スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

カーンの雑感⑭&カレンダー

2023-07-12 19:02:52 | NOAH
 カーンの雑感⑬でいったように,キラー・カーンが引退したのは40歳のときでした。プロレスラーの40歳は現役バリバリです。ですからこのときには引き留めがあったそうです。引き留めた相手として,カーンはビンス・マクマホンおよびハルク・ホーガンの名前をあげています。現在はWWEで,この当時はまだWWFだったかもしれませんが,そのオーナーがマクマホンでトップレスラーがホーガンです。カーンは大巨人の脚の骨を折ったとされる件で名前を売ることになったのですが,これはWWFでの出来事です。カーンの話が本当であるなら,まだこのときにもカーンとWWFの主力との間には連絡を取るだけの関係があったということになるでしょう。カーンは単に引き留めといっていますが,カーンが語っている文脈からすると,具体的な契約の条件もあったというように推測できます。
 しかしカーンは,自分自身にプロレスを続ける気持ちがなかったので,そうした引き留めはあったけれども,引退を撤回しませんでした。やる気のなくなった人間がリングに上がるのは,ファンに対して失礼であるという気持ちが強かったからだとカーンは言っています。引退の決意に関しては僕にはリアルなものと受け止められないのですが,この部分はカーンの本音であると判断します。それは単にカーンがこのときに引退したというだけでなく,これ以降は1度としてリングに上がることはなかったからです。
 カーンはこのことについて,カーンの雑感②でいった,自分が付き人をしていた吉村道明の名前を出して説明しています。カーンの雑感⑥でいったように,吉村は1973年3月に引退しています。吉村が引退するときに引き留めがあったかどうかは定かではありませんが,そのときの吉村もまだプロレスラーを続けることができる状態,これは身体的状態ですが,そうした状態でした。しかし吉村はその時点での引退を決意し,そのまま2度とリングに上がることはありませんでした。
 カーンのプロレス人生の転機には吉村が大きく影響を与えたのですが,引退するときもそしてしてからも,吉村の生き様はカーンに影響を与え続けたのです。

 ここで週末といっているのはこの週の週末,つまり11月4日以降のことです。翌月の予定というのは,事前にグループホームに提出するのですが,この月はまだ11月の予定を提出していませんでした。これは僕が怠ったということではなく,提出するための書類,これはカレンダーですが,このカレンダーがまだ僕の手元に届いていなかったからです。これは妹を迎えに行ったときに受け取る連絡帳に挟まれているもので,月の半ばから終わりにかけての期間に封入されているのが通例です。ただこの月は10月14日に迎えに行った後,22日に土曜レクリエーションがあったため,21日は迎えに行きませんでした。14日というのは翌月の予定を入れるのには早すぎるので,カレンダーが封入されていませんでしたから,28日に迎えに行ったときにようやく僕が手にすることができたのです。なので11月全般の予定に関しては,この次に送っていくときに同じように連絡帳に挟んでグループホームに届きますが,すでに10月30日になっていたため,11月の最初の週の予定だけは,この段階でグループホームの方で把握しておく必要がありました。このためにその部分だけ教えるようにとの電話があったのです。
 10月31日,月曜日。妹を通所施設に送りました。11月の予定を記入したカレンダーは,この日に持たせたことになります。
 11月4日,金曜日。妹を通所施設へ迎えに行きました。
 11月7日,月曜日、妹を通所施設に送りました。
                                   
 11月9日,水曜日。10月20日に予約を入れておいた新型コロナウイルスのワクチンの接種の日でした。接種したのは3回目のワクチンを接種したのと同じクリニックです。僕は1度目と2度目がファイザー製のワクチン,3度目は武田/モデルナ製のワクチンを接種していましたが,このときはまたファイザー製のワクチンでした。もう接種も4度目で,このクリニックでの接種も2度目でしたから,接種自体は慣れたものです。ただこのときに接種を担当した医師は,活舌が悪くて僕には聞き取ることができなかった部分が何箇所かありました。とはいえ医師の言うことは大体は決まっているので,聞き直すことはしませんでした。
コメント
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