スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
それを考察するための前提がすべて出揃いましたので,第四部序言 および第四部定義二 でスピノザが悪 malumを善の否定 として規定している,いい換えれば悪を善bonumの反対概念 とは規定していない理由を考察していきます。
現実的に存在する人間にとっての善悪 は,あくまでも個別の善悪 です。善悪それぞれに一般的概念notiones universalesがあって,ある事象はそれに見合うから善であるとか悪であると認識されるのではありません。個別の事象が善であるあるいは悪であると認識され,それらの総体が一般的に善といわれまた悪といわれるだけのことです。
したがってある特定の事象,たとえばXという事象が,現実的に存在するある人間たとえばAには善と認識されるけれどもそれとは別の人間であるBには悪と認識されるということが生じ得ます。同様に,XをAはあるときには善と認識するcognoscereけれどもそれとは別のときには悪と認識するというようなことも生じ得ます。こうしたことは第三部定理五一 によって証明することができます。
現実はこのようになっているのですが,これだとひとつ大きな難点が生じてしまいます。それは第四部序言でいわれている本性の型と善悪 を関連付けて説明できなくなってしまうということです。人間の本性の型 というのは,現実的に存在するすべての人間に合致するような型でなければなりません。ところが異なった人間が同じものを善と認識したり悪と認識したりするのであれば,人間の本性の型からみた善悪というのを考察することはできません。同様に同じ人間が同じものをあるときには善と認識し別のときには悪と認識するのであれば,やはり同様に人間の本性の型からみた場合の善悪というのを考察することができません。
これを解決するためには,その本性の型からみた人間が,善悪を確知する certo scimusということを一般的にいえるようにしなければなりません。その手段として,善の否定としての悪があるというように僕は解します。
血糖値 の正常値,これは空腹時の正常値ですが,下限値が70㎎/㎗で,上限値は109㎎/㎗となっています。ですから血液検査の結果が110㎎/㎗だと,上限値をオーバーしていると判定されます。ただ僕の場合は110㎎/㎗前後が,最も快調であって,90㎎/㎗くらいまでは何ら問題ありません。ただ80㎎/㎗くらいになると,正常値の範囲ではありますが,不調を感じることがあります。高くなる場合にはっきりと不調を感じるのは,200㎎/㎗くらいになってからで,これくらいになるとやや身体に重さを感じるようになります。
ただしこれは日中に動いているときです。僕は眠るときには,110㎎/㎗くらいだと,寝付くのにやや時間が掛かります。130㎎/㎗くらいあればさほど問題はありませんが,もう少し高い,150㎎/㎗くらいのときが,よく値付けますしまた熟睡することができます。眠っている間に血糖値が下がるのは,僕の場合には持続効果型のインスリン であるトレシーバを打っている影響ですが,睡眠中も血糖値が下がるということと,就寝前には血糖値がやや高い方が楽であるということには,何らかの関係があるのかもしれません。いずれにしても,僕は空腹時血糖値の上限より高い方が,日常生活を送る上で身体的には楽になっています。よってHbA1c も,上限値である6.2%を上回る方が,身体的には楽であるのです。他面からいえば,10月の通院のときのようにHbA1cが正常の範囲内であるというときは,低血糖を発症しているケースも含め,身体的に楽になっているというわけでは必ずしもないのです。
この日に,グループホームとの契約書をコピーしました。僕の家には以前はプリンターがあって,それでコピーをすることができましたが,故障してからは新しいものを買っていません。僕はプリンターは絶対に必要としているわけではないからです。ですからコピーも家ではできませんから,これはコンビニエンスストアなどのコピー機を利用したということです。これは,受給者証を更新するためには,グループホームの家賃が資料として必要で,その部分を契約書の中からコピーするためでした。
13日と14日に有馬温泉で指された第64期王位戦 七番勝負第二局。
佐々木大地七段の先手で相掛り 。後手の藤井聡太王位の浮き飛車に,引き飛車にした先手が足早に銀を進出させていく将棋。
一局の前例がある局面で,その前例で先手を持っていた千田七段によると,第1図まで進んでしまうと先手が不利で,挽回するのは難しいとのことです。藤井王位がこの局面をどこまで理解していたのかは分かりませんが,実際にこれ以下はリードを広げていくことになりました。第1図以降の手順からして先手に何か前例を覆すような策があったようにはみられないので,第1図のように進む将棋に対して先手の知識が欠けていたというのは否めないように思います。
藤井王位が連勝 。第三局は25日と26日に指される予定です。
すでにいっておいたように,10日は起きたのが午前10時半でした。このときの血糖値 は186㎎/㎗でした。これは朝,といってもこの日は朝というには遅すぎますが,朝の血糖値としては高いものです。しかし,ワクチン接種の副反応があったというほどではありません。このくらいの数値は日常的に出ることがありますし,もしも副反応が出ているのなら,もっと高くなければおかしいと僕は思います。体温は36.6℃で,これは前日の就寝前と同じ。僕にとっては平熱 の範囲内です。
午後2時20分に再び体温を計測しました。このときも36.6℃と変化はありませんでした。
午後6時に計測した体温は37.2℃でした。これは僕は日常的に出ることはありますが,このときはワクチンの副反応としての発熱,発熱といっても微熱であって,僕の生活に影響するような体温ではありませんが,副反応ではあったと思います。ただ血糖値は157㎎/㎗でしたから,高騰していたわけではありません。
午後10時50分には体温が37.4℃まで上昇しました。これくらいでも僕は日常生活への影響は来しません。血糖値の方は64㎎/㎗で,低血糖 を示していました。これは夕食の量が足りなかったためだと思われます。とはいえ,シックデイ,すなわち体調不良のときには摂取している食事の量が少なくても血糖値は高騰します。ですから,それほどひどい副反応が出たというわけではありません。高熱が出たときのためにカロナールを用意してありましたが,服用はしませんでした。
この日に横浜市から,妹の受給者証の更新のお知らせが届きました。
11月11日,金曜日。この日はいつも通りの時間に起床しました。このときの体温は36.2℃まで下がっていて,血糖値は116㎎/㎗と,正常の範囲内でした。したがって,副反応といえるような症状はこの時点では終わっていたことになります。よってそれほどひどい副反応は,この4度目のワクチン接種では僕には生じなかったとっていいでしょう。
僕は血糖値は110㎎/㎗くらいのときが,最も身体的に快調であると感じます。ただしこれは日中の動いているときに感じることです。
