無意識日記
宇多田光 word:i_
 



物語による"盲目"の卑近な例は、以前挙げた漫画「ONE PIECE」である。余りにも物語が壮大になる余り、幾らかの読者は先の展開ばかりを気にしてしまってそのストーリーの"大筋"に関わっていないアイデアの数々を吟味する事なく展開が遅いという不満しか口にしなくなっている。幾つかのレビューがその罠に陥っているのを見掛けた。今の「ONE PIECE」は、大枠のストーリーの進展も勿論興味を惹くけれども、それ以上に多種多様な登場人物たちが織り成すひとつひとつの所作や場面、会話と人間関係、突拍子も無い発想の数々を"たった今"楽しめる作品になっている。その密度たるや初期の比ではない。その事が読者にどれだけ伝わっているか。

これは作者の責任ではない、と言い切ってしまおうか。長編漫画を読んできたせいで"粗筋"にしか興味が無くなってしまい、今目の前にある漫画を素直に読めなくなってしまった、つまり、余計な浅知恵がついてしまったせいでエンターテインメントの本質(単純に、たった今楽しませてくれるということ)を見失い理屈ばかり並べ立て、昔はよかったを繰り返す。中途半端に作品に対しての知識がある為に訳知り顔に見えてしまって余計タチが悪い。

えらく悪く言ってしまったが、歳をとると、私も含め誰もがそうなる。それを防ぐのは難しい。


それはベテラン・クリエイターに葛藤を生むだろう。実績を積み重ねれば重ねるほど、自らの生み出してきた文脈と足跡にとらわれる割合が大きくなってくる。創作上もそうだが、何より"長年のファン"は(今さっき述べてきたように)タチが悪い。「あんたはこうあるべきなんだから。」と知った風な口をきく。耳が痛い。そして、どんどん"今"を見なくなっていく。過去と比較してばかりで、新しい"今"のシンプルな楽しさが伝わらない。皮肉なことに、熱心なファンを大切にする生真面目なクリエイターほど、この呪縛にからめとられていく。そして、外野からは「延々おんなじことやってるよ」とまるで時間が止まってしまっているかのような扱いを受ける。まぁそれはそれで幸せだったりするので悪い事ばかりじゃないが、常に創造的でありたいと願うクリエイターからしたら痛し痒しである。


そう考えると、ヒカルが音楽的な物語を喪失しているとしたら、それはとてもいいことなのかもしれない。皆が過去にとらわれずにその都度新曲や新企画を評価してくれる環境こそ望ましい。少なくとも音楽的には、"宇多田ヒカルはこうあるべきだ"という言い方にはどこにもまとまっていない。個々のレベルではR&Bをやって欲しいとか英語で歌って欲しいとか様々な希望はあるだろうが、全体として何かヒカルに期待する具体的な事は定まっていない気がする。「次はどんな曲が生まれるのだろう?」という純粋な期待が支配的であるのなら、こんなに嬉しい事は(そうそう)ない。「わからないけど注目はしたい」―こんな風に思われている人が世の中にどれ位居るだろうか。そう考えると、恵まれている。才能からすれば当然の扱いなのだが。

そんなだから、ヒカルの音楽に、いや、音楽性の変遷に物語が無いからといって嘆いたり焦ったりする事は、今後はやや慎もうと思う(完全にはなくならない)。それより、今発する一言々々、今出てくる音のひとつひとつを、その日あらためて素直に受け止めよう。それって結構むつかしい。期待とは集中力なのだから、何も期待しないのは無視である。無期待でヒカルの方を向きたい…という駄洒落を完遂するのが、目下の目標となるだろう。ただ肩の力を抜くだけなのだが、それが私に出来るかどうか。四十代を「不惑」と呼ぶ理由が何となく匂ってきた気がする。確かにそれが、理想かもしれない。何度でも言おう、難しいんだこれが。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




この歳になっても、音楽を"プレーンでフラットな気持ちで"聴く事は難しい。いや、歳をとったから、と言った方がいいか。どんどん"雑音"が入ってくる。他人のレビューや流言やスキャンダルや何やと。

人は物語を求める。歌に背景を求める。私は折に触れて「物語をくれぇ」とここで叫んでいるが、それは不安の裏返しともいえるのだ。ただ目の前の音に耳を傾けるだけでいいのに。

幼い頃は何の偏見もなく聴けていたなぁ、と述懐する事も可能だが、そうだったとも言えるしそうでなかったとも言える。何も知識も経験も無い状態でたとえそうであれたとしてもそこまで意味はない。時間を食い、知識と体験をひとつでも多く貪った上でなおプレーンでフラットで居られるから価値がある。価値とは本来そういうものだ。白いキャンバスは無限の可能性を秘めていて美しいが、どの出来上がった絵にも及ばない。しかし、それでもこれなら白紙の方がよかったと後悔するのが人間だ。

物語から解き放たれて"今"にどれだけ集中できるか。人生が長くなればなるほど"今"の幅は狭くなる。たとえどれも同じ一瞬でも、時間を紡ぐ以上幅はできる。次第に小さくなっていく幅にプローブを合わせ続けるのは、難しい。


3ヶ月ぶりのツイートがあった。私は牛乳を飲む習慣が無くなって久しい。嫌いでもないしお腹を下す訳でもないが、何故か消化吸収している実感がなかったのでいつのまにか飲まなくなった。勘違いかもしれないけれど、飲まなくなった事でのマイナスは無い。チーズは相変わらず好きなんだけれど。

「牛乳と銭湯」で検索すると、どうやら昭和30年代、冷蔵庫がまだまだ希少だった時代に数少ない冷蔵庫を設置している公共の場所が銭湯だった為牛乳の売り込みがあった、という事らしい。昨日のリプライトップは「腰に手を当てて飲む」だったが、その誇らしいポーズは高度経済成長の中で生活にほんの少しばかり贅沢が入り込んできた事への感慨から定着したのかな、とふと思った。まるで"元気だった頃の日本の象徴"のようだ…


…という風に、すぐに物語を付け加えるのが悪い癖な訳だが、読んだ方は(書いた方も)こういう話に触れる事で妙に安心する。物事をただそのまま受け入れるより、既知のものと結び付ける方がずっとラクに入ってくるからだ。それは育てられた消化酵素や調理法のようなもので、噛み砕く事で消化吸収を促せる。物語は優しさでもあるのだ。だから、時には離れてみる事も必要だし、無い状態でもいいようにした方がいい。それだけだ。


私は牛乳はあまり吸収できないが、フルーツ牛乳やコーヒー牛乳はどうだったのだろう。フルーツ牛乳は、それこそ銭湯など僅かな場所でしか飲めなかったから憧れだった。多分、もうその時点で私は"本当の味"を見失っていたのだが、それはそれで楽しかった気がする。歳をとって、物語を剥ぎ取っていく術を漸く身につけようとしている今、もう一度フルーツ牛乳を飲んでガッカリしてみたい。それでも残った美味しさこそが、いつまでも一緒に居てくれるのだから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )