし、そもそも年齢制限というルールが結婚可能年齢と整合性が無いので馬鹿馬鹿しい(男子が18歳で結婚する時に何の予備知識もない状態を奨励しているとか何。いやおねショタ的には美味シチュか…)ことこの上ないのだが、現実は実際こうなので話はそこから始めるしかないか。

アートかポルノかという話題は、作品の内容はおいておいて、"市民権"という謎の権利を主張できるか否かが主眼だ。それは、「迫害されない権利」である。人を迫害する事に興味が無い私のような人種にはまるで遠い国の出来事なのだが、世の中には他人の生き方が気に入らないからと邪魔をしにわざわざ出掛けていく人が沢山居るらしい。贅沢な人生の時間の使い方だなーと毎度思う私はそんな暇があったら昼寝をしていたいんだが、兎も角現実はそうなってるんだからその当事者たちは考えなくてはいけない。

春画というキーワードでくくるなら春画の全盛期は今、現代である。勿論技術の変化や進展と共に表面的な画風は変わってきているが、デフォルメされた造作、人体以上にこだわりをもって描かれる衣服と背景のバランス、構図の多彩さなど、やはり伝統は直接継承しなくても息づいているものなのかとイタリアンプログレとRhapsody of Fireを聞き比べながら思うのと同じ事を考えてしまう。それが年に二回も万単位の人間を動員して即売会を行うのだからその規模たるや。あーコミック・マーケットの話です。明らかに春画が一大勢力です。

現状、二次創作も豊富な同人誌の世界は常に規制強化の圧力と戦っている。「風紀の乱れ」だか何だか知らないが、ほっとけばよいものを取り締まりにくるからねぇ。つまり何が言いたいかというと、春画展の開催の有無は対岸の火事ではなく、"現代の浮世絵師"(まぁだいたいエロ絵師)の皆さんにとっても注目すべき問題になりえるぞと。

色々揃ってるのだ。日本の昔からの伝統、イギリスなどの外国からの外圧、アートとしての市民権。規制強化をしたがる方が"好む"ワードを並べる事ができる。つまり、結構反対しにくい。あとはこういう実績を重ねていって少しずつこういう文化の"居場所"を確保していく事だ。まぁ、無理かもしれないが手を尽くすしかない。

本当なら、放っておいて欲しいのだ。あなた方には興味がありませんし、我々は自分たちのテリトリーから出る気もないですから、どうかご自分のお時間をお過ごしになってください、と。要するに暇なんだろうな。信じられない事だが、世の中が平和だと居心地が悪い人たちが沢山居るのだ。こちらからすれば、平和なんてやっとスタートラインであって、そこから何をするかが問題なのに。

春画は重要だ。試金石であると同時に、当然作品としても。あんなでも、平和の象徴なんだから。

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グーグルグラスがライバル
と書いたが、本音はつまり、スマートフォン/タブレット全盛の今の時代に「おまぃら目で見てばっかり。耳でも聞けよ。」と言いたい訳だ。

Apple Watchには魅力を感じない。機能的にはipod nano5thがネットに繋がった、という程度にみえる。

今思い返してもipod nano5thは異常に優秀で、最大の過ちはnanoと名付けた事だった。それまでのnanoファンにはウケないが、その10倍以上の厚さの層にはバカウケするポテンシャルを持っていたというのに。あれは勿体無かった。

もっとも、今のところ私が知る限りベストなデザインのポータブル・プレイヤーはTimpyだ。あれめっちゃ欲しかった。あれの画面表示がipod nano5thになったら最強だ。詳しくは検索して欲しいが、未だにあれをどの企業も商品化しようとしなかったのが信じられん。間違いなく買ったと思う。

まぁそれはいい。イヤホン型ウォークマンを手に入れて何が変わったかといえば、「日常の生活の中にこんなに音楽を聴いていられる時間があったのか」という事だ。前はヘッドバンド型ヘッドホンに極短のコードでipod nano5thを繋いで擬似Timpyにして悦に入っていたのだが、274Sを手に入れてからは兎に角それより1日に聴ける曲数が増えた。その気になれば宇多田ヒカルのフルアルバムを1日で聴き終えれてしまう。炊事洗濯掃除買い物昼寝お散歩なんていう普通の休日を過ごせばすぐにそうなる。トイレはおろか風呂に入るのも大丈夫。何しろ最初水に入れて売ってた位ですから。流石に頭を洗うのに邪魔なので結局外しちゃうんだけど、それくらい。前にも書いたが、「パンツを穿く前にもう着けている」勢いなのだ。わしゃどんだけジャンキーなんだか。

