本性としての悪というのは存在しませんし,それと同様に本性としての善というのもありません。しかし善の確知は単に疑わないというだけでなく,疑い得ないという場合もあるのに対し,悪の確知は疑い得ないということはあり得ず,疑わないということだけです。これらのことが矛盾しないということは説明できました。僕は現実的に存在する人間が善bonumを確知するcerto scimusとか悪を確知するというときには,基本的にこの路線で解釈します。
ただし,このことは善と悪を第四部定理八に依拠して解釈する場合です。この定理Propositioでは善は喜びlaetitiaの認識cognitioで悪malumは悲しみtristitiaの認識としています。喜びと悲しみは反対感情ですから,この場合は善と悪は反対概念になります。つまり善の反対概念が悪であって,悪の反対概念が善です。このようにここでは善と悪が対等の関係にみられています。別のいい方をすれば,ここでは善も悪も同じような意味で積極的に規定されていることになります。
ところが,第四部定理序言で善悪について言及されるとき,そこではこのような関係が成立していません。同様に第四部定義一と第四部定義二で,善と悪がそれぞれ定義されているところでも,善と悪の対等な関係は成り立っていません。定義Definitioの方で説明すれば,第四部定義一というのは明らかに善を積極的に定義しているといえますが,第四部定義二の方は悪を積極的に定義しているわけではなく,善を妨害するものとして,消極的に定義されています。いってみればこれらの部分では,善と悪は対等な関係にあるわけではなく,善という積極的なあるものがあって,それを妨げる,いい換えればそれを否定するnegareものとして悪があるのです。つまり,善は積極的なものであり,その積極的なものを否定するものが悪なのです。
これらの部分がこのような仕方で善と悪に言及していることには,ある理由があると僕は考えています。それもまた善悪が事物の本性essentiaを示すのではなく,現実的に存在するある人間によって認識されるものであるということに関係しています。このとき,善であるものは積極的に認識されるのですが,悪なるものは悲しみの認識と積極的に認識されるのではなく,積極的なものである善を否定するものとして認識されるという場合があるのです。
これで第一の課題も解決することができました。確かに現実的に存在する人間は,理性ratioに従うことによって受動的な愛amorを抑制したり除去したりすることはあるのですが,このことと愛が一般的に合倫理的な感情affectusであるということとは矛盾しません。なのでこれでこの考察を終了してもよいのですが,追加として次のことをいっておきます。
愛が僕たちのうちに生じるとき,それは個別の感情として生じます。そしてこれが個別の感情として生じるがゆえに,愛は部分的に合倫理的であるとはいえない,もっといえば非倫理的な感情であるとみなすことができる場合があるということについては,僕は否定しません。ただし,理性に従うことによって愛を抑制したり除去したりすることは合倫理的であるとしかいえないので,このことは受動的な愛の場合にのみ限定していえることです。
再三にわたっていっているように,第四部定理七でいわれているように,僕たちに生じるある感情を抑制するのは,それとは別の感情です。ただこの現象が僕たちのうちに生じるときには,それは個別の現象として生じるのです。つまり,ある個別の感情が,それとは別の個別の感情によって,除去されたり抑制されたりするのです。しかるに愛は個別の感情,すなわち,XのうちにあるAに対する愛とBに対する愛は別の感情です。したがって,Xのうちに生じるBに対する愛という感情が,同じXのうちにあるAに対する愛という感情を抑制したり除去したりするということは現に生じ得ます。現に生じ得るというより,このことは僕たちが自身のことを反省的に顧みるならば,僕たちのうちでしばしば生じている現象であることが理解できると思います。Aを愛していたけれどもBを愛することによってAに対する愛が減少したとか醒めてしまったというようなことは,多くの人が経験していることだと思われます。
このとき,愛は個別の感情なので,Aに対する愛とBに対する愛は別の感情としてみられなければならず,その限りではどちらも合倫理的な感情であるといわなければなりません。ですから,愛が一般的に合倫理的な感情であるということまで否定されるわけではありません。
ただし,このことは善と悪を第四部定理八に依拠して解釈する場合です。この定理Propositioでは善は喜びlaetitiaの認識cognitioで悪malumは悲しみtristitiaの認識としています。喜びと悲しみは反対感情ですから,この場合は善と悪は反対概念になります。つまり善の反対概念が悪であって,悪の反対概念が善です。このようにここでは善と悪が対等の関係にみられています。別のいい方をすれば,ここでは善も悪も同じような意味で積極的に規定されていることになります。
ところが,第四部定理序言で善悪について言及されるとき,そこではこのような関係が成立していません。同様に第四部定義一と第四部定義二で,善と悪がそれぞれ定義されているところでも,善と悪の対等な関係は成り立っていません。定義Definitioの方で説明すれば,第四部定義一というのは明らかに善を積極的に定義しているといえますが,第四部定義二の方は悪を積極的に定義しているわけではなく,善を妨害するものとして,消極的に定義されています。いってみればこれらの部分では,善と悪は対等な関係にあるわけではなく,善という積極的なあるものがあって,それを妨げる,いい換えればそれを否定するnegareものとして悪があるのです。つまり,善は積極的なものであり,その積極的なものを否定するものが悪なのです。
これらの部分がこのような仕方で善と悪に言及していることには,ある理由があると僕は考えています。それもまた善悪が事物の本性essentiaを示すのではなく,現実的に存在するある人間によって認識されるものであるということに関係しています。このとき,善であるものは積極的に認識されるのですが,悪なるものは悲しみの認識と積極的に認識されるのではなく,積極的なものである善を否定するものとして認識されるという場合があるのです。
これで第一の課題も解決することができました。確かに現実的に存在する人間は,理性ratioに従うことによって受動的な愛amorを抑制したり除去したりすることはあるのですが,このことと愛が一般的に合倫理的な感情affectusであるということとは矛盾しません。なのでこれでこの考察を終了してもよいのですが,追加として次のことをいっておきます。
愛が僕たちのうちに生じるとき,それは個別の感情として生じます。そしてこれが個別の感情として生じるがゆえに,愛は部分的に合倫理的であるとはいえない,もっといえば非倫理的な感情であるとみなすことができる場合があるということについては,僕は否定しません。ただし,理性に従うことによって愛を抑制したり除去したりすることは合倫理的であるとしかいえないので,このことは受動的な愛の場合にのみ限定していえることです。
再三にわたっていっているように,第四部定理七でいわれているように,僕たちに生じるある感情を抑制するのは,それとは別の感情です。ただこの現象が僕たちのうちに生じるときには,それは個別の現象として生じるのです。つまり,ある個別の感情が,それとは別の個別の感情によって,除去されたり抑制されたりするのです。しかるに愛は個別の感情,すなわち,XのうちにあるAに対する愛とBに対する愛は別の感情です。したがって,Xのうちに生じるBに対する愛という感情が,同じXのうちにあるAに対する愛という感情を抑制したり除去したりするということは現に生じ得ます。現に生じ得るというより,このことは僕たちが自身のことを反省的に顧みるならば,僕たちのうちでしばしば生じている現象であることが理解できると思います。Aを愛していたけれどもBを愛することによってAに対する愛が減少したとか醒めてしまったというようなことは,多くの人が経験していることだと思われます。
このとき,愛は個別の感情なので,Aに対する愛とBに対する愛は別の感情としてみられなければならず,その限りではどちらも合倫理的な感情であるといわなければなりません。ですから,愛が一般的に合倫理的な感情であるということまで否定されるわけではありません。