12日に四ツ谷で指された第5期清麗戦 五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈清麗が29勝,西山朋佳女流三冠が26勝。これは非公式戦も含むNHK杯の予選を含んでいます。
大成建設の建築営業本部長による振駒 で里見清麗の先手。中飛車を目指しましたが,後手の西山女流三冠がすぐに角を交換したので,相向飛車の相振飛車 戦になりました。
この局面で後手は☖8四銀と上がりました。☗6六銀☖4二金☗4六歩 と進んで☖3五銀と進出。☗1六歩☖4四歩と進んだところでその歩を狙って☗5五銀。ここで☖4五歩と仕掛けて中盤の戦いとなりました。
第2図となってみると8四に出た銀が遊び駒となってしまい,その分だけ後手が苦しくなってしまったようです。第2図では仕掛けるのではなくて☖7三銀と引く方がよかったという感想が残っていますが,いずれにせよ後手はこの銀を働かせる手段を模索しなければいけなかったようです。
里見清麗が先勝 。第二局は25日に指される予定です。
僕は過去に3度のワクチンを接種していました。つまりこれが4度目です。そのうち,1度目と2度目は腕の痛みという副反応を発症しましたが,3度目の接種のときにはそれがありませんでした。なぜ3度目には腕の痛みを発症しなかったのかということについては,そのときにいろいろと推論をしましたが,4度目となった今回はまた発症したということになると,接種したワクチンの相違が原因となっているという可能性が最も高いように思えます。僕は1度目と2度目,そして4度目はファイザー製のワクチンを接種し,3度目だけは武田/モデルナ製のワクチンでした。この3度目だけが腕の痛みがみられなかったのですから,武田/モデルナ製のワクチンを接種すると,腕の痛みという副反応を発症することはないということなのだと思います。
ただ,これは仮にそうであったとしても,僕の場合に限ります。第三部定理五一 でいわれているように,異なった人間は同一のものから異なった刺激を受けるafficiことがありますので,僕は武田/モデルナ製のワクチンを接種すると腕の痛みという副反応を発症しないのであるとしても,だから一般的に,腕の痛みという副反応を発症する割合は,武田/モデルナ製のワクチンよりもファイザー製のワクチンの方が高いということを意味するのではありません。これはあくまでも武田/モデルナ製のワクチンおよびそのワクチンを接種するための注射器と僕の身体corpusとくに僕の腕との間にある刺激の関係であって,この関係は僕に特有のものです。
4度目もファイザー製のワクチンを注射して,1度目と2度目と同様に腕の痛みという副反応を発症したのですが,今回の副反応と前の2回の副反応とは同一ではありません。新型コロナウイルスのワクチンは,肩に近い部位に接種します。前の2回の副反応は,痛みを感じる部位というのはその接種した部分ではなく,もっと下,肘に近い部分でした。しかし今回は,接種部位に近いところに痛みを感じたのです。痛みを感じたということには相違はありませんから,ファイザー製のワクチンは僕の腕に痛みを発生させるのは間違いないと思いますが,痛みを感じる部位はそのときによって異なるのです。
昨晩の第25回ジャパンダートダービー 。
オーロイプラータは右によろけるような発馬となって2馬身の不利。テーオーリカードとミトノオーのどちらが逃げるのかということが最初の焦点だったのですが,発馬後の加速に違いがあり,あっさりとミトノオーがハナへ。外に切り返したテーオーリカードが2番手。オマツリオトコとユティタムが3番手を併走。2馬身差でゴライコウとミックファイア。2馬身差でキリンジとライズゾーン。ドラケンが続いて2馬身差でブルマリンシェール。3馬身差の最後尾にオーロイプラータ。前半の1000mは60秒2のハイペース。
ミトノオーはあまりペースを緩めずに逃げました。追っていたテーオーリカードは3コーナーでは騎手の手が動き出して一杯。このためにミトノオーのリードが4馬身近くまで広がり,ユティタムとミックファイアが並んで追い上げてきました。直線に入るところでもミトノオーのリードは縮まらず,2番手をユティタムとミックファイアで競り合い。ここからミックファイアが抜け出して単独の2番手に上がると,残り200mあたりでミトノオーは一杯に。追ってきたミックファイアが差し切って優勝。大外から追い込んだキリンジが2馬身半差の2着に上がり,ミトノオーはクビ差で3着。
優勝した大井のミックファイア は東京ダービー 以来のレース。デビューからの連勝を6まで伸ばし,重賞初制覇となる大レース優勝。東京ダービーの内容からここでも間違いなくいい勝負ができるとみていました。大井の2000mを経験していたのは大きく,その強みを他の有力馬に対して生かせたといえそうです。2戦続けて同じくらいのタイムで走りましたので,安定して能力を出すことができるタイプの馬と考えてよさそうです。
騎乗した大井の御神本訓史騎手は2019年の浦和記念 以来となる重賞6勝目。大レースは同年のJBCスプリント 以来の3勝目。ジャパンダートダービーは初勝利。管理している大井の渡辺和雄調教師は2019年のクイーン賞 以来となる重賞3勝目。開業から15年3ヶ月で大レース初勝利。
接種を終えて帰宅した後,10月15日に電話をくれた従妹 の元夫からまた電話がありました。このときに叔父の近況を教えてもらいました。叔父は一時は入院していたのですが,今は退院して,通院での治療に変わっているとのことでした。そして,叔父の携帯電話の番号が変わったので,新しい連絡先を教えてもらいました。ただ,叔父はこの肺癌 については僕には秘匿しておきたいという気持ちをもっているということはすでに知っていましたから,連絡先を教えてはもらったものの,僕の方から連絡するというようなことはしていません。
なお,念のためにいっておきますが,これは従妹の元夫が叔父の世話をしているということを意味するわけではありません。叔父は福江島で治療しているのであり,元夫は大和市に住んでいます。叔父は介護職員の手を借りて治療にあたっていて,その介護職員からの連絡が,従妹の元夫に入るのです。このようになっているのは,おそらく叔父が介護職員に対して,連絡先として従妹の元夫を指定しているためだと思われます。
ワクチンの接種をしましたので,その後の状況についても記しておきます。
僕がワクチンを接種したのは午後3時です。この日の午後5時50分に計測した血糖値 は72㎎/㎗でした。これはやや低血糖を示すような値ですが,とくに問題視するほどのものではありません。午後11時に計測したときには200㎎/㎗でした。これは血糖値としては高めですが,この程度の値は普段から出ることがあります。よってワクチンの影響によって高くなったというわけではないと思います。体温も計測しましたが,36.6℃でした。これは僕の平熱に近いですから,やはりワクチンの副作用が出ていたということはないと思われます。ただ,腕の痛みを発症しそうな感覚はありました。