本音をいえばこのスタイルでAM/FMラジオが欲しい。片耳AMラジオは実在したようだが今はもう手に入りそうにない。ここで秀逸だったのがipod nano5thで、ヘッドホンにかけたままFMラジオを十分受信できていた。勿論Timpyはラジオ搭載である。

散歩好きにはラジオは欠かせない。特に交通情報と天気予報がすらっと入ってくるのはいい。そりゃもちろんスマホか携帯があればすぐチェック出来るのだが何も取り出さなくていい、という便利さは体験してみないとわからないかもしれない。

1日が長くなった。どれだけ忙しい1日でも、アルバム一枚分くらいなら曲が聴けるものなのだ、と知れたのは大きい。不便さは幾らでもある。正直、まだまだ商品名を連呼して他人に勧められるような完成度ではない。興味をもってもらえたら、様々な弱点を踏まえた上で試してみてくれたらいいかな、という程度だ。

という訳で今の私の音楽ライフは両面だ。イヤホン型ウォークマンを耳に嵌めて大量の音楽を摂取する一方、ハイレゾ音源の高音質をいい音で堪能する。どっちも必要であるが、やっぱり利便性の追究というのはウキウキする。あとはメーカーがもっと本腰を入れてくれたらと願うばかりだが今年の2月に発売された新商品のコンセプトからすると、なんだか全然その可能性の大きさに気がついていないようで…そら没落するわ。(←言い過ぎ)

という訳でヒカルにも、もっと音がよくなったら愛用を進めたい。10年前ipodを手に入れてワークアウトに励んでいる話をしていたが、今ならこれだろう。水泳までできちゃうんだから凄い。場所によっては、緊急時の呼び掛けが聞こえない為装着を断られる事もあるらしいが。

そうなのだ。こいつの最大の弱点はそこで、便利過ぎて本来なら耳が聞こえていないと危ない場面にもひょひょひょいっと飛び込めてしまう事なのだ。これを解決する為に「外部音も同時に再生するモード」の開発と普及が待たれるところなのだが…という話にまで踏み込むと随分話が長くなるのでここらへんで打ち切ろう。次回からは多分、 #Utada と #Hikki の2つのハッシュタグが復活する筈ですんで…。

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コードレスイヤホン機能付きイヤホン型ウォークマンはまだまだ未完成だ。恐らく、本丸はインターネットラジオの搭載だろう。

理想をいえば単独で無線ブロードバンドに接続できればいいのだが、次善としてはスマートフォンで一旦受信してそこからBluetoothでギヤホンに飛ばす、という手順でもよい。まぁそれはどっちだっていいさ。

妄想を逞しくすると。操作性としてはギヤホン単体で選曲出来るのが望ましい。例えば、本体左右にダイヤルを1つずつ設置してその組み合わせで選曲する、とかすれば一ダイヤル10チャンネルなら100局、12チャンネルなら144局のプリセットが可能だ。勿論この数を個人がプリセットするのは面倒なのでiTunesStoreのプレイリスト販売みたいな感じで各ジャンル推奨のプリセットを取り揃えてそこから選べるようにすればよい。買った時には最もオーソドックスな最新の選曲リストをドライバーと共にダウンロードできるようにして…。らじるらじるやRadikoのような既存のラジオ局もあった方がいいな。兎に角、左右のダイヤル操作だけでリアルタイムに世界中の音楽やトークが流れ込んでくるのが理想である。ギヤホン単体では画面が無いので設定により音声でラジオ局名を案内してくれる機能も必須だろう。


音声案内、という所からもう一歩踏み込むと更に便利になりそう。そこまでいくとギヤホンかどうかは関係ないのだが、画面表示に頼らず音声だけでどこまでいけるかの思考実験である。

DJAIの開発。人工知能ディスクジョッキーだ。機能としては、もうシンプルにMP3のタグを読み上げるところから始めればよい。実際ipodにはその機能が搭載されている。ここから一歩踏み込んで、キャラ付けされたDJAIたちが楽曲情報をもとにそれぞれの個性にしたがって"トーク"を繰り広げる、という寸法だ。

