スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

不死鳥杯&留保条件

2021-07-11 19:16:16 | 競輪
 福井記念の決勝。並びは森田‐郡司‐斉藤の東日本,山口‐岩津の西日本,古性‐三谷‐松岡‐村田の近畿。
 牽制状態となった後,古性がスタートを取って前受け。5番手に森田,8番手に山口という周回に。残り2周のホームの入口から山口が上昇開始。山口が古性を叩いたのはバックの入口。そこから森田が山口を叩きにいくと,斉藤は離れました。山口は抵抗し打鐘から激しい先行争いに。この争いでまた隊列に乱れが生じました。先手を奪ったのは1コーナー過ぎに内から前に出た山口。競り合った森田が2番手で郡司がマーク。郡司の後ろに岩津。バックから古性が発進。郡司が止めに入りましたが古性は乗り越え,郡司は番手の三谷の内に飛びつきました。そのまま最終コーナーで捲り切った古性が優勝。競り合いながら古性をマークした郡司が1車身差で2着。直線で郡司の内に進路を取った岩津が半車身差で3着。郡司に競り負ける形で三谷は4分の1車輪差の4着。大外から伸びた村田が半車輪差で5着。
 優勝した大阪の古性優作選手は4月に広島のFⅠを優勝して以来の優勝。記念競輪は一昨年2月の静岡記念以来の6勝目。福井記念は初優勝。このレースは森田の先行が有力で,古性が分断策に出る場合,郡司のところで競るのか斉藤のところで競るのかが焦点と見立てていました。ところが山口が抵抗して激しい先行争いになり,僕の見立てとはまったく異なった展開に。斉藤が離れてしまったこともあり,脚を溜めることになった古性には有利になりました。前受けが予定通りの作戦であったかは不明確ですが,先行争いを誘えたという意味で,よい位置取りだったのではないでしょうか。

 スピノザの哲学では精神mensも身体corpusも構造主義的観点から解釈するのが適切であると僕は考えます。ですが,僕たちは精神や身体を機能主義的側面から理解することに慣れていますので,その解釈に対応するための留保条件も必要になります。これは簡単にいえば,各々の身体の観念が精神といわれるのですから,各々の精神の本性naturaの相違は,各々の身体の本性の相違に比例するということです。というか,スピノザは人間の精神mens humanaのことを人間の本性natura humanaということがありますが,このことは一般にXの本性とはXの精神のことをいうというように解せます。したがって一般にXの本性は,Xの身体のあり方,X的物体のあり方の相違によってそれぞれに異なってくるといういい方が可能です。したがってこの観点からも,この留保条件を説明することができます。
                                   
 第三部定理五七備考のうちに,スピノザ自身がこうした留保条件をつけているとみることができます。そこではある個体の楽しみとほかの個体の楽しみは,一方の本性essentiaと他方の本性と同様に相違しているといっているからです。ただしスピノザがここでこのような留保条件をつけているのは,たとえば人間の精神と馬の精神の相違について語りたかったからではありません。もちろんこの文言はそのように解釈することができるのであって,スピノザにそういう意図がまったくなかったとは僕はいいません。しかしスピノザはこの直後に,哲学者の楽しみと酔漢の楽しみの相違について言及しているので,スピノザがとくに注意を促したかったのは,現実的に存在する人間の楽しみについてなのであって,精神を機能主義的側面から留保するという点にあったわけではないでしょう。実際に第三部定理五七というのは,現実的に存在する諸個人の現実的本性actualis essentiaの相違をいっているのであり,この備考Scholiumはその定理Propositioに附せられた備考なのですから,スピノザがこのようなことをいう主目的が,人間の精神と非理性的動物の精神に,機能主義的な側面から留保条件をつけるということにあったとは考えにくいです。そして同時に,その主目的が,精神と身体を構造主義的観点から把握するという主張にあったわけでもないということも,確かです。
コメント
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