哲学はなぜ間違うのか

why philosophy fails?

物質を感知する器官

2008年12月21日 | x9私はここにいる

Jan_vermeer_stehende_virginalspiele

まず、この私の肉体は単なる物質です。科学が解明した物質の自然法則だけにしたがって変化している。そういうものは、すべて、いずれは壊れて崩壊していく。そういう物質である身体をいくら詳しく観察しても、解剖しても、私の主体性、感情、意識、意志、自我、のようなものは見つからない。それは物質を感知する器官である目や耳で感知できるものではなくて、身体の奥深いところでだけ感じ取れるものだからです。それが神秘だ。哲学の大問題だ、となってくる(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

たとえば、私の身体を動かしているのは私だ、と私たちは思っている。その私というものは、物質であるこの身体のどこにあるのか分からない。物質は物質の法則だけで動く。念力で動くわけはありません。ところが実際、私たちは、自分の身体は自分の念力で動くと思っている。自分が自分の身体を動かす。自分が思うように自分の身体は動く。当たり前すぎて気がつかないが、ここでも論理は破綻している(拙稿11章「欲望はなぜあるのか?」)。現代哲学のはじまりから、私の身体を動かしているものは私なのか、この身体を動かしているその私とは何か、というこの問題は魚の骨のようにのどに引っかかっていた(一八九四年 ジョン・デューイ原因としての自我

拝読ブログ:ややお休み中です

拝読ブログ:麻痺した筋の皮質ニューロンによる直接制御

コメント

便利なら何でもいいのか

2008年12月20日 | x9私はここにいる

この肉体だけが自分だということになると、当然、その中に私の感情も意識も意志も自我も、全部入っていることになる。これは当たり前の考えです。当たり前であると同時に、この考えは、とても便利です。こう思うことで、私たちは自分の身体をうまく操ることができる。また、他人がその身体をうまく操っている様がよく分かる。

そういうことから、この考えは、生活にとても便利で実用的です。しかし、ちょっと気になることは、この考えが生活にとても便利だということと、私たちが、それを当たり前だと思うこととは関係があるのではないか、というところです。

拝読ブログ:語りすぎることへの不安について

拝読ブログ:プラグマティズムから、概念図式 ビューモデル 図式化

コメント

私の肉体が私

2008年12月19日 | x9私はここにいる

Jan_vermeer_milkmaid_2

そうなると、自我というものはだれにも通じる概念になります。自我というものは、客観的なものとして人間だれもの内部にあることになる。人間は、一人一人が、それぞれの私である。それぞれのエゴを持っている。個々の人体という物質は、それぞれのエゴの入れ物である、となる。実際、このことは、人間に関するまったくありふれた事実である、と受け取られています。

それは、文明が進み、物質現象に関する知識が蓄積され、自然の法則が理解され、社会が発展し、言葉を使う理論が発展すると起こる。自分たちの知識と理解力に自信を持った人間は、目で見える客観的物質世界の存在感をますます強く感じるようになる。

目に見える物質世界は、四方八方に無限に広がっている。いつでも、どこでも、目に映るものは物質世界である。それはいつでも、だれもがよく知っている整然とした自然法則にしたがって動く。そうなると、人間は自分たちが感じるすべては、この客観的物質世界の中にある、と思うようになる。当然、自分というものもこの物質世界の中にある。人がそれを見て私だと思っている物質としての私の肉体が私だ、ということになってくる。それは人がそう思うというよりも、自分自身がそう思うのだ、と私たちは思う。

拝読ブログ:ゾンビ概念

拝読ブログ:いつもの違和感

コメント

エゴの進化

2008年12月18日 | x9私はここにいる

私という言葉も同じ。私はここにいる、といってもおかしいし、私はここにいない、といってもおかしい。「私」という代名詞はトリッキーです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。そもそも、話し手を指す一人称代名詞が使われるようになったのは、はじめは、会話の便宜のためだったでしょう。エゴ・スム・カエサル(我はシーザーなり)というときのエゴ(ラテン語の我)は、単に今発言している人物を指し示すために使われる記号です。

一人称代名詞がはじめて発明されたころは、だれもむずかしいことは考えなかった。話し手が話し手自身のことを言っている場合に一人称代名詞を使うと、聞き手の側は「この話し手は話し手自身のことを言っているな」と分かりやすくて便利です。だから、話し手は聞き手に間違いなく分かってもらう便宜のために一人称代名詞を使っていた。それが始まりのはずです。その一人称代名詞が、いつのまにか、私たち現代人が考えるようなむずかしい自我(エゴ)を意味するようになってしまった。それは、社会が発達すると、そうなる。私たちは、社会の中で他人を操作し、自分を操作しなければならない。そういう操作の対象を捉える概念として自我は便利です。その便宜のために、自我概念は今のように発達したのでしょう(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

拝読ブログ:自我

拝読ブログ: 2話「自我 ego

コメント

座敷わらしと私

2008年12月17日 | x9私はここにいる

Jan_vermeer_mdchen_mit_flote

死にそうな人が「私はここではないどこかに行ってしまう」というとき、その人がどこかに行くという場面を自分自身は見ることができない、と思っている。話し手が、それを見ることができないものについて語っている場合、その言葉は正確なことを伝えられない。そうであるならば、「私はここではないどこかに行ってしまう」という言葉は、私がそれを見ることができないことを語っているわけですから、あいまいな言葉であるか、あるいは、おかしな言葉であることになる。同じように、「私はまもなくここにはいなくなってしまうだろう」という言葉もおかしい。そうすると、「私はまもなくここにはいなくなってしまうだろう」ということを下敷きにして発言される「私はここにいる」という言葉もおかしいことになる。つまり、「私はここにいない」という言葉もおかしいし、「私はここにいる」という言葉もおかしい。論理は破けている。私がこの世界にいるとか、いなくなる、とかいう考えは、どこかおかしい。

私たちが私といっているものは(拙稿の見解では)、座敷わらしのようなものです。暗い座敷の奥に知らない子供が黙って座っている。神秘的ですね。たぶん、はじめはだれかが幻影を見たのでしょう。皆が、それはいる、と言い合っているから、それはいることになる。しかし、「座敷わらしはここにいる」という言葉もおかしいし、「座敷わらしはここにいない」という言葉もおかしい。子供がそれを言っているなら、かわいいところがある。けれども、いい大人がまじめな顔をしてそんな言葉を言ったら、聞いたほうはぞっとしますね。その不気味さ、というか、おかしさ、を無視して、まじめに語り合えば語り合うほど、話はおかしくなる。

拝読ブログ:「んじゃないかと思います」

拝読ブログ:愛しの座敷わらし

コメント