無意識日記
宇多田光 word:i_
 



多分私は知り合いから「物凄い食いしん坊」と思われているだろうが、意外な事に(でもないのかな?)食に対する拘りは殆ど無い。Twitterのプロフィールに堂々と家訓として「あるもん食っとけ」と掲げている通り、兎に角食べられればよく、それが何であるかは問わない。明日からベジタリアンになれと言われても恐らく大丈夫だ。チキンラーメンが食べられなくなるのは痛いけども…。

音楽の趣味も、ちょっと近いものがある。何らかのメロディー、或いはリズムさえあれば機嫌がいい。我ながら現金だが、音が聴ければまぁそれでいいのだ。ただ、一方で非常に好みはハッキリしていて、この20年、"飽きて聴かなくなったジャンル"はひとつもない。新たに魅力を発見して聴きたくなる音源は増える一方である。

ただ、まぁ例えば小室哲哉なんかは"聴かなくなった"一例かもしれない。いや去年のTM NETWORKのアルバムとかも買って聴いてたけども、どちらかというと飽きたというより彼の力が落ちてガッカリして、という感じが強い。毎年この季節になると"Dragon The Festival"が聴きたくなってくるし、夏になったら"8月の長い夜"を聴きながら夜を過ごすのも定番だ。ここ十年は"プレイ・ボール"とセットだわね。まぁそんなだから、20年以上、自分の方は変わった気がしない。最近モーツァルトを遠慮なく讃えるようになったのは大きな変化だと思うけどそれも広い意味で"お気に入りが増えた"方向への変化なので、大体同じ流れの中にあるのよね。


なんでこんな事を話してるかというとだ、つまり、"飽きた"という経験が記憶が無いのだ。いや、例えば初日に10回リピートしていた"Heart Station"を今では一週間から二週間に一回しか聴かなくなった事を"飽きた"というのなら、総ての曲に対して私は飽きている事になるがそんなごむたいな事言う人は居らんだろう。

一度気に入った曲を聴かなくなる、というか聴いて何も感じなくなる事ってあるのだろうか。余りに初聴のインパクトが強すぎてその感動を思い出す事はあっても再現される事はない、というなら私もそうだが、初聴インパクトは早い話が"驚き"だ。そりゃあ二度目からは差し引かれるだろう。寧ろ、最初聴いてピンとこなかった曲を二回三回と聴いているうちに「あぁ、そういうことか」と要領を得られるケースの方が抜群に多い。

つまり、今昔の曲を聴き直して「どうしてこんなのに熱狂していたんだろう」と思う事が無い、って話。今聴いてもやっぱりお気に入りだ。いや、確かに昔ほどは感動しないケースもあるけれど、それはそれより後に同じ系統の音楽でより優れたものと出会えたせいであったりする。

だから、「今聴いても古臭くない」ってのは、時々意味を見失うフレーズだ。ピンク・フロイドは今聴いたらもうまさに70年代の臭いだらけで古臭い事この上ないのだが、その魅力は勿論今でも20世紀最高水準だ。何が悪いのやら。


と書いていて大体見えてきた。私は、こと音楽の評価に関しては、周りの熱狂にあんまり左右されないのだ。自分の耳で聴いたもの、聞こえたものにしか興味がない。人が高く評価しているものがあるときけば「是非聴いてみたい」と食いつくけれども、聴いて何も感じなかったらそれまでだ。周りに合わせて自分が気に入ったふりをする事もない。ああ、そうね、私がもし学生時代にボタンをすり減らすまでテトリスに夢中になってたら、友達にバカにされようが全く遠慮無く「テトリスは最高だ!」と叫んでいただろうな。自分の好きなものをバカにされるんだったら自分もバカにされても構わないという風に考える少年だった。そこだけ言うと凄く心の強い子に聞こえるだろうけど、実際は全くそんなことはなかったぜ…。

私自身の趣味が20年以上変わらず、また、私自身その間自分の趣味嗜好を歪めようというアプローチをとってこなかったのだから、確かに何かに"飽きる"様子は全く無いわな。四半世紀経っても「今月はHELLOWEENの新譜が出る!!」とか言ってんだから推して知るべしである。


何の話をしたくてこんな話をしたのか忘れてしまったが、要するにそんな私が愛しているのだから宇多田ヒカルの音楽の魅力は永遠だから皆さん安心してください、という事でいいのかな。まぁ、そんな所で今夜はひとつ。

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"宇多田ヒカル"という看板があるから私はやたらと市場だPopularityだと言っているが、個人としてはそんなに興味がない。ヒカルの歌声がこちらの耳に届いて心が揺さぶられればOKな訳で、インターネットのある今の時代に音楽を届けるのに"市場"なんて必要ない。音源のアップロードとダウンロードがそれぞれに出来ればいいのだから。勿論そのアップとダウンの間を取り持つのが恐ろしく難しいからこそ、レコード会社とA&Rの仕事はいつまでもなくならないのだが、我々の場合もう宇多田ヒカルを知ってしまっているのだからそれも必要ない、とキッパリ言い放つ事も出来るのだ。あとは個人的な関係性のみになる。

そこはそういう感じで基本的にドライなのだが、もし何かひとつ引っ掛かる事があるとすれば、私個人の話だが、70年代UKプログレッシヴ・ロックの辿った歴史的な経緯があるかもしれない。後追いで知った"知識"でしかない故に本当のところ当時どうだったのかはわからないのだが、彼らは80年代に"セルアウト"してあからさまな売れ線狙いに路線変更後大ヒットを記録した。YESは"Owner Of A Lonely Heart"で、Genesisは"Invisible Touch"でそれぞれ週間全米1位を記録、King CrimsonやEL&Pの合体であるAsiaに至っては1982年の全ジャンル総合全米チャートで第1位である。これを大成功と言わずして何という活躍ぶりだった、らしい。

しかし、後追いのこちらからすれば音楽性としては70年代に彼らが展開したロマンティックな大作主義にこそ惹かれる訳で、そのギャップに対してどう意見を表明すればいいか未だに戸惑う。彼らからすれば、「俺たちだってやればできるんだぜ」という事を証明したかったのかもしれないが、ここ日本ですら、YESのLIVEでいちばん歓声が大きくなるのはロンリー・ハートだ。もしこの全米1位曲がなかったら来日公演もままならなかったかもしれない、なんて風にも考えてしまう。

一方、一度も世界的大ヒットをとばさなかった北欧や南欧のプログレバンドたちは今でも元気に新譜を発売し来日公演を行っている。ファンからすればそれで十分な訳で、別に大ヒットを飛ばす必要なんてなかったのかなと思う一方、現実はそういった彼らのような無名のバンドたちに光をあてる事が出来ているのも英国勢が80年代にセルアウトしてこのジャンルと人脈の知名度を上げておいてくれたからだ、なんて解釈も出来、評価を躊躇うのである。

つまり、ヒカルが売れてようが売れてまいが知った事ではないけれど、これだけの才能は"売れ続ける義務"があるのではないかと心の片隅で思っているのだな。だからこうやって市場の話ばかりをしている。そこらへんは、自分でもよくわからない。

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