11月10日,木曜日。前の3回もそうでしたが,僕はワクチンの接種後には副作用を発症するおそれがあるので,その翌日には予定を入れていません。この日も午前10時半まで寝ていました。腕は伸ばすと接種した部分が痛みました。これは間違いなくワクチン接種の副作用ですが,以前に生じたものとは異なりました。
カーンの雑感⑬ でいったように,キラー・カーン が引退したのは40歳のときでした。プロレスラーの40歳は現役バリバリです。ですからこのときには引き留めがあったそうです。引き留めた相手として,カーンはビンス・マクマホンおよびハルク・ホーガンの名前をあげています。現在はWWEで,この当時はまだWWFだったかもしれませんが,そのオーナーがマクマホンでトップレスラーがホーガンです。カーンは大巨人 の脚の骨を折ったとされる件で名前を売ることになったのですが,これはWWFでの出来事です。カーンの話が本当であるなら,まだこのときにもカーンとWWFの主力との間には連絡を取るだけの関係があったということになるでしょう。カーンは単に引き留めといっていますが,カーンが語っている文脈からすると,具体的な契約の条件もあったというように推測できます。
しかしカーンは,自分自身にプロレスを続ける気持ちがなかったので,そうした引き留めはあったけれども,引退を撤回しませんでした。やる気のなくなった人間がリングに上がるのは,ファンに対して失礼であるという気持ちが強かったからだとカーンは言っています。引退の決意に関しては僕にはリアルなものと受け止められないのですが,この部分はカーンの本音であると判断します。それは単にカーンがこのときに引退したというだけでなく,これ以降は1度としてリングに上がることはなかったからです。
カーンはこのことについて,カーンの雑感② でいった,自分が付き人をしていた吉村道明の名前を出して説明しています。カーンの雑感⑥ でいったように,吉村は1973年3月に引退しています。吉村が引退するときに引き留めがあったかどうかは定かではありませんが,そのときの吉村もまだプロレスラーを続けることができる状態,これは身体的状態ですが,そうした状態でした。しかし吉村はその時点での引退を決意し,そのまま2度とリングに上がることはありませんでした。
カーンのプロレス人生の転機には吉村が大きく影響を与えたのですが,引退するときもそしてしてからも,吉村の生き様はカーンに影響を与え続けたのです。
ここで週末といっているのはこの週の週末,つまり11月4日以降のことです。翌月の予定というのは,事前にグループホーム に提出するのですが,この月はまだ11月の予定を提出していませんでした。これは僕が怠ったということではなく,提出するための書類,これはカレンダーですが,このカレンダーがまだ僕の手元に届いていなかったからです。これは妹を迎えに行ったときに受け取る連絡帳に挟まれているもので,月の半ばから終わりにかけての期間に封入されているのが通例です。ただこの月は10月14日に迎えに行った後,22日に土曜レクリエーション があったため,21日は迎えに行きませんでした。14日というのは翌月の予定を入れるのには早すぎるので,カレンダーが封入されていませんでしたから,28日に迎えに行ったときにようやく僕が手にすることができたのです。なので11月全般の予定に関しては,この次に送っていくときに同じように連絡帳に挟んでグループホームに届きますが,すでに10月30日になっていたため,11月の最初の週の予定だけは,この段階でグループホームの方で把握しておく必要がありました。このためにその部分だけ教えるようにとの電話があったのです。
10月31日,月曜日。妹を通所施設に送りました。11月の予定を記入したカレンダーは,この日に持たせたことになります。
11月4日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。
11月7日,月曜日、妹を通所施設に送りました。
11月9日,水曜日。10月20日に予約を入れておいた新型コロナウイルスのワクチンの接種の日でした。接種したのは3回目のワクチンを接種したのと同じクリニック です。僕は1度目と2度目がファイザー製のワクチン,3度目は武田/モデルナ製のワクチンを接種していましたが,このときはまたファイザー製のワクチンでした。もう接種も4度目で,このクリニックでの接種も2度目でしたから,接種自体は慣れたものです。ただこのときに接種を担当した医師は,活舌が悪くて僕には聞き取ることができなかった部分が何箇所かありました。とはいえ医師の言うことは大体は決まっているので,聞き直すことはしませんでした。
『私の個人主義 』については,いっておきたいことがあります。
「私の個人主義」という表題で講演を行っているのですから,漱石は個人主義者でした。個人主義者が何を意味するのかは簡単には説明することができませんが,この講演の中で漱石は,私は個人主義者だと公言して憚らないといっていて,その個人主義を自己本位という語によって多く説明しています。
こうした漱石の個人主義あるいは自己本位は,漱石のイギリスへの留学と絡めて説明されることがあります。留学と個人主義との間に本当に関係があるのかは僕には分かりません。ただ,個人主義とか自己本位といった思想は,日本の思想として説明するよりも,ヨーロッパの思想として説明した方が簡潔なので,とりあえずそのように説明されるということでしょう。ただこの説明が間違っていると断定することができるわけではありません。
1910年に修善寺で生死の境を彷徨った後,漱石は則天去私 をいうようになります。これも大患と則天去私という思想の間に何らかの因果関係があったのかは分かりません。ただ事実として,漱石が則天去私をいうようになるのは大患の後なので,このふたつも関連付けて説明されるケースが多く,それが間違っていると断定できるわけではありません。
これらを綜合して,漱石はイギリスに留学することによって個人主義あるいは自己本位という思想を手に入れたけれども,大病により生死の境を経験することにより,則天去私の境地に至ったといわれることがあります。しかしこれは明らかに誤りです。なぜなら1914年の段階でも,漱石は個人主義者であると自称しているからです。
留学することによって個人主義に傾き,大病からの生還 で則天去私の境地に至ったのは事実かもしれません。しかし仮にそれが事実であっても,漱石の個人主義と則天去私は,漱石のうちで両立していたと解さなければなりません。
10月22日,土曜日。この日は土曜レクリエーション がありましたから,週末に妹を迎えに行っていません。この日は通所施設の文化祭にあたる日でした。ただ,新型コロナウイルスの影響で,人を集めて行うということはできません。ですから文化祭自体は休止になっていて,その代替としてレクリエーションが行われました。
午後4時45分に,隣家のSさんが訪問してきました。8日に訪ねてきたときに,26日に引っ越すと伝えていたのですが,予定が早まり,翌日に引っ越すことになったとのことでした。このときに引っ越し先がどこであるかを伝えられました。前もっていっておいたように,根岸駅の近くのマンションです。電話番号は今までと変わらないとのことでした。