幾ら無線ブロードバンドが普及したとはいえ、接続が不安定になるケースはどうしたって出てくる。そんな時にローカルのソースだけを使って"ラジオ番組"を生成する事はできないだろうか。ギヤホン内に保存されたMP3ファイルをシャッフルしてそこにDJの曲紹介が被さる。ギヤホンの弱点にして長所は画面をアテに出来ない事なので、今再生されている楽曲のアーティスト名とか曲名とか作曲者名とか収録アルバム名とか、喋って伝えて欲しい事柄は幾らでもある。それをDJAIに喋って貰うのだ。

最初は一昔前の初音ミクのようにぎこちないだろうが、AIというからには学習して次第に"達者な喋り"になっていくだろう。その成長ぶりもまた楽しみになるのではないか。

カスタマイズも自由度が高い方がいい。曲間を切らさずにクロスフェイドの中イントロだけの尺で曲紹介するような設定とか、NHKFMのように「二曲続けてどうぞ」モード、更には曲が終わった後にも「今お聞きうただいたのは…でした」を付け加えたり加えなかったりできるとか、色々あるだろう。てか、こゆのって交通情報や天気情報で先に実践されてないのかな。定型データに従って機械音声で読み上げさせれればいいのだが…。


ともかくこの分野はまだまだ"夢がひろがりんぐ"だろう。WindowsやAppleのおかげで蔑ろにされ続けてきた"音声"の分野だけに、できる事はまだまだありそうだ。まぁライバルはグーグルグラスになるんじゃないか。妄想を広げているだけだけど、これが妙に楽しいんだよねぇ…。

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春画についてコメントした事で、多分「日本という国は性文化に対して云々」という言説もちらほらあるのではないかと思う。私は、Hikaruの言いたい事の重心は「日本の伝統」の方だと思う。本当の伝統はこちらで、現在においてそれらを勝手にすり替えている人たちに対して何か言いたかったんじゃないか、そうな風な印象をもった。実際の所はわからない。ただ、確かに世の中には本当の伝統を追求するより自己主張をドーピングする為にそれが伝統であるかのように言い振る舞う人が居るかもしれない、とは思う。いずれにしろ歴史に対して不勉強は騙される。

私としては興味が無いに等しい。本当に歴史を学びたければ、関わる国や民族総ての、彼らの言葉で書かれた言葉を漏れなく拾い上げなければ"真実"に辿り着けない。何が難しいって、恐らく、より真実に近付く為に必要なのは敗れ去っていった敗者たちの語る歴史であり、彼らの言葉は敗者であるが故に抹殺されてきた事だ。即ち、本当の歴史は途絶えた血統と言葉の向こうにあり、勝者たちの言葉しか届かない現代で幾ら足掻こうが殆どが無駄である。つまり、テーマの重要性に対して恐ろしく手間暇のかかる課題だという事だ。追うのを止めはしないが、そんな事よりちゃんと電磁気学を学んで、出火のしないコンセントの管理の仕方や、イオンと名のつく虚偽満載の売り文句に引っ掛からないリテラシーの育て方など、先にやるべき事は幾らでもある。そういった"基礎"が出来た上で、今さっき述べた"真実の歴史への険しい道のり"を追い求めたければ、どうぞという感じである。遠いぞきっと。

それより私は「ONE PIECE」を読む事を奨めたい。歴史の真実に向かうには人生そのものを捧げる必要があるが、こちらを読むには恐らく全巻で10万円もかからないだろう。全200巻だとしても9万円以下だよね。安い。勿論まるごとフィクションだが、それは宗教の教典と同じだ。そこに歴史的事実も真実も無いが、歴史に対して人は何を求めそこに何を見るかについて、非常に多くのキャラクターがかかわって様々な視点を提供してくれている。本当の歴史を知る事は出来ないが、歴史をかたる(語る/騙る)者についてどう対応すればいいかを考える為のサンプルには困らない。最も、そういった点に関して尾田が本領を発揮するのは100巻過ぎてからだろうが。(現在77巻)


それが私の「歴史観」である。真実を追い求めるには未だ人類は非力過ぎる。放射線傷害の健康被害についての本当のデータに辿り着くのすら難儀なこの国、今という時代に果たして昔の本当に辿り着けるのかは甚だ疑問だ。最も、遠くだからこそ真実はシンプルだという事も出来る。稲作は生き残った。なぜなら今日も我々はご飯は食べれているからだ。これは歴史の真実だが、辿り着くのは簡単だ。そういったものを沢山見つけられるというのなら、チャレンジしてみる価値もあるだろう。でないのなら私はフィクションと自然から学ぶ。人の業はフィクションの方が正直でわかりやすいし、自然は常に最高以上の教科書だ。雪の結晶の美しさの前にはどんな人間の騙し合いも虚しく映る。人の心はシンプルなのだ。

