菅総理が廊下でばったり行き会って、偶然、温家宝首相と25分会談したことがニュースになっていますね。
出来すぎた偶然ですが、互いの面子を保つために接触するには、偶然を装うしかなかったということでしょうか。
近頃の中国の振る舞いは我がまま勝手で、中華思想というのは随分気ままなようです。
わが国において、かつては京を中心とする関西が、言わば日本の中華でした。
「太平記」において鎌倉の武家と京都の後醍醐天皇との争いを、華夷闘諍(華=朝廷・夷=鎌倉幕府)と表現しているのは、当時の感覚から言えば当然だったのでしょう。
鎌倉は夷、つまり野蛮な田舎だったわけです。
鎌倉幕府は京都にも匹敵する一大勢力を関東に築こうとするもので、朝廷は大いに危機感を抱いたことでしょう。
鎌倉幕府成立からわずか約30年後に、後鳥羽上皇は関西の武士を集めて幕府を倒そうと承久の乱を起こしましたが、わずか二カ月で敗れ、隠岐に流されてしまいます。
このことは、例え天皇だろうと上皇だろうと、強い者に刃向かえばただではすまないこと、もはや京都は日本の中華ではなくなったこと、を意味していると思います。
後鳥羽上皇の歌を時系列で並べてみると、その心情の変化がわかります。
奥山の おどろか下もふみ分けて 道ある世ぞと 人に知らせむ
後鳥羽院29歳の作です。道ある世、つまり朝廷を頂点とする道理によって治められる世を切望しているようです。
人もをし 人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は
これは4年後の歌。あぢきなく、は武家が支配する世の中をさしているのでしょうか。人がいとしくもうらめしくも感じられる、とはなんとなく厭世的です。百人一首に入っている有名な歌です。
我こそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波風心して吹け
9年後、戦に敗れて流された隠岐で詠んだ歌です。なんだかカラ元気のような。
伝統の王権=皇室が、新しい支配者=鎌倉幕府に敗れたこの事件は、一人後鳥羽院という天皇経験者が島流しにあった、という以上の意味があるでしょう。
しかし、歴史的事実にあまり興味がない私にとって、崩御するまでの隠岐での19年間の院の生活と心情が、想像力をくすぐるのです。
後鳥羽院御集 (和歌文学大系) | |
久保田 淳 | |
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歌帝 後鳥羽院 | |
松本 章男 | |
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