10月24日,月曜日。午前8時50分に,妹のグループホーム の担当者であるSさんから電話がありました。これはインフルエンザの予防接種を妹に受けさせるかどうかの意向の確認でした。
インフルエンザの予防接種は,保護者の意向を確認する書類があって,その書類に署名したものを事務所に提出することによって,利用者の接種が決定されます。この書類は僕の家にも郵送されていました。ところが書類ですから提出の期限というのがあって,その期限までに僕が事務所にそれを提出する機会,要するに妹を通所施設に送ったりあるいは通所施設へ迎えに行ったりすることですが,そうした機会がありませんでした。なので,本当は予防接種を受けさせたかったのですが,予防接種を申し込むための書類は提出していなかったのです。この日に電話がありましたので,ここに記したような事情を話し,もしも受けることができるのであれば受けさせてほしいと伝えました。Sさんはグループホームの職員ですから,すぐにそれが可能であるかどうかは分からなかったのですが,通所移設の方に確認してくれて,妹は接種を受けられるということになりました。
10月28日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
10月30日,日曜日。午後4時15分に,グループホームの妹の前担当者であるKさんから電話がありました。週末の予定の聞き取りでした。
7日と8日に豊田市能楽堂 で指された第64期王位戦 七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王位が4勝,佐々木大地七段が3勝。
振駒 で藤井王位の先手となり,佐々木七段の飛車先を交換しない横歩取り になりました。類例が少ないため互いに中盤で時間を使う将棋に。
第1図から後手は☖3一玉 と引き,☗4七金に対して☖5四歩☗同歩☖同角と進めました。
5筋の歩が切れたので先手は☗5五銀と進出し☖7六角に☗5四歩と押さえました。後手は☖2二玉。
第2図となって後手玉は安定したのですが,先手の銀が進出していたので☗3五歩☖同金☗4四銀 の攻めが生じることになり,むしろ後手が苦しくなりました。第1図から第2図に至る手順で,5筋の歩を交換したのが余計で,単に☖2二玉とするか,☖1四歩と突いておくかすれば,後手の方が指しやすかったようです。
藤井王位が先勝 。第二局は13日と14日に指される予定です。
この日に妹の健康診断の結果が送付されました。診断の日付は7月7日になっていましたから,およそ3ヶ月前です。
総合判定は要精密検査となっていました。内容は以下の通りです。
まず,LDLコレステロールの値が非常に低いので,精密検査を受けよという内容です。出ていた値は57㎎/㎗でした。基準の最低値は60㎎/㎗でしたから,非常に低いというほど低いようには思えませんでした。しかも値だけでいうと,前々回が54㎎/㎗で前回は50㎎㎗でしたから,それに比べれば上昇していました。理由は分かりませんが,妹のLDLコレステロールは常に低い値で推移しているということではないでしょうか。
次に,貧血を認めるの精密検査を受けよという内容です。これは血色素量が10.8g/㎗でした。これは基準の最低値が12.1g/㎗ですからかなり低めです。前回は12.5g/㎗で基準値を上回っていましたが,前々回は10.9g/㎗でやはり下回っていました。妹は元々が貧血の傾向にあり,そのためにそれを改善する薬を飲んでいました。ただこの薬を飲むと便が固くなるため,妹の痔 には悪影響を与えます。このために薬の服用を停止しました。再び基準値を下回ってしまったのは,おそらくこの影響ではないかと思います。
さらに,標準体重を目標とするようにとに指示が出ていました。僕は体重 はあまり変動がないのですが,妹の体重は変動が非常に大きいです。それでもグループホーム に入所したときと現在とを比べれば,体重は減少しています。これはやはりグループホームの方が家よりも食事の管理ができているからでしょう。
そして肝機能検査で異常が出ているけれども,これは問題ないとのことでした。異常が出ていたのはγ-GTで,64U/ℓで,基準の上限値である50u/ℓを超過していました。この値は一般的にはアルコールを摂取することによって高めになる値だと思われますが,妹は飲酒はしません。なのでなぜ高い結果が出たのかは不明です。とはいえこれはとくに問題ないとのことですから,僕も問題視はしませんでした。
要検査となっているふたつも事情は判明しているので,精密検査は受けていません。
小松島記念の決勝 。並びは新山‐坂本の青森,郡司‐内藤の神奈川,犬伏‐小倉‐久米の徳島で宿口と松浦は単騎。
犬伏がスタートを取って前受け。久米の後ろを取りたかったのが郡司と松浦で,このふたりは内に郡司,外に松浦で併走を続けました。内藤の後ろに宿口でその後ろが新山という隊列で周回。残り3周のバックからまず動いたのは宿口。コーナーで犬伏の横まで上がりました。その後ろから新山が発進。一旦は前を叩きましたがすぐに犬伏が巻き返しに出ました。バックで叩き返した犬伏の先行となり,4番手に新山,6番手に松浦,7番手に郡司,最後尾に宿口という一列棒状に。バックから新山が発進。このときにインから松浦が上昇し,坂本をどかして新山のマークを奪うと,松浦に郡司が続きました。新山が捲り切ったのですが,松浦がすぐに新山を差し,さらに外から郡司の追い込み。このふたりの優勝争いは接戦になりましたが,先んじてやや牽制を入れた松浦が先着。郡司がタイヤ差の2着。新山は1車身半差で3着。
優勝した広島の松浦悠士選手は3月のウィナーズカップ 以来の優勝。記念競輪は昨年の広島記念 以来となる19勝目。小松島記念は初優勝。このレースは脚力では郡司と松浦が上位。このふたりが同じレースを走るときは大概はどちらかが勝つので,ここもどちらかの優勝になるのだろうと思っていました。レースの流れで郡司が松浦マークというレースになりましたから,ワンツーでの決着になりました。松浦が優勝の場合は宿口が後ろを回っているというケースになりそうとみていただけに,展開は僕にはやや意外でした。
従妹 の元夫の方は,僕の家の電話番号は知っていました。だから僕には電話で連絡がきたのです。しかし伯母の連絡先は分からないとのことでした。肺癌 を罹患した叔父からみれば,僕は甥であって,ロサンゼルスの伯母は姉にあたります。なのでこのことを知っておくべきなのは僕よりは伯母でしょう。叔父が僕や伯母には秘匿しておきたいという気持ちであることは承知しましたが,さすがに僕だけ知って伯母に知らせないということは僕にはできませんでした。なので伯母には僕からメールで連絡を入れました。