雪の結晶並みの美を作るのはアーティストとしての力量がかなり必要になるが、我々の好きなアートは多くの人が再現できる。それはシンプルなメロディーであり、我々の多くは鼻歌を歌える。音痴だろうがなんだろうが、口遊んでいる時は気分がいい。素朴だが、これ以上の真実はあるまい。誰かの鼻歌になる事こそ私は「歴史に名を残す」事だと思う。望まれて歌われた歌の魅力を、今我々が歌って感じられるならば、その歌が歌い継がれてきた歴史は正当化される。我々ひとりひとりの「私」がその歌を愛するならば。歴史よりもフィクションよりも自然よりも、それは確固たる真実だろう。何しろ歌は何一つ出来やしないのだから。赤ん坊のように、愛するに足る存在なのだ。歌は。

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ワイヤレスイヤホンて全然普及してないねぇ。みんなスマートフォンで電話する時どうしてんだろ。地図を見ながら電話とかせんのかいな。うちのストレート携帯ですらBluetooth標準搭載でメールを確認しながら電話出来るのに。今はマイクの感度がいいから送話は機器から離れていても問題ないとして、受話の方はスピーカーから流せる場面ばかりでもなかろうに。

Bluetoothはもう随分昔の規格だが、設計理想としては大変優れている。ペアリングというシステムは、双方を操作し合えるよう設えられていて、場面々々で威力を発揮する。まだ現実には不可能だが、イヤホン型ウォークマン同士をペアリングすれば同じ音声をお互い同時にイヤホンから聴く事が出来るようになる。それが何だと言われればそれまでですが。

ただ、実際に使ってみるとこれが結構躓くもので。私の理想の使い方としては、携帯とPCとタブレットをそれぞれBluetoothで切り替えながらひとつのイヤホンで音声を取得する事だ。深夜に大音量でデスメタル、という訳にもいかない時はこれが重宝する。でもなかなか切り替えがスムーズにいかない。ワンタッチの切り替えが、コードありイヤホンのプラグを差し替えるよりスピーディーに出来ないと意義が半減するのだが、どうしても機器の探索でもたつく。それでも技術としては大変なものだと思うけどね。それこそテレビのチャンネルを切り替えるくらいのテンポで機器を切り替えられるようにならないと"売り"とまではいえない。

絶対にギヤホンの需要はある。特に、携帯ゲーム機を外で使う人は音声をオフにしていたりコード有りイヤホンを繋いでたりでそれぞれ何だか窮屈だ。コードレスイヤホンならかなりストレスは軽減出来る。しかしやはり、Bluetoothの企画では、何より電池のもちがよくない。8時間もてばいい方で、酷使すれば4時間あまりで腹減ったと言ってくる。ガラケーなら一週間は充電無しで待ち受けできる時代にこれでは受けが悪いだろう。現実問題としてはまずそこだ。

全く電池のもたない携帯を愛用しているお陰で「毎日充電」が習慣化している私には気にする事ではないのだけど、結局、2つもって入れ替えて充電しながら使っている。まぁ大体片方で済んでるんだけどね。ここまでする"音声ジャンキー"はそんなに居ないだろうけれど、充電の問題は何とかしないといけない。

まだまだ技術的には(というかコストとサイズの問題だろうが)無理だが、無線充電が確立されれば何とかなるかもしれない。適宜スマートフォンや外部電池から充電をしながら装着し続けられるなら、ぐっと普及に近付くだろう。ずっと身に付けたまま頭部付近に高エネルギーの電磁波を浴び続けるって低線量被曝よりずっと健康に影響ありそうだけれども。


あれ、今朝は何の話をしようとしてたんだっけ?(笑) Hikaruからツイートがあったらあらためて話題を提供する必要はないなというモードに入ってしまった模様。特に昨朝の一言は議論しやすいテーマだったし、皆語るところも多かったろう。それならそれでよいのです。いやだからといってコードレスイヤホン機能付きイヤホン型ウォークマンのステマをする理由にはならんのだが。ま、いっか。

