ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

開化先生

2010年10月28日 | 思想・学問

 近頃怪談話がすっかり廃れてしまいました。幽霊なんていない、神経病だというわけで。そこでこのたび怪談話をしてみようというのは、かえって耳新しいかと存じまして。開化先生方はお嫌いでしょうから、お帰りいただいて。

 明治初期、三遊亭圓朝師匠が「真景累ケ淵」を演ずるにあたっての枕で話した言葉です。
 文明開化によって妖怪怪異は勢いを失うわけですが、それはすぐに盛り返し、今にいたるも大繁盛しています。
 明治時代には大本教や金光教が多いに流行り、千里眼やらこっくりさんやらも大流行しました。
 私たちは太古の昔から、妖怪や幽霊と付き合いながら、共存してきました。
 それがざんばら髪で洋装になったからといって、長々お住まいの妖怪や神々が消えるわけもありません。
 
 口裂け女に、テケテケに、トイレの花子さんに、ひきこさん。
 異界の者は様々な形をとって人間とコンタクトをとります。

 これら異界の者は、実在しているわけではないでしょう。
 しかし一瞬ごとに滅んではまた生まれ、を繰り返すのがこの世の本態で、その刹那滅を連続する時空間だと錯覚しているに過ぎないと知れば、異界の者の存在を前提に生きてきた私たち人間にとって、それは実在することと変わりません。
 どちらも錯覚。
 人間は錯覚の中でしか生きられません。

 科学が異界の者を駆逐することはできませんし、またしてはなりません。
 現在認められている科学は、愚かな人間の新しい迷信に過ぎないのですから。
 そして人間は、妖怪や妖精、幽霊や鬼とともにこの世を生きてきたし、これからも生きていくのでしょうから。

 そんなこと言ったら、開化先生に叱られちゃうかな?
 あ、でも開化先生ももうこの世の者ではないから、大丈夫。
 

真景累ケ淵 (岩波文庫)
三遊亭 円朝
岩波書店
三遊亭円朝の明治 (文春新書)
矢野 誠一
文藝春秋


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冬ごもり

2010年10月28日 | 文学

 昨日今日と、急に寒くなりましたね。
 まだ10月だというのに、厚手のコートを着て出勤しました。
 最高気温は10度前後。
 猛暑の影響で残暑が長引いた関東の者には、辛い木枯らしです。

 一方、冬はお家にこもる楽しみがありますね。
 熱い湯に入って、暖房を効かせた部屋で熱燗でもやれば、身も心もぽっかぱか。
 外が吹雪だと、冬ごもりの快感はますます高まります。
 この世に一つだけの快適空間という感じがして、うれしくなります。

 冬ごもりの句が多いのは与謝蕪村ですね。
 私はこの俳人を偏愛しています。
 それには冬の句に見るべきものが多いということが大きく寄与しています。

  
屋根ひくき 宿うれしさよ 冬ごもり
  
  冬ごもり 母屋へ十歩の 縁づたい
  
  冬ごもり 妻にも子にも かくれん坊 
  
  冬ごもり 仏にうとき こころかな
  
  居眠りて 我にかくれん 冬ごもり
  
  埋火や ついには煮る 鍋の物
 
  埋火や ありとは見えて 母の側
  
  埋火や 春に減りゆく 夜やいくつ

  
うずみ火や 我かくれ家も 雪の中

 
冬ごもりの快感を詠んだ句が、こんなにあります。
 なかでも、
うずみ火や我かくれ家も雪の中は、出色の出来です。
 私の冬のテーマでもあるのです。

 俳聖と称された松尾芭蕉は求道的句を作り、老境にいたっても旅を続ける厳しい俳人でした。
 一方与謝蕪村は、籠居の詩人とか郷愁の詩人などと称せられ、平和な江戸中期の京都で、絵を描き、句を作り続けました。
 そして愛しい我が家をミクロコスモスのように思いなして、そのミクロコスモスを賛美したのです。
 芭蕉が突き進む芸術なら、蕪村は退いていく芸術。
 蕪村は退行の暗い欲求に執り付かれていたに相違ありません。
 そして彼に魅かれてしまう私も。

郷愁の詩人 与謝蕪村 (岩波文庫)
萩原 朔太郎
岩波書店
蕪村俳句集 (岩波文庫)
与謝 蕪村,尾形 仂
岩波書店



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食い物

2010年10月28日 | その他

 私は研究機関に勤務しているので、留学生や研究者など、外国人と接する機会が少なくありません。
 そこでよく聞くのが、日本に来て太っちゃった、という話です。
 日本食は低カロリーのはずなのにどうしてかを聞くと、日本の食事はおいしいので、つい食べ過ぎてしまうんだとか。
 それも高級和食に限定した話ではなく、コンビニ弁当でも、ラーメンでも、立ち食いそばでも、安い食い物のレベルが高いのだとか。
 高くてうまいのは当たり前。
 日本のすごいところは安いものもうまい、というわけです。
 私は海外旅行にはあまり行かないので海外の食事事情はわかりませんが、ヨーロッパに行ったことのある友人によると、イギリスの食い物はまずいものばかりで、イギリスで食べるとマクドナルドやケンタッキーが神業のようにおいしく感じられたそうです。
 ドイツは芋ばかり大量で今一つ。
 イタリアとフランスはまあまあ、スペインはおいしいものが多かった、と聞きました。
 個人の感想なので実際のところどうなのかよくわかりません。

 よく時代劇で見かける宿場の食堂にめしと大きく平仮名で書いたのれんを見かけますが、その小汚い文字が、変にうまそうで、二合徳利の酒を飲んでからめしをかきこむ浪人の場面など、思わずあの店で飯が食いたい、と思ってしまいます。
 噺家さんがそばをすする場面なども、実際に食っているわけではないのに、変にそばが食いたくなります。
 日本のドラマは食事シーンが多いと聞きます。
 食うことにかけては日本人は貪欲なようです。
 
 しかし飢饉が起きると、娘を売ったり、泥を食べたり、ひどいときには人肉を食うための殺人もあった、と古い記録にあります。
 飢える、という経験をせずにこれまで生きてこられたことはありがたいかぎりです。
 今後もひもじい思いをしませんように。

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