僕の父 も母も末期癌が発見され,余命を告知された上で死んでいます。そのときの両親のことを僕はよく知っていて,その経験からすれば,残りの期間は本人の望むように生きるのが最もよいことだと思っています。たぶん叔父も自身の余命のことは分かっている筈で,その上で僕には秘匿しておきたいという気持ちをもっているのですから,僕の方から叔父に連絡するということはしませんでした。叔父の気持ちが変われば別ですが,現時点でも叔父の方から直接に僕には何の連絡もありません。ですから僕は叔父が治療中であるということは分かっていますが,こちらからは連絡をしていません。僕や伯母には秘匿にしておきたかったから,従妹の元夫に叔父は連絡したのでしょうから,この状況が変わらないのであれば,というのは叔父の気持ちが変わらないのであればという意味ですが,もしかしたら僕はもう叔父と会うこともないのかもしれません。
この日の午後9時20分に,ピアノの先生から電話がありました。翌日のレッスンの開始時刻の通知です。
10月16日,日曜日。妹のピアノのレッスンがありました。午後5時からでした。
10月17日,月曜日。妹を通所施設へ送りました。
10月20日,木曜日。新型コロナウイルスの4度目のワクチン接種の予約を入れました。
10月21日,金曜日。14日に予約を入れておいた歯科検診の日でしたので,I歯科に行きました。午前10時からです。この日はクリーニングをした後で,歯ブラシが届かない位置の歯間ブラシの使用方法について,ちょっとした指導を受けました。
『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』を読む限り,スピノザはいずれはパレスチナへのユダヤ人の帰還 が果たされると考えていたように思われます。ただ,これは未来のことであって,スピノザが生きている間にそのようなことが起こるとは,スピノザは考えていなかったであろうと僕は思います。第二次世界大戦を経てイスラエルという国家が成立することで,スピノザのこの予測は実現することになります。もっとも,このような形でのイスラエル国家の建設を,スピノザが好意的に評価するのかということはまた別です。スピノザは単にユダヤ人は自身の国家を構築するだろうといっただけで,それがよいことか悪いことかを示しているわけではないからです。
『神学・政治論』のこの部分について,『スピノザ 異端の系譜 Spinoza and Other Heretics : The Marrano of reason 」では,後世のユダヤ人に影響を与えたという主旨のことがいわれています。
パレスチナへのユダヤ人の帰還を目指す運動は,シオニズムといわれます。シオニズムの運動は,ユダヤ人が各地に散らばって以降,強弱に差はあっても常にあったと考えておくべきだと僕は思います。しかしそれが最も盛り上がったのは,19世紀末からの運動で,一般的にシオニズムといわれるのは,この時代からのユダヤ人の運動を意味するかもしれません。そしてその時代にシオニズム運動を展開した少なからぬユダヤ人が,ユダヤ人はいずれは独自の国家を建設するであろうという『神学・政治論』の記述に,共感を示していたようです。スピノザの破門が解かれるのは,イスラエルが建国されてからのことですから,この時代のスピノザはユダヤ教から破門された人物だったことになります。なのでたとえ長い書物のごく一部のことであれ,ユダヤ人が共感を示したのは,僕には意外なことでした。
たぶんこれは,この部分だけが特異に抽出されたことがゆえのことだと思います。スピノザは単にこのことを予測しただけで,それを推奨していたわけではありません。後世のシオニストたちがスピノザを自分たちの先駆者とみなしていたとすれば,それは勘違いであったとしかいいようがないのではないでしょうか。
10月13日,木曜日。総講 に行きました。13日の総講は日蓮の月命日の総講です。とくに日蓮の命日は弘安5年10月13日となっていますから,この日は単に月命日であっただけでなく,命日の当日であったことになります。「建長五年癸丑の四月廿八日の朝より,弘安五年壬午の十月十三日の夕にいたるまで」という文章が,経典の中にも含まれています。なお,建長5年4月28日というのは,日蓮が産まれた日ではありません。宗派を設立することを宣言した日です。
10月14日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。この日はО眼科 に寄って目薬 を処方してもらいました。また,僕が歯科検診に行く月でしたから,ついでにI歯科に寄って,検診の予約を入れました。
10月15日,土曜日。死んだ従妹の夫から電話がありました。これは正確にいうと元夫です。この従妹は最初に結婚した後で離婚し,別の人と結婚しました。その相手とも別居するようになったのですが,籍は抜きませんでした。そのまま死んでしまいましたから,従弟の通夜や葬式のとき,従妹の苗字は戸籍上の苗字になっていました。つまり僕の母が結婚する前の苗字,あるいは福江島に転居した叔父の苗字とは異なっていたのです。このときに電話を掛けてきたのは,従妹が最初に結婚したときに夫だった人です。離婚したわけですが関係はその後も良好で,とくに叔父とはウマが合ったので,従妹が死んだ後も関係が継続していたのです。
このときにこの方から伝えられたのは,叔父,これはもちろん福江島に転居した叔父のことですが,この叔父に肺癌が見つかったということです。肺癌自体はステージ3でしたが,これはステージ4にきわめて近い状態で,リンパと骨にはすでに転移しているとのことでした。治療をしなければ余命が1年ほどと告知され,叔父は自らの希望で延命治療をしているとのことでした。
この電話が叔父本人からではなく,従妹の元夫からだったのには理由があって,叔父自身はこのことを僕やロサンゼルスの姉には秘匿しておいてほしいという希望があったのでした。それでも僕には伝えておいた方がよいだろうと判断され,僕には連絡がきたのです。
⑲-2 の第2図は,強く☖4六歩と取って後手の勝ちでした。先手には☗4四角と☗3一角のふたつの手段がありますから,まず☗4四角の方からみていきます。
第2図の後手玉は詰めろですからここは受ける一手。その一手が☖6四角です。
先手は攻めを続けるなら☗5三金と打つほかありません。これは王手なので逃げるほかありませんが,☖5一王と引きます。
第2図で先手に残された手段はふたつで,☗2二角成か☗6三金です。ところがこのふたつの手はどちらも後手玉に対する詰めろになっていません。つまり第2図は後手玉への詰めろが続かない形になっているので,後手の勝ちなのです。
☖6四角も☖5一王も限定の応手なので難しいですが,☖4六歩☗4四角の変化は後手が勝ちだとわかりました。
僕の家は東側が細い路地になっていて,この路地に向かって玄関があります。よって東側の家は隣家というよりは向かいの家といういい方になります。西側にも家がありますが,この家の玄関は西側の道路に向かっていますから,この家も隣家といういい方は普通はしません。よって僕の家の隣家というのは北側と南側にあたります。