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―― @utadahikaru : おととし大英博物館で開かれた『春画-日本美術の性とたのしみ』が肝心の日本で結局開かれなかったことを今頃知ってびっくり。当時の日本人を身近に感じられてすごく面白かったし歴史の勉強にもなったので残念。


…だなんていうツイートが今朝あった。ったく、もう。

これだけの文章から何を読み取れるかを今書き連ねようかしまいか悩んでいるところ。「毎度そんなことしやがるから気軽にツイートしにくくなるんだよ!黙れ俺!」という気持ちと「いやいやそんなこと誰も気にしてないから」という気持ちがせめぎ合う。どないしょ。

コイントスで決めよっと。えいっ。

「いやいやそんなこと誰も気にしてないから」の勝ち。はふーっ。

さて何が読み取れるか。Hikaruはおととし2013年に大英博物館を訪れている。つまりイギリスに居たという事だ。しかも、日本で開かれなかったことを"今頃知った"のだから旅行でイギリスに行って日本に帰ってきて「日本でもやらないかなーわくわく」と待ち望んでいた訳ではなかった。「これ日本でやったら面白いだろうな~いや日本でやるべきだよね当然」という風だった。ならばこの2年、Hikaruはどちらかというとロンドンに住み日本にはたまに帰ってくる、みたいな生活をしていたと考えられる。すっかりロンドンっ子なのかもしれない。夫婦で住んでるんかいな。

そういやタイトルが「春画-日本美術の性とたのしみ」という独特の日本語表記であるからには、実際に企画されていて頓挫したのだろうな。最初からイギリスなどの日本以外の国でだけというのではなく、当事国である日本での開催を目論んでいたというのなら、それが中止になった経緯について、Hikaruは何か一言あるのだろう。いや勿論論旨は『残念』の一言に尽きているのだが、中止の理由がたぶん「なんでそんな理由で」と思わされてしまうものだったのだろう。ググればそこまで出てくるかな? 私まだ検索していないもので、すいません。

また、春画の時代の日本人を身近に感じられる事を『すごく面白かった』と言い切っているのも含みを感じる。その時代の日本人と今の日本人の間にも随分と共感できる面が多々あると知る事を重んじれる態度とは何なのか。「日本人であること」というアイデンティティには横軸と縦軸がある。横軸は、同時代の他の国の人たちのアイデンティティとの対比、そして縦軸は時間軸、今の日本人と昔の日本人のアイデンティティの対比である。イギリスという異国の地で日本人であるHikaruが昔の日本人と自分を照らし合わせる…それは、横軸方向にも縦軸方向にも景色が広がる感覚であったろう。日本人としての、イギリスに対する目線や、イギリスからの自身に対する目線が、春画展のそれらとどう似ていてどう違っているのか、確かに考え始めたら凄く楽しい。大英博物館(博物学に興味のある人間にとっては世界一の憧れの地。と同時にイギリス人による全世界からの簒奪の歴史の凝縮でもある。)ではそんな派手な反応は無かっただろうが、周りを見渡してどんな人たちが興味をも
って来ているかを眺めるだけで随分と学べる事も多かった筈だ。彼らからしても横軸と縦軸両方、斜め方向の文化であるのだし。

斜め方向の捻れの位置にある存在たちとも共感できるのが人間であるのなら、縦軸方向には共感しまくれりだろう、とHikaruは考えたのだろうが、何故か日本人には対しては開かれなかった。相手が春画だけに開かれていないのは何となく文化的後退の匂いがするし、なんだかそれはつまり今の日本に対して…という話はコイントスに勝ったとはいえ流石に行き過ぎなので、自重する事にしよう。


たった140字足らずでもこれだけ語る事が生まれる。もし何百何千字とMessage from Hikkiを書かれた暁にはどれだけリアクションできるかわからない。またそんな幸せな時間が来るのかな。たのしみ。

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3ヶ月間があいてさりげない一言を発してまた黙る、ってどういう心境なんだろう。こっちとしては実に有り難いけれど、普段iphoneを使っていて急に「呟こう」と思うものだろうか。誤爆だったりして。ないか。

Tweetもそうだが、Message from Hikkiにも波がある。名前の通り、当初はメディア露出の少ないHikkiが自らのキャラクターを伝える為に始めたんだろうが、程なくして"ただの日記"になっていく。我々に話し掛ける体ではあるけれど。それもやがて分散して全然何も言ってこない時期がポツリぽつり。やがて全く黙っていって…みたいなパターン。

