まず、この私の肉体は単なる物質です。科学が解明した物質の自然法則だけにしたがって変化している。そういうものは、すべて、いずれは壊れて崩壊していく。そういう物質である身体をいくら詳しく観察しても、解剖しても、私の主体性、感情、意識、意志、自我、のようなものは見つからない。それは物質を感知する器官である目や耳で感知できるものではなくて、身体の奥深いところでだけ感じ取れるものだからです。それが神秘だ。哲学の大問題だ、となってくる(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。
たとえば、私の身体を動かしているのは私だ、と私たちは思っている。その私というものは、物質であるこの身体のどこにあるのか分からない。物質は物質の法則だけで動く。念力で動くわけはありません。ところが実際、私たちは、自分の身体は自分の念力で動くと思っている。自分が自分の身体を動かす。自分が思うように自分の身体は動く。当たり前すぎて気がつかないが、ここでも論理は破綻している(拙稿11章「欲望はなぜあるのか?」)。現代哲学のはじまりから、私の身体を動かしているものは私なのか、この身体を動かしているその私とは何か、というこの問題は魚の骨のようにのどに引っかかっていた(一八九四年 ジョン・デューイ『原因としての自我』)。
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