南側の隣家は,僕が子どものころはTさんという老夫婦が住んでいました。僕が子どものころにすでに老夫婦だったわけですから,現在はもう亡くなっています。この老夫婦が亡くなってからは空き家になっています。老夫婦には子どもがありましたから,たまにその方が来て家や家の周囲の清掃をしていますが,それも年に1回とか2回のことです。ですからこの時点で僕の隣家として実際に人が住んでいたのは,家の北側のSさんだけでした。
これも僕が子どもの頃ですが,Sさんの家には老夫婦が住んでいました。老夫婦には3人の娘がいて,その3人の娘も含めて5人で住んでいたのです。老夫婦の方は亡くなりましたが,3人の娘は健在です。ただ3人のうちのひとりは結婚したことで別のところに住むようになりましたから,この時点で実際に住んでいたのはふたりです。長女と次女か,長女と三女のどちらかです。次女と三女というのは双子なので,どちらが次女でどちらが三女なのかは僕には分かりません。このときに訪ねてきたのは長女の方です。これは自宅と土地を売って引っ越すことになったということを伝えるためでした。
Sさんの家はこの時点で住んでいるふたりがいなくなれば相続をする人がいません。そうであるなら,家と土地を売っておいた方が将来的によいだろうと考えたようです。引っ越し先というのは根岸駅の近辺にあるマンションであって,そこに一室を借りてふたりで住むとのことでした。その引っ越しがこの月,つまり2022年10月の26日になるということでした。
家と土地を売ったわけですから,これはだれかが買ったわけです。この時点ではだれが買ったのかということまでは分かりませんでした。
10月11日,火曜日。妹を通所施設に送りました。10日が祝日だったからです。
ホクトベガメモリアルの昨晩の第27回スパーキングレディーカップ 。
グランブリッジは伸び上がるような発馬でしたが,不利というほどではありませんでした。逃げたのはノーブルシルエット。トキノゴールドとレディバグが並んで追い,タガノクリステルとラインオブフェイトが並んで続きました。その後ろにグランブリッジとエナハツホとスピーディキック。サイファリスは3馬身ほど離れた最後尾で発馬後の正面を通過。前半の800mは51秒2のスローペース。
道中でレディバグが単独の2番手に上がり,タガノクリステルが3番手に。この隊列で3コーナーに入り,トキノゴールドは後退加減。向正面の半ばから上昇してきたスピーディキックがその後ろに。直線に入ると粘るノーブルシルエットを競り落としてレディバグが先頭に。外に持ち出したスピーディキックが迫ってきて,2頭が並んだところでフィニッシュ。優勝は先んじていたレディバグ。スピーディキックがアタマ差で2着。直線はスピーディキックの内から伸びたものの最後は行き場をなくしたような感じでタガノクリステルが4分の3馬身差で3着。スピーディキックが上がっていったところで置かれてしまったグランブリッジが大外を伸びて1馬身差の4着。
優勝したレディバグ は重賞初勝利。牝馬限定のダートの重賞では2着が2回ありましたから,メンバー次第で勝つ機会がありそうな馬でした。ペースがかなり遅くなったことで,先行する利を生かしての優勝。距離は1400mから1600mがベストで,右回りよりは左回りの方が向くタイプだと思われます。父はホッコータルマエ 。母の父はダンスインザダーク 。母の6つ上の半兄に2003年に共同通信杯を勝ったラントゥザフリーズ 。Ladybugはテントウムシ。
騎乗した酒井学騎手と管理している北出成人調教師はスパーキングレディーカップ初勝利。
注射針は本数で処方されます。ただし何本でも処方することができるというものではありません。注射針は袋に封入されていて,それを開封して1本ずつ処方されるということはないからです。
一袋に封入されている注射針は14本です。よって,注射針は本数で処方されるのですが,その本数は14の倍数でなければなりません。他面からいえば,処方箋には何本というように記入されていますが,実際には何袋という形で処方されると考えてください。一袋には14本ですから,実際に処方箋に書かれている本数を14で割ったものが袋の数になります。なおこの袋は5袋で1箱にさらに封入されるのですが,袋単位では処方されます。つまり,8袋の処方の場合には,実際に僕が手にするのは1箱と3袋です。
僕は1日に3度の食事の前に超速攻型のインスリン であるヒューマログを注射します。そして夕食の前にはこれとは別に持続効果型のインスリンであるトレシーバを注射します。したがって,1日に必要な注射針の本数は4本ということになります。なので最も覚えやすいのは,1週間で28本の注射針が必要で,1袋が14本ですから,1週間で2袋が必要であるということです。
したがって,通院と通院の間隔が4週間であれば8袋が必要で,5週間なら10袋なのです。もしも10袋であれば1袋が14本ですから140本と処方してもらえばよいのです。ところが通院と通院の間隔がそう都合よく5週間になるわけではありません。4週間なら8袋ですが,8袋というのは112本ですし,6週間になったら12袋なので168本です。しかしこれは暗算で簡単に出せる数ではありません。なので何本の注射針が必要なのかということは,僕は医師の計算に任せています。そのために実際に必要な数が足りなかったということも2度ほどありましたが,それは仕方がないだろうと思っています。
薬局 に寄って帰りました。インスリンも注射針も在庫は足りていました。この日は診察 の開始が遅くなりましたから,帰宅したのは午後5時25分でした。
10月7日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
10月8日,土曜日。隣家のSさんが訪ねてきました。
戸口の雑感⑭ の最後のところでいった仕方がない面というのは,全日本プロレスの組織のあり方と関係します。全日本プロレスという団体はすべてを組織で決定する仕組みになっていたので,たとえジャンボ・鶴田 ほどの選手であっても,個人的な意見が受け入れられる可能性はなかったと戸口はみているのです。ただこの当時の全日本プロレスは実質的に馬場がオーナーとしてワンマン経営をしていたのですから,組織での決定というのは,馬場の意向も含まれています。つまり,選手が意見をしたとき,それが馬場の意向に沿うならOKが出ますが,意向に沿わないと受け入れられません。この当時の馬場はまだ自分が第一線を退くということを決意していなかったので,たとえ鶴田や戸口が意見をしても,鶴田の正式なパートナーが戸口になることはなかったというように戸口は考えているのです。
鶴田が善戦マンといわれていたことを,戸口はこの路線で解しています。鶴田が善戦マンを脱するということが,実は馬場の意向に沿わなかったのだということです。鶴田は仕事としてプロレスをしていましたから,自身がそこを脱したいという思いを強く抱いていたのかどうかは分かりませんが,鶴田が善戦マンであり続けることは,自分が第一線で戦うためには馬場にとって好ましかったのだというのが戸口の見解です。この見解は一理あるのであって,事実そうであったかもしれません。ただ,戸口はアメリカで仕事をしていたときに,大木金太郎 の意向で全日本プロレスで仕事をするようになったわけですから,レスラー個人の意向を重視し,組織の決定というのは軽視する傾向が強かったと思われます。したがってこのような見解自体が,戸口のようなレスラーからは生じやすいという一面はあるでしょう。