2004年にレコード会社を"移籍"したのも大きかった…事になっているが、たぶん別にそんなには関係ない。書きたければ幾らでも方法はあっただろう。それが2006年にツアーをやるという事でメッセ連続更新を皮切りにMessage from Hikkiが"復活"した。以後、2007年以降もその勢いは継承されていき、2010年まで漸減しながらも更新は止まらなかった。

結構、正直な軌跡だなと思う。ファンと向き合う時期だという気持ちが高くなってきたら頻度が増え、別にいいかとなったら減る。それだけの事だ。あクマで相手があって書ける話がある、と。

Tweetによる「呟き」は、「別に誰かに伝えたいと思わなくても何か書いて」と促されて生まれるものだ。システムというより、その心理的後押しが真に独創的だったんだと思う。それに随分助けられてきた。牛乳と銭湯の話なんて、冷静に考えれば「知らんがな」という話である。あんたが最近どうとか、別に…。しかし、こちらにとっては何よりも"朗報"だ。伝わる中身より、言葉をくれたという事実が欲しいから。

だから、Message from Hikkiも、「何かを伝える」ことより「伝える」こと自体に立ち戻った方がいい。長文専用機という最近の傾向は否めないが、たとえ誰にも伝える必要を感じない内容でも書かれればそれがそこから意味を生むのだ。筆を執る時に考えちゃいけない。まず書き始めて、後から軌道修正していけばよい。何だか自分に言い聞かせてもいるような気がしてきたが兎に角。Hikaruもいちど自分の書いたものを読み返してみたらどうだろう。Message from Hikki は、Message to Hikki for the futureでも、ある筈である。

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物語による"盲目"の卑近な例は、以前挙げた漫画「ONE PIECE」である。余りにも物語が壮大になる余り、幾らかの読者は先の展開ばかりを気にしてしまってそのストーリーの"大筋"に関わっていないアイデアの数々を吟味する事なく展開が遅いという不満しか口にしなくなっている。幾つかのレビューがその罠に陥っているのを見掛けた。今の「ONE PIECE」は、大枠のストーリーの進展も勿論興味を惹くけれども、それ以上に多種多様な登場人物たちが織り成すひとつひとつの所作や場面、会話と人間関係、突拍子も無い発想の数々を"たった今"楽しめる作品になっている。その密度たるや初期の比ではない。その事が読者にどれだけ伝わっているか。

これは作者の責任ではない、と言い切ってしまおうか。長編漫画を読んできたせいで"粗筋"にしか興味が無くなってしまい、今目の前にある漫画を素直に読めなくなってしまった、つまり、余計な浅知恵がついてしまったせいでエンターテインメントの本質(単純に、たった今楽しませてくれるということ)を見失い理屈ばかり並べ立て、昔はよかったを繰り返す。中途半端に作品に対しての知識がある為に訳知り顔に見えてしまって余計タチが悪い。

えらく悪く言ってしまったが、歳をとると、私も含め誰もがそうなる。それを防ぐのは難しい。


それはベテラン・クリエイターに葛藤を生むだろう。実績を積み重ねれば重ねるほど、自らの生み出してきた文脈と足跡にとらわれる割合が大きくなってくる。創作上もそうだが、何より"長年のファン"は(今さっき述べてきたように)タチが悪い。「あんたはこうあるべきなんだから。」と知った風な口をきく。耳が痛い。そして、どんどん"今"を見なくなっていく。過去と比較してばかりで、新しい"今"のシンプルな楽しさが伝わらない。皮肉なことに、熱心なファンを大切にする生真面目なクリエイターほど、この呪縛にからめとられていく。そして、外野からは「延々おんなじことやってるよ」とまるで時間が止まってしまっているかのような扱いを受ける。まぁそれはそれで幸せだったりするので悪い事ばかりじゃないが、常に創造的でありたいと願うクリエイターからしたら痛し痒しである。


そう考えると、ヒカルが音楽的な物語を喪失しているとしたら、それはとてもいいことなのかもしれない。皆が過去にとらわれずにその都度新曲や新企画を評価してくれる環境こそ望ましい。少なくとも音楽的には、"宇多田ヒカルはこうあるべきだ"という言い方にはどこにもまとまっていない。個々のレベルではR&Bをやって欲しいとか英語で歌って欲しいとか様々な希望はあるだろうが、全体として何かヒカルに期待する具体的な事は定まっていない気がする。「次はどんな曲が生まれるのだろう?」という純粋な期待が支配的であるのなら、こんなに嬉しい事は(そうそう)ない。「わからないけど注目はしたい」―こんな風に思われている人が世の中にどれ位居るだろうか。そう考えると、恵まれている。才能からすれば当然の扱いなのだが。

そんなだから、ヒカルの音楽に、いや、音楽性の変遷に物語が無いからといって嘆いたり焦ったりする事は、今後はやや慎もうと思う(完全にはなくならない)。それより、今発する一言々々、今出てくる音のひとつひとつを、その日あらためて素直に受け止めよう。それって結構むつかしい。期待とは集中力なのだから、何も期待しないのは無視である。無期待でヒカルの方を向きたい…という駄洒落を完遂するのが、目下の目標となるだろう。ただ肩の力を抜くだけなのだが、それが私に出来るかどうか。四十代を「不惑」と呼ぶ理由が何となく匂ってきた気がする。確かにそれが、理想かもしれない。何度でも言おう、難しいんだこれが。

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この歳になっても、音楽を"プレーンでフラットな気持ちで"聴く事は難しい。いや、歳をとったから、と言った方がいいか。どんどん"雑音"が入ってくる。他人のレビューや流言やスキャンダルや何やと。

人は物語を求める。歌に背景を求める。私は折に触れて「物語をくれぇ」とここで叫んでいるが、それは不安の裏返しともいえるのだ。ただ目の前の音に耳を傾けるだけでいいのに。

幼い頃は何の偏見もなく聴けていたなぁ、と述懐する事も可能だが、そうだったとも言えるしそうでなかったとも言える。何も知識も経験も無い状態でたとえそうであれたとしてもそこまで意味はない。時間を食い、知識と体験をひとつでも多く貪った上でなおプレーンでフラットで居られるから価値がある。価値とは本来そういうものだ。白いキャンバスは無限の可能性を秘めていて美しいが、どの出来上がった絵にも及ばない。しかし、それでもこれなら白紙の方がよかったと後悔するのが人間だ。

物語から解き放たれて"今"にどれだけ集中できるか。人生が長くなればなるほど"今"の幅は狭くなる。たとえどれも同じ一瞬でも、時間を紡ぐ以上幅はできる。次第に小さくなっていく幅にプローブを合わせ続けるのは、難しい。


3ヶ月ぶりのツイートがあった。私は牛乳を飲む習慣が無くなって久しい。嫌いでもないしお腹を下す訳でもないが、何故か消化吸収している実感がなかったのでいつのまにか飲まなくなった。勘違いかもしれないけれど、飲まなくなった事でのマイナスは無い。チーズは相変わらず好きなんだけれど。

「牛乳と銭湯」で検索すると、どうやら昭和30年代、冷蔵庫がまだまだ希少だった時代に数少ない冷蔵庫を設置している公共の場所が銭湯だった為牛乳の売り込みがあった、という事らしい。昨日のリプライトップは「腰に手を当てて飲む」だったが、その誇らしいポーズは高度経済成長の中で生活にほんの少しばかり贅沢が入り込んできた事への感慨から定着したのかな、とふと思った。まるで"元気だった頃の日本の象徴"のようだ…


…という風に、すぐに物語を付け加えるのが悪い癖な訳だが、読んだ方は(書いた方も)こういう話に触れる事で妙に安心する。物事をただそのまま受け入れるより、既知のものと結び付ける方がずっとラクに入ってくるからだ。それは育てられた消化酵素や調理法のようなもので、噛み砕く事で消化吸収を促せる。物語は優しさでもあるのだ。だから、時には離れてみる事も必要だし、無い状態でもいいようにした方がいい。それだけだ。


私は牛乳はあまり吸収できないが、フルーツ牛乳やコーヒー牛乳はどうだったのだろう。フルーツ牛乳は、それこそ銭湯など僅かな場所でしか飲めなかったから憧れだった。多分、もうその時点で私は"本当の味"を見失っていたのだが、それはそれで楽しかった気がする。歳をとって、物語を剥ぎ取っていく術を漸く身につけようとしている今、もう一度フルーツ牛乳を飲んでガッカリしてみたい。それでも残った美味しさこそが、いつまでも一緒に居てくれるのだから。

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