戸口が全日本プロレスでの仕事を終え,新日本プロレスに移籍したのは1981年のことです。その頃が全日本プロレスが経営的に最も厳しい時代であったようです。
10月3日,月曜日。内分泌科の通院でした。
病院に到着したのは午後2時20分でした。中央検査室では僕の前にひとりの患者が待機していました。先に採尿をしてそれから採血をしました。この日は使用済みの注射針は持参していませんでした。
診察が開始となったのは午後4時でした。9月の通院 のときにいわれていたように,この日は代行の医師による診察でした。
HbA1cは6.2%でした。これは正常の上限値です。つまり正常の範囲内になったということです。これは僕のHbA1cとしてはかなり低いです。正常の範囲内になったのは,2017年7月 以来のことでした。HbA1cの値が下がるのは,ここ数ヶ月の血糖値の値が良好にコントロールされていたからですが,何度もいっているように,僕の血糖値の統御に大きな影響を与えるのは気温です。僕は夏場であろうと冬場であろうと生活自体は変化しません。血糖値に影響を与える要素としての,平均的な食事の量が変化するわけではありませんし,平均的な運動の量が変化するわけでもありません。ですが気温が高いほど血糖値が低下しやすい傾向があります。これは事実そうなのであって,どういうものであるのかは分かりませんが,間違いなく因果関係がある筈です。これは10月の通院ですから,これからは気温は下がっていきます。なので血糖値も自然と高くなっていくでしょう。よって注射するインスリンの量を減じるということはしませんでした。
この日は血糖値が63㎎/㎗で,低血糖を示していました。病院の血液検査で低血糖だったのは,7月 以来のことでした。
診察の終わりにインスリンと注射針の処方箋が出されます。これまで僕を診察したすべての医師は,このときに次回の診察までの必要な数量を計算して,僕に在庫を核にした上で処方箋を出します。しかしこのときの代行の医師は,計算はせずに必要な量を僕に尋ねてきました。僕はインスリンに関してはどれくらい必要であるか,つまり1本を何日で使い終えるかの目安は分かっているのですが,針は受け取ったものがどれくらいでなくなるかは分かりません。これは使用する本数と梱包が見合っていないからです。
沼津御用邸 で指された昨日の第94期棋聖戦 五番勝負第三局。
藤井聡太棋聖の先手で角換わり相腰掛銀。後手の佐々木大地七段が右玉 にすると先手が9七に桂馬を跳ねて 飛車を8筋に転換して仕掛ける将棋になりました。互角に近い中盤が長く続くことに。
第1図で後手には一応の狙いがあります。☖9五歩☗同歩☖8九歩成☗同飛☖9五香☗同香☖9八角の王手飛車。これは先手が素直に応じたからで,このようには進まないでしょうが,狙いとしてあるのは間違いありません。
先手は☗8六王 と寄ってこの筋を避けました。この手が勝利を引き寄せる一手になったと思います。
☖8一飛☗4六角とした後で後手は☖9五歩 を決行。☗同歩☖8九歩成☗同飛☖9五香☗同香☖8四歩と攻めました。
この攻めは無理筋で,これに乗じて先手が玉を安全地帯まで逃がし,はっきりとした終盤には至らない段階で後手の投了となりました。後手が攻めていったのは無理筋なので負けを早めましたが,待っていても好転するとは考えにくく,仕方がなかったのではないでしょうか。第1図ですでに先手がよくなっているようです。
藤井棋聖が勝って2勝1敗 。第四局は18日に指される予定です。
9月15日,木曜日。お寺 で御講 がありましたので行ってきました。
僕は母 が死んでからは御講は立てていません。この御講も僕の家の御講ではなく,住職の家,正確にいえばお寺の奥さんの実家が立てた御講です。お寺の奥さんにはお世話になっていますので,この日に御講を立てるからお寺に来られないかという打診がありました。この日は行くことができましたので,出掛けたものです。御講は住職の都合によって開始時刻が決定されますが,この日は午前11時からでした。総講は,朝参詣の午前6時半を除けば午前10時半の開始ですが,御講が午前中に組まれるのはむしろ珍しく,大抵は午後です。ですからこの日の御講はあまり類例が少ないものだったのではないかと思います。とはいえこの日は午後からまた別の檀家の御講が組まれていましたから,住職がお寺にいることができる日という都合で御講が組まれ,その日のうちに二件の御講が立てられるというのは,もしかしたらよくあるケースなのかもしれません。本門仏立宗は現在は日蓮宗系の宗派になっていますが,元々は講,本門仏立講として始まったという歴史がありますので,御講はわりと重要な儀式となっています。
9月16日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
9月20日,火曜日。妹を通所施設に送りました。19日は敬老の日で休みでしたから,この週は火曜日に送ることになりました。
9月24日,土曜日。彼岸会がありましたのでまたお寺に行きました。注文しておいた塔婆は,会堂の中に立てて帰りました。この週はお寺に行かなければならず,妹をひとりにすることができませんでしたので,迎えには行きませんでした。
9月30日,金曜日。妹を通所施設に迎えに行きました。
10月2日,日曜日。妹をグループホームへ送りました。これは翌日が僕の内分泌科の通院の日に当たっていたからです。診察は午後3時の予約ですから,その前に採血と採尿を済ませておかなければならないとはいえ,午前中に妹を送って午後に通院するということはできます。以前はそうしていましたが,昨年からはこのようにすることを避けるために,日曜に送ることにしています。
先生は奥さんに対して,また奥さんは先生に対して,性的魅力 を感じていたということは,僕が『こころ』を解釈する上での前提です。これを前提として.先生と奥さん の間には性的交渉はなかったとする石原およびそれに同意している小森の解釈を考えていきます。
両者があげている当該部分は,テクスト上は必ずしも先生と奥さんの間に性的交渉がなかったということを示すものではありません。まず性的交渉があったとすれば,そのテクストがどう解釈されるのかをみていきます。
奥さんは私に対して,子どもでもあるといいと言いました。もしも性的交渉があったのなら,これはその結果として子どもができるといいという意味になります。それに対して先生は,子どもをもらってやろうかと提案します。もしも夫婦の間に性的交渉があったのなら,先生はそれがあっても子どもはできないということを知っていて,だからもらおうと提案したことになります。それに対して難色を示した奥さんに対して,先生は子どもはいつまでたってもできないと言います。これももらってやろうという提案と同じ路線で解釈できますので,先生は子どもはできないということを知っていたという点で矛盾はしません。なぜできないのかということを先生に問うのは奥さんではなく私ですが,それには先生は天罰だと答えています。
この天罰というのが何を意味するのかということは別にして,先生と奥さんの間に性的交渉があったのなら,それがあるとしても天罰によって子どもができることはないと先生は考えていたということになるでしょう。これはテクストの解釈としては矛盾なく成立するものです。よって先生と奥さんの間には性的交渉はあったという読解が誤っているとはいえません。先生がいっている天罰というのは,下の先生の手紙によって明かされる,先生と奥さん,そしてKとの関係から先生にあるいは先生と奥さんとの間に生じた事象と絡めるのが適切でしょう。というかそれと絡めないことは困難に思えます。しかしなぜ子どもができないという天罰が下されるのかは,そこからはうまく説明できないように思えます。だから先生と奥さんの間には性的交渉自体がなかったという解釈も,理をもってくることになるのです。
9月9日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。そのままО眼科 に行き,診察を受けました。白内障 は進行はみられないので,もうしばらく経過を観察することになりました。
9月11日,日曜日。妹のピアノのレッスン がありました。この日は午後4時半の開始でした。
9月12日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
9月14日,水曜日。僕の眼科検診でО眼科に行きました。前回の検診のときにいわれていたように,この日は視野の検査も行いました。いつものように眼圧の測定と視力検査をした後,視野の検査をするための専用の部屋での検査でした。これは,機械上に光の点滅があったら,僕が持っている所定のボタンを押すという方式のもので,左右両方の目で行うものです。この検査の結果,右目の右上の部分に視野が欠けている部分があるということが判明しました。これは近視の影響による緑内障であるとのことでした。緑内障の治療というのは,眼圧を低下させることです。僕は眼圧測定は検診のたびに行っているのですが,その眼圧は高めでした。ところがこのときに医師が専用の機械で測定すると,それほど高くないというかむしろ低いという結果が出ました。いつも行っている眼圧測定は,空気を目に当てるという方法なのですが,この方法だと数値が高く出るというケースがあるようで,実際には僕の眼圧というのはそれほど高くないようです。眼圧というのは基本的には血圧とリンクするものであって,僕はどちらかといえば低血圧の傾向が強いですから,眼圧だけ高いのはずっと不思議に思っていたのですが,これは検査方法の影響であったようです。ということで,緑内障の治療として眼圧を低下させる必要はないので,緑内障自体は発症しているけれども,そのまま経過を観察するということになりました。僕は概ね4ヶ月に1度はО眼科で検診を受けていますから,今後は網膜症の検査をするというだけでなく,緑内障の経過の観察も行うということになったわけです。なお,網膜症の方に関してはこの日も異常はありませんでした。普段よりも検査に多くの時間を要しましたが,待ち時間は短く,午後12時10分には帰宅することができました。
前橋記念の決勝 。並びは佐々木‐木暮‐小林の群馬,真杉‐平原の関東,深谷‐内藤の南関東で,古性と松本は単騎。
真杉がスタートを取って前受け。3番手に佐々木,6番手に深谷,8番手に古性,最後尾に松本という周回。残り3周のホームから深谷が上昇。バックの入口で真杉に並び掛けましたが,真杉がそのまま引かなかったので,深谷の方が下げました。すると古性と松本が上昇。バックの出口で真杉を叩き,先頭に古性,2番手に松本という隊列に。3番手となった真杉はホームから再び上昇。古性を叩いたのですが,平原が追走を阻まれ,単騎に。流れの中で単騎になった3人が前で打鐘。ホームに入ると松本が発進。真杉を叩いて松本の先行に。下げた深谷は捲っていったもののバックでは一杯になり不発。直線の手前から松本と真杉の間に進路を定めた古性が前のふたりを差すと突き抜けて優勝。4番手から外を捲り追い込んだ佐々木が1車身半差で2着。先行した松本が半車輪差で3着。松本マークになった真杉は4分の3車輪差で4着。
優勝した大阪の古性優作選手は高松宮記念杯 からの連続優勝。記念競輪は一昨年7月の福井記念 以来となる7勝目。前橋記念は初優勝。このレースは単騎になりましたが,脚力は最も上なので,先行するラインの後ろを回れれば優勝できるだろうとみていました。その点では最も重要だったのは位置取り。展開は思い描いていたのとは違ったものになったと思われますが,いいところで動いて前に出たことで,叩きに来た選手の後ろを取ることができました。ですから道中の立ち回りが優勝の決め手になったといっていいでしょう。松本は動かずに古性の後ろを回っていれば2着はあったかもしれません。ただ,3着にはなったものの自ら動いたことは僕は評価してあげたいです。
8月26日,金曜日。妹の本牧脳神経外科への通院がありました。この通院があったために,この週は妹を木曜日に迎えに行きました。
8月28日,日曜日。19日のピアノの先生からの電話で決定しておいたピアノのレッスンがりました。この日は午後2時からのレッスンでした。
8月29日,月曜日。妹を通所施設へ送りました。
9月2日,金曜日。お寺の総講に参加しました。2日の総講は月始総講という名目です。
9月3日,土曜日。妹は土曜レクリエーションでした。このためにこの週は妹を家に連れて帰りませんでした。なので前日の総講に出ることができたのです。この日のレクリエーションは神経衰弱のようなゲームだった模様です。
9月5日,月曜日。内分泌科の通院でした。
病院に到着したのは午後2時半でした。中央検査室ではひとりの患者が採血のために待機していました。僕は先に採尿をしましたが,まだ順番が回ってきませんでしたので,注射針の処理をしてから採血をしました。
診察が開始になったのは午後3時10分でした。HbA1c は6.5%でした。これは低血糖 を発症したことが影響を与えています。何度もいっていることですが,僕は暑い時期ほど血糖値が下がりやすいので,夏場はどうしても低血糖を発生させてしまう頻度が多くなるのです。ただし,これは9月の診察で,もう夏の最盛期は終わっています。よって今後のことを考えれば,低血糖を発症する頻度は自然と減少していくでしょう。このことを踏まえて,注射するインスリンの量を減少させるという措置は,この日は採用しないことにしました。
この日はほかには何も異常が出ていませんでした。HbA1cと血糖値以外の異常が何もなかったのは,この年の2月 以来のことになります。
主治医は10月から12月まで,伊豆の病院で勤務するとのことでした。このためにその期間は代理の医師が診察を行うということを告げられました。
この日も薬局に寄ってから帰宅したのですが,おくすり手帳を持参するのを忘れてしまったので,シールだけもらいました。インスリンと注射針は在庫がありました。帰宅したのは午後4時半でした。